目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 四国2泊3日の出張
2 朴葉味噌の一時
3 ブルーベリー小径の再舗装
4 AGUの個展
5 最後かも、の12段脚立
6 その他
日本を沈めるな! 心と気を引き締めた
モミジの絨毯の上で“ホオバ(朴葉)味噌”を、フミちゃんを迎えて味わいました。ほどなくたくさんの小鳥がやって来て、妻は「この前はもっとたくさんだったの」と、少し上気。やがてコゲラも一羽、来ました。フミちゃんが「争わないのね」と、見上げていると、「ウンチを落すかもしれないよ」と妻。「ぼつぼつ・・・」と、私。一帯に味噌が焦げる香ばしいかおりが漂いはじめました。師走の12日、昼時の一時でした。
師走は、四国への2泊3日の出張中に明け、2日夕刻に帰宅。その後3日から10日までは日替わりメニューのごとし、の来客でした。この間に、その内のお2人と2日半にわたって、加えて私が1人で足かけ3日、ブルーベリー小径の再舗装に取り組み、ほぼ完成させました。
他にも、トピックスは多々。シンボルモミジの日替わり紅葉を観察。「どうして?」と、つぶやきたくなった日の出が2度。カメムシの異常発生を追認。タマネギの畝をモミガラで保温。イチジクの稔らず終いの実の収穫。モッテノホカと小さい実がなるクコの苗を頂き、植え付け。そして混栽野菜の畝の成果のほどを追認、などがありました。
四国への出張では、今治に立ち寄り、宮埼タオルの陽平さんに“山”に案内され、五右衛門風呂を見たり、主目的地の松山では、目抜き通りで鯛茶漬けを賞味、にも恵まれました。もちろん、この度の主題である・リサイクル焼き物の普及に関するお引き合わせは滞りなく行えました。
中旬は、当月再訪の池田明さんを庭に案内し、庭仕事のありようを説明。山口賀代子さんが久しぶりにお越しになり、しばし歓談。夜は『ローマの休日』をTV鑑賞、で明けました。
翌日は小雨でしたがフミちゃんが来訪、雨が上がったのを幸いに、急遽ホウバ味噌で昼食を、になった次第。その後、志賀師匠や乙佳さんの来訪。教え子AGU(アグ)の個展会場で長津親方、次いで小木曽さんと合流。岡田さんと2人で映画会。今村さんと彼の後輩夫妻の来訪。そして17日は元アイトワ塾生三上さんが、と続きました。
その後、残暑が一転して急激な冷え込みを体感し、慌てました。何故なら、今村さんを迎えた16日のクルミに始まり、19日朝のムクロジまで、剪定作業に熱中し、ブルーベリー小径の両側を縁取る石を、セメントで固める水仕事を後回しにしていたからです。
急ぎこの日の午後から3日間(21日まで)セメント仕事に集中し、防寒対策も打ちました。おかげで、結果的にギリギリのセーフ。この日の夜半から翌冬至の22日にかけて急に冷え込んだのですが、凍結問題に何とか耐え、ことなきを得たのです。
この前後のトピックスは、18日の “モミジの絨毯の敷き直し”と、都城は紅梅園の徳重文子さんからの贈り物。20日の徳重さんと、東京で病床にある友人との電話。21日の昼に、妻は転んで前歯を少し欠き、3か所に擦過傷。夕刻に膝痛(セメント仕事に熱中し過ぎた)を押して、ジャガイモの掘り出し。翌冬至の日は、朝は美しい日の出に安堵し、7㎜もあった初氷に仰天。昼はハッピーの小屋の修繕。午後は最寄りの親戚が引っ越してしまう挨拶。夕に、リズさんの教え子の来訪。そして23日、今村さんを迎え、年賀状対策。これらの合間と25日までの落ち葉掃除。26日のフミちゃん最後の来訪は、剪定と除草でふた頑張り。27日は元アイトワ塾生の柴山、後藤両氏の来訪。28日は心臓の最後の定期検診と餅づくり。この間に伴さん父子に訪ねてもらっています。そして29日の昇さん最後の来訪は、プリンターの更新とPC仕事。かくしてこの年最後の2日間を迎えたのです。
30日は恒例のシメ縄づくり。大晦日は元旦に備えたお鏡飾りなどの準備。今年は、この2日の2時間かかる薪の風呂焚きを引き受けました。2日かけて、クズの薪を活かして焚き、新年を迎えるにふさわしい薪置場にしながら、神妙に1年を振り返りました。除夜の鐘の音が響いてきました。このままでは「日本は沈んでしまいかねない」と心配し、心と気を引き締め直した次第です。
~経過詳細~
1.四国2泊3日の出張
霜が未だ降らずの霜月の月末に出立し、師走の2日は夕刻に帰着。アイトワのシンボルモミジと紅葉の絨毯が、なんとも艶やかに迎えてくれた。
この20数時間前に心に焼き付けた瀬戸内海の夕暮れを、ふと思い出し、瞼に浮かべた。
この出張は“リサイクル磁器の普及”と“海ごみ問題の解消”をライフワークにする小木曽順務さんの要望に応え、内山栄一さんと私で、窯業産地の砥部に案内する旅だった。
道中では、なぜかやたらとコンクリート構造物が目にとまった。欧米が200年かけて造ったコンクリート構造物を、日本はわずか半世紀で生み出した、と聞く。これらが耐用年数を一斉に迎える時期が近づいており、気がかりになっているからだろう。
目指すは“砥部むかしのくらし館”だった。この館は、5か月前の岡田さんと出掛けた“松山と児島の旅”で、松山で訪ねた先の1つであった。館主の豊島吉博さんはプロサッカー協会の元常務理事で、内山さん(仕事の関係で昵懇になられた)に紹介された。この話を、2カ月前の“岩村と備前の旅”で世話になった小木曽さんに話したが、「是非紹介してよ」になった。そこで、内山さんにもお出まし願った次第。
まず今治に立ち寄り、宮崎タオルを訪ねることになった。迎えてもらった宮崎陽平さんに小木曽さんを紹介したが、自ずと佐藤一斉(岩村)や閑谷学校(備前)、あるいは山田方谷が話題になった。陽平さんは向学心が旺盛で、飛びついた。きっと近日中に彼は愛車を駆って、備前に、場合によっては岩村まで走ることだろう。
陽平さんは、モノの本質に興味を抱き、妥当な手を打とうする強い意識の持ち主だ。それは父親譲りだろうと睨んできたが、このたびはそれを追認する機会になった。「父親が遺してくれました」とおっしゃる“山”に案内してもらえたからだ。
ほどなく「あの黄色い建物は、タオルを織る工場でした」と、陽平さんは指さした。
「父親が植えました」とおっしゃるサザンカの並木の坂道を経て、その建屋にたどり着いた。露天の五右衛門風呂があった。この山を切り拓く作業の度に、陽平さんも汗を流した風呂だろう。父子で雨宿りもしたであろう山小屋もあった。実はわが家も、現在の棲み処に、まだススキが原であった時に、私の発案で3坪の小屋を作っている。「弟の受験勉強に!」を名目にした。それが、橋頭保となり、今日がある。
今は、「山の管理はボクがしてます」と陽平さん。
廃校の廃材が保存されていた。父親の果しえなかった夢ではないか。
古びた墓石が並んでいた。「父親がここに集めて、祀りました」と開拓途上でのエピソードも聴いた。お父上は私と同世代であったが、早死にされた。陽平さんは毎日のごとく山にやって来て、草刈りや剪定に当たっている。
小木曽さんは寺の息子としてお生まれだから、寺を見つけて興味を抱き、内山さんは見晴らしの良さを愛でられた。お二人は共に、陽平さんの“古典”を尊ぶ心に気付き、心惹かれたようで、旧知のごとし、に私の心はご満悦に。
陽平さんに見送られ、松山は砥部への道を急ぐことになった。泊るホテルに着くと、豊島さんが待って下さっていた。早速松山の目抜き通りまで歩き、そこは遊歩道だった。今では「老舗は数えるほどになった」とか。大資本のチエーン店が次々と進出し、地価を吊り上げた。老舗は(固定資産税の高騰などに)耐えきれなくなった」とか。京都では今、東京資本に次いで、海外資本の進出が地価を吊り上げ、同様の現象が生じている。
鯛尽くしは美味だった。鯛茶漬けは初賞味。
砥部むかしのくらし館を再訪し、その歴史と価値を再認識。
砥部焼伝統産業会館を訪ね、当産地の全容や位置付けも学べたような気分になれた。
当該組合を訪れ、小木曽さんは窯業のリサイクルやリメイクなどの現状説明と、呼びかけをした。また、“磯辺焼環境センター炎の里”も訪ね、今日の商品構成も学ぼうとした。
豊島吉博さんは本家も案内してくださった。まず、登り窯(九連室の梅山大登り窯)を見学。
2つの私設資料館では、その歴史も学んだ。上皇夫妻も若かりし頃にお訪ねになっていた。ご夫妻は、沖縄やペリュリュー島もお訪ねになっておられ、写真に見とれた。
工場の案内も願えた。本家の大きな工場だけでなく、
「気鋭のご夫婦が」と伺った家内工業も紹介してくださった。
帰途、徳島に立ち寄り、3人で喧々諤々の一夜を過ごし、朝食で再び鯛茶漬けも賞味。
このホテルでは個別包装した角砂糖を用いており、チョッと驚かされ、日本や日本人の行く末が、その心や気のありようがとても心配になった。
2.朴葉味噌の一時
小雨で明けた12日、火曜日。フミちゃんを迎えた頃から曇天になり、 “落ち葉かき”を作業テーマに選び、昼は「ホオバ味噌で、」と私は提案した。だが、なぜか妻は乗り気ではなかった。
かつて2度ばかり試みたことをすっかり忘れ去っていた。しかも、ホオ葉味噌は青い葉を用いなければできないはず、との思い込みに囚われていた。枯れ葉では燃えてしまいそう、との既製疑念が邪魔したのだろう。
あるいは、過日1人でホウの木がある一帯の落ち葉掃除を済ませており、いまさら提案されても「肝心の葉が・・・」との意識が、賛意を示させなかったのかもしれない。
かつて妻は、ホオの落ち葉を干し上げて、大事に取り置き、さまざまに活かしていた。今もそれはワークルームで眠っている。丈50㎝、幅25㎝の葉もあった。
ホオの「葉は私が探し、ヒチリンの準備もする。食材の用意は・・・」などと手分けをした。案の定、ホオの涸れ葉が3枚も、掃除しきれずに残っていた。
「“から消し”は?」「ない」と妻は応えた。このところ、風呂焚きは妻が受け持ち、もっぱら私は薪の運び込みに専心していた。妻はから消しを取り置いてこなかったようだ。“から消し壺”には、かろうじて私がとり置いた過去の分が少し残っていた。
「牛肉はその3分の1でよい。細かく刻んで。タマゴは1つでよい」などと注意を要した。持ち出したヒチリンの火壺に、戦中戦後を思い出しながら新聞紙を丸めて入れた。マッチで火をつけ、その上にから消しを載せ、さらに炭を被せた。
ホオの葉に、妻の手造り味噌をのせ、火壺の大きさに合わせて伸ばし、丸く塗りあげた。その上に刻んだネギを被せ、ヒチリンにのせ、火口から団扇で風を送り込んだ。
味噌の焦げる香ばしい匂いが立ち始めた。ご婦人方に、庭掃除の手をとめて集ってもらい、タマゴを割って、のせた。
いよいよ味噌に火が通り、頃合いを見てタマゴをかき混ぜ始めると、妻はご飯と箸を配った。まず私が箸を操り、ほどよく焼けたホオ葉味噌を掬い取ってみせ、「どうぞ」と、この要領で、と言わんばかりに勧めた。
ほどなく頭上の木々に、シダレウメやシンボルモミジ、あるいはモクレンに、小鳥が集まって来た。その数20羽あまり。右に左にと飛び交い、そのつど何かをついばんでいる。フミちゃんはメジロとウグイスの見間違い易さを話題にした。
過日の小鳥の乱舞を私は思い出した。望さんと昇さんと一緒に見上げた折のことだ。その時はもっと小鳥が集まっており、望さんが「あれはメジロ」と、ウグイスとの混同について語っていた。
周辺を見渡せば、落葉樹はスッカリ丸裸になっていた。小鳥の巣が目に留まった。
巣は、手の届くところにもあった。底が深かめで、見慣れぬ巣だ。半地下の人形工房の窓先にある空調機の室外器、その側に生えるツゲの木に巣食っていた。
そこは、庭掃除の最中にお茶の時間になると、石に腰かけて活かす場だ。夏場は、幾度もここで憩い、時には話しが弾み、1時間余も過ごす。だが、巣があったことに気付いていない。キット、親鳥は給餌を控え、雛は沈黙を旨としていたのであろう。ならば、外敵(野良ネコど)から人の気配が守る、と母子の小鳥は視るのではないか。
「昔の人は、この味噌も・・・」と、私は口を切った。半ば焦げてホオの葉にこびりついて残った味噌のことだ。
半ば焦げた味噌を葉ごと揉んでほぐし、ヤカンに入れたかったのだが、配られた湯呑茶碗のお茶に入れた。その昔は、塩が貴重であった内陸部などでは、牛や馬の餌に混ぜ込んでいたに違いない。残飯なんて、ありようのない世界であった。
そう遠くない日本の、アフリカなどでは既に、日常になっている情景だ。
3.ブルーベリー小径の再舗装
フミちゃんと妻が、この夏に“ブルーベリー小径”と命名した小径がある。この命名が、この小径の再舗装を私の懸案にさせた。防草土による旧舗装は(防草土は強力面で弱い。素人の舗装は厚さが不均一で、薄すぎる部分もあった。さらに、竹の根が舗装の下に入って押し上げ)破れたり割れて剥がれたりしていた。
この傷だらけだった小径は、温度計道から入る6段ばかりの階段から始まる。先月14日に、この階段部分から土橋さんに(セメントを用いた再舗装のための)養生作業に手を着けてもらい、2度にわたって助成をえた。
その後、残暑が続いたので油断し、セメントを用いる再舗装(水仕事)を後回しにした。だが、師走に入り、冷え込みが始まり、慌てた。今村さんにも参画願い、作業を再開することにした。
この小径は、この階段部からの先で2又(西と南に向かう)に分かれている。この2又に分かれ、南に向かう小径部分の養生の仕上げ作業は今村さんに頼り、私は土橋さんが養生してあった6段の階段部分の再舗装作業(セメントと砂を混ぜて水で練ったモルタルを塗る)から手を着けた。
この再舗装仕事は水道水を適宜多様に使用する必要があった。まず、旧舗装の上に生えてこびりついた苔を水圧が掛かった水ではがす。次に、モルタルを練るには水がいる。さらに、モルタルで再舗装する前に(モルタルを、旧舗装の傷んでいない部分や縁取りの石に密着させるために)汚れをシャワー状の水で洗い落とす。加えて、モルタルが生乾き時点で散水して水分を補給し、硬化を促進する、などのために水が不可欠だ。
だが、この小径は、蛇口のあるところから随分離れていた。だから長いホースが必要だし、使用途に合わせて、さまざまな水の吹き出し口が求められた。そこで、既存のホースを活かし、目的をかなえるためにさまざまな部品などを買い求め、ミニ水道作業も要した。
結果、今村さんには4度にわたって、高度な作業にも関わってもらい、18日に小径の(縁取り石を固定する作業を除き)再舗装作業(歩行部面のモルタル舗装)を仕上げた。もちろん4日後の冬至を堺に、酷い冷え込みが始まり、厚い氷が張り始めるとは! 知る由もなかった。だが、藁やブルーシートなどで何重にも防寒対策の手を打っており、この用心が幸いした。
高度な作業とは、竹の根が入った部分で言えば、旧舗装を全面的に剥がし、根を掘り出し、土を埋め直して固め、“モルタルを塗る作業に即入りうる状態”に仕上げる下拵え、を指している。
竹の根は、この位置の舗装の下に入っていた。
かくしてこの小径の歩行部面の再舗装が18日に仕上がった。写真は、温度計道からこの小径に踏み込んでから、“分かれ道”まで。
分かれ道から先は、西向きに、山の方向へと進む(左側に大きい方のブルーベリー畑がある)小径と、
南向きに、小倉池の方向へと進む小径になる。向かって右に大きい方の、左に小さい方のブルーベリー畑がある。
残る作業は、この小径の縁取りの自然石を、あるいは“階段部の切り石”をモルタルで固め直すこと、あるいは補強すること。
そして、この縁取りの途中の2か所で、2種の彩りを添えること。1つはミニスイセンを育てる“ミニ花壇”。
2つ目は小さい方のブルーベリー畑の入り口部に設ける“踏み石”の設置であった。
かくして結果的にだが、劇的な日に縁取り石などの作業も終え、防寒対策もしたおかげで事なきを得た。冬至の日から始まった急激な冷え込みに耐え、モルタルに凍結問題を生じさせずに(ボロボロのコンクせせずに)済んだ。
4.AGUの個展
想うところがあって。小木曽さんと長津親方に声をかけ、京都で開催したAGU(女子短大時代の教え子・勝山あけみさん)の個展会場で落ち合うことにした。小木曽さんはわが家(のゲストルームでAGUの作品を少しだが、常設展示している)で、その作品に興味を抱かれた。
長津親方は、チェコスロバキアの大工の世界では著名人であり、AGUはチェコスロバキアの芸術学校に留学しており、お2人共にチェコ通だ。
個展会場は、近年繁華街になった三条通りと寺町通りの角から近いところで、寺町通と新京極通を結ぶ道に面したWRIGHT商会の2階、と案内状にあった。
たどり着くまでに、チョと戸惑った。こんなに狭い道があるとは思っていなかったからだ。AGUのポスタ-が目に入り一安心。だがそこは古い喫茶店で、肝心の2階に上がる階段が見当たらない。
喫茶店で聞いて、やっと分かった。喫茶店はまるで骨董屋だが、品には一貫性が見出せず、、品物が主役の感がまったくない。それが、くつろぐうえでは心地よい。その勝手口への(人が1人通れる程度の)廊下があり、その突き当りを右に折れたところに狭い階段があった。
AGUとの待ち合わせた時刻までには、1時間余も早かった。
狭い階段を上ろうとした時に呼び留める人があった。女子短大時代の教員仲間の松本先生であった。おそらく下の喫茶店にでも入っておられ、見つけてくださったのだろう。同好の士と巡り合えたような気分になった。
会場の設えはAGUの作品にピッタリだった。一通り見終えた頃に長津親方が、次いでAGUが恩人(話で幾度も聴いていた)と、いずれも約束の時刻にご到着。賑やかなことになった。
親方とAGUは“チェコ通”以上の縁があった。チェコ在住で親方のノコギリを愛用する日本人工芸作家もいるが、AGUの友だちであったなど。
勝山さんは卒業後、油絵でなんとか、ともがいた。衝動的?に、彫刻刀を握り、気晴らしをした。のめり込む方向に出あった。あやつり人形を基調とする工芸であった。
それに目をとめた人があった。大恩人との出会いであった。名古屋のアトリエ・アートプタフの主・神谷和憲さんだった。挿絵などの平面作品を主とするアトリエだったが、AGUの立体作品を並べた。
挿絵のメッカはチェコスロバキアのスロバキアだし、操り人形のメッカはチェコだ。この両国がまだ独立する前だったが、恩人はチェコの有名な挿絵作家にAGUの作品をみせた。この作家は教鞭をとる身でもあり、AGUはその学校に招かれ、留学した。
ほどなくまた開場は賑やかになった。短大時代の油絵のモデルであった人にもAGUは覗いてもらえた。この賑わいの間に、会場の様子を写真(AGUが現れるまでは断られていた)に収めた。
親方を送りがてらに下の喫茶店で、親方にコーヒーをおごってもらった。親方を見送った後、小木曽さんを待ちがてら、店内写真を撮らせてもらった。
小木曽さんには、会場を探し当ててもらうために随分苦労をかけた。探しに私が出ている間に会場は元の静けさにもどっていた。だが、小木曽さんのご登場で、おそらくこの日最高の賑やかさを呈したのではないか。きっとAGUにとって、会期中で最も騒々しい一時であったに違いない。
AGUはこの日、神谷さん(恩人は、病状の都合でアトリエ経営を終えた)に、この個展を観てもらいたくて案内した。
会場を切り上げ、小木曽さんと狭い階段を下りて、狭い道に出た。見送ってくださったこの個展会場の主、階下も含めたWRIGHT商会のオーナーらしい、と立ち話になった。AGUとの出会いが知りたくなった。1匹のネコが縁であったことを知った。
小木曽さんの人物紹介をすると、「こんな人が…」と大きな声で口走る。小木曽さんはニッコリしている。
よい女性に出会えた日になった。
5.最後かも、の12段脚立
今村昇さんの助成のおかげで、クルミの木の大剪定にも手を着けた。これ以上放っておけば、さらに枝を広く、高く茂らせ、真下の玉神木やフジバカマはもとより、畑まで日陰にしかねない。それらの枝を、ことごとく切り取る剪定だった。
この木の南西の側2m弱と、さらに1m強のところに、ムクロジの木を2本育てており、その1本も背を随分伸ばしていた。この背丈を半分ほどに縮めたかった。そこで、クルミの剪定の後、12段脚立を昇さんに、ムクロジの側に据え直しておいてもらった。
3日後、用心深く脚立に上った。脚力が弱っており、片方の足に弾みをつける要があった。ムクロジの揺れる主幹を握り、脚立の天板に上り、背伸びをして、手の届く範囲から上部の主幹を切り落とした。8mだった樹高を半分にした。
昇さんに取り組んでもらったクルミの剪定と相まって、この一角はスッキリした。但し、まだクルミで難問が1つ残っている。片手で引く手鋸ではラチがあきそうにない太い枝が残っている。太さ20㎝弱、長さ40㎝ばかりを切り残した。
この大剪定で、この冬の剪定作業の最難関は(この切り残しと、大きい方のスモモを除き)越えたことになる。
なぜなら、この大剪定の前にトチュウとミニザクロ、
そしてニンジンボク、
さらにナツメ、あるいはカルミヤを私が1人で済ませてあったからだ。
こうした剪定の後で、ブルーベリー小径の再舗装に取り組んだわけだが、案の定、足腰を痛めた。それがヨカッタ。
妻が、今夜も「風呂を沸かしましょうか」と心配したが、沸かすのに2時間ほどかかる時期だし、早く眠りたかった。だから断った。それがヨカッタ。
あろうことか、ずいぶん昔に買い求めた“足湯器”を、妻は思い出して、取り出してきた。ありがたかった。
私は今後、12段脚立を1人で用いて、その天板に乗ることは控える。逆にこれから、妻が道具などの在庫を思い出せるように、そのリストアップや収納の在り方の見直しを始める。
6.その他
1.ペンペン草(ナズナ)の異変。ナズナは、除草が過ぎて1度絶やし、何年もかけて再生させた。そのナズナが、この夏は庭では1本も育たず、心配した。
その後、スナップエンドウの第1次分の苗を植えた日に、「これはナズナでは?」と思しき草を1本見つけた。そのナズナを掘り上げ、第1次分スナップエンドウの畝の隅に、早速移植。これで、新春の“七草がゆ”を無事に・・・、と喜んだり、「いや、種をとるべきだ」と、思案したりした。
年の瀬が迫った26日のこと。畑仕事を切り上げる前に、ホウレンソウの畝を点検した。最初にまいた種から発芽した分は、わずかな本数だが順調に育っていた。だが、追い播きした分は(気温が大きく下がったせいだろう)まだ小さかった。
問題は、その畝のへりなどでナズナと思しき草が芽吹き、幾本も育っていたことだ。その後、他のところでも「ナズナでは?」と思しき草を見かけるようになった。
反省することしきりになった。「去年の今頃は、」と記憶を手繰ったが、ナズナの様子を点検した覚えがなかったからだ。だから、当月記の昨年1月分で七草粥の記録をひもといた。結果、1月6日に七草摘みを私がしており、ナズナを1本摘んでいた。
なんてことはない、ナズナに関する疑問を、むしろ膨らませてしまった。
間違いないことは、当2023年の初夏にナズナの異常(1本も見当たらないこと)に気付かされ、探し回り始めたが、見当たらなかったことだ。その後も、この庭では1本も長けて種を着けたナズナを見掛けていない。
ところがその後、幾本もが芽生え、ムクムクと育っていたことになる。これらのナズナ(と思しき野草)が、来年はどのような経過をたどるのか、興味津々だ。
2.お久しぶりや、初の触れ合い。3日の高田さんの来訪に始まり、フミちゃんや昇さんをはじめとするご常連だけでなく、幾人ものお久しぶりに加え、初めてお越しの方々が2組など。あるいは電話などでも印象深い触れ合いが多々あった。
詩人の山口さんはチョット遠出の散歩の途上で。元アイトワ塾生の三上さんは、ユズが500個も実を付けた(昨年は40個ほど)との異常などを知らせがてらに。共に久しぶりにみえた。
今村さんの後輩は、ロシア人で手芸の名手の夫人を伴って。リズさんの教え子は一家で日本旅行の途上で連れだって。共に初来訪。
最寄りの親戚・秦碩堂(せきどう)さんが義姉と一緒に、転居の挨拶でみえた。
この親戚と私のそもそもは、京都に戦時疎開した1944年夏から始まる。当時、私の父は西宮で結核病棟にあった。妻子が農的生活に入る土地を購入する世話や、疎開先の引き受け手になってほしいと、京都に嫁いでいた姉(私にとっては伯母)に頼った。
伯母は未亡人で、夫が歳の離れた妻のために用意してあった別荘での隠遁生活にあった。その家屋は、仏間の天井には天女が舞い“仏母堂”との固有名詞を持っていた。
この瀟洒な家の門の測柱に、いたずらだった私(6歳)は縛り上げられ(母は厳格な伯母との間に立って困り果てたのだろう)深夜まで解かれず、ブッポーソーの鳴き声におののいた記憶がある。
これまでは伯母の娘、次いでその長男が跡をひき継いできたが、長男が他界。その妻(碩堂さんの義姉)は便利なところに引っ越すことになった、という。
その後30日までに、年末恒例の来客に加え、清太君と、清太君が育てたダイコンや、葉子さん手作りの千枚漬けなど、さまざまな品を携えて伴さんにも訪ねてもらえた。その1つ、ミニの花キャベツの門松は新年に映えそうだ。
3.当月の映画会。岡田さんと2人で『デリシュ』を鑑賞した。世界初の“レストラン誕生物語”か、と思いきや、そう単純ではなかった。時代はフランス革命間近の頃。贅沢三昧の貴族(庶民を人と視ない)社会。貴族のお抱え料理長(寡)とその息子。未だ貴族が受け入れていなかった食材の使用。加えて、夫を殺された貴族の未亡人が、アダの打ち時を(料理長の下で働き)伺う。そして、勃興するブルジョワジー。こうした人や文化などが多様に関わるハッピーエンド物語だった。
貴族の未亡人は、“精神的”にアダを打ち、誠実な料理長に心を許す。復讐心に燃える貴族にはフランス革命が待ち受けていた。
農業文明から工業文明への移行期、貴族社会の乳母は人工母乳に、馬車は乗用車に、オートクチュールは既製服に、と移り変わった。人(貴族などが)が人(庶民)を搾取する時代から、工業社会は自然を搾取することで、すべての人を庶民化しながら、物的に潤してきた。
それ(欲望の解放)が度を過ぎ、今や地球が悲鳴を上げている。庶民の間で、貧富格差(購買力とでもいうべき権力の有無で、生じ始めさせているシン貴族社会化)が広がっている。お金持ちは工業力を生かし、宇宙への移住に狂奔している。
むしろその知恵と努力を、地球に注ぐべきではないか。
4.忘れ得ない2本の電話。
予期せぬ贈り物が届いた。ダイコンやニンジン、コイモやチンゲンサイなど間に小粒の梅干しや梅肉エキスが入っていた。徳重文子さんが育てた無農薬有機栽培の野菜と、その梅製品だ、とすぐに分かった。梅肉エキスの箱を手に取ると、20年余も昔のわが小文が目に飛び込んできたのだから。文子さんは健在だった、とおもった。
梅干しはもとより、ウメジュースや梅肉エキスなど梅製品といえば、都城の“紅梅園”と決めている私にとって、とても嬉しい贈り物だった。何年か前に文子さんの病状を知らされて以降、10歳ほど年上の彼女との音信が途絶えた。心配していた。安堵した。
ほどなく昔懐かしい声の電話があった。「生還」の挨拶だった。冥途をさ迷った、という。冥途で大勢の人が「来るな」「来るな」と叫び、追い返された、と縷々話は続いた。
母から聴かされた私の祖母の例を思い出した。祖母はお通夜の夜に、皆が集い、嘆いていた時に、息を吹き返した。花が咲き誇り、黄金色に輝く三途の川にまで踏み込んだようだ。徳重さんとは逆に「行くな」「行くな」との叫び声が俗界から聞こえてきて、引きもどされた、と語ったという。
「そうだ、」とばかりに、麻生英臣さんのケイタイ番号を押した。1か月前に別れの電話をくれた友人だが、呼び出せど応答がなかった。忘れ得ない2つ目の電話になった。
5.未成熟のイチジクはジャムに。
イチジクは不作の年になった。実の数は少なく、熟さずに終わった。甘露煮にでも、と収穫したが、ジャムになった。
6.カメムシが異常発生。
先月、ハートのカメムシが居間に忍び込み、わが家で9年ぶり2度目の出会いであった。そこで、カメムシが異常に発生したのか知れない、と睨み始めた。
10日の午後、妻に内線で呼び出された。人形展示ギャラリーに駆けつけてビックリ。かつてなかったことが生じていた。
暮れに、ある荷を解いた。越冬中のカメムシが次々と出てきた。
7.ジャガイモ。降霜が始まった18日、短い3つの畝で育てたジャガイモは、霜が当たった分の葉が完全に萎れ、霜よけを被せた分も萎れ始めた。
この日と、セメント仕事を終えた21日の2回に分けて、膝痛をおしてジャガイモを掘り出すと、2種のジャガイモが出てきた。
確か「3種を、白っぽい芋も、」と植え着けた種イモを思い出したが、白い芋は、時季外れで、発芽しなかったのかもしれない。
8.ハッピーの小屋で、ひと悶着。
冬至の朝、とても冷え込んだ。「ハッピーが震えています」「温室(居宅から40m近く離れたところ)に移らせます」と妻は言い出した。叱った。
居宅の側で飼い慣らしておきながら、番犬意識に燃えているハッピーの棲み処を、この程度の防寒が理由で引き離してよいのか。我が子を、戦火から守るためになら、無事に大きくなれば理解もされよう。だが、苦楽を共にしている気分の犬、ハッピーではないか。
「冬毛は生えそろっているのか」と問うたが、応えられない。厳しい残暑が、毛替わりの準備を遅らせていたのかもしれない。
妻はブツブツ口ごもりながら、厚くて小さめの座布団と、小さいマットを取り出してきて、小屋に敷いた。
10時ごろから陽が射し、妻は人形教室が始まった。やおら私が着手したことがある。今はなき金太の小屋は、私たちの居間から30mほど離れたシンボルモミジの下にある。その小屋で“遊んでいたもの”があった。
金太は性格がズ太くて、金太の頭上で私が剪定作業に当たり、太い枝を切り落としても金太に当たらない限り寝そべり続け、眺めていた。真冬になって毛布を敷いても放り出した。
やがて金太も老いた。小屋の床底の裏に電気アンカを装着し、冬場は電気を入れた。このたび、その暖房装置をこの空き家から取り外し、ハッピーの小屋の床下に移すことにした。
ハッピーの小屋の床板の裏にそのアンカを移設した。次いで、ハッピーがふた夏かけてハウスの側面に開けた穴をふさいだ。久しぶりの大工仕事になった。
ハッピーは、朝になると、妻が夕に敷いた座布団やマットを放り出していた。妻は都度入れ直すが、いつまで続ける気か。
9.“モミジの絨毯”の敷き直し。シンボルモミジの紅葉は、先月の下旬ごろ(写真は22日)から始まり、師走に入って最高潮(3日)になった。
11日に山口賀代子さんを迎えたわけだが、「美しい」といってこの木を愛で、パーキング場のモミジの絨毯でも写真に納まって下さった。
17日にパーキング場のモミジはほぼ落葉。エンジンブロワーを私が駆使し、妻と義妹の3人でその落ち葉掃除にあたり、果樹園などに落ち葉を運び込み始めた。
フミちゃんが見えた19日に、再度エンジンブロワーを持ち出し、砂利道に残っていたモミジの落ち葉を恒例の“年に1度の方式(砂利に埋まった分まで噴き出して取る)”で仕上げた。その落ち葉も果樹園などに運び込み、レーキで広げた。
この防草と施肥(いずれ腐食する)を兼ねたマルチングは、まるで絨毯の敷き直しだ。
10.冬至の朝、日の出と初氷。残暑に悩まされ続けながら、一転して分厚い初氷に驚かされた師走だった。だが、その冬至の朝に、ヤット冬らしい日の出に恵まれ、安堵した。
それまでは、異なる日の出(3日、7日)になぜか惹かれ、カメラに収めていた。
11.生食野菜と防寒対策。残暑に惑わされ、“冬場の生食野菜” の手配が大幅に遅れた。遅ればせになったので、種の播種からだけでなく、買った苗でも育て、完全自給を、と工夫を重ねた。おかげで滑り出しは上々だった。
苗から育て、葉を順次収穫している間に、種から育てた分が収穫期に入る目処も立ち、生食野菜の完全自給する願いがかないそうになった。
ところが、一転した冷え込みが始まり、続き、苗から育てた分がついに萎れてしまった。だから、10日余のブランクを作りそうになった。
問題は、打つべき手があったことに気づかされており、反省しきりにされていること。
工夫1。先月11日に、妻は薹を立てそうになった2本の上部を切り取り、食材にした。これは残した下部に、脇芽を吹かさせ、再生を期待したものだ。
工夫2。妻は24日(冬至の2日後)に、残る2本も薹を立て始めたので、その上半分を切り取り、屋内に持ち込んだ。
私も妻と同じ思い(?)で、タマネギの防寒対策はもみ殻を用いて手打っただけでなく、柑橘類には寒冷紗を被せ、ツタンカーメンのエンドウにも寒冷紗で覆いを作り、スナップエンドウには霜よけカバー(ビニールシート)に袴をはかせて、守っている。
にもかかわらず、妻が24日に切り残した(薹を立て始めた分の)下部に、防寒対策の手を打っていない。これは寒さに強い生食野菜との先入観に従った判断だった。ところが、26日には、霧に打たれ続けて、ついに萎れてしまった次第。
この時点では、種から育てた同種の生食野菜は未だ収穫期に入っておらず、寒さで成長が止まっている。
もし冬至の冷え込みを機に、苗から育てた生食野菜に防寒対策を打っていたら、おそらくこの冬は生食野菜に、夏野菜の時期まで連続して、不自由せずに済ませられていたはずだ。
12.餅の準備。妻の発案で、このたびは2度、28日と30日に餅つき器を活かした。
結婚50年間の前半は、暮れの30日に1度だけ、木製の臼と杵で餅をまとめてつき、末期は水餅にするなどして長く楽しんだ。
後半は電気餅つき機を買い求め、餅を作るようになり、30日に1度に留まらず、ヨモギの時期などにも餅を作って楽しむようになった。
このたびは、妻が加齢で悲鳴を上げ、30日にまとめて造っていた分量を何回かに分ける、といいだした。その手始めに、28日にお鏡飾りなど儀礼用のモチと、雑煮など当面の食用のモチを作った。次いで、恒例のしめ縄づくりをする30日は、“安倍川餅”モチだけにして、その後の食用は、随時作って、柔らかい餅を堪能することになった。
おかげで、30日の安倍川餅の前に、28日の夜に、“澄まし雑煮”を賞味できた。
なぜもっと早くからこの方式にしておかなかったのか、と残念に思っている。
13.しめ縄づくり。今年も。60年来恒例のしめ縄づくりの日を30日に持てた。しかも、ここ何年来のご家族と一緒に行えた。とはいえ、これまでと大きな違いもあった。
妻が「お揚げを買い忘れ」た、と気付いたときに、運転免許証などが入ったハンドバックが行方不明。買い物に飛び出せず、稲荷ずしを作れなかった、など。
14.大晦日。お節料理を例年通りに、品数も量も妻は作れず、焦った。ハマグリを買い忘れ、好物の吸い物を付けてもらえないことになった。それがヨカッタ。空で覚える用意の仕方ではなく、メモに従うやり方に切り替える、と妻が決めたからだ。
私の担当は、お鏡飾りなどを組み上げ、しめ縄を完成させ、屠蘇器に清酒と味醂を注ぎ入れておくなど、元旦を迎える準備だ。
この時点になって、妻は屠蘇散を買い忘れていたことに気が付いた。生れて(意識ができて?)はじめて、屠蘇酒での祝いをしない3ガ日を迎えることになった。もちろん妻は、暮れの買い物リストに、屠蘇散も加えた。
15.ありがたかった頂き物。一度枯らした“モッテノホカ(食用菊)”、この度は増やして茂らせたい。シュトーレンを思い出させそうな菓子パン。午後のお茶の時間で2度。紅茶の方がマッチした。折り紙の“手作りのリース”、書斎に飾った。名物の“サクラエビ”、まず昼食で賞味。
16.初めて試みた混載野菜の畝。
残暑で手を着けるのが遅れたこのたびの冬野菜だが、こまめに手を打った結果、むしろ例年より賑やかな畑にできたように思う。
その典型はこの冬のハクサイの畝。義妹にもらった苗で一畝を、と期待したが、残暑と虫害に苛まれ、次々と消えたり枯れたりして3本しか残らず、しかも結球せずに年を越しかねない、と心配になった。その時に打った手がある。
数本のハクサイの苗が育ちそうにない、と見た時点でのこと。その歯抜け部分に、まずコウシンダイコンの種をまき、穴埋め作戦に手を着けた。その後、コマツナの種もまいた。
やがてアイトワ菜の自然生えが加わった。最後の穴埋め補充は、これも義妹にもらったシュンギクの苗だった。結果、妻が(これは鍋ものにとか、お揚げと煮たらなどと)ワクワクしながら収穫しそうな賑やかな畝になった。
このように、60年もの間、虫害や連作障害を気にしながら、無農薬有機栽培を旨としてきたが、この多品種少量生産は、ひとえに土地柄を尊重し、体得した賜物ではないか、と見る。その第一は、庭の樹木の腐葉土と、家族が出す有機物をすべて肥料化していることではないか。
17.日本を沈めるな。
日本政府の非科学的で行き当たりばったりの言動にあきれたはてた1年だった。目的の真意、前提条件、あるいは予算などあってなきがごとし言動はまだしも、非科学的にすぎる強行が目に余る1年だった。権力者の真の決断力と責任感を微塵も見いだせなかった。
福島原発の“処理水海洋放出”問題。謝罪すべきだ。
辺野古の埋め立て問題。変更すべきだ。
大阪の万博問題。中止させるべきだ。
マイナンバーカード問題。撤回すべきだ。
数え上げたらきりがない。
かつて政府が非正規雇用を容認した折(小泉・竹中時代)、これで「日本は沈滞する」と私は文字にした。
昨今の政府のありようを見ていたら、「日本を沈めないで」と言いたくな。このままでは日本は沈む。沈滞する。
国民は、心や気を引き締めなければならない、と想いながら除夜の鐘の音を聴いた。
大昔(農業文明時代)、人が人をドロボウ(搾取)した。
このところ(工業文明時代)、人は自然をドロボウ(乱開発)してきた。
その延長線上はだめだ。これらのドロボウを許させかねない“権力ドロボウ”が横行している。
“権力ドロボウ”の世襲(シン貴族構造)が目に余る。
そうした国や組織は、やがて破綻する。
地球が持たない。
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