目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 “古典の日”の文化基金授賞式に参加
2 20周年記念式典での祝辞
3 八重の五色咲き中国ホウセンカ
4 GUMIさんが主催のインド古典音楽
5「匠の祭典」と、若き世代に3度も希望を抱いた
6その他
この庭の存在意義に関わる問題にぶち当たった
今年の京都は、夏日が全国で一番多かったようで、猛暑でした。9月・長月の一日(日)は、妻は除草に、昇さんは旧“堆肥の山”の解体から、そして私は鉢植えのロッコウサクラソウの土替えからと、それぞれ手を付けることで明けました。10日(火)は、当"月記"先月分をネットに乗せる上でトラブルが生じ、急遽朝一番に、知範さんの世話になりました。その後はフミちゃんを迎え、妻と3人で暑いさなかの庭仕事に励んでいます。
この長月上旬の10日間に、忘れがたいことが6度もあったのです。
まず3日。朝一番のホウレンソウの播種の後で、2つ。フミちゃんと昇さんを巻き込み“古典の日”の文化基金授賞式に参加。帰途、生涯最後になるであろう冷蔵庫の、加齢に配慮した品定めに付き合ってもらったのです。
3度目は6日で、20周年記念日を迎えた茨城県の企業に招かれ、1泊2日で妻と出かけ、祝辞を述べさせてもらえたのです。
次は8日でした。昇さんと終日の庭仕事に当たったのがヨカッタ。午前は、冬野菜の準備に着手し、畑で八重咲きの中国ホウセンカが自生していたことに気づいたことです。午後は、イノシシ坂の土手の手入れに当たった昇さんに、そこで私は1年前に、愛用の植木バサミを見失っており、見つけてもらえたのです。
最後は10日のことでした。若い女性の観光客が、前日の約束通りに『アイトワ12節』などの書物を求め、わざわざ再訪してくださったのです。
他にも、ありがたい書籍の贈り物とか、こんな「賄賂」なら幾つでも、と願う職人技に恵まれています。土替えした鉢植えロッコウサクラソウは、期待通りに根付いており、絶やさずに済みそうだと、とても喜んでいます。
中旬は、望さんと知範さんを迎え、12日後に迫った1泊2日の「匠の祭典」に備え、この収録撮影に関する打ち合わせで明け、20日は日照り続きの畑を嘆きながら、除草と水やりに私は精を出し、妻はフミちゃんと新冷蔵庫のパーテーションの工夫などで暮れています。この間も、3度でしたが、忘れがたいひと時に恵まれたのです。
まず14日(土)。上賀茂神社で、GUMIさんが主催したインド古典音楽を堪能するひと時に、また昇さんとフミちゃんを誘って参加。会場では岡田さんと落合い、夕食まで賑わいました。次いで15日の夕刻と翌日の2回にわけて、小木曽さんがご案内の素敵な2人の男性を迎えたことです。そして3度目は19日のことです。商社時代の同期生仲間とZOOMで、久方ぶりの歓談でした。
他に、第4次のフジの剪定や、ぼつぼつと願っていた2人の来訪者に恵まれて喜んだたり、ゴーヤの棚の1つの解体を迫られて苦労したり、日照り悩まされて水やりで大汗をかいたりと、悲喜こもごもがありました。
下旬は「匠の祭典」だけでなく予期せぬ来訪者に恵まれ、2度も若き世代の人たちに、大いなる夢や希望を抱かされており、胸を膨らませました。辛い思いもしています。それは、23日(月)の夜から25日の夕刻にかけて、久しぶりに寝込んでしまったことです。
他にも、庭では、昇さんとインシシ坂の竹垣の更新に着手。餅トウモロコシなど夏野菜のあとを順次仕立て直し、冬野菜の準備(ホウレン草とアイトワ菜は再播種。白菜とブロッコリーは苗の植え付けなど)。くだんの叢書では、心の整理がやっとつき、参考文献者などに献本。
生活上の雑務では、固定資産税を2重払いし、還付を求めるように通知されるという、先が思いやられることが生じたことです。過日の関電や水道局での事例のごとく、妻が納付し忘れたのでは、と慌てたのです。なんと妻は、自主的に制御できない税金を、自動引き落としにしていたのです。
大問にも気付かされました。今年の夏野菜作りは大失敗で終わり、それがこの庭の存在意義に関わる大問題に気付かせたのです。いわば二者択一を迫られたような気分です。これを機に、妻を気楽な余生に誘うか、私が奮起して、これまで通りに、妻にも地球に寄与する生き方を続けさせるか、の別れ目です。このいずれを選ぶかで、それを私の終活にするか、ライフワークの総仕上げに励むかの分かれ目になりそうです。
~経過詳細~
1.“古典の日”の文化基金授賞式に参加
3日のこと。招かれたのを幸いに、フミちゃんと昇さんを誘って参加した。
行きは、会場が足の便の悪いところだから、昇さんの車に甘え、昼はピクニック気分で。帰途はその足で、水漏れが始まった冷蔵庫を、加齢対策を意識して更新する手配。これをこの日の予定にした。
朝、昇さんと私は、ホウレン草の畝を(2日前に解体した旧“堆肥の山”から、堆肥をとって活かして)作った。妻はフミちゃんの手助けを得て、弁当の準備。やおら出発。
鴨川河畔で昼食。ワケギの球根を活かしたラッキョ風の漬物は、漬けて1週間でピンク色に。これを初使用した。美味。
古典の日推進委員会は16年前の11月1日に発足している。これは源氏物語千年紀に当たる日だった。おもえばこの日から数えて2年余も前から、妻たち人形創りの仲間は、源氏物語をテーマにして教室展の準備にとりかかっていた。
そして当千年紀の年には、会場を移して、古典の日推進委員会のお役にも立とうとした。
今は、NHKの大河ドラマで源氏物語が進行している。わが家の人形工房のショーウィンドーには、久方ぶりに紫式部がお出まし。『古典の日』の15周年記を頂いた。
冷蔵庫の加齢対策とは、日に幾度も世話になる家電ゆえの知恵を、フミちゃんと相談してしぼったこと。野菜庫の引き出しが上段にあって、本体の引き戸を開けると、その床が透明ガラスで、内部が見える。冷凍庫が2つに分かれており、使用頻度別に生かし易い、など。
この日のホウレン草の播種は、発芽せず、失敗に終わっている。高温のせいか、種に問題があったのか、不明。
29日に、種を変えて、まき直した。
2.20周年記念式典での祝辞
これが妻の最後の遠出になるのかもしれない、とおもいながらチョット強引に誘い、茨城県まで連れて行った。それがヨカッタ。10数年来の付き合いだし、その頃からの顔な染みの女性社員が、私が所用で世話ができない間、妻のお守りしてくださったのだから。
この会社との関わり合いができた折に、妻はとてもよき第一印象をえていた。拙著を愛読したとの電話の上での来訪は、2人のお嬢さんも伴った家族連れだった。創業7周年記念の催しに夫婦で呼んでいただくことになった。
これからの社会は、大きさではなく質を、結果ではなく自然の摂理を尊んだプロセス(経過)の良し悪しを誇る組織を、社会は求めるはず。モノがよいものを安く、では地球のつぶし合いになりかねない、などと偉そうなことを私は推奨した。
その後、創業のきっかけを知るに及び、妻の印象はいやました。不運と覚悟がキッカケで、創業に結び付いていたのだから。私たち夫婦の生き方も似たようなところがあった。
この夫婦は、まず娘のアトピーを直したい一心がキッカケであった。サイエンスへの認識が豊かな夫は、一流企業の勤めをやめて、自然の摂理を尊ぶ保湿剤の開発にやっきになった。娘は奇跡的に回復した。それが納豆ローション。
その様子を目の当たりにした幼友だちやその親に請われ、お裾分けが始まる。その輪の広がりが広がりを呼び、創業を促された。
かねてから、ハーブへの関心が旺盛で、その知識に富む夫人と、徒手空拳で雨漏りがひどい屋根の下で起業した。
妻と、最初にお尋ねした時から、このたびは10数年が経過しており、会議室には20年の歴史が紹介されていた。記念パンフレットには、10年ほど前の記念写真が使われていたが、私も並んでいた。
この間に、ハーブガーデンは改装され、オープンガーデンも幾度か催されており、ファンが増えている。
3年前に、私は同好の士に呼びかけて『次の生き方』パート2を著した。この夫人・さちよさんにも参求めておりおり、14人の手になる編著書が誕生した。
この時の表紙のデザインに関して、忘れがたい思い出がある。編集者が用意したデザインに得心出来ないまま、明日が校了という日を向かえた。その日、別件で知範さんが見えた。彼は14人の著者の1人だから、この胸の内を明かすと、彼も私と同じ想いに駆られていた。ならば明朝までに、あなたの「デザインを用意してくれないか」になった。
翌朝、救われたおもで「これで行こう」と叫んだデザインが届けられた。ただちに編集者に「今頃になって、」とばかりにおそるおそる、メールで知らせた。「いいですね」との即答を得た。ただし後刻、元のデザインに関わった人が「ご不満をお持ちだ」とも聞かされている。
デザインを替えたことを妻にも伝えた。表紙に、編集者の意向で、妻が撮った妻の2体の人形の写真を用いていたからだ。元のデザインは、人形の全身を中央に配してあったが、知範さんは大きく引き伸ばし、目も切り取った部分を用いていた。だが妻も、「私の人形集では」ないのだから、「他の方にご迷惑ではないか」と心配していた、といって喜んだ。
記念パーティは賑わった。それは、ご家族連れの参加が多くて、とりわけ幼いお子さんが活気や融和の雰囲気を会場にみなぎらせたからだ。ケイタイを控室にカバンごと置き忘れたのが残念だった。さちよさんが送って下さったスナップ1枚が参加の証になった。
ちなみに、私の挨拶は、いつものごとく堅苦しいものになった。平たく言えば、決して金太郎飴のごとき仲良しクラブにはならず、未来が微笑みかけるような多様性を誇るチームになってほしい。その秘訣は、自然の摂理を尊び、踏み離さないこと、だった。
多様性はとても大切だが、それだけに雑多との峻別が求められる。だから、「プロパティー」という著作権とも訳される言葉を用いた。「各人が各人なりに持って生まれた潜在能力や自由」を尊重し合い、切磋琢磨しうるチームを目指してほしい。そのチームが雑多にならないために、進むべき方向を「自然の摂理の尊重」にしてはいかがか、との訴えだった。
先の表紙のデザインについていえば。今も心残りた1つある。元のデザインの制作者がいかなるご不満をお持ちであったのか。それはいずれの方向を目指していたのか、を伺えず仕舞いになっていることだ。
今では妻は、私以上に自然に溶け込み、いつ死んでも思い残すことはない、といい始めている。
3.八重の五色咲き中国ホウセンカ
その開花時期がはるかに過ぎてしまったから、「ついにこの庭から、消し去ってしまった」と、半ばあきらめていた。その八重咲きの中国ホウセンカを、8日に1本見つけた。遅ればせに、自然生えのトウガンの側で、影にされて花を咲かせていた。
その後、13日に、新たな1本を自然生えのモロヘイヤの陰で見つけ、くまなく畑を探すことになった。計4カ所で、5本の八重咲きの中国ホウセンカが芽生え、花をつけたことが分かった。
開花が異常に遅れたのは、残暑が遅くまで続き、しかも高温であったせいだろう。これまでは、この花の開花期は日照時間(短くなる)が関わっているもの、と観ていた。今年も、一重の中国ホウセンカはこれに従っていたようにおもう。だが、八重の方は、温度変化(低下)が関わっているのかもしれない。
この花のそもそもは、今から40年近く昔の中国旅行にさかのぼる。敦煌まで足を延ばした帰途、この旅の主目的地であった四川省の首都成都で、10粒ほど手に入れた種が元で、わが庭で咲き始めた。翌年の初秋には、期待通りに人形工房棟のテラスも彩るようになった。
この八重咲きも、種を結びにくい。慎重に種取りをして、翌年は畑でも育て、花壇にも移植した。移植は容易で、初秋の庭を彩る主役としてお馴染みになった。
その後、中国ホウセンカが庭でブレークする機会に恵まれた。それは道具学会が2002年の夏に実施したチベット探検がキッカケだった。帰途中国の四川省などを経由したが、それぞれの下町で民具などを調べた。その道すがらで、野草のごとく咲き誇る一重の中国ホウセンカと出くわした。幾種類もの色合いに惹かれ、幾種かの種を幾粒か失敬し、これも私流に消毒し、持ち帰った。
一重は、ばらまいた種のすべてが発芽したようだ。種をたくさん結びもした。
1本のエッセイ(大本山大覚寺・嵯峨御所の華道“嵯峨御流”の機関紙『嵯峨』で)の題材にも生かさせていただいた。その後は、種な取りおいて(八重は除き)まくようなことはせず、勝手に随所にばらまかせてきた。
次の年は、見慣れぬ色合いが現れ、数年もせぬうちに、さまざまなグラデュエーションが、とりわけ紫やピンクで現れた。
八重の方にも変わり種が現れ始めた。
さらに、一重でも帆弁と花弁が濃淡のツートーンカラーが現れた。
毎年、とりわけ一重は、花が盛りのころに、お気に入りの色合いを除き、他は抜き去って堆肥の山に積む作業に追われるまでになった。
昨年は、八重も随分間引いたし、ついに八重も種を採るタイミングを逸してしまった。だが、それだけが原因ではないようにおもう。今年は、一重の発芽も少なかった。
結局、今年の八重は、4カ所の日陰で、計5本しか芽生えなかったことになる。せめて1本でも鉢に移植して、日当たりのよいところで育て、種を丁寧にとるべきであった。
月末時点では、とりわけ八重は惨憺たる状態になっている。1本は枯れて消滅状態。2本は衰退。かろうじて最後に2本並んで咲き始めた八重だけ(ピンク色単色咲き)のみが元気に残っているだけ。手をこまねいていたら、八重は今年限りで、庭から消え去ってしまいそうだ。
それにしても、とおもう。この庭ではさまざまな交配種が誕生したが、それはまるでハチドリのごとき蛾の一種・ホウジャクが主になって媒介を重ねた賜物であった。
この記録をさかのぼれば、とても心惹かれた八重の中国ホウセンカも誕生していた。
とりわけ心惹かれたのは一重でありながら、八重からある遺伝子を引き継いだに違いない変わり種であった。
もちろん、こうした品種を固定化すれば、経済面で潤うかもしれない。だが、私には興味がない。逆に、興味があるのはこれらの変わり種が、潜在的に持ち合わせている可能性こそが、一見では計り知れないそれぞれのプロパティーであり、それを尊び合いたい。
他の誰とも異なるプロパティーを尊び、愛で会い、発露しあえる時空を生み出す人間界の、ひ弱であれホウジャクのような人に私は憧れる。
4.GUMIさんが主催のインド古典音楽
インドを旅すれば、大好き派と大嫌い派に2分されると、よく聞く。残念ながら、インドへは1度しか訪れておらず、その1度も、バラモン階級の目で選んだ先々だったので、評価のしようが私にはない。
その1度の旅では、拘束された時間の後の夕刻と、集合前の早朝を活かし、不可触民地域にも踏み込んだ。当初は単身で、後半は「一緒に」と願う人を1人、2人と伴って訪れた。そこで、私は居心地の良さや人の情を感じている。だから再訪を願いながら、かなえられていない。
GUMIさんに、連れて行ってもらおうと願いながら、これもかなえられておらず、人口が世界第1の国を知らも同然であの世行きか、とおもっていた。その矢先にこの催しだった。
GUMI夫妻の結婚披露の衣装に関わらせてもらった妻と、インドが好きだと聞いていたフミちゃん、そして昇さんを誘った。上賀茂神社で岡田さんと出会うことにして、参加した。おかげで、外出がつまらなくなっている妻が、開演までにスッカリ上機嫌になり、安どした。
「庁屋」は板の間と聞いていたので、しかるべき椅子を4つ買い求めて参加したが、これもヨカッタ。岡田さんは、折りたたみ椅子を確保された。安心した。
インドファンが大勢詰めかけ、日本人奏者も共演し、私の心身も次第に高ぶった。
GUMIさんの演者紹介などに加え、フミちゃんからヨガのテンポであることを知らされ、これもヨカッタ。
なぜか、主奏者への花束贈呈役を、唐突に妻の代理で私が引き受けることになり、仰天した。おもえば、これが花束贈呈の最初の体験になった。
演奏会は終わった。大勢集っていた人たちはリラックスし、会場は熱気に満ち溢れた。
その余韻は、岡田さんのおかげだ。夕食に誘われ、和やかな場でBGMのごとくに作用した。
5.「匠の祭典」と、若き世代に3度も希望を抱いた
まず15日の夕刻だった。小木曽さんから前もって伺っていたとおりに、お三方を迎えた。お一人は商社時代の後輩にあたり、数々のプロジェクト(多くの人ぞ知る事業)に関わった人で、今は理事だった。もうお一人はナノテクノロジー関係のベンチャー企業を立ち上げた独身の男性だった。
商社で私はソフトウエアー子会社を立ち上げさせてもらえたが、独立してベンチャーなど、想いもおよばなかった。それだけに、ベンチャー企業を立ち上げた男性に心惹かれた。話が弾んだ。明朝「庭を見せてもらってから(東京へ)帰ろう」「今夜はどこかで夕飯を」になった。夕食の席でも話が弾んだ。
お三方の視線や視点はそれぞれだったが、鋭かった。再会を期待した。
2度目は、第6回「匠の祭典」でのこと。22日から翌日にかけて開催された。当日は雨天で明け、ハラハラさせられながら、わが家で望さんたちと合流し、8:30に出立し、テントの下での開催にのぞむことになった。
第1回から数えて8年目の (2年間はコロナ騒動で飛んだ)今回が、これまでとは大きく異なる運びになった。かくなる成果を得ようとは、誰もまだ気づけていなかったに違いない。少なくとも私の目には、この催しに対する期待や意義がいや増すような結果になった。
まず開会式会場に、4800年前の化石化した縄文杉の現物が1つ、若者や帰化した外国人大工の手で運び込まれ、披露され、鎮座した。
この祭典では、我が国の伝統的な4種の大工道具をとりあげ、その将来を見据えた紹介と、その活かし方の技が競われる。この化石化した縄文杉の搬入は、この度が初の試みだった。私の目には、4種の道具の機能や駆使する人の力量を、いかんなく受け止める、これら道具の価値とその尊さを存分に顕在化させる「これは相方」に観えた。我が国の木材の、いわば象徴が見守る下での開催になりそう、と胸が高鳴った。この会場で、若者に夢や希望を描く2度目を体験することになる。
予定通りの13時半に、この祭典の主催者代表から挨拶と開会宣言があった。次いで、後援者である京都の府や市の代表、あるいは協賛者の1つ(有)匠弘堂代表などの祝辞があり、この催しの意義や期待などが簡潔に述べられた。
主催者代表の青合さんは挨拶で、今回も競技会を開催するこの会場の事情で、競技会開催は今回限りになることにも触れ、今後への期待と奮起の必要性を訴えられた。
協賛者・匠弘堂の横川代表は祝辞で、大工の人数が1980年には90万人いたが、2020年には30万人を下回っており、2060年には5万人になっているだろう、との予測にも触れ、参集者に心を引き締めさせた。
プログラムは、総合優勝旗の返還式に移った。第4回と第5回の連続優勝者は、チェコの伝統的大工として高名なオンドラさんであった。彼は、この催しでは模範演技者でもある。その手から長津親方に旗が返還された。親方は、総合優勝の栄誉を2回受けた人は殿堂入りとみなす旨に触れられた。参集者の間に、今回の総合優勝者に対する期待や関心の念が広まったようだ。
想えば過日、TV放送で、パリのノートルダム聖堂の木製尖塔の再建の様子が報道された。欧州では、建設当時の道具で、同種の木が伐採され、当時と同様に馬にひかせて運び出すなど、当時と同じ方式で同じ構造物を再現することが復元だ、と後世に残すべき本質を教えた。
そうした従事者の一人であるオンドラさんが、長津親方の呼びかけに応えて、手弁当で参加し、競技者としてもエントリーした。だから、優勝旗を幾度得ても当然とおもわれた。
今後は、いかなる人がエントリーし、いかなる物差しで選ばれるべきか。選ばれた人には、何に、どこに、いかなる栄誉を感じてもらうべきか、と一人思案した。
参集者は模範演技の会場に移動した。そこは、池田さんと下村さんの腕と機器が本領を発揮する場でもあった。
このお2人は、この10日ほど前にわが家で会し、撮影機器を持ち寄って手合わせしている。
その真価への期待が私だけでなく、このたびは主だった人たちの間でも満ち溢れていた。前回は、こうした収録の意義や必要性への認識や期待は、親方も含めて参集者の多くの心のうちで熟成していなかった。「聞いてはいたが」程度の認識の下での受け入れ方で、撮影が容認された程度であった。だが、その成果を目の当たりにしてもらえ、拍手を浴びた。だから今回は、このお2人は招待者として認められ、気兼ねなく振舞えたはずだ。
模範演技者が、チョウナ(釿)、ヤリガンナ(槍鉋)、マサカリ(鉞)、そしてオオガ(大鋸)の4大伝統道具を順に、その活かし方を、その歴史も含めて紹介し、披露し始めた。
チョウナを1つとり上げても、使い手が二人として同じ人がいないように、二つとして同じ道具はない。つまり道具は使い手の心と体の延長であり、一部である。
模範演技者は、人馬一体がごとくに、得手の道具と一体になってその活かし方を披露した。オンドラさんの鉞の活かし方に、かの錦帯橋づくりの海老名棟梁も目を光らせた。
雨交じりの曇天の下に、昼間のプログラムは順調に進み、終了した。
皆は手分けして会場の掃除と、張ったテントの始末などに、誰言うまでもなく風雨に備えうるように取り組んだ。
門外漢の私は、長津親方の想いに惹かれてこの第1回催しを覗き、宿泊は10人余の大部屋を与えられた。そこでも、職人たちが繰り広げる息があった、相手を想いやる心や動きにあこがれており、以降皆勤賞がごとき参加になった。
次の場に、府の施設・アウル京北に移り、この日はそこでの夕食と入浴の後、ゼミナール室でライブイベントとパネルディスカッションという2つの夜の部を残すのみになった。
まず夕食前に、多くの参加者はゼミナール室に集い、この2つの催し備えた模様替えに当たり、食堂や部屋割りされた施設へと移動した。
だが、ライブイベントを引き受けた池田さんはじめ、ザ・チャーチ・ストリ-トバンドのお三方は大わらわだった。とりわけ池田さんは『オー・シャンゼリーゼ』から始まったリハーサルだけでなく、パネルヂスカッションの収録機器の設置もしなければならない。本番に備え、このお三方は着替えも要した。
府の施設の食堂だ。夕食時間内に何とか滑り込み、池田さんから『オー・シャンゼリーゼ』の何たるかをうかがった。元はイギリスの曲で、原題は『ウォータールー・ロード』だと知った。気が付くと、お三方のお1人である女性メンバーの姿がなかった
夜の部は、ザ・チャーチ・ストリートバンドの演奏で始まり、演目は6曲に及んだ。
とりわけ『オー・シャンゼリゼ』と『小さな世界』が演奏された折に、私の胸には迫りくるものがあって、郷愁に駆られてしまった
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『オー・シャンゼリゼ』では、映画『哀愁』の原題が『ウォータールー・ブリッジ』であったことが思い出された。これは、私が映画に心惹かれた最初の作品で、学生時代の懐かしい思い出であった。まだ、客観的視点の何たるかなどに想いが及んでいなかった。だから、社会人になって最初にロンドンに出かける海外出張があった時に、夜分にタクシーで、ウォータールー・ブリッジに駆けつけている。迫りくるトラックのヘッドライトを浴びたうえで、ホテルに引き返している。
こうした衝動を冷静に内省するキッカケが『小さな世界』であった。ベトナム戦争のさなかに、その反戦運動が盛り上がり始めた頃に、ロスアンジェルス支社の先輩に、ディズニーランドに案内してもらえた。胸に迫りくるものを感じた。その感動は、このようなアトラクションをはやらせているようでは、アメリカはとうていベトナム戦争には勝てそうにない、などとの心配に結び付けてもいる。戦争は地球を台無しにする、などとの視線などに気づいたいなかった。
この2年後にも、別の先輩にディズニーランドに誘われており、『小さな世界』を再度観た。そのうえで、NY経由でロンドンに移動した。なぜか薄暗いヒースロー空港から、真っ暗だったロンドン市街にたどり着いた。オイルショックだった。
その帰途の機中で、私の意識は180度変わった。さまざまな予感と、それまでに入手していたデーターの記憶が意識を変えた。人類共通の敵が、わが心のうちにあったことに気付かされだ。脱却したくなった。このままでは死にきれない、と感じた。あるいは早く死にたい、とも感じた。500人もの機中は寝静まっており、不気味だった。呼びかける人があった。そのスチュワ-デスは、温かい紅茶を運んでくださった。
早く固有の自分に目覚め、人並みに、などという競争心や嫉妬心などから解放されたかった
こんなことを振り返りながらザ・チャーチ・ストリ-トバンドに拍手を送った。この後のパネルディスカッションも含めて、何を思ってか、ついにスナップ写真を撮り忘れていた。
パネルディスカッションでは“郷愁”のことなど吹っ飛んだ。そのテーマが「今後の木造建築(仮)」のままであったセイだろう。せめて親方に「木造建築のしかるべき姿」あるいは「木造建築の目指すべき方向」にでも替えてはいかが、とどうして提案しなかったのか。その旨を親方に進言し、パネリストに意図するところを伝えるように頼まなかったのか、と反省した。くやまれた
2日目が明けた。望さんは食堂でザ・チャーチ・ストリ-トバンドの相棒の女性と出くわし、側に迎えた。彼女は美味しそうに朝食を平らげた。
場は、再び実習会場に移った。午前中は記念撮影の後、技術演習だった。池田さんたちは撮影の準備に入った。私は“プレカット”材置き場を見学した。
木造住宅の大半が、今やプレカット材に頼るようになっており、その広大な置き場の確保と搬送が京北木材総合センターの主要な任務を占めるようになったらしい。「匠の祭典」が模範演技や競技会に要するスペースを、ついに割く余地がなくなった。
元来の注文住宅は、大工が施主の要望を汲んで設計し、その要望と設計に則した左官や屋根ふき職人などを選ぶなどして建設チームを編成した。並行して大工は木材などを選び、木を刻み、臍(ほぞ)をノミなどで穿ち、建設現場に持ち込んで組み立てた。施主を招いて棟上げを祝ったりして家屋を完成させた。
その後、建築デザイナーが施主の要望に沿って図面を引き、木材など素材を指定し、建設チームを編成するようになり、大工はその指図に沿う要員になっていった。
さらに、建売住宅が主流を占めるようになり、建売業者が建築デザイナーを選び、住宅を望むあらかたの人が飛びつきそうな既製品をそろえ、選り好みさせるようになった。おのずと、耐用年数や水濡れへの対応能力などが把握不十分な素材であれ、見かけやみ見新しさなどを競うようになっていった。
この間に、住居の機能も大きく変わっている。住まう人の生産能力や創作意欲の発露や触発の場ではなくなり、工場が生み出した既製の消費材を買い求め、消費する場になっていった。
今や戸建て木造住宅でさえが、設計図に沿ってプレカットされた木材で組み立てられる代物になり、大工は指図に沿って素早く組み立てる役割を担う立場に追いやられつつある。
昼食の弁当を食べ終える頃に、ヤリガンナの名手で宮大工の村上さんがモンゴルの馬頭琴を演奏し、ホーミーを披露し始めて、皆で聞きほれた。
いよいよ4種の道具・各部門ごとに競技会が始まった。
高度経済成長期に、建築デザイナーを志望する女性も増えた。高度経済成長期は工場が生み出す既製品の消費を競い合うことが美徳になった。それが環境汚染や資源枯渇問題にも結び付け、あげくのはては家庭崩壊や孤独化にまで結び付けた。
地球の危機を心配する時代には、大工を志望の女性が増えるのではないか。
これまでは万人共有の欲望の解放を、カラダの呼びかけに応え、消費の喜びなどを願ってきた。これからは各人が個別に持って生まれたプロパティーの発露を、つまり人間の解放を求めるのではないか。ならばおのずと、プロパティー発露の場である家屋にも、大きな変化が生じるに違いない。
プロパティーは己のココロの呼びかけに気付かされ、もてる全知全能が爆発し、発露するものではないか。その欲求に目覚めかけた人は、おのずと身体を創造的な活動に駆り立てたくなるのではないだろうか。
会場を巡っていた時に、道具の象徴かのごとき剪定ノコギリに出会った。顔見知りの庭師・佐藤さんの道具であった。
金部を長津親方に別注で作ってもらったとおっしゃる。持ち手と鞘は「自分で、作りましてン」と、使い勝手と作り方を学んだ。
中ほどの3丁は生木の枝切り用で、左端は枯れ枝切り用だった。右端は松の葉の摘み取り用と伺った。枝切り用は、枝の太さや枝の出方や付き方などに合わせ使い分けるに違いない。いずれも、腰にぶら下げて、手繰りで選んで用いるようだ。
他の大工は、長津親方の作ではないが、何かキット使い勝手が抜群の用途がありそうなノコギリをお持ちだった。これらの道具こそ、ご本人にとっては体の一部、いわば片身(形見)のような存在ではないだろうか。
審査の時間になった。見学者の全員が部門毎に、無記名で2名の優秀者を投票する。次いでその集計がはじまり、他の大勢は後片付けに、手早く、丁寧に取り組んだ。
4時から表彰式だった。驚くべき結果が、つまりこれまでの5回とはまったく異なる結果が次々と明らかになった。チェコの伝統木造建築の強者が2年連続して総合優勝をかっさらっていた後だけに、多くの若者の受賞に贈られる大きな拍手が、とても新鮮に感じられた。
その多くは、社員教育は礼儀作法から始まると代表が語り、平均年齢が28歳と聞いた(有)匠弘堂の社員であった。
市長賞や知事賞・総合優勝者もおのずと若者が選ばれた。
この光景を眺めながら、表彰について想いをはせた。あらかたの賞は結果へのご褒美が通り相場ではなかったか。だとすれば、未来への期待がこめられた賞があってもよいのではないか。とりわけ今は、時代の変わり目である。
結果へのご褒美であれ、時がたち、その褒章が不都合の種に与えられていた、と判明した事例がノーベル賞ですら多々生じていた。
「19世紀の英雄たちは、21世紀の極悪人への道を歩みつつある」との言葉がある。20世紀が生んだJFケネディに、アーサーシュレジンガーJrが贈った言葉である。
「匠の祭典」は、技術の伝承を尊んでいる。その技術は、既製品の大量生産のための、ではない。いわばプロパティーの発露に供する、個別性を尊ぶ技術である。
時代は多様性を尊び始めている。それは、多くの人が人間の解放に目覚め始めたことを示しているのではないだろうか。
「匠の祭典」が尊ぶ技術は、個別性に富んだモノを生み出す上では欠くべからずの道具である。この祭典は、その道具の優れた活かし方の伝承を尊んでいるのだろう。たとえば、ヤリガンナで、板ガンナで削ったかのように削る技術ではなく、ヤリガンナ独特の活かし方が求められる時代に備えているのではないか。
つまり、機械のごとくに仕上げるのではなく、それを駆使する人の人間性の発露に供する技や術、あるいは心がけなどが問われているのではないか。
もしそうだとすれば、このたびの表彰が志向した方向は的を射ていたように感じられた。同時に、「よくぞ」選び出した、「よくぞ」見抜いて与えておいたものだ、と評価が次第に高まるような「お墨付き」であったことが明らかになることを願った。
「登竜門」という言葉がある。
多くの女性がエントリーしていたことも振り返った。
3度目は、唐突に26日の午後に恵まれた。妻から「加藤さんが、お孫さんと起こし」との知らせで始まった。「すぐに伺う」といってPCの席を立った。加藤さんと付き合いが始まってから、もう何年だろうか。その後、幾度か行き来してきた。今年は春にタケノコを届けていただき、先月は留守中に「お孫さんを伴って・・・」と、妻から聞いていた。
お孫さんではなかった。沖縄の「友だちのお孫さん」、とおっしゃった。ドイツに留学する。その出発の日が近づいたので今日こそは、と24歳の青年を同伴だった。彼は手に拙著『未来が微笑みかける生き方』を持参だった。話が弾んだ。胸に去来するものがあった。
それは私の恩人の一人で、30歳ほど年上の男性だった。60歳前後で夭逝した大内義男さんを思い出した。
大内さんにも、加藤さんがこの青年を見るような目で、私も観てもらえていたのかも知れない。11歳の時に出会い、礼状が縁で交信が続き、20歳で再会。夏休みに東京の自宅に招かれた。訪ねた翌朝のこと、起き掛けに顔が合って挨拶し、「顔を洗ってから」と叱られた。その後、何もかもを学びたくなった。
加藤さんが案内の青年とも話が弾んだ。彼はウイリアム・モリスも話題にした。モリスは、150年前に、今の工業社会を見通していた人だ。なぜか彼に、絶版で、手持ちが少なくなった『人と地球に優しい企業』を贈ることにした。
「若者はミニ利休」で始まり「だから利休は殺された」で終わる拙著だが、おかげで、彼の名が金武朝陽だと知った。
この一著は、顧客満足やリファウンド制度などの重要性を紹介できただけでなく、「地球に優しい」という造語を用いた最初の書籍となり、この年の“流行語大賞” の候補に挙げられ、銀賞にあやかった。ともかく私は、日本の企業に世界に冠たる体質転換をはかることを熱望していた。その想いが通じたのか、後にも先にもなさそうな嬉恥ずかしい宣伝もしていただいた。
金武朝陽さんは、「必ずまた来ます」と言って、右手を返した。「2年後に、また3人で会いましょう」と加藤壽子さんを見送ろうとした。壽子さんは「2年後なんて、到底・・・」と言いかけられた。朝陽さんになぜ拙著をもらってほしくなったのか、わが心境が見えた。
この出会いが当長月で、若者に対して夢や希望を描いた3度目になった。
6.その他
1、旧“生ゴミ処理機”の解体。一日に、年に1度の作業に取り組んだ。昇さんのパワーと関心をあてにしたわけだ。2年前に基礎を築き始めた旧堆肥の山(=わが家の生ゴミ処理機)を解体し、少し離れた場所で新堆肥の山を築く作業であった。
まず旧堆肥の山の上部、未分解部分を新堆肥の山の基礎として移動させると、下部から十分腐食が進んだ堆肥が現れた。その一部を、まずホウレン草の畝づくりに生かした。
写真は、未分解部分を基礎とした新堆肥の山に、その後畑から出た残滓(エンドウ豆、キュウリ、トマト、あるいはゴーヤなどの実を収穫した後の蔓や自然生えのエゴマなど)を積み上げた姿で、13日時点である。
ホウレン草の畝づくりに用いた後の堆肥は、これまでは使い切るまで野晒しにしていた。だが、このたびは昇さんに頼んで、使い古したビニール袋に詰めて、温室に運び込んでもらった。こうすることで、堆肥の栄養分を雨に流し去らされずにすむ。
写真は月末時点の新堆肥の山である。この作業は、堆肥の山に積みうる残滓がたくさん出る時期に行うことが望まれる。この山の中央に、厨房から出る生ゴミを次々と放り込むわけだが、それに値する窪みが望まれるからだ。新しい山の右上部に旧堆肥に山があった。
2、ロッコウサクラソウの土替え。喫茶店のテラスに至る下りの階段脇に、ポットウォールと名付けた幅15cmほどのコンクリートの壁がある。その上を毎年、晩秋から春にかけて飾る鉢植えなどの準備であった。
3、愛用の植木バサミを再生できた。かつて植木バッサミの先を欠いたことがあり、改良した。誠に力強く使えるハサミになった。昨年、このハサミを庭の南面の生け垣の世話をしていた間に (灌木の剪定や草刈り時)に失った。
この度、昇さんが妻を助手にして、そのあたりの手入れに取り組むことになった。だから、この事情(前回の手入れ時の剪定くずの下に、ハサミが・・・)を話しておいた。
失ったとおもっていたところから、1年越しに見つけてもらえた。
物忘れが進む年頃だけに、どこで見失ったのか、あるいはどこに置き忘れたのか程度は手繰りよせられるクセやチカラを身に着けたい。この度は、それがかなったように感じながら、出てきたハサミを自流で手入れした。旧来通りに活かせるようになった。
4、メキシコからの観光客が、翌朝に再来。若き女性の来店客が『アイトワ12節』と妻の人形集を気に入り、「明朝10時に買いきます」と言い残して去った。
約束通りに再来。メキシコ (国籍)人で、デザイナーだった。わが家のような生き方が夢とのことで、循環型生活がかなう緑豊かな時空の写真も見せてもらえた。
5、ありがたい書籍の贈り物。民生用従来型原発の何たるかに、経験的、体験的に精通した人たちのいわば証言集であった。この型の原発は、私の目には、なぜか釣り人が用いる疑似餌かのように見える。
6、こんな「賄賂」なら。「私は“野鍛冶”だ」と強調し、胸を張る鍛冶職人が「賄賂」持参で訪ねて下さった。まず、その強調するところは、刀鍛冶とは対極にあり、民主主義(民が主として尊ぶ)の鍛冶屋だ、ということだろう。
次いでこの賄賂は、ご本人製だが、流用物とみた。それだけに、その心が、余計にありがたく思われた。大事にしたい。
国会では、国定既製品の1つ(紙幣)を、いわば疑似餌として組織的に活かした一群が、逆恨みする事態が生じている。このたびの総選挙は、その疑似餌を容認する(おこぼれにあずかっている)比率が明らかなりかねない選挙になりそうだ。だから、早々と日程に(禊を叫べる人を増やしたいがために)上ったのだろう。この勝負は、民度計にもなりそうだ。
7、久方ぶりにお目にかかれた。まず8日の夕刻のこと、冬青(そよご)クンがお母さんと立ち寄ってもらえた。かつて病院を訪ねて、誕生まなしの赤子を抱いた経験が私には1度ある。その男の子に「ハッピーと会いたい」と言って訪ねてもらえたわけだ。
チョット会わぬ間に、と言ってよいはずだが、ずいぶん会っていなかったと感じるほど大きくなっていた。意識が大きく変わる時期かもしれない。
次いで、冬青クンより会っていない期間はずっと長かったはずの賀代子さんが、前触れもなく訪ねてくださった。にもかかわらず、先月にも会ったような気がした。贈ってくださった詩集のおかげかもしれない。
8、ゴーヤの棚を1つつぶしながら。今年は、夏野菜作りは大失敗だった、と総括した。ツルクビカボチャや自然生えのゴーヤなどをはびこらせ過ぎたせいだろう。
その上に、日照不足(東向かいとわが家の東面の樹木が茂り、とりわけ朝陽が当たりにくい庭になった)が重なったことも大いに関係している。加えて、異常な高温と日照り(偏った降雨)が重なったこともダメージを大きくした。
ナスとインゲンマメは採れなかったに等しい。やむなく、私が採ってみせ、掃除までしてみて、かろうじて一度、インゲンマメを妻は活かした。
ナスは、私さえ採る気がおこらず、堆肥の山で次年度用の肥料にした。
トマトは、すぐにまいてしまう (木が老ける) 現象に陥り、失敗。キュウリは、買った苗の本数程度の数の実がついたところで蔓がまいた。
残る(わが家の5大夏野菜の)1つ・トウガラシは、成長が極端に遅れた。やっと9月の中頃から正常に育ち始め、まともな実がとれ始め、今も唯一畑に残っている。
例年以上の成績を収めたのはモロヘイヤ、例年並みは自然生えのツルムラサキであった。
ゴーヤは、2カ所でそれぞれ複数自然生えした。2カ所目では棚まで作ったが、これも裏目に出た。第2次のキュウリとインゲンマメを日陰にしたからだ。あわてて棚ごとこのたび取り去った。
時すでに遅し、だった。日陰にしていた第2次のキュウリとインゲンマメに生気を取り戻させることはできなかった。こうした事態は、この庭の存在意義に関わる問題にぶち当たらせたことに気付かされた。
願わくは、こうした生き方が、モノの消費にではなく創造の喜びに目覚めさせることに気付かせ、生きる実感を体感させた時空の一例として、生きとし生けるものの共有財産になってほしい。つまり、小さな森がごとき酸素供給源と、野生動物のサンクチュアリとして、人口減少が進む未来世代の公共物として残しうる世の中になってほしい。
とはいえ、貨幣を生み出し、信奉する人間が支配している世の中である限り、そうは簡単にかなわぬだろう。オルタナティブはないものか。
ノアが体験したであろう大嵐に人類が見舞われるようなことが生じる前に、オルタナティブを希求する機運が高まってほしい。その折に、誰しもがその気にさえなれば手に入れうるこの農的生き方が、オルタナティブの大事な一例として浮かび上がってはしい。人類はいま人権に目覚めつつある。その人権が、ロパティーの多様性を訴求すればおのずとたんぽされるオルタナティブであったほしい。
我が家の庭で生じさせた夏野菜の、とりわけ夏の青菜の大不作が、なぜか途方もない想いに駆り立て、すっかりくたびれ果てさせられた。
9、餅トウモ仕切り直したい直したい。1つの種から株立ちし、数多くの実を付けさせるモチ(餅)トウモロコシは、実を採るタイミングを間違った。いわばウラナリの実の若い種を摘まみとって味わう程度に留まった。
固くなるまで育ててしまった分は、種用に1本だけ取り置き、他はインテリアとして活かすことした。このモチの餅たるゆえんを来年こそ、確かめたい。
10、ナタマメとシカクマメ。苗を1本、昇さんにもらったナタマメは、日陰ながら、かろうじて3つの実をつけた。1つを試食した。残る2つで種を採ることにした。
シカクマメは、苗をもらう時期が遅かったのが幸いした。この畑なりに陽がよく当たる畝で育てられたから。月末時点で、それなりの収穫が望めそうになっている。
11、第4次のフジの剪定で分かったこと。13日に今季4度目だと意識して剪定に取り組んだ。このフジをこの活かし方で保つには、少なくとも年に6度は剪定しなければならないことが、このたびやっと分かった。
12、くだんの叢書。参考文献にさせていただいた方などで、現存の方に、やっと「お礼の一言」を添えて、献本することができた。おかげで、望外の幸せに恵まれていたことや、補筆すべき点があったことにも気づかされた。
郵便局では、郵便料金が大幅に高くなる前日の発送だと教えられることで長月は終わったようなものだ。