目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 友人が杖を要したオカゲで、妻を伴えた
2 “現場力”の集み重ねが“直観力”を磨きそうだ
3 上から目線という言葉が生まれ、真の親切や真剣な深切が消えた
4 “植物Ⅱ”に悲鳴をあげさせたらオ・シ・マ・イ
5 アイトワでの開催は、未来を明るくした
6 “空白の30年”から脱却する日本に!?! など、 その他
“運が強う人”との言葉の謎が、解け始めた
皐月(さつき)は外科病院に駆けつけることで明け、その手術で暮れたような1か月でした。この間に、まず健康上の問題で、多々気付いたり考え込んだりしました。次いで「昇さんの助力がなければ、どうしていたことか」ということも多々生じています。
自然循環型の生き方は人のつながりが、とりわけ相互扶助が必定です。その最も大事な配偶者である妻が、今や幸か不幸か不全です。それだけに、学ばせられることも多かったし、「この生き方を選んでおいてヨカッタ」と、実感させられる機会にも恵まれています。
それは、半世紀余も前の2つの決意のオカゲです。まずこの生き方を覚悟した妻との再婚です。次いで、“生きる理念”と、その根本である“三つの誓い”を見定め、頑なに守ろうとしたことです。しかもこのたびは、これら決意を振り返る機会にも恵まれていたのです。
加えて、半病人のようなカラダでありながら、ココロは平常を保てたことです。日常の営みはそれなりにこなせました。中には、かえって取り組み易かった案件さえあったほどです。「オカゲさまで」と、言ってよいほどよき思い出が、幾つもできたのです。
畑仕事では、除草の面では至らぬ点が多くありました。作付けでも、カボチャを作れませんでした。だが、昇さんのオカゲで、初めて育てるナスやウリに恵まれています。庭仕事は小枝を摘む程度で終わり、焚火もできず仕舞でした。しかし、フミちゃんのオカゲで、妻と一緒に、旧玄関前や母屋の中庭など気になっていた除草ができました。まともに歩きづらくなった私は、メダカの世話に精を出したり、孕んだキンギョに心を配ったり、が出来たのです。大工仕事も、長年の懸案・母が愛用した梯子の新たな収納方式が、昇さんのオカゲで片づきました。次いで、ある化粧仕上げだけでなく、降って沸いたような懸案(身体上の2つの疾患の緩和策)にも取り組んでおり、成果を上げることが出来ました。
食の面では、新記録も。それは人形教室展の最終日でした。昇さんと私の昼食と午後のお茶の用意を妻が割愛したことです。それが嬉しくなるほど賑わったのです。山菜では、遅ればせに採ったウド、あるいは自ら摘んだフキやウコギも妻は活かしました。エンドウ豆は、スナップは5日から、ツタンカーメンは18日から、小量ですが収穫し、味わっています。
これらに加えて、忘れがたいトピックスに多々恵まれました。旧友を交え、妻と出かけた(ヤギの見学を兼ねた)お招き。これは、旧友が杖を頼る身になっていたオカゲです。妻が車を活かすことになり、妻も参加させてもらえたのです。商社時代の部下を迎える案件では、フミちゃんも参加を希望したり、上司冥利につきる感動に恵まれたりしています。他にも、昇さんの車で3つの用件で市街地まで妻と3人で出かけた1日。月記原稿の引継ぎを契機に、知範さんに学んだある撮影技術。土橋一家を迎えたのを機に、久方ぶりに多勢で取り組んだ庭仕事。咲き始めたアザミを好機に、後藤さんに学んだPC技術。アリコさんのレッスンなど。
その上に、わが生き方を見直させる“有難いプロジェクト”に恵まれていますが、その本番のレクチャーに備え、上の2つの決意を読み直したり、下打ち合わせの機会に恵まれたりしたのです。
もちろん、何もかもをいいことずくめであったわけではありません。その典型は、手術を受けることになったクリニックで、背が1.6mを切っており、往年より7㎝以上も縮んでいたことを知った時のことです。「オカゲさま」でとは、年甲斐もなく喜べず、災い転じて福となす、にはできなかったのです。
かくして月末を迎えました。朝食抜きで、昇さんの車でクリニックに出向き、日帰り手術受けることになりました。これから2週間ほどは、自重する手は打ってあるつもりです。
~経過詳細~
1.友人が杖を要したオカゲで、妻を伴えた
ある日のこと。ある念願が何年ぶりかでかなった。それは先月、庭で掘ったとおっしゃるタケノコを、今年も持参ただいたのがキッカケだった。その時に、加藤壽子(やすこ)さんは、近年「ヤギを2頭も飼い始めました」とか、過去に交わしていた約束を「やっとはたせそうです」、すぐさま「千野さんにこの旨をお伝えし、日程などを決めてもらいます」、と言って帰って行かれた。これがことの始まりになった。
千野幹夫さんは、私の旧友だし、壽子さんとの縁をつないでもらった人でもある。私も電話を入れた。杖をつく身になってしまったが「ならば、出かけましょう」と、決まった。
そこで、「ヤギを観に行こう」と、妻を誘った。加えて、千野さんの足の具合を伝えると、嵯峨嵐山駅で迎え「お見送りするまで運転を引き受けます」と、出不精になっていた妻が引き受けた。壽子さんと千野さんを、妻はありありと覚えていたのだ。
壽子さんのお宅は旧家で、有名な造園業の家系だ。今は、後継者の愛息を亡くされ、休眠中だが、壽子さんはアイトワのような自然循環型の時空の創出を願っていらっしゃる。オカゲで、千野さんを通して知りうる仲になれたわけだ。
見事な水鉢は、クリスマスローズが引き立てていた。井戸の手入れも行き届いていたし、のれんの屋号(!?!)は、いかにも謂れ(いわれ)ありげに思われた。
まずヤギとの面会に誘われて、妻は大喜び。妻も私も、子どものころにヤギを飼ったことがある。
新たに“あずまや(東屋)”ができていた。ことここに至る由来が、とりわけうらやましかった。良い話が集まるお方なんだ。
台杉のように仕立てたユスリハの大木。タケノコも湯がく露天の巨釜は見事だった。若き大工さんに便宜をはかったと思われる大きな建屋など、人の賑わいも感じた。
土間を改装した素敵な部屋に案内された。畳の間にも続いており、自炊の逗留も可能だろうし、2階もある。書架は、読みたくなる本であふれんばかり。と思いきや、拙著もあったし、妻の人形教室展の案内ハガキも目についた。そのお心配りに照れくさくなった。
楽しくて、おいしくて、心が膨らむ昼時になった。人さまのお宅に久方ぶりに出かけた妻だが、壽子さんとの会話を随分楽しんでいた。初めて味わう手焼きのパンにも恵まれた。
屋号?かも、と思ったデザインの由緒も伺えた。顔が広いお方だ。
お訪ねしたのは4度目だが、何もかもが新鮮に感じられた。壽子さんの奥行きがさらに深まったように感じられた。近き再会を、と念じた。
2.“現場力”の集み重ねが“直観力”を磨きそうだ
皐月は、2つの大工仕事にケリをつける1カ月にした。1つは、母から引き継いだ木製の梯子を、想うところがあって、収納の仕方を改めることにした。すでに手を着け始めていたが、要する部品が手に入らず、中断していた。
2つ目は、ガスボンベ庫の廂を先月伸ばしたが、その部分的な化粧仕上げであった。
今は亡き母は70数年昔に、梯子を買い求めた。「梯子いらんかねぇ」と頭に乗せて“加茂の振り売り女”が、当時は野中の一軒家のようなわが家に訪れたときのことだ。その人の額の汗と、使い込んだ藍染の絣(かすり)姿が今も瞼に浮かぶ。
母はたらいの前にしゃがみ込んで洗濯をしていた。手を止めて、その年配の女性に、頭から梯子を下ろさせた。梯子が欲しかったのかも知れない。2階で闘病中の父と相談し、買い求めた。
なぜか私は幼心に、その夫は今、腕によりをかけて、次の梯子に取り掛かかっているのだろうな、と想像した。
この時に買い求めた梯子が、ここ何10年来活かされず仕舞いになっていた。ステンレス製の、大量生産されたスライド式の梯子を買ってしまったからだ。
この木製の手作りの梯子を、なぜか最近、心を新たにする方法で収納したくなった。そこで選んだ場所は、野小屋の中を走る通路の、天窓の下に沿わせる方式だった。側には、工業社会が生み出したスライド式のアルミの梯子があるところであった。
そのために要する木材を、まず買い求め、張り付け始めてあった。問題は、梯子を天窓の下に収納するために必要な金具であった。行きつけの2つのHCでは見つけられなかったのだ。
ヤッと当月、昇さんと出かけた3カ所目のHCで、これなら、と視る金具と出会った。昇さんは「幅が狭すぎる」と見たが、「想うところ」があって、買い求めた。
案の定、2cm余狭かった。だがすぐに「案の定」と、もう1度得心し、今度は「オカゲさまで」と心の中で叫んでいる。
それは昇さんの思い付きのオカゲであった。“現場力”(と、私が勝手に呼んできた力)を昇さんが見事に発揮した。金具を取り付ける方角を変えことを思いつき、梯子を吊るすために引っ掛ける部分を変えた。太い支柱に、ではなく、細い踏み桟に変えたオカゲだ。
しかもそれが、願っていた以上の成果に結びつけることになった。チョッと大げさだが、これぞレビー=ストラウスが言うところの“第2の科学”の範疇(はんちゅう)ではないか、と私はほくそ笑んだ次第だ。
この収納の仕方なら、非力になった今の私にでも、梯子を持ち上げてチョッとずらせば、1人で取り出したり、収納し直したりできそうだ。しかも、地震などで梯子がずれても落ちないように、ロープで一か所縛って固定しておくだけでよい。これも1人で操作できる。
出来上がってしまえば簡単なことだが、この梯子の足を掛ける“踏み桟”を金具で引っ掛ける方式を、その時まで思いついてはいなかった。この度も「想うところ」を「案の定」にまで昇華させることができたように感じた。
こうした、現場力が「想うところ」を「案の定」に次々と集積させてゆくことで“直観力”に磨きがかかり、「生きる力」や「生き抜く自信」などを育ませるのではないだろうか。
この「生きる力」や「生き抜く自信」などを育ませる機会に、多々恵まれる人が、運が強い人なのかもしれない。
これも、チョッと大げさだが、アリストテレスが言うところの“もう1つの徳”のオカゲではないか。1つの徳は、教育によって習得できる知性的な徳だが、こちらの徳は机の上では習得できない、と言われる徳ではないだろうか。
なぜか、かく閃いた時に、この庭を一般開放に踏み切った折の“想いの1つ”が脳裏によみがえった。
この庭の解放は、途中で断念している。これも机の上の習得の一環に過ぎないかも、と不安になったからだ。かえって、もてる潜在能力を出させず仕舞にしかねない徳、の範疇で終えさせかねない恐れ、を感じたからだ。
それはともかく、工業社会が(有限の資源を掘り出して工業的に)生み出したコピー(アルミの梯子)の側に、ある夫婦が夫唱婦随で生み出したオリジナル(木製の自然循環型の梯子)を収納することができた。私も、母と父が生み出したオリジナルなんだ。オリジナルらしく、世界で唯一の存在なんだ、と胸を張ろう。
2つ目のテーマは、伸ばした廂の化粧仕上げだった。上の金具を見つけたHCには、この化粧仕上げに用いる木材が揃っていそう、と思って出かけた。長さ1mばかりで2種の(5㎜×3㎝ と 1.5cm角の)木材を買い求めた。これは、いわば手抜きだ。
あとは、既製品のボンド(木材接着剤)、ネジ釘、そしてノコギリやドライバーでも、願ったようなオリジナルに仕上げることができる。
清貧 × 近代科学の産物 = 清豊 にしたい、と私は勤めて来た。
この間に、右下腹部の違和感が、奇妙な痛み、ヒリヒリする感を伴い始めていた。
当初の痛みは、鈍痛でも鋭通でもなかった。妻の質問に、女性には分からないだろうが「キンタマ(睾丸)を蹴り上げられた(時の猛烈は痛さの)後に残る感じ」と応えかけて、止めている。高安先生と電話で相談し、鼠経(そけい)ヘルニアではないか、と伺った。
看取り医と面談の上で、最寄りの外科病院(30年ほど昔に、母が大腸がんの手術を受けた内田病院)を、“お薬手帳”も(足のむくみも気になったので)持参して、訪れた。当時、大変お世話になった院長にはお目にかかれなかったが、期待通りの応対だった。
MRIは、鼠経ヘルニアだと特定した。だが、その外科医は専門ではなかった。しかし、2つの親切にあずかった。
まず、専門医の来院は(連休のために)2週間近く先になる。しかも、心臓に重い病気を抱える「あなたは、用心して大病院に行っては」どうか、との助言であった。
この病院の専門医に診てもらうことにした。ここなら妻が車を駆って、一人でも迷わずに(母の時は、昼時、夕時と、日に2度も3度も見舞ったので)往復できそうだ。
この医師の2つ目の親切は、ケイタイで調べて、鼠経ヘルニア用のサポーターがあることも教えてもらえたことだ。これで10日余を忍べそう。
サポーターをネットで(昇さんの手を借りて)買った。活かし方の工夫が始まった。実は下旬に、失敗学会の1泊2日の研修旅行(ゲスト参加)の予定が入っていた。このサポーターで耐え忍び、決行したかった。
2週間余、後のこと。専門医は、このサポーターを装着した様子に触れるのは初めて、とおっしゃった。この医師にも親切を感じた。
手術は当院で可能だが、入院を要し4~5日かかる。全身麻酔ゆえの万一の用心(心臓での副次問題対策が当院では不可・大手病院での入院)を勧められた。
思案する私(入院となれば妻は見舞いたくなるだろうし、市中の病院では(気が抜けた帰宅時に)道に迷いかねない。心配が残るなど)を見かねてのことだろう。まず、日帰り手術で直す治療法がある、と助言してくださった。次いで、ケイタイで調べ、最寄りにあるクリニックでも行っている、と教えてもらえた。紹介状を求めた。地図などは受付で尋ね、独自判断で決めるように勧められた。
受付に向かう途上で、この病院に来た主たる目的を果たせたような気分になった。なぜなら、今や週に1度しか顔を出さないとの院長と廊下でバッタリ出会えたからだ。しかも先に院長に気付いてもらえたのだから。30年前の礼(この逸話は、拙著で収録したほど)を、改めて述べた。
事務局員には、私が願っていた以上の手を打ってもらえていた。さらに、要望も訊ねてもらえた。クリニックと連絡を取り、予約、当日の問診票から地図に至るまで、必要な資料を取り揃えてもらえた。その背中に、なぜか院長の姿を視たような気がした。
かくして、このクリニックを昇さんの車で訪れることになった。日帰り手術の予定日が、また昇さんの世話になれる月末の土曜日で仮押さえすることになった。
翌朝、この旨を看取り医に報告した。クリニックの求めに応じて、私の病歴を電送してもらうためであった。
この度の手術日決定に至る過程はすべて期待通りに進められたかといえば、そうは行かなかった。2つの例外があった。
まず、このクリニックでの身体検査の折のこと。身長が1m60cmを2mm切っていたことを知らされた時のことだ。「オカゲさまで」とは受け止められなかった。それは、思い当たるフシがあったセイでもある。
昨年、PCの椅子を車付きに替えた。ある日、尻から先に突き出す横着な座り方をして、椅子に逃げられてしまった。“ドスン”と思いっきり尻もちを突いた。幸いなことに、尾骶骨を傷めたときの鋭痛がなかった。
鈍痛を伴う違和感には耐え、自然治癒にまかせた。この尻もち事件も「オカゲさまで」と、学習の機会に活かした。その時から必ず、ひじ掛けを持って座るようになったのだから。
今年の3月のこと。膝の激痛時に、最寄りの外科クリニックでレントゲン写真を撮った。「圧迫骨折せんでよかったなぁ」と医者に慰められた。背骨が曲がっていた。この時も慌てていない。良き体験、ヒトサマに助言できる体験にしよう、と決めている。
にもかかわらず、その時に「シマッタ」と、振り返ったことがある。思い当たるフシがあったからだ。ドスンの翌朝のこと。恒例の朝の挨拶“背伸ばし抱擁”を妻と交わした時のことだ。「また背が縮みましたね」と指摘された。背をなぜか伸ばし難く感じていたので、妻には「姿勢が悪いせいだ」で得心させた。
今にして思えば、悔やまれる。あの時に再開しておれば「どうなっていたことか」、と反省すべきことがあるからだ。だが、その時は実行する気にはとうていなれなかった。
わが家には「あの時から使っておけばヨカッタ」とおもうドイツ製の機器がある。両の足首を踏み台に固定して、1人で操作して“でんぐり返る”ことができる機器だ。
背骨の湾曲をレントゲンで知るまでの間のこと。長い間この機器を遊ばせていた。その後、使い始めたが、「アレレ・・・」と思ったことがあった。でんぐり返りにくくなっていたのだ。逆に、戻るときはバタン、と戻ってしまう。
原因は察しがついた。それは、妻に使わせた時に確信になった。妻も姿勢が悪くなり、以前のように1人では操作ができず、私が補佐してでんぐり返らせなければならなくなっていたからだ。いわば斜め縦型のシーソーの原理だから、重心が下がっていたことになる。
折よく、と言ってよいのだろうか。鼠経ヘルニアが発症した。寝そべると、はみだしかけた腸が勝手に元に戻る。でんぐり返ればもっと円滑に戻る、はずだ。
この機器を活用することにした。歪んだ背骨にかかるストレスを減らすだけでなく、ヘルニア対策にも有効であるに違いない。そこで、まず機器の“足を乗せる台”の位置を、重心を上部に移すために10㎝ほど上げることにした。
案の定、機器への乗り降りが途端に容易になった。この踏み台を添える大工仕事が、第3のテーマであった。既製品の木製の踏み台を活かし、機器に装着するための細部仕上げは昇さんに引き受けてもらった。
残るもう1つの例外は、鼠経ヘルニア用のサポーターを使うようになってから始まった奇妙な痛み、ヒリヒリする感じを伴い始めたことだ。鼠経部はおもっていた以上に皮膚が弱い。
これは、結果的にだが、「オカゲさまで」に結び付けることになる。
3.上から目線という言葉が生まれ、真の親切や真剣な深切が消えた
商社時代の後輩、秋山さんは、約束時刻より早く到着した。だから、「10分ほど先に」着いて「一緒に秋山さんを迎えましょう」と言っていたフミちゃんが逆に、後輩の後になった。
秋山さんは、フミちゃんの退社時に送別の食事をおごったようだ。だから、彼の来訪を知った時に、フミちゃんは「あの時の礼を述べて、すぐにお暇(いとま)します」と言っていた。だが、話題が尽きず、よき語らいの時間になった。
秋山さんを迎える上では、実はとても有難いことが(今年の)母の日に生じていた。いつも母の日に贈り物を妻に下さるお一人(アイトワで結婚披露宴を開いてくださった加藤ご夫婦)が、この度は1冊の書籍を選んでくださったからだ。それが色彩の調和に関わる書籍であった。
妻は大喜びした。私も後輩を迎える日が近づいていたので、この上なく嬉しかった。なぜなら、この後輩は、訳あって、色彩調和に関して、チョッとした偉業を成し遂げていたからだ。
実は、秋山さんは、部下を持てるようになった私にとって、最初に受け入れた“修士生”であった。しかも、修士研究にスペインのアントニオ・ガウディを選んでいた。ガウディは、スペインのカタルーニャ出身で、“自然の摂理を尊ぶ”建築家であった。アール・ヌーヴォー期のバルセロナを中心に活動している。後年のこと(1984年)だが、そのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)やグエル公園(1900 - 1914年)などの彼の作品群は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
そこで秋山さんを“打たれ強い人”と見込んで、いわゆるフィップ (鞭) ボーイに選んだ。毎日のように、「秋山君」と呼びつけて、叱ることになった。もちろん他の人も叱った。だが、同じような過ちをした人が他にあっても、彼をいわば鞭の打たれ役 (フィップボーイ)にすることが多かった。打たれ弱い人を叱らず、秋山さんに引き受けてもらい、叱り甲斐のなさそうな人を震え上がらせた。
だからだろう、後年知ったことだが、私は陰で“怒りキントキ”なるニックネームを頂戴していたらしい。
フィップボーイの話はイギリスの(確かイートンにあった)由緒ある木造の小学校(壁面には鞭があった)で聞いた。とりわけ高貴な身分の学童を抱えた教室では、その身代わりとして叱られる役回りを選んだようだ。たとえば王子と同じようないたずらを、その身代わりがするとすかさずにむち打ち、王子を震え上がらせる、など。
いつしか秘書から、私は疑問の声を聴かされた。彼の真価を疑問視する声であった。あれほど叱られることが多い人だから、とでもいった意外な評価が部門内に漂っていたようだ。そうと知って、急いで秋山さんに与えたテーマがあった。
通常業務のかたわら、半期間で仕上げる課題であった。色彩調和理論をいわば視覚化する作業であり、かねてから現実化したかった代物の創出であった。彼は興味を示した。期限内に彼は『カラーハーモニースケール』と名付けた手動の機器を完成させた。
色彩調和理論は、和音や文法と同様に、もちろん後付けだろう。その理論に従えば、美的センスに劣った人でも、大勢の人が「いいね」と太鼓判を押す、あるいは共感する色の組み合わせを可能にする、ということになる。
『カラーハーモニースケール』の完成後、例えば平安時代の人たちが好んでいた衣裳の配色と、この機器がはじき出す配色とを照らし合わすなどして痛く感激したものだ。
同様に当時の、伊勢丹百貨店の4色使いのタータン柄のショッピンバッグが、『カラーハーモニースケール』(色彩調和理論)が示す4色調和とピッタリであったことを知って、感心させられている。
母の日に妻がもらった書籍ではパリの夕暮れ時の色彩なども紹介していた。こうした書籍でセンスを養うのもよいだろう。
大勢の人が長きにわたり得心してきた世界の国旗や民族衣装でも学ぶことができる。
そうしたデーターなどから『カラーハーモニースケール』の元となった色彩調和理論を生み出したのだろう。
フミちゃんを見送った後、2人は人形ギャラリーに場を移し、話は尽きなかった。
彼が研究テーマに選んだアントニオ・ガウディと同様に、学生時代の私はイギリスが生んだウイリアム・モリスに心惹かれていた。モリスも自然の摂理を尊んだ人だが、モリスが好んだ配色は、ガウディと違い、いわゆる地味であった。だが、この2人には共通点があった。だからその共通点が当時は、私には謎のようにおもわれていた。
やがてその謎が解けた。社会人になってから余暇時間の多くを、自然の一部であるかのような錯覚に陥る時空、今日に至るアイトワの時空で過ごすようになったからだ。荒れ地に、一から種や苗から様々な植物を育て、いわば勝手に(枯れるものは消え、はびこるものは栄え)出来上がってゆく庭で、朝から晩まで、年がら年中暮らせたオカゲかもしれない。
統一性や個別性に奇妙な法則が潜んでいそうだ、と気づかされ始めた。
花の色が青みをおびていたら、青みを帯びるなど。逆に、黄味をおび始めたら、葉も黄味がかってゆく。植物に意志があるかの如くに花や葉の色を微妙に調和させる。これも自然の法則だろうか、と不思議な気持ちにされてしまう。
その目で視たら、工業国では逆に、次第に不自然を志向を(たとえば自然界にはない直線や平面などを多用するなど)して来たきらいがある。自然は2つと同じものは生み出さないのに、工業社会は寸分たがわぬコピー(複製品)を大量生産し、人間(寸分たがわぬ人は二人としていない)に慣れ親しませてきた。
その度合いと歩調をあわせるようにして、人々の意識は自然疎外に走り、ごみを増やし、挙句の果ては人間疎外や地球温暖化に悩まされている。
しかも、人間を自働車で例えれば、アクセルばかりに力点を置いて、ブレーキを忘れたような方向に誘っていた。
唐突に、彼との対話は、思わぬ方向に進むことになった。それは彼が「ボクには、森さんに叱られた覚えがないんですけど」と述べたからだ。意外であった。
それは近年になって、嘆いていたことがあったからだ。いわゆるハラスメント騒ぎ(確かセクシャルハラスメントから始まったと記憶する)のセイである。サラリーマン時代を振り返り、今なら“パワハラ”問題になっていたに違いない、と昨今の風潮を嘆いた。
そのオカゲだろう。当時のことだが、「親切、深切」との題でエッセイも記している。
その後、なぜか世間では“上から目線”という言葉を流行り、真の“親切”や真剣な“深切”が控えられるようになった。
「叱られた覚えがない」との彼の発言が思い出させたことがあった。商社で仕えた幾人目かの上司のことだ。ことのほか私の提案書や出張報告書の点検が厳しかった。幾度となく書き直させられた。多くの人が「また、しごかれたな」と同情した。私は逆に、その都度言い知れぬ喜びに駆られていた。その都度、訴えたかったことが文字になっていったのだから。「これが、私の言いたかったことです」といって、「初めから、こう書いておけ」とまた注意された。
また、思い出したことがあった。“コットンハウスプロジェクト”と呼ぶエコヴィレッジ構想でのブレーンストーミングであった。当時は合成繊維が華やかなりし頃で、天然繊維の地位が下がり、“綿”が下級な繊維のごとき扱いを受けたいた。
喧々諤々になった。エコヴィレッジの神髄や本質を述べても、多くの部下が、使い捨て志向を前提にした工業社会賛歌から、つまり“消費は美徳”意識から脱却できず、私はしびれを切らせた。いわゆる今なら“パワハラ”発言を始めてしまった。その時のことだ。「森さん、森さん」と呼びかけた上で、「毎夜、月夜とは限りませんよ」と水を差した男がいた
怒りキントキとのニックネームを考えた佐藤さんであった。オカゲで、我ながらチョッと熱くなり過ぎたかも、と気づかされ「脅すナ」、と言ってトーンをトーンを下げた。この男も、私が辞めてからかなり後のことだが、途中退社して、なぜかマッサージ師になっている。
上司冥利の極地に立たせてもらえたような心境で、秋山さんを見送った。
夕食時に思い出したことがあった。秋山さんは、退職後に時々便りをくれるようになっていた。1通目は、確か定年退職の挨拶だった。慈愛に満ちた指導のおかげでここに至った、と記されていた。雅号を決め、これから念願のスケッチ放浪を始める、と続いていた。
ハガキが一葉残っていた。年毎の“気に入ったデザインの年賀状”の一葉として、残していた中にあった。
その後、欧州やアジアを旅して、1000枚の絵を為した折に『路地の愉悦 水辺の至福』なる一著をなし、贈ってもらえた。路次健との雅号は、この度、蕪村の一句から、と知った。“ 桃源の 露次の細さよ 冬ごもり ”
彼は、叱られていることに、ではなく、なぜ叱られているのか、に関心を集中していたのだろう。
翌朝は、4時半ごろからホトトギが鳴いた。亡き父が「テッペンハゲタカと、おちょくりよる」と嘆いた鳥だ。5時15分ごろからウグイスも鳴いた。早晩、この“谷渡り”が始まることだろう。隣の床では、妻が寝息を立てていた。
あの喧々諤々がキッカケで、妻になっ人だ。エコヴィレッジの構想に対して、「その気になればなんだってできるはず」との想いを示した人だった。やがて傲慢な講釈を述べた上で、再婚に踏み切ることになる。
当時は、国際線飛行機のハイジャックが流行っていた。海外出張が多い私だった。だからだろう、すぐさま、結婚間なしにムチ打った言葉も覚えている。
4.“植物Ⅱ”に悲鳴をあげさせたらオ・シ・マ・イ
土橋ファミリーから、久しぶりに庭仕事に参加したい、との知らせがあった。昇さんが参加予定の土曜日だった。急ぎフミちゃんに電話を入れた。フミちゃんにも参加してもらえることになった。これで近頃の庭仕事の常連が7人ともに揃うことになった。
この日は様々な作業に手分けして当たった。多々収穫があった。その私が願った第一は、奏太君の“未来”のこと。この未来を明るくしたい、だった。
誰かが「未来は2つある」と語っていた。“願望の未来”と“必然の未来”である。このところ、ウクライナやパレスチナなどでは、願望の未来を無我夢中で追い求め、地球の未来などどこ吹く風、の世界になっているように私の目には映る。
やがてその願望は破綻する。破綻を認めあわずに深追いすれば、世界が、場合によっては地球が、無茶苦茶になりかねない。
世界が無茶苦茶になるだけで収まれば、人類は“2度目の中世”を迎えるようなことになるだろう。地球が無茶苦茶なことなってしまったら、地球は幾度目かの“生物大量絶滅期”を迎えるに違いない。その時はキット、植物が悲鳴を上げる時だろう。
妄想だが、今日の植物は、私の目には“植物Ⅱ”に映っている。つまり、地球に酸素がなかったころに誕生し、石炭紀を謳歌した植物を“植物Ⅰ”と感じた折に、ⅠとⅡに大別した。
“植物Ⅰ”はやがて退化した。おそらく、地球大気の酸素(植物Ⅰにとっては毒ガス)濃度を、自ら上げ過ぎたからだろう。動物が出現し、中和する(近年までの、つまり工業文明発祥以前の大気になる)まで待てなかったに違いない。
このまま人類が願望の未来を追い続けていたら、“植物Ⅱ”もその逆の理屈で似た運命をたどるのではないか。そうと目で観て解った(バタバタ枯れ始めた)時では手遅れだろう。なんとかして人間は、生き方を改め、植物Ⅱを栄え続けさせないといけない。
かつてこの私には、こうした妄想に苦しんだ覚えがある。1973年の、ある日のことだ。ロンドンからの帰途の機上で、ふと費やし始めた10時間であった。それが“3つの誓い”を想い付かせた。帰宅後、手作りの額に収めた。この“3つの誓い”は、1986年にはアイトワの理念になった。喫茶店の一角で表示した。
失敗や失策と、反省や後悔の日々が始まった。オカゲで、私なりに必然の未来を追い求め始めていた。少なくとも、私生活では「あれがヨカッタ」と、この“3つの誓い”になんとか忠実に生きようとしたのがヨカッタと、振り返っている。
物忘れが進むにつれて、とりわけ妻にはこの時空がパラダイスになっている。今朝も、新聞を取りに出たついでに、数分の寄り道をしたようだ。「こんなお花や野菜を、好きに摘まめるところって、他にあるかしら」と、その腕を私の目の前に突き出した。
このように実感(ひょっとすれば錯覚)させる庭で、奏太君には何かをつかんでもらいたい。せめてそう感じてほしい。今の世の中(コピーだらけ)は何かがオカシイ。こんな社会(コピーの大量消費を豊と感じる生き方)はオカシイ。もっと良い社会がある、と感じてほしい。
問題は、こうしたモノやコトを、お金で手に入れようとした途端におかしくなる。お金の奴隷にされたり、嫉妬の鬼にされたり、いじめやいじわるがしたくなったりと、目に見えない何かに絡まれてしまう。ドミノ倒しのように悪いクジを引き始めてしまう。
奏太君には、額に汗して一生懸命に働く両親の姿を、肌で受け止めてもらいたかった。6人の大人が銘々の作業に勤しみながら、黙々と心を一つにさせている周波数に、彼の心や肌のバリコンを合わせてほしい、と願った。こうした周波数に合うバリコンを心に備えてほしい。必然の未来に心を馳せてもらいた。
父親の健一さんには、囲炉裏場の側溝に溜まった数年分の腐葉土を掃除してもらった。母親の佳代さんは、野小屋の周りに積もっていた落ち葉の掃除に取り組んだ。この落ち葉は腐葉土小屋で、いずれ腐葉土になる。
これらの腐葉土は畑で、いずれはトマトやレタスなどを太らせる。こうし自然の流れや仕組みを、奏太君には、その心のひだや魂の奥底に焼き付けて、奏太君の独自の想いを育み始めてほしい。その1日にしてほしい。
ちょうど、その時だった。奏太君が取り出して来て、私に示したものがある。前回、奏太君が来てくれた時に、この庭に来る資格を身に着けるように、と命じた。その約束(来訪時に、感じたり想ったりしたことを文字や絵で収録する)を、彼は果たしていた。
フミちゃんは除草や草刈りに当たり、昇さんは、かつて倒したクヌギをエンジンソーで玉切りしたり、ジャガイモのマルチングに取り組んだりした。
奏太君は、父親が側溝から取り出した長い竹の根を、しげしげと眺めていた。
5.アイトワでの開催は、未来を明るくした
人形教室展は、第25回目にして初めてアイトワを会場にした。そうと決めたのは1年半ほど前のことだが、結果としてみれば、とても有難い時期に、幸運な判断を下していたことになる。アイトワが会場であれば、これからも当分、人形教室展を開催できそうだ。ならば、これまでとは異なるアイデアが次々と飛び出す教室展になるかもしれない。
まず前日のこと。岐阜にお住いで、私より数歳高齢の内山英一さんが、夕刻に立ち寄ってくださった。杖もつかず、奥様をなくされてから自炊をなさっている。大阪での国宝展や上村松園展を訪れた帰途だった。その審美心に感心し、元気をいただいた。
教室展の飾りつけを、妻が終えたばかりだと知って、覗いてくださることになった。展示場へ向かった。近道の急な階段を避け、一旦門扉まで緩やかなスロープを下ることにした。その道すがらで、木陰に隠れるように潜む数体の人形と目が合った。
これが、未だかつて妻が関わる人形展示会の準備に立ち会ったことがない私にとって、開会前の人形と触れあう初めての体験になった。
門扉前で2人は身を転じ、展示会場にもなったテラスを目指して石階段(65歳で退職し、丸太の階段から石に、妻と2人で改め始めた)の緩やかな道を登ろうとした。その時に、木陰から3体の農婦の人形が目に飛び込んできた。
テラスや会場に踏み込んだ内山さんは、とても熱心にご覧になった。その目線を追った。
内山さんは名残惜しみながら帰って行かれた。以前の妻なら、泊っていただきたかったに違いない。やむなく、妻の運転で最寄り駅までお送りした。
戻ってきて、門扉を閉じながら「万が一、雨が・・・」と気になることがあった。夕食の後、ヘッドランプをかざしてビーチパラソルを持ち出した。
気休めの一汗をかき、戻ってきて、床にもぐり込みながら、思い出したり、反省したりしたことがある。まず、今は亡き冨美雄さんが植えたシャクヤクが、今年も咲いて咲いていたことを思い出した。
反省は、どうして妻の人形展に手出しをしてしまったのか、だった。これまでは、個展であれ、会期に入ってから見学するだけにとどめてきた。
同時に、あるキャンセルを振り返り、胸をなでおろした。実は翌朝から、失敗学会の1泊2日の勉強会に、オブザーバー参加させてもらうことになっていた。だが鼠経ヘルニアで、ベルトを締め過ぎたセイか、皮膚が荒れたような苦痛が伴うようになり、断念していた。
この断念は3日前に下していた。その時はまだ「オカゲさまで」にまでは結び付くとは思っていない。
予報通りに翌23日は晴れで明けた。新聞を取りに出たついでに取り越し苦労のビーチパラソルを片付けた。
その後、昇さんを迎えた。畑で要望する作業を指さしながら伝えた。そこで、昇さんに追い立てられ、PC作業で過ごす1日になった。ところが妻から、内線で次つぎと声がかかった。その最初は妻の友人の「戸石さんがおみえです」だった。
工房棟に(本例なら、今頃は和歌山駅で集合、などと考えながら)降りてゆくと、階段下のテーブルで、まず花々に出迎えられた。その1つは、今は亡き友人の奥さん(妻の生徒さんで長患い中)から、であった。
戸石さんは、数日前に花を届けて下さった。チャイムで私がそうと知ったが、飛び出せなかった。お礼の一言も述べられず仕舞になっていた。
この日は無理やりお願いして、写真嫌いの彼女に、ヤッと一緒に納まってもらえた。
30年ぶりに再会がかなった人もあった。喫茶店の開店当初のころ、店の運営仲間のお一人だった。ご子息には、アイトワの店頭を、母親と恋人を引き合わせる場に選んでもらえた。その後、一家は転居された。「息子は、もう60歳です」と伺った。
さちよさんにも茨城から、京都で勉学中の友人と落ち合って、駆けつけてもらえた。立派な花を先に贈ってもらえていた。来訪は無理、と思っていただけに嬉しかった。この人には『次の生き方・PartⅡ』にも参加してもらったし、ハーブのエキスパートだ。
夜、無事帰宅を知らせてもらえた。私たち2人のスナップ写真が添えてもらえていた。
なぜかこの日は、宙を飛んでいる人形や、何かを見上げている2人、あるいは生徒さんたちのくつろぐ姿(来場者がとだえた一瞬だった)に触れ、無性に「妻は幸せ者だ」との感謝の気持ちが沸き上がった。
無事に初日を終え、教室の皆さんはめいめいの家路につかれた。明日は予報通りに昼頃から雨、を追認した。「雨になれば引き上げます」と聞いていた3体の農婦が(防水加工済みとも聞いていたが)なぜか気になった。雨になっても「引き上げさせたくない」との勝手な想いで、“ハッピーのパラソル(背丈を低くした)”を持ち出して、強行した。
夕食後のこと、もう一つ(万一朝から雨になったらと心配になり、妻に叱られたが)強行したことがある。タマネギの収穫(土が乾いている間に済ますこと)であった。サルのセイで収穫量が、期待の4分の1になっていただけに強行したかった。
2日目が明けた。サル除けの電柵スイッチを入れに行くと、アイトワ菜が大きく育っていた。このままでは、肝心のオクラを日陰にして、台無しにしかねない。
温室では、鉢に自然生えしたハハコグサ(春の七草の1)が種を落とさんばかりになっていた。摘み取った。
畑ではサラダ菜がまた成長し、込み合っていた。
それぞれに役割を与えたくなった。ハハコグサは摘みやすいところで種を落とさせたい。サラダ菜には脇芽を吹かさせたい。
9時に昇さんを迎えた。展示会場には10時過ぎに、さりげなく顔を出した。
テラスでは、立ち話をしていたお一人が、顔が合うなり礼を言ってくださった。“3人の農婦”を生み出した作家であった。差し出がましいことをしたのでは、と思わぬでもなかった私は、胸をなでおろした。一緒に写真に納まっていただけた。
雨は予報通り、昼からと知った。ならば、と昇さんに“種を採るアイトワ菜”に防鳥袋を被せることから手をつけてもらった。私は水鉢で一人卵を孕んだキンギョを網で掬い取り、結婚相手がいそうな大水槽へ移住させた。代わりに2匹の若いキンギョをボウフラ退治の役目をおわせて大水槽からその水鉢に移した。。
さらに、大水槽には、産卵ベッドになる水草の小鉢を、妻の意見も聞いて沈めた。
雨が降り出すと、昇さんには2つの懸案(つぶれたプラスチック製箕のFRP加工と、第2洗濯機のホースの保全と雑巾かけの取り付け)並びに、魚掬い用の網を柿渋で補強する作業に当たってもらった。第2洗濯機では、私の野良着やハッピーのバスタオルなどを洗う。
FRP加工は、訳あってアイトワに来ていた仏教大生(皆さん、土をできるだけたくさん積んで運ぼうとして、破いてしまう)に学んだもらうために、この加工に要するガラス繊維の生地や薬剤(この対価でプラスチック製箕が幾つも買える)を買い求めてあった。思い出の品にし合いたかった。その教材(廃棄物抑制策)として昇さんで生かした。
展示会には大勢の方々に訪ねていただいたようだが、私の呼び出しはなかった。
最終日は雨が上がっていた。嬉しい呼び出しが続いた。朝一番は長津親方がご家族で、親方手作りのバラなどの枝などを切るノコをいただいた。
四国から通っていた(妻と同姓同名の)元生徒さんに、日帰りで訪ねてもらえた。彼女にはこれまでに泊ってもらうことが幾度もあった。妻は掃除や料理のお手伝いのしてもらう。ハッピーはかわいがってもらう関係だ。この度は、二回り大きいハリネズミ(噛んで遊ぶおもちゃ)をもらった。
その昔、顧問をさせていただいていた会社の会長で、妻が私淑する中山正子さんは奈良から訪ねて下さった。池田さんにはウクレレを奏でてもらえた。
その後、白砂先生のご夫人や、山口美代さん(商社時代にできた今は亡き親友のご夫人)をはじめ、フミちゃん、久保田さん、などと続いた。
橋本宙八さんの末娘・朋香さんには、その姉の子どもたちだけでなく、お腹の子ども連れで訪ねてもらえた。折悪しく、鼠経部の不具合が限界だった(専用ベルトを外さざるをえなくなっていた)ので、子どもたち一人ひとりとハグは出来なかった。
この度の会場でも、生徒さんたちの個性や想いがそのまま色や形になっていたように感じた。とても楽しかったし、嬉しかった。
皆さんも、のびやかにしていらっしゃった。
有難いことに、池田さんには、そのすべてを収録していただけた。ともかく私は、それぞれの人は、秘め持って生まれたその人固有の何かをお持ちだ、と信じている。その何かが何らかの拍子で、各人が自覚出来たら、が夢だ。
だからだろうか、皆さんがおつくりになったこの度のポスターを見直して、得心した。
6.その他、“空白の30年”から脱却できる日本に!?!
1、OKAは手ぶらでやってくる
敬愛する児童文学作家の今関信子先生から映画の案内があった。2003年に『地雷の村で「寺子屋」づくり』(PHP)で栗本英世さん(愛称OKA、2022年71歳で逝去)のボランティア活動を紹介された。
モノを、いわんやお金を恵んでもらわずとも生きて行ける力が大事。この能力を身に着けることが第一。そう考える私はOKAの活動にづとても心惹かれた。
もちろん、辺境の地の少数民族が、地球温暖化に伴う自然災害に見舞われたりした折は、立ち直るまでのモノやお金の支援は大事だろう。あるいは・・・などと考え始めた私は、OKAが子どもを対象とした教育を、寺子屋風で始めたことに大いなる共感を覚えた。急ぎ、アイトワのHPでも紹介した。
https://www.haising.jp/movie-1/
2、運転免許と、市街に出かけた3つの案件
かつて私は75歳の時に、妻だけでなく、2人のアイトワ塾生にも強く勧められて、運転免許を返上した。 76歳になった妻は「更新できそうにない」と言わずに「取らない」とむずかっていた。そこで、昇さんになだめてもらった。オカゲで妻は無事に更新できて、自信を深めた。
このたび、この免許証引き取りを兼ねて、“大谷探検隊と吉川小一郎”展と、市民講座“花粉症治療の最前線”をはしごした。
妻の運転は、行きつけの店、最寄りの駅、あるいは、かかりつけ医に限らせよう、などと考えている。
3、“空白の30年”から脱却できる日本に!?!
皐月は、5本の嬉しい新聞記事と出会った。まず、5日の朝。2紙が載せた各1本の記事で胸が躍った。朝日新聞は1面で、安達峰一郎を取り上げた。かつて日本は、真の一等国たる地位を、短期間だが有していた。その様子は、当月記3月分で振り返っている。安達峰一郎はその地位に値する役目を担い、見事に重責を果たした人だ。
にもかかわらず、教科書で私は安達峰一郎を教わった記憶がなく、とても残念に思っている
5日のもう1本の記事は最後に回したい。
10日の朝も、2紙が載せた各1本の新聞記事で胸が膨らんだ。まず、京都新聞がスポーツ面で野茂英雄を取り上げた。1995年のアメリカでの体験を、ありありと思い出した。1著を仕上げたくて、2度の取材旅行で訪れたアメリカだった。アメリカでは、プロ野球は労使関係が悪化し、低迷していた。野茂の登場が、その復活の起爆剤の感があった。アメリカ人の日本観は「野茂を産んだ国」かのごとき捉え方で、熱気を帯びていた。
それまでのような、経済面での Japan as No.1 かのごとき捉え方(世界の銀行トップ10のうち、確か7行が日本の銀行だった。わが財界(もはや欧米に学ぶことなし、と豪語していた)を見る目は、化けの皮が剥げれたかのように冷めていた。
それだけに共同通信のこの野茂の捉え方と、この記事を大きく取り上げた京都新聞に共感を覚えた。
この日の2本目は、朝日新聞の「東大×東京芸大=?」だった。この「?」は、わが国の「失われた30年から復興する体質転換の兆」つまり、ムーブメントの喚起であろう、と感じた。ならば、夢が描ける。
となると、欲を言えば、せめて「アートやデザインをキーワードに」と、しておいてほしかった。もっと欲を言えば、「グリーンデザイン(デザインがつぶしたものをあがなうデザイン)やアートをキーワードに」であってほしい。
4本目は、26日の朝日新聞が、1面トップに選んだドイツの様子「町長になったボート難民」であった。メルケル時代の後は、反移民の声がかまびすしい。ドイツは今や、属性で差別さえしかねない恐れがある国になったのではないか、と心配していた。
それだけに、この属性に左右されないドイツ人のありようを示す具体例、と観て注目し、安堵もした。今や“国益ではなく、地球益を唱え”、世界を誘おうとする国が渇望されている。
以上4本の記事に、ある通底するある要素を私は見出している。空白の30年から日本が脱し、この通底する要素(再興する上で不可欠、と睨んでいる)で満ち溢れた国になっていることを願っている。
30年ほど前にも、これにチョット似たような想いにかられたことがあった。その折は、このままでは産業界が低迷しかねない、と心配になり、いたたまれなくなった。
1995年の2度のアメリカ取材は、この想いが決行させ、一著を仕上げさせた。その「あとがき」では、その想いの主要な一端・意識の転換の大事さ、から記し始めている。
新聞の記事で、後回しにした5日分のもう1本は、次の取材記事であった。先月5日のアイトワでのアリコさんのコンサートを取り上げていただけた京都新聞の記事で、誠にありがたい紹介であった。
彼女も、見事なる風や小鳥とのセッションであった。そこで、一昨年の「真砂秀朗コンサート」(風や小鳥と見事なるセッションを収録)と同様に許可を得て、アイトワのHPに収録させていただいた。(共に池田望さんが収録)
https://aightowa.jpn.org/250405arico.html
4、アザミが思い出のトリガーになりそう
今年もアザミのオカゲで後藤さんに会えた。今は亡き彼の母親は、幾度かわが家におみえになったが、アザミがお好きだった。そうと知ってから今日まで、亡くられてからは霊前にだが、後藤さんが取りに来て届けてもらってきた。
彼は、私が後期高齢者になった時に免許の返上を強く勧めた1人だ。「府内や市内ならいつでも車で案内する」と言ってもらえていた。だが彼は今年、死にかねない病に陥った。それを機に車をやめ、この日は初めてアイトワに敬老バスと徒歩でお越しだった。
今年は、奇妙なアザミが庭で咲いたことを(居間に持ち込んだ)妻に教えられた年になった。
今年はまた、妻の健忘症に気付かされたり、鼠経ヘルニアに悩まされたり、あるいは人形展をアイトワで開いたりした年でもある。今年は何かにつけて、あのアザミが咲いた年だった、などとアザミが思い出のトリガーになりそうだ。
5、メリーランドから元気の素が頂いた
初めて訪れた異国の地で、心に強く焼き込んで持ち帰る思い出は様々だ。そうした思い出の幾つかをヒントにして、アイトワは喫茶店を開いたような一面がある。
人形教室の茶話室を「喫茶店に改装して・・・」との声が上がった時に、私が妻に付けた許可条件はそれらの思い出に基づいていた。それだけに、この度の4人連名の知らせにもとても励まされた。
Hello,
To the owner of the Aightowa Doll Studio and Cafe Bistro, Sayoko Mori.
We very much enjoyed meeting you and briefly talking with you as we randomly reached your home at closing time.
We are back to our homes now in Maryland, USA.
Our brief time with you made a very memorable experience to our first trip to Japan!
Thank you!!
6、鬼丸・門村夫妻のマルチハビテーションは健在だった
このお2人に創ってもらったNHK-TVの番組(2005年5月の『生活ホットモーニング「森のある暮らし」』ⅠとⅡ)を、近く用いる研修会がある。それだけに、とても話が弾んだ。
お2人はその後、首都圏と、郊外の農地でのマルチハビテーション生活を始め、お子さんにも恵まれた。「息子は北大の農学部に進んだ」と聞かせてもらえた。茶園はさらに広がり、その技術はセミプロを超えたようで、茶農家にならんとする勢いだった。元気を頂いた。
実は、北大農学部は私の憧れだった。わが家の経済力が許せば挑戦し、恵迪寮のジャンプ大会(2階の窓から丸裸で、積もった雪の上に飛び降りる)にも挑みたかった。
7、橋本宙也さんに“梅生(うめしょう)クズ”を学んだ
「いわきを訪れた帰途だ」と言って、立ち寄っていただけた。福島原発事故がキッカケで私たちは結ばれた縁だ。この人の半断食施術とその教えのオカゲデで、私は3錠に増えていたワーファリン(血をサラサラにする薬)が不要となり、第2日赤病院を(今、怪我をしたら死んでしまいます、と)慌てさせた。今もいらない体を保っている。
この度はおそらく娘の朋香さんに、私が右の下腹に手を当てて抑えたありさまを耳にされて、駆けつけてもらえたのだろう。
胃腸を引き締める食療法を学んだ。確か西洋医学の祖は、「食べ物で治せない病気は、医者でも治せない」とか、「病気は食事療法と運動によって治療できる」などと、食べ物や飲み物と、運動のありようが治療のすべてだ、と語っていたように記憶する。
さらなる元気を頂いた。
8、皐月の、その他のトピックス
加藤壽子さんに頂いたタケノコ料理をはじめ、わが家の贅沢な食べ物9選。庭の山菜では、フキと山ウド。
エンドウ豆は猿害で散々だった。なんとか、ツタンカーメンの緑色の豆で作る赤飯のような豆ご飯を味わえたし、種子もとれた。スナップエンドウも3度ばかり食卓に登った。ウコギは例年並みに糧飯になった。
この他に、庭では大根の種房と、いただきものではカツオの刺身と削り節に恵まれた。削り節は、商社時代の後輩で、今は詩人として活躍する村島里佳さんのおかげで、沖縄の削り節を初めて賞味できた。
野菜の栽培では、畝の肩を活かす農法で2種(トマト × レタス、と オクラ × アイトワ菜)の時間差活用栽培がうまくいった。
庭掃除の除草では、母屋の内庭と、居宅の旧玄関前の除草は、フミちゃんと妻のテリトリーのごとし、になった。
加えて今年は、キツネノボタン(キンポウゲ)の制御策に、初めて本格的に手をつけた。堆肥の山の周り(数10本が育ち、黄色い花を咲かせていた)はもとより、庭から一旦、フミちゃんと妻にすべてを抜き去ってもらった。その成果と効果のほどは来年明らかになる。
ちなみに、ヒメジオンの同作戦では、10年ほど前から手を付けてきた。今年も数10本が白い花をつけたので、ことごとく抜き去った。ことほどさように野草の適度な制御はとても難しい。
庭で咲く花では、全滅させたかも、と心配していたミヤコワスレ(この群生地を、今春の伐採作業でつぶした)が2か所で咲いた。昨年は1つも実をつけなかったクボガキだったが、今年は雌雄の花をたくさんつけ、たくさん雄花を落とした。フミちゃんは珍しげに、この雄花を拾い、枝垂れ紅梅の落果と一緒に、土産に持ち帰った。
かくして、日帰り手術を受ける日を迎えた。