目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 自然循環型生活が生み出させた“基地”の整備に手を付けた
2 一カ月遅れの“七草粥もどき”が、導火線だった
3 アリコさんのピアノと自然界が彩るセッションを夢想
4 ある一日は、4つのヒントに学んだ
5伐採作業は、クヌギ林の最後の1本から
6一カ月遅れの新年気分が目的化させた、その他
この生き方、大団円を迎え始めたのか
曇天で明けた如月(きさらぎ)の初日は、昇さんと3つの課題に挑みました。人形工房で“織機の解体”。“野小屋の整理”に着手。その出来た隙間へ、ガスボンベ庫横の窪みからガーデンチェアーを移動させ、その空いた“1㎡ほどの窪みを改造”し、「剪定センター」と命名しました。その後15日に、フミちゃんが “ガスボンベ庫の引き戸の塗装”を仕上げ、如月は月の半ばまでに、これら4つの課題に見通しを立てたのです。
これらの課題に取り組んだのは、先月末の山下有子さんの予期せぬ来訪と、伺った要望がキッカケです。彼女のピアノとここの自然界の音色がセッションし、醸し出すに違いない彩りを想像し、心が騒いだのです。おりしも、先月は暗い気分で明けながら、とても明るい気分で暮れており、心がはやっていました。ところが、暖冬との予測が一転して冷え込み始め、寒い庭や、猿に荒らされた畑に出る気がしなかったのです。自ずとはやる心は、心機一転を願ったようで、これらの整理、整備、あるいは仕上げに取り掛からせたのでしょう。
他にも印象深いことが多々生じています。まず6日の未明 (PCのある部屋の温度が初めて5℃まで下がっていた) から、8日の夜明けに至る3日間のことです。その中日の7日は、昼にピアノが搬入され、夕刻に月記原稿を知範さんに引き継ぎ、8日は一面の銀世界でした。
他にも多彩なトピックスがありました。橋本宙八ご夫妻の来訪と歓談。後藤さんの手も煩わせ、少しは新PCに慣れた。昇さんに取り組んでもらった(ブルーベリー畑の防鳥ネットやテラスのテントの) 雪下ろし。妻は、2度シマエナガに恵まれており、7日には七草粥もどきを用意し、13日に餅を搗いた。昇さんと妻も交え、ピクニック気分で出かけた大手HCでの買い物。障子の張替えを(三角部屋の小さな天窓用で)初経験。初めて育てた巨大な野菜は、食感にも大喜び。喫茶店の運営で、妻を補佐せざるをえなくなり、喫茶店仲間の慰労食事会に初めて参加。冬休み明けに備えた作業(Aアルトの椅子、ホットプレート、あるいは“四季の額”の補修など)に当たった。加えて15日は、昇さん父子を迎え、最後のクヌギの伐採と、池田聡子さんの個展を鑑賞したくて市街地に出かけた、などでした。
若き時に、自然循環型生活での自活を覚悟し、その心を保ち続けてヨカッタ、と幾度も振り返る15日間でした。この覚悟が、多くの出会いや出来事を運命のかのごとく受け止めさせ、多くの恩人と巡り合わせました。いつしか、時代に逆行と笑われたこの生き方が、未来が微笑みかけて来る生き方であったかのようになり、この時空を“庭宇宙”と呼び始めています。自ずと、庭宇宙にはワークルームや野小屋に始まり、この度の剪定センターなど10幾つものいわば基地ができていたのです。その幾つかを、猿害の痛手と不順な天候をむしろ好機と感じたようで、オアシスのように仕立て直し始めていたのです。
月の後半も、偶然が誘った再会で明け、宿命かのごとき光栄な人の来訪で暮れました。その間も、寒波再来や降雪などに悩まされながら、心機一転にふさわしい出来事に恵まれています。デンマークで2度行動を共にした3夫婦が、アイトワで会することが確定した。アイトワでのアリコさんの初のコンサートを、4月5日の午後に開催、と見定めた。あるいは、畑の再生と日照の向上を願って、苦渋の伐採を決意し、手をつけた。それよりもなによりも、喫茶店の冬の創作休暇明けを、新たな気持ちで迎えたことです。
七草粥もどきと新しいコメでの餅が、心機一転を促したのでしょう。多くの人に支えられて、ですが、この生き方の大団円を意識し始めたかのような気分にされています。
~経過詳細~
1.自然循環型生活が生み出させた“基地”の整備に手を付けた
“剪定センター”とこの度名付けた庭道具置き場は、妻が日々、最もひんぱんに行き来する裏道(居宅と、人形工房棟や喫茶店棟とをつなぐ近道)に面している。
元は、人形展示ギャラリー(下の階は人形工房)の上階出入口と、プロパンガスボンベ庫の間にできた1㎡ほどの窪みに過ぎなかった。そこが今や、庭掃除(剪定や落ち葉掃除)をする上で、最も大事な基地になっていた。
この窪みは、かつては、急ぎの庭掃除に当たっていた最中や、作業が翌日にも及ぶときなどの、庭掃除道具などの仮置き場であった。本来は、居宅の一角にあるワークルーム(庭仕事の道具や農具はもとより、大工、左官、あるいは石工などあらゆる道具を収納しており、薪風呂の焚き口もある)に戻すべきところだが、横着をしていたわけだ。
それが、様々な事情があって(わが身の多忙と、この多忙を電動機械などで穴埋めしているうちに)、とても大事な基地になっていた。
その後、庭木が鼠算式に(年率2割の生産性で)成長し始め、間伐や落ち葉掃除が加速度的に忙しくなった。片や私の身体は加齢による劣化を自覚せざるをえなくなった。
有難いことに、市場ではその劣化を穴埋めするかのような自動機器(電動具に始まり、エンジン式道具、今や充電式電動具など)が次々と開発された。
つまり、近代科学が生み出させた便利な機械(道具より重くて、かさは高いが)を、意識的、計画的に導入するようになった。そして、これらを上手に(道具を取りそろえ、収納し易く細工して)使いこなせば、相当の加齢にも備えられそう、と思い始めた。こうした願いや希望を膨らませながら、この1㎡を重宝に生かしているうち、まるでこの窪みが橋頭保であるかのごとき機能を発揮していた。
その間に、囲炉裏場でBBQなどを開くときに用いる折り畳み式パイプ椅子の置き場にもしていた。
体力の衰えは剪定用電動バリカンも導入させ、その置き場にもした。その後、電動ブロワーも購入したが、ここが常設場になった。当時はまだ野小屋は出来ていなかった。
そのうちに、勤め先での多忙と体力の減退が顕著になった。意気揚々とワークルームで道具を取りそろえ、軽々と動き回って、ワークルームに戻って元通りに収納する、という当初のパターンなど、スッカリ昔話になっていた。それは、自動点火式焼却器の導入がキッカケであったようにおもう。
種を結び始めた野草に気付いていながら、せっかくの土日が雨とか、海外出張が入ったなど、でイラつくようになった。抜き去る時間などない。刈り取る暇さえ作れない。さりとて、種を落とさせてしまえば、数年かけた除草の努力がふいになる。
こうした時間的、体力的、あるいは精神的なピンチに直面し始めた。妻も、人形創作にも目覚め、寸暇をおしみ始めていた。その時に導入したのが自動点火型のガス焼却器であった。この機器は、野草の種の付いた部分を焼き去る上で重宝だった。10分早く起きてとか、陽が落ちる前に10分ほど早く帰宅するだけで活かしうる。それが30分の余裕なら相当の範囲まで焼却できる軽油使用の機器も売り出され、導入した。こうした道具はとりわけ、間髪を入れずに取り出せるところに収納しておきたいものだ。
ついでに、ではないが、この隣にあるガスボンベの収納庫を、大小2種の充電式電動エンジンバリカンを導入したときは、収納場所に生していた。
臨時の道具置き場であった空きスペースが、予期せぬ成長をとげたわけだ。いつしか剪定道具やエンジンブロワーなどの常設置き場としても重宝するようになっていた。
この度は、パイプ椅子を、まず野小屋に移動させ、空きスペースを設けた。次いで、さまざまな充電式電動具が増えていたので、それらの充電器を常備する棚(人形工房で不要になった、を拝借)を設けた。
加えて、電動やエンジン式排水機など(いつ何時、何が生じるか計り知れないが、生じたら間髪を入れずに取り出して、生かさなければならない機器)の置き場にもしていた。そのようなわけで(頻繁に用いる剪定道具置き場でもあるので) “剪定センター”なる固有名称を与えたわけだ。
いわば、アリコ(山下有子)さんの久方ぶりの来訪と、その要望に触れたことを記念した発奮の固有名詞と言えなくもない。
ガスボンベ庫の引き戸(シナベニヤ板張り)は、吹き込む雨による経年劣化で傷んだ。表裏の面を逆にして、かつ水濡れ対抗性が高い塗料を塗って補強し、活かし続けることにした。見てくれに惑わされずに、防水塗料を用いているか否かを確かめておくべきであった。
かくして、長年の懸案事項が、昇さんとフミちゃんに、それぞれの得手を活かしてもらい、この度やっと解消した。
落ち葉掃除が得意のフミちゃんは、はがれたベニヤ板の上っ面を昇さんがはぎ取っている間に、四半世紀来の落ち葉(動力式ブロアーでの掃除ではむしろ吹き込んでいた)を見事に拭い去ってもらえた。
もちろん私は“結(ゆい=農業文明が生み出させた相互扶助文化)”の心身面での意義をかみしめ直しながら、それなりの役目をはたした。この2人が要する道具や資材の準備、老人ゆえの経験や体験に基づく助言や評価、あるいはチョットした補修などに努めた。
もとよりわが家の道具置き場はほかにも、様々なところに点在していた。写真は、ワークルームの側面の一部、温室にあるロッカーの一側面 、ユーティリィティー小屋の裏面、あるいは野小屋の一側面である。それぞれの近辺で用いる道具は、その置き場を決めている。
ハッピーのハウスの側にはテラスの掃除用の、居間の幾つかの引き出しには、チョットした補修や修繕用の道具をなど、手作業用の道具置き場が随所にある。
自然循環型生活に欠かせない手づくり人生には、様々な資材や部品も欠かすわけにはゆかず、その収納方式も大事な課題、と睨んでいる。
若くして結核菌に襲われた私は(就職や結婚は無理とみて)、自然循環型の生活で自活する覚悟をした。それは、“昔の百の姓をもっていた時代の農民並み”の生き方ができる「主」、まさに主人になる夢を見ることで、生きる勇気をつないだわけだ。
ところがその後、病気の「完治に努力すること」を条件にした入社を許す人(総務担当常務)など、次々と恩人に巡り合わせた。こうした方々の期待に応えたくて私生活面での覚悟は変えず、いつでも(完治する約束を守れなければ)野に下り、自活できるように(与えられた余暇時間と可処分所得をすべて投入し)励み続けた。それが、生きている実感の源泉であるかのように思われた。
それがいつしか“庭宇宙”と自称するまでの時空を生み出させていた。この度は、この生き方を支える上では必然の基地、あるいは橋頭保のしかるべき整備や補強などに取り掛かっていたことになる。
それはひとえに妻が、元来の百姓の妻・つまり文字通りの主婦の立場に飛び込む覚悟をしてくれたおかげだ。おのずと道具を駆使する手作りの生き方が始まった。次第に器用になった手と、創造的な心を育んだようだ。余勢を駆ったかのように、独創で人形作りに手を出した。やがて生まれ持っていた固有の潜在能力に気付かされたようだ。その発露に生甲斐を見出し、道具、資材、あるいは資料などの収集に励み、創造活動に勤しみ始めた。
問題は、“創造”には励んだが、それに伴う“分別”や“収納”の在り方に関する覚醒や覚悟に欠けていたことではないか。私の目には多様と雑多の峻別もまずいように見えた。だが、「好きにさせてください」との意向を尊重し、自覚にまかせた。後の祭りだ。
この7日のこと。アリコさんのピアノを搬入する都合で、人形工房に踏み込んだ。妻も心機一転を願っていたのだろうか、初期に生み出していたような人形を作っていた。ひょっとしたら、幼児化では? との視線も大事にしなくては、と心に言い聞かせた。
なぜか私は、四半世紀ほど昔の社会状況を振り返った。終身雇用と年功序列型の社会システムが崩壊し(公園やさびれた街角で、ブルーシートの小屋で暮らす)ホームレスがたむろした時代があった。とても不可解な気分にされた。
その後、青田刈りのように競って新入社員を企業が獲得し、甘やかせ合う時期があった。かと思うと一転して就職氷河期もあった。その都度、とりわけ若者は世の波に翻弄された。
1万年ほど前から人類は農業文明時代に踏み出し、今は工業文明時代の末期だ。この間の初期に、奴隷制度が敷かれており、奴隷の子として生まれ、奴隷として死んでいった人が大勢いた。だが奴隷は、職を解かれる (首にされる)と、嘆かずに、むしろ奴隷解放だと叫び、喜んだものだ。
昨今は、当時よりはるかに豊かな社会になっている。教育にも恵まれている。にもかかわらず、失業者を作り、路頭に迷わせていた。何かがおかしい。
それはともかく、私は道具を駆使しうる生き方を尊んだ。工業社会を疑問視した。道具は、自分のカラダの延長、かつ自分を刻々と逞しくするココロのエッセンスだとの認識を深めた。それがヨカッタ、と追認している。
同時に、偉そうなことを言いながら、山積になっていた未整理の資料に気付かされ、整理にも当たり始めた。おかげで、社会人になってから恵まれた恩人の面影を忍ぶ(2人目のスナップ写真や、3人目の黄ばんだ新聞記事を見つけた)機会にも恵まれた。
2.一カ月遅れの“七草粥もどき”が、導火線だった
後藤さんに急遽訪ねてもらった翌早朝のこと。PCのある部屋の室内温度が、初めて5℃にまで下がっていた。庭に出ると、水鉢などに張った氷は分厚かった。
PCの前に座り直しながら「そう言えば・・・」と、振り返り始めた。まず、後藤さんは、昨年暮れに訪ねてもらった時より、ずいぶん血色がよくなっていた。並外れた造血能力 (保有5リットル中の2リットルの出血に耐え、回復が早かった) を医師に褒められた、と語っていた。元の健康をなんとかして取り戻してほしい。
次いで、元アイトワ塾生の皆さんに想いを馳せ、反省した。平均年齢で言えば一回りほど若い皆さんだったが、すでに3人も失っている。塾では、未来への備えに傾注していながら、その未来を見届けるための生身の健康法には時間をあまり割いていなかったからだ。
ワ-プロからPCに私が切り替えたある日のこともよみがえった。後藤さんは中古のパソコンを抱えて唐突に現れ、今あるスペースに据え付け始めた。もちろん私が追認した上での設置であったが、この時の咄嗟のイエスの判断が、後日2つの改装に結び付けている。
このスペースは、元はダイニングキッチンを兼ねたL字型の居間の一部であった。玄関に入ってすぐの間に当たる四畳半ほどの部分だが、そこにPCが入ったわけだ。、だから、4枚の白木の引き戸で2室に仕切り、いわばPC室にして、独立させた。
次いで、居宅と母屋の渡り廊下の中ほどに、“竹の入り口”と名付けた簡素な出入口を設けた。竹細工はすべて、塾生だった網田さんの創作である。
網田さんは「今頃?」と、想いを馳せた。
この2つの改装は、次の2つの改善に結び付けた。2部屋に仕切ったおかげで省エネがかなった。竹の入り口のおかげで、急増していた泊り客に、居間を通らずに薪風呂を使ってもらえるようになった。
翌7日は、ピアノの搬入日であり、午後は知樹さんに月記原稿を引き継ぐ日でもあった。だから未明からPCに取り組んだ。隣の居間兼ダイニングキッチンから朝食の用意ができた、との合図が板戸越しにあった。
朝粥であった。席に着くと、「七草粥まがい」と妻はつぶやいた。なぜか心が膨らみ、軽やかな気分になった。庭を巡る妻の姿を連想した。来年の正月7日が待ち遠しくなった。
冷え込んだ1日であった。だが快晴の下にピアノが搬入され、調律と試しの演奏で音響も「とてもよい」と言っていただけた。午後の月記原稿の引き継ぎも滞りなく済ませた。この機に、とばかりに知範さんに追加のPC指導も受けた。
夕食の準備が始まった時のこと。マジックペンの収納場所を妻が尋ねた。その場所は、30年前の居宅改装時にできた戸棚の同じ所で、変えてはいなかった。
妻は、求めるものを探し、見つけて上手に活かすのは名人だが、用を足した後のことには関心が乏しい。これからは、散らかしているのを見つけて注意するのではなく、「使った後は、すぐに元に戻す」ことを条件付けて、仕舞うのを見届けることにしよう。
赤いマジックペンで、妻は2つのシマエナガの1つにリボンを描き、両方の裏面に、黒いペンでそれぞれの名称を書き込んだ。
寝室に持ち込んだ先月の“頂きもののシマエナガ”には「まるチャン」との名を与えていた。物忘れを減らす訓練のための命名らしい。
翌朝も、5時からPCの人になった。7時に妻が、身づくろいをととのえて、居間に入った様子が分かった。いつものように私は板戸を引いた。同時に妻は、居間のカーテンを引いており、「銀世界!」と、小声で叫んだ。
両手を広げて妻を迎え入れた。何カ月来の出会いがしらの日課である。互いに相手の腰に両の手を伸ばし合い、背筋をただす運動だ。私は銀世界を眺めた。
妻は、ハッピーが毛布をハウスから「また放り出している」と嘆いた。この日課は、第三者の目には抱擁に映るだろう。高安先生の助言(認知症は心のバランスを崩す。不安感をあおりかねない)をヒントに、私にも決行できそうで、「今さら」と出会いがしらに妻に言わせない策、とみて「言い訳」付きで実施した。
次いで私は「めくりましたか」と、もう1つの日課を取り上げた。妻は5月に自動車の免許更新を控えている。取れそうにないと思っているようで、「取りたくない」と言っている。だから、昨年の暮れに最寄りの酒屋でもらった“日めくり”を活かし、めくる日課を設けてきた。
この日の積雪は、これまでに知る2度目の大雪のように感じた。
雪の下での「シンボルモミジ」の姿を・・・、と門扉を目指した。
カフェテラスも雪で覆われていた。
玄関まで戻ったが、ハッピーは出てこなかった。
念のために、と保有する降雪記録を調べた。案の定、一昨(2023)年の1月25日にも、同程度の大雪が降っていた。さらに過去をさかのぼると、記録のある2010年の大雪(12/31)以降でも、翌2011年(1/17)、 2015年(2/1)、そして2017年(1/15)などに大雪が降っている。
さかのぼってヨカッタ。降った雪の量もさることながら、雪ゆえにその都度知りえた様々な喜びを追認した。たとえば、門扉の下をウサギがくぐったに違いない。雪庇が、つららが、あるいは季節外れ(2010年3月30日)の雪が、などと時々の驚きや興味津々が思い出された。
とりわけ、10年前の12月18日のこと。妻のいたずらを見かけた。さらに、8年前から妻の背は・・・とは気づかずに、難儀する姿を「記念に、」と、撮っていた。
こうして分厚い氷で明けた6日から、終日大雪に閉じ込められる8日までの3日間を振り返り、また「七草粥まがい」に心を膨らませた。なぜか、古い餅米を用いた今年の、形ばかりの“お鏡飾り”まで思い出してしまった。
この中日の7日に、ピアノが運び込まれている。
3.アリコさんのピアノと自然界が彩るセッションを夢想
調律師の長岡さん、次いでアリコさんを迎え、ピアノが運び込まれた。初めて調律のありようを終始目の当たりする機会であり、胸が高鳴った。
わが国には世界に誇れることが多々あるが、中でも調律師に関するエピソードは、尊重されてしかるべき、ではないか。なぜなら、わが国は世界的に誇れる調律師を、世界で最初に組織的に排出する国になっているのだから。
そうと知った時の誇らしげな気持ちをよみがえらせながら、この日を迎えた。
調律を終え、そのありようが長岡さんから説明され、仰天した。これまでの私は、調律とは、それぞれのピアノが発揮しうる固有の音色を最も望ましき音階に調整すること、と思い込んでいた。ピアニストの「好み」や場所の「雰囲気」などを感受して、いかに音色を整えるか、創造するか、が腕の見せ所でありそうだ、と感受したからだ。
ならば調律師もアーチストではないか。
思わず長岡さんに「一曲引いていただけませんか」と願い出てしまい、「またやらかしてしまった」と、気が付いた。
アリコさんを「差し置いて」、といったような断りの言葉が長岡さんからあった。アリコさんの体と表情は共感のサインであふれた。
この日、アリコさんは引き継いで、バッハ(平均律クラヴィーア曲集第1巻より第1番「プレリュード」だと伺った)を奏でた。
この間に、テラスにまで踏み込んでくださった一人の西洋人が視界に入った。閉じてあった門扉を押し開かれたのだろう。断りに出たスタッフから「音色に惹かれて・・・」との挨拶があった、と後刻聞かされた。
アリコさんは次に、坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』を選んだ。かくしてピアノの搬入は滞りなく行われた。人形工房はとても反響がよい、とのお2人の評価に胸をなで下したわけだ。
翌土曜日は大雪で明けた。昇さんを迎えた日曜日は、雪下ろしや雪かきだけでなく、解体したままカフェテラスのテント下に仮置きしてあった織機を、昇さんと2人で倉庫に収納した。
10日は、残雪にふさわしい、冬らしい朝焼けに恵まれた。
アリコさんの次の来訪は20日になった。その前日の早朝のこと。緩やかの登り道を、温度計道を上っていたら、下るときには気付かなかった何かが視界に入った。よく見ると、前夜の薄雪をかぶった八重のサザンカの花であった。
アリコさんを迎えた。アイトワでの初のコンサートは4月の上旬に、との要望があった。この日の妻は、生徒さんを迎え、人形教室があった。16時を待って、生徒さんたちにアリコさんの演奏を聴いていただけた。有子をアリコと呼ぶ所以も知った。
生徒さんを見送った後で、アイトワでのコンサートについて、妻に私見を入れずに伝えた。4月5日(土)の午後に、がトントンと決まった。喫茶店の経営に少しは関わることになった私は、4月5日で土曜日といえば、わが家の紅枝垂れ桜も満開だろう。「そのころの喫茶店は、さぞかし・・・」との思案が頭をよぎった。だが妻は、躊躇せずに了解していた。
ところが夕食時のこと。この日程をカレンダーに記入するように促すと、チョッと妻は混乱した。コンサートを有償で行う以上は、喫茶店は臨時休業にしなければならない、とヤッと気付いたからだ。この時に、音色に惹かれてさまよい込んでもらえた過日の一件を私は思い出した。
キッと道行く多くの人に、耳を傾けていただけるに違いない。これまでのアイトワでは、ピアノ演奏会は1度だが、ギターなどの演奏、賑やかな踊りと歌唱、あるいはオペラ歌唱の催しなどを、夜となく昼となくたびたび開いてきた。それらに、多くの道行く人が興味を抱き、共感してくださった。
当時の思い出や、当日の雰囲気に妻も想いを馳せたようで、また目を細めた。物忘れが進むということも、いいものだなぁ。ほんわかとした雰囲気を醸し出せる人に、私もなりたい。
その後、アリコさんから今年も、昨年の“アリコ ピーターズ レストラン”の番組15周年記念コンサートのメンバーで、開催が決まったとの案内もあった。
4.ある一日は、4つのヒントに学ぶ
京都マラソンがあった16日(日)は、午前と、午後、そして夕刻に1つずつ、加えてこの4日後にもう1つ、16日の午後の1件が派生させた1つの計4つが、様々な学びの機会になった。
まず午前のこと。交通規制が始まる前に、と遠方の大手HCまで昇さんと出かけ、初めて開店前にたどり着いた。駐車場はガラガラで、一帯は静まり返っていた。
1番の入店客でヨカッタ。「この店ならキットある」と、店員にその品に期待する役割を伝えた。願っていた以上の品があるコーナーまで案内してもらえたのだから。
急いで出かけた主たる目的は、前日急に不調になったエンジンソーの修繕だった。そこで、長年使わずに放置していたもう1台の機械と一緒に持参して、いずれかをすぐに使える状態にしてもらい、持ち帰るためであった。この2台は、共にこの店で買った品ではなかったが、修理場に持ち込んだ。
不調の方は、手に取ってもらうなり「これ、部品が壊れてたら、直せないよ」と不機嫌な顔で断りを入れ、しかも「預かって…」と、告げられてしまった。
不機嫌な顔には思い当るフシがあった。カウンターの立看が目に留まっていたからだ。目を立看に配りながら「気がせまいねぇー」と、つぶやいた。この一言がヨカッタようだ。エンジンソーに手をつけてもらえた。分かったことは「触ってはいけない」ところを触っていたようで、チョッと叱られたが、10分ほどで使える状態に戻してもらえた。
2台目は「このメーカーは、もうつぶれて、ないよ」と聞かされた。だが、動いていたものが「放っておいただけで・・・」「それはおかしい」と言わんばかりにガソリンを注入し、コチョコチョッと触り、動かしてもらえた。
修理や点検代を尋ねたが「いらん」との一言が返ってきた。「この修理場が(経営の足を引っ張って)なくなっては困るので」と、詰め寄ったが、誇りを逆なでしかねない、と気付かされ、引き下がった。
次の売り場に移動しながら昇さんに、「よそで買った品物でも、時にはタダで直してもらえるところ」といった噂が流れてほしくない。逆に、修繕代が新品を買うほど高くついても、むしろ「安くついた」と想う人が増えてほしい。ごみを出さずに済む。資源を無駄にせずにすむ。それよりもなによりも、修理代はほとんどが人件費であり、工夫をして汗をかいた人を幸せにする。つまり、地球を傷めず、社会を豊かにする。
このような想いを語らいながら、幾つかの売り場をめぐり、この日の買い物リストをあらかたかなえた。
帰途、二夫婦4人分のケーキを買い求め、昼食を済ませ、予定より早く帰着した。このケーキを買って帰る習慣は、昇さんのオカゲで身に着いた。このHCに初めて昇さんと出かけた日のこと。昇さんは妻から、誕生日だと聴いていたらしい。手ぶらでは帰れない雰囲気にされてしまい、一人でなら照れ臭いが、昇さんと一緒なら、と勇気を出した。
約束の人は志水道男さんとおっしゃる神戸の人で、早めに到着された。先月の東邦レオの創業60周年記念パーティで席が隣同士になり、「父の関係で、ここに・・・」との自己紹介を受けた人だ。恩を受けた人の息子が来賓だったわけで、話が弾み、京都住まいの私と、京都マラソンの警備で京都に出かけるとのご意向が、この約束に結びつけた。また話が弾んだ。
志水さんをお見送りした後のこと。HCでやっと探し当て、買い求めた組み立て式の代物を持ち出し、その部品の1つを取り出した。2週間前に手ごろな値段だとおもい、買い求めたハンディー掃除機にはスタンドがついていなかった。妻は、常備場所を決め、何らかの工夫をすれば・・・と言った。私も何とかなりそうだと思った。だが、わが家では手ごろな部品を探し出せなかった。願う部品を1から手作りしようとすれば、2~3時間は要しそうだし、それだけの達成感を見出せそうな仕事ではなかった。
やっと探し当てた品は、既製の組み立て式スタンドの1つの(ドライバーで取り付ける)部品だった。その部品が欲しいがためにスタンドごと買い求め、残る大部分は「いずれ見事に廃物利用してみせる」と、心に誓った。結果は、なんてことはない、妻はスタンドごとの方が便利そう、と言い出した。
「はめられた」とおもった。このメーカーは、本体とこのスタンドを別売りにすることで割安感を出し、手を出させ、挙句の果てはスタンドまで・・・、との魂胆ではないか、と勘繰ったからだ。
反省させられた。組み立て説明書を見て、そうではないことがわかった。このスタンドは、この手のハンディー掃除機に汎用しうる独立した道具として考案されていた。本体よりはるかに耐用年数が長いわけだから、うまく使い回せば地球に優しいことになる。
この日から、4日が過ぎた午前のこと、志水さんから宅急便が着いた。志水さんのエッセイと、お父上の手記のコピーが入っていた。おかげで志水さんの人柄の所以も、恩返しを息子にさせた父親のありようも、共に十分に理解できた。同時に、その恩返しを息子にした東邦レオの橘さんを「流石は、」とおもった。
次いで、お父上の手記を読み進んだ。「この人は私にとっても恩人であった」と気付かされた。何かにつけ進化が求められる昨今である。とはいえ、大進化ともなれば実践は至難の業だろう。その大進化を橘さんに勧めたが、「言うはやすく、行うは難し」だ。しかも、それを組織的に、ともなれば大課題である。これを容易にかなえさせる、いわば決め手かのごとき実践策の勘所を、志水さんの父親は気付かせた人であった。
5.伐採作業は、クヌギ林の最後の1本から
15日に、昇さん父子を迎え、囲炉裏場の“緑の天蓋”で、2年前まで日陰をつくる役割を果たしていた最後のクヌギを切り取った。これは3年がかりの仕事の仕上げの始まりになった。
まず3年前に、東側(写真では右側)の3本を切り取り、シイタケのホダギに生かすことから手をつけた。そして昨年は、この度切り倒した木の横に張った枝を切り取っている。
これらのクヌギは、60年ほど前に背丈30㎝足らずの苗木を50本ほど植えたうちの1本1本だった。苗木の成長をみはからって間伐し、まず燃料に、次いでシイタケのホダギにも生かし、20年ほど前には10数本にまで減っていた。そこで、背丈を3分の1以下に縮め、畑を日陰にさせないようにした。同時に、枝を横に張らせるように剪定し始めた。ならば、囲炉裏場に従来通りの日陰をつくらせることができる。“緑の天蓋”と呼ぶようになった。
その後、2年に1本とかのペースでクヌギを切り取って、樹種をクルミに代え始めた。 “緑の天蓋”は、年に2日ほど割いて、クヌギとクルミの徒長枝を切り取れば維持できた。
やがてクルミの木が大きく育ち、その実を落とすまでになった。60年がかりの作業であり、加齢(食料危機時代への)対策の一環でもあった。すでに薪は、5年分を超える備蓄をしている。
そこでこの度、丸坊主になった最後のクヌギを、昇さん父子の手で伐採してもらうことにした。この下部はかつてフキ畑であったが、日照がよくなれば再生することだろう。
この間に、もう1つの伐採計画を検討し、思案していた。それはパーキング場の縁で育つ2本の紅枝垂れザクラのことだ。切り取ってしまうことの是非であった。
今は2本だが一昔前までは3本あった。手前の1本は忽然と枯れて、2本になっている。
ここは元は畑であった。パーキング場ができたために畑地が減った。そこで、水耕栽培をもくろみ、温室をつくった。その後、サクラを育て始めている。水耕栽培は2年で様々な問題点を体感しており、高くついたが廃棄に踏み切った。
3本の紅枝垂れサクラは見事に育ち、花のころを愛で始めたのは10年ほど昔からのことだ。そのころは大きな松の木もあった。だがその後、マツ枯れなどでことごとく庭から消えた。
近年は、この2本残った(花のころは2週間足らずの)紅枝垂れザクラは、畑や温室の日陰問題と、サクラに時としてわきかねないケムシ問題で頭痛のタネになっていた。
幸いなことに、道行く人の目に留まりにくいほど背丈が高くなっていた。もう1本、他に紅枝垂れザクラがあって、目立つ位置だし、日当たりがよいし、健在だ。
そのようなわけで、温室の屋根に覆いかぶさっている方の木から、プロの手を借りて切り取ってもらった。
薪にした分は燃料の備蓄場の1つに、昇さんに積み上げてもらった。私はこれまで、急病で4年や5年ほど寝込んでも、と備蓄してきた。それがヨカッタ。物忘れが進む妻にとっては、薪や畑の野菜などがふんだんであれば、心がなごむようだ。
当月は急に冷え込み、薪風呂でかなりの薪を要した。といえども、薪の仮置き場の分が少し減った程度に過ぎない。
6.その他
1、一カ月遅れの新年気分が目的化させた
それは2月7日の予期せぬ朝食から、だった。妻が用意した朝粥は、まるで七草粥だった。既に手をつけていた"基地のオアシス化"に励みが着いた。正確に言えば、半ば曇天が思い付かせた作業を目的かさせた、と言えなくもない。今年の暮れは、必ず妻を庭巡りに誘おう。誘って、二人で、春の七草のありかを見定めておこう。昨年までのように、妻が一人で正月7日の早朝に、七草を摘めるようにしよう、と願った。
どうしたわけか、13日に妻は新しいモチゴメの餅を搗いた。安倍川餅を賞味し、手伝って餅を丸めた。その半分を妻は、シマエナガのジップロックで冷凍にした。
翌朝から幾度かにわたって澄まし雑煮が朝食に、時には昼食に出た。
ある日、いつものように昼時に、隣室で作文中の私を妻が呼んだ。砂糖醤油で味をつけた焼きもちを、海苔でまいてふるまわれた。
2、喜々と手機織機を解体できた
友人にわざわざ分けてもらっていながら、ついに手機織機をまともに生かせなかった。気になっていた。ついに解体する好機に恵まれた。アリコさんのピアノを人形工房に据えるためであった。昇さんの手を煩わせ、解体し、後日離れの倉庫に収納した。
収納し終えた時に、生まれて初めて、なぜか人生の持ち時間は短い、と感じた。
3、今は亡き母を忍んだ
リズさんはこのたび、夫婦して大学教官を退任し、荷物をまとめ、メイン州の故郷に引っ越した。その折に、わが母が彼女に贈ったちぎり絵の短冊が出てきた、と知らせてくれた。
昭和61年といえば1986年。リズさんがわが家にホームステイした年から数えて12年後のことだ。私は勤めていたアパレル会社で建白書まとめに躍起になっていた最中でもあった。リズさんの幾度目かの来日時に母は贈ったのだろう。
その後、資料の整理中に、リズさんをわが家に迎え、半年ほど過ぎた頃の写真も出てきた。とりわけ妻は、日本でのお母さん役をはにかんでいた。当時のサンルームの位置に、今は玄関がある。
4、ブルーベリー畑用防鳥ネットの骨格は、8日の雪でもつぶれなかった
亀岡の有機栽培農家・松実さんにトンネル栽培用の廃材パイプをもらい、養蜂の師匠・志賀さんにわが家まで運んでもらい、電気店の中尾さんにパイプを曲げる道具を借りた。加工と組み立ては、私の設計図に沿って昇さんに受け持ってもらった。それだけに、つぶれずに済んでヨカッタ、と胸をなでおろした。
5、橋本宙八ご夫妻と歓談
久しぶりにお揃いでおみえになり、様々な話題で歓談は弾んだ。2011年の東日本大震災・311で深刻な被災。新拠点を探す道中で立ち寄っていただき、始まった縁だ。その後、主宰される1週間の半断食道場に初参加し、3錠に増えていたワーファリンが不要になった。今も学んだ食事への配慮に加え、Pur Eau水 のおかげだと想うが、血液をサラサラにする薬は不要だ。。
6、障子の張替えを初経験できた
三角部屋の小さな天窓には、半透明のプラスチックが用いられていた。20年余の紫外線が劣化と硬化を進め、パラパラと割れて落下が始まった。これを機に、と東洋紙(半世紀前に韓国の手すき師を訪ねた折に買い求めた)での張替えに挑戦した。
その昔、母はご飯を腐らせたのを機に、黴たご飯で糊をつくり、障子張りに取り組んでいた。
7、巨大な野菜なのに、食感にも大喜び
昇さんは、脱サラ農家から野菜を買い求めている。その人にもらったという2種各2本の苗が、わが家で大きく育った。「おいしそう」と妻の目に映ったようで、その1本を引き抜き、様々に調理した。歯ざわりよし。味もよしだった。
吸い物使った軸の歯触りと味のよさ。お浸しも、澄まし雑煮の具でも、美味しかった。昇さんには食べてもらえなかった。
この苗を植えた当時を振り返った。この数倍は離して植えるべきであった。
8、喫茶店の運営で、妻を補佐することが求められた
恒例の喫茶店仲間の慰労食事会が初めて店内で開かれ、招かれた。この喫茶店開店来39年目の人から、まだ参加して新しい人、家庭の事情で辞めた人も含め、6人が集った。あと2人、よく顔を見る人が欠席だった。
これまでの私は、最も多くので注文を出す“常連さん”であっただけで、運営は一切妻にまかせていた。これからは、私ならではの期待される何かを工夫したい。
9、池田聡子さんの個展
昇さん父子の来訪を機に、石をモチーフに絞った(他に例を私は知らない)作品展に一緒に出掛けた。当月は3度の外出で済んだが、3度ともに昇さんの運転に甘えており、この日はその2度目の外出であった。なぜかこの1点に心惹かれた。
後日、この作品を写真で見直しており、ハートの形であったことに気付かされている。
10、喫茶店の再開に備えて
年2回、各1カ月間の妻の人形創作休暇は、喫茶店のメンテナンスのチャンスでもある。この度は、恒例のアルヴァ・アアルトの椅子のメンテナンスから手をつけ、何年かに1回の Pur Eau 浄水器のフィルター交換、あるいはアイトワの“四季の額”の刷新などにも当たった。
まず、アアルトの家具・artekの椅子の補修。一度は座ってみたい、が学生時代の夢だった。48歳で脱サラし、この夢を果たした。大散財だったが、わが家の贅沢の1つになった。ここで「artekの椅子に座れるなんて、」と言ってくださる来店客が時々ある。
誕生して100年ほど経つのにこのモダンさだ。このありように倣って、100年経ってもモダンな建物を、と願ってヨカッタ。妻のために人形工房を、と母に勧められ、一世一代の事業に手を出したが、唐突に脱サラ記念のごとし、になった。この度も鷲鷹工芸の森さんにお願いして、2種9つの椅子を補修してもらった。同じように見える椅子でも、持病が多い私のような椅子もあって、6回も補修を要している。
次いでホットプレート。安物だけど、使い勝手が良いように、と補修は自ら取り組んだ。サブスイッチをつけたり、コードの長さも調整したり、と世界でたった一つの品に、と遊んだ。
Pur Eau 浄水器のフィルター交換(ろ過率が下がったので)。わが家のあたりでの水道水は6ppm(市街地では8ppm程度)の不純物だった。交換後の検査では、それが0であったのはもちろん、ろ過水の出る量が元に戻った。
Pur Eau 浄水器は、特殊活性フィルターも用いるので、とても粒子が細かくて、身体への吸収率が高いヘキサオキソニウムイオン水になる。とても高くつくが、この浄水器は死ぬまで使い続けたい。これもわが家の贅沢の1つ。
水といえども、2つと同じ水の分子はないはず、と私は想ってきた。しかし、この浄水器に知るまでの私は、水はH2Oの範疇にある、と思い込んでいた。この浄水器に触れ、ヘキサオキソニウムイオン水 の存在を知った。さらにこのたび、他に幾つもの水があることを知って驚き、興味津々になった。
そして、“四季の額”の補正にも当たった。秋の分の下部が、昨夏の冷房の結露水で傷んだままになっていたからだ。
新たな写真を、かつて妻が撮りだめた写真から選び直し、焼いてもらい、昇さんの世話になって刷新し、4つの額が再びそろった。
その後、24日の朝に、雪が深々と降り始めた。この日は池田望さんに、メニューの写真撮影で来てもらう日であった。途中から徒歩でご到着。「まず、池の向こう岸から・・・」と、小倉池に向かわれた。この瞬間の雪景色、降り積もりゆく雪景色の美しさは、生涯で最後になりそう、と感じた。その昔は、こうした雪が降り始めると、嵐山やこの一帯に駆けつける粋者が大勢いた。地元の私は、これまでに2度ばかり立ち会っている。
望さんも、戻ってきて雪を払いながら、同感の印象をお述べだった。後日その写真を引き伸ばしてもらい、妻が撮った額装の雪景色と入れ替えた。後刻、この雪にかすむ写真を見て、妻はガラス磨きをかって出て、「よい写真ね」とつぶやいた。
その間に私は、「たどり着いてくださるお客さん」があれば、と窓越しに眺めていただく情景を連想した。
11、この間に、とても情けないおもいがした
まず15日の読売新聞で、チョット胸を膨らませた。
それだけに、18日の朝日新聞の記事で、わが国家に失望しそうになった。
その後、NHKがBS放送で、あるトランプの発言に触れた。「好機到来」と叫んでしまった。それは、日米安保条約は、アメリカは日本を守らなければならないが、日本はアメリカを守らなくてもよいことになっている、といったような苦言を呈していたからだ。
にもかかわらず、わが国の反応は芳しくなく、恥かしげに受け止めてしまった。
わが学生時代に、同胞学生は60年安保闘争に死に物狂いで取り組んでいた。共感を覚えた。後年、親友から、日米安保条約では、アメリカは日本を守るとは書いてあるが、日本人を守るとは書いてないと聞かされて、得心した。「あの共感は、あの直感は、正しかった」と振り返った。
つまり、日本に置いてあるアメリカの武器や軍人は、アメリカを守るために日本を戦場にして、日本で仮想敵国を食い止めるために日本を死守する算段なのだ、と理解した。
ならばここでトランプに、日米安保条約に代えて日米不可侵条約を結び、アメリカに課している負担をゼロにする、と提案すべきだ。その上で、日本の防衛力増強を不安視するアジア諸国などと、次々と不可侵条約を結んではどうか。そして、核兵器廃絶運動の手動国になり、自衛隊のあらかたを、地球環境の保全や、世界で生じる自然災害救援隊に編成し直してはどうか。この方が、殺人剣を活人剣に改めたサムライニッポンに相応しいし、国の安全保証に結び付くのではないか。
12、爽快な気分と、希望に燃える想いで如月を締めくくれた
朝一番の来客は小木曽さんだった。かねてから構想されていた佐藤一斉を顕彰する記念館が、このたび発足したことを知らせていただいた。この人と岡田さんに教わるまで、佐藤一斉に関して私はまったく不案内だった。そうと知って、出身地の岩村巡りを幾度もご一緒願った。山田方谷の理財論にも心惹かれた。小木曽さんからこの度、古瓦がかくなるリサイクル品として生まれ変わることも教わった。こうした実働を通して、海ごみ問題に取り組まれる姿勢に改めて感服した。
最後の来客は、まさに宿命であったかのごとき光栄な人であった。しかも語らいは、この生き方の大団円を意識させるような方向に進んだ。