目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 弥生は、春の兆しの下に“十年一日かのごとし”で明けた
2 ごまめの歯ぎしり、“日々刻々新たなり”
3 真面目に不真面目なことをしないために
4 この半世紀を、5枚の写真が振り返らせた
5 自己リスクでオリジナルの治療を願った
6 妻の配慮に、まだ大丈夫そう、と嬉しくなった。その他
“十年一日が如し”と“日々刻々新たなり”とのあわい(間)
一日は終日、ウグイスの鳴き声を聴きながら、望さんには屋内でメニューの撮影で、久保田さんには人形展示ギャラリーの額の入れ替えで、それぞれお世話になりました。翌2日は、フキノトウや“はるご (春子) ”のシイタケが芽吹き、クロッカスやハコベが咲き、もう春だ、と感じています。とはいえ、4日に冬のような小雨が降り、その後汗ばむ初夏のような日も入り混じったのです。ですから、冬眠中のカエルや昆虫が慌てずに済み、庭に来る小鳥が穏やかに過ごせる気候であってほしい、と願ったものです。
予定表はあまり埋まっていなかった上に、次のような心機一転したくなるトピックスに多々恵まれました。2日、昇さんはスモモの剪定を私より見事に仕上げ、私は妻に鉢植えのワイヤープランツなどの手入れを頼まれた。5日、操体の川上さんを迎え、加齢対策面での覚悟すべきことも学んだ。9日、アリコさんが、初めて生徒さんをアイトワで迎え、レッスンをした。11日、フミちゃんを小雨の下に迎えた妻は、彼女と2人で母屋の掃除に当たった。12日、東京から迎えた人たちと、光栄な社員教育プログラムの詰めに入った。畑では、野草の花が次々と咲き始め、サルが久しく姿を見せず、餌が山で十分摂れるようだ、と睨んでいます。
だから、私は奮起して、急がれる野草の除草もしたくなり、庭に出始めたのです。まず妻に頼まれた花卉の世話だけでなく、レタスやパセリの長鉢など、鉢仕事から始動です。昇さんは、イチジクの苗木の定植や、昨年暮れに積んだモミジの落ち葉の山を、一帯のマルチングに生かすことから手をつけていました。その後、畑でサルを脅すカバー畝からを次々と剥がし始め、私は除草に、昇さんは畝耕しに励み始めたのです。畑仕事は順調に進み、14日には2種のエンドウ豆に、今年初の支柱も立て終えています。
この間に、望さんには古い写真の補正でもお世話になった。妻は、アリコさんのピアノ教室がある日に備え、人形展示ギャラリーの、上階の正出入り口の整備や、染色家夫人に頼まれた和装人形の着せ替え作業にも当たった。私は妻に代わって、初めて法務局や区役所も訪ねたし、白いウドを採る手も打った。また、喫茶店のありようを、来店客や社会の変化に即した改善をしたくなり、喫茶店を守る皆さんとミーティングを定期的に始める予定も立てています。
かくして15日の土曜日、当月3度目の昇さんを迎えた日が明けました。私は次々と除草に、昇さんは畝作りに、妻は昼食のフキノトウ茶漬けも用意するなど、それぞれ励みました。畑は生き返り、夏野菜の第1次4畝を仕立て上げ、弥生の前半を締めくくったのです。
問題は翌朝でした。腰痛に襲われていたのです。なんとか朝食をとっていると「おサルさん」と妻が叫び、窓先の子ザルを指差していました。この時は、既に時遅しでした。後刻私も確認し、惨憺たるサルの被害に愕然です。月末にかけて、夏野菜の準備だけでなく、来訪約束が5つ、喫茶店のスタッフとの初会議、あるいは虫歯の予約などがあったのです。
18日に整形医で、わが体の傷み具合を目の当たりして、また愕然。24日の深夜に、左膝が激痛に襲われ、生まれて初めて119番、です。しかし、ある事情と、命に別条がないとみて断りました。次いで、友人の助言で鎮痛剤を生まれて初めて使い始め、川上さんの体験を思い出し、杖に頼りにしてトイレと食事を主に、自己リハビリの時時刻刻に入ったのです。
夏野菜の準備や翌月上旬に迫った約束事も気がかりでした。4月は4日から7日までデンマークや鳥取から2組の友人夫妻を迎え、5日にはアリコさんのアイトワでの初のコンサート、そして7日に迎える大事な夫妻をお迎えします。これらに備え、昇さんとフミちゃん、そして私以上の疾患がある妻を始め、多くの人に支えられ、なんとかそれなりに月末を迎えた、が弥生の実情です。
~経過詳細~
1.弥生は、春の兆しの下に“十年一日かのごとし”で明けた
「もう春だ!」と叫びたくなるような2日は日曜日の朝のことだった。玄関を出ると、スモモの木が「まだ、ですか?」と、剪定の仕上げをせがんだように感じた。この日は昇さんを9時に迎えることになっていた。まずスモモの剪定を仕上げてもらおう。
新聞を取って引き返す時に、ユーティリティー小屋の前にある切り株花壇が目に留まった。この2種の花を選んだ妻に「よくぞ!」と、良き選定であったことに感謝した。植栽後、未だに植え替えすることもなく、元気に日々新たな姿を保っている。
次いでカウンターに眼を移した。クヌギとサクラの木の楔(くさび)型に切り取った断片があった。クヌギは昇さん父子が、大きな手引き鋸で引き、サクラはプロがエンジンソーで、共に伐採時に切り取っものだ。
木の太さではクヌギの方がはるかに上回るが、断片は小さい。それは、倒す方角が限られていたので、ロープで引っぱり、父子ならではの倒し方が求められたからだ。他方サクラの方は、枝が温室のガラスの上に大きく張り出していたので、素人には計り知れぬ技や術が求められた。だが幹の伐採は、パーキングに倒せばよいから、木の自重を上手く生かしたわけだ。
食卓に戻ると“野菜がたっぷりの澄まし雑煮”が待っていた。わが家自慢の薹(とう)が立ち始めたアイトワ菜だった。好物の餅は、これで妻が次に搗いてくれるまでオ・ア・ズ・ケ。
なぜか前日の出来事を忍んだ。久保田さんは人形展示ギャラリーで、コレクションの額装の入れ替えに。望さんには、メニューの写真を、一部急ぎ取り換える撮影に、来てもらえた。
オカゲで、私はお気に入りの人形に会えたし、撮影後に3人で、改良したサンドウィッチを賞味しながら歓談に興じた。
9時カッキリに昇さんはご到着。100スモモに登って剪定の仕上げに着手。この木のてっぺんまで登った人は、この人が2人目。
この間に私は、生ごみを堆肥の山に投入した。この作業は、冬の間は大変だ。畑や庭から残滓が出ないので、この山の背丈が、腐食が進んで縮むからだ。生ごみを投入する中央の穴が小さくなる。片や投入する生ごみの量は減らない。いつも溢れんばかりになる。
だから、薹が立った野菜の、葉や花芽を食用に摘み取った後の軸や、サルが台無しにした野菜くずまでを丁寧に積んで、嵩上げするなど、工夫しなければならない。
このような苦労を、これまでもしていたのだろうか、と写真で過去を確かめたくなった。そうした記録は一切なかった。これまでは循環型生活では必然のこと、と視ていたようで、苦労とは感じていなかったのかもしれない。
ただし、この同じ場所で、8年前にも堆肥の山をつくっていた写真が、4月16日に撮った写真が残っていた。
今年は、来月の16日に、今年の山の様子を写真に収めてみたくなった。"十年一日がごとし"を実感できるかもしれない。
2.ごまめの歯ぎしり、“日々刻々新たなり”
2日の朝の生ごみの投入からの帰途のこと。フェイジョアの木の下でシイタケを見かけた。この木の根元に、かつて (雑菌が入ったので、腐食させて肥料にする)ホダギを何年も前に捨てた。そのホダギでは、未だにシイタケ菌が生きていたわけだ。
果樹コーナーに差し掛かるとマルチングしたモミジの落ち葉の間からフキノトウが吹いていた。
中庭まで戻ると、昇さんはスモモの剪定を、私よりも大胆に、しかも見事に仕上げつつあった。その昔、外科医が、娘の手術を親友に任せた話を聴いた。昇さんに任せてヨカッタ。本当の親切は“深切”だろう。
うららかに明けた3日、ノーベル平和賞を受賞した被団協の忸怩(じくじ)たる想いに触れた。“十年一日が如し”と“日々刻々新たなり”とのあわいを繋ぐ走馬灯が彩り始めた。日本政府は、核兵器禁止条約の第3回条約国会議に、また不参加だったのだから。
このノーベル平和賞授与は、核兵器廃絶問題で、日本は主導的立場を占めるべき立場にある、と促してもらえたのではないか。人類としてこの問題を認識し“人類の道理”を引っ込めないように、と日本は背を押してもらえた、と受け止めるべきではないか。
先月は、当月記で国際刑事裁判所・ICCの赤根智子所長に触れ、その忸怩たる想いを忍んでいる。
ICCは、23年春に、戦争犯罪の容疑でプーチン大統領と、ネタニヤフ首相に逮捕状を出した。核兵器使用をほのめかす人と、いつの間にか核兵器保有国になっていた国の長であり、人類だけでなく生きとし生けるものにとって、共に極めて危険で、目の離せない人物だ。
人類が暮らし続けるための地球の、その生態系に関わると危険な人物、乃至は国ではないか。どこぞの国とか、今やどなたかなどに遠慮して、などと言ってビビッているようでは、次元が2つほど違う。
4日は一転して、急に冷え込んだ小雨の1日になった。カエルの冬眠明けの姿を、未だ観ていなかったことを喜んだ。
その後、また春らしい日が続いた。早咲きのスイセンやクリスマスローズ、あるいはハコベやホトケノザなどが次々とほころび始めた。
5日の朝が明けた。国際司法裁判所の所長に岩沢雄二が、3日に選出されていた。
なぜか思い出が次々とよみがえった。まず、昨年の夏、NHKBS=1で放映された“昭和の選択”~国際司法の長・安立峰一郎の葛藤~であった。
第1次世界大戦を経て、人類は史上初めて侵略戦争を否定するに至り、国際連盟を創設した。わが国は常任理事国に選ばれた。その実効性のある国際裁判所として常設国際司法裁判所が設置され、その常設国際司法裁判所初代所長に安立峰一郎が就任した。
わが国は、人類として真の“世界の1等国”として認められたわけだ。サムライニッポン躍如である。
しかも安立は、国際平和のために大いに活躍した。1934年に没した時はオランダで盛大なる国葬にふされている。この人類として国際的に貢献した日本人を教科書で学べていたら、もっと日本人として胸を張れていたのに、と残念だった。
この間の1928年には、パリ不戦条約が結ばれており、日本も批准している。
2つ目は、かくの如くに国際平和の先導役を期待されていた日本が、1931年に満州事変を起こしたことだ。パリ不戦条約を批准していたてまえ、日本はこの中国侵略戦争を自衛行動と“強弁”し、「事変」と言い換えた。だが、これは侵略戦争そのものだ、と国際連盟で1933年に断じられている。安立が没する前年であった。
松岡洋右国際連盟日本代表は、これを強弁で突っ撥ねた。だが時の国際的には受け入れられず、脱退した。その様子は、唖然とした目に、あるいは愕然とした態度に取り囲まれた様子は2025年3月31日朝日新聞から転載。
この世界の一等国としての地位や信頼をバッサリと切り捨てる思惑や態度に、日本国民は共感してか松岡を英雄のごとく熱狂的に迎え入れた。好戦機運をみなぎらせ始める。
国際連盟脱退はドイツ、イタリヤ、そしてスペインへ、と続く。
3つ目は、ドイツとイタリヤと組んで、日本が太平洋戦争に踏み出したことだ。スペインは中立を謳いあげ、堅持し、和平のためにわが国にも救いの手を差し伸べている。
わが国民は、必勝を信じ、真面目に戦争に加担した。結果、絨毯爆撃や原爆まで被災したあげく、1945年夏に一億総懺悔せざるを得なくなる。本土決戦用に国民からかき集めてあった膨大な食糧や物資などは闇に消えた。国民は飢餓に追い込まれ、餓死者も続出した。
だが、国民は国から更なる責め苦を食らう。「およそ戦争というその国の存亡をかけての非常事態の下においては、国民がその生命・身体・財産等について、その犠牲を余儀なくされたとしても、」「全て国民がひとしく受忍しなければならない」との受任論である。
4つ目は、当月記1月号で触れた『アンジャリ』の三沢亜紀さんのエッセイであった。国策で満州に送り出した農民を、わが国は敗戦後棄民扱いしようとしていた。
5つ目は、敗戦翌年の11月に、幼心に焼き付けた思い出であった。平和憲法の発布に国民は狂喜していた。そこに、戦争での辛苦に甲斐、やっと手に入れた幸を見出したかのごとき喜びようであった。
「世界よ、やがては一つになれ」との理念のもとに、独立国でありながら武力を持たず、「われらの安全と生存を保持しようと決意」する平和憲法を受け入れた。第9条「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、日本が批准したパリ不戦条約を生かした条項であった。
世界の心ある人々の目には、日本国民は世界に先駆けてこれを受け入れ直した民族、と映っていたに違いない。
この度のノーベル平和賞授与は、ニッポンは、核廃絶運動ぐらいは率先して取り組むべきだ、との期待の顕在化であたのではないか。環境問題は人類共通の敵だ。武力であれ、経済力であれ、戦争ごっこなどしている暇などない。日本は、世界を一つにと叫び、人類を循環型社会へと誘う方向へと国の梶を切り直し、世界を啓蒙する一等国の地位を取り戻してほしい。
これが、殺人剣を活人剣に生まれ変わらせたサムライニッポンの立ち位置ではないか。
5日は穏やかに明けた。新聞の有難さに感謝した。「憲法を武器に」して、と軍事力に傾く政府に「人間の安全保障」に傾注しよう、との呼び掛けに触れた。3度読み直した。
この日、万博の大屋根リングがギネスに登録された、との報にも触れた。この世界最大の木造建築物を永久保存する、と決した証、と見た。
翌日、そのココロは“朝日川柳”で知りえた。
7日には畑で、最初の菜の花が咲いた。畝の外で芽吹いた自然生えのアイトワ菜であった。
10日、スノードロップが思わぬところ(球根を植えた覚えはないナツメの木の下)で1輪咲いた。
わが家の庭では、30年ほど前に、スノードロップの球根を2つか3つずつ、門扉の周辺幾か所かに植えた。今やその一か所で、クボガキの下でのみ、20球ほどに増えて、残っている。
もしここから種が風で運ばれて、であったとすれば距離にして70mほど、高低差数mほどの高いところにまで移動したことになる。ヒョッとして、この実を小鳥が食べて、糞で、も考えられる。
この実に覚えがなかったので、写真で確かめると、2014年に実も捉えていた。
11日、シイタケコーナーで春子のシイタケが順調に吹いていた。
13日の新聞で、もしこれがトランプの本質なら、との心境に。
14日、朝刊を取った帰路のこと。果樹コーナーの日当たりがよいところに踏み込んだ。フキも芽吹いていた。
庭の随所でクリスマスローズや、ミニラッパスイセンなどが満開に。
種から自生したと見るヒヤシンスや、クロッカスも。
野から畑へと踏み込んでみると、ナズナやオオイヌノフグリなど野草や、野生化したセイヨウサクラソウなどが一斉に花を咲かせ始めていた。
サル脅しのために被せていた畝のカバーを外すと、野草も作物も共に、路地に比べてより大きく育っていた。慌てる。
朝食を知らせる妻の合図に応え、パーキング沿いに急ぎ戻ろうとした。スズメノカタビラのミニ群生が目に留まった。昨年、か細い1本を抜き忘れ、種を落とさせていたわけだ。しゃがんで抜き始めてから、ケイタイに収めておくべきだと気が付いた。
17日、朝刊で、一服の清涼剤のような2つの記事に触れた。“禁煙飲食店 全国6割”と“PFAS汚染 消えない不安” やその“対応”であった。
21日には、喫茶店のスタッフと想いを分かち合う最初のミーティングが控えていた。いつしか私は、未来世代に残すべき遺産は、きれいな水、空気、そして大地、加えて豊かな生態系だ、と想いついている。その当時を懐かしげに思い出した。
これぐらいのことなら、私なりに取り組めそうだ。なぜならそれが、わが身のためでもあるからだ。ならばその想いや足掻く姿を世に晒せば、引っ込みがつかなくなり、わが身を追い詰められるのではないか。
この想いにトドメを刺す好機に、10数年後に恵まれた。妻の人形工房完成間際に、併設の喫茶室を「喫茶店しては、」と提案だった。「そこで、私は働きたい」との希望だった。門扉を開いた。引っ込めなくした。その提案者は、40年後の今も勤めて下さっている。
20日、また冬のように冷えた朝になった。薄氷が張っていた。フキノトウの花が咲き始めていた。食卓には菜の花漬けが出た。
21日、スタッフ会議にはビッコを引いて、だったが、胸を張って参加した。手植えで200種1,000本の木を育て、その樹木や草花が浄化するきれいな空気が、小鳥や昆虫を呼び寄せて来たこと。わが国では初の全面禁煙飲食店であったこと。民間用ソーラー発電機を日本で最初に有償設置し、その電力で賄って来たこと。Pur Eau という世界で一番好ましい、と信じる飲料水を用いるようになったこと。こうしたことが、未来の方から微笑みかけて来る生き方ではないかと、トクトクと説明しようとした。
2人のママ友だとおっしゃる新人が、だから私は喫茶店運営に参加した、と。この考え方と実践を、海外客が主になった今、紹介しよう。こうした雰囲気が盛り上がったように感じた。
アマナ、バイモユリ、あるいはレンギョーが満開で、私好みのボケが咲き始めた。
29日のことだった。新聞では「まさか」と目を疑うニュースに触れた。
振り返ってみれば、1968年以降30年余、毎年幾度となく私はアメリカに出かけていた。だが、2000年をもって、断ち切った。もうアメリカ出張を止めた。東南アジア、中東、あるいはアフリカに出かけ始めた。
それは、2000年1月にビル・クリントンが退任し、ジョージ・ブッシュが就任したが、その落差がキッカケであった。オバマの時に再開しかけようとしていながら、わけあって行かず仕舞いになった。
この度、このトランプがらみの記事に触れ、なぜか「あれでよかった。もはやアメリカの時代ではない」との感受は、まんざらではなかった、と気が楽になった。
クリントンは、アメリカの最も名誉ある勲章・アメリカ議会名誉黄金勲章を、1999年に黒人女性のローザ・パークスに授与した。これぞ民主主義国の勲章と感動した。彼女は1955年にバスボイコット事件を起こした。キング牧師が立ち上がり、公民権運動に結び付けた。
先住民ショーショーニー族インディアンの女性が赤子を背負った肖像を生かし、新1ドル硬貨を鋳造させている。また、ローザ・パークスが逮捕された日を連邦祝日に指定する法案を連邦議会に提出している。
かつて、アメリカ騎兵隊は陸路で太平洋にたどりつく探検をしている。その最初の隊は、16歳の先住民女性・サカガウィアとその赤子に同道させた。この硬化のモデルである。
アメリカのどこかで、この母子像を見た。アメリカは偉大だ、世界の警察官のごとくに感じた。その写真は探し出せず、異なる像だが、ネットで見た。
その後、Gブッシュに代えて黒人大統領を生み出す一面をアメリカは見せた。だがこのたび、トランプを返り咲かせるという、アメリカ観を根底から変えさせる選択をした。工業文明をのさばらせたアメリカだが、この選択は、私の目には、民主主義の終わりの始まりのように映る。
「十年一日がごとし」の日々を過ごしながら、とりわけ後半は腰と膝の激痛のオカゲだろうか、 “日々刻々新たなり”の記事や思い出とのあわいで、ごまめの歯ぎしりし躍如の心境に浸ることができた。
3.真面目に不真面目なことをしないために
8日のこと。遅ればせになったが、温室の南にある石畳道と、庭の南面垣根との間を走る幅2間余の帯状の緑地で、昇さんとある補修作業に取り組んだ。これは、昨年の暮れから気になっていた案件で、真面目に犯してしまった失策の、いわば尻ぬぐいの作業であった。
昨年の暮れに、落ち葉かきで出たモミジの落ち葉を、「マルチング材として・・・」ここに運び込んでもらった。その願いがかなえられていなかった。この緑地の底部に、目立たないように帯状に伸ばして運び込まれていた。マルチング材として生かそうとすれば、落ち葉を次々と掻き上げて回らなければならず、手をつけるのが遅れた。この度、昇さんの助成を得て、遅ればせの実施となった。
この失策は、2重の確認不足が生じさせたのだろう。指示した大元は私だが、仲立ちした人と作業に当たった人との間でも「分かってもらえた」と「分かったつもり」との思い込みの差異があったようだ。
問題は、横着をしてとか、不真面目にではなく、真面目かつ丁寧に、願いにそぐわぬ不合理に至らせていたことだった。
モミジの落ち葉を、私は大事なマルチング材と位置付けている。だから、落ち葉でマルシングすべきところに、マルチングし易いように幾か所かに分けて、落ち葉を積み上げておいてほしかった。
片や作業した人は、落ち葉をごみ (廃棄物)と見たのではないか。だから、帯状の緑地の垣根沿いの低地に、目立たないように丁寧に帯状に広げて、良かれと思って捨てたに違いない。
その低地部には3箇所に、畑に降る大雨に備えた排水口を配してある。それらの排水口は落ち葉で埋まっていた。
だからこの度、マルチングするために、落ち葉を一旦掻き上げた上で、広げなければならなかった。その際に、排水口や溝から落ち葉を掻きとる必要もあった。
こうした思い違いを、私たち夫婦も結婚来しょっちゅう犯した。だからその改め方をしばしば話し合い、改善してきた。
喫茶店を開店当時も、これに倣って、アメリカに学んだマニュアル化方式を妻に伝授しようとした。反応は「バカにしないで」と言わんばかりに妻に拒絶された。「任せておいて」に、従った。
だから妻は、喫茶店仲間と思い違いが生じないように、補正し合い、皆で正したことが順次引き継がれるように、日々改善する仕組みづくりをしていたに違いない、と私は期待した。このたび、それができていなかったことに気付かされた。
にもかかわらず、外国人が増えた近年の来店客の評価もすこぶる良い。それはどうしてか、と考えた。銘々の持ち合わせている優れたセンスや技量、あるいは良識の成果であったに違いない。つまり、パターン化したマニュアル通りにではなく、各人の好ましき個性が多様性であるかのごとくに作用した成果であったのだろう。
思い出したことがあった。ホームステイのリズさんが居てくれた当時の思い出だった。(下のコラム記事の上と下の空白をなくしてください)
リズさんにとって、薪割はスポーツの範疇であったようだ。だが、除草は労働を強いてしまった(労働の意義と、責務を果たすマニュアルを伝授せざるを得なかった)ように感じられたので、2度とさせていない。“キリスト教者にとっての労働観”を鑑みたわけだ。
わが国では、敗戦後、驚異的な高度経済成長期があった。もちろん売り手市場であったことが主たる要因だろう。だが、“キリスト教者にとっての労働観”が生み出したマニュアルなどを導入し、伝統の勤労観を持ったままの日本人を誘なえたオカゲ、も大いに関係していたはずだ。
昨今は逆に、“キリスト教者にとっての労働観”が強いる“義務感や責務観”が育まれないまま、伝統の勤労観が希薄になっており、わが国は沈滞を余儀なくされているのではないか。もしそうなら、昨今の政府や経済界のありようは大いに、つまり真面目に不真面目なことをしでかしつつあることになる。
第3次世界大戦は、パラダイムの転換度戦争・循環型社会への転換・移行戦争と睨んでいるだけに心配だ。
2025年は、わが国の破綻が露になる年と睨んできた私だが、その想いの根本が透けて見え始めたような気分にされた。破綻が露になるキッカケは食糧問題、様々な老巧インフラ対策問題、あるいは政治不信問題などと睨んできたが、いやな予感がし始めた。
最近の妻は、ハンドバックの管理やカギの仕舞場所などで改善が見られる。それを褒めようものなら「馬鹿にして」と膨れてしまう。その都度、「高安先生なら・・・」と、願う。先生の助言が頂きたいなぁ。
4.この半世紀を5枚の写真が振り返らせた
10日のこと。カラー写真が数枚、くっついた状態で出てきた。一番上の写真から、37年前(喫茶店の開店3年後) 頃のもので、とても有難い写真だ、と睨んだ。
池田望さんに頼るしかない。
「水で剥がせそう、」と、引き受けてもらえた。
1週間後に、「どうして!?!」と驚くほどの、しかも拡大した写真が出来上がってきた。次の2枚が私にとってはとても貴重であった。
1枚は、門扉から“喫茶店や人形工房などの棟”に至る昔(1986~89年頃)の道の姿だった。当時は丸太の階段作りであったが、“アプローチの道”と名付けている。
写真中央の背丈の高い木はサクラで、元は10本のサクラ並木の1本であり、樹齢20年余であった。真っ赤なサルビアが咲いている円形花壇は、1990年前後に赤煉瓦で、妻と2人でつくったものだ。
2枚目は、門扉から両親が住んでいた母屋に至る昔の道の写真であった。赤レンガ造りの階段は、ある事情があって、妻と2人で手間暇かけて、円形花壇と同じ頃に造った。
ある事情とは、1985年から“喫茶店や人形工房などの棟”を造り始めたがために、居宅から門扉に至る道がなくなってしまったことだ。新しい道が必要になり、翌年3月以降にこの階段まで造っている。この階段はその後数年の命で終わり、新たな事情が生じており、取り払っている。
他の写真は、当時の小倉池の写真であって、ある重要な事件の証拠写真だ。当時、あってはならない公益にかかわる2つの深刻な事件が生じていた。だが、その事情はここでは控えたい。
アプローチの道には、元の道の姿があった。それは居宅が完成した当時の、門との間をつなぐ道であり、今もその姿を忍ぶことができる。学生時代の同期生と一緒に納まった写真があるからだ。
当時の関電は、この屋敷内を飛ばす配線には関わってくれず、私が庭木のヒノキを2本伐採して電柱をつくり、電線を張った上で、つないでもらった。
この元の道は、社会人になった翌年に、一人で私がコツコツと手作りした地道であった。住宅金融公庫を活かし、94万円の小さな居宅を建てるための工事用の導線であった。
この写真には左奥に家屋が映っている。両親が、それまで住んでいた屋敷を処分して移り住み始めた家屋であり、今も母屋として残っている。
この2つの家屋と門との間を結ぶ道の整備にも、随分私は多くの週末を費やした。その完成記念として私は門扉を造った。私のデザインに沿って最寄りの鍛冶屋に作ってもらった門扉で、鍵のない門を構えた。
それまでは門扉も垣根もなかった。垣根はこの後、裏山で拾ったドングリの種をまいて、10数年かけて生け垣を造った。この2つの家は、夏場には草ボウボウのお化け屋敷のようになった。
門扉の次に力を振り向けたのは、居宅に至る道を桜並木にする造作や植樹であった。このサクラ並木は、植えてから8年後には(新婚記念に丸太の階段を2人で造り始めた時には)既に呈を為したいたことになる。
事情があってまともな新婚旅行に行けなかったので、休暇を様々な手造り活動に費やした。その一環の最後がこのミニ土木仕事であった。
3カ月後に、サクラ並木で、妻を記念写真に収めた。
12年が経過し、1985年になった。幾つかのキッカケが重なって、私はかねてから構想していた循環型社会に即した造作を始めている。その頃、妻は人形作家と呼ばれ始ていた。世の中では土地の騰貴(バブルの前兆)が始まっていた。窓ははめ殺し自動空調などと全自動の建築が流行り始めていた。私は時代に逆行と感じたが、当時勤めていた会社もその方式で商業ビルを造り始めた。おりしも、母が妻のために、人形工房の建設を勧めた。その理由が、「私がしたかったことを、この子はし始めている」だった。
サクラ並木の中ほど一帯に、半地下構造の人形工房を造ることにした。まず、山側の深いところでは4mほど、手前の浅いところで2mほど掘り下げて、四角い穴を掘った。この穴の北側(写真では右側)の3分の1ほどに人形工房や茶話室などを建て、残りの三分の2をサンクンガーデンにして閉塞感をなくした。問題は、居宅の玄関から門扉に通じる道がなくしてしまったことだ。
この写真の左上の隅に、小屋が映っている。商社を辞めた時の退職金300万円を、この井戸(深さ8m)掘りだけでなく、墓地の確保と、遅ればせの新婚旅行のために均等割りした。その井戸小屋だ。この小屋の手前に、サクラ並木の1本が映っている。このときはまだ、並木のサクラが3本残っていた。パーキングは、この掘り出した土で造った。
その数年後に、人形工房が手狭になった。そこで、井戸小屋をつぶし、井戸の下半分のところまで土を4m掘り下げてならし、そこに半地下構造の新人形工房棟を増設した。それまでの人形工房は、今はゲストルームとして生かしている。
この新人形工房棟を建てるまでの間は、居宅の玄関から門扉に通じる新道を造って使っていた。玄関からこの井戸小屋の手前当たりを通っており、この新道はこの赤レンガの階段で終わっていた。つまり、新人形工房棟はこの思い出の階段までつぶして造ったわけだ。
この階段は、上部から目測で作り始めたものだから、最後の段が変則になった。ちなみに、望さんはこのレンガの色から推測し、修正写真ではモミジの色も変えてくださった。
この新人形工房棟の工事の前に、門扉に次いで手をつけた作業は、建築資材用の砕石を活かし、砂利道風に改良していたことだ。
新工房を造った後で、それまでは北側にあった居宅の玄関を、母屋に面する南側に移す増改築に当たった。玄関を移動させたことで、母屋に通じる道は、居宅の新玄関にも通じる道になった。
その後、この2軒に通じる道の中央を舗装した。これが加齢対策の第1号になった。温度計道と命名した。
この道の15年近く前の写真もあった。妻は還暦記念として髪染めからの解放も選んだが、そのころはまだ背中が曲がってはいなかったわけだ。
その後に、2つの工事に手をつける。まず、温度計道を改装した。その上で、佛教大学の社会福祉クラブの学生と、庭に張り巡らせた道に、一輪車道を通すプロジェクトに取り組み、次々の伸ばしている。
次いで、母から引き継いだ農業用の池(イモリが棲んでいたが、JRの複線用トンネル工事で枯れた)の跡に、書庫と名付けた倉庫を設けている。
かくのごとく、サラリーマンとして得た余暇と可処分所得は、ほぼすべて自然循環型の生活空間の創造に当てる人生になった。この間に酸性雨が降ったり、昆虫の種類(ケラやヘイケボタルなど)や動物の種類(イモリ、マムシ、あるいはカヤネズミなど)が減ったりした。だが、少なくとも数では以前よりはるかに上回る生き物が集い、棲みつきもする時空になった。
何よりもありがたいことは、この時空で過ごす限り、妻は幸せだというし、ノビノビとしている。“十年一日の如し”もありがたいようだし、“日々刻々新たなり”にもまだ目を輝かせてくれる。そのあわいで、いやな話はすぐに忘れてしまう。
5.自己リスクでオリジナルの治療を覚悟しろた
弥生の庭仕事は、2日の花卉と野菜2種の鉢仕事から始まった。おかげで、野菜の苗を買い求める新しい候補先の目星もつけた。これまで買っていた最寄りの小型HCが、野菜の苗まで採算制で管理し始めてようだ。1本残らず店頭から苗を消していた。
次いで、“恒例”の剪定作業に手をつけた。これは共に昇さんに頼った。とりわけ恒例の“剪定くずを花材にして生けるベニシダレウメの剪定”では、切り取る徒長枝を2人で2本選んだだけ。後は昇さんが、妻の助力を得て、3か所で花生けに挑戦した。
結果、来年の見通しまで立ったようなことになった。それは、切り取りたかった2本の徒長枝のうちの1本で、この度は花材として十分であったからだ。もう1本の方は、来年用に残したようなことになった。
その後、この母木(商社退職記念樹)ともう1本あるベニシダレウメ(短大退職記念樹)がほころび、満開にいたる姿と競うようにして、3つの生け花は多くの人に愛でられた。
肝心の畑の除草は、今年は随分遅れていた。それは、昨年末のかつてない猿害で、畑仕事に対する情熱がそがれ、虚脱状態に落ちいらされていたせいだ。
だが、ムクムク育つ野草の勢いに気が急かされ、その後サルが久しく現れなかったおかげで悪夢から冷めかけていた。加えて、畑ではタマネギをはじめ様々な野菜が復活しており、元気付けられ、背を押されたような気分になった。
好天の9日、私は育成をあきらめたタマネギだが、妻はサル脅しの遮光ネットを被せておいた。そのオカゲか、復活していた。これしきの野草なら、とまず手をつけた。
ほかの畝にも次々と手を差し伸べたくなった。草ボウボウになっていたが「本数は少なそう」と読んだ。過去10年近くの野草撲滅作戦の甲斐があったわけだ。土の中に残っていたわずかな種が芽吹き、大きくはびこっていたわけだ。
この時期は、夏野菜の準備をするタイミングだった。次々とサル脅しのカバーを外して回った。ネギの一畝と、ワケギの一畝は、おもっていた以上に立派に育っていた。植物と太陽の力に感心し、感謝した。次第に勇気とやる気に満ち溢れ始めた。
翌日は、大きなプラスチックの鉢を椅子代わりに活かし、エンドウ豆の畝から除草に励んだ。2種のエンドウ豆は生き残っており、抜いた野草で一輪車が瞬く間にいっぱいになった。共に短い畝だが、今年最初の支柱を2つ、畑に立てることもできた。
翌朝、9時キッカリに昇さんを迎えた。夏野菜用第1次の畝を仕立て上げる日にした。前日の間に除草を済ませてあった短い1畝と、ヤーコンの掘り出しを兼ねた2畝から昇さんは手をつけた。
もちろん私は、わき目も振らずに除草に取り組んだ。昇さんに次に耕してもらうコイモを育てた畝だった。次第に、この除草を急ぎたくて、代用品の椅子になど座っている暇などなくなった。背を伸ばしたくなり、ヒョイッと立ち上がった。
愉快な情景が広がっていた。背の青い見覚えがない大きめの小鳥が、昇さんが虫を掘り返すのを待っていた。そうと気づいた昇さんは、己に拍車をかけ、ミミズやガの幼虫を次々と掘り出し、与えた。
コイモの畝では、大根が1本立派に育っていた。昨年サルに襲われた時に、サルが抜いたまま1週間ほど放置したままになっていた大根を、昇さんが試しに植え直した。相当大きく育った大根でも、植え直しが効くようだ。
この畝を昇さんが耕している間に、私はまた、次に耕してもらう畝にとりかかり、中腰で除草に励んだ。この日の昼食は“フキノトウ茶漬け”を妻が用意した。
遅めの午後のお茶の時間までに夏野菜第1次分の畝が4本用意できた。「ぼつぼつ・・・」と、妻は声をかけに来た。「あまり無理をしてはダメヨ」と注意された。
くだんの小鳥は、昇さんの防寒衣に置き土産を残し、ねぐらに帰ったようだ。久方ぶりの達成感を私は味わった。
この日の収穫物に、妻はおお喜びした。まず“リョクサイ”。サルの大被害を受けた時に、半数ほど残ったハクサイの畝に、妻は覆いをかけた。この度その覆いをめくってみると、3つはほぼ結球していた。妻は「これはフミちゃんに・・・」などと、結球組みを残した。結球していない分を懐かし気に「久しぶりのリョクサイ!」と言って喜び、収穫した。夕食はリョクサイたっぷりの水炊きになった。
わが家の畑でハクサイを無農薬有機栽培で、種から育てたのでは、ハクサイは結球するまで育てられなかった。だから、長年に亘り、白菜ではなく未結球の緑菜を愛好していたわけだ。
次いで、大きく育っていたネギを一株収穫した。
問題は翌朝だった。腰痛で、容易には立ち上がれなかった。かろうじて右手で水をすくい、顔を1度だけ濡らす洗面で、ハウハウの体で食卓についた。
朝食をとっていると「おサルさん」と妻が指差して叫んだ。居間の窓際のスモモの枝から子ザルがこちらをのぞき込んでいた。この時点では、時既に遅し、だった。
後刻、私も杖をついて点検したが、妻の報告以上に悔しい思いがした。前回は、群馬出張に出た私の留守をつかれた。今回は、私がヨタヨタと杖に頼って食卓に着こうとしていた頃に、畑の襲撃は終わっていたことになる。電柵のスイッチを入れ忘れていた。
ハクサイは、緑菜よりハクサイがおいしいらしい。ことごとく、喰い去られていた。
今年最大の野菜だった自然生えのアイトワ菜の1株は、根元に老けた葉だけが残っていた。
タマネギは、「もっと真面目に喰え」と言いたくなるような荒らし方。
エンドウは、支柱を立てて蔓を吊るし上げた翌朝に、その豆苗(おいしいので商品化されている)のごとき新芽をことごとくちぎり取られていた。第3次の根菜類の畝も、手あたり次第に荒らされた。
ネギは、1畝が無傷で残っていたのが不思議だった。ありがたかった。
何のこれしき、と足腰の痛みに耐えることにした。こうした時はいつも「もしも・・・」と思い出すことがある。思い出して、自己診断し、自然治癒力をあてにする。
自重の2日を過ごした。だが、何かがへんだ。おかしい。18日の火曜日、フミちゃんを送りがてら、右ひざと左足股関節不調の原因が知りたくなり、整形外科医を訪れた。結果、「痛いやろなぁ」と同情はされたが、歳の割には軟骨の損耗は進んでいなかった。問題は、もっと肝心要の部分で、知りたくない変形を目の当たりにした。
この損傷を抱え込んだ人生を覚悟した。まるで2つ目の不発弾を抱えたような余生になった。1つ目の不発弾は拡張性心筋症だが、爆発させないコツをあらかた習得した。“いたわり過ぎず”と“瞬時の自重”が肝心だ。
この度の不発弾にも、いわばこれまでの不具合(加齢現象と誤解していた)の原因が分かったわけだから、まずは“いたわり過ぎず”と“無理のし過ぎ”のあわいを見定め、“気長な制御策”の見通しを立て、自活力を保つコツを探りたくなった。
その後、左股関節の違和感が収まらず、歩行が次第に厳しくなった22日。かつてギックリ腰を見事に治した整骨医を訊ねた。いつもの通りに背中にまで部厚い湯呑茶碗を真空に近くして充てる奇妙な治療も受けた。この皮膚を吸引力で引き伸ばす治療がとても厳しく感じられた。これが初体験なら途中で断っていただろう。股関節の抜けるような鈍痛は和らいだが、この苦痛との相関関係は分からない。
翌日、折悪しく右目の、これまでの上半分ではなく、初めて下半分がブラックアウト。10分ほどで戻った。食欲はある。夭逝した高校時代の親友で、医者になった1人を思い出し、「なんの、これしき」と奮起した。
かつて2度激痛に襲われた体験がある。ともに原因を突き止めていない。左の背中の時は、自宅で生じた。妻に頼んでこの親友に駆けつけてもらった。第一声は「森君、メシ喰えてるケ」だった。妻がイエスの回答をした。「ほんなら帰るワ」と背を返した。もちろん留まってもらった。彼は聴診器を当てながら「喰えてる間は死なへん」と安心させてくれた。アパレル会社を辞める前の48歳の時だった。
23日の深夜、左膝のいわゆるお皿の痛みで目覚めた。整形外科医でもらった鎮痛剤を飲んでいなかった。
翌日、整形外科医を、再訪。前回撮ったレントゲンを視ながら、触診し、「水も溜まってないし」で、追い返された。この日の夜のこと。左膝の激痛で目覚めた。同じく2時だった。
6時を待って妻を起こし、母が残した杖と「飯喰ってるケ」の時に買った尿瓶の生活になった。これらの在り処は私が教え、取り出してもらった。杖は、玄関の杖置き場から、尿瓶は、妻が仕舞っていた場所を、かつて石鹸を自分で探した時に見つけてあった。
尿瓶生活を覚悟したわけだ。だが「よくぞ訪ねてもらえたものだ」と、川上さんに感謝しながら杖を活かし、左足に荷重をかけないようにして、トイレで済ますことを旨とした。
次の日の深夜のこと。前夜以上の激痛。また2時だった。生まれて初めて救急車を呼びたくなった。「事故ですか、事件ですか」と女性の声。110番を押していたことに気付いた。詫びる間もなく「119におかけください。お大事に」との声が返ってきた。
119では、サイレンを鳴らさずに訪ねてもらえないことが分かった。静寂な村の環境を騒がせたくなかった。心臓の時のように、妻の運転に頼りたかった。おそらく帰途は、一人なら道に迷うに違いない。困り果てた。119番の男性の応対は親切だった。
ある助言、有料の電話相談先を教わった。その電話の女医にも感謝した。ヒントを得たように感じた。
心臓の時の呼吸困難(肺に水が溜まった)は「安静に!」との体の警報・命令であったことを思い出した。あれは、放っておけば陸上でおぼれ死んでいた。だが、この度の警報は、命に別状はなさそうだ。
4時ごろから激痛が徐々に和らいだ。リンパ腺の違和感も悪化していない。
9時を待って友人の医師に電話。多忙だった。夕刻までPCの人になって、気を紛らわせることにした。16時に返信。電話問診で「その鎮痛剤なら」と、整形医の日に3錠に対して、4時間おきに2錠、日に計12錠飲んで過ごし、翌日整形医を訊ねるように勧められた。初めて鎮痛剤に頼ることに、体が発する警報を無視することになった。
新たなアポイントは控えたが、ある緊急の(私が迷惑をこうむった人だから、謝罪だろう)1件は、翌日の17時なら、であえて受けた。妻が幾度となく、「この刻々と変わりゆく庭」の様子を眺められないのを2、気の毒がっていたからだ。
この日の夜は、薬切れで目覚め、服薬時以外は、格段に寝やすかった。とはいえ、薬は4日分ずつ消費していたことになる。
翌27日の朝、妻は喫茶店の開店状況を確かめ。戻って来るときに、網田さんにもらった椿の1輪を持ち帰った。
スモモに次いで、ハクモクレン、ピンクのネコヤナギ、あるいは黄色いレンギョウが咲き始め、刻々と移り変わる庭の様子を知りえない辛さを、妻にまた同情された。
約束の17時の、20分前までPCで過ごした。来客に備え、急な階段は避け、一旦門扉まで出る遠回りをして、道中の春を愛でた。
杖を、ケイタイの操作で、ウッカリ落とした。オカゲで自然生えのヒヤシンスにも気付くことができた。
来客は、「こんどはいつ会えるか分からないので」との断りだった。帰途は登り坂だから、休み休み春を満喫した。
28日、最寄りの整形医を訊ねた。主たる願いは鎮痛剤の追加処方だった。これで日々を絶え“日にち薬”が適わねば、医師が勧めるMRIも覚悟しなければ、と想いながら帰途についた。
29日から翌日曜にかけて、昇さんの来訪に合わせ、フミちゃんにも来てもらえることになった。フミちゃんは妻と母屋で、来客に備えた掃除にも当たったが、多くの時間を畑の除草に割いてもらった。昇さんは畝耕しを主に畑仕事に当たった。私は、耕す予定の冬野菜の畝で、花芽摘みをする役割で合流した。もちろん2人には有難迷惑がられ、妻には叱られた。
その甲斐があって、“菜の花漬け”を味わえることになった。
翌日曜日は、皆さんの警告や心配通りで、私は休養日にせざるを得なかった。到底しゃがむ気にもなれない。この日、取り組んでもらった畝の1つは、サル脅しのカバーを外して分かったことだが、4種の野菜を育てていた。その1種がノラボウナで、薹を立て、収穫適期に入っていた。だからこの日は午後のお茶を遅めにして、解散することにした。お2人にはノラボウナの他に、食べられそうな野菜を持って上がってもらい、妻はそれらの活かし方を披露した。
とりわけこの時期は、スーパーなどの店頭では出会えない野菜(薹が立ったり、花が咲いたりなど)が、わが家の食卓を彩る。人類が原始的であった頃は、冬場に不足がちであった養分を、花粉や、種を結ぼうとする植物のエキスを摂取していたはずだ。
夕餉には、花芽は吸い物と菜の花漬けで。ノラボウナはサッと油で炒めて、揚げと煮た。ヤーコンのキンピラもついた。
6.その他
1、かしら(頭)が座らぬ追体験。
川上文子さんの電話は、久しぶりだった。いつもの通りで、何ら変わった様子はなかった。だが、5日にお迎えしてビックリ仰天。長き闘病生活を強いられていらっしゃった。100対0で相手が悪い交通事故の被害者だった。この人の強くて優しく、公正で逞しい新たな一面も学んだが、自分の「頭の重さに気付かされ、」から始まったエピソードに、とても心惹かれた。“カシラが座らぬ新生児”の実体験であった、とか。
この体験を聴いていなかったら、膝と腰が激痛に見舞われた折に、どのように私は立ち回っていたことか。安静にしていたかもしれない。
実は、16日の朝以降26日までの10日間に、昇さんとフミちゃんの来訪以外に、13件の来訪者などの既約があたが、予定通りに振る舞っている。喫茶店のスタッフとの初会議はいたわられながら、だが挟んだ。
2、ハッピー4世は覚醒した ?
冬場は「寒かろう」と心配し、妻はいつもハッピーのハウスに毛布などを敷く。だが、翌朝には必ず引っ張り出している。この繰り返し。冬場の妻の日課。
9日のこと。この朝は、なぜかハッピー4世は毛布を前足に巻き、顎で抑えて眠っていた。覚醒を期待した。
翌朝から、元のオバカサンだった。ハッピー2世や金太は、毛布を引っ張り出してはいなかったように記憶する。
3、シイタケ、で言葉を濁した。
今年は春子のシイタケが、ホダギ場で50ほど収穫できそうだった。その2つを妻は自慢げに採って、フミちゃんにあげた。
その後、志賀師匠がルアーの設置でみえた。この春のシイタケの出具合について、質問があった。シイタケを土産にご持参いただけたのかも、と返答をはぐらかし、シイタケをもらった。翌日、昇さんを迎え、昼のうどんに、と妻がシイタケを採りに行った。1つ残らず消え去っており、食べかすの1つも残っていなかった。
「あんなに粗い網だから、小さなおサルさんが侵入したのよ」と、妻は目を細めた。
「あれだけの数を、綺麗さっぱり、子ザルには平らげられないよ」
「お母さんに言われて、採って、手渡したンじゃない」
「まさか!」と、思って金網を点検した。
地面と家屋に接している2面を除き、金網を4面に張り巡らせたつもりであった。1カ所だけ、手抜かりがあった。人間の身体能力が下させた判断能力には油断が、あるいは欠落があった。
4、茶碗蒸しに、やっとありつけた。
わが家では半世紀来、正月三ガ日の夕食に、ハマグリの吸い物か茶碗蒸しが、お節料理に付くのが恒例になっていた。だが今年は、立派なハマグリを頂いたのに、その吸い物は2日の夕食に私が所望して出たきりになった。
その後、ハマグリの吸い物は2度と、茶碗蒸しはからっきし出ていなかった。訊けば、生けハマグリは「冷凍が効くと聞きました」と応え、所望を受け付けない。
この7日のこと。昨年暮れにギンナンを、群馬で沢山買って持って帰ったことを話題にした。やっとその夜に茶碗蒸しが出た。なぜか初めてブロッコリーが添えられていた。茶碗蒸しも、月末まで、それっきりになっている。この半世紀来の恒例は、習慣にはなっていなかったンだ。
5、京都はスゴイ!
ご主人が和装柄の絵師である人の奥さんから、ご主人の異なる人気柄の着物に、着せ替えてほしい、と妻は頼まれていた。やっとこのたび、似合いそうな帯を用意して着せ替え、お引き渡しできた。オカゲで私も、お土産の梅の和菓子をお相伴し、初めて食すことができた。80年間京都で過ごして来たが、初めて知った銘菓だった。
6、今年は白い山ウドも。
もみ殻を村上瞳さんにもらっていたので、今年は2種の自生のウドを、共に白いウドにして、と願うことにした。1種は、緑色の葉で、葉緑素の核がマグネシウム(Mg)のウド。他方は銅色の葉で、葉緑素の核が銅(Cu)のウド。動物の血液で言えば、赤い血のヘモグロビンと、ニナガイなどの青い血のヘモシアニンみたいだ。
この庭では、ワラビやタラも両方が自生している。
7、オリジナルは何でも世界1だろう。
世界幸福度ランキング2位のデンマークから迎える友人夫妻は、いよいよ来月早々のことになった。もちろん受け入れる条件は、妻の記憶力の不具合などで「母屋での自炊」を覚悟してもらっている。
だが妻が「GRŪNのオリジナルベーコン」を、と急に言い出した。
GRŪNの安田家は、幸福度世界1のご夫妻だから、すぐに電話を入れた。
今の甲斐駒ヶ岳のモルゲンロート(朝焼け)の写真まで入っていた。請求書が入っていない。急ぎ、電話を入れるとイキナリ「小夜子さんへのワイロ」との声が返ってきた。わが家も急ぎ、紘子夫人へのワイロを送った。オリジナルのケーキと菜の花漬け。
昨年4月に安田家で見た山や小鳥も、わが家の窓先に来た小鳥も、世界1だろう。
8、妻の配慮に、まだ大丈夫そう、と嬉しくなった。
アリコさんがピアノのレッスンで、初めて9日にアイトワで生徒さんを迎えた。その様子を覗こう、とPCの手を休め、人形工房棟に向かった。
その道中で驚いた。人形展示ギャラリー用の風除室から、ピクチャーウインドーを通して光が漏れていたからだ。通り過ごしながら内部を覗くと、ギャラリーの扉が開いていた。
角を曲がると、人形展示ギャラリー館の正式な出入口の扉も開いていた。覗くと掃除がキチンと行き届き、スリッパが並び、受け入れ準備が整っていた。
ピアノの調べが流れてきた。レッスンが始まったわけだ。
嬉しくなった。レッスンを乱すまいと、妻は配慮し、そのためのギャラリー見学者を誘導する準備であろう。
常は、階下の人形工房から出入りしていただいている。工房を眺めながら屋内階段を上り下りする方が、との声が多いからだ。
サンクンガーデンへと降りる階段まで行って、引き返した。ギャラリーを再度覗いた。ピアノの調べを聴きながらの人形の見学も、温かく感じた。
この臨時の対応策を、妻が気付いたのであればまだ大丈夫、と胸をなでおろした。