目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 スイフヨウ、タデ、そして…
2 食事も一転
3 恵那から閑谷(しずたに)まで3泊4日、車の旅
4 ピーター・マクミランさんのスピーチと池田聡子さんの個展
5 庭仕事
6 その他
“愛着形成”と神無月が神有月に
スイフヨウが咲き始めた神無月。第2次分キュウリの大きな採り忘れを1日に収穫し、この畝を7日(土)に今村さんに耕してもらい、9日に第2次分のダイコンを播種。フミちゃんを迎えた10日に、アイトワ菜の第1次摘まみ菜を収穫し、これをもって畑の野菜が夏から冬に切り替わったような気分です。この間の3日に、早朝のPC作業は厚着して立ち向かい始め、午後には紅芯大根、カブラ、そしてコマツナなどを直播きしています。
庭仕事は、3日にこの年最後のフジの徒長枝を摘み、翌日フジバカマに日光を注がせたくて、日陰にしてきたギョクシンボクを大剪定。4日は“ファーム小道”の補修作業に、7日は今村さんとフジバカマの保護をかねた石畳作業に、それぞれ着手。10日に、妻は当月2度目のフミちゃんを迎え、果樹園の草刈りをした上に、秋の観光シーズンに備え、円形花壇の手入れもしました。この日に、アイトワ菜(先月22日に播種、27日に発芽)を初めて間引いたわけで、心身共に冬支度に切り替えたり、今村さんとフミちゃんにすがったり、の上旬でした。
来訪者は他に、池田さんを2日と4日に迎えて撮影作業。5日に岡田さんに立ち寄ってもらい、6日にはチョッと顔が刺す人を迎えて相談事。翌日、元アイトワ塾生の高田啓さんがホームステイの女性をご案内で、7日に7人目の来客とは、と良い気分。そして8日に知範さんを迎え、自然計画9月号原稿の引き継いでいます。トピックスは他に、次の5つでした。
スズムシが5日に鳴き止み、庭の夏虫も鳴き止んだようだ、と寝床で耳を澄ませ、感じました。この日、商社時代の親友で独身寮仲間の1人が多臓器不全で逝去。7日、ハリガネムシを出したカマキリと妻は遭遇。10日に、ハクモクレンの熟した種など妻流の“宝物拾い”が始まっています。そしてこの間に、タデ類が花盛りになっていました。
中旬は、戸石さんがコスモスを届けて下さった朝で明け、20日は、わが家にとって深刻な問題の追認で暮れたのです。この日、小木曽さんと東本願寺の要人をお訪ねすることになり、その足で池田聡子さんの個展会場を覗くことにしました。すると「一人では私は行かない」と妻はむずかったのです。だけど、フミちゃんを誘い出し、個展会場で出会えました。だから、「行かない」ではなく、「行けない」とのむずかりであったわけだ、との心配が始まったわけです。
この間の11日の夕刻は、ピーター・マクミランさんのスピーチ会場に妻も一緒に出掛けており、上機嫌でした。だが翌朝から、13日から始まる私の4泊5日の国内出張に、なぜかむずかったのです。この旅は多々成果を収めましたが、旅中で臼歯の1本が砕け、妻には皮肉で出迎え入れられ、さんざんな締めくくりになりました。そこで、翌18日は60本のタマネギの苗植えや、19日はミズナ(1度目はうまく育たなかった)の仕立て直しなど庭仕事に専心し、一歩も外出しないで済ますと妻の気分は収まり、妻の精神的な加齢対策にも配慮する要を覚悟しています。
下旬は冷え込んだ朝で明け、ガスストーブを取り出すことで始まり、月末は当月4度目のフミちゃんを迎え、3人で終日庭仕事に没頭し、神無月を無事に締めくくったのです。カキの葉も色づき始めた庭で、夕刻から3人で焚火を始め、日暮れ時をミルクタップリのホットチョコレートをすすったのですが、7日の7人目の来客や今村さんの5度の来訪も振り返っています。彼の郷には、果樹園や農地のあるようです。
この間のトピックスは、21日と28日の両土曜日に、今村さんと幾つかの大仕事(新石畳道を作って“フジバカマ小径”と命名。大きな茶の木の掘り起こし。オオモクゲンジの剪定。そして“月見台”のカバーの新調)を成し遂げたこと。23日は一人でに、コイモを掘り出し、その後を即仕立て直し、スナップエンドウを育て始めたこと。翌朝から妻と、背伸ばし運動を始めたこと。25日、ツタンカーメンのエンドウを播種。そして、月末はフミちゃんと大焚き火、で締めくくったことです。なぜかこのたびの神無月は、神有月であったかのような1カ月に感じています。
~経過詳細~
1.スイフヨウ、タデ、そして…
スイフヨウが今年は1日の朝から咲き始めた。真っ白の花は夕刻にかけてほろ酔い加減がすすむ。その酔い加減は花ごとで異なり、なぜかわが身を振り返らせる。酔い加減はさらに進み、翌朝が私好み。次に咲かせた真っ白の花と比しながら、なぜかいつも見とれてしまう。
だが、その頃には、萎みが進んでおり、不安げにもする。4日目の、あるいは5日目のその姿を連想し、わが身に想いをはせかねないからだ。
スイフヨウの花が妍を競う頃になると、オオケタデは種を落し始め、サクラタデが根を勢いよく張り始める。
同時に、アイやマルバアイ、あるいはイヌタデなど庭で自生するタデが、あちらこちらで、時には賑やかに、あるいは寂しげに咲き始める。
目を転じると、シュウメイギク、シュクコンソバ、ノコンギク、あるいはフジバカマなどが一斉に咲き始め、紅葉の時期が近付いたことも知らせる。
この時期は、ハクモクレンのオレンジ色の種が受精した種房で育ち、その熟れた種をカラスが狙って集い、種を取りそこねて枝ごと折って落し始める。
「私の宝物」と妻が叫んでハクモクレンのガクをはじめ、小枝や「これはオットセイ」などといって乾ききった種房も拾い始める。リースなどをつくるための冬支度。
この初秋も、戸石さんはコスモスの花を届けて下さった。わが家では、コスモスは樹木が茂って庭が日陰勝ちになったこともあって、うまく育たなくなった。だが、虫に侵されたカキノハなどから順に色づきはじめ、秋の訪れを実感させる。
ホトトギスも妍を競う。
加齢対策の1つにも取り組んだ。それは、新婚記念の1つ・手作りコンクリ花壇の活かし方。以前は四季折々、相当の時間を割いて手を変え、品を変え、彩って来た。だが、昨年から恒常化を願ってヒメウツギを植えた。このたびはオキダアリスを混植。これは秋にも彩りを添えるアイデア。わが家の土地とオキダアリスが、とても相性が良いことを見込んでのこと。
以前の植栽例を振り返りながら、手を変え、品を変えたころを、若さを羨みもした。
2.食事も一転
月初めの畑は、先月22日に種をまいたダイコンや、わが家自慢の冬野菜・アイトワ菜の芽が出そろっている反面で、わが家の五大夏野菜の1つ・ナスが(初期の成育不良を乗り越えたオカゲか、あるいはその後虫害に苛まれたセイか)未だに元気に残っていたり、夏野菜の時期に育て、冬期の料理に活かすカボチャやトウガンが収穫期に入ったりで、賑やかだった。
1日の夕刻、五大夏野菜の1つ・キュウリの太くて重い1本を収穫。これが最後のキュウリになった。夕餉に妻は、この3分の1ほどを刻んでハナオクラを添え、キュウリ揉みにしながら「この太さ、太さもそうだけど、種が・・・」と、まだ種がひねて大きくなっていないことを、我ごとのように自慢した。
4日、トウガラシは未だ最盛期だが、実だけでなく、一部の葉も収穫し、この秋最初の佃煮に活かした。
賓客を迎えた6日、「もう秋だ」と感じた。庭で自生するタラが長け、初夏に出し初秋に役目を終えて落した花序柄(?)で、ゲストルームを妻は飾っていたからだ。
その隣には妻の手が生み出した人形が、その隣と上には私の手彫りや手捻りが見える。人形は近作の1つだが、他の私の2つは人生の秋を思わせた。
手彫りは1986年4月の喫茶店開店に備えたもの。手捻りはさらに古い。人形工房ができる数年前に、妻の勧めで取り組み、生み出した。モデルは、雑誌の広告で、女性下着会社のヒップアップパンツの宣伝写真が、立体になった。
7日、トウガンを試し採りした。妻流のトウガン汁に活かされて、スープ代わりにふるまわれた。この日、コイモを掘り出した後を(ゴボウが幾本か自然生えしていた、を)今村さんに深耕してもらった。だからこの夜は、今村さんは無農薬有機肥料で育った自生のゴボウの味に触れたはず。
10日、終盤に近付いたトマトやトウガラシ(共に五大夏野菜)だけでなく、わが家の冬野菜の代表・アイトワ菜を“摘まみ菜”として初収穫。アイトワ菜はパスタに活かされるなど、夏と冬の野菜が食卓で共演した。
17日、陽が落ちる前に出張から帰宅、冷たく迎えられたが、夕刻にHCに出掛け、タマネギの苗60本と、ミズナのポット苗第2次分(第1次分のミブナは順調に育っているが、ミズナはすべて枯れた)を3つ買い求めた。翌日、モロヘイヤを抜き取った後を畝に仕立て直し、タマネギの苗を植え付けた。この畝は夏野菜から冬野菜の畝に1昼夜で模様替えしたことになる。
ミズナのポット苗は、1本1本にバラして、それぞれ新たなポットで養生させ、新たな根が張りかけてから畑に植えることにした。
21日、カボチャを収穫した。元のツルクビカボチャの姿(に最も近いのは写真左の左から2本目)は次第に望めなくなった。次年度用に、どの種を残すか思案中。写真右で言えば、下はほとんど種がなさそう。上は丈夫そうだし、種も沢山採れそうだ。だが、“中”の元の姿(トッテンさんにもらった)を私は選びそう。
この日のこと、早朝のPC作業時からガスストーブを用い始め、夕刻に試し採りしたシブガキを吊るし柿にした。夕食には、この秋最初のおでんが出た。
アイトワ菜は、摘まみ菜を始めてから12日後の24日に、第1次“間引き菜”が始まった(写真左奥のゴボウは自然生え)。
第2次の間引き菜は28日(写真左、中ほど右に同じゴボウが見える)で、間引いた後すぐに水をやっておくと、翌朝にはこの通り。菜は起き上がっている。
25日、アイトワ流のトウガン汁が出た。
26日の夕刻、「冬子(ふゆごのシイタケ)が出ていました」と、大発見でもしたかのように妻は叫びながら、少し採り遅れたシイタケを差し出した。急ぎ私は畑に走り、今季最初のワケギを収穫した。
かくして、冬が近いことを感じた。
3.恵那から閑谷(しずたに)まで3泊4日、車の旅
13日のこと、恵那の駅で岡田さんと合流し、阿部寿也さんに迎えられた。水田は刈り取られていたが、ススキは穂をまだ開いてはいなかった。「娘はこの道を4キロ、2人とも歩いて通学しました」「花連は本を読みながら…」などと、今は2人共に学生として下宿生活にはいった娘を話題にした。
「小夜子さんは…」と訪ねられ、チョッとあいまいな返事をした。いつもならニコニコ顔で(お食事の世話が気にならず、人形作りに没頭できます、と言って)送り出す妻が、「年寄りが遠方まで」と嫌味で送り出されていたからだ。
泊まり慣れたお宅では、仁美さんに厨房から声でまず迎えられた。家族が手分けして作った風呂ではいつも、私はある夢を振り返る。書斎の窓を熱帯魚の水槽にする夢だった。この度は、あふれる湯を流す窪みを改めて眺め、子どもの技と見た。
アペタイザーからはじまた夕食。ビールと赤ワインで味わい、話しが弾んだ。朝食はサンルーム式のダイニングキッチンでとった。そこは居間から2段の階段で降りる。
終始、積もる話に花が咲き、昼食のメニューを失念した。
庭を案内してもらった。小さな一輪車があった。温室の位置が変わっていた。小さなヘビを庭で観た、と写真を見せてもらった。
昨年から始めたというスズムシの飼育だが、今年は大きな新容器にした。それは水槽の廃物利用であり、わが家もスズムシが増えたらこれに真似て、3年計画で庭で自生させたい。
異動させた温室は、わが家の温室をヒントに、作業場に改装されていた。この改装(主目的を作業場にする)に、わが家も真似てはどうか、と思った。
庭はスッカリ秋になっていた。タマネギはビニールシート(黒い穴あき)でマルチングしないと育たないようだ。学問の木と称せられる“楷(かい)の木”も見た。岡山県備前市の閑谷(しずたに)学校で手に入れたという。
庭を半周し、朝食をとった部屋が見える側に至った。アイトワの庭から持ち帰ってもらったネムが、大きく育っていた。満開の頃に、この花の下で家族4人でよく食事をとったようだ。
出掛ける前に、チャイと寿也さんが焼いたカヌレをご馳走になった。
車で20分足らずの岩村まで送ってもらう道中で、2か所に立ち寄った。まず長楽寺の大イチョウ。近年は、側の舗装やU字溝が、葉を小さくしたようだ。
明るいご住職と出会ったが「“主夫”をやってます」と自己紹介。夫人は名を知られる藍染作家・戸塚美紀さん。
次いで、阿部夫妻が結婚式を挙げた神明神社を目指した。麻製を思わせるしめ縄が、初めて見るかけ方だった。林立する巨木が往年を忍ばせた。
岩村に着いた。日本三大山城の一つで、織田信長の叔母が女城主として領民を守ったことで知られる岩村城や、『言志四録』(西郷隆盛が座右の書としたり、佐久間象山、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、伊藤博文など維新の志士が感化されたりした)で知られる儒学者・佐藤一斎で有名な岩村では、小木曾順務さん(リサイクル磁器や海ごみ解消問題で知られる)と池田弘満先生(不登校問題の研究で知られる元学校長で、“論語普及会”元副会長)と“藤時家”で合流。2日間を岩村や近辺で過ごすことになった。
15日朝、若森慶隆さん(恵那市山岡地域自治区会長で、いわむら一斉塾生)の案内で、岩村の家並を散策。4年前より随分整備されていた。殿様専用出入り口もあった木村邸の見学。家並は、殿様も学んだ言志四録(1133条)の1つを新たに掲げる家屋が増えていた。
西郷が座右の名にした分には QRコードが付されるようになった。一斎塾の鈴木隆一塾長を訪ね、脚の骨折はほぼ回復と伺い、旧交を温めた。
高札場まで初めて歩いた。一斉の教えが行き届いていたようだ。
歴史資料課も再訪し、岩村一帯の昔に想いを馳せた。
当夜は一斎塾の会食寄り合いがあった。阿部夫妻に岩村まで再訪を勧め、昼から行動を共にした。まず高名な書家・神谷慎軒さんを3年ぶりに訪ねた。この広大なお宅は、食事もできる観光施設・茶房神谷家としても有名だったが、コロナ騒動の影響で営業休止のままになっていた。この度は天皇家に献上されたという人形作家の内裏雛2つの1つを拝見した。
この後、岩村に戻り、一斉塾の懇親の会に参加、夕食を共にした。
翌14日の朝、地元ロータリークラブの例会、土岐市長も参加の会場に駆けつけ、池田先生は山田方谷の「理財論」についてスピーチ。方谷は、江戸時代末期から明治時代初期の人で、朱子学と陽明学を取捨選択した漢学者。
池田先生の“愛着形成”論や学校経営の基本にも触れる講和に共感。愛着形成は、“アーミシュ”が実践していることであり、「理財論」は「誠が財をつくる」を説いており、手前味噌になるが、拙著『「想い」を売る会社』の「想い」と相通じる。
講和の終盤で紹介されたご自身の実践・不登校生を激減された実績は説得力があった。
別途、散策中に山田方谷に関しての見識を直に学ばせていただいた。方谷が生まれ成人した備中松山藩は当時石高5万石ながら実質2万石程度の収入しかなく、藩の借金は10万両(今の金にして数は約億円)もあり、財政は破綻していた。藩主板倉勝静(いたくらかつきよ)はこの状況打破には大胆な藩政改革が必要とみて、山田方谷に眼を付けた。
もちろん方谷は「農民出身者に誰も従わないだろう」と辞退する。だが、ついに勝静の熱意に打たれ改革に着手。ついには元締役に就任し、10万両の黒字にさせた。
その本質は「誠を求めて義を尽くし、誠が財をつくる」ことを実践してみせたことになる。この想いを池田先生は校長として体現してみせられたようで、不登校生を激減させた実績に共感するとともに、来たるべき時代を予感させられた。
方谷もさることながら、方谷を見込んだ殿様・板倉勝清と、誠に応えた江戸社会のありようを深く掘り下げたくなった。この根本は、これから本格化するポスト消費社会での繁栄の秘訣であろうし、まさに経済(経世済民)の鉄則、世を整え、民を救う想いの具現化であろう
この後、土岐市庁舎(美濃焼で知られる大窯業産地だけあって、かつて見たことがない巨大な瓦葺き屋根部がある)も訪ね、小木曽さんは教育長に池田先生を紹介した。
この地は、須恵器から発展し、鎌倉時代以降は陶器生産が始まり、16世紀には織田信長の経済政策によって単室大窯が多数築かれた。桃山時代に美濃焼の基礎が築かれ、江戸時代には織部焼の優品が生み出され、現在では和食器・洋食器を多く産する大窯業地となった。だが、近年は国内他地域の製品や安価な輸入品と競合し、生産量は大きく落ち込んだ。その後、美濃焼の技術を応用した工業用セラミック製品(日本ガイシなど)の生産も盛んになっている。
.小木曾さんはこの地の利を生かし、リサイクル磁器食器を開発し、学校給食用として普及活動中だし、海ごみ問題の解消にも努めていらっしゃる。
この後、こうした感激や共感を胸に、有馬まで移動。道中で上杉鷹山神社や平洲記念館に立ち寄った。細井平洲は、財政が破綻していた米沢藩の若き藩主・上杉鷹山に招かれて、3次にわたって藩政改革に関わった儒学者として知られる。
米沢藩は平洲の教えを体現して財政再建を成功させたが、わが国初の藩校・藩士対象を作っており、平洲が興譲館と命名した。今は、山形県立米沢興譲館高等学校としてその伝統を引き継いでいる。
途中で昼食の時間になった。ならば、と“もくもく手作りファーム”に立ち寄った。おかげで、コロナ騒動がもたらした影響を垣間見た。
15日は有馬に宿泊し、夜は六甲山から夜景を眺めながらの夕食は(神戸時代は接待行為などにかかわらず、休日は庭仕事に割いたので)初めて。
翌朝はホテルから眺める有馬の展望に促され、人気のない早朝の有馬温泉街を車で一回りし、電柱の林立に唖然とした。
この旅の大団円は閑谷(しずたに)学校(わが国最初の庶民対象の藩校と言われる)訪問であり、岡山は備前まで有馬から急いだ。
閑谷学校は、江戸時代・寛文10年(1670)岡山藩主池田光政によって創建された。岡山藩直営の庶民教育のための学校・学問所で、国宝の講堂をはじめ、聖廟や閑谷神社がある。
今は岡山県青少年教育センター 閑谷学校として伝統などを引き継いでいる。
初めて閑谷の地を訪れた池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛し、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めた。この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14年(1701)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させた。
公益財団法人 特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会で池田先生と再会。 国友道一理事長や香山真一所長はじめとする幹部6人と(協)岡山県備前焼陶友会 長崎信行理事長に迎えられ、意見交換の場でその歴史や概要を学び、特別史跡旧閑谷学校を見学させていただいた。
意見交換の場に特別参加していただいた長崎信行理事長の発言にも、とりわけ農業政策(中山間における稲作を持続可能にするプラットホ-ム)には心を強く打たれた。昭和24年創業の株式会社長崎鉄工所 代表者としての顔もお持ちの実業家だけに、主旨が明快で、その国を想う心は、私には人間の自尊の心のように響き、感動した。
旧閑谷学校に移動。校門をくぐると広場が広がり、正面奥高台に聖廟が望め、その手前には2本の楷の木が茂る。国宝の講堂は、広場の左手の一角にある。
楷の木はうるし科の落葉樹(学名トネリバハゼノキ)で、閑谷学校では孔子にちなみ、楷の木を『学問の木』と呼ぶようになった。
国宝建造物・講堂の前には、簡素な枌(ヘギ)葺きの建物があり、それは殿様の滞在用(風呂まである)で、学習の様子を泊りがけで探られたようだ。
この日は講堂から、意見交換の場を中座された香山所長が講じる論語が響いてきた。
閑谷学校は2015(平成27)年4月に、「近世日本の教育遺産群」として、特別史跡旧弘道館(水戸藩校)、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定された。学ぶ心・礼節を重んじた近世の教育が、近代化の原動力となり、現代にも受け継がれていることを認めたわけだ。
講堂を後にして知ったことだが、校門に加えて公門があった。特殊で精巧な石垣の構造も知り得た。
見学を終えた。3泊4日の旅も終わったわけで、家を私が空けることを結婚来初めてむずかった妻が待つ帰宅の途についた。このたびは阿部夫妻の世話になることから始まり、後は岡田さんとズーッと同道、が効いたので事なきを得たが、厄介な事態になった。
4.ピーター・マクミランさんのスピーチと池田聡子さんの個展
当月は、自宅を離れたのは8度だが、心に残る外出が4度あった。その最初は11日のピーター・マクミランさんのスピーチだった。2年前からわが家の真ん前にお住まいの著名人で、アイルランド出身のピーター・マクミランさん。当夜に、現居住地小倉山自治会の要請に応え、住民対象のスピーチをされたが、妻と参加し、傾聴し、感動した。
2008年に英訳『百人一首』を出版し、日米で翻訳賞を受賞。2011年にイタリアで自作の詩集『Admiring Fields』 を出版。2019年には世界初の英語百人一首『Whack A Waka』の制作。あるいは朝日新聞での連載「星の林に」などで知られ、東京大学非常勤講師など教職面でもご活躍。
この日は自治会長の要望に沿って自己紹介から始まった。とりわけ、彼我の“美意識”を比較し、ソフトな語り口でその本質をご指摘されたが、とても心打たれた。
最後は自作の英文かるた『Whack A Waka』でのお遊びで、なごやかに締めくくられた。
次いで、2つの心に残る外出があった。14日からの車を駆使する4泊5日の旅と、20日に妻と一緒に出掛ける予定を立てていた池田聡子さんの個展だった。
モチーフに「石」を選んだ新進気鋭の銅版画に、なぜか心惹かれる私たち夫婦だが、その個展を予定していた20日に揃って訪れることができない事態になり、チョット深刻な問題を生じさせたわけ。だが、結果はメデタシメデタシで締めくくることができた。それは、フミちゃんのおかげでメデタシになった次第。
20日に、小木曽さんの計らいで東本願寺の要人を訪ねる予定が急に入った。だからその後で妻とどこかで落ち合い昼食と個展を、と提案した。反応は尋常ではなく、ならば「私は出かけない」とむずかるまでの抵抗に膨らんでしまった。後になっての憶測だが、それは「一人では(市中にまで)出掛けられない」との不安の表明であったわけだ。
要人と歓談中にケイタイが鳴り、「フミちゃんと一緒に」でかけることになった、と知らされた。小木曾さんに昼食を誘われ、甘えた後で個展会場までかけつけたが、そこで出くわすことができた。
聡子さんの銅版画に触れるのは2度目だが、新たな発見をした。その新鮮さは、額装とそのありようも関係していそう、と感じ取った。
見終わった後、帰路についた・・・・
「お昼は?」
「まだ、とってません」
「このタコ焼きを買っただけ、ネ」
なぜか2人は、随分時間を無駄にしていた。妻は阪急の嵐山駅まで車で送ってもらい、そこでフミちゃんと待ち合わせた。2人はそこから徒歩で10数分の道のりを(渡月橋の北詰め近くにあるバス停まで)妻にすれば戻り、バス、JR、そして地下鉄を乗り継ぐ道順でたどり着いていた。そして、この道順は、嵐山のたこ焼き屋で聴いたと言う。
フミちゃんを電話で、妻は「どこかで昼食を」といって誘っていながら、昼は未だだった。「ならば」と思ったが、雨がぱらつきだした。素敵なビールバーがあった。
2種のビールとジンジャーエールをとって、たこ焼きを「腹の虫抑えに」すれば、と勧めた。街路樹のハナミズキが色づき始めていた。
その後、フミちゃんは「楽しかった」と言い残し、地下鉄で途中下車した。まだ明るいうちに帰り着いた。
夕刻、庭に出て、トンネル栽培のビニールシートを(夜分の冷えに備え)被せて回った。引き返す途中で、ファーム小道の側の石捨て場で目に留まった石ころがあった。その一方は、切ったように平らだったので拾い上げた。まるで装飾用の“置石”のごとし、だった。
「今度、聡子さんに会うことがあれば、話題にしよう」
心に残る4度目の外出は23日の歯科医だった。臼歯の1本が、4つほどに割れており、認識を新たにせざるを得なかった。
5.庭仕事
今年最終のフジの徒長枝を3日に刈り取った。当月は畑仕事を優先したために、庭仕事はこの日が初日となった。
翌4日に、まず妻の要請に沿って、ギョクシンボクの大剪定をした。フジバカマを日陰にして、随分傷めていた。
次いで、ファーム小道で、石止め(畑から出た石の捨て場にして来た)を兼ねた銘板の仕上げ(文字を掘り込む余地だけ残したセメント仕事)に取り組んだ。
7日土曜日に今村さんを迎え、フジバカマは日陰の問題で傷んだだけではなく、緩やかだが坂地で育ててきたために表土が流れ去り、根がむき出しになっていた問題を説明し、この解消(補流れ去りにくくする去りにくくする策)の検討をしたが、今村さんのヒント(土留めの石を並べたら)のおかげで、「ならば」と私は一石二鳥を思い付いた。
早速一緒に車で、このアイデアを活かす敷石をHCまで買いに行き、その石をディスクグラインダーで切るなどの加工の仕方も学んでもらった。
「ならば、」とこんどは今村さんが、「次の土曜日(私は出張中)に」今村流の石畳道を作ってみたい、とご要望。
3泊4日の留守の間に今村流が出来上がっていた。
次の来訪日・21日の土曜日が待ちどうしかった。9時から今村さんを迎えることになった。
朝の冷え込みが始まった日になったが、改良すべき理由(一輪車を用いた実験を重ね)と、出来上がり予想図を口頭で説明したうえで、私は畑仕事(義妹にもらったシュンギクの苗の植え付けや、なぜかノラボウナの種は苗床の鉢ではうまく育たなかったので、畝を作って直播きするなど)に当たった。
その間に、今村さんは石畳道の改良作業に、今村流で試みた。もちろん途中で点検を求められ、再改良する必要性を述べた。
結果、1日がかりになったが新石畳道が見事に完成し「フジバカマ小径」と名付けた。
この間の10日に、妻はフミちゃんを迎えており、1日がかりで2人は果樹園の草刈りを済ませた。その間に、私は畑仕事(モロヘイヤの後を仕立て直すなど)に精を出した。
午後のお茶の時間に、妻からある提案があった。この中央部を直径2m余のテーブル状に刈り込んだチャの木が占めていたが、これをとり除き、果樹の苗木を植えてはどうか、との意見だった。その側にはブラッドオレンジ(瞳さんのご主人・義信さんが苗木を下さった)が初成りの実をつけていた。
24日(火)にフミちゃんを迎え、2人は旧玄関前の庭掃除に、私はファーム小道の補修に、それぞれ当たった。
後者は過日、佛教大生OBが集い、仕上げた舗装だが、その後の降雨が明らかにした欠点があり、その補修だった。これを仕上げて、後は銘板作業を残すのみになった。
28日、妻は円形花壇の整備から、私は9時に今村さんを迎え、スイフヨウを日陰にしていたスモモの大枝を落とす作業から着手した。3人は好天の下で、終日庭仕事に没頭し、4つの課題を消化した。まず、若い方のスモモに「ゴメンナサイ」。
果樹の剪定に関して言えば、このスモモは(長年のさまざまな失策や成功事例を通して学んだおかげで)枝を四方に漏斗状に張らせて、理想的な樹勢に仕上げることが出来た。だが、その1本の枝(が、スイフヨウを日陰にするするようになった)を落したわけだ。
次いで、オオモクゲンジを剪定した。力仕事だけに、来年は今村さんに1人でも取り組んでもらえるようにと願い、その狙いと期待する成果を説明した。彼の実家には、果樹など樹木の育成にも適した大きな土地がある。
3つ目の課題は“月見台”の雨よけカバーの更新だった。これまでのカバーは日に焼けて随分傷んでいたし、雨漏りも始まっていた。まずとりはずした。
“月見台”の活かし方やその性能とカバーが必要な理由などを縷々説明した。それは妻が、雨天に耐える材質を用いているのだから、カバーをなくして「もっと頻繁に活かしたい」と言い出したからだ。もちろん私もそうあれば、嬉しい。だから、仮定の話(理想をかなえる場合の配慮すべき点)と覚悟の話にずいぶん時間を割き、結論を出そうとした。昼時になった。
結局、妻の意見に傾いていた今村さんも、小鳥たちのおかげで、カバーの更新派になった。それは、3人が食器の後片づけなどで10分ほど目を外していた間に、小鳥が8カ所にわたって糞撃攻撃を行ったことを目の当たりにできたからだ。
最後は果樹園の大きなチャの木をとり除く作業で、これが最も重労働になった。もちろんそうなることを予測できる私は充分に説明した。今村さんは頭でしか理解できなかったようだ。途中で掘り出した芋がカラスノマクラの球根だと知って、さらにこの球根が“天花粉”の原料だと知ったりして今村さんは張り切った。妻も「ならば、イチジクの木を育てらあれますね」と、喜んだ。それは大きな窪地がつくれたわだから。
柑橘類は地下水が豊富な乾燥地を好むが、イチジクは湿地を好むので、窪地ができたことを幸いに、と視たわけだj。
「それにしても」と今村さんは、掘っても掘ってもビクともしないチャの木に驚いた。想像以上に太くて大きな根を四方に張っていた。
やっと堀り出せた今村さんに「助かりましたね」と私は慰めた。底の地盤に石ころが多かったので、太い直根(ツバキ科の木の特徴)を土中にまっすぐ伸ばしていなかったオカゲだ。
イチジクを育てるにたるスペースが確保できた。
神無月最後の庭仕事は31日の火曜日だった。フミちゃんを迎え、終日3人で庭仕事に当たった。彼女と妻はイノシシスロープの、おそらく今年最後の除草から手を着け、私はカフェのテラスから見上げる位置にある母屋の“離れ”周辺の美化から手を付けた。
デニッシュパンの耳を活かした昼食のサンドイッチは会話を弾ませた。
フミちゃんたちは除草の範囲を次々と広げた。私は冬に日の出の写真を撮る絶好の場の剪定作業に移り、その剪定クズで囲炉裏場には、剪定クズの山がまた出来た。
4時過ぎから神無月を焚火で締めくくることになった。妻とフミちゃんは話に夢中になった。
焚火は、3人組の流れ作業で1時間余であらかたのクズを燃やし切った。遅がけになったが、私はトンネル栽培の野菜にビニールシートを被せて回った。
回りながら、神無月はフミちゃんと昇さんのオカゲで神有月のような1カ月になった、と振り返った。
6.その他
1、異常な1か月だった。ムベの実が1つも着かず(育て始めて30年来初)、ナズナが1本も芽生えず、ロッコウサクラソウを絶えかねなくした異常な夏だった。だがカキは逆に、ヘタ虫に襲われなかったようで、観測70年來初の成年になった。とはいえ、これも異常の1つの裏付け、と言えそうだ、と考えながら神無月の月末を迎えた。
2、動物の異常。動物界でも気がかりなことが多々あった。大仕事になった28日の庭仕事では、午後のお茶だけでなく、給水時間を妻はもうけた。だが、その後片付けを忘れ、それがちょっとしたドラマに結び付けた。
「忘れていました」と言って妻が取り込んだガラスコップの1つで、見慣れぬ昆虫が7匹も溺死。1匹のクモが忍び込んでいた。他の2つは空だった。私たち3人は糖分をとったわけだが、このコップには少し残していたのだろう。
お盆では、もっと ? が生じていた。夜露が降りたのだろうか、見たことがない種が目覚め、根を伸ばしていた。
「アリでしょうか」と、妻が見た昆虫がいた。カメムシの1種と見た。ならば他にも疑わしいのや珍しいカメムシも随分見たことになる。
見事なところに巣を張ったものだ。アシナガバチが温室の出入り口の真上を選んでいた。
ハリガネムシを無事に排出できたカマキリと妻は遭遇した。この虫を抱えたままなら、このカマキリは溺死していたはずだ。ハリガネムシは水の中で産卵し、増えるのだから。
あるいは「今年は異常発生ね」と妻に叫ばせたほど、このイモムシがうろついていた。
3、お菓子に感謝。「このような詰め合わせがあったんだ」と、頂いた菓子に見とれた。老夫婦にとっては量より質の上を行くあり難さだった。
4、妻は自分で靴を補修。妻が持つ最も高価なお誂えの靴を「愛用したくて」と、自ら“タン”を手縫いで補修した。皮は、人形用の持ち合わせだったようだが、色合いもよくなったように見た。
5、高田啓さんの来訪。とても嬉しい再会だった。その昔は、月に1度は会したアイトワ塾の塾生だった。事情があって呉服業を、バブルの最中に「損して“徳”をとる」ような廃業。それが期せずして“得”に結び付いたような人だ。廃業を機に、住まいを空気がきれいなところに移せたし、好ましき再就職にも恵まれた。
一度その後、再就職先の総務部長として、幹部を案内しがてら立ち寄ってもらえた。
この度は、神無月の7日に、7人目の来訪者として迎えたが、なぜか私はこころをふくらませている。そのおかげだろうか、神無月は「ひょっとして」とある心配事を抱えながら迎えた1カ月であったが、それを追認しながら、前向きに捉えらながら月末を迎えることができた。