目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 異例の年末年始は、2つの恒例に救われた
2 伴さんにも世話になれそうだ
3 これも終活かもしれない
4 アリコさんを2度迎えた
5 偶然の一致に感謝
6 日本は大丈夫かなど、その他
二度あることは三度なかった
初の異例の元旦のこと、妻は結婚来初めての朝寝坊。背伸ばし抱擁のあと、雑煮を用意し始めました。その間に私は、神棚と仏壇に燈明をあげ、新年の挨拶に誘いました。雑煮は奇妙な澄ましでした。前夜寝る前に屠蘇酒を、ガラスの急須で用意しておいてヨカッタ。「今年もよろしく」と挨拶を交わせたのです。副茶もお煮しめもない朝食でした。
大晦日を振り返りました。ついに妻は、お煮しめ造りを中断。年越しそばも風呂も割愛。「気にしなくていいんだよ」と、寝かすだけで精一杯。その後、私は注連縄を仕立て上げ、お鏡飾りを作りながら、飾って回れず仕舞いで元旦を迎えたのです。何もかもが異常づくめの年末年始でした。でも、救われることもあったのです。
今年は元日から、妻の元生徒さんを3泊4日で迎える約束が、随分前からあったのです。その約束をキャンセルさせずに、勝手に出来合いのお節料理を手配したことです。それが、張り合いのある日々にしたのです。元生徒さんは妻に、恒例のヘヤーカットを頼んだのもヨカッタ。妻は娘のように手伝わせ、柑橘類の、不足分の防寒覆いを造り、被せたのもヨカッタ。
とはいえその後は、七草粥が飛ぶなど、異例尽くしに戻りました。でも、9日の朝食時に「来年のお煮しめは、キチンと炊きます」と、妻が宣言したのです。朝一番の背伸ばし運動を続けていたのもヨカッタようです。「体を縛り合って、心中する人の気持ちが、解かるね」とささやいた折は、「連れて行ってね」と妻はつぶやいていました。
このような状態で、正月は前半が過ぎ去りました。この間は、1日、伴父子の来訪。初の白みそ雑煮は2日。翌朝、本年初の雪景色などと日替わりトピックスが、次のように続いたのです。昇さんの初仕事はシダレウメの剪定。妻は一重だがお節を仕上げ、私はウルシとマユミなどの剪定。フミちゃんの初仕事は落ち葉かき。7日の来客は大事な相談事。翌夕、私は一人で七草摘み。葉子さんの来訪と月記原稿の引継ぎ。本格的降霜で明けた10日、昇さんは父子で竹垣の補正。その後も、クルミの剪定と石組み作業。HCで初の買い物。初医院は歯科。アメリカの長女リズの来訪。そして15日は、長津親方が、妻の症状にはこれを、と妙薬を持参してくださった。この間、 連日数時間のPC作業に追われていました。
後半は、37会ZOOM=MTGで明け、月末は昇さんが喫茶店の結露対策で見通しを立てた、で暮れたようなものです。この間に、下記10余のトピックスがあったのですが、中でも月末近くに生じた偶然の一致 (背筋痛で寝込む初体験と、小木曽さんに伺った“だるま娘”のエピソード)は忘れえぬ思い出になりそうです。他のトピックスは以下のごとし。
白砂ご夫妻を迎え、歓談。2件の来訪(伴夫妻とアリコさん)は大事な相談。かつて公私両面でお世話になった弁護士のお立ち寄り。喫茶店が1カ月の冬休み入り。喫茶店のスタッフMTG。22日は3度目の雪景色。翌朝は四方を様々な部屋で囲まれたPC室でさえ7℃を初記録。畑は一面の霜柱で、本格的冷え込みに。昇さんは屋根の落ち葉掃除。私は中腰で、古い薪の整理などで大ハッスル。翌朝、背筋が痛くて堪らない。だが、トイレだけでなく、伴宅訪問や小木曽さんの来訪など予定はすべて消化。実に楽しくて有意義だった。ただし、これらは、暮れの注連縄づくりと、元日からの小夜ちゃん来訪が、予期せぬ幸に結び付けたことを振り返って、二度あることは三度ある、と頑張ったのですが、これがマズかった。月末に、完全にダウン。
高安先生に電話で相談。熱い風呂ではなく冷やして、3~4日安静にしておくべきであった。後の祭りだ。だが、ある一著に恵まれそうだ。期待したい。
~経過詳細~
1.異例の年末年始は、2つの恒例に救われた
このたびの年末年始は53回目だが、日の出だけけなく月も、妻に誘われてしばしば愛でた。ホットと一息つくこうしたひと時が、とても有難く感じられた。
わが家本来の年末年始は結婚来、(2つの恒例と、時おり生じる例外を除き)わが家流の歳時記に粛々と2人で携わる、夫婦水入らずが原則だった。
恒例の1つは、小晦日(こつごもり・30日)の来客を交えた注連縄づくり。2つ目は、両親が存命中のこと。親子4人が水入らずで、元旦の祝いと、2日の夕餉とカルタ遊びに興じることであった。
このたびは、この1つ目の恒例が、妻の不調が主因で怪しげになったわけだ。だが、厭離庵ご一家あげての(10年来ご一緒させていただいてきた)情けに甘え、決行し、いつになく妻が、幸せそうになった。もちろん私も、今では唯一のコレクションである亀の飾り棚に、予期せぬ“幸せの証・稲わらの手作り亀”が加わった。手作りだし顔が見える作品ゆえに、えもいえぬ幸せな気持ちに満たされた。
オカゲで、その数日前に下したある決断を振り返り、「よくぞ!」と自分を褒めたくなった。それは、新年早々の例外中の例外で、3泊4日の泊り客の受け入れであった。
これからお断りを・・・と妻が訴えたが、キママを聴き入れず、約束通りに決行することに決めたことだ。思えば、この度の妻の予期せぬ異常は、12月中旬から酷くなっていたことになる。カレンダーを見ながら、幾度となく妻は「他に来客はありませんね」と確認するようになっていたのだから。
その都度、「注連縄づくり以外は、ありません」と、私は応じた。
だが別途、幾年も前からの決まり事、例外中の例外があったわけだ。その泊りがけの来客は、今や恒例になっていた。しかも、妻が自ら決めたことだから、これは勘定外、と私は思い込んでいた。
確か、29日の朝であった。この聞き飽きた確認をまたしたので、「小夜ちゃんは、この度は元日から来てくれるよ」と、念を押した。意外や意外、妻は慌てた。この元日からの約束を、妻は自分で決めておきながら、メモし忘れていたようだ。それが気になっていたことが、すぐに分かった。
今から「お断り、できないかしら」と言い出した。断固、私は反対した。相手は、妻の元生徒さんで、妻と同姓同名の女性である。
かねてから妻は、青森や四国などの遠方から、長年にわたって通っていた生徒さんを、時々わが家にお泊めしていた。その、お一人だった。家業の都合で教室をおやめになった。その後、正月2日から2泊3日ほどの日程で、徳島から迎えることが恒例になっていた。
急ぎ私は、朝刊をめくり直し、ある広告 “今なら、まだ間に合う” を探した。妻に気付かれないように、独断で注文するためであった。妻は、お煮しめの食材を買い求めていながら、何一つ進んではいなかったからだ。
この日、午後の便で、大きな宅急便が着いた。小夜ちゃんの見慣れた文字で「私物です。私が着くまで置いておいてください」とあった。
翌日の注連縄づくりは、「本当に、できるかしら」との妻の不安をよそに、色々あった。だが、妻だけでなく私も、予期せぬ幸せに恵まれたわけだ。
この日は、午後から清太君が、庭掃除で来てくれた。見送って戻ってみると、妻のお節づくりはまだ進んでいなかった。「買い忘れた食材があったの」という。日は落ちていなかった。行きつけのスーパーに誘った。妻はレンコンやクワイなどを探し、私は既製の小さな睨み鯛だけでなく、ニシンの昆布巻も選ばせた。普段なら「私が炊きます」などと言う妻が、率直に従った。
大晦日になった。昼前に “今なら、まだ間に合う” が届いた。「これ(徳大3重、40品、3.9kg)で、小夜ちゃんと三が日を過ごそう」と、安堵させた。「ありがとう」とは言わなかったが、膨れもしなかった。これまでは、妻の手作りお節料理で、小夜ちゃんと2泊3日を過ごしてきた。この度は、これも異例になったわけだ。
例年なら、お煮しめが次々と炊き上がるころだった。三品で投げ出していた。しかも亀は4つ用意しておきながら、刻んだのは1つで終わっていた。思ったように亀甲を掘れず、投げ出したのかもしれない。
庭に、クチナシを取りに出て、ナンテンなども採って帰って来て、「ここは天国よ」と喜んでいたものだ。だが、クチナシで黄色く染めるクリやクワイはなかった。
年越しそばを用意する時刻になった。既に私は、注連縄に橘の実も着けて、完成させてあった。お鏡餅飾り手を着けた。餅は小晦日に、2人がかりで用意してあった。串柿は、11月下旬に、2回りほど小さなカキを選んで、追加の10個をとって、一串用意してあった。
そのほぼ干しあがった一串を、数日前に苦心惨憺して(串からカキをすべて一旦引き抜き、串を4割ほど短くしたうえで、さし直し)縮めて干し直し、串になじませてあった。
近年、お鏡餅飾りを小ぶりにした。その時から、一串10個の串柿を、両端の各2個を切り取って、短くして用いた来た。
小ぶりにするまでは、一串10個の串柿を、短くして用いていたわけだ。お飾りの柑橘類も、庭のダイダイ(代々)を採って用いていた。
なぜかこのたびは、以前のように10個のカキを用いたくなった。2個-6個-2個に分けて串に刺し、干して、フーフ(2-2)いつまでも中ムツ(6)まじく(仲睦まじく)にしたかった。
その苦労のほどを、ズーット妻は眺めてきたわけだが、ついに、年越しそばも、除夜の鐘を聞きながら浸かる風呂の用意もしなかった。
妻をなだめて寝かせることになった。
居間に一人戻り、お鏡飾りを仕上げながら過去を振り返った。恒例では、庭のダイダイをお飾りに用いただけでなく、小倉山が破壊される以前は、裏山で取ったウラジロを活かしていたわけだ。
その後、鏡餅飾りを小ぶりにしてから後は、串柿のフーフ(2―2)を切り取リ、お飾りも、ダイダイに代えて庭のウンシュウミカンにしてきた。さらに、ウラジロが採れなくなって、庭のユズリハ(縁起物)の葉に代替させるなどした。
このたびは、「お昆布」も妻は買い忘れていた。だから、久しぶりに“小夜子躍如”の言動につながった。つまり、「これが本来ヨ」と妻は言って、出汁をとる昆布を取り出してきて、ハサミで切って差し出した。
歪んだ昆布を眺めながら、一言多かった、と反省した。「これで十分だ」で、止めておけばヨカッタわけだ。つい「これなら後で、出し昆布として活かせるね」と付け加えた。今の妻には、それがプレッシャーになったのかも知れない。
この小夜子躍如のクセを、改めさせておくべきではなかったか。臨機応変という言葉の、活かし方を間違わせてきたのではないか。この、「何とでもなる」との安易な身構えが、今となっては負担になったのではないか。未来予測やシステムとしての捉え方をとても疎かにさせてしまい、行き当たりばったりの性格にさせていた恐れがある。
若い頃は、血の巡りだけでなく、体力的にも記憶面でも富んでおり、つじつま合わせが出来たのだろう。
妻は、出し昆布の袋や、切り取ったハサミも、放り出したまま、寝ていた。
私も眠くなった。
歯を磨き、手を洗った。妻は寝息を立てていた。そのホホに、冷水で冷えた両の手を枕元からさし出して、当てた。「気持ちがいい」と寒がりの妻が言って、両の手を添えた。
もう少し私がしっかりしておれば、ここまで妻を苦しめなくても済んだのではないか、と反省した。だがすぐに、妻の寝息に誘われて、眠りこけた。
元旦は未明に私が先に目覚めた。これまでは、少なくとも三が日は、妻が必ず先に起きて、祝いの席を用意してきたものだ。だが、寝坊をしていた。
昨夜のままの食卓を、私は片付けた。日の出を待って、4つのしめ飾りをつけて回った。
戻ると、起き出していた妻が、「ごめんなさい」と言って、雑煮を用意し始めた。
神棚と仏壇に私は燈明をあげた。サカキやシキミなどは用意されていた。いつもの通りに妻を、神棚から新年の挨拶に誘った。
仏壇には、仏飯を持ってついてきた。
雑煮は、白みそ仕立てではなく、奇妙な澄まし、であった。副茶などの用意もなかった。
「その前に」と、前夜私が勝手に用意した屠蘇酒をとり、「今年もよろしくお願いします」と新年の挨拶を交わし合った。
昼は、安倍川餅で済ませた。
ほどなく小夜ちゃんがご到着。それは、いつもたくさん土産をもらうハッピーの騒ぎ方で分った。居間が華やいだ。妻の血色も、援軍を得たかのようによくなった。
午後のお茶は、土産の一つ、阿波のカステラで。夕食は、事情を言って“今なら、まだ間に合う”40品目の1つと、発砲ワインで始まった。
小夜ちゃんが煮た黒豆と、妻が用意した茶碗蒸しの他は、すべて既製品であった。あるアンケートによれば、まだ55%の人が手作りのお節を楽しんでいるようだ。それだけにチョット淋しかった。でも、座は、過去1年分の話題でにぎわった。
晩酌に小夜ちゃんは付き合える。だから私は、久しぶりに3晩続きのほろ酔い加減を期待した。2日の朝、妻は白みそ仕立ての雑煮を用意した。小夜ちゃんは、恒例になっているヘヤーカットを妻に所望。昼は安倍川餅やうどんで済ませた。2人はいつも、余った時間ができると、そそくだと人形工房にこもる。
3日は、新年初の雪景色で明けた。
妻はこの日、小夜ちゃんに手伝ってもらって、ミカンに被せる“寒冷紗の袋”(1本分、足らなかった)を縫った。
食事は、“今なら まだ間に合う”のデザートや甘栗の煮物を残し、3日の昼で片付いた。
夕食は、畑のミブナを初収穫し、ハリハリ鍋を囲んだ。和やかな時間が流れた。
このミブナは、昼間に私が収穫してあった。その帰途のことだった。「シマッタ」と、反省させられたことがあった。妻が寒空の下で、頼んでもいないことに取り組んでいたからだ。小夜ちゃんの声もした。2人で、寒冷紗を、ミカンの木に被せていた。
近付いて確めると、袋の寸法を妻は明らかに間違えていた。ピチピチでゆとりがなくて、丈はミニスカート状であった。
だが妻は、いつになくニコヤカで、「喜んで頂戴」と言わんばかりであった。
「これで、ここの6本の木に、すべて被せてやれたね」とねぎらった。
左奥の大きなダイダイ。その後ろの甘夏。右のキンカン。その手前のウンシュウミカン。左手前のブラッドオレンジ。そして手前右の、もう1本のブラッドオレンジに、新たに寒冷紗を被せることができたわけだ。
翌日は、お別れの日であった。昼前に小夜ちゃんと妻は「また来年も」と、手を取り合って別れを惜しんでいた。気が張らず、明るくて張り合いのある3泊4日であった。
見送った足で私は、2人が被せた寒冷紗を被せ直すための作業に取り掛かった。まず、この木の背丈を、計画通りに、半分近くに縮めた。脚立を使わずに収穫作業も済ませられるように育てるためだ。つまり、指示通りの寸法(太さは2回りほど大きく、丈はこの程度)の袋さえ作ってもらえていたら、上手に剪定して数年は持たせたる算段であった。
やむなく、縫い上げられてしまったピチピチに近い袋を、再び被せ直した。
これが、新年初の庭仕事になったわけだ。どうしてこのような間違いが生じたのか、と思案した。思い違いが生じないように、と設計図を描き、寸法も書き添えて「この通りに塗ってください」と言って、手渡してあった。
思い当たるフシがあった。妻がひつこく「どの木に被せたいの」と、聞いていたことを思い出した。うっかしていた。妻が「見たら分る」派の人であったことを承知していながら、しかも昨今は、機転の視界が狭くて且つ短くなっているかも、と心配していながら、「気の毒なことをした」
たとえ「見たら分る」派の妻であれ、正常時であれば、向こう2年や3年は先をおもんばかって、以前のように、もっと大きい袋を作っていたはずだ。
最早私には、叱る気はもとより、注意する気も起らなかった。
居間に戻ると、妻は茶の用意をしていた。
「あのミカンの木は、2回りほど枝を広く張らせたいんだ」「来年も、作ってやってね」と、希望を述べた。「何度でも」と引き受けてくれた。
この日、妻は夕刻に、いそいそと調理場に立った。クワイと卵焼き足して、一重のお重を用意して、それなりの夕餉で迎えた。クワイはクチナシで綺麗に染め上げられていた。
後日、田作りや、酢の物などが加わった。これまでのようなゴボウ、コンニャク、あるいはレンコンなどが欠けており、懐かし気にそれらが思い出された。
過去を振り返ってみた。年ごとで、様子が随分異なっていたことに気付かされた。味着けや包丁の使い方が同じであったから、決まり切っていたように感じていた。
その都度、食材の都合に合わせて、創造的に妻は取り組んできたのだろう。この創造的に、が今や重荷ではないか。亡き母から教わったカズノコの漬け方と、ボウダラの煮方は、追加分も寸分違わなかった。
その後の食べ物のこと。まず、私好みの澄まし雑煮だが、しばしば用意された。だが、これまでとは様子がずいぶん異なっていた。これは創造的か、臨機応変型の横着か。
いずれにせよ、物忘れが、これ以上進まないように、と願った。
私好みのアイトワ菜とあげの煮物は6日まで出なかった。
七草粥はスッカリ失念していたようだ。翌夕、食材を庭で調達しておくと、9日の朝に用意された。
初の医師がよいは歯科医で、抜歯だった。呑み込みやすいメニューが用意された。
その後、畑のチンゲンサイが加わり、炒め物がおいしくなった。昼の麺類には、ニュー麵が加わった、など。3度の食事と、2度のお茶の時間は一度も欠かさずに、続いた。
24日の土曜日。先ず昇さんと、喫茶店が冬休み(20日から2月20日まで)の間に片付けたい5つの作業と、別途急ぎの作業の段取りを打ち合わせた。前者は、3つの恒例作業(テラスに張り出したフジの最終的剪定。モミジの高木に登った野ブドウの蔓剥がし。そしてシダレウメの剪定)と、2つの懸案(喫茶店の冷房機の結露対策と、人形工房の平屋根部に溜まる雨水を抜くパイプを埋設する工事)であった。
この日は、昇さんは、母屋と居宅の屋根に上り、落ち葉掃除や樋掃除に当たる。私は母屋の軒下で保存している薪の一部を整理し、腐葉土小屋で用いている木製品の防腐塗装に手をつけることにした。
この薪の整理は、樋詰まりの雨だれが腐らせた下部の薪を肥料にして、上部の腐っていない分は、風呂焚き場に運び込む作業であった。中腰での作業が続いた。珍しい虫が次々と出て来た。風呂焚き場まで運ぶ作業は、昇さんが引き受けてくれた。
薪をかかえて運び込み、積み上げたり、分別したりは、私が受けもった。
次いで、腐葉土小屋で用いる厚い板の防腐塗装は、何年かに一度、表面と裏面などで2回に分けて行う作業であった。この日塗れなかった裏側などは、後日に回す。
共に、中腰で踏ん張り、頑張る時間が長い作業であった。すっかりくたびれた私は、熱い風呂を立ててもらい、じっくりと体をほぐし、そそくさとやすんだ。
問題は翌朝だった。小用で目覚めたが、体が動かない。起きようとすると背中がとても痛む。「何のこれしき」と痛みには強い私は、壁や建具伝いによろよろ歩み、なんとか粗相をせずに済ませることができた。寝なおして、背筋のあたりを傷めていたことに気が付いた。
朝食は、痛さをこらえてまた起き出し、済ませ、起きたまま待って昇さんを、迎えた。事情を話し、昇さんに喫茶店の冷房機で生じる結露対策(結露を受け溜める樋着け)に、一人で取り組んでもらうことにした。
その後は、寝込むことにした。意思疎通は言葉だけで、材料や道具のあり場や、作業の段取りなどはかなった。
この日は、朝食、昇さんを迎えるまでPC作業と新聞の一瞥、何度かの小用、夕刻に一度作業現場の点検、そして夕食の他は、ベッドの人で過ごした。
翌日は、食事と小用の他はベッドで過ごした。ベッドでは特殊な(痛みが走らない)横向になって、持ち込んであった新聞(精読したい記事)と(読み直したい)書籍で過ごした。床ずれに悩まされた。時々、片方の足の重みを静かに活かして、反対の横向になった。
火曜日。朝は、テーブルに両肘をつかざるを得なくなり、用意してもらえたおじやをスプーンで食べた。![]()
この日は背筋を負傷する前に交わしてあった外出の約束があった。昼前に、伴さんに車で迎えてもらい決行した。お宅を訪ねたわけだが、2重の意味で訪ねてヨカッタ。
伴一家4人の現在の住いを見学できただけでなく、久方ぶりで、服部夫妻に出会えたからだ。葉子さんはある日、関東にある実家に見舞いで戻ったらしい。駅頭で元アイトワ塾生だった服部さんと出会ったという。服部夫妻は養鶏も始めていた。
この日の夕刻から寝込みがちになった。トイレと食事、そして時々のPC作業には、イモムシのような起き出し方で、妻の助成なしに一人で当たった。それは、この「自然計画」だけでなく、懸案のもう1つの作文に取り掛かっていたからだ。作文は筋肉の痛しばし忘れさせる。だが、脊髄に体重がかかる重苦しいは、次第に耐えられなくなる。4時間が限界だと分った。横になるとすぐに解消する。
かくして29日の朝まで頑張った。トイレと食事の他は臥せて過ごすようになった。夕刻、ベッドから高安先生に、ケイタイで相談した。筋肉を傷めた時は冷やすこと。3~4日の安静で快方に向かう、と知った。安堵した。急ぎ、小木曽さんに、電話を入れた。翌日は到底外食には付き合えない。「3人分の弁当持参でお訪ねください」に、了解の返事。
深夜のこと。高安先生から電話があった。もしや心臓からくる痛みではないか、と案じくださったわけだ。あることを思い出し、舌足らずをわびた。
その昔の、親友の急逝を思い出した。彼も、風呂で体を温めたのが災いし、心筋梗塞を悪化させた。だから、私は先生に「間違いなく、腰のあたりの筋肉で、」と、持病とは関係がなさそう、と断言し、感謝した。
翌日は、朝の収穫に畑に出た妻が、初めてハクサイを採った。寝ている私に、「ホレッ!」と自慢気に、私に持たせた。弱った体は、とても重く感じた。
小木曽さんをお迎えしてヨカッタ。小木曽さん本来の話題は爽快だった。加えて、ある僧侶と電話を交わしてくださり、一著に恵まれることにもなったからだ。
この夜からついに、尿瓶を出してもらうことにした。高い戸棚にしまってあり、脚立がいるので、心配していたわけだが、「そんな心配はオカシイ」と、妻に叱られた。
次いで、翌朝から、食事も寝て摂ることにした。心臓の薬が切れていたのでなるべく早く、掛かり付け医を訪ねたかったからだ。
庭仕事はまだしも、なんとか喫茶店の冬休みが明けるまでに、と急かれる作業が気になった。4つも残っていた。「これを好機に」と、昇さんと、言葉とせいぜいが作図程度で意を伝え合い、取り組んでもらえないか、と相談することにした。こんな思案中に、この日は、床ずれに悩まされるまでもなく眠ってしまった。
月末の朝は、ありがたいことが生じた。ベッドで初めて食事を(縦に4つに切ったカキジャムを塗ったトースト1枚。コーンスープ。そして、リンゴ半分をむいて、細かく切った)を摂った。その最中に、2つの幸運にめぐまれた。
まず昇さんから、彗生君が同道、と電話で聞かされ、ほどなく、大の便意を催したことだ。これだけは「なんとか」起き出して、と思っていた。父子を起きて迎えよう。そして、最も難しい課題に取り組んでもらおう、と決めた。
ベッド脇に立つまでにいよいよ「イモムシのごとし」になった。体をにじること数分。松葉杖に頼って直立したまま、妻に手伝ってもらって着替えるのに、また数分。この間に「イモムシさんに失礼ヨ」と叱られている。
トイレは、上半身は直立不動のまま、両膝を広げ具合に折って、上下することで適う。さっぱりした気分で、何食わぬ顔で、お2人を迎え、事情を説明した。
要する道具や部品は、言葉通りの所で見つけてもらえた。複雑な作業を要したが、図面を描きながらの説明で、なんとか理解してもらえた。
2.伴さんにも世話になれそうだ
昇さんのオカゲで妻は、運転免許証を更新できた。だが、一人では、行きつけの買い物先、スーパー程度しか、安心して一人では行かせられない。道に迷いかねない。遠出は頼んでも行ってくれない。
かねてから元アイトワ塾生の伴さんに、遠方など、「困ったことがあれば」と、声を掛けてもらっていた。1度、大量のごみ処理の件で、車でお世話になった。
2人の子どもは農業高校を卒業し、昨年の春から、虫やヘビもこわがらない大学生になり、下宿で家を離れた。常は夫婦だけになっている。
そんなこんなで、借家住いの伴さんに、母屋の賃借人として住んでもらい「いざという時は・・・」と頼んでみた。なんとかそれがかないそうになった。
3.これも終活かもしれない
背筋を傷める前のある夜のこと。風呂焚きを引き受けた。前日に、クズの薪を入れた箱を、野小屋から昇さんに、風呂の焚き場まで運び込んでもらってあったからだ。
焚き始めると、次々と見覚えのある木くずが出て来た。とても古い木くずだが、「あのアカマツだ」と、すぐに分かった。そのうちの2つの木くずを、なぜか燃やせなくて、側にある大工机の上の置いておいた。
このアカマツは、半世紀以上も昔に自生したが、なぜか残した。庭の中ほどに生えたからだろう。庭木として育てたくなり、四半世紀ほど前までは、毎年の剪定に余念がなかった。ところが、剪定に要する時間が、1日や2日で終わらず、日に3~4時間ずつ幾日も、になっていた。
いつしか妻が「巣ごもりの時期」と、からかうようになった。この木の中ほどの枝に立ち、胸から上を樹冠の上に晒し、右に左にと芽を摘む姿がそう見えたのろう。
そのころ、このような手入れを要する庭木が、数本あった。思えばこれらの手入れで、毎年10日余を剪定に要するようなっていたわけだ。木は次第に大きくなり、私の体力が落ちることが目に見えた。そこで、まずこのアカマツから、勇を決して切り取ることにした。
ある日のこと。風呂焚きに当たった妻が、薪を足しに行った帰途、興奮気味に居間に戻ってきた。手に私が置き忘れた樹クズの一片を持っていた。
この度やっと、思い出のオブジェにできた。
4.アリコさんを2度迎えた
その1度では、私たち夫婦が共に心惹かれているピアノ曲が、ショパンのピアノ協奏曲 第一番 ホ短調であったことが分かった。
「それとも、これかなァ」「そ、そう、それ」「不思議ねぇ」となったわけだ。
この曲は、お父さんがアリコさんを膝の上に乗せて、よく弾いておられたらしい。この日は、聞き覚えで弾かれたが、、「きちんと弾けるようにして」といった戻って行かれた。楽しみが増えた。
この日の相談は、次のアイトワでのコンサートの相談だった。喫茶店が夏休みの間になりそうだ。
5.偶然の一致に感謝
29日から月末にかけてのこと。29日の夜に、高安先生に助言を求めたオカゲで、傷めた背筋をこじらせてしまった」わけだ、と知り得た。だが落ち込んだのはつかの間だった。翌日お迎えする小木曽さんのオカゲで、カラダの苦痛と心配はたちまちにして、見事にココロの希望と挑戦に変えることができることになったのだから。
この日は、昼前にチョットつらい思いをしていた。庭で死んだ小鳥を妻が見かけ、連れ戻っていたからだ。初めてみる小鳥だが、私の手では葬れそうになかった。立ち上がってしまえば、昔のロボットのようにぎこちなくゆるりと動けるカラダだが、前かがみでしゃがみ込む埋葬は無理と見た。
30日の夕刻。喫茶店のゲストルームで、小木曽さんを迎えた。冬休みに入っていたが、妻が薪ストーブに火を入れてくれてあった。
小木曽さんから、近況(ライフワークにされている海洋プラスチックごみ問題を、小木曽さんは何としても解消しようとされている)を伺った後、最近面談された僧侶の著作を話題にされた。
「このひと(女性)に、その昔、お目にかかっています」と、幼き頃の思い出を口走った。瞬時にして1つの謎が解けたような気分になった。このころ、私は“床ずれ”に悩まされるようになっていたからだ。
この僧侶が、この度一著に認められた中村久子さんと思しき人に、私は小学校低学年時代に講和を伺っていた。このような人は、他に世の中に他にはいらっしゃらないだろう。心のどこかで私は、ジワジワと“床ずれ”の痛みが増すと何かにすがり始めていたのだろう。、
この痛みは鋭痛でも激痛でもない。だが、一旦痛み始めると、寝返りを打てないのがとても辛い。痛くて身をよじれば背筋がもっと痛くなる。その都度、なぜか寝返りが打てない立場の人に同情したり、その恐怖におののいたりしていた。なにせ、“床ずれ”がする当たりのパンツの生地のしわさえが、とても気なってしまうのだから。
このたび中村久子さんの記憶を新たにして、謎が解けたかのような心境にされた。両手両足が肘や膝のあたりからない女性が、並み居る小学生の前で、口にくわえた筆で見事な書を書き上げられた。縫物も、食事も、針や箸を操って一人でできる、とおっしゃった。子ども心に様々な思いが錯綜した。とても生きる勇気もえた。
小木曽さんは目の前でケイタイを架けてくださり、オカゲで一著を届けて頂けることになった。電話も変わってもらえ、挨拶もかなった。かくして、イモムシ状態を初体験した私は、お迎えした小木曽さんのオカゲで、ココロに希望と新たなる挑戦に挑む勇気のようなものがみなぎり始めた。
月末のこと、くだんの小鳥は、庭のどこかに、昇さんの手で葬られた。
6.その他
1、熟し柿の提灯。庭に、熟し柿の提灯が落ちる季節になった。
落ちずに木に着いたままだと、朝日を受けた時などは、提灯に火が灯ったように輝く。
ツバキの蜜を吸ったり、熟し柿の果肉をつついたり、メジロの真冬の季節に入ったわけだ。
テラスにも挨拶で、だろうか、やってくる。
時には妻の世話にもなってきた。
2、降雪は3度。3日は当年初の雪景色で明けた。
2度目は21日の朝であった。
3度目は25日。
3、選定作業。昇さんは、イノシシスロープ脇の紅シダレウメ。三角アーチのアケビの蔓。中庭のスモモ。囲炉裏場のクルミ。そして書庫脇のモクレンなど。
剪定した紅シダレウメの樹冠の枝を、昇さんは、囲炉裏場での焚火に備えている防火用水バケツに生けていた。
私は、本ウルシの他に、マユミ、そしてヒイラギナンテン。
ヒイラギナンテンは剪定くずをディスプレイに活かした。
4、同期生ZOOM交歓会。この度は同期生への黙祷で始まった。社長時代に“英断”をくだし、今ある会社につなげた人だ。新聞の評伝で、再建、という文字を見て、なぜか嬉しくなった。家族葬で済ませた。
この日、司会者の小林さんは、ダイヤモンド婚を祝ったという。上の英断は、彼が常務時代のことだ。彼はソロバンを握ってい。だから、この2人は人には言えない苦労をしたことだろう。
NYから参加した北村さんには、後日、わが妻への配慮すべき諸事項を、メールで教わった。コーネル大学の専門医に学んだというだけあって、思い当たるフシが多々。有難かった。
5、竹垣の補正。一旦積んであった竹を(竹の重みで生じた歪を補正し、腐食が進んだ竹を取り除くために)すべてを外し、積み直す作業であった。
腐食が進んだ竹は、いずれ割って薪風呂や薪ストーブの焚き付けにする。
6、石組み。冷え込みが激しくなり、中断した。完成時に詳述する。
7、リズの来訪。いずれ詳述。
8、本格的冷え込み。23日の朝、畑などで本格的な霜柱が立っており、冷え込みが一段と深まった。
野菜は萎れて、より柔らかい野菜に。
昨年の末、室内温度が5度に下がった時の、無加温の温室はガラスはかくのごとくだった。
霜柱が一面に立った朝の温室のガラスでは、水滴がことごとく結晶化していた。
この朝は、石畳でも結晶がきれいにみえた。
9、気に留めた記事。
a)賞味期限切れ食品。先月、徳島で「趣味期限」が切れそうな食品を「自己リスクで食べてくれ」とばかりの念をいれた行政が、避難の対象にされていた。その非難は「誤解ではないか」とばかりに私は感じて、取り上げた。今月は次のような記事が目に留まった。オカゲで思い出したことがあった。
フランスでは、その昔、こうした賞味期限切れ食品の廃棄を禁止する法律を制定している。そして、大手小売店には慈善団体などを通して貧しい人に食べてもらえるようにすることを義務付けていたように医臆する。
b)日本は大丈夫か。
c) 何かがオカシイ。
d) 頑張ってください。