目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 加齢に感謝した
2 ウエルビーングとライフスタイル
3 “未来が微笑みかける生き方”
4 6人で庭仕事に取り組めた1日から
5 “しめなわの作り収め”(!?!)とバトンタッチ
6 「ここは、天国ョ」ほか、その他
ウエルビーング と 有終の美
師走は、朝一番に妻の運転で“紙ごみ出し”に出かけることで明け、先月同様の出来事が3つありました。とても悲しい訃報に、今月も接した。この冬2度目の大焚火を、今月はフミちゃんとしており、先月と同じく仕上げは焼き芋で、また囲炉裏場を一旦片付けています。そして、前月分の月記と同様に、今月分も随分推敲に時間を割いたことです。チョット異なる点は、今月分をもって有終の美を飾るかのような気分になっていたことです。
上旬は、紙ごみ出しで明けたわけですが、エンドウ豆に関して異様なほど、なぜか力を割き始めています。第1次スナップエンドウに支柱を立て、霜よけの細工を施した。第2次スナップエンドウのポット苗を、定植し、支柱を立てた。そして、大慌てでツタンカーメンのエンドウマメの潘種に取り組み、トンネル栽培にしたことです。
これらの他に、ヤーコン茶の準備。焼き栗に興味を抱き、アリコさん他お1人を迎え“ちょっとした催し”を検討した。元アイトワ塾生の伴さんに訪ねてもらい、近況を伝え合った。妻と一緒に、歯科医のお世話になった。はるか昔の預金通帳の件で、キツネにつままれたような心境にされた。冬子のシイタケが出始めた。そして立ち寄っていただけた小木曽さんを見送った後で、妻の「見て!」との声で夕焼けを、2人でしばし眺めたことです。
中旬は、知範さんに先月分月記原稿を引継いだ後、2つの医院を(妻の剥離骨折の完治確認と、その足で家庭医を相談事で) 訪ねただけの1日、で明けたようなものです。その後、色々な日々があって、20日は、クボガキの木を見上げながら、反省することしきり、で過ぎ去ったような感じです。実は義妹を「考え方が間違っている」と厳しく、初めて叱っておきながら、説明不足でおわっていたわけです。
家庭医(私の看取り医でもある)での相談事は、妻の意識や意思表示が確かな間に、物忘れ対策で打てる手を打っておきたかったのです。他に、とても光栄な来訪者との歓談。歯をすべて失くしてしまた場合の疑似体験。あるいは、夫婦付き合いをしてた2組の夫妻の寡婦に、やっとお悔やみの言葉を掛けることができました。これらの他に、次のような11のトピックスに関わったり体験したりしています。
4種のエンドウのすべてに、霜よけ細工を施せた。サツマイモの掘り出し。アリコさんと焼き栗の達人を迎え、新企画を実験。洋平さんが松山から、素敵な人をご案内。次いで岡田さんを迎え、当年最後の映画会は2本立て。暮れのモミジの落葉掃除に備え、マルチング場を2か所増やした。元アイトワ塾生の三上さんが、孫の誕生とユズの大豊作の報告がてらの来訪。徳重文子さんのお元気を、贈り物と電話で確認。歯科医で2本の差し歯を治療。嬉しい2著に触れた。そして喫茶店の厨房で、ガスオーブンの新調工事に立ち会いなど、でした。
下旬は小雨の日曜日で明け、師走の締めくくりは「恒例通りに」と願い、老いた体を妻とかばい合いながらなんとか、と励んだのです。だが、恒例通りにはゆかず、師走は走り去ったようなものです。
最初は、大勢の支援や協力に恵まれて、順調でした。昇さんとフミちゃんだけでなく、伴夫妻にも手助けを求めた。注連縄づくりでは、恒例のご一家を迎え、なんとか有終の美を飾らせてもらえたり、庭掃除では石神夫妻を迎え、6人がかりで賑やかな取り組めたりしたのです。
この間に、庭ではハクウンボク、ウコギ、そしてニワトコなどの剪定。マルチング場の草刈り。精を出した土のリサイクルに。畑では、初めてお多福豆の苗を植え付けた。妻の精密検査にも出掛けた。はあるいは夜なべ仕事で、干し芋づくりに当たった、など。問題は、大晦日でした。
妻は「これが最期ョ」と発奮し、お節料理造りに当たりました。だが、思うようにはゆかなかったのです。様々なことで驚かされながら、1年を閉めくくった次第です。でも妻の、「ここは天国ョ」との一言に触れており、有終の美を飾れたように感じており、穏やかに眠りについています。
~経過詳細~
1.加齢に感謝した
先月接した訃報がキッカケだろうか。当月は、とても感謝することや考えさせられること、あるいは反省することなど、さまざまな想いに多々駆られた。それとも、当月初めに接したもう1つの悔しい訃報に(先月と同様に夫婦づきあいしていた奥田祐斎さんの訃報に)唐突に触れたが、それが大いに関わっていたのかもしれない。
先月の訃報は、小さめの丁寧な見慣れた文字で記された封書で知った。元はといえば赤の他人であった私たち夫婦を、ほどなく仲人のような立場にしてくださった夫妻の、ご夫人から「夫が夭逝しました」との知らせであった。
夫人は再婚で、やや小柄。夫は初婚で歳下のようで、夫人の「クマさんのようでしょう」との評がぴったりの大柄だった。手紙を読み終わり、いかにお応えしてよいものか、と大いに迷った。「そうはいえ」と、気がせき始めた時のことだった。
祐斎さんの訃報に触れた。それは、いの一番に知らせてくれるはずの人の、「ごめんなさい」とのケイタイでの断りの声から始まった。既に荼毘にふされた後であった。なのに私は、むしろ感謝した。まずその人の動揺のほどを、痛く感じたからだ。しかも、すぐに知らされていても、私は身動きできない事情の下にあったのだから。
とはいえ、この2つの、唐突で、なぜかあまりにも悔しく感じられた知らせに接し、大いに私は混乱していたようだ。後日、当月記のために写真を点検し、自分で撮った写真を見て、初めて気付かされたことさえあった。
週に2度出せる燃やすごみを始め、週に1度の3種のごみ、あるいは月に1度の古紙出しの下準備に、ユーティリティーと名付けた手作りの小屋の中に1人でこもり、無性に、丁寧に取り組みたくなっていたようだ。
フミちゃんを迎えた2日も、フミちゃんと妻には、除草に当たってもらい、なぜか囲炉裏場で、一人で焚火に取り組みたくなったようだ。2人は、囲炉裏場の側にあるニラコーナー (後年広げた3畝の畑で、多年草のニラの畝がある) で、除草に当たっていた。
この写真を撮るときに、足元のブロッコリーを覗いたようだ。苗の植え付けが遅れた分、花房の生育も随分遅れていた。
囲炉裏場に戻ってみて気が付いた。随分大焚火にしていた。
翌日も、何かに集中したくなっていたはずだ。だが、今度は写真もない。
4日は、4時過ぎ頃に目覚めたのだろう。新聞を取りに出て、うっすらとだが、この冬初の雪景色であったことに気付ている。ケイタイを持って出るのを忘れていたことも覚えている。
新聞を食卓に置き、写真を撮りに出るのを忘れたようで、PCに取り組んだわけだ。気付いたら半時間ほど、妻のマッサージで寝室に戻るのが遅れていた。いつものように、伏せて寝かせ、腰から肩へと、10分ほど背の手当をした。
次いで足の手当。最後は足の指を、1本1本丁寧に揉み、親指の側面は掌で、温かくなるまでこする。あの時以来、この5年ほどは、霜焼けにはさせていない。結婚して半世紀近く、そうとは気づいていなかったことを恥じて、死ぬまでお返しをすることにした。
底冷えがする京都はここに、妻は嫁いできて以来、何10年と、冬は悩んでいたわけだ。そうと知った時の足の指は10本共に、赤黒く霜焼けになり、カチカチだった。触るだけで痛がった。その翌年から2度と、と私は心に決めた。数10年分の、お返しを始めた。
妻は逆に、脱サラするまでの私の肩を、寝込むる前だったが、もんでくれたのだから。
PCの前に戻った。なぜか生ごみを妻が目覚めるまでに片付けておきたくなったのだろう。再び玄関を出ると、雪は半ば消えていた。ケイタイを取りに戻り、写真に収め忘れていた雪景色を捉えている。
個離庵の前で育っているヤーコンも、雪をかぶっていた。
囲炉裏場に至った。無煙炭化器の灰が雪で湿っており、湿った灰を取り除きたくなった。次いで、側にある堆肥の山に、生ごみを投入したわけだ。
帰途、無煙炭化器の灰に雨除けカバー(焚火をする時は外し、普段は、火の気が収まると被せ直す)を被せておきたくなり、1人で猫背になって担いで、被せた。やればできた。だが、老体には足元が危ないことがわかった。
PCに戻り、再び熱中した。ほどなく引き戸越しに、妻が起き出したことを気配で知った。いつものように引き戸を開けながら、回転椅子から立ち上がった。両手を高く広げ、妻を迎え入れた。朝の背伸ばし運動を始めておいてヨカッタ。
いつもより強く抱きしめた。腰から背へと、両手で指圧した。「今朝は、初雪だったよ」と告げた。
夕刊で、平年より7日、昨年より15日早いこの冬初の雪であったことを知った。この日、昇さんは代休を取ったようだ。午後は、2つの案件で(気になっていた大昔の預金通帳の件と、とても古い金券やビール券の交換を)車で付き合ってもらえた。通帳の件は「郵貯よりは、マシですね」との嫌味を残して終わった。ビールの金券では、プラスの差額までもらえた。
わが国は、政府から遠い組織になるほど、優しいんだ。
5日の早朝に、PCのある部屋の室内温度が初めて、10度Cを切った。
6日、この冬初の薄氷が張った。
夕刻のこと。「見て!」「見て! 孝之さん」と急かす妻の声で、重い腰を上げた。このところ、こうした報せが、やたらと増えた。それに、いちいち応えるようになった。
2人で夕焼けを眺めた。日の出のごとき東の空の夕焼けに、私は惹かれた。数秒後に、妻は刻々と移り行く雲のパノラマに見とれていたことを知った。
思い出したことがあった。あのお2人とは1度、不気味な夕焼けを話題にした。それは、阪神淡路大震災前夜の夕焼けだった。あの日もお2人は、朝早く落ち合って遠路車で飛び出し、アイトワにみえた。その日もお2人は「明日は、ともに仕事ですから」と言い残して、去った。
翌早朝、激震に飛び起きた。後刻、見舞いの電話をもらった。その時に、前日の帰途「不思議な雲だね」と言い合った、と知った。ほどなくTVは戦災地のごとき神戸の遠景を映し出した。灰色の爆撃後のような市街で、煙とメラメラした炎が揺らめいていた。何のための自衛隊か。昼になっても、首相が空から視察した、との報道さえなかった。国民を守る自衛隊ではなく、仮想敵国から国土を護らせたい人たちの自衛隊なんだ、と感じた。
あの頃のお2人にとって、アイトワはまさに「愛とは?」であったに違いない。遠方から幾度も車で訪れ、愛とは何かを考え、アイトワ自慢のケーキセットを前に語り合い、勇を決し「愛永遠」にと、誓い合われたに違いない。その「愛と環」に私たち夫婦も加えていただけて、今がある。
そうだ、「アイトワのケーキを贈ろう」。
そこで困った。「翌日はご在宅か」。それが知りたい。だが、彼女のケイタイ番号がわからなかった。
思いあぐねた末に、夭逝した夫のケイタイに「もしや」と、かけた。すぐに、聞き覚えのある声が返ってきた。
「淋しいでしょう」
少し対話を重ねたように思う。「何年も付き合っていながら」と言い訳もした。その上で、「あなたの電話番号を聴いていなかったので」と詫びた。番号を訊ね、メモした。メモり終わらぬうちに「●●●さんの、」と、いつも彼女が生前の彼を呼んでいた声が返ってきた。
「私の電話にしています」と続いた。
電話を切って、なぜか野鍛治の「堀田さんは偉いなぁ」と想った。2カ月前に、山口までご一緒した時に知ったことだが、離婚した親友の相方・ご夫人のケイタイ番号もご存知であったのだから。
ケーキを送る伝票を作りながら、「待てよ」と思い直した。昔とは電話の位置づけが、随分変わっていたんだ。その昔は住所欄に近隣の電話番号を“◆◆様方”などと記して、共用電話にさせてもらったものだ。今も据え置き電話は、一家の共用電話だ。
翌日、彼女から電話があった。霊前にケーキを供え、「食べながら、涙が出て仕方がありません」と。即座に、訪ねてもらえるように頼み、約束した。
なぜか商社時代に、夫婦づきあいしていた親友を思い出した。この親友の家には妻も一人で、東京での個展で出張した折は、気兼ねなく泊りに行ける間柄だった。この親友も夭逝した。その時は葬儀委員長までさせてもらったのに、遠方だからとはいえ、その後の互いの行き来は途絶えてしまった。仲人をした息子には今も、たまに訪ねてもらえるが、寡婦とは声や郵便などでの便りだけになっている。
なぜか、中学1年の時に岡山で出会い、文通が始まった大内義男さんも思い出した。二回り余年上だった。人生で2人目の恩人だ。大学入学を祝うために、東京から出てきてもらえた人だ。映画『楢山節考』と『無法松の一生』を観て、夕食をご馳走になった。私が社会人になって3年もしないうちに訃報に触れた。なぜか駆けつけられなかった。東京出張の時に、訪ね慣れていたお宅なのに、側まで行きながらとうとう立ち寄れなかった。縁が切れそうに思ったのだろう。今にして思えば、そのご家族にはとても失礼なことをしたわけだ。
さらに思い出した人がある。常寂光寺の先代住職だ。海外出張も多かった私は、留守番をする妻が心配だった。それは、一帯の景観を護る活動を、この住職の下で熱心に取り組んでいた関係だ。不法建築がらみのいかつい無法者を唐突に迎えることもあったからだ。
脱サラしたのちに、この心配を妻に話した。妻は不思議な顔をした。「お上人の所に駆けつければ良かったのでしょう」「心配などしていなかった」との返事だった。
なぜか祐斎さんの霊前に向かう心がととのった。元気になれば、酌み交わそうと用意していた清酒をぶら下げて出た。イの一番に知らせてくれるはずの人の車で、妻を伴って出かけた。闘病用に設えた素敵な個室に通された。仮祭壇の笑顔の遺影に迎えられた。
祐斎さんは再婚だった。初婚だった寡婦と縷々語らった。おいとまする時に、初めて祐斎亭を訪ねた折の、思い出の座敷を覗いた。模様替えされていた。掃き出し窓の向こうに、風神雷神の大きな像が望めた。
帰途、妻が褒めてくれた。寡婦への私の提案だった。厄介な人に関わりかねなくなった時の心得で、「顧問の森に相談してから・・・」と言って時を稼ぎ、何なりとご相談下さい、であった。
2.ウエルビーングとライフスタイル
先月は7日の朝日新聞 (リレーオピニオン⑰)で、前野隆司さんが幸福について“人と比べず 長続きする幸せを”と、訴えておられた。再録する。
「もとはロボット開発などのエンジニア」が、データ解析などを通して、幸せの要因を探るようになり、「心のウエルビーング、つまり」真の幸せを追求するようになった人だ。なぜか私は前のめりになった。
1957年、19歳の私は直観で、“工業デザイナー”になることを夢見て、進学すうることにした。後年知ったことだが、わが国は、工業デザイナーを養成するコースを、2つの国立大学に、1954年に設けていた。
社会人になった。商社の繊維部門でだが、工業デザインの手法の活かし方に気付かされ、それなりの成果をあげ、ファッションビジネスにも関わらせてもらえた。だが、データ解析などを通じて、工業文明≒消費社会はいずれは破綻する、と予感した。お金さえ出せば、誰にでも手に入る複製品に憧れ、競い合っていていいものか、と気になった。これも直観だった。
海外出張が増えたが、可能な限り、週末の野良仕事を手放さなかった。それがヨカッタ。アタマよりもカラダの方が、その気になれば、本当のことを見抜くことを、見抜かせることに、気付かされている。
とりわけ消費社会が、生きとし生けるものを道連れにしかねない、と気づかされてことが衝撃だった。データーをその目であさり、地球を蝕んでいることをデーターは示していた。今から思えば、アメリカでは多くの科学者が、レイチェル・カーソンを異端者扱いしていた頃だ。今も、おかしな大統領を選び、国を分断しているが、当時は民主主義のもとに皆が、真面目に不真面目なこと(消費社会の謳歌)をしていたような状況だった。
人類には、もっと豊かな生き方があって当然ではないか。行く先が心配になり、宗旨替えをしたような人生になった。
当月は20日に、朝日新聞は“オピニオン&フォーラム”の頁で、ウエルビーングについて、その解説を佐伯啓思さんに依頼したかのような記事を取り上げた。そして見出しに、“競争に疲れた心は「善いありかた」を求め 古代へと帰るのか”を選んだ。
かねてから私は、経済学者であったこの人の記事を見つけると、拝読してきた。工業社会に異論を唱える“正論の経済学者”と、感じたからだ。だが、この度の記事でもまだ、右肩に「スペシャル 異論のススメ」とある。
これが「正論のススメ」になる時代が必ず来る、が私の希望であった。
何せ「直観で」だが、1973年から私は“第4時代到来論”を唱え始めている。工業文明の時代に次ぐ新しい時代の到来を必然、日本こそこの新時代を切り拓く資格に満ちた国はないか、と睨んだわけだ。
歴史的諸般の事情を鑑み、わが国がこの新時代を創出し、先進し、今や足掻く工業文明国の心ある人たちに希望を届けたい。そう考えて脱サラまでしたが、次の文明の好ましき名前が思い付かず、第4時代と呼ぶことにした。
この名称と希望を文字で残せる機会は、まず1974年に与えられている。4月9日付け繊研新聞の「第4時代のマーケティング」である。これより先に脱稿し、寄稿してあったこれも拙い文章もある。『縫製辞典’75』(同年12月20日発行)で採用された。
共に読み返すのも恥ずかしい拙さである。「第4時代のマーケティング」は当月記((当初は、2003年9月から週期で始まった) で、既に取り上げてきた。少年の普段着を既製服化する人々の心掛け、を寄稿せよ、が注文だった。
『縫製辞典’75』は、衣料品の既製品化がわが国でも本格化する、と誰しもが認めた時期に発行された。この “1.3 ファッションビジネスとアパレル産業” を、私は担当させていただいた。当時、この道の多くの専門家は誰一人と言っていいほど、中国製品が日本で普及するとは考えてはいなかった。
この 1.3 では、工業文明の問題点を指摘し、次の時代「第Ⅳ時代を目指せ」、と私は説いている。
その後、わが国はバブルを体験する道に踏み出し、有頂天になる。それは一過性と私は見た。だからわが庭で、第4時代を見越した念願の建造物(循環型社会に対応)を1985年から建設し始め、1986年春に完成させている。そして、この時空に妻と2人で“アイトワ”との名称を与え、庭を一般開放した。この庭を妻は“エコライフガーデン”と呼ぶようになった。自然の摂理を尊び、生態系の一員だと自覚する生き方に憧れていた。
そこで、1990年に出せた第2著では、オランダのバブル “チューリップ事件” を取り上げた。いわんや地価での投機は “風の取引” だと指摘しておきたかったからだ。
それだけに、おこがましいことだが、佐伯啓思さんが“正論の経済学者”と呼ばれ、その意見が「正論のススメ」とならない限り、わが国の経済的再興はありえない、と私は睨んでいる。
今後、例えありえたとしても、それは瞬間風速的であって、先のバブルの破綻よりももっと惨めな結末になろう。食糧問題を主に、ぬいぐるみ剥がされるような罠に陥れられていたようなことを、自覚さあせられるに違いない。
だから、この度の朝日新聞の“オピニオン&フォーラム”の記事では、最後の■■の後の、20行余の一文がとても気になった。この警鐘を、この記事の主要部と受け止めた。意識改革をしないと、わが国は立ち直れそうにない、と想われてしかたがない。
もちろんこの私の意見は直観に過ぎない。だが、 “見えざる手” に誘われた科学的な分析よりも、マシな結果に結びつきそうに想っている。
実は、私は唐突に、時代に翻弄されて栄枯盛衰を体現した女子短期大学から、立て直す役目を仰せつかったことがある。その時に、私の直観もまんざらではなさそうだ、との体験や経験をさせていただけた。10年間で、直に関わった1000人余の若き女性に、実に多くのことを感じとらされた。それは、人類には物的よりも、つまり動物共有の欲望では測れない、もっと豊かな生き方があって当然ではないか、との声なき声に影響され、気を良くしている。
このもっと豊かな生き方があって当然との想いは “ライフスタイル論” という講座も、本邦初(おそらく)で創らせた。今にして思えば“Well Binng”論、であったわけだ、と言えなくもない。
悔しい想いも思い出した。中国はたしか第18次全人代で“五位一体”の仕組を打ち出した。それまでの三位一体(経済、政治、文化)に、新たに “社会” と “生態文明” を加えていた。この『生態文明』に触れて、なぜ第4時代に代えて “生態文明” としておけなかったのかtoto、とても悔しく思ったことを覚えている。
時は今、省資源のわが国は、国を挙げてエコロジカルな文明へとパラダイムを転換すべき時ではないだろうか。ならば未来が見通せそうに思う。
3.“未来が微笑みかける生き方”
門扉の脇で育つクボガキの木を見上げながら、「これから、どうなるんだろう」と不安になった。半分余の実を望さんに収穫してもらえたが、まだたくさん残っている。
この何百個もの実はいずれ、熟してポトポトと下の砂利を敷いた道の上に落ちてつぶれる。放っておくと、人に踏まれて、あるいは車に敷かれてペシャンコにされ、醜くなる。その後では取り除く手間が大変だ。
それよりも何よりも、このカキの実を好む生き物が、今年は小鳥の他に、沢山いたことだ。なぜかマイマイの子どもも、カキの実にたくさんくっ着いて、屋内にも持ち込まれていた。
カキの実について居間に持ち込まれ、羽化した時季外れのチョウもいた。
過日も、見慣れぬ小さな昆虫を妻は見つけて、死んでいたが、持ち込んだ。写真に収めぬわけにはゆかなかった。拡大してみてヨカッタ。老眼の私にも、妻が持ち込んだ訳がよく分かった。小さな羽に、紫色に輝く紋があった。
嫁いできて近視が治った、と妻が自慢し始めた時期があった。庭仕事をするうちに近視メガネがいらなくなった。今や老眼もいらない、と自慢する。こうした虫を踏み殺そうものなら、目ざとく気付いて、妻を悲しませかねない。
それだけに「始めておいてヨカッタ!」と、振り返った習慣がある。砂利道に落ちた熟しガキを、踏み潰される前に、率先して拾い上げておくことだった。車で来る義妹たちも、そうと気づき、必ず拾うようになった。
拾ったカキを、貯めておくプラスチックのバケツを、彼女たちは用意した。
そのバケツが満杯になったのだろう。ある日、義妹は彗生君に捨てさせることにした。私は彗生君に、捨て去るところを尋ねられた。畑仕事の手をとめ、“堆肥の山”の側にある“哲学の穴”へ案内し、カキを捨ててもらった。
もちろん、短大勤め時代に掘ったこの穴に、この大げさな名称を与えたわけも説明した。
畑仕事に戻っていると義妹が、息咳って飛んできた。「カキは、哲学の穴に捨てるのですか」と、問い質す。どうやら彼女は、彗生君に“堆肥の山”に捨てさせようとしたようだ。だが、そのあり場をうまく説明できないから、私に訪ねさせたのだろう。
義妹は「カキは、堆肥の山に捨てるもの」と私は教えられました、と言わんばかりに、いつになく膨れた顔をしていた。
「何年ここで働いているんだ」と、怒鳴ってしまった。ここで働く第1番目の報酬に、リーダーとなった今も、彼女は気付いていないのではないか。「バカ者」と、甘えた叫びを発していたかもしれない。今は亡き彼女の夫は、懸命な人であっただけに残念であった。
彼は、その妻(義妹は、アイトワの人形教室で妻のアシスタントをしていた)から聞いたようで、わが家の生き方に学び、実践に移した人だ。車で小1時間の農村地帯で、農家の家屋敷を買い求め、農的生活がかなうようにした。ほどなく夭逝した。そこは今、陶芸家となった末娘夫婦に、義妹は住わせており、2つ構えた轆轤で、趣味の陶芸にも末娘と勤しみたくて、野良仕事に通う生活を送っている。それだけに、チョット大げさな名前の “哲学の穴” の何たるかを悟っておいてほしかった。
せめてカキを、その果肉、種(これは別の命)、そして皮などに分けて、できることならそれぞれの身になって、それぞれの好ましき未来を考えてもらいたかった。時代は既に代わっている。半歩譲って、代わらんとしていることに、気づいていてほしかった。この気持ちが、親しさが油断させ、「バカ者」に、なっていたかもしれない。
「分りました」と言わんばかりの表情で、彼女は去ろうとした。呼び止めず、その背を追いながら、宿題を出さなかったことを反省した。多神教文化が色濃く残っている時空、日本で暮らす私たちの得手とすべき思考方法を、大事にすべきではないか。
皮は“堆肥の山で”有機肥料にできる。他方、種を含んでいても有機肥料はできるが、畑に投入されたら、その種はどうなろうとするか、考えてほしかった。
かといって、時給生活者が手作業でカキから種を取り出して、果肉や皮を農業用有機肥料にしていたのでは、その事業は、負けるだろう。工業文明が敷かせた現下の経済システムの下では、そんなことをしたいたら、経営面ですぐにつぶされてしまう。いわばその勢いが自然を破壊し、経済を反映させている。挙句の果てはトランプを増長させるようになった。
だから悩んだ末に、種も肥料として生かすことができる穴を掘って “哲学の(フィロソフィ=知を愛する)穴” との呼び方を与えたのだ。いずれは樹木(この穴は、一杯になったら、土を被せて埋める)の肥料になるだろう。
この想いが、現下の工業文明下の経済システムに磨り潰されず、喜々とした時を過ごさせる生き方(Well being)、未来が微笑みかける生き方に誘う源泉ではないだろうか。
4.6人で庭仕事に取り組めた1日から
師走の庭仕事や畑仕事では、昇さんと樹木や垣根などの剪定に取り組んだり、古い畝を耕し直して、冬野菜を育てたり、あるいはエンジンブロワーなどで落ち葉掃除に当たったりすることで始まった。除草や落ち葉かきはフミちゃんと妻に。加えて彗生君にも、庭仕事でずいぶん助けられ、年末近くに至った。
その後、常ならぬ楽しい1日、旧知の2人を迎え、6人で庭掃除に取り組める日に恵まれた。弾みがついて、なんとか庭は無事に元旦を迎えられそうな様相になった。
それは28日のことで、昇さんとフミちゃんを迎える日でもあった。久しぶりに石神夫妻に訪ねてもらえることになった。6人で、ブランコ苔庭とパーキング場一帯の落葉掃除に、一気呵成に取り組んだ。
この日も、ブランコ苔庭の落ち葉掃除には、チョット常ならぬ神経を払った。この苔庭の前には“アイトワの道”と名付けた(アイトワが誕生した時からそう呼びかえた)舗装道路が走って“”いる。
この道路と苔庭は、カシの生け垣で仕切られており、この生け垣の間には獣害フェンスやネットを張り巡らせている。
しかもこの生け垣は、喫茶店のピクチャーウインドーから望む景色にとって、大事な背景の一部をなしている。
この時期は、この生け垣の下にモミジなどの落ち葉が一杯溜まっている。だから掃除は、強力なエンジンブロアーで一旦落ち葉を道路に噴出さないと、勝手が悪い。問題は、噴き出した落ち葉を即座に掃除して、取り去らないと、公共の場に落ち葉を捨て去る横着者かのように早とちりする人がいないとも限らない。
ちなみに、少しケチな話をここで持ち出したい。アイトワの道と名づけた道は公道に見えて、実は半分以上がわが家の土地である。京都にはこうした、手落ちのような事例がたくさんあるようだ。
気の狭いことは言いたくないが、わが家では父がこの公道のごとき土地の半分強を一緒に買い求めてから80余年来、わが家の場合は公道も私有物として固定資産税や相続税を払い続けるなどして維持して来た。それは、一帯の景観を護る上で、何らかの切り札に活かせるかも、との期待も込めている。もちろん私的な争いごとで、決め手として生かしたいこともあった。だが、それは私淑する長老などと相談のうえ、あえて控えて来た。
幸い、京都には身近な公道を市民が掃除をする文化が残っている。だから、2重の意味で、わが家の前のこの道の(舗装や下水道の敷設などは市が受け持っているので)掃除には、胸を張って取り組みもしてきた。
この日は、いつもより多くの道行く人に「ご苦労様です」などと、感謝された。
これまでのこの “暮れの落ち葉の大掃除”では、この道で妻が待ち受けて、その真っ最中を演じて来たものだ。思えば、昨年の暮れは、昇さんと2人で真っ最中を演じた。
この暮れは、6人がかりの連係プレイを構想し、石神夫人と私がこの作業に取り組み、集めた落ち葉は、2人の男手に運び去ってもらうことになった。
生け垣の剪定をしたり、その下に生えたササを刈り取ったりは、慣れた昇さんと私が。窪みに溜まった落葉はフミちゃんと妻が、などと連携プレイを見事に演じた。それは、石神夫妻がお揃いのガーデナー装束で参加してくださったおかげも大だろう。
昼食の準備も、楽しかった。
食事前の記念写真は、とりわけ笑みにあふれた。
トウガンでも嬉しいことがあった。今年は遅ればせの自然生えが、たった1つしか実を着けなかった。その1つを取り置いてあった。かなりの部分が、既に寒さでいたみかけていたようだ。それだけにこの日が、文字撮りに有難いことになった。トウガン汁を愛でる最初で最後の日になったからだ。
午後は連係プレイに一層磨きがかかった。パーキング場の脇には、片並木のモミジが並ぶ底地帯があり、そこに1年分の落ち葉が溜まっている。それも取り除き、笹なども刈り取られ、すっかりきれいになった。
後は、“ベルト地”と名付けた (イノシシスロープに沿って庭の南面を走る幅4mほどの)帯地の、平地部分に積んだモミジの落葉を、レーキで広げてマルチングすればよいだけになった。
有終の美にも恵まれた。石神夫妻の手土産の1つは『園芸作業療法ガイドブック』であったからだ。この夫妻は、園芸作業療法の草分け的存在だし、自ら実践して、心身だけでなく社会的にも健康な生き方を築いてみせている権威者でもあるからだ。
この事業を始めるについて相談を受けた当時は、多くの人は、とりわけこの道の理論的な専門家は「非常識」と見ていた。鎌や鍬を振り回しうる危険性を危惧してのことだった。私は逆に、大いに勧めた。それは、私自身が溜まったストレスを週末ごとの野良仕事で解消されたようになり、心身共に健康を取り戻す体験をしていたからだ。
もちろんその目で、調べもした。脱サラ生活に入っていた石神夫妻に、大いに勇気づけた。こうした、何度も何度も訪ねてもらい、熱く語らった4半世紀近く昔を思い出した。この2人こそ “次代を見つめている人” に違いない、とお見受けした。
このガイドブックも右肩に “園芸 × 作業が Well-beingな未来を創る”と謳っているではないか。未来が微笑みかける生き方を、こうした幸せを広めてほしい。
翌29日は、この冬最初の強い降霜で明けた。
5日前に抜いて萎れかけていた野草は、息を吹き返したように観えた。
加温していない温室だが、中の植物は喜んでいることだろう。
この日の“生ごみ容器”の洗浄は、冷たくて、チョット辛かった。それだけに、朝食時の妻との対話がはずんだ。
それは多分に、朝のマッサージの時に、妻のほほを冷たい両の掌で挟み、寒がりの妻を驚かせた。それが良き予告編になっていたらしい。
この日、昇さんは終日、彗生君には午後に、駆けつけてもらえた。庭や月見台の覆いなどの落葉掃除だけでなく、樋の掃除、オオモクゲンジの剪定、腐葉土小屋の整備、あるいは母屋の内庭の掃除などに当たってもらえた。
晩夏に種房がピンク色になるオオモクゲンジは、大木になる。この庭では何とか小さく仕立てたい。この度も、昇さんにこの剪定を引き受けてもらった。
それは、この木の側で育つホオとキハダの木が参考だ。共に大木になる木だが、長年かけて我流で小ぶりに育てる実験を重ねて来た。
オオモクゲンジの春に咲く黄色い花はミツバチの蜜源だろう。晩夏の種房は、妻が生け花にも活かす。秋に黄変する葉も美しい。
最も心打たれた作業は、昇さんの腐葉土小屋の整備の仕方であった。何年振りかでカブトムシがこの小屋にも戻ってきていたからだ。それは10日ほど前に、昨年の落葉の運び込んだ区画の、残り少ない腐葉土を取り出して、畑に鋤き込んでもらった昇さんに教えられた。
隣の区画は、今年運び込んできた落ち葉で満杯になっていた。
そこで、昨年度の区画を空にして、これからの落葉掃除で出る落ち葉を積み込めるようにしたい、と昇さんに頼んだ。ただし、一旦空にする方の(腐葉土の中で棲まう)カブトムシの幼虫が「喜ぶように」工夫して、取り組んでほしい、との条件を付けた。その仕方は、昇さんの好きにまかせた。
その出来栄えに私は感動した。まず、30匹ほどの幼虫が棲まう腐葉土を、庭の数か所で自然腐食させている落葉の山の1つに移した、という。
次いで、“残る幼虫が棲んでいる腐葉土”を、隣の区画に移したわけだが、その手間暇のかかるやり方 (その下部で腐食が進んだ部分に移した) に脱帽だった。
残りの幼虫はどのくらいの数だろうか、と問うた。
「100匹はいそう」と感じたらしい。
そこで、ケイタイのネットで、1匹のメスのカブトムシが産む、卵の数を調べてもらった。それは、吸う蜜の種類と量で差が出るようで、30個から300個ぐらいらしい。ならばまだ、1匹のメスが戻っていただけかもしれない。
蚊の場合は、人間の血を腹いっぱいで300個ほど。犬の血で200個ほど、と聞いたことがある。
かくして今年度の予定していた庭仕事はあらかた終わった。
ちなみに、トウガンのこと。今年の自然生えは1本だった。実は1つしかならなかった。その種を、妻は取り残してはいなかった。これまで通りに生ごみとして堆肥の山に放り込んだ。これは有終の美にはなってほしくない。
5.しめなわの “作り収め”(!?!)と,バトンタッチ
ついに来る時が来た、と想った。半世紀来恒例の“お節料理”づくりを、妻が家庭医の待合室で「今年は・・・」と、訊ねた折のことだ。今年は、ニンジンやユリネはもとより、種まきが遅れダイコンまで、買い求めなければならない年であったからだ。
妻の返事は「お正月は1週案ほど、どこかへ出かけましょうか」と、しんどそうだった。
とたんに、それまで浮かれた気分が吹っ飛び、“注連縄づくり”のことまで気になり始めた。
浮かれた気分は、「アメリカの長女です」とヒトサマに紹介することがあるリズさんから、この度も届いた季節の知らを話題にしたオカゲだった。私たち夫婦が、初めて1年間のホームステイを受け入れ、日本のお父さん、お母さんになった人だ。
中国と韓国から養女を迎え入れ、幸せな家庭を築いている。
“注連縄づくり”は、60年以上も毎年、暮れの30日に実施してきた行事である。妻も嫁いできてから半世紀余も付き合ってきた。もちろんリズさんも参加したことがある。
一時は10軒20余名の仲間と庭で行うまでの催しになった。裏山でのウラジロ取りに始まり、1日がかりのごときこの催しを、妻も楽し気に昼食の用意などに当たり、実施してきた。今年も、その日が近づいていたし、既に稲わらの用意もしてあった。
まず、これがなぜ、としんどくなったのか、と一昔前の事例を振り返った。当時の主要な仲間と相談し、解散している。
にもかかわらず、翌年の秋に、前年通りに夏野菜の根元に敷く稲わらを頂けた。その見事なわらに触れて、わが家の分だけでも一人で造ろう、と当初のごとくに準備したくなった。
そんなある日のことだった。親しくして頂いている厭離庵のご住職と、注連縄が話題になり、ご一家と一緒に取り組めることになった。石油ストーブを焚いた風除室で、こじんまりと始まったが、2人のお子さんの自由闊達な想像力に目を見張った。
新たな意義に気づかされた。妻ともども暮れの歳時記のごとくに位置付けた。子どもたちは「孝之さん」と妻に倣って呼んでくれた。ことのほか私は嬉しくなった。その後、3男に恵まれ、冬青(そよご)と名付けられたご一家とのこの催しは、さらなる魅力にあふれるようになった。
次いで思い出したことがある。妻が昼に、恒例の “いなり寿司” を用意することを忘れる事態が生じた時のことだ。安倍川餅だけの催しになった。当事はそれを妻の凡ミスに過ぎない、と思っていた。まさかあの頃から、と心配が始まった。
恐るおそる、「注連縄づくりが近づいたネ」と、声にした。
「今年が、最後になりそうネ」が、返事だった。
体力はもとより、気力がわかなくなってしまったようだ。
買い求めてあった稲わらにまず想いを馳せた。わら束をもらっていた人から、「機械化が進み、」との理由で、コンバインで細断した稲わらともみ殻しかもらえなくなったからだ。
取り寄せた稲わらは、無農薬との表示であった。だが、これまでの酒米の稲わらに比し、見劣りがした。
次いで、厭離庵から喪中のハガキが届いた。「どうしたものか」とまた思案した。「今年で最後になりそう」だけは、ご連絡させていただくことにした。
一家で相談されたうえで、後日返ってきた返答は、最後の注連縄づくりならば、一家で参加したい、だった。有難く受けとめた。
とはいえ妻は、先ほど仕舞った品ならまだしも、今しがた聞いたことも、買った品も、あるいは聞いた話さえも、忘れかねない状況だ。安倍川餅の準備さえしんどそうであった。
彼女はひとの役に立ちたい質だから、「立てないかもしれない」との心配が、不安の元となり、逃げ出したくさせるようだ。
28日、石神さんたちを見送った後、ユーティリティの入り口の前で “置き配” を見かけた。発送人は見知らぬ姓だが、名には感じるものがあった。
その品が、ウーロン茶だと分った時に、妻は「陳さんじゃない」と、私がヒトサマに「台湾の息子だ」と紹介することがある男性の名をあげた。
ケイタイをとり、送り主が記した電話番号を押した。聞きなれた陳さんの声が返ってきた。「この前は手ぶらで訪ねたから」「息子に送らせた」と分った。2つケイタイを持っているようだ。
29日に伴さんから電話があった。息子の「清太が東京から戻ってきた。明日は終日お訪ねし、何なりと」手伝いたい、と言ってもらえたらしい。事情を伝え、午後から訪ねてもらうことにした。催しが終わっていなければ、落ち葉掃除でもして待ってもらえることになった。この日は翌日に備え、早く寝た。
当日は10時に、一家は冬青君をはじめ五人はおみえになった。(そよご)と名付けられた。場は朝から加温も始めてあった。
いつものように、槌で打つ稲わら揃えから始まった。ほどなく妻も顔を出し“餅搗き器”のスイッチを入れる時間を訊ねた。安倍川餅のきな粉とおろし大根の用意は、朝のうちに、妻に代わって私が容易してあった。大根は、長男の実生君におろしてもらった。
冬青(そよご)君は、私に倣って靴下を脱ぎ、稲わらをない始めた。
妻は一昔前に、次男の慧桃(えとう)君に教えたように、縄をなう要領を冬青君に教えた。かくして、これまで通りに注連縄作りが始まった。
だがすぐに、これまでとは異なる展開となった。母親の咲子さんは、わらで作った亀の写真をケイタイで見せて下さった。亀は今や私の、唯一のコレクションだ、と喜んだ。ご住職の玄果さんは、カメラを取り出し、私の手元などを撮り始めておられた。長男の実生君は、写真の亀にならい、稲わらを編み始め、咲子さんは助言をそえ始められた。
妻は、このような息子を持つ身になっていたら、と言わんばかりに身を乗り出した。子どもを授かっておけばヨカッタかも、と私は反省した。
この母子の姿を、私は頼もし気に写真に収めたわけだ。
ほどなく亀が出来上がった。その四肢の整え方や、背にふくらみの与え方を、妻は人形作りの要領で助言し始めた。
出来上がった亀を、実生君に「置いて帰ってもよい」と、言ってもらえた。
玄果さんに「この習わしを絶えさせたくない、引き継がせてもらいたい」といったような言葉をいただいた。
60余年の間、私が願い続けていたことに気付かせてもらえたような気持になった。
玄果さんには、この後、庭掃除の助成を、とも言っていただけた。だが、ご辞退した。清太君が待ってくれているに違いない。
皆さんを見送りに出ると、清太君の気配がした。落ち葉掃除をしながら待っていたようだ。
清太君にはまず、この冬3度目の焚火で、囲炉裏場の剪定くずを半ば片付けてもらった。この間に私は、第1次スナップエンドウの霜よけカバーの背丈を高くした。
次いで、高所恐怖症だと知っていながら、私には最早危なくなった作業や、「きつい!」と、感じるようになった石運びなどを肩代わりしてもらった。
竹の収納は、蔓性野菜などの支柱に数年は間は使い回すためだ。後は燃料にする。プラスチックシートは、破れるまで使いまわしたい。石は新春の課題に用いる。
妻は、ハッピーの散歩を代わってもらい、残っているカキをとらせて、持って帰らせた。
かつて妻は、幼い清太君の「味覚が抜群!」と見たことがった。だから、私だけでなく、府立農業高校の見学に妻も付き添った。来春は、東京農大の3年生になる。野菜を学び、研究する方面を選んだらしい。
見送った後、「十三夜かも」と思いながら、妻と月を見比べた。これをもって2025年の庭仕事は終わった。
リズさんの幸せそうな写真に始まり、陳さんに貰ったウーロン茶、実生君が造った亀に加え、清太君が手土産のダイコンに恵まれた。想えば、あの時の願いがかなったような人生ではないか。胸が膨らんだ。
あの時とは、再婚間なしに人生設計を、改まって妻と、相談した時のことだ。
6.その他
1、エンドウ豆の生育に力を割いた年に。昨期は失敗したエンドウ豆の栽培に、今期は(2026年初夏の収穫を目指し)力を注ぐことにした。まず、第1次のスナップエンドウを早生として、ポットでの苗づくりから手をつけた。次いで第2次スナップのタネを直播。加えて、スナップエンドウの新品種の(昇さんが野菜を定期購入する農家からもらった)ポット苗を植えた。
この時点で、作付けがチョット遅れたツタンカーメンのタネを、急ぎ屋内で水に浸けて発芽させ、畝に下した。
これで、エンドウ豆の3種4本の畝ができた。
12月上旬時点では、霜や雪よけの三角屋根が3つと、種を蒔く時期が遅れたツタンカーメン(北側から撮影したこの写真では手前)はまだトンネル栽培のまま育っている。
その後、12月3日から除草に励み、灰を追肥して霜や雪よけのカバーを被せ直し、成長を期待した。
30日には、蔓が順調に伸びて、第1次スナップエンドウに相応しく成長していたので、三角屋根を高くすることにした。写真は左から、12月30日15時、同20分、そして同40分の時点で作業は完了。ほどなく、ツタンカーメンの蔓も順調に育ち、三角屋根に替えている。
かくして大晦日時点では、4畝はいずれもが三角屋根になっていた(南側から撮影)。
この3種4畝に加えて、できれば、第3次スナップと、第2次のツタンカーメンに挑戦して、3種6畝にすることを夢見ている。これらは、種薪時期と、霜や雪から守る工夫をすることで、収穫期を延ばそうとしている。無農薬有機栽培の弱点の穴埋めだ。この収穫時期は、夏虫が野菜を盛んに蝕むころで、野菜不足になりかねないが、エンドウはなぜか蝕まれ蝕まれにくい。
この歳になって、なぜか死ぬまでに、エンドウ豆の力や性格などに加え、この畑との相性にも、もう一歩近づいておきたくなった。これも、妻の異変のオカゲだ。妻にも往年の好奇心をとり戻してもらいたい。
問題は、連作障害のこと。こうした試みは、それが心配で、この程度の広さの畑では、2度と挑みることができそうにないことだ。
2、妻は、あの頃から始まっていたのか。今年はヤーコンの栽培にも、チョット力を割いた。思えば、ここ何年かは、夏場の庭仕事での水補給は Pur-Eau で済ませていた。それまでは、ヤカン一杯のヤーコン茶を毎朝、妻が煮て、冷蔵庫で冷やしていた。
ヤーコンは、別名アンデスポテトだが、妻が嫁いできて間なしから育て始めたように記憶する。一時は、とても力を入れた。ジャガイモなどと違って、種芋が不要で、出来たイモはすべて食用にできる。その上に、葉と柔らかい軸は、茶葉に活かせるからだ。
翌年度の栽培は、根元にできる“瘤(こぶ)”のようなもの(“無性芽”と呼ぶ)が、いわば種芋になる。ちんみにヤーコンは、降霜が遅れると花を咲かせ、アンデスに想いを馳せたくさせ、ロマンチックな気分にもしてくれる。
ヤーコンを知るまでの夏場の飲料水は、冷やした麦茶だった。ヤーコン茶はビールのような色だし、苦みもあって、さっぱりした味がとてもおいしい。新婚時から、夏場は冷やした麦茶を用意していた妻が、ヤーコン茶を知っから、直ちに麦茶を止め、一手間かかるヤーコン茶に切り替えていた。
ヤーコンの育成から、この茶葉作りまでは私が担当する。その茶葉を妻は保存して、翌夏に取り出して毎朝使う分だけサット焙じて、煎じ出していた。それがいつしか途絶えていたわけだ。それはどうしてか、と気になった。
想えば、晩夏のこと。ヤーコンの葉を収穫する時期に、「これまでのがたくさん残っています」との妻に告げられていた。スキップした。その後、妻からヤーコンの「茶葉が底をついた」と教えられた記憶がない。
そのころに、Pur-Eau をつくる機器を導入していたのではないか。Pur-Eauを勝手に私がペットボトルに詰め、畑に出るようになっていた。だからヤーコン茶を失念したに違いない。ヒョッとすればそのころから妻も・・・、と考えた。その頃に、そうと「気付いておれば・・・」と、悔やみ始めたが、止めた。Pur-Eau は真夏の炎天下に置き忘れても、幾日たっても変質することがない。だからだろう、と思い直した。
残暑が長引いた今年だが、逆に冷え込みは早かった。その寒さに負けていないヤーコンの葉を、急ぎ収穫し、洗って干した。第2次を、と思う間もなく、畑の葉は急な冷え込みで傷んでしまった。萎んだヤーコンは妻が刈り取り、昇さんに堆肥の山の側まで運んでもらい、私が積み上げた。
3、徳重文子さんがお元気、を確認。久しぶりに徳重さんから段ボールで、贈り物が届いた。礼の電話を入れた。「私が生きている限り、送るように」と言ってある、とおっしゃった。実は、3回ばかり贈り物が途絶えていた。その間に、ケーキを送ったが、なしのつぶてだったので、交信は途絶えていた。
この日、その後、文子さんから4度も電話があった。97歳だと聴いた。野菜は、文子さんが育てた有機無農薬野菜で、顧客に送る荷物の隙間を埋めている、とかつて聞いていた。今はどうか、聞かなかった。文子さんと私の縁は、今もパッケージに記されていた。
文子さんの長寿は、文子さんの性格と信念、そしてこの梅肉エキスが大いに関係している、と私は睨んでいろ。性格は、言葉と考えていることが一致している。正しいと信じたことは、間違いと分るまで、変えずに実践する。だから、知識欲が旺盛だし、その意欲を前向きに積極的に使われる。この日の4度の電話は、この性格が今も健在、を語っていた。
長寿でお元気の源泉は、この性格がいざなったこのウメ作りと、梅肉エキスなど梅製品だろう。
後継者は、実に真面目なお孫さんだ。祖母の性質や性格が編み上げた伝統や稀有な品質などを引き継いでいてほしい。さもなければ、悔やみを残しかねない。なぜなら、商標が、元の “紅梅園” から “徳重紅梅園” に替わっていたりしたからだ。欲のない祖母と、実直な孫は更新手続きを怠り、その隙間を“トンビにアブラゲ”のごとくに、フリーライドされたのではないか。
デザイン料などを頂き、商標も私が登録して、管理しておくべきではなかったか。その方が、むしろ親切であったのではないか。当時の親切のつもりが、あだでなかったように、と切に願った。こうした製品を、この世から消し去りたくない。
4、焼き栗に興味を抱き、反省した。かつてアリコさんに紹介された人は、栗のエキスパートだった。後日、この人が生み出す焼き栗の魅力に取りつかれる機会も得た。
いつしか、このエキスパートが栗を焼きあげる独特の技と、アリコさんの即興詩人のごとき演奏力の、斬新なコラボを私は夢見た。焼き上がったクリと、赤ワインのハーモニー。クリが焼き上がる光景と香りが、アリコさんのピアノが奏でる即興の旋律とセッションする調和。こうした五感を揺るがす時空で、参加者が、時には揃って耳を澄まし、時にはめいめいの歓喜を露にする情景を私は夢見た。その現実化が、アイトワのテラスで図れないものか。恒例の催しにできないか。
その現実化を、エキスパートの代理人とアリコさんを交え、デイスカスし、実施となった。焼き栗の香り、ピアノの旋律、そして参加者の気配が、道行く人を惹きつけてやまないだろう、と期待した。
ところが、実施当日・13日の土曜日のこと、どこで計画が狂ったのか、9時にたどり着かれた栗のエキスパートは、門扉の前で店を開かれていた。栗を焼きあげる独特の技は、往来でないと人を惹きつけられない、とおしゃる。
喫茶店のスタッフが、10時の開店に備え、三々五々集い、意見を述べ始めた。「この地域には相応しくない催し」との印象を振りまかないか、との心配だった。私には、大いなる言い分があった。だが、見た目だけで言えば、正論だ。やむなく、パーキングを挟んで反対側にある南門に移動してもらった。ならば、臨時の場所貸しをしたかのような印象で済ませそう、とスタッフも安堵した。
定期化を期待した試みであったから、アリコさんはボランティアでの演奏であった。結果、エキスパートによれば、よそで店を出した場合に比し、売り上げは下回ったらしい。とはいえ、「場所代は?」と言っていただけた。もちろん断った。
それよりも何よりも、3者のコラボに期待したハーモニーをかもし出せなかったのが残念だった。
この日は、アイトワのパーキング場は、最高のモミジの絨毯でこの催しを迎え入れた。
加えて、私にとっては光栄この上ない来客をお迎えする日でもあった。この来客はイタリヤに精通し、今もイタリヤの名誉ある役割を担っていらっしゃる。だから、この焼き栗とグラスワインをとても喜んでいただけた。しかも、とても光栄な話を持ち掛けて頂けた。
4時で店を閉め、皆さんをお見送りした後、第2次のスナップエンドウの除草にも時間を割き、心のゆとりを取り戻した。
翌日から、悲喜こもごもの多彩な日々を過ごし、6日目の朝を迎えた。この間ズーッと胸に、大いなる言い分など、何かがつかえたような心境だった。だが、おこがましいことだが、そのつかえが一気に雲散霧消するような四文字熟語に巡り合えた。
19日付け天声人語で、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子さんが、所長室に掲げておられる扁額も紹介していた。老子の言葉「大象無形」のオカゲであった。真に偉大なものは見える形を持たない、との意味だった。
勝手に私は、本当に大事なことは眼には見えにくい。見かけに惑わされて、本質を見誤るな。あるいは、「峻別する眼を置き忘れていないか」などと諭されたような心境になった。いかにリベンジし、五感の時空での、参加者めいめいの歓喜を感受させていただくか。
5、歯を失くした疑似体験。この度、部分入れ歯を留める差し歯が、上下共に1本ずつポロリと外れる事態に、私は突如に陥れられた。そこで初めて、わが歯は上下のかみ合わせが、ほぼなくなってしまうような状態であったことを知った。
在りし日の、金さん銀さんのように歯茎で嚙もうにも、残っている歯が逆に邪魔になる。歯は大切にしなければ、とつくづく思い知らされた。
80歳時点での私は、差し歯を含めてだが、20本残っていた。8020運動(満80歳で20本以上の歯を残そうとする)で言えば、かろうじて合格、と喜んだ。それだけに、上下左右がアンバランスであったという、とても悲しくて悔しい体験ができた。ちなみに、1999年の第八回歯科疾患実態調査では、80歳での残存歯数は約8本で、20本以上の歯が残っていた人は約15%。2005年の第九回では、それが約10本と、80-84歳で20本以上が21.1%になっている。
6、冬子のシイタケが出始めた。確か、今年作ったように思うホダギに、冬子(ふゆご)のシイタケが出ていた。。向こう数年は、収穫したてのシイタケにあり付けそうだ。
7、縁あった人たちと多々触れえた。元アイトワ塾生の三上さんが、孫の誕生とユズの大豊作を報告がてらに来てくださった。途中で休塾した伴さんにも訪ねてもらえ、近況を伝え合った。その後、伴さんに所用を頼んで、伴さんの車で外出中に、季節の挨拶で柴山さんと後藤さんが訪ねてくださった。
仲人をさせてもらえたよしみで、新婚の息子さんをともなって、親子で迎える喜びに、また恵まれた。ひ孫を抱く心境に早くならせてほしいなぁ、などに多々恵まれた。
8、洋平さんが素敵な人を、松山からご案内。記念写真は、茶を運んだ妻に撮ってもらった。「洋平さんの奥さんは、ご存知かしら」と、あろうことか妻がそっとつぶやいた。ドキンとした。思うところがあった。
素敵な人と出会うと、老若男女を問わず、私は親しくなりたい。その素敵な相手が、老人や子ども、あるいは女性だと、私の方が上回っているところ、例えば腕力などを活かし、チカラを割き、なんとか役に立ちたくなる。それは、大勢の人に、若かった頃の私が加勢していただいたように、応援したくなる質にしてもらえたオカゲだろう。
それが、誤解を生み、チョット臆病になったことを思い出した。それも見かけが関っていた。馬齢を重ねるに従って、気兼ねなくハグもできるようになった。だが妻が、まだこのような目で観る人であったのか、とビックリした。だから、洋平さんに「この写真、公開してもよいか」と、念を押した。かえって変な顔を返えされた。それにしても残念だった。夢を持った人と感じたからだ。だが同郷の岡田さんが予定より早くご到着。じっくりと語らえなかった。
9、映画会。11月の映画会に刺激され、岡田さんにご無理願った。この日も喫茶店が営業中だった。和室でアメリカ製の2本立てになった。1本目は『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』で、死刑廃止論者の大学教授が同僚の女性の協力を得て、共に死を決して冤罪が生じ得る可能性を証明し、死刑廃止の必要性を訴えた内容で、最後のどんでん返しが見事だった。
この大学教授は、レイプ事件で大学を追われた後、元同僚の女性を殺害した罪で死刑を宣告される。この死刑囚に指名された女性雑誌記者は、死刑執行3日前に彼のインタビューを行う。彼は驚くべき証言を語り始めた。彼女は彼の無罪を確信する。だが・・・。ラストに明かされる衝撃の事実。死刑制度をテーマにした上質のサスペンスドラマであった。
なぜか私は、サムライニッポンの切腹の心意気、死に甲斐を連想した。欧米人にもこの美意識がついに・・・、と感じた。
2本目は、NASAを舞台にして人種差別問題を取り上げており、公民権運動が成就した確かなる事例の紹介ドラマ『ドリーム』だった。
1960年代末期のこと。私のアメリカ出張は、女性解放運動や公民権運動など様々な運動が過熱していた時期から始まった。ヒッピーのねぐらからNY支店に通う機会にも恵まれた。その渦中で、なぜか私は幸せをつかむ1つの秘訣を学びとったような心境になった。それは、社会の底辺で誠実に苦悩する人たちが、その才能や能力をのびのびと真正面から発揮できる環境を整えること。権力者は、それがために権力を行使することが役割だ、と感じとったこと、など。だから、『ドリーム』では胸がすくような思いがした。
鑑賞後の茶話も爽快であった。
10、お多福豆を初めて育てる。昇さんに苗をもらったのを幸いに、ソラマメを育てることになった。わけあって、80年来の夢がかなったような気がする。
11、干し芋づくりに、久しぶりに取り組んだ。小学1年生の時に、母に学んだサツマイモの保存法を思い出した。まず母が取り組んだのは、収穫時に穴を掘って土室をつくり、生芋を埋めた。次いで寒風が吹きだした頃に、残っていたイモを蒸して、包丁で薄く切り、寒風の下で干した。この干し芋に、この度挑戦した。
干し始めて8日目の28日のこと。ハッピーに教わった。それは、乾燥具合を確かめようとした震度で、この下で暮らすハッピーの目の前に、縮んだイモがポトリと落ちた。私が伸ばした手よりも早く、ハッピーがかぶりつき、次いで伸ばした私の手に、ハッピーは噛みつこうとした。ハッピーにすれば、天から落ちて来た獲物を奪い合おうとしたのだろう。ハッピーが時とs々見せる本能だった。
12、ガスオーブンの新調に立ち合った。
13、妻の剥離骨折は4カ月かかったが完治。この病院の待合ロビーには廖承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー)が筆を揮った扁額・周恩来の『雨中嵐山』がある。廖氏は、日本生まれの日本育ちで、知日家だ。1962年(私が社会人になった年)に、廖承志と高碕達之助は「中日長期総合貿易覚書」に調印している。このLT貿易協定によって日中は、細々とした民間友好貿易から半官半民のLT貿易へと拡大した。
嵐山(わが家から近い亀山公園)には、日本留学時の周恩来が失意のうちに綴ったという詩「雨中嵐山」を刻んだ石碑がある。
かつて私は再婚し、迷い(工業社会の誘惑)から解放され、生きる理念を見定めて再出発した、後年この石碑に触れ、なぜか “一点光明” の4文字を脳裏に焼け付けた。その後、急病で倒れた母を内田病院に運び込み、この “一点光明” に眼を奪われた。同時に石碑の揮毫が周恩来ではなかったことを知った。
14、報道で、気になったこと。
a、原子力発電について。
地元住民の同意を求めるということは、住民の意向を尊重し始めたこと、とこれまでは喜んでいた。この度は、関連記事を読み進むにつれて、何かが透けて見えて来た。それは、いわゆる“受任論”を地元住民に押しつける地ならしではないか。
わが国は、イギリスのように、資源と観てきたプルトニュームを “廃棄物” と位置付け直し、捨てること(たしか先月の当月記で紹介した)ができるのだろうか。9条を世界平和のテコに活かすには、捨てるのが筋だ。
「せめて」と、思い浮かんだ稼働承諾条件がある。原発電力を使用する都道府県は、この電力使用量に準じて、この電力が生じさせた必然の核廃棄物を、その都度引き取る最終的責任を持つ。この責任は、この電力の需要者と、この電力を運ぶ電線を通させた都道府県などに、事前に応分の負担率を決めておけば転嫁することができる。この2つの条件が満たされない限り、原子力規制委員会は審査を受けつけない。
b、ヒトはいかに育ぐまれて人になるか。SNSのなんたるか、を私は知らない。だが、これら世界の兆しに触れて、チョット心配した。SNSの奴隷を連想し、結果、これは愛の奴隷になる程度の甘いものではなさそうだ、と感じた。
c、賞味期限の奴隷。消費期限ならまだしも、なぜこれがこうした問題になったのか。
私が中学生の頃に、母が倒れて食事作りを代わったことがある。「母さん、カマボコがヌルヌルしている」と不安を告げた。母はポンプの「水を流しながら洗ってご覧。表面がキシキシしてきたら、炊けば食べられる」と助言した。おいしく食べ、誰も腹を下さなかった。母は偉いなぁ、と感じた。短大の教員時代のこと。私は、単身での赴任地では、自分で買った食材で自炊していた。賞味期限切れが近い食材を安く買い、消費期限を推し量って食していた。
こうした事実を自慢たらしく学生にも話した。学生の多くはバイトで、私が通うスーパーのレジに立っていたようだ。いつしか、この「先生は本気や」との噂が流れた。定員割れになった年に、学長の白羽の矢が立った。
学内清掃を学生と教職員で行ったり、宣伝費をカットしたりして、循環型社会が歓迎しそうな学校運営に切り替えた。もちろんこれらの運営方針の発表時(希望する保護者の参加を歓迎)では、学生からはブーイングが生じた。だが、学生に応じてもらえたでけでなく、3年で全学科定員超になった。これらは互いに関連していたように思う。
d、民主主義の国だろうか。近年の自然災害はすべてが間接的に、多くは直接人為的自然破壊が関わっていそうだ。
もちろん私たちはアメリカと同盟関係にある。この同盟は、アメリカが中国などの威嚇から"日本を守る"ことで、つまり“不沈空母”を守り通すことで、戦火がアメリカに及ぼさないようにしたい、とのアメリカの願いをかなえための約束に基づいている。もちろん私たちが選んで議員が決めた約束だ、国民は守らないといけない。だからと言って、日本の若者が、この約束のために命を失うようなことは、私はあってほしくない。憲法9条がある限り、参戦してほしくない。
にもかかわらず、今や日中間には(首相のポロリ発言と、マケンキのせいで)緊張感が張り詰めている。そのさなかに、B52(その昔、大陸間弾道弾の開発が遅れたアメリカが、常時原水爆を抱えて最寄り上空を飛ばしておくために開発した)を、日本の若者が乗った戦闘機が護衛する演習を、つまり火に油をそそるような訓練を、国民のとりわけ若者の意向を聴かずになぜ行ったのか。
「そんなことより」人類共通の敵である環境問題を抑え込む戦いに、米中が手を携えて取り組むように、仕向けるのが憲法9条を持つ唯一の大国・日本の立場ではないだろうか。
同じ敗戦国であるドイツが、EUの盟主のような地位を占め、メルケルをEUのお母さんと呼ばせたやり方が気になる。また、人口が日本の7掛けに満たないドイツが、GDPで日本を抜き返した。こうしたやり方がわが国の安全保障上で活かす方が、好ましいのではないか。
e、加害の視点に立つと、見えるもの。戦時中に私は京都に疎開し、“いじめのターゲット”にされた。岐路に立たされた。被害の視点にとどまるか。加害の視点に立てるのか、だった。幼心ながらの人生の分かれ目だった。なぜなら、いじめっ子が、農家の父親から私以上に、酷くいじめられる光景を見てしまたのだから。
次第に私は、爆弾も「落とされた」と見るか「落とさせた」と視るか、で深く考えるようになった。
わが国は、本土決戦を画策していた。食糧の備蓄だけでなく、国民から鍋や釜、寺から鐘まで収めさせた。だが、敗戦後、多くの庶民は飢えで死線をさまよった。闇市に行けば、食べ物だけでなくなく、なんでもあった。
だが、闇市では時々手入れがあった。その日は決まったように顔を出していない店があった。
今、私たちは岐路に立たされている。人の息がかかったAIを当てにして生きるか、自然の摂理を尊ぶか。いずれAIでも被害者が出るのではないか。AIの奴隷になるのは御免と言いたい。また貧富格差を広げかねない。
この前の戦争では、庶民がいきり立ち、競いあうようにして軍神を讃えあっていた。熱気にあふれていた。その熱気は敗戦で一転した。だが、近年は、開戦時のような雰囲気を感じられて仕方がない。
どうなるのだろうか。真面目になって不真面目なことに巻き込まれると、加害か被害かさえがコンガラガッテしまいそうだ。錯覚や作り笑いの奴隷にはなりたくない。
f、自然の摂理を尊びたい。その昔、檻の中に毒蛇のハブとマングースを入れて、戦わせた高名な学者がいた。マングースが勝った。だから、毒蛇に悩まされていた奄美の島にマングースを放した。マングースは、強い毒蛇は避け、希少なウサギやトリやを狙った。
見えないものが観える眼が欲しい。見えないものを視ようとする心を養いたい。そして見抜けたらなぁ。
ムホウモノを裁きたい世界は、いわばその判断の総責任者として日本の女性に期待を寄せている。
サイエンスも尊いが、ネイチャーにはかなわない。米の『サイエンス』はネイチャーの力に期待を寄せた。英国の『ネイチャー』は、今年のブレークスルーに何を選んだのだろう。
小説家としての鴎外ファンだったが、軍医としていただけなくなった。脚気事件では森鴎外は、陸軍を笠に着たような攻撃をして海軍の軍医・高木兼寛をへきえきさせている。いわばそのビタミン欠乏説を、偏見に基づくデータまで添えて頑として受け入れなかったのだから。この偏見が、万の単位の陸軍兵士をビタミン欠乏で葬ってしまった。
それはともかく、私たちは今、第6次の大量絶滅期に生きているらしい。
15、お節料理造りは中断した。レンコンもキントキ人参も、晴れた日に買い求めた。知らぬ間に妻は、切り身だがボウダラも買い求めていた。これも晴れていた日に、「クワイを忘れていた」と言った。買い物に誘った。小さめの睨み鯛も手に入れた。その後、ニンジンを、ウメに切った。次いで、タケノコを亀に仕立て始めた。だが、ここで妻の様子は曇天になった。
わが家の三が日は、夫婦水入らずが近年の原則。時々日帰りの来客を迎える程度で通してきた。しかし、お節料理はきちんと妻に造ってもらえた。それで2人は数十年、三が日を過ごしてきた。
だが、何年か前から、四国にお住いの妻の元生徒さんを、泊りがけで迎えるようになった。生徒さんおころに、時々泊まっていた人だ。この正月も、3泊4日でお越しになることが決まっていた。
にもかかわらず、妻のお煮しめ造りはとん挫したまま、日一日と過ぎ去った。娘のように妻が扱う女性とはいえ、と心配になった。やむなく新聞広告を頼りにして、打った手がある。
大晦日は最初にして最後になってほし、と願う一日になった。屠蘇酒や年越しそばの準備も、御鏡飾りの昆布も買っていなかった。屠蘇酒は、我流で私が準備。御鏡飾りの昆布は、妻が我流で私が準備。そこで、日から迎える泊りがけの元生徒さんが、妻は気になったようだ。
丁度その時だった。私が打ってあった手の品が届いた。出来合いの3段重ねのお節料理。安堵した妻を見て、私はホットした。さて、どうなりますことやら。
16、ここは天国よ。大晦日も、日暮れ前のこと。「クチナシの実は、あったかしら」と、急に妻が言い出した。チョット迷った末に。「庭に、あるのじゃない」と返してみた。妻の質問は「買ってあったかしら」であったことが分かった。庭で「採ってこよう」と言うと「私が行きます」と出て行った。
ほどなく「ここは天国ョ」と言って戻ってきた。クチナシの実だけでなく、ナンテンの葉やシイタケなどを、テーブルの上に並べた。「ここには、欲しいものが何でもある」とつぶやき、「これ、おサカナに見えるでしょう」と言って、奇妙な腐食しかけた木切れも持ち帰っていた。
「天国だなァ」とおもった。かつて、地方の行政に講演で多々招かれた。あらかたのところで、「なーんもないところですが」と、恐縮された。そのころのことだ。お金さえ出せば、誰にでも売ってくれるモノやコトの奴隷になってはいけない、と感じた。同時に、「よき師走であった」とも感じ入った。
前の日にもらった、息子や孫のような3人からの贈り物を眺めた。
次いで、「元日に飾ろう」と、取り出した代物がある。折り方が添えられた紙の馬であった。かつて顧問をしていた会社からのオリーブオイルに、元社長夫人が手作りで添えてくださった。
夕刻になった。門扉の内側に立てる、シカの進入を邪魔するエキスパンダー式フェンスを張りに出た。帰途、2巡目に入った切り株花壇が目に留まった。ついに、植える花の年間スケジュールを決められず仕舞いになった。
この年・2025年は、下水管事件で明け、異常な猛暑と残暑に苦しみ、冬野菜の作付けが遅れた。一転した冷え込みにおののいた1年であった。日本の破綻が露になる年と睨んできたことも振り返った。
日本の破綻(終わりの始まり)ではなく、私の目には、世界の屋台骨が崩れたような印象を強くした1年であった。それだけに、なぜか、今年も有終の美を飾れたような気分になれたことが嬉しかった。。