目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 日の出と初雪
2 異例づくめで明けた元日
3 加齢対策
4 睦月と縁
5 “ジュウタン除草”
6 その他
紙垂(しで)と神は自然の摂理
元旦は神棚と仏壇に燈明を上げ、「幸多き1年を」と妻と2人で願い、穏やかに明けました。しかしその後は、金婚までの半世紀とは異なる時が流れ始めたのです。まず元旦の祝いに屠蘇酒と福茶がなく、いきなり白味噌雑煮から始まりました。それが逆に「なんとかして良き一年に」との強い想いを描かせました。これを機に、と心に期すものがあったのです。
その後、元日を休業にした喫茶店で、年賀の方と歓談。昼は元日早々に異例の麺類に。年賀状に次いで新聞の整理に取り掛かった矢先でした。不吉な体感。「遠方で、大地震!」と叫び、TVをON。現実は、フォッサマグナを挟んで東京とはいわば対角の石川でした。アナウンサーの避難を呼びかける悲愴な声を聴きながら「いずれは!」と身構えました。
同時に「今がチャンスなのに!」と、しばし妄想し、やがて失望しています。アナウンサーが「首相は今、」自衛隊のヘリで「現地に向かっています」と叫ぶ。「国民の皆さま」と、首相の声にかわる。「いまこそ国力を結集して!」「辺野古の埋め立てを中断し、大阪には万博をやめさせ・・・」と続く白日夢でした。この最高権力者の決断や覚悟への期待は、われらが首相や政権ではありえないこと、とやがて思い直すことになります。
「まだ燃えているのか」が、2日の午後、連泊客を迎え、夕刻にTVを見た時の驚きです。能登の被災者と、その火災での犠牲を心配したわけです。3日、下村さんと当月記師走分原稿の引き継ぎ。4日、甘酒に恵まれる。5日、興味津々の著作が届く。6日、昇さんの帰郷時の楽しい出来事を知り、翌日も来てもらい、忘れ得ぬ加齢対策。この間に、明朱花(あすか)・朋香(ともか)姉妹が各2人の子連れで来訪。そして七草粥。8日は初雪で明け、ピーターさんとある相談。翌火曜日はフミちゃんを迎え、囲炉裏場の大掃除と焼き芋。そして10日。くだんの叢書第一校原稿を返送。野ザルが初のお出まし。そして緊急で歯科医へ、と続きました。まるで“向こう1年の予告編”かのごとき多彩な10日間になったのです。
中旬は、2人の来客とある小事件対策の相談で明け、歯と目を心配する1日で暮れたようなものです。この間に、10余のトピックス。昇さんと年に一度のビオトープの大掃除。カールさんの個展鑑賞と予期せぬ知友との再会。妻の2つの根気(ノブドウなどの蔓の始末と終活の一環である整理)に感心。岡田さんが素敵なご夫妻同伴でお越しになり、歓談と庭の案内。畑でスナップエンドウと大根の防寒対策。スリコギづくり。ハンドバッグ行方不明(23/12/30)事件の再発。そして “ジュウタン除草”(なぜか絨毯爆撃に倣って命名)の開始、でした。
とりわけ妻のハンドバッグ事件では、対処の仕方を転換。予期せぬ知友との再会では、一期一会の心掛けを自覚。そして目の心配では『老人と海』の一場面を思い出しながら、「意識や生き方を改めなければ」とわが身に言い聞かせ、心を新たにしています。
下旬は、小雨の21日(日)に昇さんを迎え、買い物(懸案の資材や道具を求めて)に出かけましたが、ケイタイに瞳さんからの来訪予定が入り、幸運を実感、から始まり、穏やかな月末で過ぎ去りました。この間のトピックスは6つ。スモモの剪定に着手。25日の心臓の定期検診の後、予期せぬありがたい電話が2本もあり、共に再会を期す。27日、昇さんと“ジュウタン除草”と剪定作業に手分けして着手。28日、池田望さんを迎え、2つのお願い。29日、土橋健一さんを迎え、裏庭の掃除。30日、フミちゃんを迎え妻と3人で第2波ジュウタン除草。この合間に、一帯の水道管の更新工事が始まっています。そして睦月の月末は妻と睦まじく第3波ジュウタン除草に割いた次第です。その間に義妹が花の苗を届けてくれました。
~経過詳細~
1.日の出と初雪
7日(日)の朝のこと。PCに取り組んでいたら、起き出してきた妻が隣室から呼んだ。居間の窓に朝日が浮かび上がらせる不思議な光景を、妻は指さしていた。
よく見ると、ぼんやりだが庭の木々が木陰をなし、曇った窓に浮かび上っていた。ケイタイを急ぎ手にとり、いつもの“日の出を望む場”に駆けつけた。
東の方角から黒っぽい雲がスーッと忍びよってくる。見ている間に西に向かって去っていった。まるで龍のごとし。なぜか気を引き締め、心新たにしている。
次いで9日の早朝のこと。甘酒を頂いた4日の来客を、なぜかPCの手をとめて振り返った。妻の物忘れが「少し気になり始めました」と最初に教えて下さった人のことだが、この度はこの話題は出なかった。
そうこうしていると、この朝も、隣の居間から起き出してくるなり妻が呼んだ。2日前より窓は明るかった。
いつもの場に駆けつけると、真っ赤な太陽が昇り始めていた。ほどなく太陽は全貌を現したが、背から指す光にも気づかされた。
この間の8日に、隣室から妻に「雪よ」と教えられており、新年の初雪を窓越しに見た。
庭を見て回りたくなった。
この庭のシンボルであるモミジが、薄雪で浮かび上がっていた。
クルミの剪定を「済ませておいてヨカッタ」。スナップエンドウの霜よけカバーが「みっともない」。囲炉裏場が「とても散らかって」いるなどと、次々と安堵したり、気になることが・・・。
イチゴノキの実が「今頃まで」残っていた。自然生えのシブガキの実も、まだサルに襲われていない。去年は、サルや小鳥にとっては山が豊か、であったに違いない。
ブランコ苔庭と呼ぶ一角にも踏み込んだ。振り返ると、スギコケが生えた部分だけが溶けずに残っていた。赤マツの切り株は、隅っこで雪をかぶっている。これは何年か前に、妻の要望で切り取ったもので、この庭で最後のマツの木だった。
「このマツの前に、」と、各1本伐採した赤と黒のマツのことを思い出した。共に、庭の東南端部に2本ならんで生えていた木だ。
その昔は、これら3本も含めて、庭には10数本のマツの木があった。当時は、庭の東面60mほどの道沿いに交互に植えたマツとモミジが片並木をなしていた。これら3本のマツの木は、この片並木の最後の3本だった。
この他に、もう1本、庭のほぼ中央に、毎年2~3日に分けて丁寧に庭木らしく剪定していた赤マツがあった。
雪見の歩みは、次いで片並木の内側に走るパーキング場沿いに進み、庭の東南端に至った。そこでかつて伐採した赤と黒各1本のマツの切り株を確かめた。片方は既に朽ちていた。白アリの仕業だろう。
おもえば、加齢対策だと意識して泣く泣く切り取った最初の木もマツだった。それが庭のほぼ中央で、庭木然としていた赤マツで、毎年剪定に随分時間を割き続けていた。
このような思い出に耽りながら、雪見を終えた。
翌9日に、とても散らかっていた囲炉裏場を早速片づけることになる。フミちゃんを迎え、妻と3人で取り組んでおり、言い知れぬ達成感に満たされている。
かくして10日、上旬最後の日を迎えるが、この間に小1時間ほど毎日のように見直していた文章があった。くだんの叢書用原稿の第一校である。
わが人生を形付けた生き方と、今日まで貫かせたいきさつや経過などを、短文でまとめた一文であった。おかげでこの睦月の上旬は、例年になく心を新たにするものがあった。いかに妻が、わが人生にとってありがたい人であるのかを、神妙にかみしめ直させられたわけだ。
その最中に、差し歯の門歯が1本、ポロッと抜けており、馴染の歯科医に駆けつけている。
2.異例づくめで明けた元日
いつものように目覚めた元旦だが、例年とは異なり、起き出してすぐに、暗いうちに、打った手がある。恒例のしめ縄は前夜の内に取り付けてあった。だが、「夜分に雨が降りそう」と見て“紙垂”を外しておいたからだ。
「案の定」と、小雨が降った形跡に気付かされながら、紙垂を未明に着けて回った。
母屋の玄関の分にはなぜか「似合わない」と見て、ひかえた。小鳥やハトのための分には「脅しそう」とおもって、やめた。「ハッピーの小屋にも」とおもったが、これもやめた。
今年のしめ縄には紙垂がつき、“龍”を模したわら細工が加わった訳だが、これはしめ縄づくりをご一緒した咲子さんから、紙垂の作り方を学び、わら細工の新ヒントを授かったおかげだ。
後刻、これらしめ縄をカメラに収めてまわったが、ハッピー四世はついに小屋から出てこなかった。
このエピソードを妻に(起き出してきて、元旦の祝いの後でのことだが)話し、「三世なら必ず出て来ていたはずだ」と、言い添えた。妻は、あの「暖房(床下に取り付けたアンカ)がありがたいからよ」と意味不明の返答をしている。
この日、妻はいつもより少し早く起き出している。今年はご飯が炊きあがっていた。
神棚と仏壇に2人で燈明を上げ、新年の幸を心の内で願った上で、再び私はPCに戻り、妻の合図を待つことにした。
ほどなく食卓に着いたが、これまでと様子が大きく異なっていた。お節料理などは並んでいた。だが、屠蘇器が出ていなかった。妻が「屠蘇(散)はどこで売っているのでしょうか」と、異例の2つ目の発言をした。
最初の異例は、妻が調理中に「お雑煮のお餅は幾つにしますか」と訊ね、「2つ」と、つられて発した初の発声だった。これまでの、屠蘇酒を交わす時までは無言で通す慣わしを、すっかり妻は失念していたことになる。おもえば、この餅の数は、これまでは前夜の内に決めていた。
福茶も飛ばし、いきなり白みそ雑煮が出た。ここで「おめでとうございます」と私は2度目の言葉を発し、「本年もよろしくお願いします」とつないだ。妻もこれに倣った。
この挨拶は、これまでは屠蘇酒を頂く時に発する新年最初の言葉であった。だが、この慣わしを忘れたことを、私は指摘も、非難することもしなかった。もっと大事なことがありそう、と感じたからだ。
次の妻の発言は、お節料理を「どうして食べないのですか」だった。それは、妻の付き合いがキッカケだったが、今では共通の友人となった人を、翌日に迎える。だから、それまでは手を着けずに、と考えていたからだ。
だが「孝之さんに食べさせたいから造ったのに」と妻はいう。そこで、タケノコの亀などは残し、クワイから手を着け、棒鱈や田作りなどを賞味。実に旨い。50年来の味だった。
ほどなく、門扉からのチャイムが鳴った。10時になっていた。恒例の来客だ。張り紙を出させておいてヨカッタ、とおもいながらゲストルームに向かった。
実は、暮れに「(今年は)元日は(喫茶店を)休みます」と聞き、ならば、とある助言をした。例年お訪ね下さる方々へ「ご遠慮なくチャイムを・・・」との張り紙だった。
昼時になった。三が日の昼は、これまでは焼いて海苔を巻く砂糖醤油味の餅とか、きな粉の安倍川餅だった。だが、妻は平日のごとくに希望のメニューを訊ねた。だから「ニューメンを」と所望し、半世紀来初?の異例の昼食になった。
夕食も異例だった。例年なら、三が日は、朝は雑煮、その後はお煮しめでご飯。夕はお煮しめでご飯に、ハマグリの吸い物か茶わん蒸しを添えてきた。これは、亡き母のスタイルの継承だった。
ハマグリは、市場で目に留まらなかったようだし、茶碗蒸しも添えなかった。
食後、茶をすすりながら、やおら屠蘇散を話題に出した。その昔は、暮れに町家の酒屋で味醂を買えばおまけでついてきた。薬局でも売っていた。
この話題のおかげで、馴染の酒屋が廃業したらしい、ということを初めて知った。これまでは「いざ! という時」のために、この馴染の酒屋で醤油など「これだけは」との必需品や瓶ビールなどは買わせていた。にもかかわらず、この店の廃業を妻は私に伝えていなかった。「スーパーなら安く買えるのに」などとの意識が、「いざ!」という時を想定した用心の約束を、すっかり失念させたのだろう。厳重注意をしたかったが、これも控えた。
もちろん、私たちが死ぬ頃までに「いざ(食糧危機)」は来てほしくない。だが、こうした油断を日本中に蔓延させたものだから、“買い物難民問題”を生じさせて久しいのだ。スーパーやコンビニは収益次第で簡単に撤退もする。
ふと、その昔に、3日にあげず訪ねた(電気冷蔵庫などなかった時代の)魚屋・小西さんを思い出した。イワシが売れ残ると、割いて一夜干しにして翌日売っていた。その時に、はらわたを残し、シオカラにしてお得意さんに、酒好きの「ご主人に…」とあげていた。
こうした意識の希薄化と歩調を合わせるようにしてごみが増えただけでなく、「消費者」という言葉が普遍している。消費者は簡単に目先(安いところ)に走ったりして、大量消費する。
唐突に聞こえそうだが、こうした国民的意識の変化(不用心)が、今の世襲政治まではびこらせる温床として作用してきたのではないか。
かつての下町の酒屋や八百屋などには、好きなようにばらまく財源がない。だが政治家はそれを(今では政党交付金に加え、パーティ券収入などで)握らせてもらえるようになった。だから政治家は、その収入を投票などしてくれそうなヒトにバラまき、手に入れた権力をチェーン型小売店などの(政治献金する)ソシキ向けに運用する利益代表者となり、持ちつ持たれつのシステムを作ってきたのだろう。ならば、2代目以降はむしろ、オメデタイ小粒の方があつかいやすく、担ぎやすい。
こうした社会に甘えたり、油断しありする人が増え、行き当たりバッタリの快や安楽の大量消費生活が流行るにしたがって、国のGDPは膨らんだ。これに歩調を合わせるようにして貧富格差の拡大とか、生活習慣病や認知症の発生率などを高める社会になった。60年安保時代に大人になり、70年安保闘争をやむなく客観視せざるを得なかった者の目から観ると、なんとも気だるい社会になってしまったものだ。
近年、“このシステムの総仕上げ”のようなことを、つまりこの仕組みを固めそうな者が出たものだから、その唐突なる死にあわてふためき、国民葬に!などとつい口走り、押し切ったに違いない。
つい些末なことにこだわりかけたことを反省し、肝心の妻との対話に戻った。「お正月を迎える準備は、空で覚えておくのはしんどいから」と切り出し、「“おぼえ書きノート”を作って、記しておくことにしよう」。そして、そこに記すべきことは2人で相談しながら増やしていこう。
これが元日の、新年初の、最重要トピックになった。
3.加齢対策
昇さんから「里帰りから戻」った、と電話で知らされ、6日(土)に迎えた。お土産には嬉しい話題も伴っており「ならば」と翌7日も迎えることになった。新年2つ目の加齢対策に取り組むことにした。これは1本のクヌギの伐採である。ちなみに、1つ目の加齢対策は「おぼえ書きノート」の作成であった。
昇さんの生家は、瀬戸内海に浮かぶ島の1つにある。庭、田畑、あるいは果樹園もあって、今は弟さんが守っている。庭には生け垣だけでなく立木もあるようだが、これまで頼んできた庭師が廃業してしまい、荒れるに任されていた。
そうと知って、昇さんは考えた。わが家で体験した庭仕事を振り返り「やれば出来そう」と思い立ち、弟や同じく里帰りしていた妹などを助手にして、にわか庭師になった。昇さんが枝を切って落せば助手が運んで焚火にくべる。見る見るうちに片付いた。
そうと知った私は、「ならば」と2つの提案をした。1つは1本のクヌギの伐採だった。樹齢60年で、今や“緑の天蓋”を構成する最高齢の樹木である。これは私にとっては、加齢対策の一環になる。
早晩昇さんも庭木の伐採もしなければならなくなるだろう。ならば、この作業は伐採の技術と醍醐味を体得する機会にしてもらえる。
これまでは毎年秋口に、3日ほどに分けてこのクヌギの徒長枝の切り取りに当たってきた。この、昨年度の Before & After を振り返ったが、この度は3カ月も遅れている。
この12段脚立に登る作業は、早晩私の手には負えなくなるだろうとも気付かされ、この伐採を思い立った。
提案の2つ目は、郷里でこの度行った庭の手入れを、昇さんの兄弟姉妹の「“里帰りの共通テーマ”になさっては」だった。この相互扶助が幸せや豊かさの源泉になるから、ではない。
相互扶助そのものが幸せや豊かさである、と体感しあう兄弟姉妹になってほしい。持ちつ持たれつと、相互扶助の峻別に心がけたいものだ。
昇さんはこの天蓋のクヌギの伐採に乗り気だった。早速鋸を持ち出すと「僕が・・・」と言って、木に登った。次々と太い枝を3本ばかり切り落とした時に、思い出したことがあった。昇さんが、郷里でのこのたびの剪定作業で、Before & After を写真に収め忘れていたと、とても悔しがっていたことだ。
枝落としは半分ほど済んでいたが、急ぎ、撮影した。
“緑の天蓋”は、元をただせばクヌギの苗木を50本ほどを、この場所に植えた60年前にさかのぼる。この成長と歩調を合わせて、再開墾や庭づくりが始まり、畑も広がった。また、育ったクヌギを次々と、燃料やシイタケのホダギとして間伐しはじめた。
このクヌギが残り10本ばかりになった時点で、下部4分の1ほどを残す(上部の4分の3を切り取る)伐採をした。この切り残した丸柱のごとき下部は、春にはてっぺんからヒコバエを出す。そのヒコバエを、木陰を作らせるように剪定し、天蓋のごとき役目を果たすように育ててきた。この下は、常時は木陰の仕事場だが、時々BBQなどの場にも活かしてきた。
その後、1995年に阪神大震災を体験した。その3、4年後にクルミの苗木を乙佳さんにもらった。これを幸いに、この苗木を春まで鉢で鉢で育て、囲炉裏場の一角に下ろすことにした。
このクルミの成長に歩調を合わせて、クヌギの間伐をさらに進めた。ほどなく3年分余の薪を備蓄した。
2011年に東日本大震災を八重洲口で体験した。その時は既にクヌギは6本にまで減っていた。そこで、実が成るクルミをクヌギに代替させることを構想した。同時に、囲炉場でテントが張れるように“地上げ”をすることも構想した。
地上げのために古瓦を手に入れて、砕いて敷いて、その上に親水性の舗装をしてかさ上げをする計画であった。佛教大生に取り組んでもらうテーマにした。
今では1本のクヌギが残るのみになっている。しかも、これを切り取っても十分クルミやニセアカシヤ(蜜源)が木陰を作れるまでになっている。だから、昇さんに、このクヌギを伐採してもらうことにしたわけだ。ならば、これまで毎年、2日近くの作業になっていたクヌギの剪定作業が不要になる。
昇さんには、まず枝をすべて切り取ってもらい、その上で切り取った枝を始末する作業に入ってもらうことにした。
その間に私は、囲炉裏場や周辺に溜まっていたこれまでの剪定クズの始末に取り掛かった。まず小枝から、順次斧で太い枝に移る。
昇さんは、エンジンソーで太い枝を薪の寸法に裁断し始めた。この最中にお茶を運んできた妻が、電柱のごとくに残っていた幹の伐採に、ストップをかけた。
教室展を庭で開く構想があるようで、来年まで残しておいてほしい、との要望だった。私は快く了解した。この幹を残しても、12段脚立を操る剪定作業はほぼ不要になっていたからだ。
加えて妻は、まだ薪の寸法に切り終えていなかった枝を、「ディスプレイに活かしたい」とも言い出した。ならば、と昇さんに、ディスプレイ用だけでなく、シイタケのホダギになる分も選び、用途別に細工を(とりわけホダギ用は、雑菌が入りにくいように切り口を補正するなど)してもらい、残すことにした。
この時点になって私たち夫婦は、初めて「そういえば・・・」と、正月は早や7日になっていたことに気付いた。半世紀来初めて七草粥を朝食に用意することを妻も忘れていた。
早速、昇さんを庭巡りに誘い、春の七草を探し、覚えてもらうことにした。妻はそれを採って粥に活かし、昇さんに小腹を満たして帰路についてもらおう。
チョッと話しが前後するが、この七草粥の賞味中に、加齢対策の“そもそも”を振り返っている。それは短大勤め時代の20年前にさかのぼる。
実は、定年がない学長の立場を、幾つかの事情があって退いている。退いて、大事な加齢対策に手を付けた。は石仕事に着手である。この折に、毎年丸2日ほどを投じて庭木らしい剪定をしていた1本の赤マツの伐採したようにおもう。
この2つの加齢対策は、後付けだが、短大を辞めた第1の事情と考えるようになっている。気がつけば当時、中国から御影石の切り石が輸入され、販売が始まっていた。だから、安価な間に買い求め、地道を石畳道にするなどして、除草する部分を減らし始めた。
また、当事、古民家の解体時に床下から出る自然石が廃材になっていた。2tトラック一杯分が3万円だった。これを活かし(割れたり欠けたりしたところを隠すなどし)て、それまで丸太で作っていた階段(4~5年で更新)などを石造りに替え始めている。
こうした工夫は、一般的な給与所得者が、余暇時間と可処分所得のほぼすべてを投入すれば現実化し得る1つの生活モデルを、その気になれば誰しもが取り組めそうな農的方式で、生みだす工夫の1つであった。ちなみに、パーキングなどの敷石は、砂利ではなく、2tトラック一杯分が5,000円の砕石を用いた。
この昇さんを迎えた7日は、インターバルが4度もあった。2度のお茶の時間と昼食時だけでなく、その間に橋本宙八夫妻の2人の娘、明朱花と朋香姉妹の来訪予定があった。
この来訪はまるで孫を連れての娘の里帰りのごとしである。福島原発事故が縁で知り合えた仲だけに、元日の石川県の能登大地震に想いを馳せた。
姉・明朱花さんの2人目の子は初顔合わせ。写真家の夫カールさん(フィンランド人)を伴っておらず、それは個展の準備のため、と知った。妹・朋香さんは夫同伴で、上の子は、人見知りがちだったが、やっとすぐに飛びついてくれるようになった。
別れ際に、カールさんの個展は京都で、と教えられ、覗きたい、とおもった。前々回の来訪時に、ヒョイッとケイタイで切り取ってもらったスナップ写真がある。前回来訪時にそのプリントをもらったが、書斎の見えるところに飾ってきた。
同じようなケイタイで撮りながら、私の写真と比し、どうしてここまでの差が、と思案するためだ。この度も眺め直した。
この一行を見送った後で、囲炉裏場にもどり、昇さんと手仕舞いに取り掛かった。妻は七草を採り、粥づくりに、であったわけだ。かくして昇さんを見送りながら2日後に迎える羽尻文子さんに想いを馳せている。
予定通りにフミちゃんを迎えた。昇さんと取り組んだ囲炉裏場のあと片付けに取り組むことにした。快晴で明けたおかげで、10時頃には前日の初雪の影響はまったくなくなり、見違えるようにきれいになった。
このたびの加齢対策のクヌギは、所期の付録(薪という余録)に加え、来たる人形教室展用の小道具を生み出させただけでなく、焼き芋も添えさせた。
フミちゃんを見送り、一人囲炉裏場に戻り、丸太のようになったクヌギの幹の側で、焚火などの後片付けをしながら、加齢対策の歴史を振り返っている。
この思い出にはマツの木々と、初代の3坪の小屋、そして生き方の“そもそも”が関わっていた。
マツは、1960年の真冬に、ほんの1か月ほどの間に、苗木から育て始めている。弟の入試が終わり、合格発表までの間のことだった。キット弟は、ジッとしておれない心境だろう、とわが身を振り返り、熱中しうる作業と見て選び、誘った。
実は、わが家での進学には条件が付いていた。京都の国公立大で、1浪までは許す。だめなら就職、との経済面からの条件だった。私は1浪になった。
前期は予備校に通ったが、その後は自宅にこもり、昼夜を逆転して(合格した仲間の誘いを避けて)取り組むことにした。まず8月8日に20歳になった記念に20本の苗木を植樹し、その後は決死の覚悟で受験勉強に立ち向かった。この年の春から、女性の間ではシースルールックが流行っていた。
3歳下の弟の受験時は、まだ荒れ果てた土地だった。そこで、裏山やこの敷地に自然生えした背丈ほどのマツの苗木を掘り出して、この土地の東面で南北に走る道沿いに、黒や赤のマツの苗木を、数mおきに、次々と植えた。
弟もスベッた。だから父に、3坪の小屋を建てるように勧めた。その側には既に私が手作りした2坪ほどの鶏小屋があった。今はその跡に、腐葉土小屋が建っている。
弟が勉強部屋に活かした後は、この小屋を基点に私はこの土地で自活する人生を(就職や結婚は無理と見て)計画していた。だが、その後、肺浸潤は完治していないのに就職がかなった。とはいえ、用心のために、休日はすべてこの土地の開墾などに活かす生き方に踏み出している。その一環で、マツの間に幾年もかけて、モミジの苗木を1、2本ずつ一人で植え足すことにもなる。
やがて世の中では高度経済が活況に入り、なぜか松枯れ問題が騒がれ出した。この土地は既に庭のごとき様相を示し始めていたが、松枯れが始まった。
しかし、この松枯れをそれほど悲しんでいない。モミジが立派に育っていたし、マツは手間暇がとてもかかる庭木だと気付かされていたからだ。思えばこれらの立ち枯れと、その切り取りが加齢対策の始まりであったことになる。
4.睦月と縁(えにし)
睦月は能登の天災に次ぐ羽田の人災で明け、心が騒いだ。その後、わが家では「偶然とはいえ」と、呟いたほどの睦まじき縁に恵まれ、心を新たにするものがあった。
2日、2泊3日の来客。4日、妻の変調に気付かせてもらった人の来訪。5日、柴先生から近著を、次いで昨年お迎えしたウクライナのガンナさんからチョコレートを頂いた。6日は昇さん来訪の初日。そして早朝の天に龍を見た7日、橋本宙八夫妻の娘姉妹の来訪と、嬉しいことが重なった。
宙八さん一家は、福島原発事故のおり、その現実を海外報道で検証し、いわきのマクロビアンの拠点を後に、車2台に分乗し、次の拠点探しを始めている。その道中、50㎞走ったところで水素爆発。立ち寄った掛川で柴先生と触れ合う。柴先生は「京都に立ち寄るならアイトワに」と、勧めて下さった。
ガンナさんたちとは、ウクライナ問題が発生し、やきもきしていた時に知り合っている。おかげでこの2組とは、不幸中の幸いかのごとき縁で一宿一飯の間柄になった。
つまり、本年は新春早々には天災や人災が生じたわけだが、偶然にしてはあまりも不思議な巡り合わせが生じたことになる。
加えて、カールさんの個展を知った。だが、その会場は銀閣寺の側だったが、地理はサッパリ不案内だった。だから、昇さんの次の来訪時、13日に、私たち夫婦は車で連れて行ってもらうことにした。
見慣れぬ閑静な住宅街だった。だが、たどり着いた時に「ここなら、前にも来たことがある」と口走っている。和洋が見事に融和した見覚えがあるたたずまいだった。
展のテーマは、宮本武蔵に心惹かれてのこと。若き武蔵の人生を“巡礼”し、5カ所で足をとめ・温めてきたイメージを映像化?
この日、会場入り口でバッタリ、佐野春仁・京都建築専門学校校長夫妻と出くわした。次いで、カールさんと会場で1年余ぶりに再会。
カールさんの写真は見事だった。今村さんはすぐにその作品や演出に興味を示し、カールさんと親し気に質疑応答の間柄に。
私は庭にも見覚えがあり、主の「三橋慎一さんを存じ上げています」とお宅の人とおぼしき人に告げている。
「三橋は臥せっていますが、どのようなご関係で」と、問われた。まったく記憶がなく、チョとバツの悪いおもいがした。にもかかわらず、取り次いで下さった。
2階に病床があるようで、戻ってこられて「三橋も存じあげてはいるようですが、どこでお会いしたのか、思い出せない」とのご返答。なぜか居づらくなった。
ボツボツ、と玄関に向かいかけた時だった。居宅につながる木の引き戸が開いた。少しおやつれになっていたが、見覚えのある三橋さんと目が合った。
三橋さんは背を伸ばしながら微笑み、両の手を差し出してくださった。それに倣って私も近づいた。初めて知る深刻な病状などを伺った。互いに、ついに、出会いなどは話題にせず仕舞いになった。三橋さんもこれが見納め、と感じておられたに違いない。
翌日のこと、岡田さんを迎えた。前もって「キット!」とか「お楽しみに」と聞かされていた同伴者があった。出版会社を経営するご夫妻で、“生涯で初めて”の体験をするところとなり、期待を遥かに超えるこころ踊る一時になった。
岡田さんはまず“1冊の本”を下さった。かねてから伺っていた一著だった。次いで、「“この本の編集人”です」と同行者を紹介された。この取り合わせ、本とその本の編集人との同時出会いは、生涯で初めての体験だった。
佐久間健一さんとご夫人との出会である。
何年か先のことだろうが、もし閻魔さんに「生涯で一番難しかったことは?」と問われたら、私は躊躇することなく「自著を出し続けることでした」と答えるだろう。
実は、商社勤め時代のこと。講演先で“行く末を見定めるポスト工業時代論”に触れると、いつも荒唐無稽とか「環境で飯が喰えるか」などと揶揄された。実践している循環型の私生活は「時代に逆行」とか「自慢話を聞かされた」などと嘲笑された。肝心の、何のために、何を語ったのかは記憶に留めてもらえなかった。
今日のような日本の体たらくを避け、日本の恵まれた境遇の活かす世界の導き方を夢想していた。
その語ったことを文字にしておきたくなって脱サラし、著作に取り組んだ。おかげで次々と編集人と出会うことになった。「これは、売れそうにありませんが」とクギを刺したうえで、相手にしてもらえた編集人には生きる勇気を授かっている。
その人たちは、持ち込んだ原稿を決まったようにぐちゃぐちゃにされた。当初は面食らった。たが、一緒により良き内容にしようとする人だと理解できるようになり、その互いに“高め合う生き方”に憧れるようになった。
これまでの生き方を貫いてもいいのだと、なぜか背を押してもらえたような心境にしてもらえた。
後日、佐久間さんに2冊の本を送って頂いた。まず『冤罪と闘う』を手に取り、「こんなことがあってもいいのだろうか」と憤りを覚えながらまたたく間に読み切った。
この全国で最年少市長は、市庁舎から任意同行を求められ、83日間にわたって拘束されてしまう。その既成概念に基づく執拗な拘束に恐怖さえ覚えた。
この著作では、同様に一貫して否認し続けて、拘束された人たちも紹介されている。村木厚子さんは164日間、佐藤優さんにいたっては512日間も拘束された。
この本を読んでいた最中(さなか)に、佐藤優さんはNHK=TVの“クローズアップ現代+”に出演し、日本は9条があり、中立国として大国の紛争の間に割って入るべし、がごとき意見を述べられた。おこがましいことだが、似たような期待や夢を抱いる私は前のめりになりかけた。
村木厚子さんは現在、伊藤忠商事の取締役でもある。これも身近に感じさせた。
18日のこと。妻は昨年末のハンドバッグ行方不明事件の再発がごとく小1時間を無駄にしてしまった。性懲りもなく2度3度と同じところを探し始めた。大きなエコバッグや買い物かごと一緒であったことを知り、ヒントを授け、発見した。その上で、約束と実践を各1つ提案した。
約束は、居宅の内のハンドバッグの常置場所と、外の緊急用置き場を決めること。
実践は、帰宅時に持ち帰ったか否かの本人確認と、私が在宅時は常置場所での有無を確認し、無の場合は質すことだった。
この2つを何か月かをかけて、体で覚え合うようにしたい。
これが刺激になったのか、妻は“収納”する前の“仕分け”がむしろ大事、と意識し始めたようだ。もしこの意識が身に着けば、1つのケンカ、「どこに隠した?」「ヒト聞きの悪いことは言わないで下さい」「何べん同じことを言わせるんだ」は、急減するかもしれない。
23日のこと。初収穫した1つのコウシンダイコンを妻は自慢げに、しかも不思議そうに見せた。サラダになった。きれいな盛り付けだった。おいしくて、馬のように食べた。
妻が箸をとめていたことに気付いた。ほぼ平らげた私の皿に、妻は一切れのコウシンダイコンを恵んでくれた。感謝の気持ちでそれもニッコリ、パクリッと食べた。
次々2枚、3枚と妻が恵み始めた。そこでヤット気付いて、「きれいなハートだね」といったが、時すでに遅し、だった。
それらハートもありがたく丁寧に食べ終えた。するともう1枚、恵んでくれた。
どの時点で、妻が「これはハートになる」と、あるいはこの対比効果配色に気づいたのか。質問は控えた。確かダンテの言葉、「自然は神の芸術だ」を思い出した。私は、自然の摂理を神と位置付けているのだけれど。
この2日後のこと。電話を無線の子器でとった妻が、話しながら近づいてきた。
「夫に代わります」と子器を差し出した。妻の知人からだった。私に代わった用件はすぐに分かった。商社時代の同期の仲間が話題にのぼっていた。
この電話の主と共通の仲間は、夫婦でわが家に泊まったこともある。その豪快で優秀な男に、私は消息を気にかけてもらえていた。かつてアメリカのご自宅に、大垣市の数名の女性市民を(市主催の女性アカデミーでの海外派遣事業で)伴って押しかけて、泊めてもらった。その礼と、再会を期すとの伝言を頼んだ。
その直後だった。聞き覚えのある声の電話を、10数年ぶりに私が受けた。その人は、今やご夫人も物忘れが進んだ、とおっしゃる。わが家の現実も語った。
この人とのそもそもは、園芸療法に関する記事であったように記憶している。その後、この関心は、勤めた短大で“園芸療法講座”を開設し“小さな巨人”作りを構想したが、大いに役立っている。
今日の社会現象の前兆かのごとき症状についてもよく語らったものだ。その親交の1場面も思い出した。
次いで、当時体験した事例、ある“奇跡のごとき回復”も話題にした。人形工房の建設時(1985~6年頃)に、脳溢血で半身不随になった老人が毎日、建設中の屋根にのぼらされ、終日無言でたたずんでいた。銅板の屋根葺き職人の父親だった。
その数年後に建て増し工事をした。この時はその父親は仕事を手伝っていた。確か翌年だった。ほぼ完全復帰した姿に触れた。
野田先生は、良き事例を持ち出した、と専門用語を用いて褒めてくださった。互いに努力し合いましょうと電話を切った。
ことと次第を買い物から帰った妻に話すと、先生の「奥様は、私と同じ心境でしょうね」と呟き、時には「開き直りたくさえなるのよ」とにこやかだった。この妻の自覚に触れ、私は勇気付けられた。短気を起こさず、用心深く、睦まじき日々を過ごそう、と心に言い聞かせた。
5.“ジュウタン除草”
新年は、TVで大地震発生を知って、白昼夢を見ることから始まった。首相がヘリコプターで即座に被災地上空に駆けつけ、県民を勇気付けている姿を夢想したわけだ。
「なぜあんな夢想を?」と、その後のことだが、寝床の中で振り返っている。「あの身に過ぎた責務を、あろうことかあんな時に背負わされるとは」と、過去の体験を思い出した。母が危篤状態に入った時に、学長に、とのお鉢が回って来た折の、決意や覚悟のことである。まともな
「想像や願望ではまともな指揮は採れない」と覚悟し、「受ける以上は良き経験にしたい」と決意した。
もちろん首相の責務などと比較するのは不遜だろう。だがその大小や軽重はさておき、後がない権限を得る身をおおもえば、責任は、少なくとも責任感は似たようなものだと思う。
首相がその気でさえあれば、阪神大震災や東日本大震災を遥かに超える規模であったことは、いち早く知りえたこと、と歯がゆい思いがした。
次いで、「それよりも何よりも」と、悔やんだ。わが国は、東南海大地震や関東大震災さえがいつ起きてもおかしくない状態にある。こうした事態が生じかねないことを、首相たるものが、心の準備をしていなかったのだろうか。
首相は、その惨状を自分の目で視て、その規模を把握したい、と思わなかったのだろうか。そして、辺野古の埋め立て工事や大阪万博工事を継続した場合と、被災地が復旧要員や復興資材を火急的に要する事態を天秤に掛け、いずれを優先すべきか、考えなかったのだろうか。
いずれを国民が期待するのか。国民が元気になり、国が健康体になるのか。そもための判断と、打つべき手を即座に決することが期待されて与えられる権限を、喜んで受けとったのではないか。
様々なしがらみや意地もあるだろう。だが、国民にとって「勇気、やる気、あるいは誇りなどの源泉は何か」と常に意識し、状況変化に則し、あるいはそれをうまく活かし、機を逸せずに決断を下すことが最高権力者の責務ではないか。
辺野古の地盤の異常や、大阪万博の海外館工事の異常な遅れなどを鑑みれば、その「中止や凍結を決する格好の好機だ」と、ピンときてほしかった。それが、国の自衛や防衛を口にする人に最も求められていることではないか。
健全かつ健康な国の存在条件は何か、それを満たしたうえで、やおら発展や繁栄の条件を考えるのが筋ではないか。さまざまなしがらみの関係者があろう。そうした人たちが、文句の付けようがない決断を、中止や延期などを、決してほしかった。
辺野古の延期は、アメリカ当局は喜ぶはずだ。米軍は既存の使い慣れた基地を使い続けたいはず。辺野古基地の完成が遅れて困ることはないはずだ。埋め立て用地のマヨネーズ状の軟弱地盤問題など、敵前上陸にも関わる米軍のことだ、先刻承知であった、で当然ではないか。
仮に、この能登の被災が大地震ではなく、未知の武力集団に急襲されての被害であったらどうしていたのか。そうした事態の救済演習のためにも、自衛隊の全実力投球を即決してほしかった。現在、国民が疑問視し、不安をいだくほどの強大な防衛力増強を計ろうとしているのではないか。それが国民のための防衛力の強化になる、と国民に感じてもらう好機ではないか。ひょっとすれば、世界にも攻撃力の増強ではなく、自衛や防衛力だ、と理解してもらえるかもしれない。
世界は今、異常気象や自然災害で悩まされている。その災害救済にも貢献する自衛力だとうたえば、世界になくてはならない国、と認識してもらう好機ではないか。それが真っ当なわが国の安全保障のあり方ではないか。
こんなことを夢見ながら、金沢が郷里の友人K.N.さんのケイタイに呼びかけている。2度3度と通じなかった。ほどなく返事があった。「里から京都に戻る道中で」生じていた。自宅は「残してきた弟によれば、」無事の様子。ただし、「マグニチュード(M)7.6は阪神大震災より数倍大きなエネルギーであり、被災地は大変にことになっているはず」と心配した。
TVではいっさい、首相の動きや自衛隊が大出動したニュース、あるいは志賀原発の様子を報道しなかった。後で知ったことだが、志賀原発は津波被害がなかったのに主電源故障、バックアップ電源も一時停止という、あり得ないような失態を犯していた。
翌朝、1冊の本を引っ張り出した。わが身の栄達よりも、是々非々を優先する大飯原発の差止め判決を出した裁判長・樋口英明の一著だった。
原発の耐震性は一般住宅より低い、という衝撃の事実! 「原発敷地に限っては強い地震は来ない」という地震予知に依拠した原発推進、なども指摘。「あなたの理性と良識はこれを許せますか? との訴えを見直し、気を引き締め直した。
これらに対して東電も原発再推進を決めた政権も、いまだ否定はもとより異論さえ差し挟めてはいない。それはまだしも、この度のM7・6の震源が珠洲市付近と分かったにもかかわらず、珠洲原発を作っていたらどうなっていたのかとのシュミレーションをし始めた、とのニュースもない。こうした検証を即時に命じる判断こそ、閣議決定で即決すればよいのではないか。こうした時のための権限を、我欲のために活かしてほしくない。
せめて、計画当時に読んでいた珠洲での地震の規模(想定)と、この現実M7・6との差異や乖離は即答できるはずだ。国民のため、国のための原発再推進であるのなら、急ぎ公表してほしい。
現連立政権が政権を取り返した当時、前政権のありようを「悪夢の時代だった」とあざ笑ったではないか。その後、立憲民主党は原発ゼロ政策案を打ち出していながら、未だにそれへの倍返しや、胸のすくような追求をするに至っていない。
新聞も紐解いた。菅直人元総理は「東京を含め5,000万人が避難しなければならないという最悪のシナリオがありました」「何万、何10万もの人が命を落とす可能性」があった。『東日本壊滅』を覚悟した東電の吉田昌郎所長(当時・故人)は踏みとどまり、「神のご加護のごとき偶然が重なり、あのレベルで収束出来た」と、当時を振りかえていた(朝日新聞20231215オピニオン)。
菅首相が当時、ヘリで被災現場に駆けつけ、吉田所長を鼓舞していなければ、どうなっていたのか。この駆け付けを、当事野党であった自民党は「邪魔をしに行った」と口汚く非難していた。
同オピニオンの1021の分「そこにある先入観」“交論”にもさかのぼった。福島原発の収束は「考えられない様な偶然が重なった結果であり、まさに奇跡であった」と、“裁判官は事件を論評せず”の伝統を破った樋口英明元判事は語っていた。他方、内田麻里香・東京大准教授は、“確証バイヤ”つまり「自分が正しいと思う信念がまずあって、自分に都合のいい情報しか見ないという傾向性」の危なさを説いている。
好天の9日の朝、強い霜が降った。畑を見て回った。高い霜柱が立ち、ギュッギュッと足下が鳴った。野菜はしょげていた。だが、太陽の光を受けて輝き始めた。生食野菜がやっと収穫期に入っていた。霜の被害(天災)より気になることがあった。オオイヌノフグリなどが新たに芽吹いており、除草の遅れが(人災?)が気になった。
翌日、サルが群れをなして、ついに出た。紅葉の頃は鈴なりだったシブガキだが、2度の襲撃(2度目は気づけなかった)で、平らげてしまった。
多くのサルが、争いながら取りあったのだろう、熟れ過ぎた実が随分落ちていた。
急ぎ獣害電柵のスイッチをon。畑ではダイコンやネギなどが立派に育っている。サルに侵入されようものなら引き抜かれて、ネギは下部の白い部分だけ、ダイコンは辛くない上部だけをかじりとって捨てるなど、食べ散らかされてしまう。あるいは、このままでは、日本はまたぞろ、と不安を覚えてからだろうか。
なぜか、ふと“ジュウタン除草”という新語を思い付いた。“ジュウタン爆撃”がごとき除草の実施が急ぎ求められている、と感じただけであって欲しい。
21日、瞳さんから「ワラを持参」する、と電話があった。幸運を喜んだ。昇さんが来訪中であった。直接会ってもらえる。
実は、瞳さんの弟さんからもらった品を、因果を込めて昇さんに譲ってあった。その狙いの説明は私が、その後の経過は直接昇さんから聴いてもらえる。
その品は、天然に近い栽培がシイタケにもたらした福音かのごときサプリメント。ビタミンDの補給剤だった。私たち夫婦は除草時などで、日光を十分に浴びてもいる。Dは事足りているはず。色白美肌を願う人などにその効果のほどを「試してもらいたくて」、昇さんに頼んであった。
23日、朝日の“取材考記”を読んでギョッとした。現政権に任せておいたら何をされるか知れたものではない、と感じた。原子力規制委員会は、柏埼刈羽原発の規制を解除したが、それは「安全だと確認した」からではなかったようだ。国民の良識にゲタを預けたに近い(国や原発事業者への?)サービス精神の結果、と感じさせられたからだ。
もちろん私は、原子力発電は何でも反対ではない。核分裂型ではなく、放射能の心配がないと聞く核融合型の開発にまで反対するつもりはない。むしろ、事故、廃棄、中和なども想定し、採算性が自然エネルギーの活用を上回るならば賛成したい。
だが、そうまでして工業文明の延長線上に未来を見ようとする研究であるのならば反対だ。問題の先送りのお手伝いに過ぎないことになりかねないのだから。
日々のごとくに自然に触れ、その摂理に思い知らることが多々の生活をしてきた私の目には、問題の先送り策は、モグラたたきのような新たな事態を招きかねなくなることが必定、と映るからだ。
次第に“キックバック事件”がかまびすしくなり、言い訳(派閥解消など)合戦が始まった。国民の目をくらませる上で格好の、猫だましでは? と心配した。
翌24日の朝日川柳を知って「案の定」との心境にされた。
ブロッコリーの一句では、チョット深読みかも、と自省した。私はこれも、国民のノーテンキ(長いものに縋りつきたくなる気性)への警鐘ではないか、と読んしまったからだ。
わが家ではやっとブロッコリーの収穫が始まった。妻は脇芽が育ちよいように収穫していた。遅がけに苗を植えたこの6本で、4月の花が咲く頃まで楽しむことになる。
ブロッコリーの川柳を、再度読み直したくなり、深読みしていた心境を振り返った。
ブロッコリーも鳥獣害被害に悩まされる。とりわけヒヨが葉を好んで狙う。とはいえ、鳥がこれまでに(わが家の庭では)花芽を食べたことはない。鳥の目には花芽を狙うことは未来まで食いつぶしそうに映り、本能的にブレーキがかかるのではないか。
その花芽を、日本ではこの度、指定野菜に選び、安定供給対象にした。
この間でのこと。2度、身を引き締めている。1度は20日土曜日の11:39。
PCの前で異常に気づいた。すぐに右目の異常だと分かった。発症時間をメモし、視界が乱れて、マダラになった目に「頑張れ」と、心でつぶやいた。
そのマダラ(視界が欠けた部分)具合が次第に増え、全体がやや濃い灰色で不透明な被膜を被せた感じになったのは11:42。ついに上半分はブラックアウト、下半分は灰色の不透明で視界ゼロ、初めての体験、 同45分。
左目は、歪んで見えるが、大丈夫。やがて、右の下半分も、マダラに視力が戻り始める。不思議な気分。左目を閉じて再び注視。ついに上半分も正常に戻った、47分。ふと『老人と海』を思い出した。
年老いた漁師が、巨大なカジキマグロが曳くロープで傷んだ手を、わが目で見つめ、いとおしげにわが手に語りかける場面だった。
あの緊張感は何だったんだろう。あの四半世紀前の決意や覚悟のことである。勤めていた短大では、予測通りに定員割れが確実になった。わが家では母が危篤状態(主治医の見立て)に入った時だった。学長のおハチが回って来た。在学生の顔と卒業生の気持ちに想いを馳せた。この時ばかりは、妻と母に初めて(離職や進路変更について)問いかけ、受諾の了解を取った。その頃には早や関東大震災が身近になっており、妻に造ってもらったものがある。
常にカバンに携帯し、学校では座布団に活かした頭巾だった。今は妻のために、と身近に常備しているが、覚悟を固め直すことにした。
6.その他
1.ひときは心に残った年賀状。辰年らしさで6点。あの方からと一見で例年分る版画で2点。そして、この2本の巨木に「触れてみたい、眺めたい」と心が騒いだ1点。
2.ゼンマイ土手の手入れ。裏庭のワラビ畑(ミツバチの巣箱がる)の東にあって、風除室とワークルームに沿う狭い沢を、かつてはビオトープと呼んでいた。その後、裏山からの水が切れ、近年はサワガニが棲むのみの湿地になった。今は雨季だけ水が張り、頂き物のミズバショウ生えるだけの細い沢である。
この土手の上には実生のクリやカシの木があって、ヤマブドウやサルトリイバラの蔓が登っている。近年は妻との間では“ゼンマイ土手”と呼ぶようになった。
今年は3日に分けて手入れをした。まず13日に昇さんと草、灌木、そして木に登る蔓を刈り取り、蔓は妻の要望で風除室に取り置いた。
23日に私が落ち葉などをワラビ畑の土手下近くまで集めておき、29日に土橋健一さんを迎え、それらを腐葉土小屋まで運んで積み足したり、ワラビ畑にまいて置き肥にしたりして片づけた。
蔓は後日、妻が教室展で用いる小道具としてリースにしている。
3.スリコギ。庭のサンショウの木で、鋸とナイフを駆使してスリコギを造った。
4.小鳥の巣。囲炉裏場の掃除の日に、小鳥の巣を2つ見つめて、感心させられた。過日妻が見つけた巣だが、巣を枝に固定する素材には人工のプラスチック繊維を活かしていた。だが、ヒナを育てる室内は、シュロの繊維など天然素材であったからだ。
これまでに見つけてきたサンコウチョウの小さな巣も、この度見つけた大きめの巣と同様の素材の活かし方をしていたからだ。
5.柴桂子先生の近著。興味津々の近著に恵まれた。江戸時代の女性の研究では先生の右に出る人はいない、とかつて二宮尊徳の娘・文について先生に学んだ折に、そう実感させられている。その確かなる調べ方に感心させられている。
このたびの書籍は、題だけでは誤解をまねきかねないので、2例の系図を添える。わが国がこれから本格化する環境の時代でも羽ばたくうえで、江戸時代は避けては通れない日本の強みだとみる私には興味津々の一著だ。
6.干し柿。この度の干し柿作りは、異状な豊作と、池田望さんと柿取りをしたおかげで、初めて試みたことが2つある。1つはミニアチュアの串柿づくりで、これは小さめのお鏡飾りに活かした。2つ目は、甘ガキと思って皮をむいたクボガキが渋かったので、2つに割って干してみたこと。妻は、ケチンボウかのように観たが、干しあがった半分を与えると、いかにもおいしそうで、「これぞ稀有な贅沢」と私はほくそ笑んだ。
7.手作りベーコンに恵まれた。妻が食べ物関連で3度も続けて喜びの奇声を上げた日があった。まずこの手作りベーコンに恵まれた時。2度目は「またシイタケが庭で出ていた」と摘んできた時。3度目は、今夜は「ご飯とお揚げと豆腐を除き、すべて庭で恵まれたものよ」とのお惣菜を振る舞う時だった。
このベーコンを造った人は、ハム会社で上級役員になっただけでなく、余生は夫人と大きな“ベーコン小舎”を作り、移住して燻製の追求研究に没頭している。こうした人の人生を私は羨ましく思うし、憧れる。
8.ブルーベリー畑の防鳥ネットと降雪。昨年、再建した防鳥ネットに雪が積もった。薄雪で助かった。骨材は有機栽培農家・松実義文さんの、その細断と運搬はミツバチの師匠・志賀生実さんの、その曲げる道具は「これほど丁寧できれいな仕上げは」とその工事に関心する電機屋・中尾春彦さんの世話になり、昇さんと作ったものだけに、雪下ろしの予行演習とみた。そして昇さんと、ネットの美観の(買い求めた切り売りのネットで)改良もした。
9.トウガンを、切り分けた。越冬実験に挑んだトーガンだが、27日に出して、幾軒かで分けた。
10.ダイコンの収穫がやっと始まった。播種が残暑で遅れたダイコンだが、17日から本格的な収穫を始めた。初採りは、夕にフロフキダイコンから始まり、翌朝は煮物に、その夜はおでんになった。その後は大根おろしにも。
家採り自家製の種だが、十字架植物なのに、むしろ煮崩れしない良き品種になっている。一緒にとるアイトワ菜は千差万別。
11.ハヤトウリや柑橘類にも恵まれた。村上義信・瞳夫妻に、稲わら、ハヤトウリ、そして初めて知ったミカンをもらった。その夜は、ハヤトウリ丼。
ミカンはこの冬、昇さんの里帰りの土産など、3種に恵まれた上に、義信さんにもらった苗木から育てた木の初採りもできた。
13.池田望さんに3つのお願い。2つは、HPに追加、だった。岡田さんのご好意が縁で、真砂さんと触れ合い、この庭で開催できた“インディアンフルートの演奏会” と、2つ目は、想うところがあって、四半世紀前にイギリスの雑誌『DOLL』に紹介された記事で学んだことをHPに載せて頂くこと。3つ目は、この庭の仕組みを写真に収める相談だった。
真砂秀朗インディアンフルート演奏会
https://aightowa.jpn.org/230716masago.html
雑誌『DOLL』1998年4月/5月号
https://aightowa.jpn.org/doll-magazine.html
かくのごとく、睦月を過ごした。