目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 5日間は自重した鼠経(そけい)ヘルニア手術
2 本年2本目のベニシダレザクラの伐採
3 ぼつぼつ昇さんに、草刈りは第2ステップに入ってもらおう
4 日本ミツバチが、またアイトワで活動し始めた
5 妻の心境に近づく好機にもなった
6 AGUから嬉しい知らせ、その他
ヘルニア手術 と “核兵器狩り”を
水無月は、半病人状態(前日の右下腹部の日帰り手術)で明けました。傷跡は、咳、トイレでのいきみ、そしてベッドの出入りなどで傷みます。翌日から、PC作業なら可。4日後からシャワーが、15日から軽運動も可、など。そして翌月上旬に術後の点検で異常がなければ解放、の日々の始まりでした。帰宅後、本を友に翌朝まで16時間も、床に臥すことになったのです。
この日にあった“志賀郷の集い”などは前もってお断りしており、かねてからの2泊3日の光栄な研修や、心臓や眼などの健診の他は、融通が利く日程に組み替えました。もっぱら月末のこの研修の受け入れ準備と、喫茶店のありようを刷新する為に、と願ったのです。
2日はPCの1日でした。月記の仕上げから取り組んでいたら、予期せぬ来訪者の案内が、喫茶店からありました。ドバイから一時帰国した佳菜子ちゃんです。旧交を温めました。夜はTV番組・映像の世紀で、「世界を動かした2人の少女」サダコとセツコに惹かれました。サダコは折り鶴を核兵器禁止運動の世界のシンボルに。セツコは条約成立に、大いなる影響力を及ぼした。日本の政府がいかにもだらしなくて、不甲斐なく感じられました。昨今の、アメリカとの付き合い方も、毅然としてほしい。
月末の研修は、既にカリキュラムは固まっており、パワーポイントなどの資料作りと庭の整備が急がれました。4日の夕刻から、初の軽作業(カシの生け垣の剪定など)に着手。5日は、バジルの苗づくりに取り組み、ある献本と、奥田裕斎夫妻の来訪に恵まれたのです。初の軽い畑仕事は6日から。昇さんを7日(土)に迎え、畑仕事を本格化。翌8日は庭の手入れで迎えた昇さんと、長津親方を迎えたのです。親方とは、“匠の祭典”の今後を思案。9日は、ミニトマトを初収穫。この間、昼間は資料作り。そして10日に、畑はサルにまた襲われ、散々な目に合わされたのです。
中旬は、デンマークから過日迎えた夫妻の、初日のアテンドでお世話になった竹内先生を迎え、楽しい話題で明け、喫茶店が1カ月の夏休み入る作業日、で過ぎ去りました。梅雨の合間の真夏日が続きましたが、19日から庭仕事は、早朝5時過ぎから庭に出る“夏バージョン”に切り替えています。
この間のトピックスは、5つ。13日のアリコさんのコンサート。14日の緊急映画会。19日の小木曽さんの来訪。そして昇さんのパワーのおかげで、庭や畑(冬野菜から夏野菜の畝への切り替え)が進んだ上に、幾つもの重たい鉢を、テラスに(翌月の喫茶店再開に備え)持ち込んでもらえたのです。フミちゃんと妻は、除草でハッスル。私はアイトワ流農法の加齢対策(パワーとスピードでは劣る分を、分別力や適時性で補う工夫など)に励んだ1日でした。この間に、残り少ない大事な歯が2本も欠けており、落ち込みました。
下旬(21日は土曜日で夏至)は、昇さんを1泊2日で迎え、月末の研修に備える作業で明けました。この2日間で、パーキングのモミジの大枝払い、1本のシダレザクラを伐採する手はず、そしてBBQを開く囲炉裏場の掃除を主に、昇さんは大活躍。妻と私は周辺の草刈りや囲炉裏場での焚火などに当たりました。トピックスは、日曜日の井上正美さんのヒョッコリ来訪でした。翌23日からは、4日続けて研修のパワーポイント資料の仕上げに集中でした。その初日は、野鍛冶の堀田さんとの相談事が有難いインターバルでした。
2泊3日の研修は、27日の受け入れ準備から4日がかりになり、29日(日)の3時過ぎに役目を無事に終えました。スッカリ昇さんの世話になり、妻の心境を理解する上でも、有効でした。毎日のように妻と口喧嘩をしましたが、参加した若人には夫婦仲の良さが印象に残ったようです。昇さんは、研修の主要部を垣間見て、日本はまだ大丈夫と感じた、と印象を上気気味に皆さんに伝えました。これぞ、私には最高のご褒美になったのです。そして月末に、短大時代の教え子・AGUから、心が躍る便りが届きました。
~経過詳細~
1.5日間は自重した鼠経(そけい)ヘルニア手術
手術の翌日、一日の朝、遅がけに目覚めると、戸石さんが「また、お花を届けて下さった」と、知った。鼠経部をかばいながら7時20分に食卓に着くと、妻は用意してあった粥を温めはじめた。
キッチンの出窓には、見覚えのある花も生けられていた。
前日は手術疲れもあって、帰宅後はうたたね寝をした。「これ!」っとばかりに妻が、その中ほどで目覚めた時に、私の鼻先にニューっと差し出した庭で摘んだ花であった。一帯は既に薄暗くなっていた。
手術を振り返った。5月31日(土)の9時に、昇さんにピックアップしてもらい、鼠経ヘルニアや痔瘻(じろう)の治療が専門で、日帰り手術を得手とするクリニックを訪れた。予定時刻より1時間も早く着いたのがヨカッタ。この日は手術日で、私は3人目か。すでに2人目の人が施術中であったようだ。ちょうど、待合室の半分が、移動式の4連折りたたみパーテーションで仕切られ始めていた。術後の養生スペース作りであった。
11時過ぎから、私は手術前の検診などを受けた。素っ裸になった上に手術着をまとい、生涯で2度目の陰毛を取り去る体験をした。一度目は、中学生時代の虫垂手術で、看護婦さんに丁寧に剃刀で剃られ、とても恥ずかしかった。今回は、電気バリカンが手早く用いられ、あっという間に終わった。
手術台の上の人になった。局部麻酔(意識は半ば朦朧)のうえで、手足をベルトで固定されたようだ。入刀時は鈍痛。手術は、聴いていた通りに、2cmばかりの切り口から5~6cm四方の合成繊維製(?)の網が患部の位置まで挿入され、開いた穴が塞がれたようだ。2度、咳をさせられた。おそらく咳をした折の腹圧で正しい位置が確かめられたのだろう。思ったより時間がかかり、痛くはないが、不気味な感覚が続いた。
幹部は今や、糸で縫い合わすのではなく、ボンドと呼ばれる速乾性水ノリを塗って固定する。
術後、幅60㎝ほどの移動式ベッドに乗せられ、折りたたみ式のパーテーションで仕切られた養生スペースに移動した。先のお2人の間に運び込まれ、2時間ほど安静に。
左右お2人の患者と看護婦さんが交わす問答が漏れ聞こえてきた。最初の男性は、術後の養生がまずかったようで、注意を促され、詫びていた。再手当であったのかもしれない。年齢は不詳、付き添い人はいなかった。
反対側の2人目は女性で、20代後半と感じた。電車で、1人でやって来て、また1人で「電車で帰ります」と、おっしゃった。キット痔瘻の手術であろう。ふと、右隣の無口な男性は、仕事か何かで、つい力んだりしてしたのではないか、と思いながらウトウト。
ここで昇さんと再会し、妻が用意したおにぎりを食べた。朝食を抜いていたのでとてもおいしかった。
両隣のお2人が去った後、手術に当たった医師との面談があり、昇さんも同席できた。施術の経過を映像で見せられ、腸が癒着し始めていたことを知った。翌日から、PC作業に従事しうるか否かを確認すると、OKの返事をえた。電車で日帰り手術を受けた女性はキット、中1日の養生を経て、職場復帰するに違いない。
退院前に、看護婦から幾つかの注意事項の説明があった。その中の3つに、とりわけ心惹かれた。まず、手術自体に、あるいはその後の養生などに手抜かりがあった場合への備え、生じかねない症状と、その前後策であった。放っておいてもよい症状と、医師の世話になるべき症状の分別だ。次いで、手術した医師の個人ケイタイ番号の紹介。そして最後は、いざという時に駆けつけるとよい救急病院の一覧表であった。
昇さんの車で、炎天下の帰途に着いた。この時になって気づいたことがあった。「電車で」帰ると言っていた女性のことだ。なぜ昇さんに「駅まで送ってあげたら」と、勧めなかったのか、と。次いで、先の男性のことも。「まさか」と考えた。チョッと無理をしてボンドが剥がれたのではないか、と。
自宅にたどり着いた。まず、もっと早く鼠経ヘルニアだと気付くべきであった、と反省した。次いで、この体験を良き経験にしなくては、と思い直した。妻に出迎えられ、昇さんにも勧められ、横になることにした。
午睡後、夕食をとったのだろうが、記憶がない。昇さんの姿はなかった。
翌一日は7時に目覚め、鼠経部の違和感を気にしながら洗面。妻が、先に起き出しており、粥を用意していた。7時半に賞味。PCの人で済ます1日にした。5日まで、ついうっかり下腹部に力を入れてしまったがないように、十分心がけた。
2日は昼に、当月初の予期せぬ来訪者。佳菜子ちゃんがドバイから一時帰国。
夜は録画で“映像の世紀”の『世界を動かした2人の少女』を観た。政府はなぜ、核兵器の現状は必要悪と断じて、全廃を訴え、世界を先導しないのか。その昔“犬公方”とささやかれた将軍は、当時の最強兵器であった(日本は当時、鉄砲大国であったと聞く)“鉄砲狩り”を成し遂げている。閉鎖時空の日本で、人々の意識を動物愛護精神でみなぎらせたが故になしえた偉業であったに違いない。
今や誰しもが、地球は宇宙に漂うプラネット、閉鎖空間だと知りうる時代だ。日本は、犬公方に倣い“ガイア公方”がごとくになって、叫んで叫んで“核兵器狩り”を成し遂げようとしてはどうか。それが、唯一の実戦被爆国であり、サムライニッポンの使命ではないか。
番組では、核兵器禁止条約交渉会議場(2017年7月7日)も取り上げた。肝心の日本や核保有国は欠席だったらしい。誰が置いたのか。この会場では、日本政府の席には大きな折り鶴が置かれていた。
参加124カ国中禁止に賛成122カ国。反対1、棄権1。
地球にとって肝心の大国が、ややこしくなっている。トランプやプーチンを選んだ選挙民もチョッと、と感じた。だが後日、月末近くのこと。素粒子が3度にわたって取り上げた記事を観て、外国から観れば、国葬にさせた私たち選挙民も、チョッと、と首をかしげられているのではないか、と不安になっている。
雨の3日は、翌日から京都で“陶芸家夫婦展”を開催する白雲窯の村山光生さんに、事情を電話で告げ、詫びを入れた。12年前に骨壺を頼んだ敬愛する陶芸家だ。
4日は、赤く染まった(最後のツタンカーメンのエンドウマメを摘んで、前夜から準備したようで)豆ごはんで明けた。
夕に、喫茶店のスタッフを誘って初の庭仕事。私は、立ったまま取り組めばよい軽作業に取り組んだ。この生け垣、近場の山で拾ったドングリ(受験浪人中の弟が拾って撒いた)から育てた垣根だ。苗木を買うゆとりはなかったし、「生け垣のある家に住みたい」を、夢にして編み出した私流の生き方、その一端を開陳したかった。
当月は5日に、2日の佳菜子ちゃんに次いで、早々と初の書籍の贈り物と、心配していた奥田裕斎夫妻の来訪という、2つの幸が続いた。“縁起”ではないが、良き1カ月になりそう、なってほしい、といずれにも元気をもらった。一人で取り組める庭仕事(義妹にもらったバジルの苗を、個別仕立てにする) の日にもした。
この日の夕刻から、患部を濡らさないようにして、洗面器の湯で体を洗い始めた。切った傷の痛みほぼなくなり、下腹部に違和感がチョッと残るだけになった。
その後、昇さんを迎えた7日(土)から、8日にかけて、畑仕事に当たってもらえた。私も次のような軽い作業から畑仕事に手をつけた。昇さんが、昨年度の長けたネギやワケギを掘り出したり、これらのあとを耕したりした。私は、掘り出されたネギの株からヒコバエをとりわけ、昇さんが仕立て直した畝にそれを植え付ける、など。ぼつぼつ、アイトワ菜のタネを収穫しなければ。
次の昇さんの来訪は、夜にアリコさんのコンサートがある13日(金)の9時に、と再確認して見送った。
翌9日に、トマトを初収穫。妻が1つ1つミニトマトを包丁でむく季節に入った。
13日は、フミちゃんにも (過去2週分の火曜日は雨だったし、この日は昇さんの代休日だと知って)参加してもらえた。4時まで庭仕事に当たり、手術来初めて私は大汗をかいた。
これが、常連4人で昼食をとる当月初の日になり、木陰で満喫した。
医師の助言よりも速いテンポで、激しい庭仕事などに携われたが、ドップリと湯につかる入浴は、養蜂の師匠・志賀さんをお迎えした21日の夕刻になった。それまでは、太陽温水器の湯で、体を洗うだけで済ませていた。
この日、マツヨイグサが咲き始めていたことを知った。夜、患部のガーゼをはずし、鼠経ヘルニアから解放されたような気分(正式解放は、来月6日のクリニックでの点検の上だが)になった。同時に、左の鼠径部で「ヘルニアを出さないように」と、心に言い聞かせた。
2、本年2本目のベニシダレザクラの伐採
月末のセミナーは、当初より1日増えて2泊3日になり、最後の1日は庭仕事に当てることになった。その後、前日にもスタッフのお1人が下準備で半日来てくださることになった。
追加の1日の昼は、囲炉裏場でBBQにしたい。前日の昼食は月見台で。庭仕事は、自然循環型の農的生活にはつきものの作業であるだけでなく、できればチョッとドラマチックな一仕事も用意したい。これが、月初めの、思惑であった。
問題は、囲炉裏場には剪定くずの山ができていたし、無煙炭化器には灰がいっぱい溜まっていた。これらの始末に加え、ドラマチックな作業は、思案の末に、ドサッと、地響きがする樹木の伐採を選んだ。受講生は女性が4名で、男性は2人であった。この2人の男性に伐採作業に当たってもらい、女性軍には4~5種類の庭仕事を用意して、分担してもらおう。
こうした場の準備は、8日(日)の朝、涼しい間から私は1人で取り組み始めた。山をなしていた剪定くずは雨で湿っていた。天日で乾かすために広げた。次いで、無煙炭化器の灰取りに手をつけた。これらは、乾いた剪定くずを焚火で始末するための下準備であった。
伐採する木は、2つの理由から、パーキング沿いのベニシダレザクラを選んだ。畑を日陰にしていたし、伐採時のドサッを、この場なら全員で味ってもらえそうだ。
問題は、この木の枝の6割が、畑の上に張り出していたことだった。下手に落とすと、獣害フェンスをつぶしかねない。加えて、カラス除けのために、畑に天井を張るがごとくに(獣害フェンスを支柱にして)碁盤の目のように張った糸を切ってしまう。
だからと言って、枝を残したまま伐採すると、木が倒れる時に、どこまで被害を及ぼすか予測が付きかねる。
これを機に昇さんに、畑に張り出した枝を切り取る作業に、一人で取り組んでもらい、さらなる学習をしてもらってはどうか。かく考えて9時に昇さんを迎えた。
この実施日は、梅雨空や、段取りなどを勘案し、研修日が近づいた21日か22日の晴れた日に、と決めた。結果は、梅雨は記録的なまでに早く明け、快晴の21日に実施した。
昇さんは見事に、大量の枝を、一度だけ私の手を借りた(ロープを操らせた)だけで、見事に取り払った。
この間の、まず7日(土)から翌日にかけてのこと。昇さんを迎え、畑の模様替え(冬野菜が晩期で、さびれた畑の姿を、ことごとく夏野菜の畑らしく仕立て直す)に着手。
次いで、昇さんからもらった夏野菜の苗(彼が定期購入する脱サラ農家が育てた)も活かし、2人で「研修日までになんとか」と、手分けし始めた。力仕事は昇さんが分担し、ナスビ苗の植え付けなどこまごましたことや、散らかった囲炉裏場のあと片付けなどは私が受け持った。
“使い古した竹箒”の始末では、座り込んで、いつものように、一服がてらに解体を楽しんだ。まず竹(燃やす)と針金(再使用する)の分別。その過程で竹箒の作り方を学習。さらに、内部から出て来た基礎部を、手帚として活かすことにした。
梅雨であることを心配のあまり、8日の午後のこと。日が傾くのを待って、「今のうちに」と、早々と、妻と2人で第1次の焚火を始めている。
この後は3度にわたって焚火をしながら、周辺の掃除や草刈りに当たるところとなった。その最後は22日の日曜日であった。昇さんと妻を交え、3人で最後の囲炉裏場掃除に取り組んだ。この時は既に梅雨は、確か観測史上最早で明けていた。
この掃除の最中だった。予期せぬ人の来訪に恵まれた。庭師で兼業農家でもある井上さんのヒョッコリ来訪で、とにかく嬉しかった。
というのは3年ほど前のこと。病に倒れ、消えてなくなりそうな声を電話で(「もう、宛てになどしてもらえない」などと)聞いていたからだ。その後は、心配が嵩じて、声を掛けられず仕舞いになっていた。この度は逆に、「縮んだねぇ」とこちらがいたわられる始末。それだけに嬉しかった。仕事を変えた様子もうかがった。
かくして、サクラを伐採する下ごしらえやBBQの準備もできた。月見台の掃除は、昇さんの指揮のもとに、受講生に取り組んでもらえばよいだろう。
3、ぼつぼつ昇さんに、草刈りは第2ステップに入ってもらおう
満87歳を間近に控え、体の各所に疾患があるだけでなく、加齢現象が加わり、チョット気が滅入り始めた。これまではむしろ、とりわけ疾患は、一病息災ではないが、有難く感じていたフシがあった。自然循環型農的生活のモデルを造る上で、(柔よく剛を制すではないが)ハンデを抱えた者がなしえた方が、有意義ではないか。それが「むしろ元気を保たせた」にでもなれば、と願ってきた。
当月の加齢現象は、歯が一斉にガタが来た、といったようなことになったこと。歯の一部が欠けたり、前歯の1本が折れたりで始まり、ついに最後の奥歯(差し歯だが1本だけ残っていた)を含む、ブリッジで留めていた3本が一気に、抜け落ちた。よく見ると、見つけづらい所が虫歯に侵されていた。
7年前、80歳の誕生日には、その多くは加療済みとはいえ20本も歯が残っていた。この度のガタガタッで、無傷は数本になった。
滑舌が極端に悪くなり、咀嚼が難しいうえに、欠けて鋭くなった歯で、口腔を傷つけかねず、困ったものだ。食事が逆に、苦痛にさえ感じられてしまう。
それだけに近年、予期せずに知り合えたお2人(クレーム処理がキッカケで昇さんと、ヒョッコリ立ち寄ってもらえたフミちゃん)と一緒に庭仕事ができるようになったことを、いっそう有難く思うようになった。“結”の意義を追認するおもいだ。
この2人には、この庭で繰り広げる月末の研修に備え、果樹園の草刈りを例年より早く始めてもらった。
もちろん私も、研修資料の見通しが立つやいなや、快晴の19日から(既に真夏日が始まっていた)庭仕事は朝バージョンに切り替え、草刈りに集中した。月末の研修では、囲炉裏場でのBBQはもとより、庭を一巡する案内もしなければならない。
猛暑の下で、随所の草を刈りに挑みながら考えた。まず、きれいな刈り方(いわゆるトラガリにならない)が大事だ、と。このきれいな刈り方のありようを、昇さんに気付いてもらい、トラガリを奇異に感じる目を養ってもらおう。これは、石ころなどでカマの刃を傷めないように刈る注意力が合わせ求められる。
次いで刈るタイミングがある。野草が種をつけ、落とす前に刈ることが大事だ。できることなら、せめて花が咲いている間に刈り取りたい。
3番目は、その刈り取った草の好ましき処分の仕方である。ごみにしてはいけない。夏草の場合は、畝のマルチングに私は重宝してきた。枯らしながら、養分を雨に搾り取らせ、作物の肥料にする。
最後に、マルチングの役目を終えて、枯れて残っている分は、畝に仕立て直すときに鋤き込んできた。
さらに草を刈りながら、幾つかの大事なことに気付かされてきた。草の種類によって、枯れ方や腐食の仕方に差がある。草は種類によって、花が咲く時期も異なる。
こうしたことを心得て、熟練度を上げ、これらそれぞれのスピードを上げたくて、私は励み、工夫もしてきた。オカゲで、心身の退化に気付きながら、この熟練を励みにできた。
このたびも習い性で、刈り取った草を、3つに分けて積んでいた。その1つは、トウガラシの3種目・ピーマンや、ナスの畝に追加のマルチングとして敷くための草だった。
2つ目は、竹やぶの肥料にでもせざるをえない(種を結んだ草や、笹など腐食しにくい草が混じった)分で、手早く刈ろうとしたがために(分別が疎かになり)この量が一番多かった。そして残りは、木質化した腐食しにくい部分を持つ草だった。
しかも、マルチングに活かす分は、溜まる都度、刈る手を止めて、畝に敷き詰めていた。残る2つは(今の私には一輪車を持ち出すなどして大仕事になるので)積んだままになっていた。週末に迎える昇さんなら、いつものように両手で抱えて処理してしまうことだろう。
ここらでぼつぼつ昇さんに、草刈りの第2ステップの入ってもらおう。こう考えて腰を伸ばした。ふと昔の思い出がよみがえった。脱サラ農業で成功した知人に招かれ、ある農村にでかけ、スピーチを求めれた催しがあった。
前日から、あえて私は迎えてもらい、数人の農家が集う民家で、酒を酌み交わす機会を設けていただいた。予期せぬ情報に恵まれた。
すべての人が、息子を都会に送り出していた。「今更帰って来い」とは言えない。「帰って来ないだろう」。「百姓なんてつまらん」と、教え込み、「娘も、サラリーマンに嫁がせたんだから」と語った。
息子をサラリーマンにしたもう1つの心境にも触れた。便利な農業機械が次々と生み出され、ご機嫌を取りながら息子に教え込み、手伝わせるより「一人でやった方が気楽だしなぁ」と、酒杯が進んだ。
酔うほどに、もう一つ思い出したことがあった。社会人になれた折のことだ。就職できたが、私には既往症があった。通勤が可能であったが、完治するまで残業禁止で独身寮に入れ、との条件付きであった。オカゲで知りえたことがあった。
毎日一人、早く寮に帰ることになり、おのずと寮長や調理人と、時には一緒に杯を交わす仲になった。ある日、酔うほどに、目がギョロッとした料理長が「わしらのサジ加減一つで、」お前たちの健康は「どうにでもなるンだぞ」と凄み、私の肩を叩いた。その心意気・責任感や自負心に触れ、膝を正した。より丁寧に食事をとるようになった。
だからこの夜、集った農家がこうした自負心や責任感を持ち合わせていなかったことが残念でならなかった。「わしらの腕に、」お前らの命はかかっているんだぞ、とばかりの心意気を持っていてほしかった。
かつてドゴール大統領は、食料自給力が1%でも割ったら最早国家ではない、と語っている。そして、政権の座にあった間に食料自給率を130%にした。
ならばわが国は、国家ではない。“食政策センター・ビジョン21 ”の安田節子さんは“米国隷属が招く食の危機”を訴えていらっしゃる。食の面で、わが国は風前の灯火だ。
食料は、安いところから輸入すればよい、との考え方は幼稚だ。これからは、足元を見られるハメになる方向だ。
わが国の食糧問題は、国土のありようなどを考えれば、農業の工業化は危険だろう。そう遠くない将来、地産地消を旨として、多品種少量生産で、反収の向上を目指さなければ生きて行けない国になる、に違いない。
大事なことは食糧生産の実態を体得し、植物の何たるか、あるいは人間とは、に通じることではないだろうか。
備蓄米は、飢饉に備えた国民の兵糧だ。その管理権者が、目先の人気取りに活かしたくて、安易に売ってはいけない。その昔、米百俵なる (藩民の飢えを癒すために贈られた米を、藩民の教育資金として活かした) 故事を引いて人気を得た人がいた。
その場その時の人気取りために、食糧の位置づけを軽々に扱ってはいけない。
ともかく私は、アイトワ流農法の加齢対策(パワーとスピードで劣る分を、分別力や適時性で補う工夫など)に励み、昇さんに学んでもらおう。異常気象に備えて、新たな試みも始めたいものだ。
今年は、オクラの苗を植えた畝の肩に、初めてアイトワ菜のタネをまいた。オクラを日陰にするアイトワ菜から間引いて食しながら、オクラを育てた。今では、余ったアイトワ菜を置き肥・マルチングにして、オクラが育っている。
4、日本ミツバチが、またアイトワで活動し始めた
この21日、夏至の日から、ヒト群れの日本ミツバチが、志賀生美さん・私の日本ミツバチの師匠のオカゲで、この庭で棲み始めた。
この巣箱は、かつて仏教大生がこしらえたホオの木の木陰にある基礎の上に設置した。側には山ウド、イラクサの一種・ヤブマオ、あるいはハランやコゴミが生えており、これらの気化熱のオカゲで巣箱は涼しさが保たれている。
この日は土曜日で、昇さんも来合わせていた。日本ミツバチの巣箱に触れるのは初めてであったようだ。また、“巣密”を初めて知ったようで、百花密と呼ばれる味わい深さを賞味した。妻がデニッシュパンを焼いて、巣密を盛って食したが、ひときわ美味であった。この日は、これをもって昼食とした。
わが家では、山ウドも、ヤブマオやカラムシ(共にイラクサ科)も山菜として賞味している。この春は、昇さんにもヤブマオの新芽を、アスパラガスのように活かし、ベーコン巻きにして味わってもらったことがある。
わが家の一帯は緑豊かだが、蜜源となる草花や樹木が少ないようで、いつも心配してきた。“アカシヤの蜂蜜”として知られる西洋ミツバチの蜜源・ニセアカシアの木は、わが家にもある。日本ミツバチも好むが、その花期は終わった。タラの木の花や、ツタの花の蜜も好むが、花が咲くのはこれからだ。7月に入れば咲き始めるノーゼンカヅラが待ち遠しい。
5、妻の心境に近づく好機にもなった
この度の新入社員研修の話が入った時のこと。妻はとても狼狽した。この予期せぬ要請が、どれほど私にとって光栄な話であるか、ということは即座にわかったようだ。何も妻に頼んでいないのに、「私には何もできませんヨ」と先にくぎを刺した。
無理なことはさせたくない。この妻の願いを前提にして話を進めることにした。
下打ち合わせのお2人(管理者と担当スタッフ)を迎え、事情を伝えた。研修で用いる資料の準備も順調に進みはじめた。
その後、幾度にもわたって「本当に何もしなくていいのですね」と妻は念を押した。「キミには何らの迷惑もかけません」と言ってくださっている、と安堵させた。想っていることと言葉を一致させる心の整理も、ボケ防止の一助になるはずと考えて、私は念のために、想いが変わったら、その都度伝えてくれるように、と頼んだ。
加えて、「昼食の準備も不要だ」。しかし、夫婦の仲も若者に垣間見させたいので「食事時などはご一緒ください」と望まれている。「キミの分もご持参くださる」「参加してほしい」とも、頼んだ。
「お茶も出さなくていいのですか」
「アイトワの喫茶店は夏季休暇に入るから、そのお世話もしかねる、とお伝えした」
かくして当日に備えることになった。
研修の前日からみえた担当スタッフとの準備も順調に進み、研修当日の朝を迎えた。まず担当スタッフ。次いで6人の親入社員。そして管理者の順でご到着。その都度妻は顔を見せ、挨拶をした。社長は3日目の最終日にお見えになる。
講義は、「講義を受ける上で、受講者が自覚しておくべき基礎」を始め7つのテーマをまずこなしてもらった。人間にとって、最も難しいことは意識の転換ではないか。その転換の必要性を訴えて、得心してもらうところに焦点を絞った。
その内容や、参加者の面々のことは、いわば企業秘密とプライバシーの関係で触れられないが、この上なく充実した時間が流れ、爽やかな空気で満ち溢れ始めた。
講義の場は、映画会も開くことができる喫茶ルームを選んだ。まず、すべての人間は、共通して持ち合わせている一面と、2人として同じ人がいないと断言してよい一面を持ち合わせていること、を目の当たりにしてもらうことにした。この整理を是とする認識が行きわたったようだ。“本音”と“建て前”の使い分けに鷹揚なわが国だが、雰囲気が堅苦しくならず、さわやかであった、。
初日の昼食は、同じテーブルでとった。早くもお互いに心が打ちとけ合えたような雰囲気になった。
午後は、皆で何を目指そうとしているのか、それに取り組む意義のほどを確認し合った。これが初日のプログラムであったが、宿題を出した後で、場を移した。
人生の先輩として、受講生に吐露しておきたかったことがあったからだ。打ち解けた心が、目指すべき方向を見定め始めたかのように感じられた。
2日目は、その願いをかなえる為には、と切り出した。参考意見として、今にいたる私の曲折を物語る映像も活かして紹介した。不運や不幸を幸いできた秘訣の披歴でもあった。
その後の私の人生は、幸いなことに、2つの会社に関わり、それぞれの新設子会社にも関わる機会を与えられている。それぞれ異なる性格の会社であったが、そのいずれでも、いわゆる好成績を収めることができた。そこには幾つか共通点があった。それらの紹介と、その共通点が功を奏させた背景の分析もした。
その上で、時々の時代の流れと、新たな流れに即した新手の手法を工夫したことを解説した。この日は、観測史上初と聞いたが、梅雨が早く明けていたおかげで快晴だった。
おかげで予定した通りに昼食は、昇さんのリードの下に、皆で月見台の掃除をしてもらい、そこでとった。
快晴をものともしない涼し気な木陰、半世紀がかりの、苗木から育てた手作りの木陰を体感してもらったわけだ。
午後は、自然循環型生活が編み出した庭の紹介と、このプログラムで、最も私が力を割いた(ある願いを込めた)分野の解説であった。これまでの繁栄は、すべての人が抱え持つ共通点の充足が決め手になっていた。これからは逆に、すべての人が秘め持つ固有性の発露への貢献が、繁栄を保証するに違いない。かく取り組めば、地球環境問題の解消にも見通しが立つのではないか。問題は、いわばその本質に迫る一ひねりが求められるところだ。その紹介だった。謎が解けたような心境、になってもらえたのではないか。
この間に、昇さんは、妻と2人で月見台のカバーの掃除などにまず当たったようだ。次いで、BBQで用いる鉄板(『次の生き方』パート2の打ち上げパーティで用いた後、乙佳さんのご主人・大北親方にもらった)の整備などに、当たってもらえた。
第2日目をプログラムを締めくくる前に、妻の人形教室に入り、上階の展示室を観てもらった。そこは、各人が秘め持つ固有性を、いわば自然発生的に発露しあう時空である。各人の想いが、形や色などになって現れ、人間の多様な一面を、互いに確かめ、愛であうことを大事にしている。
かくして新たな宿題を出して、講義の2日間を締めくくった。
最終日は、自然循環型生活を体感する日に当てた。カキ殻を肥料にする貝殻砕き、薪風呂の焚き付けするスギの落ち枝拾い、あるいはカルミヤの翌年度の花付きを良くするための種房とりなど5つの課題と、樹木の伐採作業を用意してあった。
5つの課題では、6人で手分けして消化するのではなく、それぞれが経験し合い、課題の何たるかを共有する姿勢が観られ、ほほえましかった。
予定時刻通りに社長がご到着。皆さんの“さんやクン呼び”がさわやかであった。触れ合いが心地よい。
いよいよサクラを伐採できそうな時を迎えた。全員集合。ドサッと倒れる音と、皆さんの「オーッ」との叫び声が、新たなエネルギーを感じさせた。
BBQは、ケータリング会社の出番であった。人数分の椅子も含め、何もかもが運び込まれた。場所だけ用意しておけば、炭に火をつけるところまで面倒を見てもらえる。
もちろん、アイトワの薪で焼く鉄板(この度は、あらたにヒノキの角材製品を用意したが、これも大北親方が面倒を見て下さった)も活かしてもらえた。
ノンアルコール飲料での乾杯になった。妻が見当たらなくなっていた。昇さんには、思い当たるフシがあったようで、居宅に走った。
既に私は一人、運び込まれた椅子に座り込んでいた。
縁がたけなわになろうとした時に、予期せぬ差し入れがあった。妻が居宅で用意した野菜サラダであった。昇さんに手伝ってもらって振るまわれた。
サラダ皿を並べる上で、格好の場所に社長が陣取っておられた。妻はおのずと社長と2人で軽やかな会話を楽しんでいた。背が曲がり始めた妻だが、なぜか胸を張っているように見えた。これも、毎日のように妻と口喧嘩をしていながら、参加した人たちには夫婦仲が良さそうに感じてもらえた要因だろう。妻は、いつまでも役に立てる人間でありたいようだ。
昇さんは、研修の主要部を垣間見たわけだ。かねがね日本の未来を心配していたようだ。ポツリと私に「日本はまだ大丈夫と、感じました」と関わった2日間の印象をまとめた。なぜかこの一言が、私にとってはこのうえないご褒美のように感じられた。それを皆さんに、直接お伝えしては、と勧めた。
6、その他
1、2泊3日の研修にそなえ、畑は夏姿になった
この1カ月で畑や庭は、昇さんと手分けして励み、夏姿にできた。昇さんのパワーと取り組み姿勢が、私の体験や経験と相まって、段取り良く事が運んだ。
2、畑はまたサルに襲われ、途方にくれた
この間の、激しい雨が降った10日(火)のこと。16時過ぎに小雨の中、温室の水やりに出て、ネギの畝がサルに襲われていたことを知った。
電柵は稼働していた。他もざっと点検した。順調に育っていた3畝のジャガイモ(これから本格的にイモが太る)は全滅。チマサンチェ(収穫の仕方を工夫して、再生中だった)も食い荒らされていた。急ぎ居間に戻って妻に報告し、2人で途方にくれた。
晴れた翌11日、サルが引き抜き、放り出していたネギを3分類した。抜いただけで根が元気な分は活かし、ねぎの畝を仕立て直した。次いで、食せそうな部分は、昼のソーメンの薬味に。残る大部分は、マルチング材にした。
その後、昇さんに獣害監視カメラを設置してもらった。
この設置をしていたことを忘れた頃に、山側で子ザルの悲鳴がうるさい日があった。「もしや」と、畑に走った。電柵が入っていたのに、子ザルが2頭、逃げる様子がうかがえた。確認できたことは、獣害ネットを登らず、電柵に触れずに、サッと子ザルが消えたこと。
この日、サルがインゲンマメの葉や新芽も好むことを知った。順調に育っていただけに残念だった。だが、多忙にかまけ、獣害問題は頭から消え去り、月末を迎えた。
畑では、大根のタネまで、この夏は防鳥ネットを被せておかないと、小鳥にスッカリついばまれてしまった。
3、書籍に恵まれた
かつて勤めていた会社の社友会から2日に、一著が届いた。10年ほど会社の後輩で、残念ながら在籍中には、あいまみえることはなかった人のいわば自叙伝だ。だが、同期の親友が、幾度となくとても褒めていた。
5日に、句集が届いた。妻の人形創作仲間であるご夫人が届けて下さった
11日に、竹内真澄先生が、楽しそうな依頼事項と3冊の著作を携えて訪ねて下った。ご専門の比較思想史論の一著は、表紙に地球の写真が用いられていた。1973年来、毎日幾度となく、ある想いを込めて眺めてきた地球であり、かつてアポロ8号から届いた写真であった。
他の2著も興味津々だが、京都自由大学なる活動があることも知り、心惹かれた。
14日に岡田さんが訪ねてくださった。推奨する人の想いが一著になった、といって持参してくださった。
この頃、多忙を極めていた私は、読書時間があまりとれず、日々嘆いていた。そんな日が10日もせぬ23日に、小さな活字も駆使した著作が届いた。著作面での恩人、私の処女作の編集人・上野武さんから一著であった。
お目にかかった当時、私は「何としても活字にしておきたい」との想いを秘め持ち、脱サラしていた。とても私は足掻いていた。その初校が刷り上がった時に、「豚もおだてりゃ木に登る」と、言って褒めていただいた人だ。この一著のオカゲで、次々と編集人のお世話になれるようになった。様々なことを学んだ。
4、来訪者にも恵まれた
一時帰国した佳菜子ちゃんに、ヒョッコリ訪ねてもらえた。ドバイで知り合ったというフランス人の男性を同伴であった。彼女は、学生時代に泊りがけで庭仕事に来てくれた一人だ。この男性に、親父のような気持ちを込めて「佳菜子を大切にしてほし」と、偉そうに注文を付けた。
5日の奥田裕斎夫妻は、今日言って今日の来訪だった。乙佳さんに軽4輪での送迎の労をとってもらえた再会だった。過日遠方の病院に入院中と聞いていながら、今の私には見舞えず、気になっていた。杯をまた酌み交わせるまで元気になってもらいたい。よほどの人にしかお勧めしない整水器を紹介した。
8日(日)は、朝から庭仕事で昇さんを、午後に月記原稿の引き継で知樹さんを迎える日であった。午前に長津親方を迎えたが、予期せぬ剪定鋸をご持参頂けた。大いに恥じた。
昨年の“「匠」の祭典” で、庭師の佐藤さんがご愛用の用途別(生木用や枯れ枝用など)の剪定鋸に心惹かれた。その旨を親方に話した。
その一言が、ウッカリであったワケで、特注のごとき作品を頂いたことになる。金部は親方の、木部の鞘は佐藤さんの作だった。
この日は夕刻に、アリコさんを迎えた。5日後のコンサートに備え、数曲を弾かれた。アイトワでの春のコンサートで、小鳥とセッションされた即興の一曲が、譜面に起されていたことを知った。その曲名が『aightowa』であったことを13日に知った。
翌9日から竹内先生を迎えた11日まで、門扉のチャイムが頻繁に鳴った。原因は、梅雨の雨で、湿気が漏電現象を起していた。
岡田さんを14日に迎えることになり、急遽高安先生に呼びかけ、映画会を開いた。前回に次いでインド映画を選び、『ガンジー』を鑑賞した。非暴力闘争の実態に、さらに1歩踏み込めたような心境になった。
17日、アリコさんのコンサートにお誘いした山口美代さんが、立ち寄ってくださった。今は亡きご主人とは半世紀来の付き合いだった。アリコさんのファンになっていただけたようだ。アイトワを訪ねて下さる機会が増えてほしい。
小木曽さんの19日の来訪は、出張の途上で、夕食に連れ出してもらった。久しぶりの情報交換が楽しかった。
23日に、野鍛冶の堀田典男さんを迎えた。手土産に、手打ちの釘を頂戴した。今後の“「匠」の祭典”を語らった。野鍛冶を尊ぶ私と鍛冶仕事との関わり合いも話題になり、2つの最も大事にしている刃物を取り出した。
5、AGUから嬉しい知らせ。
月末は、もう2つ、水無月のご褒美に恵まれた。まず昼に、短大時代の教え子・AGU・勝山あゆみさん手作りの封書が届いた。2枚の便箋と3枚の印刷物が出て来た。
1枚目の便箋と、2枚の葉書をとじた封には、小さな文字でビッシリと近況が綴られたていた。楽しそうなコラボが始まっていた。
世界は今、近眼の大人たちが、沈みかけている宇宙船地球号の上で、小競り合いをしている。その小競り合いは、地球号を台無しにしかねないだけに憂鬱だった。だが、AGUの手紙を読んでいるうちに、なんだか胸がスーッとし始めた。
夕刻に、京都が生んだ銘菓・“水無月”を届けてくださる方があった。39年来の手作りを味合わさせていただいた。
文月への夢が膨らんだ。