目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 上旬の日替わりメニュー
2 記念になった1時間21分
3 “習慣”という妻の加齢対策
4 狂った気象に備える青菜対策
5 横山禎子さんと再会
6 その他
BISES と 穏やかな生き方
大豊作のカキの葉が色づき、チマサンチェの葉をかき採り始め、第2次のダイコンの畝で保護色のバッタを見掛けた1日で明けた霜月ですが、上旬は日根野章子さんご夫妻を豊田市からお迎えすることで過ぎ去りました。この間に畑の北半分から夏野菜の支柱が消え、他に予期せぬことも多々生じるなど、多様な日替わりメニューのごとし、の日々でした。
朝にチマサンチェがサラダになり、夕に懸案の塗装仕事を仕上げた2日は、昼にゴールドラットの岸良裕司さん一家を迎えています。翌3日は午前に岩村の竹内京子さんを、午後は伴さん父子を、と迎え、それぞれ嬉しい一時を過ごしたのです。4日は朝一番に当月記の先月分原稿を知範さんに引き継ぎ、9時から昇さんを迎えて1日がかりの大剪定に取り組み、夕刻にはBISES(ビズ)で知り合った懐かしい人と再会しています。ハッピーが甘柿を自主的に食べることを覚えたのもこの日です。5日は望さんに来てもらえ、甘と渋の柿を大量に収穫したのです。
苗床で育てた第2次のチマサンチェの苗を植え付けた6日は、夏虫の鳴き声を(陽気のせいか)囲炉裏場近くで聞いたのです。夕刻には、冬野菜が降雨に恵まれる手はずをした上で、7日の早朝から2泊3日の関東出張に出かけています。この日の東京は27.5℃で、11月の最高気温を百年ぶりに更新とか。余興にも恵まれた出張から嬉々と9日夜に帰着。この間に妻も、ミツバチの志賀師匠を迎え、収穫したナスを怪獣に見立てるなど、大喜びしていました。
中旬は、昇さんとフミちゃんを迎えた土曜日に始まり、土橋健一ファミリーを迎えた月曜日で暮れました。この間に、心臓と眼の通院と、日本ペンクラブ京都例会参加などが決まっていたので、チョット日程のやりくりで苦労し、礼を失することもしました。しかし“匠の祭典”の集まりに参加と、妻の加齢症状をおもんばかった友人の来訪だけでなく、とても辛い電話にも心して当たれましたし、歯の緊急治療に駆けつけられています。
しかもその合間に、さまざまな庭仕事にも取り組んだのです。まずナスの畝がツタンカーメンのエンドウとチマサンチェの畝に、トウガラシの畝はノラボウナとレタスの畝に、とそれぞれ変わり、夏野菜の支柱が畑の南半分からも消え去っています。あるいはタマネギの苗植えは26本の追加とか、スナップエンドウは第2次の播種など、畑はスッカリ冬装束になりました。夜分は妻と、トウガラシの実と葉で佃煮造りや、干し柿と、採り忘れで干しシイタケ作りに当たりました。
その上に、村上瞳さんを迎え、切りわらと木灰の交換。健一さんを別途半日迎え、ブルーベリー小径の補修工事に着手。日根野さんから届いたサルトリイバラの蔓を、昇さんと(サルが台無しにした)ハザカケへの植え付け。あるいは友人の誘いのメールに、ありがたく応じたき旨の返信もしています。辛い電話とは、商社時代の友人からの別れの挨拶でした。
下旬は、終日休養の1日で始まり、月末は小木曽さんの要望と、内山栄一さんの計らいで、2泊3日の松山出張に(この間の降霜を心配しながら)出立しており、当月記は29日までの収録です。しかも、下旬後半の出張出立までの4日間は、まったく事前の予定が入っておらず、BISESの懐かしい人と4日に再会したのがキッカケで膨大なPC作業や、根を積めた庭仕事とか、妻の“機を得た散歩の誘い”に嬉々と応じるなど、気ままに過ごしています。
その合間、合間にも多々トピックス。カキの大豊作のオカゲで愉快な交歓に多々恵まれたり、多様な干し柿作りに挑戦したり。予告編のごとき映画会。レタスとチマサンチェなど生食青菜の加齢対策。初めてジャガイモの霜対策の試行。あるいは夏野菜最後の自生トマトはピクルスになど、わが家流の穏やかな日々「なんと忙しいスローライフ」を満喫しています。
~経過詳細~
1.上旬の日替わりメニュー
予期せぬことが折よく混じり、楽しい10日間になった。心臓に持病を抱えた身だが、ややカラダには鞭打ったことになる。もしこれで、ボケずに済ませ、わが布団で生をまっとう出来たら、この鞭はマンザラではなかったことになりそうだ、と考えています。
1日、5時に起床。恒例の洗面(63年来。ただし水量は30数年来)。シャキッとした心身でPC作業に当たりながら陽光が射し始めるのを待ち、畑に出た。トンネル栽培のビニールシートを(昼間の直射日光を野菜に充分注がせるために)はがした。
冬野菜は播種や苗植えが遅れたので、トンネル栽培にしたが、ダイコンの畝でシートをはがした折に、ショウリョウバッタと目が合った。この白いソバカス美人?に、思わず朝の挨拶をしてしまい、ウキウキと居間に引き上げた。
TVニュースを観ながら朝食。ジックリ読むべき新聞記事を抜き出す整理にタップリ時間を割き、再度畑に出た。カボチャ、自然生えのゴーヤ、そしてトウガンの蔓を始末し、堆肥の山に積み上げ、支柱を解体。カボチャは3本だったが。その跡(いずれも畝の北端だった)はいずれも畝に仕立て直した。昼食はきつねうどん。
午後、読書や録画したTV番組を見たあと、遅がけから畑に出た。コウシン(紅芯)ダイコンの根(太る部分)が徒長していたのが気になって、土被せから手を付けた。
陽が傾いたので(外気が冷えぬ前に、と)ビニールシートを被せてまわり、アイトワ菜を間引き、青葉と赤葉のチマサンチェの第1次の葉をかき採り、畑仕事を切りあげた。結球するレタスは、気温が下がらないせいか、成長が遅れている。この日最後の庭仕事は、陽が落ちるまでシブガキの2度目の試し採りだった。
アイトワ菜は夕食のお浸しになった。シブガキは、夜なべ仕事で、第2次の干し柿に。
ここで恒例の洗面(我流健康法)について。これは2つのアイデアをヒントに編み出した方式。
まず1960年2月のある夜のこと。三秀院(大本山天竜寺の塔頭)のご住職(当時)は頭から羽織をかぶってTV(学生と機動隊がぶつかる安保闘争の様子)をご覧になっていた。隣の部屋で、ご子息の家庭教師をしていたが、呼ばれて一緒に鑑賞して知ったこと。「坊主は頭から風邪をひくので、御無礼のほど」とおっしゃった。その時に、子どもの頃のある思い出がよみがえり、夏を待って始めたことがある。
それは真冬の思い出。ニ尊院の門番小屋に、中年の装具屋が戦時疎開で棲みついていた。ある日(1946年?の寒)、タライの冷水で寒風の中、行水をしていた。
「おっちゃん、寒ないの?」
「寒うないで。毎日夏からやってたら」だった。
夏を待って、朝はパンツ1枚で洗面し、その水で首と二の腕も洗い、鼻ウカイもするようになった。私は首がゾクッとしたり、鼻が冷たい空気を吸ってツンと来たりした時によく風邪を引いたから。次いで、その後のこと。
学生を引率したインドネシア旅行で、まだ原始的で水道もないロンボク島で逗留した。半世紀以上も昔のこと。島民は子どもが谷底から運び上げる水で生活していた。その水甕には蛇口が着いていたが、食器を洗う時などは糸のような水で済ませていた。その時から、洗面は300ccほどの水で澄ますようになった。
ちなみに、妻はタップリの湯で洗顔。しかも、常時私の洗面法にケチをつける。「水を節約しているつもりでしょうが、いつも洗面台が汚れたままですからネ」と。
2日。昨夕かき採ったチマサンチェは朝食のサラダに活かされた。
岸良裕司さんが、お母さんと奥さんを同道で昼食がてらにご来訪。庭を案内すると、裕司さん(かのゴールドラット博士と琴線の共鳴関係にあった人)はもとより、夫人(きしらまゆこ:童話作家)だけでなく、お母さんは昔の生活を振り返るなどして、それぞれ楽しんでくださった。
裕司さん(手土産に『ザ・ゴール』第3弾)は、「この庭は、草がイッパイあるのに、イラナイ草はないんだ」と、まゆこさんに話しかけられたが、その観察力に脱帽。
お見送りした後、かつて網田さん(しばしば泊りがけで来てもらえた元アイトワ塾生)に造ってもらったが、役目を終えて保存していた“枝折り戸”の防腐塗装をした。思い出の品としてこれ以上朽ちさせたくなかった。
網田さんは「なんぼでも作ったげますがな」と言ってくださるが、彼は外泊しにくい身になったようだし、妻は接待が難しい体調になった。そこで思い出の品として、装飾品にでも、と願ってのこと。
この日、最後の仕事に、妻のハンドバッグの補修を選び、手を着けた。
3日、過日(10/15)“いわむら一斉塾”の夕べでご一緒した竹内京子さんが、友人と予定されていた京の旅で、立ち寄って下さった。
その直後に、伴さんが清太君(私たち夫婦が薦めた府立農業高校を来春卒業)を伴って来訪。嬉しい報告(東京農大の人気がある学科に合格した)だった。もちろん私は、清太君に、優れた味覚を活かすことを忘れないように、と助言した。
この時期は、庭で自生する本アイの花が美しい。
この日の夜のこと。この夏は庭でさまざまなカメムシと出会ったが、越冬のためだろうか、いつもと違うタイプのカメムシが侵入し(屋内で見かけた)第1号になった。
4日土曜日。8時に先月分月記の原稿を知範さんに引き継ぎ。
9時に昇さんを迎え、庭仕事。1日がかりで、庭の南面の生け垣の(シカ除けの金属フェンスをカモフラージュする)剪定と、南面中ほどの土手(イノシシスロープ添い)の手入れ(竹を切り取り、除草、そして灌木の剪定)に当たり、昼食を挟んで仕上げた。
4時(喫茶店の閉店時刻)過ぎを待ってクボガキの試し取り。陽が落ちたので切り上げ、30コほど柿を入れた袋を居間の窓先にあるベンチに置いて、昇さんを見送りに出た。
門扉に近づいた時のこと。10名足らずの方々が常寂光寺の方から近づいてきて、アイトワを話題になさっていた。その中のお一人と顔があった。
「アッ!」と、互いに声を上げ、「あの折の」と言わんばかりに指をさし合った。
「横山です」と、見覚えのある女性。
「ビズでお世話になった・・・」と、私もすぐに思い出した。
20余年ぶりの再会だった。さまざまな想いが湧きあがった。ガーデニングブームを巻き起こす活動に携わった仲間だった。しばしの立ち話に花が咲き、記念写真を撮りあい、「八木さん(当時の編集長)によろしく」といって別れた。昇さんも見送った。
玄関まで戻った時はスッカリ暗くなっており、居間の照明がハッピーの奇妙な動きを浮かび上がらせていた。立ち止まって観察した。
しばしの間にハッピーは、カキの実を食べる術を身に着けていた。
これは一大事、と観た。おそらくハッピーは、私が持ち込んだ袋だから好奇心が湧き、覗き込み、カキを咥えて取り出したのだろう。かじってみて、食べ物と判断したのであれば記念すべき日になった。
これまでのハッピーは、ガラス窓に激突して(脳震盪などで)落ちた小鳥や、夏の夜に(電気の明かりにつられて集まる虫を狙って)やって来て、網戸に昇っているカエルを噛み殺すなどして出血させながら、一度も食べたことがない。
にもかかわらず、このたびはカキの実を“食べ物”だと独自に判断を下したことになる。しかも、3つも食べていた。
この日の最後は手仕事。それは妻のハンドバッグの修理だが、当て布の形が(幾度もの試作を経て)ヤット定まり、バックスキン(人形創作の材料)をハサミで切ってつくった。
かくのごとく4日も過ぎ去ったが、当月は、横山さんとの出会いをキッカケにして膨大な時間を割いて、BISESの仕事に関わった当時を振り返りながら(10年に及ぶ)関連資料を整理することになる。
5日、知範さんから自然計画の作業が済んだ、とのメールが入っていた。朝食までの3時間余で添削を終え、公開手続きに入ってもらった。
9時に望さんに駆けつけてもらい、本格的なカキ採りをした。このような鈴なりは、おそらく2度と生じそうにないと思い、「残りはもう少し熟れてから」と勧めて、半数強で切り上げてもらうまで、存分にとってもらった。
夕刻のこと。薄暗くなってから、妻は(母屋の冷蔵庫に預けた食材をとりに行き)、またシイタケが出ていたことに気付いた。第2回目の収穫。
6日、朝食後に畑に出て、翌朝からの留守(2泊3日の関東出張)に備え、庭仕事に(久しぶりの雨が期待できたので)精を出した。
このたびの冬野菜は播種や苗植えが遅れたのでトンネル栽培にしていたが、そのビニールシートを次々とめくって回った。ノラボウナ(白砂先生に種をもらった)と第2次のアイトワ菜は芽が出そろっていた。根元に(当月初日に)土寄せをしたコウシンダイコンと、妻の要望で種をまいたコマツナ(3条まき)、そしてカブラも順調に育っていた。
次いで、チマサンチェの苗が苗床で大きくなっていたので、スナップエンドウの(10/25に苗を植えた)畝の肩に植えつけた。
アイトワ菜は、本収穫ができるまでに育っていた。夕食にでも、と期待して(間引く要領で)収穫した。
即、揚げと煮る一品になった。これがアイトワ菜の本格的収穫と賞味の最初。
居間の窓先では、第2次の試し取りで準備した干し柿も、1次と同様に順調な経過を示している。「もしや、」と、黴が生えているのでは、と心配して側によってみると、クモが巣を張っていた。
その張り方(粘着性の糸が白く浮かび上がっていた)は、初めて見るデザインだった。だから、幼くて下手なクモか、年老いてまだらボケのクモかも、と思案した。
この私の動きを見ていた妻が、調理の手をとめて覗きに来て、「似た巣を(かつて)見たことがあります」と語った。その脚で、なぜか母屋の方に走った。
ほどなく戻って来て、ホダギの伏せ場(渡り廊下沿いにある)から「採り忘れがありました」と言って大きなシイタケを携えて戻って来た。
「それでは分厚さが・・・・」と言って、横からも撮らせた。
久しぶりの出張は、チョット緊張したが(とりわけ自動販売機でのキップの購入で)、仕事にはまともに当たれたように思う。コロナで社員が一堂に会する機会がなかったから、といって夕餉の催しが(忘年会を兼ねて)あった。実に愉快であった。妻には朝と夕に電話を入れた。
帰宅すると、妻も楽しい出来ごとに恵まれていた。まず料理の手をとめずに小鳥の競演を話し出した。シンボルモミジとシダレウメに30余羽の小鳥が集い、1羽のコゲラ(キツツキ科)がドラミング。その周辺でメジロ、コナガ、あるいはエナガなど数種の小鳥が、小枝の間を自在に飛び渡りながらさえずっていた、と生涯で最初で最後の体験であるかのような喜びようだった。
だから、「2度目だね」との相槌を打つと、けげんな顔をした。そこで、
この「庭を開放した日(1986年4月5日)のこと。4種の小鳥が30数羽、スモモの樹に来て・・・・」、と言っていたではないか、と海外出張から帰った私に聴かせたエピソードを振り返った。直ぐに妻も思い出した。喫茶店の運営に当たりはじめた5人の主婦が、「開店祝いよ」といって喜びあった思い出だった。
食卓に、半ば料理が出そろった。その側に奇妙なナスの萎びた上半分が立っていた。これが2つ目のトピックだった。
妻は手をとめて側に来て、ナスのヘタを手に取り、飛び出した一際萎びた傘の部位を次々と摘まみ上げながら説明した。架空の生きものに見えたようだ。
翌10日、留守にした3日分のメール、電話、あるいは新聞などの整理に当たった。約束の時刻より少し遅れて、日根野章子さんがご主人の運転でご到着、と喫茶から知らされた。ゲストルームに急ぐと、既に「今朝、庭で摘んできたの」との花が飾られていた。
オレンジ色のサルトリイバラを私は、妻は色とりどりのノブドウを、まず愛でた。
彼女は25年ほど前の“大垣市女性アカデミー(大垣市の要請で引き受けた年間講座)”の受講生で、修学のアメリカ旅行にも参加。その後、ご主人を説得し、片田舎に1000坪の土地を得て移住。
まず3坪のミニハウスをつくり、そこを拠点に、古民家の廃屋を買い求め、居宅を完成させた。
自然の不思議や驚異など、話しが弾んだ。妻はナスの(既に怪獣のごとし、になった)オブジェとハクモクレンの種房を(これはタンバリン奏者、などと言って)持ち出した。
「カセドラル!」といってNZの海詩(ミーシャ)が取り上げた木片を私は思い出した。一家でわが家に泊まり、父親が薪割をする側で拾い上げた虫食いの木片だが、妻が土台を付けて大事に取り置いていた。
手土産に、ビワの葉で造った琥珀色の(かゆみ止めや火傷の)薬、あるいはミョウガで造ったさまざまな品などが含まれていた。
お2人を見送った後、2泊3日の出張中に溜まっていた作業(郵便物や新聞など)を片づけ終えて、畑に出た。
妻は、はがして出たトンネル栽培のシートを(雨が上がった後で野菜)被せ直していた。4日間見なかった間に冬野菜は様変わりしていた。とりわけ、種をまいて育てたノラボウナや第2次アイトワ菜よりも、その畝の端で自然に生えたアイトワ菜の方が、成長が目覚ましくて、驚かされた。
第1次の大根はもとより、カブラや第2次の大根も順調に育っていた。
第2次の大根にバッタが1匹いた。おそらく9日前の1日に見たバッタとの再会ではないかと思い、この度も追い散らさずに見逃した。ソバカスが黒くなっていた。
第2次のミズナも順調だったが、第1次のミブナ(同時にミズナの苗も植えたが、その1次はうまく根付かなかった)との差は歴然だった。とはいえこれで、この冬も幾度か、ミブナとミズナで正真正銘の(採りたての菜を用いた)ハリハリ鍋を味わい、その味のほどを味わい分けできそうだ。ブロッコリ-も遅ればせながら順調だ。
最も嬉しかったのはシュンギクだった。先月23日に(義妹にもらった)苗を(ハクサイが上手く育たず、多くは消えた畝に)植えて、頭部を切り取っておいた(その菜はフミちゃんにもらってもらった)が、新芽を出し、生き残ったハクサイやアイトワ菜(種を追い播きした)と共に、立派な野菜の畝をなしていた。ワケギも順調。
このシュンギクを植えた畝は、師走の初め(2泊3日の四国旅行の後)には最も“アイトワらしい多様性を愛でる畝”になることになる。生き残ったハクサイ、消えたハクサイの痕に追い播きしたアイトワ菜、それらの隙間に植えたシュンギク、そして自生したアイトワ菜が混然一体となるに違いない。
妻はこうした畝が好きだ。野原での草花摘みかのごとく、手がむくままに収獲し、ザルに並べるが、頭の中ではメニューが浮かび上がっているに違いない。
上旬最後の作業は、妻と相談しながら、網田さんの“枝折り戸”の飾り着けだった。
この後の当週記は、11日から29日までの記録になる。
2.記念になった1時間21分
妻の加齢現象が気になって、「もしや」と思い、月初から手を着けていた作業があった。18日の夕刻には、妻の健康状態を危惧した親しい医師に、鳥取から駆けつけてもらえた。加えて28日のこと、「散歩に出かけてみませんか」と、唐突に妻に誘われ、応じて、予期せぬ一時を過ごすことになった。
好天だったし、私の予定表は真っ白の日が重なっていた。だから妻は、庭の紅葉の様子で推し量り、亀山公園への散歩を思い付いたに違いない。散歩などしたことがない私だし、これまで誘われたことなどなかったが、ふと乗ってしまい、わけもなく近隣をふらつく最初の経験になった。
玄関を先に出ると、朝日が昇りかけており、数日前の新聞をとりに出た時のことを思い出した。ケイタイを取りに戻り、日の出や庭の紅葉の様子を写真に収めた朝のことだ。シンボルモミジの紅葉は、始まったばかりだった。これらの木々はすべて、私が苗から手植えし、育てたものだ。
目を東に移した。1本だけ(中央やや左の飛びぬけて背が高い)自然生えで、お向かいのピーター・マクミランさんの庭の南西の角で茂る。
門扉を出ると、モミジのトンネルが輝き、遠方にカップルが見えた。ピーターさんの庭の背の高い木は、写真左手前にあって、写っていない。
カップルとすれ違いざまに、「キレイ!」とのささやきあう声が聞こえた。しばらくして振り返ると2人は手を解いていた。写真に納まりあっていた。
庭の南面の木々も紅葉が進んでいた。これらのモミジの苗木を植え始めた60年前が思い出された。
竹は父の勧めで植えた。クワも大きく育ち、黄色に変色していた。この苗木は元アイトワ塾生の服部さんにもらった。自生のシブガキはいずれ野ザルがたいらげることだろう。
小倉池の南端に至った。いつも妻が庭の様子を写真に収める位置だ。
小倉山に上る初めての道を選び、西に折れた。
伐採した切り株を腐らす工夫?だろうか、初めて見るチエーンソーの刃痕を視た。伐採した(?)木が谷筋に転がっていた。
初めての道を上り切ると、舗装道路ができてそこで左に折れ、東方にある亀山公園を目指した。
その中ほどにある展望地で、妻は朝のカフェオレを広げた。
「あそこで、」と、アイトワ塾生と一緒に一夜を過ごしたことがある思い出を語った。
保津峡をしばし眺めて、帰路についた。
“アイトワの道”は既に混み始めていた。庭の南東の角に設置した獣害チェックボックスの中に、蜂が大きな巣をつくっていたことに気付いた。
モミジのトンネルまで戻った。
ユーティリティの壁面に掛けた時計が、1時間21分が経過していたことを教えた。妻は朝食の準備に。私はPCのスリープを解きながら、穏やかな1日であれ、と願った。
3.“習慣”という妻の加齢対策
このところ妻は、これまでになく過敏になった。よき一面は、サラダのレタスに振りかけた胡椒(その飛び散り方)を見て、「小鳥! 見て」と声を上げ、喜ぶありさま。
厄介な反面は、私の言葉尻をとらえて突っかかってくること。
こうした凸凹を総合判断し、1つの決断を下し、何食わぬ顔をして実践に移した。毎朝、起床し(私がいつも先に起きている)顔を合わせた時に、互いに曲がった背部に両の手を回し合い、力を込めてさすり、丸まった背を伸ばす運動である。
見ようによっては抱擁のごとし。
かつては言葉で、背を伸ばすクセをつけるように、と励ました。その言葉尻を捉え、妻は猛反発しがちであった。この背伸ばし抱擁は、5日もせぬうちに、習慣になった。
なにかにつけて、不安や心配症に妻はなった。だから、周りの人に、物忘れが激しくなったことを宣言して回るように、と幾度か勧めてきた。
ついに、宣言し始めたようで、気が楽になったようだ。
かつて妻が、何もかもが「美味しくない」と嘆いたことがあった。コロナに感染した折のことだ。その時も、妻の料理の味付けの良さは変わらなかった。それは、味見をせずに料理をする妻の習慣が幸いしている、と見た。何ごとも習慣化しては、と考えた。
そうこうしていた時に、友人の医師が(夫人の来阪事のわが家への立ち寄りに合わせて)鳥取から駆けつけよう、が現実化した。
久しぶりの中華おこわを妻は用意して迎えた。さまざまな助言を得た。
その後のメールの交信でも助言を得た。だから、次のような返事をした。
「返事が遅れましたことご容赦ください。ご助言ありがとうございました。
その後は、それなりに順調に過ごしています。
それなりに、ということは、『これをキッカケにして』と、願う事が2つ生じたことです。
まず、ガスにやかんをかけたまま妻がその場を離れた折の『かけ忘れ事件』です。
あと数秒で、というところでその側にいた私(食卓で新聞を読んでいた)がアルマイトのやかんが躍る音で気付き、ガスを止め、ことなきをえました。
ありがたかったことは、戻って来た妻にことと次第を話すと、かけ忘れていたことをすぐに思い出せたことです。
2つ目は、その翌日のこと。半時間ほど手が空いた、といって庭掃除に妻が当たった時のことです。ある一角が「きれいになった」といって喜びました。「それはヨカッタ」と応じました。問題は翌日です。
その一角の側を通ると、用いた道具(さらえ)を、置き忘れたままになっていた。妻はもとより使った道具の置き忘れ常習犯です。
ありがたかったことは、後刻妻に置き忘れていたことを告げると、すぐに思い出せたことです。
次いで、さらえをどこから取り出したのかも問うと、思案の末に妻はこれも思い出すことができました。
これまでは、2つ3つの作業を並行してこなす「ながら族の名人」を妻は自慢げにしていました。だが、このガスの『かけ忘れ事件』を機に、『火をつけた時は、消すまで側を離れない』との約束をしました。
『そんなに急ぐことはないものね』『それで火事にでもなったら大変ね』と妻も反省していました。これが習慣になるまで、油断しないようにします。
『さらえの置き忘れ事件』は、やや問題が複雑です。わが家ではサラエを数カ所で収納しており、サラエが10以上も(大小取り混ぜて)あることです。これは、家族で1000坪の庭を管理する工夫の一環であったし、今や夫婦2人の加齢対策です。ここで、この方式や考え方を改めるか、さらなる工夫をして、この方式を活かし続けるか、の問題です。
別途、妻の“専用道具”を決める方向に導くのはどうか、とも考えています。
こうしたことをもって『それなりに順調』と申し上げた次第です」
この後も、次のようなさまざまな助言をいただいた。
1) 不要な物を捨てる
2) 周りに忘れやすくなったことを伝える
この2つは是非すすめて下さい。加えて、
3) 片付けや作業手順は、写真を撮ったりメモをしたりした物を(台所などに)張っておく
4) 予定で大切なことは手帳やカレンダーなど1箇所にメモをしておき、確認するなど、覚えていなくてもいいようにして下さい。
5)今から新たな習慣を付けようとするのは避けた方がよい。(その「習慣」を忘れてしまいかねないので)。
など。
こうした助言に勇気をえて、長年使いなれたハンドバッグの補修を再開した。
この補修は、妻が持ち手の革製つなぎ部を太い銅線(人形作りに用いる)で補修し、用い続けていたので、立体的な補修は私の方が得手だから、と手を着けた。だが、その後、妻が新しいハンドバッグを用い始めていたので中断していた。
修理し終えたハンドバッグを見て、妻は早速中身を入れ替え、「これでまた10年は持ちそうね」と喜んだ。ポケットが2つあるのも使い慣れていたようだ。身体の一部のごとくにしてほしい。
4.狂った気象に備える青菜対策
冬野菜の準備を失念させるほどの残暑だった。だが、霜月に入ると急に冷え込みが始まった。だから、「この冬は越せん」との亡き母の口癖を早々と思い出した。お前さんたちも「この歳になったら分かる」とつないだ晩年の嘆きである。
幸か不幸か、子どもに恵まれなかったセイかオカゲか、私たち夫婦は母のようにグチる相手はないし、甘えようもない。もちろん逃げ場など探したくない。
だからだろうか、なんとか無事に冬を越せるように、と加齢対策を心がけた。たとえば、遅れた冬野菜の手はずでは、生食用青菜の端境期を埋めるか工夫。チマサンチェやレタスは、種だけ買い求めるだけでなく、3種計6本の苗も買い求めた。
苗から育てた分は、カキチシャのごときレタスとチマサンチェは順調に育ち、この月初めから葉をかいて採る方式で収穫期に入った。
その葉を持ち込むと、妻は大量に青菜を美味しく生食したくなるメニューを工夫する。
こうした日々の間に、苗や種から育てた冬野菜は順調に育ち、夏野菜は、キュウリに始まり、トウガラシとツルムラサキを最後に、次々と畑から消えさっている。残る夏野菜は予期せぬ自然生えのチェリートマトと、まだ掘り出していないヤーコンのみ、になった。
トウガラシは、木ごと収穫し、居間に持ち込んだが、それを夜なべ仕事で葉と残っていた実をちぎり取り、薄味の佃煮にした。
畑では、冬野菜として最も大事にしているアイトワ菜と自然生えのミツバが、中旬から本格的収穫期に入った。自生のミツバは香りを、アイトワ菜はこれが同じ母から生まれた子か、と見まがうほどの多様性を楽しませる。妻はこの様々な葉の様子から判断し、お揚げと煮たり、お浸しにしたり、汁物の具にしたり、と多様に調理する。
生食用のチマサンチェは、陽気のせいか薹を立て始め、蕾を着けんばかりの株が現れた。それを妻は、妻流に収獲した。つまり、軸の中ほどから入り取って、下部は残し、切り取った上部を食材にする。残した下部に脇芽を出させる作戦だ。だから、この残した分の葉は収穫しない。薹を立てるのが遅れている株の葉を、私はかきとる。
もちろん今年も、中旬に入る頃から青菜は量的に不自由しなくてよくなっていた。畑の随所で勝手に芽生えたアイトワ菜が播種した分より立派に育ち、畝間のあぜ道んどで茂っている。
また、来春の青菜の端境期(冬野菜から夏野菜への切り替え期)を埋めるスナップエンドウも順調に育ち、その第2次分としてまいた種も芽を吹きそうになっていた。そのスナップエンドウの根元に、保温と防草を兼ねて藁でマルチングをし、肩にコーヒー滓もまいた。この滓は、夏野菜を育てるために畝を耕す来春には、肥料として鋤きこむ。さらに26日には灰もまき、霜や雪対策のための手を打つ準備もした。
26日に、温室脇で育てているジンジャーをまず刈り取り、次いで自然生えのチェリートマトは実をとったあと、残渣を抜き取り、共に一輪車に積んで堆肥の山まで運び込んだ。
このチェリートマトは、冷え込みで実の割れる率を高めていた。青い実はピクルスに、熟れた実は、カキの実も活かしたサラダなどに活かされた。
今年最後のツルムラサキも抜き取り、葉を採って湯がき、さまざまな総菜に活かした。
この残渣は堆肥の山に積んでおくと、黒い果肉は堆肥になり、残った種は堆肥に混じってやがて畑に鋤きこまれ、自然生えして夏野菜になる。
妻が花芽が着いたので上部を切り取って収穫したチマサンチェは、月末時点で脇芽を拭いていた。
スナップエンドウの畝の肩に植えたチマサンチェの苗は、その後順調に育っており、苗から育てた分の収穫を終える頃には十分、生食野菜として収穫できそうだ。
5.横山禎子さんと再会
この再会は夕暮れ時のほんの10分足らずだった。イングリッシュガーデンの紹介で知られた『BISES(ビズ)』誌の編集者だった。
四半世紀も前の記憶が次々と鮮やかによみがえった。まず「あの日の朝は」などと、常寂光寺の紅葉をトップ記事として扱い、表紙にまで用いた光景が瞼に浮かんだ。これが、日本の庭を、しかも14頁ものグラビアで、ビズ誌が取り上げただけでなく、表紙にまで日本の庭を用いた唯一の事例になった。
それは、このちょうど1年前の1997年11月11日に、早朝の空前絶後の紅葉を著名なカメラマンが写真に収めていたからだ。アンドリュー・ローソン氏だった。この朝は、氏にとっても忘れようのない一時になったに違いない。
氏はチャールズ皇太子(当時)の庭に出入り自由のガーデン写真家としてかねてから知らされていた。
この人の願に沿って3か所の紅葉の名勝を選び、案内する役目を私は引き受けた。その日はまず、わが家と、わが家の庭の奥で地続きの常寂光寺に案内した。
瞬時にして、氏は「ここでよい」と撮影対象に決めた。にもかかわらず、なかなかカメラを取り出さず、やがて、二言、三言、遠慮がちの注文がついた。
「この光景を、妻にも見せたい」「撮影は、明日にさせてもらえないか」などと。
ならば、と私も注文をつけた。「明日は、夜が明けぬ前に来て欲しい」「一緒に朝食をとりながら、日の出を待とう」
氏を見送ったあと、こうした機会を与えてもらえた八木波奈子編集長にまず電話を入れた。ならば「私も駆けつけます」との返事をえた。
次いで、2つの紅葉の名勝に急いで詫びて廻った。2か所ともにこの不躾を、むしろ快く受け入れてもらえた。それは、案内する人を、遠方からの知人で、カメラマンとだけ伝えてあったからだろう。どことも、3脚などを立てるカメラマンを歓迎していなかったのだから。
「それにしても」と、2か所からの帰途、思った。どうしてローソン氏は、これら2件の紅葉と見比べずに判断を下したのだろうか。
翌朝、5時半ごろに車の音が続けざまにした。妻はサンドイッチに、ジュースとスープ、そして紅茶を添えた。1つのテーブルを5人で囲み、窓が白む様子に目を配ったり、互いに顔を見合わせたりしながら、その時を待った。
「レッツゴー」と私がささやいた。
山門は、押せば開くように閂が外されていた。紅葉に埋まる急な石の階段をのぼりながら、背に好天の朝日を感じた。上り切ったところでご住職(当時)の長尾顕彰さんが待ち構えて下さっていた。「どうぞ」と言って、広い境内を私たちに預けて下さった。
夫人は無言で境内を北に南にと急ぎ足で幾度も行き来し、たちまちにして目に涙をにじませ、随所でたたずみ、朝日がかざす紅葉に見入った。ローソン氏は、大きな撮影機材をあちらこちらに移動させては、留まり、シャッター音を静かな境内に響かせた。
この撮影の意図は前日、常寂光寺からの帰途に聴かされていた。世界の500の素晴らしい朝の光景を写し取り、写真集にすることがライフワークだった。
その後、1カ月もせぬうちに、「これまでで最も美しい朝であった」との感謝の手紙が届いた。だから、この一件はこれで落着、と心得た。
だが、八木編集長は1年後に、ローソン氏が切り撮ったこの紅葉をビズ誌に採用したわけだ。しかもそれは、過去6年間、38号を重ねたムック(マガジンのごときブック)の伝統を破っての採用だった。
この間に、八木編集長と私との間で幾つかの動きがあった。
まず私が寄稿するエッセイのテーマが替っていた。『私の部屋 BISES』は2002年春の創刊で、各号に私は “エッセイ庭宇宙・ECOLOGY”を寄稿させてもらっていた。それが33号で「終論」となり、「覚醒の本」との6回シリーズに移っていた。
この間にビズ誌は、表紙に人物をとり上げるという例外も1度作くっていた。それはチャールズ皇太子の庭を特集する号であり、庭仕事に携わる皇太子だった。
3つ目は、「ガーデニング」が「流行語大賞」の10傑に選ばれており、そのブームに火をつけた人として八木編集長が表彰された。
そこで4つ目は、繊研新聞(繊維業界誌の優)の1998年3月5日号で、私は〝ガーデニングブーム創り”に学び、新たなファッションを計画的に創り出そう、と繊維業界人に呼び掛けている。未来の美意識や価値観の先取りを提唱したわけだ。
そのようなわけで、「あの日の朝」から数えて1年後に、マイルーム出版から届いた郵便物はいつもより厚かった。なぜか胸が騒いだ。3種の校正刷りが出てきた。
1つは、何頁にも及ぶローソン氏の手になる常寂光寺の紅葉の特集記事だった。次いで一面が真っ赤な表紙であった。
残る1つは、「覚醒の本」シリーズ最後の一著分だった。この39号をもって『私の部屋 BISES』はいわば中締めとなり、2度目のリフレッシュに挑まざるをえなくなったことを私は知っていた。それだけに、編集長の配慮や判断に並々ならぬ心意気や心構えのようなものを感じ取ったものだ。
やがて、刷り上がった39号が届いた。丁寧にペイジを繰った。「あの日の朝」を体験した3人はそれぞれ、何らかのおもいを込めていた。ローソン氏は、「あの日の朝」の穏やかな日の出を愛でておられた。八木波奈子さんは“編集現場から”の頁で、あの日の穏やか朝を振り返っておられた。私はある想いを「覚醒の本」シリーズ最後の1著分に込めていた。
「覚醒の本」シリーズは、レイチェル・カーソンの絶筆『ザ・センス・オブ・ワンダー』から取り上げたが、この号で終った。この最後の号で、私はロデリックF.ナッシュの『自然の権利』を取り上げており、日本と日本人に大きな期待を込めている。
だからこのたび、この号を書架から取り出して再読した。横山禎子さんは“編集現場から”の頁で、社会の好ましき変化、購読者の視界の広がりに期待を寄せておられた。
次いで、八木編集長と関わった60余冊をすべて取り出したくなった。14年にわたる付き合いだった。すべてのムックを点検したくなった。
八木波奈子さんは、私たち夫婦にとっては恩人である、と再認識した。
そもそもは今から35年も前の1988年に始まっていた。企業勤めを辞めて著作に手を出し、念願の著作(荒唐無稽とかほら吹きなどと評された内容を文字にした処女作)が陽の目を見ようとしており、一末の不安と期待が入り混じった心境にあった。
『私の部屋』誌の編集長だった八木さんは、95号で「京都の春・人形巡りの旅」を特集し、そこに妻の人形も取り上げて下さった。
妻の人形創りは、その頭(かしら)が「手を動かしているうちにひとりでに生れ出るの」というあんばいだった。その“頭”と語らいながら、肌の色や髪型を始め、その生業や服装などを決めて行く。ついには「人格までが定まるの」と聞かされていた。
そうした人形の中から八木さんは幾体かを選び、『私の部屋』誌で取り上げてくださった。その号が店頭に出た頃、と思った当夜から、電話がひっきりなしにかかり始めた。「異国の美少女人形」と題して紹介された人形の1つ、『ローラン』が注目を浴びた。
「うちの孫とうりふたつです」とか「70年ほど前のまるで私です」などといった注文の電話が入り始めた。ついには、「娘にそっくりです。なんとかして」分けてもらえないと乞われ、そう願われる事情まで語ってくださり、妻は迷った。結局、非売品にしてギャラリーで常設展示することにした。これが最初の非売品になった。
次いで、100号記念号で、“わが家の生き方”を取り上げてくださることになった。それは、95号の取材時に、庭を私が案内することになり、「生計を潤し、未来に夢をつなぐ庭だ」と語り、エコライフガーデンと呼ぶに至ったことを説明したからだろう。
『わが住まいは田園にあり』との見出しのグラビア4ペイジで紹介していただけた。
さらに112号では、ある京都ならではの活動の一翼を、幸いにも妻は担わせてもらえたが、そのエピソードがグラビア5ペイジで紹介された。
この取材時に『私の部屋』を『私の部屋 BISES』にリフレッシュすることになった、と伺った。前回、100号記念号の取材時に“インテリア & 手芸” から“インテリア & ガーデン”に刷新すべき時代を迎えるはず、などと語り合っていたからだろう。もちろん、企画書も求めらあれた。
長い付き合いが始まった。結局リフレッシュ創刊号から10年にわたり連続56本のエッセイと計7回の特集を取り上げてくださり、各号で関わらせていただくことになった。
“エッセイ庭宇宙・ECOLOGY”との最初のテーマでは『木と水の壮大なドラマ』を初回に選び、『花の郭』『オケラと肥満児』などへと続けた。
壮大で、不可侵であるべき自然と、自然の一部である人間との関わり方にメスを入れたかった。花を人間の欲望を満たす手段であるかのごとき扱いようが、人間を蝕むに至っていることを訴え、人類のためにしかるべき未来を見通したかった。赤子にとっての“母体の胎盤”であるかのごとき位置付けのガーデニング、を私は目指している。
編集長の決断と努力はガーデニングブームに結び付けた。彼女とは毎月1度の割合で打ち合わせを重ねた。
“エッセイ庭宇宙・ECOLOGY”は33回、5年半で終わり、次のテーマは「覚醒の本」の6回シリーズに移っていた。
人間は誰しも“願望の未来”を目指したくなるものだ。だが、いつしか私は、わが胎盤であるかのごときガーデニング創りに関わっていた。そのおかげか“必然の未来”に憧れ、狙いを定め直し始めていた。本来の己に、つまり持って生まれた固有の潜在能力に気付かされ始めており、遅がけの“知恵熱”ではないか、と感じ始めている。
消費の喜びが生き方の基本ではなく、創る喜びにこそ、と目覚めたようだ。そこにもうひとつの己を見出し、これが「私なのだ」と客観視し始めている。
おのずと、己と環境の同化を意識し始め、環境あっての己だと気付かされた。舟に乗っても、良い席を探すのではなく、船が沈まないことを願い始めた。
この度、「覚醒の本」シリーズ最後の1著分の校正刷りを読み直した。
「地球は沸騰している」とまで国連は騒ぎ始めた。その地球でおぞましき2人の男が、地球の2か所で戦争を強いており、世界の多くの人の眼はそちらに奪われ、地球の沸騰など2の次にしかねなくなっている。
次いで最初の警鐘(実体験からの学びとった“エッセイ庭宇宙・ECOLOGY”の第2回目、1992年盛夏号分)も読み直した。拝金思想と自然阻害に罠を見ていたのだろう。
16回目では、欲望と希望に触れていた。欲望から希望に切り替えるコツを探ろうとしていたわけだ。
改めて、「覚醒の本」シリーズを読み直した。人は皆、急き立てられなくとも、自然の一部として、穏やかな生き方を手に入れる資格を預かって生れている。その資格を活かさず仕舞いにする誘惑に要注意、と叫びたかったようだ。
八木編集長は、再度のリフレッシュの後、17号まで私に関わらせ、テーマは“生活・LIFE STILE”と“明日に備える”を経て“日本人の忘れもの”になっていた。
この間に編集長は、表紙に3度、ご登壇願われた人物があった。胸を熱くして私は夢をつないだ。
テーマ“日本人の忘れもの”も6回(1年間)の予定だったと記憶するが、2回で最終回になってしまった。それは理想と現実が衝突した結果だった。
後の4回分を含めて私は何を訴えようとしていたのだろうか。それはキット「これから始まる」と睨んでいた“モデルのない未来”を見据え、“真の民主主義”を標榜したかたのではなかったか。
編集長は再リフレシュの準備号(1999年初夏)で、“住まいづくりの常識が変わる”との大特集を組み、その一環として『エコロジスト森孝之の実践 これからの時代を生き抜くライフスタイル』を組んでくださっていた。
その気にさえなれば、誰しもが手に入れられる豊かさと幸せの源泉として“農”を見据え、民が主となって新時代を切り開く社会であってほしい、と願っていたように記憶している。
そのプロローグが “明日に備える”の6回であった。『不時着に夢をはせる』に始まり、『不易を流行に』『手段を目的にしない』『生きた家を目指す』と続き、『独自の顔と聖所の確保』と『独自の顔と本当の顔』で、新時代に夢を馳せている。
結局、夢を描いただけで、私は恩人に、恩返しが出きず仕舞いになった。
6.その他
辛い知らせ。商社時代の同期で、最初に挙式をあげた男が「余命いくばくもない」「世話になった人への最後の挨拶だ」と語った。披露宴に九州まで駆けつけた親友だった。「最後の楽曲は?」に対して「YAHOO の麻生英臣」で、と答えた。この月記がネットに載るころは、まだ彼は存命だろう。
ハートのカメムシ。さまざまなカメムシに出会う霜月だった。麻生の電話があった翌日の夕食時のこと。居間に、この庭で2度目のハートのカメムシが忍び込んだ。
鏡餅用の串柿。渋ガキは大豊作で小粒になった。「ならば」と、近年は小ぶりにした鏡餅飾りに相応しい串柿づくりに挑戦した。乾いて縮むにつれて左右で計5㎝ばかり縮めた。
実生の甘柿の木は時としてシブガキを着ける。皮をむくと黒い星がないから分る。それらも干した。熟れ過ぎた分は、皮をむかずに干して、スプーンで味わうことにした。苗木を買って育てた樹は、6つだが、大きなシブガキを着けた。久しぶりに居間の縁先は賑やか。
日本ペンクラブ京都例会。知範さんの「覗いてみたい」との声に応え、夢枕獏酸衆院のスピーチに触れた。懇親会では今季限りの京都市長と、市民の圧倒的信任で再選された亀岡市長との交歓もかなった。
土橋ファアミリーの来訪。14日は健一さん1人を迎え、ブルーベリー小径の舗装を補修する下拵えに手を着けた。彼には、“宇宙船地球号”と“ジオデシック(富士山の頂上に設置した観測所でも活かされ、その価値を実証した)”で知られるバックミンスターフラーが生み出した“コズモグラフィー”を持参願えた。興味津々にされた。
バックミンスターフラーの即興の詩、いわば『宇宙 = 私 + 環境』とでもいった題が相応しい詩を、私は処女作で引用している。
20日はファミリーで迎えた。健一&佳代夫妻は、スギの落ち枝拾いで大活躍だったが、奏太君は“マツカサ”を拾いたくて付いて来たようだ。両親に倣おうとはせず、松の木がもはやないから「マツカサは落ちていない」と教えたが、庭中を探し回っていた。
昼時は小雨になり、散らかった温室で妻も一緒に昼食をとった。午後は焼き芋の上手な作り方を観てもらった。奏太君はクルミの実を探し回った。後日、クルミの実が工作でマツカサの代替をした、と知らされた。
映画会。急な日程でもあったし、近隣は観光客であふれ、道は混んでいた。だから岡田さんと2人で実施。フランス初のレストランの物語はすぐさま中断し、次回にジックリと鑑賞を、になった。
敗戦後すぐの日本を記録した米軍の分は、うろ覚えの記憶を新たにした。焼け崩れたビルの中を覗くと、死体が積み重なっていた記憶だ。
鑑賞しながら、このまま米軍を駐留させ続けたり、自衛隊の基地を残したり、あるいは軍需工場を稼働させたりしていたら、正当な攻撃対象にさせかねない、と心配になった。
日本には、優しくて親切で器用な人、観光資源、そして豊かできれいな軟水しか誇るべきものはない。力づくで盗るに足る資源はない。これらはいずれも、破壊や汚染したのでは台無しになるから、攻撃するに値しない。これが日本の強みだ。
昇さんとフミちゃん。お二人には当月も随分お世話になった。2度も、4人が揃って庭仕事に当たれた日があった。フミちゃんと妻は旧玄関前のミヤコワスレの庭の手入れに当たった。昇さんと私は、トンネルアーチの剪定ンドと手分けし、お茶の時間と昼食は交歓の一時にした。
日根野さんから届いたサルトリイバラは、用を失っていたハザカケに上らせることにした。本来はダイコンなどを干そうと思って作ったのだが、ダイコンなどの食べ物は野ザルの餌食にされ、ハザカケは無用の長物になっていた。ハザカケはイノシシスロープの土手の高みにあって、乾燥しがち。故に、山の方向から流れ下る雨水を受け留めやすくする必要があったから、踏み石も活かして、昇さんの美意識で水路を作るなどしてもらった。よい配置だ。
花が少ない庭になった。赤と黄色のセンリョウが色づき始めた。師走には、紅白のサザンカの双樹が見事に満開だろうし、クリスマスには、ローリエを喫茶店に飾れそうだが、花の少ない霜月だった。
サフランは咲き終わり、かろうじてツワブキとスノードロップが咲き、カンイタドリが金平糖のごとし、の庭だった。畑では、ハコベが白くて小さな花を咲かせ始め、除草を促し始める。
豊作のオカゲ。豊作のカキは、さまざまな交歓の機会を授けた。カキを初めて見た人が多かった。だから、多くの道行く人にもお裾分けをし、初めて味わってもらった。
黒いズボン姿の女性も、立ち止まり、庭に踏み込んできて質問した。私が、ズボンに実をこすりつけて汚れをぬぐい、かじってみせ、1つ進呈した。彼女は左手でコートをめくりあげ、右手でカキをズボンにこすりつけながら去った。
10分余の時が、カキとりをしながら流れた。ご主人とおぼしき人を伴って戻って来た。記念写真を撮りたい、とのご所望だった。