「きれい!」と、積雪で明けた元旦。小さな神棚でのわが家流拝礼に始まり、上旬は「向こう1年は、かくあれ!」と願いたくなるような日々になりました。
元日の朝餉は親しい詩人と作家を迎え、4人で新年を祝い、昼の虫抑えまで談論風発。夜は茶わん蒸しを添えたお節料理で済ませ、暮れの数日間を振り返りながら就寝。2日、妻は喫茶店を開き、薪スト-ブを焚き、私は知範さん一家を迎えました。夕食にはハマグリの澄まし汁が添えられました。3日はサルの大被害を知ることで明け、急遽清太君を招き、被害の観察と畑で初のミニ土木工事。午後、未来さん夫妻を迎え、元気を愛であい、夜はお節料理にトウガン汁が添えられ、お重を片づけています。
快晴で明けた4日、昼前に妻の客を四国から3連泊で迎え、小雨になった午後に長津親方が訪ねてくださった。夜は、3連泊客を交えて3人で初の鍋料理。初の澄まし雑煮は5日の朝。この日、夜にお鏡餅を開き(例年は小正月)日常生活に戻しています。
上旬は、後半も日替わりメニューのごとき日々が続き、9日は、2年ぶりの関東出張に付き添ってくださるがごとき客を迎え、快晴の10日の午後から出立です。妻は例年より6日も早く(コロナ騒動の影響で)喫茶店を閉め、創作休暇に入りました。この間のトピックスは以下。
まず裕一郎さんから電話。先月の執筆者懇親パーティでの記憶違い(この夫婦は遅刻していなかった)の指摘もあり、歳のせいにしてもらった。その後、年末来2度目のカメラマンの来訪と、久しぶりの中華おこわ。七草粥の日は伴一家を迎え、兄妹の将来を語り合う。翌日、岡田さんと高安先生を迎え、3人で映画会。そして9日は、来訪客と祐斎さんの新春の設えの見学などに出かけています。
中旬は、2泊3日の初出張から始まり、組み立て式本棚の購入で終わっています。この間も来客に恵まれました。橋本宙八さんとは、自然の摂理に沿う生き方の再興を願い、初来訪のGUMI(バンスリー奏者の中口拓実)さんは婚約者同伴で、これからの夢を語らい、20年ぶりに迎えた大垣時代の知友夫妻とは旧交を温めるなど。この歓談中に「そういえば」と気づかされた事があります。元日来お目にかかれたどなたもが、自己完結性を高めようとお努めの様子です。その大切さを自覚しているはずの私は、歯と、心臓と目の定期検診の日を迎え、反省することシキリでした。月の中日にトンガで海底火山爆発がありました。
下旬は、新春来3度目の(1日と14日に次ぐ)積雪で明け、その後、初の大工仕事。初のエンジンソーを用いた薪作り。同じく初の薪割など、トピックスに恵まれました。さらに、9段三角脚立の天板に乗って仕上げたサザンカ双樹の剪定。多様な学者がSDGs問題に迫るズーム会議。知範さんと取り組んだ紅梅やクルミの剪定。そして「音と映像のコンサート」に妻と外出などとテンションが上がり、30日の日曜日はあるクラウドファンディングの集いへの参加でした。ところが、この集いでは予期せぬが生じて、それが大団円にさせたのです。
それはこういうことです。わが国の木造建築を支えてきた大工の「匠」を、なんとかして絶やさないように、との想いが支えてきた集いでしたが、1つのキリをつけられるまでになったのです。ところが、朝に私は左目に不快な痛みを自覚。月曜日の朝まで安静をと弱気になりました。だが出席だけでも、と奮起して出かけたのがヨカッタ。目の負傷問題だけでなく、医療上のある不安まで解消させ得たのです。おかげで、この集いではよき意見を出せたようだし、帰宅するとなんとも良き案内のハガキが待って待っていました。
~経過詳細~
備えあれば憂いなし
元日は、本年一番のお気に入りのしめ縄は「これだ!」と妻に示し、2人で愛でることで明け、夜は人形工房の小窓から漏れ出て残雪を照らす光に、妻の影を思うことで暮れたようなものだ。そして正月は、月末に予期せぬ大団円を用意していた。
この月末とは、29日に始まり31日に「ヨカッタ」と思うまでの3日間のことだが、この中日の日曜日に、大事な寄合があった。「私も」と手をあげて、あるクラウドファンディング案件の仲間に入らせてもらった案件だが、その最終方針の打ち合わせの予定があった。にもかかわらず目覚めた時に、チョットしたパニックに陥れられている。
かつて「呼ぶな」と言ったのに、救急車を妻が呼んでしまい、助かったことがある。マムシに咬まれた時のこと。後年、「君が連れ行ってくれるなら、行ってもよい」とむずかって、土曜日の夜に、妻の軽四輪で第2日赤の救急救命センターに駆けつけたが、おかげで命拾いもしている。
この度は、目が覚めると左目が痛くて開けておれず、原因は前日のスモモの剪定にちがいない、と察しがついた。大鋸屑(おがくず)が目に入ったままにしていたせいだ。だから「これしきの事で」と思ったが、「万が一」との不安にも襲われた。
そっと起き出し、洗眼器で洗おうとしたが、痛い。ぬるま湯を用意して無理をして洗ったが、治まらない。だからいつものように涙で大鋸屑を流し出そうとしていたら、起き出してきた妻に「またですか」と叱られた。調べてもらったが、大鋸屑は見つからず、痛みは増すばかり。月曜の朝まで安静にして眼医者に、と弱気になった。
その時だった。「あの傷で」と驚かされた先月の小林さんの来訪を思い出した。それがヨカッタ。
普段なら制止する妻が、この日の集会には送り届けてくれた。5人しか集えない日と知っていたので、妻も参加することに意義を見出していた。
だから黙ってジッと痛みに耐えるところとなった。このクラウドファンディングを募る意義はよく伝わってきたが、広く一般の方々に、この価値を「解ってもらえるのだろうか」との不安が残った。
この活動は、6年前から始まった催し“匠の祭典”が、コロナ渦のせいで「2年間も飛んでしまいそう」と分かった時に「映像化して(残そう)」とのアイデアが持ち上がり、始まっている。
初回の催しの、その2日目に撮った集合写真を取り出して見て、思い出したことがあった。泊りがけで出かけた3人は、バラバラに映っていた。めいめいが興味を惹かれた匠の技に夢中になって勝手に行動していた。網田さんは「網音製簾」の14代目の「すだれ職人」だし、妻の父も職人で、戦艦大和に関わっている。私は、衣食住面でも、手のぬくもりとか顔が見える関係を大事にしている。それぞれが、夢中になって動き回ったが、集合写真の号令がかかった。
この祭典は、内外の「匠」の技に見とれるだけでなく、この数十年の間に生じた様々な問題や矛盾などに気付かされる機会でもあった。
例えば、その昔(環境問題が生じていなかった時代)は、茅葺屋根が最も安くついたから田舎家で用いられた。だが、今(SDGsを叫ばざるをえない時代になった)では一番高くつく贅沢な屋根になった、という皮肉なことになっている。
これと似たような転換が(生き方の見直しが)生じかねない時代を、いまや迎えつつあるわけだ。そしてその時には、日本の風土と住まう人、あるいは家族などの個別性に適応しやすい木造建築の見直しと、それを可能にする技や術が必要になるに違いない、と私は睨んでいる。
思い出したことがある。1985年(のことだとハッキリ記憶している)に農具の手入れをして、大失敗した思い出だ。それまで頼んできた村の鍛冶屋が廃業し、やむなく関東(日野市)の鍛冶屋に補修を頼んだが、予期せぬ結果になった。
そのころに処女作の添削問題で、編集人のお宅をたずねたことがある。その時に、そのお宅の近辺では鍛冶屋が残っていた。だから編集人のお宅に備中鍬などを送り届け、すり減った鍬の先を継ぎ足す補修をしてもらうことにした。
見たところ見事に直って返ってきた。だが実際に使ってみて驚いた。使い物にならない。その理由はすぐに察しがついた。鍬の角度が変わっていたからだ。
わが家の一帯の固い土にではなく、関東の火山灰系の土質に合わせた補修がなされていたからだ。今にして思えば、その(いわゆる村の)鍛冶屋は京都の土質などご存知なく、親切心から地元(日野市一帯)の土質で使い良いように角度を修正したのだろう。
鍬は角度(土地柄に合わせる)だけでなく、鍬の重さや柄の長さも同様に(使う人の背丈や体力に合わせるなど)個別の配慮が求められる。それが、使う人の労力を最も軽減する。それらの配慮を欠けば、あらぬ労力を強いることになる。1人として同じ人はいない。
そうした問題や負担も、工業化はエンジンの馬力を上げる(挙句の果ては原子力に頼る)などして埋め合わせてきた。結果、その積算が(ガソリンの多消費、CO2の多排出、それを避けたくて原発事故などに結び付け)地球温暖化を始めとするさまざまな問題に結び付けていた。とはいえ、それが当たり前になってしまえば、フランスの黄色いベスト運動ではないが、ガソリンの値上げ一つが、国家を揺るがしかねない騒動になる。
今や、あらゆる面で、こうした矛盾やイタチゴッコが生じており、にっちもさっちも行かなくなっている。足元から順々に改めて行かなければいけない。そうと気づいた人が、立ち上がり、根本を改めるための声を上げ、その輪を地道に広げて行かなければ大変なことになりそうだ。
こうした想いが多くの人たちに伝わってほしい。そう願いながら1人うつむいて、左目をハンカチでおさえていた私に「どうしたんですか」と、声をかけて下さる人があった。
事情を話した。「そらアカン、すぐに」とその人は切り出し、日曜日も目の診療を「やってるところがあって、わたしも助かった」とおっしゃる。
ケイタイで妻に、健康保険証を届けてもらうことにした。待つこと半時間たらず。その間に、私は気を取り戻しており、「これは卑しい考え方でしょうか」と断りながら話し始めた意見がある。それは、このファンドの高額出資者への返礼品に、長勝親方の鋸を出してもらえることになっていたからだ。その真価をアッピールする案だった。
この鋸なら「年老いた女の私でも、片手で柱でも切れました」といって、妻はかつて私を驚かせたことがあった。だから妻も、このファンディングに応じるつもりになっている。それは、阪神大震災の時に、私が取材で訊き出したエピソードの1つも知ってのことだった。鋸が1つあれば助かった命や、助けられたケースが幾つもあった(残念ながら、紙数の関係でそこまでは盛り込めなかった)。
妻はこのファンディングに応じるわけだが、この鋸への期待が引き金になっている。1つの鋸に目星をつけており、予期せぬ災難への心構えを固めるキッカケにしている。
言われてみれば、毎年のごとくに更新する緊急食品なども大事だが、その前に、自らの命や家族を救い出す供えも大事だろう。
だから、「この鋸(長津親方が“窓鋸”に改良して研いだ鋸)は」と、私は口を切った。この切れ味は『超絶凄ワザ』でも紹介してもらえているのだから、この事実をもっと前面に打ち出して、正しく訴えてはどうか、との意見の表明だった。
健康保険証が届いた。ほどなく打ち合わせも終わった。「日曜日も」と勧めてくださった堀田さんに、その施設まで送り届けてもらえることになった。
結果、日に4回さす目薬と4回塗る化膿止め軟膏をもらい、その程度で済む進行具合で止めることができた。万が一の不安は解消された。そこは、子ども連れの女性が目立ったが、市営の特殊な医療施設であった。眼科は日曜日だけなど、他の医療機関が休みの時にだけ開業していることを知った。
この存在を知り得たことが、私にとってはこの日の何よりものご褒美で、ピンピンコロリを願ううえでの心のよりどころにした。
堀田さんには待ってもらえていて、わが家まで送り届けてもらえることになった。まず、学生時代は山岳の動物生態を調べていた。環境省の委託調査では、ライチョウの生態調査をしたが、遭難救援隊の世話にもなった。今も日本鳥類保護連盟・京都のメンバーとして活動している。それは、生態系の保全が願いであり、生態系と融和する人間の営みを大事にしたいが故だ、とも知った。その一環だろう、父譲りの「野鍛冶の設備も活かし続けている」とおっしゃる。「鍛冶屋」ではなく、いわんや「刀鍛冶」ではなく、「野鍛冶」だとの彼の強調に、「ひょっとして?」と心惹かれた。
「レッサーアート」という言葉を思い出した。この言葉を創り出したウイリアム・モリス(イギリス)の提唱は、フランスではアールヌーボーとして広がり、わが国では民芸運動と呼ばれて浸透した。今風に言えば、持続可能な生き方を、つまり多様な各人の個性や、土地柄に根差した麗しい生活を、つまり個性的で「質実な生き方を彩る藝術」の提唱であった。
だが世界は逆の方向に走ってしまった。工業化に向かい、大量生産された画一的な製品を大量に消費する(人間を画一的に見て、購買力に還元するような)方向に走ってしまった。だからアトピーや孤独など人間の心身問題だけでなく、生きる基盤である生態系や、今や地球までダメにしかねなくなってたンだ。
その過程で、工業化と結びついた資本などが、今や工業化を当たり前と思う人たちの嗜好をくすぐる資本が、と役者をかえ、より広く浅く恒常的にお金をかき集めるような仕組みをつくり、目をおおいたくなるような貧富格差を生じさせ始めている。
何かがオカシイ。私にもできることはないか。そうした思いで手を挙げた私だが、この日の目の不具合のオカゲ(?!?)で、まず、堀田さんをこの集いに駆り立ててきたわけを深く知り得たことが嬉しかった。
次いで世の中は、「刀鍛冶」という呼称まで生み出しながら、肝心の「野鍛冶」(人間の個別性を尊重し、土地柄に精通し、環境に負荷を与えないためのきめのこまかい知識と配慮に富んでいた)を疎かにして、挙句の果てはあらゆる人をSDGs問題にからませかねなくなっていたようだ、と気づけたことを感謝した。
さらに、同様の問題が大工の世界でも生じていた。つまり「宮大工」という呼称を生み出し、特殊な「技の世界」に封じ込めてきた。おもえば、環境問題を叫ばずに済まさせていた時代は、「匠」が「匠」たる技を駆使して、それにふさわしい住居を生み出していたわけだが、忘れがちになっていた。同時に、冷暖房機器の発達と地球温暖化のスパイラルを見るががごとき世の中にしていたわけだ。そしていつの間にか、CO2を大量に発生させる住生活(SDGs問題)に関わったり、貧富格差のおおきな社会に踏み込んだりしていたわけだ、と実感し、驚愕した。
今ならまだ間に合う。全国で活躍する大工の多くが「匠」と呼ぶにふさわしい心掛けや技とか術を保ち、守っている。そして、それぞれの土地柄に則した活かし方を心得ている。そうした「匠」が、誇りを保ち続けられる世の中であってほしい。
堀田さんを見送りに出た後のことだ。この日の郵便物を整理したが、あるクラウドファンディングを呼びかける一葉があった。
中村敦夫さんの一人芝居は100回公演が目標だが、95回でコロナ渦に見まわれた。この中村さんの訴えを、何とか一人でも多くの人に、と願う有志が立ち上がっていた。かつて京都で、この公演の呼びかけ人を買って出て、大勢の人たちに助けてもらって開催した『線量計が鳴る』に関する呼びかけだった。この完全映画化を目指す制作委員会が編成されており、その知らせだった。
美しい水、空気、大地、そして麗しき生態系であれ、と叫ぶ生きとし生けるものや、未来世代からのメッセージであるかのように感じた。
2、三ガ日に、ミニ土木工事が
それは暮れの29日に、元アイトワ塾生の伴さんから、「清太をウラジロ採りに行かせましょうか」との電話から始まっている。返答は「No thank you」だったが、なぜか一瞬戸惑い、口ごもっている。
かつては、しめ縄づくりに伴一家も招き、大勢で賑やかに執り行っていた。だから、「清太君を招きたい」と応じたかったのか、と言えばそうではない。元よりそれは(そのプログラムや準備はすでに固まっていたので)無理だった。にもかかわらず、なぜか「No」の説明がしたいのに、言い訳がましくなりそうに感じたのか、戸惑っている。
当時はまず、裏山でのウラジロ採りからしめ縄づくりを始めていた。だが近年は、ウラジロに替えて庭のユズリハを活かすようになっていた。だが、その事情を伴さんは知らない。だからキット、私が小倉山に入り、急な坂でウラジロを採るのが身体的に無理になった、と見ての電話とすぐに分かった。にもかかわらず、なぜか「No」の訳を説明する必要がありそうに感じており、口ごもっている。
それは、この電話がある前に、2つの「死」について感慨深い思いに駆られていたし、その1つが、同じく元アイトワ塾生の父の死であったからかも、と思ったが、電話の後すぐに「それはない」と自ら否定しており、釈然としない気分になっている。
だからだろうか、その後大つごもりの日までかけて、2回に分けて時間を作り、寒風の下で、防草加齢対策の型枠作りに取り組んでいる。除草がとりわけ難しい部分をコンクリートで固める工事の一環だが、そのチョット面倒な作業を成し遂げておいる。それがヨカッタ。
この2日間は、わが家なりの三が日を迎えるための気ぜわしい日だった。それは元日に、2人の来客予定を入れていたからかもしれないが、むしろそれは作業を順調に進めさせたようだ。大晦日の夕食後、妻がお重に煮しめを詰めている間に、私は鏡餅の飾りつけを始め、仏壇と神棚に供える餅飾りやしめ縄飾りなどを済ませている。
11時過ぎに、年越しそばを賞味。薬味のネギの生育(育て方)を「今年は、大成功だった」と2人で愛であった。そして、おそらく結婚来初めてのことだが、12時前に床につき、2人は耳を澄ました。除夜の鐘が、隣の常寂光寺からでさえ響いてこなかったからだ。「まさか」と、コロナ騒ぎを心配したり、風の都合だろうと思ったりしている。
かくして積雪の元旦を迎えた。そうと知ったのは「新聞を」と、玄関を出た時のことだ。だが、その純白の光景に一歩が踏み出せず、チョット戸惑った。カメラを取りに戻った。
恐る恐る一歩、一歩と踏み出しながら、角を曲がったところで、先客(2~3種の動物の足あと)があったことに気付かされた。興味はそちらに移ったようで、その足跡を追って無造作に歩み始めたのに、正体を特定できなかった。
その後、雪がなるべく少ない木陰(降雪が遮られた部分)を選んで歩みながら、写真に収めて回った。
新聞を取った帰路も、片手で、屋根から落ちた雪と、遠景を撮った。
ハッピーが小屋から出て、出迎えたので、ハッピーのしめ縄も撮った。
居間に戻ると“元旦のお勤めを”と妻に急かされ、神棚から順にわが家流に済ませた。わが家流とは、初めて2人で神社に出かけた時に、妻に教えた方式だ。混んだ北野天満宮で随分時間をかけた妻が、後を追いながら、手早く済ませた私に、そのわけを問うた。だから、「何もかもをよろしくお願いします」と言って拝み、その後で、その「何もかも」を丁寧に振り返り、改めて願いを心に込める。むしろ後の方を大事にしている、と説明した。
わが家流礼拝の後、今度はカメラを手に客間に向かい直した。だが、仏壇の様子を写真に収めるのを忘れた。それは、急ぎの用を妻に大声で言い付けられ、灯明をいったん消したからかもしれない。
その用事は、石油ストーブに油を足して、風除室(年末にしめ縄づくりをしたところ)から母屋の座敷まで移動させておくことだった。妻が台所で来客にそなえている間に、私は石油ストーブの点火を済ませ、急ぎ庭に出て小径の雪かきや、小枝に積もった雪を払い落してまわった。
元日の4人での祝は、福茶、屠蘇酒、白味噌雑煮、そしてお煮しめに、と進んだが、それらを写真に収めることを忘れていた。来客は、とても開放的な詩人までが、それは礼に失するのではと思って、写真を控えていたとおっしゃった。
手みやげで頂いた生菓子で「抹茶を」と、なった。年男の私は、トラがテーマの1つを選んだ。その後、また時の流れを忘れてしまい、あわてて餅を焼いて腹の虫を抑え、お開きにした。
この日はついに、新聞も賀状にも目を通せずじまいになった。夕食は、お節料理に茶わん蒸しがついた。食後、妻は洗い物に手をつけた。その曲がり始めた背を眺めながら、なぜか60年も昔の冷酒の味を思い出し、私も「歳だなあ」と思った。
サラリーマンになって初めての正月、初出社の思い出だった。モーニング姿の役職者や、女子社員の振袖姿は通勤電車の様子で予測がついた。だが、初仕事が祝杯で始まり、あいさつ回りで終わる、とは思ってもいなかった。
その時の祝杯の、割きスルメと冷酒がなんとも美味に感じられた。
妻が洗い物の手を止めて用意した冷酒を、チビリチビリと飲み始め、今度は、母屋の玄関と座敷に飾った生け花と鏡餅飾りに思いを馳せた。今年は父好みで、庭の花だったが、「お2人にも眺めてもらえてヨカッタ」と、思った。
次いで、ほろ酔い加減で、思いを馳せたことがある。残雪を頼りに温度計道をのぼりながら、「あれでよかったのかな」と、振り返った暮れの数日間の出来事だった。
年の瀬が迫った時に知らされた2つの「死」や、ウラジロ採りを清太君に頼めなかったわけに想いを馳せ始めたわけだ。かくしてお屠蘇気分の1日が終わった。
2日は、早くも門扉のしめ縄からミカンが盗まれたが、それはカラスの仕業だと知ることから始まった。妻は薪スト-ブを焚いて喫茶店を開き、私は知範さん一家を迎えた。
昼は初の麺類で、にしんそば。午後は、元日の新聞と賀状に目を通して、返事をしたためたり、その後は薪ストーブで(義妹に借りた鉄の容器を初使用して)焼き芋に挑戦したりと、のんどり過ごした。
その頃には既に新春最初の事件が生じていたのかもしれない。だが、この日は夕食にハマグリの吸い物が添えられ、ご機嫌の内に眠っている。
実は昨年、行きつけの2軒のスーパーでは生ハマグリが手に入らず、正月の楽しみの1つを果せなかった。この度は小さな行きつけの魚屋で見つけ、買い求め、その足で2軒の、これもゆきつけのスーパーに回って確かめた。共に生ハマグリを取り扱っていないことを知った。真空パック入りの調理済みしかない。
3日は、朝の野菜の収穫に出た妻が、サルの大被害を被っていたことを知り、憤慨することしきり、で始まった。新春初のこの事件のおかげで、今年は三が日の内に、早々とミニ土木工事に取り組むことになり、私はむしろ喜んだフシがある。それはひとえに、そのための型枠を暮れに作って置いたおかげだ。
3、時代を読みたい
「おサルさんにメチャクチャにされました」との妻の報告から3日の朝は明けたようなものだ。反射的に飛び出して畑に駆けつけたが、ネギの畝には被害がなく、ヤレヤレ。また、興味本位かのごとくに、トンネル栽培をめくるとか、防草ネットを引っぺがすなど、イノシシのような破壊行為はなく、これもヤレヤレだった
問題は、まずダイコン。上部だけ齧(かじ)っているかと思えば、手当たり次第に(と見えた)引き抜き、一部だけかじって捨てたり、「細い」と知ると、抜いたまま放り出したりしていたことだ。拾い集めて悔しがることしきり、だった。
ここでチョット疑問が残った。引き抜いて、肩の部分だけかじって捨てたのはどうしてか、それは辛みが苦手だからだろう。だが、引き抜かず、かじれる肩の部分だけ食って、あとは見捨てたのはどうしてか。分からない。
それはともかく、と思い直したことがる。なんとかしてこの災難を「予期せぬ成果」に出来ないか。そこで、抜いたままかじりもせずに捨てた細いダイコンを、移植実験に供してみることにした。昨年は、小さな苗の移植に成功しているが、ここまで育った段階で(しかも乱暴に引き抜いても)再生するのか否かを確かめたくなった次第。
次に、自然生えのからし菜の被害では、妻は「贅沢ね」と憤慨。葉をすべて葉柄ごとちぎりとって丸坊主にしておきながら、葉はすべて捨て去っており、葉柄の固い皮をめくり取り、軟らかい軸だけを選んで食べていたからだ。
だから妻に、「人間だってセロリを、ああやって食べるではないか」と、慰めたが、得心しなかった。
ブロッコリーは全滅だった。人間が食べる部分をボキッと折り取っておきながら、蕾はすべて捨て去り、軸を、それも硬い外皮はむきとって食べていた。
わが家では長年にわたって、軸が長く育つ脇芽を好んで食べてきた。それは軸の方がむしろ美味、と知ってのことだ。だから後年、スティックブロッコリーと命名された新品種が開発された時は「案の定」と、と妻と顔を見合わせたものだ。
とはいえ、サルの仕業には「案の定」とは思えなかった。今年はスティックブロッコリーの苗を優先して植えたが、それがアダになったわけで、悔しかった。
よく見ると、折り取れない分は、軸にかじり付いており、硬い皮を吐き出しながらやわらかい部分だけを食べていた。妻は、しげしげと覗き込んでいたが、かじり付くサルの様子を連想していたようで、嬉しそうに見えた。
虫害被害で成長が遅れていた分は、「2月に入ってから収穫を、」と、晩性に期待していた。だが、ポキッと折り取られており、憤慨。だが、脇芽を1本、採り残していた。
それにしても、と思った。暮れに一度、サルが出没しており、その時に用心して「ユズを採っておこう」と、即実行した。にもかかわらず、肝心の畑で、電柵のスイッチONを忘れていたわけだ。
そこで「もうよかろう」と、10時前に伴さんに電話を入れ、清太君に「駆けつけてもらえないか」と電話を入れた。後学のために猿害の点検をしておいてもらいたかったし、暮れに造っておいた型枠が活かせそう、と気づかされたからだ。
防草加齢対策の工事を完成させる日にできそうだ。「ならば」と思い付いたことがある。
セメントを流し込む作業は、2人で取り組めば格段に安易になる。この相互扶助の意義を清太君には是非とも心に焼き付けてもらいたい。その心掛けを思い出せるように、清太君には名盤ヨロシク、コンクリートに名と日付を刻み込んでもらうことにっした。これが、当年初の若者への願いであり、ミニ土木仕事になり、新たなメモリアルを1つ増やせた。
だが、時期が悪く、コンクリートが凍てかねない。そこで、「夕刻までに防寒対策を施しておく」と約束した。この日が初の庭仕事着。
この日、昼過ぎに未来さんが、夫の和樹さんと久しぶりに来訪。和樹さんの親元での仕事だが、多忙の様子。安堵した。とはいえ、時代の変わり目だ。目指すべき方向を見定め、見失わないように、それが蓄積型・構築型の仕事の進め方に導く、などと話し合った。
和樹さんは、「ダイコンは好物」といってサルがカジッタ1本を持ち帰ってくれた。残りは、わが家で消化したが、新たな活かし方にも妻は挑戦した。
その後、喫茶店に嬉しい来客があった。3昔もむかしに世話になった顧問先が縁で、知りあった人のお嬢さんだった。生前の「父からいつも噂を」といって、今は母親となり、家族連れで喫茶店を訪れ、声をかけて下さった。
快晴で明けた4日は、3連泊の妻の来客を四国から迎える日だった。彼女が昼前に着いた直後から、雨が降り始めた。長津親方は小雨の下で迎えたが、北海道出の親方に、花びら餅(この時期しか味わえない)をふるまい、「初めて」と喜んで頂けた。
翌朝、初の澄まし雑煮。夕刻に、例年より10日も早く、お鏡開き。妻は包丁で「切り易くて、黴が生えない間に」との願いだった。私は、旧暦の習わしだから、と(黴問題を)思ったり、テンポが速い世の中になったのだから、と考えたりして賛成し、年賀状の丁寧な見直しをして、虎の絵の2点を始め、ベスト8を選んだ。
墨絵の虎は、「大垣市女性アカデミー」の受講生のお一人で、アメリカ研修旅行もご一緒した。20余年来毎年、伸びやかで創造的な墨絵で下さる。
虎にのった大国さんの方は、仏教漫画家として有名な友人。
次の2点は、その「想い」に心惹かれて選んだ。毛筆の1葉は、菓子の有名老舗の中興の祖。もう一方の、夫人の添え書きがある方は、いつもディープシンキングされている学者の想い。オミクロン株の動きに注視していた私は、いよいよコロナウイルスも、と思っていた矢先のことで、膝を打った。私たちは、ウイルスのおかげで哺乳類に進化しており、今があることを、改めて振り返った。
単色刷りの版画は、小学6年生の時に1年間、一緒に登校し、東京に転居し、その愛犬パットを引き継いだ2歳年下の元少女(東京芸大に進んだ)の作。
「坂道」の方は、1985年来3度に亘ってアイトワの建築に携わった工務店の社長の作で、『庭宇宙・幸せが住む庭』で紹介もしたし、幾度となく業態の変容を勧めた。
その後、規模を縮小し、採算が合う仕事だけ引き受けるようになり、夫婦で海外旅行ができるようになった、と喜んでいただけた。
息子を被写体に選んだ人は、佛教大生OB(講義の一環で引率された最後のグループの1人)で、アイトワでの農的生活体験プログラムの糸をつむいだ人。その糸が、コロナ騒ぎのせいで切れかねなくなっている。
フランツ・マルクの虎を選んだ人は(宮沢賢治のようなスクール・アーティストを展開し、読売教育賞受賞など)市立小学校の異色の元教諭。
フランツ・マルクは動物に感情を託し、その内面を描こうとした画家。ドイツの表現主義派の1人。たしか、退廃芸術としてヒトラーに迫害されたミヒャエル・エンデの父などと仲間だった(?)。
6日。再訪してもらえたカメラマンのおかげで“中華おこわ”を賞味できた。実は、年末に紹介された人だが、その折の手土産のクッキーを、妻は「ツマガリ!」と大喜び。西宮の女学高時代での憧れの1つを思い出したようだ。
その後、再訪願えることになったが、妻は中華おこわで迎えた。話しの輪に割り込みたかったようだ。私は久しぶりの中華おこわにありつけたし、「ツマガリ」の良心的な商法も知り、赤穂のノアを思い出しもした。
3連泊の妻の客は“七草粥”の日に、次の機会を! と語り合いながら帰っていった。
その後で、清太君の新学期が「間もなく始まる」と言って伴一家が来訪。
コロナ騒動下で農業高校の受験者数は前年度を下回った、と聞かされた。むしろ逆であってしかるべきだが、と嘆かわしく思った。
妹の藍花さんの中学校の教諭は、彼女に、農業高校を滑り止めにするように、と指導したとか。だが彼女は、第一志望欄に農業高校だけを記入して提出。大学も、農学部のよいところを目指す、という。
この流れを知って、藍花さんの感受性(先見力)や意志の力にバンザイ。リモート授業などは成り立たず、机の上では学べないことが学べる学校であることや、兄の変身ぶりから、その価値を感じ取ったに違いない。
いつもは穏やかで控えめな葉子さんだが、この日はこの娘の選択に安堵や共感の色を露わにしたように見受けた。
夜、睨み鯛をほぐしながら、この兄妹の中学校教諭の判断では「まずいんじゃない?」と思った。まるで敗戦の年の春に、勇んで陸軍幼年学校や予科練を選ばせた教育者のごとし、になるのではないか。なるに違いない。
一家を見送った後で、七草のホトケノザに想いを馳せた。今年は「探せなかった」と妻が話していたからだ。その採取場の用意を、今年の目標の1つに掲げた。
8日の朝は、今年最後の白味噌雑煮。
この日、岡田さんのおかげで、高安先生を久しぶりに迎えて映画会。『TRUE COST』を観て「案の定」と思わせられた。
こうなる事態を予感して、脱サラし、著作活動に踏み出したようなものだが、改めて「よき判断であった」と振り返る機会になった。それは地価の高騰が始まり、バブルという言葉が誕生する直前だった。当時は、私の想いや行動は、世に逆行、荒唐無稽、ほら吹き、あるいは「わけの分からないことをいう人」などと散々だった。
だから、こうした主観的に要約した言葉が独り歩きしかねないことを心配して、せめてその想いだけでも文字にしておかなくては、と思ったのがヨカッタ。中には、次の一歩のヒントにして下さる事例になるかもしれない。
折よく、妻が善哉を振る舞ってくれた。このインターバルの後は、『椿三十郎』を観て、憂鬱で重苦しくい気分を晴らした。3度か4度目の観賞だったが、見間違えていたところがあった。
9日は、翌10日からの2泊3日の関東出張(およそ2年ぶり)だったが、そのエスコートのために、といってもよいような客を迎えた。おかげで、祐斎さんが新趣向で迎えたという新年の設えも鑑賞できた。彼は重兵衛という秋田犬のために、花嫁候補を迎え入れて、花子と名付けていた。
そして10日の夜、関東でシャンパンとテリーヌから始まる夕食に誘ってもらえ、 “宝珠茸”というキノコも初賞味。
ホテルの温泉大浴場は、オミクロン報道のオカゲか、11時だったが、貸し切り状態。翌6時半の朝風呂も貸し切りで、ゆったりと長風呂。
この久しぶりの出張は、ことのほか快適だった。大勢の顔見知りとは、まるで空白期間など感じないペースを取り戻せた。初顔合わせの人とは、旧知の仲であるかのように、互いの心に踏み込めあえたように感じた。さらに、食事時も、これも初賞味などが待ち受けており、時の流れを忘れさせた。
ところが逆に、痛いほど空白期間を実感させられたこともあった。それはオフィスがスッカリ新装なっていたからだ。ここも1つの仕込みの期間に活かせたわけだ、と嬉しくなった。とりわけ香りたつがごときトイレにビックリ。ワクワクさせる階段、あるいは補色や省エネへの配慮などに次々と関心させられた。
4、3組のオシドリ夫婦
正月の中日は、チョット不気味な地殻現象(?)で始まっていたことになる。16日は不気味な朝焼けで明けた(カメラに収めた)が、前日にトンガで大噴火があったことを知った。予報官も、海底火山と津波との関係には不慣れであったようで、歯切れが悪かった。
16日、「コロナのおかげで、といってよいのでしょうか」と、遅ればせの新年の挨拶をする家族を迎えた。熊本出の友人が創業した生業を継ぎ、展開中の、子連れの夫婦だが、友人は既に田舎生活に憧れて隠居している。つまり、親孝行息子、吉田大輔さん一家の来訪だった。
その両親が終日の立ち仕事で、持病のある体をすりつぶす姿を見かねて脱サラし、妻の勤め人としての収入で生計を支えながら、手伝い始めた。そして少しずつ発言権を高めて行き、見通しを立てたのだろう。その生業に、妻の有美さんも引っ張り込んだ。
有美さんは、手作り食品の製造販売活動(原料や調味料などを、すべて無農薬有機栽培品の厳選から始まる)に取り組み始め、ネンネコで子どもを背負って働きながら2人の娘も健やかに育てた。夫唱婦随で独立も果たした。
やっと見通しが立ったので、店舗の改装も「これを機に」と言って帰っていった。それらの展開は友人に、さんざん私が勧めていたアイデアだが、息子夫婦は独自の判断で踏みだしたわけだ。自己完結能力を、さらに高める方向である。
コロナ騒動をその好機(ひとえに顧客のことを思い、2人で励めばかなう活動)に活かしているわけだが、この夫婦ならキット願いがかなう、と思わせられた。
こんな思い出もある。わが家の一角に、特殊な小売り施設を(木造建築大北の乙佳さんに)造ってもらい、そこをPRの場として観光シーズンに(津の吉・京都の有美さんに)活かしてもらおうとしたときのことだ。
恵方屋台と名付けたそのミニ店舗が、気が付くと、商品を並べたままに、空っぽになっていた。その理由は10分もせずに分かった。忘れ物をした人を追って走り、無事に届けていた。
中旬には初の来訪者の予定が幾つか続いて入っていた。その最初はこの日の午後のことで、聞きなれた声のアポイントから旧交を暖めることにんった知人の来訪だった。二昔も以前に声を聞き覚えた人で、養鶏場の経営者だった。大垣時代のことで、幾度となく夕食をご馳走になりながら歓談した人だ。子犬もつれたその夫妻を、嬉々と迎えた。
「あの頃の話が現実化したので」今後の話を、と言ったような来訪動機だった。近代養鶏を見限り、多角化を計った、とのこと。土産の一つに、その一環の地卵も頂き、これぞ卵の真価、と70余年昔に自分の手で育てた鶏を思い出した。妻も60余年前に、家族で育てた鶏で覚えた卵の味であったようで、卵かけご飯が続き、ドンブリも久しぶりに賞味した。
この日、私たち2人は、その昔、共に無趣味者と笑われていたことを知りあった。ゴルフ、出来ない。マージャン、しない。ダンス、無理。ちょいとイッパイ、とまで行った時のことだ。「申訳のないことをした」と思った。
歓談のための酒を好む私は、その昔、この人が下戸だと気づかずにいい気になっていた。夫人はガーデニング一辺倒で、ご本人はミュージシャンだった。
この夫婦を見送った後で、ふと気になったことがあった。鳥インフルエンザでは、数羽の感染で、何万羽、何十万羽の仲間を皆殺しにして廃棄処分する。逆にコロナ騒動では、一人も死なせるなと躍起になるが、これでは人間も危なくないか、と心配になった。
まず、ニワトリに感染させた野鳥の仲間は、クラスター感染した分も、免疫力を高めて生き残ることができる。その生き残った分を、猟で得ると、私たちは食べる。
クラスター感染したニワトリも、加熱すれば問題はないはずだ。せめて、加熱処理するなどして有機肥料に生かすべきだ。さもなければ、命に対して失礼ではないか。
戦時中なら、鳥インフルエンザで死んだニワトリも、国は食料にする方法を国民に教えて、無駄にさせなかったはずだ。何かが、おかしいンじゃない。
翌日、インドの笛バンスリー奏者のGUMI・中口拓実さんと、インドでヨガを教えていた婚約者の来訪だった。妻の人形を気に入って頂けたようで、とても楽しくなる要望を聞かせてもらえたし、義妹が磯辺焼きを作ってくれたので、話しも弾んだ。
お二人は共に、インドの文化に心惹かれた人で、そこに共感が生まれたようだ。それだけに、このお二人と「もう1年早く巡り合っておきたかったなぁ」と思った。唯一のインド人の友人・サンディップ・タゴール先生を昨年失ったが、彼はインドの文化だけでなく、インドの社会に精通していた。紹介がてらにもう1度、一緒にインドを訪れたかった。
5、なぜか戸惑った
昨年の暮れだった。夫婦2人暮らしの知人から、夫を失い、葬送した、との手紙が唐突にあった。なぜか返事の手紙になかなか取り組めなかった。ヤットの思いで綴りはじめたのはメールで、「お知らせを頂き、お返事を」と、と記し始めていた。
不思議なことに、その時に、なぜか今は亡き5人の恩人(いずれの「死」にも「葬儀」にも立ち会えていない)を私は振り返っている。
なぜ、この(幼い頃から社会人ホヤホヤの頃までに触れ合った)5人を思い出したのか、よくわからぬままに、今度は「死」について、想いを馳せた。
「絶対」という言葉は「死」のためにある、と私は考えており、「生まれたもの」は「絶対に死ぬ」とは言える。だが、他のことはすべて相対化出来そうだ。だから、私はいつしか、「どのように死ねるか」を意識するようになり、どのような死であれ、受け入れられそうだ、と思うようになっている。
そうこうしているうちに、やっと私は言いたかったことが分かった。だから、「ご主人はキット、あなたにメソメソせずに生きてほしい、と願っておられることでしょう。そして、あなたの命が尽きる時に思い出して、訪ねてほしい。訪ねて、嬉々と生きた余生を報告してほしい。そう願っておられるに違いありません」と、綴った。
翌日のことだ。元アイトワ塾生の財木孝太さんから、その父について「母は、私が一歳の時に離別しているので、正式には喪中ではないのですが、私の気持ちは服喪中ですので、年末年始のご挨拶は控えさせていただきます」と知らされた。
実はこの日、朝刊で北一輝に触れた連載小説を読んでいた。そして、139年前のことだが、北一輝の命日であったことも知った。それだけに、とても落ち着かない心境になった。それは、父を思う孝太さんの心を、かねてから察していたからだ。
孝太さんは近年まで、戦争で父を失ったもの、と(母に教えられるままに)思い込んでいた。西陣織の老舗に生まれた母は、敗色が濃くなった1944年に婿を取り、翌敗戦の年に孝太さんに恵まれた。その後、夫と引き裂かれて、女手1つで老舗を守りながら孝太さんを育て上げ、孝太さんに事業を引き継がせている。
後年、孝太さんは戸籍謄本を求める進学先を選んだ。その時に、母親は観念したかのごとく、涙ながらに打ち明けた。「私が満一歳の時に、厳格な祖父により母は離別させられていました」と知った。「実はその父は今も生きており」平和主義者で、反戦運動の活動をやり続けた人・ダダカンである、とも分かった。
母が差し出した一通の封書には「孝太へ」との表書きがあった。文中に「母の愛に学び、父の鐵の肉体に倣え」とのくだりがあった。
その父・糸井貫二は、小学生時代にキリスト教の洗礼を受け、関東大震災で被災している。その後、国体に体操選手として参加。1943年8月、久留米戦車隊に駆り出され、戦車「自爆兵」の訓練を受ける。
翌年、結婚。孝太さんを授かった。敗戦の年に、今度は徴用され、福岡県の炭鉱で米軍捕虜や強制拘引された朝鮮人たちと共に、過酷な採炭労働に従事させられている。ダダカンの反戦平和運動が国家の意図と合わず、国に逆恨みされ続けたわけだ。
わが国は敗戦後も、この人命と人権を尊重する平和主義者を国家反逆者に問い続けた。それは、アメリカのレッド・パージの影響だろうが、警察の監視下に置いた。だから西陣織の老舗には不適と、離縁を強いられた。
2021年12月19日ダダカン老衰で死去。遺体は検体に、通夜・葬式はなし。これが本人の意思であった、と知らされ、孝太さんには片身として万年筆が届けられた。
北一輝は、国のありように抱いた危機意識とそこからの打開策を文字や言葉で表し、反逆者として国家にあえなく殺された。後年その危惧は露わになり、糸井貫二は芸術活動やパフォーマンスでその意思を表明し、人生を狂わされた。ダダカンは敗戦のおかげで一命はとりとめ、その活動に生涯をかけ、その作品は、仏ポンピドーセンターでも収蔵されているようだ。
とはいえその陰で、一人の女性を忸怩(じぐじ)たる思いのまま生涯を終えさせたし、一人の男児には釈然としない人生を歩ませ、今も孝太さんは割り切れない思いで日々をすごしている。
この日、同じく元アイトワ塾生の伴さんから「清太をウラジロ採りに行かせましょうか」とのありがたい電話があったわけだ。その返事に私は戸惑っている。
それは、よく考えてみて、「No thank you」と言わざるを得ないこと自体に問題があったことが分かった。ウラジロを山からなくしていたことに原因があった。だがそこに一抹の後ろめたさを感じていたようで、思い出そうとする己に気付きながら、戸惑ていたようだ。
長年にわたり、心の整理をつけぬままに、庭木のユズリハに代替させてお茶を濁してきたわけだが、そこにあらぬ潜在意識の芽が潜んでいたようで、いたずらな戸惑いに結び付けたようだ。
しめ縄づくりは、たしか1963年(翌年の元日に用いる分)から、毎年暮れの30日に、裏山でウラジロを採ることから始め、敬虔な気分に浸って来た。その間に、近隣の子どもを誘ったり、アイトワ塾生を主に20数名近くで取り組んだりするようになった。
その慣例化に問題(その第1は雨天と、準備の関係など)を見出し、先行きを案じ、一人で(雨天でも可能な場所で)の行事に戻した。
その後、裏山でのウラジロ採りが出来なくなっている。そのわけは、陰樹林化した山を、アカマツの山に戻す工事の過程でウラジロが消え去ったシマッタからだ。そうと気づいた時は、既に時遅し、と判断しており、忸怩たる思いが今日まで続いている。
元はアカマツ山で、いわば私の原風景であった。それは、人の手が入っていたから(痩せた山になり)保たれていた。その後今日まで、かつてのように、落ち葉を農作の肥料に、柴を日常生活の燃料などに、などと競い合うようにして(入会権に基づいて)採りに入る人はいない。
それに相当する組織的、計画的な山の手入れもされなければ、再び陰樹林になってしまいかねない。どうして市は、目的を達成させるために、痩せた山を維持するための長期計画を組んでおかなかったのか。せめて、それに代替するボランティア活動組織などを編成しておくなど、手を打っておくべきであった、と思う。
もちろん、関係者は真面目に取り組んでいたに違いないが、忸怩たる思いで振り返らざるをえなかった。。
6、いろいろあった
お節明け。今年は鏡餅を10日も早くひらき、水餅にして、通常の生活に戻った。だから、食事は、しばらくは(ボウダラやクロマメなどのお煮しめとか、カズノコや酢の物など活かした)折衷食が続いたが、早々と野菜タップリの平常食になった。
にもかかわらず、餅は不定期に幾度かついてもらい、澄まし雑煮や善哉などを賞味することにしてもらっている。
見事な富士山。快晴の10日、午後の新幹線から2年ぶりに富士山を見て、穏やかな気分になった。だが、5日後にトンガでの大噴火があったことを知っており、「いずれは!?!」と心を引き締めた。
だが、東京ではまだ(十重二十重に地下を掘るなど)都市開発が集中していたことを知り、なぜか敗戦末期の決死の作戦を観る思いがしている。目先の改善ではなく、現在の延長戦上にはありえない未来に立ち向かうために、せめて新規投資は「分散」に活かし、国防に努めるべきだ。
その想いが余韻として残る26日に、宙八さんを迎えて喧々諤々。地方が地方力を発揮しなければいけない時代だと、つくづく感じさせられている。
なまめかしいダイコン。1つの謎が解けて、再びほほが緩んだ。サルが、抜いてかじったダイコンと、抜かずにかじったダイコンの違いが生じたが、その理由が分からず、首をかしげていた。なんてことはなかった。抜けなかっただけだ。引っこ抜こうとするサルの姿を観たかった。
ダイコンの移植。相当乱暴な移植でも効く、と知ることができた。問題は、根が根菜らしく十分に育つか否かだが、育たなければそれはそれで、2つ目の発見になる。わが家ではダイコンの花芽も重宝しており、根に投じるエネルギーや養分を花芽に集中されるようなことがあれば、花芽用のダイコンの育て方を発見したことになる。左から、移植時。月末時、と同日の除草後。この畝にも自然生えの野菜が沢山見える。手前右は、ダイコンとヒノナの交配種だろう。
ちなみに、シカが抜いたオカゲ(?)で埋め戻したホウレンソウも、無事に根付き、移植が効くことが分かった。晩稲(おくて)として一人前に育つか否か。
サルが葉をことごとく食いちぎったカラシナは、思っていた通りに新しい葉を見事に出し始めており、春には収穫できそうだ。
初仕事。3日のミニ土木工事に始まり、29日の知範さんと取り組んだスモモの大枝落しまでの間に、石工作業などを除き、あらかたの初仕事に取り組めた。3日に清太君と取り組んだセメント仕事は、無事に固まったし、清太君のメモリアルも出来た。左から、before、after、そしてメモリアル
スモモの大枝落しには忸怩たる思いで取り組んだ。半世紀前の私の無知と、良かれと真面目くさって下した判断が、この木を育てた主たる目的を無にさせてしまったからだ。
60年前に、いずれガラス屋根の広縁(冬場は温室に、夏場は木陰の涼しさになる)を建て増すことを夢見て、小さな家を建てた。そして、木陰を作らせるスモモの苗木も植えた。
30年後に建て増した時は、スモモの木は立派に育っており、夏には木陰をつくった。
ところが、幹の根元に生じた菌類を、良い柄の苔だと思ってはびこるに任せてしまい、気が付いた時には大きな洞をつくらせていた。だから、ガラス屋根を覆わせたるために伸ばさせた太い枝の重さが、負担となって、木を傾かせ始めた。
だからこのたび、その枝を切り取らざるを得なくなった。そこで、「真面目に不真面目なことをしていた実例」を、知範さんに学んでもらおうと考え、枝の切り取りを手伝ってもらった。
その前に、手を施しておいた作業があった。それは、その先で茂り、ガラス屋根を覆っていた幾本かの枝を切り落としておくことだった。
この作業は、枝の下に陣取って、見上げながら顎を突き出して鋸で切り取る必要があった。この時に、目に大鋸屑が入ってしまい、翌朝のプチパニックにつなげてしまったことになる。今後は、夏の木陰が望めなくなったわけだが、秋の(ガラス屋根の上に落ちた)落ち葉掃除が不要になった。
とはいえ、これを加齢対策の一環とは考えたくない。今後は冷房という余計な負担を、家計だけでなく地球にも背負わせることになるからだ。
大工仕事。どうしても収納したくなったアルバムかあり、組み立て式の本棚キットを買い求め、願いを半日がかりでかなえた。寸法を縮める加工だったが、計測間違いが生ずれば、他の部品をすべて無駄にさせかねず、加齢を嘆いた。わずか11の部品の内、6つを縮めるだけのことなのに、1つ1つ切っては組み立てるような手順をとらざるを得くなっていたからだ。
倉庫の放り込んであったアルバムを、時間がある時にもう一度見直したくなったわけだ。それは海外出張時の写真記録で、主に服飾の定点観測調査を補足する視覚資料だった。
1960年代後半から70年代前半にかけの記録の一端だが、私の意識を「ワクワクからハラハラ」に一転させた頃の気分や意識を振り返りたい。その頃から、家屋も建売や団地などへと移行し、心身共に個別な人が(人に合わせて棲み処を、ではなく)、ヒトを棲み処に合わせるようになっている。
エンジンソーを用いた薪作り。妻の提案で、薪作りをした。昨年切り倒したクヌギが雨ざらしになっていた。今頃になって妻が風呂焚き場に、手ごろな太さの薪を運び込み始めた。それらは焚口からはみ出す寸法だから、私は放置していた。そこで、私はエンジンソーで加勢して、冬場の風呂焚きなら10日分ほどの薪を風除室に積み上げた。
もう半年早く手をつけていたら、5割ほど火力が上回っていたに違いない(と言いたかった)。その他いろいろの面からも、地球環境への負荷問題として掘り下げたかったが、妻の面倒を顧みない動きと意識に応えて加勢した。
エンジンソーの刃の目立て。目立てに要する専用道具を作り、収納場も決めておいてヨカッタ。ものの半時間足らずで終えられた。
薪割り。寸法が短い玉切りは、雨に濡らすまえに私が軒下に運び込んでおり、その割り残していた分があった。このたび割り切って、旧玄関の雨避け屋根の下に積み足した。まだ、薪を割る力やコツはそれほどなまっていない。
サザンカ双樹の剪定。8段三角脚立の天板に乗らないとか、とうていなわない剪定だが、挑戦した。背丈を1mほど、枝の量は半分に、葉の量では3分の1に減らした。
そのテッペンから妻の姿を見かけ、ケイタイに収めた。そしてその場所から妻に、カメラで撮ってもらおうとしたが、まず叱られた。だが、この剪定は妻のかねての希望だったし、これは役割分担の一環だった。
妻の役割は、料理や洗濯、掃除やハッピーの散歩など、ボケなければ生涯取り組めそうなだけに、羨ましい、と思った。
この剪定は2年から3年に1度行っている。だから、これが最後になるかもしれないと思い、庭の見晴らしも撮った。
紅梅の剪定。この木(40余年前、商社を辞める時の部下の贈物)にとっては少し可哀そうな剪定時期だが、この度も実施した。このタイミングなら切り取った枝を生け花に活かせる。例年より(蕾の育ち具合で計算すれば)10日ほど早い剪定になったが、それは大きな枝を切り取る予定だったので、蕾が固くて落ちにくい時期を選んだ。
また生ける場所を、日陰や日当りの良いところに、と工夫しておくと開花期を2倍近く楽しめる。
この日は、折よく撮影取材がはいったので、その一部始終を映像に収めてもらえた。切り取った剪定クズ(にされかねない分)を、すべて生かして(先月剪定したロウバイも添えて)、生け花に挑戦した。
元気づけられた贈り物。とても素敵な音叉と、それを打つしゃれた鉱石にはじまり、商社時代の友人からはあらたな作曲を紹介するCDが、あるいはNZとデンマークの友人からは写真やキャンディなどが、と贈り物にこ多々恵まれた。
ハッピーに暖房を、と妻は考えて、大寒の日に母屋で遊んでいた極小形のホットカーペットをハッピー用に下し、ハウスに敷いた。3日間もハウスから放り出すことなく過ごしていた。だが、ついに咬んで引っぱり出すと、その後、妻は敷いていない。
あと5年~6年後に(引っぱり出す好奇心や力がなえ、寒がりになってから)敷いてやればよいのではないか、と思っている。
野鳥への贈物。しめ縄を解体し、風呂の焚きつけにしたが、稲穂は残し、野鳥にプレゼント。薪作りの折に、木に巣食う虫が出てくるとこれも野鳥に、と雪が多い冬場であっただけに心がけた。風除室に入り込む野鳥もいたので、ノバト用の餌をわけた。
ズーム会議に出かけた日は、妻が「奥様に」と、持って歩きにくい花束を用意した。夫人は数分もせぬうちに、包装を解いて、そのまま花器に。恐れ入った。この花器に、感心と関心。友人が、その作家のいくつかの作品を紹介してくれた。
「音と映像のコンサート」に出かけた。コロナ騒動がニギニギしく、キャンセルする人も多かったようだ。それだけに、映像と4種の楽器が奏でる即興曲のセッションは、不思議な雰囲気を醸し出した。アンコールでは、会場も巻き込み、打ち解けた。
その頃にはすでに、左目でコロコロしていた大鋸屑が少しずつ角膜を痛めていたことになる。それが大団円に結び付けた。