目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 不安と心配で明けた1週間は、無事に乗り切れた
2 野草に急かされ、冬野菜に元気をもらい、夏野菜の準備ができた
3 妻の宝物が、わが家の宝物になった
4 ノルウェイの4家族に勇気と張り合いをいただいた
5 ご利益が6つもあった叢書仲間と、懇親の会
6 その他
助けられて、決まり事をこなし、月末に音を上げた
卯月は自然循環型生活を守る上で、とても気ぜわしい時期です。除草を怠ると、種を落とさせ、過去何年もの努力がフイになる。夏野菜の準備を怠ると、向こう半年間の張り合いがなくなる。この大事な上旬に、4つのとても大事な約束事を抱え込んでいたのです。
4日からデンマークの夫妻がお泊りに。翌日はこの共通の友である夫妻が鳥取から迎える上に、アリコさんのコンサートを引き受けていた。6日は上の2夫婦と入れ違いに鈴木夫妻に訪ねてもらう。しかもこの間に、なんとしても対処したい先送り案件を2つ抱え込んでいたのです。にもかかわらず、なんとか事は無事に運びました。
それはまず、デンマーク夫妻の初日をエスコートしてくださった日本人ご夫妻の、次いで翌夕食で、急に増えた人数問題はアンデルセンの、オカゲでした。さらに4人の宿泊客には5日から、自主行動していただけた。アリコさんのコンサートは、池田さん他“四天王”に支えられ、7日は鈴木夫人の手助けにあやかれて、なにもかもが事なきを得たのです。
振り返ってみれば、私は杖を要する身だし、妻もテキパキ振る舞えない。だが初日は、フミちゃんを迎えて妻と3人で、のどかな除草の1日で明けました。しかも10日には堆肥の山で、“10年一日がごとし”生き方を実感できたのです。この間の畑仕事は昇さんに助けられたし、エンドウ豆は復活し、野ではタラの芽などが吹き、イチリンソウが満開になり、多忙な4日間を、むしろ多様なドラマに感じさせたのです。しかも3度の食事を、妻は欠かさずに用意し、10日の夜にはもち米をか(浸)し、中旬に夢を馳せさせてくれました。
中旬は、急遽決まった“映画の日”で明けました。久しぶりに岡田さんに立ち寄ってもらえることになり、お2人のファンの都合もつき、実施。初めてインド映画を鑑賞、です。当月記の前月分原稿も、なんとか知樹さんに引き継げた。畑では、第1次の夏野菜4種(トマト、キュウリ、ナス、そしてトウガラシ)の苗を植え付けた。オクラ、インゲン豆、モロヘイヤ、そしてバジルのポット苗を作り、イモ3種(ジャガイモ、コイモ、そしてヤーコン)も作付け。さらに、チマサンチェ、トウモロコシ、そしてツルムラサキの種をまくなど、なんとか例年並みに終えたのです。昇さんの奮闘に縋(すが)れたオカゲです。
この間に、“匠の祭典”のいわば中占めの集い。昇さんの付き添いで、妻は高齢者運転免許の取得に挑戦。アイトワの長年に亘るファンのお一人と歓談。ノルウェイの方々など喫茶店の来店客との触れ合い。さらに有難い提言にも恵まれ、喫茶店の役目を噛みしめ直す検討など、がありました。庭では花サンショウ摘み、ハナズオウが満開、そして20日の放送・アリコ・ピーターズレストランでは、小鳥と彼女のセッションで、胸がとても大きく膨らみました。
下旬は、杖から解放され、昇さんと庭仕事に励んだ1日で始まり、計4日も庭仕事で昇さんの助成を得られたのです。ケシが咲き始めた21日に、乙佳さんを迎え、3つの懸案に取り組んでもらえることになった。26日は、神戸は元町まで、くだんの叢書の執筆者が集ういわば打ち上げに参加し、83年前のロックガーデンを忍ぶこともできた。日々ことは順調に運んだのです。
3つの懸案とは、ガスボンベ庫の廂(ひさし)伸ばし、中庭のスモモに支柱を1本追加、そして雨戸で生じる土バチ問題の解消、でした。他にも、近況報告や季節の挨拶の来訪にも恵まれ、意気揚々と皐月(五月)に望めそう、と夢を膨らませました。しかも月末に、待望のタケノコにありつけたのです。ところが、数日前から腹に感じていた違和感が、夕刻に奇妙な痛みを伴い始めたのです。「もうたまらん」と下腹部を押さえ、寝こんでしまう始末。音を上げたのです。
~経過詳細~
1.不安と心配で明けた1週間は、無事に乗り切れた
朝、居間のカーテンを引いて空を見上げるとハクモクレンが満開! で卯月は明けた。せめて4日まで「このままもってほしい」と願った。
眼を地に移すと、クリスマスローズに代わってムスカリが、今が盛りを迎えていた。
「いよいよ始まった」と気を引き締めた。4日にデンマークから迎える夫妻(デンマークでは幾日にもわたって付きっ切りでお世話になった)に始まり、7日までにとても大事だし嬉しい約束事を4つも入れていた。
しかも、この時期は畑仕事が多忙な時期。にもかかわらず、先月から足腰が不自由な身になっていた。だからといって、妻にはこれまでのように采配を代わってもらえそうもない。心もとなく、心配な日々の始まりであった。
まずデンマークの夫妻。次いで、この夫妻を紹介してもらった医師と薬剤師のカップルを迎える。この2組の夫妻に泊ってもらう母屋は、フミちゃんに手伝ってもらうなどして妻が、先月の内になんとか、掃除や夜具の心準備などを済ませていた。
5日は、アリコさんの初のアイトワでのピアノコンサート。これは有償だから、私が「主催者だョ」との心に言い聞かせ、応じていた。とはいえ池田望さんが頼りだった。望さんはアリコさんのために、当日の収録などを引き受けていらっしゃる。ならば望さんの助言をあてにして、昇さんや喫茶店のメンバーに頑張ってもらうしかない。
その日がいよいよ近づいた。望さんには3日に訪ねてもらえることになった。
新聞では、トランプの為替ショックで大騒ぎ。世間の一喜一憂がピンとこない。それを喜んでいいことやら悲しんでいいのやら、も分からない。ともかく、わが心気ぜわしい日々が、やんごとなく思われて、わが不自由なカラダが口惜しい。背伸びするハッピーがうらやましくて、撫でたくなった。
3日は快晴で明けた。玄関を出ると、庭では私好みのスモモが出迎えた。昇さんが剪定したスモモが、いわば葉桜の時期に入っていた。色合いが美しい。
この日は、アリコさんのリハーサルの日でもあった。ハクモクレンは早や半ば花が散っていた。その根元で、私好みのラッパスイセンが咲き始めており、なぐさめられたような気分。
望さんは、バンド仲間の前田さん(アイトワでも2度、演奏や歌唱でお世話になった女性)にも声をかけてくださった。当日は午後から駆けつけてもらえることになった。
テラスで池田さんと相談ごとの最中に、離れた席から近づいてくる男性の姿があった。「なんと」30年前に、アメリカはメイン州で出会っていた、とおっしゃる。思い出した。当時は中学生であったが、リズさんの双子の甥が彼女の生家に遊びに来ていた。
望さんを交え、3人で昼食をとった。アイトワの字体やスペルも話題にした。スペルはリズさんがわが家にホームステイしていた関係で、書体はその母親の、それぞれ提案であった。
この甥との再会は「喫茶店を開いていなければ適わなかったのではないか」と、心が弾み、話も弾んだ。
アリコさんのリハーサルが始まった。音響効果は言うことなし。「照明があった方が・・・」と望さんの助言。BBQで用いて来た照明具を流用しよう、と野小屋に取りに行った。さまざまな小鳥が、盛んにさえずっていた。
4日、デンマークの夫妻は、京都駅で旧知の日本人ご夫妻にピックアップしてもらい、昼前に4人でご到着。この時も、私設喫茶店の有難さを嚙しめながら、話が弾んだ。
この日は、午後の観光と夕食まで、この4人で共にしてくださることになった。
翌日のピアノコンサートは、50席近くの用意が必要、と分かった。その心準備や手配、あるいはセッテイングのリハーサルで、この日は夕刻近くまでかかった。
夕刻、妻と買い物に出た。3組の夫婦が歓談を楽しむ夕食を思案した。想うところがあって1日まえから煮つめ始めるメニューを選択した。
オカゲで私たちの夕食に、有難い一品が加わった。庭のワケギを生かした“ぬた”だったが、久しぶりに口にするタコと和えてあった。それは翌日の夕食に用いる食材の流用だ。
デンマークの夫妻は上機嫌でご帰還。本来なら「私たち夫婦が・・・」と願っていたことだ。とはいえ、この大きなお2人のこと、わが家の軽4輪では無理な話であった。
亡き父が使っていた母屋の一室でやすんでいただいた。
5日は好天で明けた。妻はいつもより早く食事の用意ができた。中庭を眺めながら、デンマーク夫妻と4人で朝食を共にした。
ほどなく、昇さん、次いで池田さん、そして調律師の長岡さんがご到着。調律、録音、照明、あるいはテラスに並べる椅子の配置などが始まった。
わが家で泊っていただくもう1組の、医師と薬剤師のカップルが、早朝に発った鳥取から昼前にご到着。この日のコンサートを知って、お客さまをして下さることになった。
ほどなくケーキが焼ける香りが漂ってきた。この日の参加費にはアイトワ名物のケーキセットが付くことになっていた。「ならば」と、喫茶店はこの日も、ラストオーダーを11時半にして、開店することにしていた。
急ぎ私は、来店客にその旨の“お断り”をする日英文の刷り物と、張り出すボードをありあわせで揃え、妻に手渡した。目立つところに張り出すように、と頼んだわけだ。うかつであった。
11時半に私はピザセットを4つオーダーした。アリコさんを支えるお3方と語らいながら、共にすることにした。この時も、自前の喫茶店があって「助かった」、と感じた。この喫茶店では、わたしが唯一の、出前と付けがきく最大のお客様。私の贅沢。
この時点でも、まだお断りが張り出せていなかったことを知った。うかつさに気付かされ、いたく反省した。妻は、私が用意したボードが汚れていたのが気になり、拭うことに躍起になってしまっていたらしい。
後日にでも、ミッドウェイ海戦の敗因でも例に引いて、再発防止に備えよう、と私は考えた。
アリコさん、次いで前田さんが、それぞれご到着。これで当日の主役・アリコさんと、アリコさんを護る四天王が揃ったことになる。
前田さんと昇さんには、何が起こるや知れないが、「万事よろしく」との願いを伝えた。
アリコさんと私は、京都新聞社の取材対象にしてもらえた。演奏が始まるまでの小一時間を生かした。これがヨカッタ。後刻、演奏の前に、アリコさんの挨拶だけでなく、私もショートスピーチを求められたからだ。取材時の発言を活かすことができた。
それは、この庭で、アリコさんが梢の音や小鳥のさえずりなど自然と、いかにセッションして下さるか! だった。
取材を終えた時は、テラスは半ば埋まり始めており、開演時刻までに席はあらかた埋まった。
アリコさんは、アイトワとの出会いから口を切り、ピアノを持ち込んだ期待や動機を語った。私はまず、この建物は、このような機会に恵まれることを願っていたはずと、40年近く前の悔しい思い出から口を開いた。
わが家では世界的なピアニスト、フランス・クリダさんを迎えたことがある。ピアニスト松平佳子さんの案内だった。
クリダさんは「日本で連弾を引けるピアニストは佳子だけ」とおっしゃった。その佳子さんの“京都のピアノ教室”にも、との願いも込めて、この建物は、友人の建築家・佐々木恵子さんと設計した。
クリダさんと佳子さんには、後日、ある新本社ビルで“こけら落とし”の連弾を引いてもらった。佳子さんは最後になった神戸でのリサイタルの直後に、肺に溜まった水が限界を超え、急逝。それはアイトワに、佳子さんのピアノが入る数日前のことであった。佳子さんの並外れた演奏力のアイトワでの満喫は、露と消えた。
この度はアリコさんがここで、いかに自然とセッションされるか、その即興演奏を多くの人と共感したい。この度は、この願いの最初の実現である。
演奏は、バッハの“平均律クウラヴィーア曲集第1巻第1番プレリュード”から始まった。だがすぐに、アリコさんは拍手に押されてか、即興演奏に移った。
予定の2時間は、中ほどで半時間近くのお茶の時間があったが、アッという間に過ぎ去った。最後に彼女は“戦場のクリスマス”で締めくくった。
後日(4月20日19時から1時間)のこと。ラジオ番組・αステーションの “アリコ・ピーターズレストラン”で、彼女は池田さんに収録してもらったこの催しを紹介した。小鳥のささやきなどとのセッションに、とても心惹かれた。
この集いを成功、といってよいとすれば、これはひとえにアリコさんが、池田さんをはじめに四天王に護られたが故の賜物、であったように思う。見守るだけ、聴きほれるだけに終わった私だが、幸せを感じた。
このコンサートの後で、もう1つの幸運があった。この日のわが家での夕食のこと。3夫婦6人でとる予定であったが、当日になって唐突に7人になった。それが、余計に愉快な夕餉にしたことだ。それは、非力になった老夫婦ゆえの苦肉の策が、功を奏した、ことになる。
主客は、デンマークはフュン島のアンデルセンの出生地・オーデンセからお越しだった。アンデルセンの生家やそのミュージアムにも案内してもらった。
「ならば」と、前夜の内から“一品一酒のメニュー”でのもてなしを準備した。オーデンセの客にオデンでもてなす、ことにした。おかげで、人数が増えた方が賑わった。
とりわけ次の2つの話題が心に残った。まず、幸せについて。
デンマークは世界幸福度ランキングで、フィンランドに次いで常連の2位である。ブータンはかつて国民総生産(GNP)とは異なるモノサシGNH(国民総幸福量)を掲げ、国民の幸福度の高さを誇っていた。だが、近年は急落している。
わが国は、世界幸福度ランキングは、2023年の47位から2024年は51位に、2025年はさらに4つ下げて55位と、じり貧状態にある。このテーマの下での意見交換は、これからの時代への備えになったように想われた。
次いで、私たち夫婦がデンマークでお世話になった折のエピソードを取り上げた。これまで私たちは、私たちが押しかけた日は、このご夫妻が海外旅行から帰った翌日のこと、であったと認識していた。現実は、1時間前の帰着であったことを、このたび知った。即、夫は私たちを迎えに、妻はスーパーマーケットに走った、とのことであった。
白木の家具付きの古くて大きな木造のお宅であった。出入口はユーティリティ(洗濯機や自転車もあった)と、側面の玄関と、2つあった。床は板張りで、靴を脱いで上がった。
この建物の半分弱を活かす生活だった。このお2人は、主客の医師と薬剤師のカップルにゲストルームを与え、私たち夫婦にはご夫妻の寝室を明け渡してくださった。そしてご自身たちは、ユーティリティの片隅や、廊下のようなところにマットと毛布で休んでいらっしゃった。私たち夫婦は、もてなし方について、とても勇気を与えられた。
デンマークは小さい国だが、道路はとても広い。だが、走っている乗用車は、輸入関税がとても高くて、みな小さい。自転車の国だ。
世界幸福度ランキング常連2位の一端や、その謎に一歩、近づけたように感じた。
6日は、この2組の夫妻は夕食時まで観光に。私は夏野菜の準備に当たり、妻は5日の催し後の片付けだった。夕食は、前菜とデザートはお決まりだが、チョッと自慢したいレストランに誘った。スープもお決まりになっていたが、メインが5種に増えていた。
帰宅後は一杯のお茶で、歓談が弾んだ。
ご夫妻たちが母屋に引き上げられた後で、妻は待ち構えていたように私を促した。わがユーティリティーに溜めていた古紙を、軽4輪に2人で積み込むために、であった。古紙を出せる日を妻は思い出せない身になっており、間違えた日に2度も出せずに持ち帰っていた。
なんてことはない、私が調べて、毎月第1月曜日の早朝、と分かった。即、カレンダーを取り出させ、残る9か月分の、その日の前日の枠に“古紙”と記入させた。こんなことで妻はうろたえる人になっていた。
翌朝、二夫婦は温泉を目指してわが家を後にしてくださった。見送りながら思い出したことがある。デンマークで日常的に用いられている「ヒュッゲ」という言葉だ。アイトワでのこの緊急で異常な時期の居心地も、ヒュッゲであってほしい、と願った。
8時半を待って、5日遅れになったが看取医を訊ねた。ある薬が5日間欠けていた。にもかかわらず、血液検査がある月であった。これも実験、とむしろ幸いなこと、と考えた。
昼前に鈴木夫妻を迎えた。モクレンが満開だった。気さくな語らいの合間に、妻は「これ幸いに」とばかりに、さちよ夫人の親切なご提案に甘えた。四流れの寝具を、気に入ったように収納し直すなど、一汗かいてもらったわけだ。
陽が落ちる前にお2人を見送った。庭ではワラビが、銅の方が出ていた。緑の方もワラビ畑で出ているだろう。
畑を覗いた。先月の29日に、フミちゃんと昇さんが、私を引き上げさせた後で取り組んだ3本の畝が、まず目に飛び込んだ。雨がなかったおかげだろうが、見事に草は1本も見当たらなかった。
切り株花壇は、未だ健在だった。この日の夜は、プロシュートと発砲ワインを妻にも付き合ってもらい、1つの峠を越したような気分で味わい、床に就いた。大勢の人を煩わせてしまったが、いろいろなことを学ぶことができた1週間でもあった。
この後、16日を待たずしてとても有難い現象にも恵まれている。先月“堆肥の山”のことで、過去を振り返ったことがあった。2016年4月16日の写真を見つけた時のことだ。
この写真と同じ場所で“今年の山”を築いていたことに気付かされた。ならば、この16日に“10年一日がごとし”生き方を実感しよう、と期待した。
そのようすを8日に覗き、17日にも写真に収めた。期待の実感だけではなく、この9年間で、確かな進化もあったことにも気づかされた。この一帯でも山菜のコゴミが茂り始めていた。気が気でない気分で明けた月初めであったが、なぜかウソのように感じられた。
2.野草に急かされ、冬野菜に元気をもらい、夏野菜の準備ができた
気が気でない気持ちを落ち着かせたのは、まず初日のフミちゃんを交えた除草のオカゲであった。とても穏やかな心境になれた。次いで好天の3日に眺めた若葉のオカゲだ。力強く芽吹くその姿に、勇気をもらったような気分になった。
温室では、喫茶店にデビューする野菜や、次の苗が元気に育ちつつあった。
夏野菜の畝が昇さんの手で次々と用意され、フミちゃんはパーキングの除草に当たった。温室で私は、夏場の喫茶店でテラスを彩るオリヅルランの鉢を準備した。京サクラとも呼ばれる紅枝垂れザクラが庭で満開になった。
しかも、朝に、昼に、夕にと、わたし好みの食べ物が続いた。この時期のお浸し。塩分を控え、その分をうまみで補ったうどん。庭の山菜料理など。
とりわけ、久しぶりの安倍川餅と、庭の野菜たっぷりの雑煮が有難かった。
畑では、エンドウ豆が2種共に、脇芽を伸ばして復活した。ツタンカーメンのエンドウは、育て始めてから39年来の種が、今年も採れるに違いない。
第1次夏野菜の苗は15日に植え付けた。トウガラシは、伏見トウガラシだけでなく、間違って “朝鮮辛トウガラシ” の苗も買ってしまい、初めて育てることにした。
コイモは、種芋を選んだ後に、小さなコイモが残り、妻が煮た。菜花の総菜が増え、畑は菜の花畑になった。タマネギの (苗を80本植えた) 畝は、2度もサルに襲われたが、目こぼしされた20数本は、球をまともに結びそうだ。
ハナサンショウを、妻に誘われて一緒に摘んだ。2日ほど遅れたために、半数近くを咲かせてしまい、つくだ煮の出来栄えは55点ほどになった。
白ヤマブキやハナズオウ、あるいはシャクナゲが咲き始めた。
オクラ、モロヘイヤ、そしてバジルの苗づくりにも手をつけた。
手遅れ気味の除草は、穂を立てたイネ科植物を「片っ端から、」などと戦法を絞り始めた。
ペチコートスイセンが咲き、スベリヒユの鉢を用意した。
ミツバ摘みに出た妻が、イチリンソウが「満開ヨ!」と戻ってきて声を弾ませた。
昼食は、花が咲き切ったフキの薹を初めて用いた鮭茶漬け。苦みが少なく、むしろ初心者には「この方が」と思う。夕食にミツバの和え物がついた。
20日のこと。1本だけオドリコソウが咲いていた。昨年まで固まって咲いていた枠の外だった。「これも、嫌地(いやち)をするんだ、」と学んだ。
後刻、そこから1mほど離れたところの茶花(ちゃばな)・クロロウバイの根元で、「勝手に群生し始めそう」と気づかされた。側のミツバや野草を抜くべきか否か、思案が始まった。
自生化したケシが21日から咲き始め、翌日から自生のケシが咲いた。
ほどなく畑はケシ畑のようになる。
23日からスパニシュブルーベルが咲き始め、フキの料理をぼつぼつ食べたくなった。
いよいよ畑では収穫できる冬野菜がなくなり、チマサンチェが主要な野菜になった。
その後、フジの花が咲き始めた。
この時期になると、トカゲなどの救済が始まる。このトカゲ、慌てたのか、不注意でか。ともかく、放ってはおけない。人為や人工物が関わる野生動物の災難は、見過ごせない。
今年も、ハッピーの冬毛の抜け毛を盛んに拾いに来る小鳥が現れた。巣作りを始めたのだろう。
15日に、トマトの苗と、レタスの小さな苗を混植してあったが、月末にはレタスを収穫できそうになった。
アイトワ菜の芽が出た畝に、オクラの苗を植えた。オクラが大きくなる前に、アイトワ菜を間引き始め、食材にし終えたい。
モロヘイヤとバジルの苗を、1つの畝に混植した。このバジルはいずれ長鉢に移す。
エンドウの畝にはツルムラサキのタネをばらまいた。エンドウの支柱の2次使用をもくろんでいる。
これらは、いずれも、限られた土地で、多品種超少量生産の工夫だ。バジルは近く、長バチで育て、カフェのテラスに移す。
3.妻の宝物が、わが家の宝物になった
今年初の真夏日になった19日に、久しぶりに大北乙佳さんを迎えた。待ち構えていたかのようにして頼んだ大工仕事があった。ガスボンベ庫の屋根の廂を “ある願い”があって伸ばすことにしていたからだ。
そのためには、伸ばす廂の邪魔にならないように、ツバキの木を前もって切り取っておかなければならない。この木は30年以上も前に株立ちのごとくに芽生えた数本の自然生えだ。2004年6月と2025年1月の写真に映っていた。
翌日曜日に、この切り取る作業を昇さんに頼んだ。「案の定」彼は躊躇した。そこで “ある願い”を彼に説明した上で、まず次善策を提案した。このツバキを根元から切り取るのではなく、“ある願い”がかなった暁に、庭木として活かせるものなら生かそう。そのつもりで切り詰めてほしい。
次いで、この願いをかなえた方が、一帯の景観がより美しくなるに違いない。少なくとも妻が、工房棟から居宅に戻ってくる時に、この地点まで来た時に視界が広がり、気分を切り替えやすくなるのではないか。
彼なりに切って、妻なりの目線を確かめ、その広がり様に彼は得心した。
逆に、工房棟へと向かう場合も、視界が、かえってよくなったように思えた。
この写真は、この視界をよくした切り取り後に、もう一仕事彼に済ませてもらったが、その後で撮ったことになる。もう一仕事とは、株立ちのツバキの1本を、さらに1㎝弱切り詰めてもらったこと。その切れ端が、彼は捨てさらなかったようで、映っている。
後日、この切れ端に妻は眼をとめたようだ。なぜか後生大事に居宅に持ち帰ってきた。その切れ端を視て、私は気付かされたことがあった。ある懸案に決着をつけ、妻の宝物に仕立て上げることであった。しかもこの宝物には、2日後に、また予期せぬ値打ちを付け加えることになるが、まだこの時は私も気付いてはいなかった。
この廂を伸ばす案件は、大北親方(余っていた柱を提供していただけた)と大工の末富さん(これまでの樋を活かしていただけた、など)のオカゲで、予期していた以上に見事に、しかも安上がりで、仕上がった。
この廂伸ばしには、3つの願いを込めていた。まずガスボンベ庫の引き戸(3カ月前に、フミちゃんが塗装をし直した)に雨がかかりにくくする。次いで、雨の日に、ボンベの交換や、剪定道具を取り出す操作が容易になる。さらに、この廂の下でなら傘をたたんだりする作業も容易になるに違いない、だった。
それよりも何よりも、親方と末富さんのおかげで、4つ目の成果に恵まれたことが嬉しい。この廂がある方が、建造物として収まりがよく、美しくなったはずだ。
しかも、2年もすれば、昇さんの躊躇のオカゲで、残したツバキの枝葉が茂り、“剪定センター”をカモフラージュし、より景観がよくなるに違いない。
この仕事の後、末富さんには、この庭では2番目の古木・樹齢60年のスモモに、支柱を1本加えてもらった。この木は、特殊な役割(ガラス屋根の広縁を、夏は木陰のごとくに、冬は温室のごとくにする役割)を担わされてきた。無理な剪定をされたし、私の無知も重なって、樹齢以上に弱らせられた。強風などに備え、2本目の支柱がいり用になった。
さらなるお願いをした。ある雨戸が、戸袋から引き出せなくなっていた。これは2度目のことで、原因は前回同様と視た。その修繕だった。
案の定、土バチの一種が営巣し、その巣が接着剤のごとくに固まってしまい、ビクッともしなくなっていた。大仕事になった。
有難かったことは、末富さんには、土バチの営巣問題以前の問題点を教わったことだ。雨戸の“作り”に問題があった。自動車のハンドルよろしく、許されるアソビを設けてもらえた。
加えて、台風到来にあわてて用いようとする(さもなければ雨戸を仕舞いっぱなしにしている)態度ではなく、巣が乾燥して石のごとくに固まらせる前に、雨戸を動かして、巣をつぶしておく必要がある。
この末富さんにもらった幾つかの破片を妻に示し、雨戸の戸袋修繕の顛末を説明し始めた。その時のこと。2日前にこしらえた妻の宝物に “思い出という値打ち”を、新たに付け加えることを思いついた。
この宝物のそもそもは、2年前の9月のこと、妻がナスの蔕(へた)を素敵な髪形に見立てたことに始まる。
この心はその後、怪獣に出会わせることになった。
この怪獣は、日々光線の具合や、乾燥が始まり、捨てがたくした。
このたび、2年近くも取り置かれていたことを私は知った。乾燥しきって、最早立てられなくなっていた。まず私は、これを立てた。妻は喜んだ。
その上にこの度は、大事な“思い出”を付け加えておくべし、と私は気付いた。懸案だった戸袋の“土蜘蛛事件”の真相を解明したわけだから、三度同じ問題に悩まされずに済ます手だてを考えておくべきではないか、と。
だから、当分の間は、目立つところに置いておくことにした。
妻の宝物が、わが家の宝物になった。
4.ノルウェイの4家族に勇気と張り合いをいただいた
27日の朝、PCを立ち上げると、とてもありがたい40行ものメールが入った。ノルウェイからの観光客を16日に、アイトワに案内し、喜んでいただけた、とガイドの長堀様からであった。次のように締めくくられていた。
ヒョッとしたら、アイトワから始まった奥嵯峨巡りの思い出が、日本の、少なくとも京都の最初の思い出にしていただけたのでは、ないか。ドイツやアメリカ、エジプトやラオスなどで、同じ体験が、「ラオスといえばあの・・・」が、私にはある。
当月は2週間前にも、次のようなカードを、置手紙のごとくに残してくださったお客さまもあった。喫茶店を開いておいてヨカッタとおもった。
想うところがあって、折り返し長堀さんに、次のような想いも込めて、ある依頼のメールをした。
39年前に、ある事情があって勇を決し、喫茶店を開くことになりました。
長堀様の文面を読み進むにつれ、胸にこみあげてくるものがありました。あの折の願いの1つがかなえられたような心境にされたのです。ある事情は、長堀様と、もしお目にかかれる機会に恵まれれば、縷々(るる)語らせていただきます。
数えで言えば今年、私は米寿を迎えました。あと100日ほどで満87歳になります。想うところがあって半世紀余前に考え方を変え、40年ほど前に生き方を変えました。その折の想いが、長堀様のおかげでかなえられたような心境にされたのです。
その日のうちに手を打っていただけた。翌早朝には次のような返事が届いた。
ノルウェイには1度しか私は行ったことがない。だが、森の中の空地にあった木の教会が未だに忘れられない。木の扉を確か引くと、ギーッと開いて、どなたもいらっしゃらない教会の中に入り、階段ものぼった。
このようなことを思い出しながら、皆さんの写真をしげしげと眺めた。長堀さんのメールによれば、このグループの取りまとめ役の方が、素敵なカフェがある、ここに入りたいと提案してくださったようだ。
5.ご利益が6つもあった叢書仲間と、懇親の会
元町での集合との呼びかけに、まず心惹かれた。かつて8年間、神戸のアパレルに勤めていた時代は、この近辺にウイークデイの根城を設け、遠距離通勤に備えた。マルチハビテイションであった。
懇親の場は、そこからタクシーで“カーブ15”まで登り(2600円ほど)、10分ほど山道を徒歩で下ったところ、との案内。神戸の瀟洒なレストランを連想した。
カーブ15からの下りの地道は、イノシシがミミズを求めて荒らしていた。どなたかが「食材などは、どうしてここを・・・」とつぶやき、「剛力でもが担いで・・・ まさか」と思案したりもした。
杖を持って来るべきであった。「しまった」は後の祭りだった。
「あれです」と教えられた地点には再度山「杖観音」があった。
そこから階段をのぼったところに目指すレストランがあった。六甲山のハイカーなどが昼食などをとるところで、側には幾台かの車があった。
乗用車でここまで乗り付ける人はいないようだ。店内は開放的で、煙と油煤が懐かしい。神戸時代に一人で出かけた唯一の店は、マンション下の焼鳥屋であった。
ビールで乾杯。気さくで和気あいあいの懇談が始まった。選んだ席もヨカッタ。隣は“クラフトビ-ルCLUBタッキー”で知る人ぞ知る風間佳成さん。ビアツーリズム研究家。お向かいは、日本の植物生態学の権威、湯本貴和さん。京大の霊長類研究所教授、きょうと生物多様性センター長、あるいは日本モンキーセンター新所長などとしてご活躍。
野趣に富んだ食事も気楽で、おいしかった。愉快な話題が尽きなかった。
中でも、最も心惹かれた話題は、ゴリラと人の認識のありようだった。かねてから私は、脳を持たない植物の方が賢くて、脳を持った動物の方が愚かだ、と感じてきた。この話題は“賢い”や“愚か”とは? まで話題がさかのぼりかねない。
そこで、言葉や文字を話題に選んだ。ヒトとゴリラの言葉の認識ぐあいを伺った。その派生で、文脈まで認識できるようになった人と、ゴリラとの認識の差異を教わった。その違いは時間芸術と空間芸術、あるいは2次元と3次元の違いを連想させた。ゴリラの方が、空間芸術的なとらえ方をしていそうだ、と感じた。
ゴリラの群れよりも人間の群れの方が、残念ながら、はるかに愚かな(持続可能性を無視しがちの)リーダーを選び兼ねないわけですね、とは言いそびれた。
その昔に読んだ記憶をよみがえらせた。「100年後の世の中を予測させた」企画があり、その的中率の解説では、政治家や事業家の的中率は低く、芸術家や作家などが高かったように記憶している。
これに似た話を、読売新聞がコラム・編集手帳で取り上げたことがあった。20世紀初頭に報知新聞が載せた「二十世紀の予言」についてだが、確か小説家の20余の予言の的中率は80点以上であった、と記憶する。
レストランには時間制限があり、追い出される羽目になった。帰途の足が話題になった。配車は頼めるが、タクシーは10分余下ったところまでしか迎えてくれない。この時に、「環境省では20分(と聞いたように思う)ぐらいで歩けるところはタクシー乗車禁止…」と、東京から日帰りで参加の峯岸律子さんが声をあげた。
問題はこの下り道であった。杖が欲しかった。
不安はすぐに安堵へと一転した。高峰さんのオカゲだ。トボトボした足どりの私に付き添ってくださった。手すりがあるところはその方へ、ないところは転げ落ちる心配がない方へ、と身を変えていただきながら、話題が弾んだ。峯岸さんのお父さんは、2年私より早くお生まれ、などと知った。
タクシー事情の他に、オフィスごみの分別なども、チョッと伺った。「厳しいんだなぁ」と感じた。かつて『財務省解体論』でビックリ仰天させられた役人の姿とは雲泥の差であった。環境省を目指す人の意識がなせるわざか、あるいは省の取り組む姿勢がなさせるわざだろうか。この話題が終わらぬうちに、皆さんがお待ちかねの地点にたどり着いた。
この様子を、白砂伸夫さんは写真に収め、後日送ってくださった。このプロジェクトのリーダーで、バラの造園では権威者の先生である。
タクシーに分乗する前に記念写真、となった。この写真は後日送っていただけたが、参考資料の中に、このプロジェクトを取り仕切り、このシャッターも切ってくださった浅野貴彦先生の姿があった。
帰途のタクシーは1200円だった。元町駅のホームから妻に「元気だ。これから帰路につく」と電話を入れた。折よく米原行きの急行が来た。「このまま乗り換えずに・・・」京都までたどり着こう。持参した麻田雅文の『日ソ戦争』を取り出した。
ソ連が戦火を切るのは8月、と情報部から再三知らされながら、情報部を下位に見る実戦部の幕僚は、それでは対処のしようがないとみて、ソ連は翌年の春に戦火を切るとの結論を出していた、と同書では調べ上げていた。
思い出したことがあった。妻にミッドウェイ海戦の敗因でも例に引いて、と思案した案件であった。「ミッドウェイ」と言うだけで“ピンと来あう仲”を願っていたわけだが、なんだかせつなくなった。
ミッドウェイ海戦では、同海域に米軍空母を発見できずと知らせていた索敵機が、突如敵空母発見を知らせてきた。その時の司令官の優先順位のつけ方が敗因だ。
司令官は「居ないもの」と判断した時に、「願っていた通り」と考えたのだろう。全攻撃機の爆弾を、本来の目的である陸上攻撃用爆弾に切り替えさせていた。
敵空母の甲板を飛行場とみて、陸上用爆弾を降り注げば、との側近の進言を受け入れなかった。艦船攻撃用の海用爆弾に急ぎ戻させることにした。準備が整い、発進せんとしていた時に、米艦載機に襲われた。4隻の主要空母は火だるまになった。
もはやこんなことはどうでもよい。今や妻は「きれいに(汚れが)落とせたネ」という言葉を期待して、躍起になってしまう身になっていたのだろう。これは明日のわが身かも知れない。実にせつなくなった。
6.その他
1、月に1度の古紙出しで、妻は慌てた。当自治会では月に1度、各戸の古紙などをまとめて売り、その売上金も当自治会の“町づくり基金”として半世紀来溜めて来た。不法建築や景観を破壊する不法行為などに対処する基金である。この古紙出しの日を失念した妻は、計3カ月分も出せず仕舞いになっており、のっぴきならぬ心境に陥っていた。
これも私の管理下に入った。
2、薬で2度悩み、罰が当たった? 当月は、医薬品に関して2つの反省材料に恵まれた。心臓疾患では、看取り医がアポイント制でないことをいいことに、多忙にかまけて行きそびれ、見取り医が選んだ薬を5日続けて飲めない事態に陥った。
片や、突発した膝の激痛では、ついに鎮痛剤を自ら初めて連続服用した。体の警報を無視したわけだ。「オカゲで・・・」と言っていいのだろうか、すべての約束事には、つつがなく取り組めた。
そのバチだろう。月末に、薬では癒せそうにない苦痛に悩まされることになろうとは。
3、メダカに気付かされた。メダカを増やす安易な方式を、昨年初めて身に着けた。今年こそ、との想いで春を迎えた。餌を欠かさずにやりながら、気付かされたことがある。いずれの水鉢でも、様々な色柄のメダカを作為的に混在させていたからだ。
4、初めてインドの映画『RRR』を観て、得心した。岡田さんの急なる来訪チャンスを生かし、2人の“映画会”ファンの了解をとり、映画会を開催した。知範さんと月記原稿を引き継ぐ日でもあったので、「チョッと早く来て」と勧めもした。
時代設定は植民地時代のインド映画『RRR』を岡田さんはご推奨。圧倒された。息をつく暇もなかった。
インドといえば、ガンジーが無抵抗主義で独立に導いた国とのイメージで固まっていた。その頭が、ほぐれて、得心した。この間をつなぐ映画を観たい。鑑賞後のディスカッションは賑わった。
5、これまで通りの『匠の祭典』は中締め、いかにして繋げるか。長津親方の呼びかけで、恒例のお好み焼き屋に、妻の運転で出かけた。帰路は2時に、昇さんに迎えてもらい、途中で夏野菜の苗を買い求めることにしていた。
これまでの、伝統の道具で技や術を競いあう時間を組み込んできた催しは、中締めになった。
口火を私が切って、循環型社会の到来を控え、近未来のしかるべき木造建築のあり方を、語り合った。先達の意見からあるべき姿を汲み取った。
昨今は逆に、いわば使い捨てのプレカット工法さえが全盛だ。潜在的廃棄物のごとき住宅に頼っている実情を改めないと、大変なことになりそうだ。公共インフラや集合住宅の老朽化問題、あるいは食糧問題なども深刻度を増した。意見は百出した。
この喧々諤々の場をせめてカメラに収めておこう、と厨房に入らせてもらった。
「モリさんも一緒に」との声をいただき、店の人に撮ってもらえた。
先進工業国は、全盛時代に持続性がある国の形をつくってきた。わが国も、まだ間に合う、と願った。その基本である住問題を明るくするために、この催しが大事にしてきた技や術が途切れないように、何とかして、とも願った。
6、彫刻刃物鍛冶と工芸彫刻の仲間展。興味津々の催しがある、今日が最終日だ、と『匠の祭典』の寄り合いの場で知った。
昇さんも乗り気だったので、苗屋を訊ねる前に訪れた。京町屋を改修した会場だった。
皇室にもファンを持つという和眼鏡職人が「仁王さんから求めがあれば、」とでもいったテーマの紹介ブースが目を引いた。
上階にも一室を構えており、迎えて下さった。
竹を活かしたツルに、力を注いでいらっしゃった。
後継者に恵まれた、とおっしゃった。「教えうるのは3割程度・・・」あとは本人次第らしい。
熱心な来場者は女性のアスリートだった。池田さんもバイクで駆け参じられた。
この和眼鏡職人の隣のブースは刃物職人が彫刻刀などを出品していた。
日本には、職人技が国の一翼を支える時代が来そう、と思われてならない。それだけに、大勢の女性職人も集う仲間展に声援を送りたくなった。
7、さぬき広島の山田隆志さんと歓談。香川県丸亀市の瀬戸内海の広島(塩飽諸島の中で最も大きい島で青木石が採れる)のご出身。
妻のブランコ人形に眼をとめていただき、ずいぶん昔 (ピクチャ-ウインドー越しの制服がなつかしい) からお訪ねいただいていた。紅葉も褒めていただいた。
近年、小豆島や豊島を訊ねた。瀬戸内海の島の1つが出生地の昇さんと親しくなった。ポカポカしたテラスで話が弾んだ。
人口150人?(往年は4000人、1968年は2000人で小学校は分校もあった)。家号のある在来島民(戦国時代の末期に長宗我部氏に敗れた香川一族と長尾一族が住み着いた)と、その後採石での入島者(90年代まで100軒近くあった)が在住。採石は高齢化と輸入に負け、激減。離島振興法の下に、島を周回する道ができて、島の様子が大きく変わった。新疆山213mは弘法大師が修行。島の八十八か所がある、など。
訪れたい。もっと早く瀬戸内海を訪れておきたかった。
8、感謝した報道。新聞では、ある詭弁の解読に触れたこと。「戦後レジームからの脱却」と聞いた時の、日本の将来に対する唯ぼんやりとした不安が、この文章で晴れた。何度も読み直せる新聞の有難さに感謝した。宿痾 (しゅくあ)の克服をしなくては、と想った。
TV報道では、腎臓の働きと、その疾患の治癒可能性を知った。これまでは、一旦患えば治しようがないと思っていたので、胸が晴れた。最も大事な臓器のようだ。だから、2つ備えているのだろう。
9、83年前のロックガーデンを忍んだ。3歳から11歳まで、私は父の姿を見ていない。5歳の時に、結核病棟から見放され、11歳までの6年間は、2階で1人自主隔離した。1つ屋根の下だが、声しか聴いていない。主に母を叱り、諭す声だった。
やがて父は、復活した。医者は、奇跡だと言ったが、私は母の献身だと視た。あのまま死んでいたら、遺影になった写真がある。
それは雨が降り出す前の六甲山ロックガーデンでのスナップ写真。雨の中、私を背負い、肺炎から結核に、そして糖尿病を併発した。
10、昇さんと鉢植えの土替えに取り組んだ。まず懸案の2つから取り組み、学習してもらった。後6つほど、土替えを待っている大鉢が残っている。雨の日のテーマにでも、と願う。
11、ナズナが、畑の外で芽生え、ヤッと種を結んだ。堆肥の山の側で2本だが、ヤッとナズナが芽生えた。もう一か所、この七草粥の1種を定着させたい。その上で、畑から消し去る。
12、あれほどきらっていたキンポウゲを調理場に持ち込んだ。庭で摘んだり拾ったりした花を、妻は切らさずに居間で飾るようになった。
ついに、25日のこと、「きれいなものですね」と言ってキツネノボタンを持ち込んだ。。
13、人形教室展。1年半前に、皆さんと妻は計らい、1年半ごとに開いてきた人形教室展を、ついにアイトワで開催する、と決めた。その後、妻のもの忘れが尋常ではなく、道に迷いかねない身になったことに私は気付かされている。妻の自覚と上の決定はいずれが先であったのか、チョッと気になる。
14、宿題を3つも残こした。右目に視力が1分間、24日にまったく消えた。元に戻るのに、前後合わせて4分弱かかった。もはや慣れっこで、冷静に観察した。原因は未解明。もっとも、私好みのジャーマンアイリスが咲き始めたりすると、これまでより熱心に脳裏に焼き付けるようになった。
26日に、右下の前歯が1本折れた。次いで、左下の失った奥歯の歯根が、激しい痛みを発するようになった。治療は来月、奥歯の歯根抜きを優先、で決まった。
加えて、月末近くに右下腹部が危険信号を発した。わが乗り合わせた船は、いよいよおんぼろになったようだが、船長の意気は盛んのはずだった。ところが、この痛みが不気味さを増し、月末を弱気で迎えてしまった。