目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 生涯で最後になりそうな干し柿づくり
2 久方ぶりに会した4 OB。昼間から飲み会に
3 “お金が関わったミニ事件”。思い出に
4“堆肥の山”で、義妹と昇さんを交え、ある学習
5ディベートができる人になりたい
6 明日のわが身を見た思い他、その他
自然体でヨカッタ。心が躍った
霜月は、昇さんとフミちゃんを迎え、終日庭仕事の1日で明けました。今年の夏野菜は酷暑で散々でした。冬野菜も(長引いた残暑に惑わされ)作付けが遅れてしまい、この時期は青菜が盛りのはずなのに、不自由し始めています。やむなく、異常な豊作となったカキを(小粒ばかりですが)ムシャムシャと食し始めた次第です。そして上旬は、干し柿づくりに熱中し始めた1日、で暮れています。
この間に、思わぬ嬉しい知らせと、とても悲しい知らせに加え、次の10のトピックスがありました。相談事で、2件の来訪者。喫茶店の厨房で、原因不明のブレーカー事件。旧三商大OB男性合唱団交歓演奏会。当月初の外出(滋賀県)は、昼間から(私も理事を務めるNPOの仲間と)飲み会に。志賀師匠を迎え、ミツバチが全滅を確認。堀田さんを迎え“ある相談”。妻の剥離骨折は、ギブスを外し、X線での経過点検の段階に。昇さんは裏庭から、1年を締めくくる大草刈りに着手。妻と私は、冬場に大量に出る剪定くずに備え、大焚火をして囲炉裏場の整理。この仕上げは3人で、この冬最初の焼きいも。そして雨の9日は、昇さんは個離庵内の白木の板張りにキシラモンで塗装と、妻の人形展用ディスプレイ具造り。翌月曜日は“お金が関わったミニ事件”で、チョットした勉強。そして、この日の夕刻に、渋柿2種などが志賀師匠から届き、干し柿作りに没頭。今年は久しぶりに「干し柿づくり励もう」と考えた次第です。
これらの合間に、当月記の先月分原稿に、“編集のし直し”から校正に手をつけており、膨大な時間を割いています。それは、海老崎棟梁の生き方に大いなる刺激を受けたオカゲです。私にもできることはないものか、と思案したわけです。
中旬も、フミちゃんを迎え、3人で終日の庭仕事で明けました。その後、「これが最期かも」と、妻が弱音を吐いた今年2度目のトウガラシの佃煮作り。心臓の定期検診。知範さんに月記原稿をやっと引継げた。再訪の長堀さんとの対話。本年3度目の餅搗き。わが家の渋柿での串柿作りと、干し柿が大好物な小鳥やカラス対策の防鳥具を新調。“堆肥の山”で、義妹と昇さんとある学習。初見のキノコを発見と、久方ぶり2度目のキノコ・ヒメツチグリと再会。ボケの狂い咲き。庭で2種目の渋柿も取って、干し柿の追加。そして20日に、望さんにカキを取りに来ていただき、妻の「クマに襲われそう」との不安を半ば解消してもらえ、中旬を締めくくったのです。
とりわけ、長堀さんとの対話は、4時間にも及び、実に爽快でした。この人となら、楽しいディベートもかないそう、と喜びました。また、餅搗きでは、居合わせ餅が大好きの昇さんと、半臼(電気餅つき機での半分)ほどを安倍川で食してしまいました。
下旬は、久しぶりに妻と2人で畑仕事(妻は除草に、私はコイモの掘り出しや、チンゲンサイの畝作りなど)に勤しむ1日、で明けたようなものです。そして月末は、昇さん父子を迎え、彗生君は喫茶店でアルバイト。昇さんは私と、暮れの庭木の剪定作業に取り組み始めた1日、で締めくくっています。この間のトピックスは、私が嘔吐で(生涯3度目を、昇さん父子の前で始めてしまい)2~3分に亘って苦しむ(先の2度は、若気の至りで、出してスッキリでしたが)胃を絞るような体験をしたのです。この他に、次の7件でした。
元アイトワ塾生で紅一点の鈴江さんが、久しぶりに来訪。岡田さんを、久しぶりに迎え、映画会。庭の小枝を活かした“焚き付け”作りは、これも久しぶり、でした。26日の朝焼けで、冬到来を実感。アリコさんと、別途小林さん一行を迎え、楽しそうな催しの相談。妻の足の治療は、やっと末期に入りました。そして、門夫妻に(関西に来られたのを機に)立ち寄っていただき、妻の物忘れなど失調対策で相談に乗っていただき、なんとか霜月は心安らかに過ごせた、と胸をなでおろしています。
~経過詳細~
1.生涯で最後になりそうな干し柿づくり
プロローグ
先月は、海老崎棟梁の“生きる姿勢とその仕事”に触れた。おかげで「見習いたい」と願ったり、反省したり、あることを追認し、生きる自信を深めたりしています。
海老崎棟梁は、直観力の養い方や磨き方、あるいは技や術などを世襲で引き継げる息子さんに恵まれておられない。だからだろうか、錦帯橋という(用いる部材は、それぞれが唯一無二と言ってよいし、その多くは有機物の木材で)いわば生き物の復旧に取り組んだようなものだろうが、数十年後も先の、次の架け替えを見据えた活動をされていた。
設計図を始め、再現や復旧などに要する工夫や心意気などを、記録として残そうとされた。これは、見習わなければいけない心掛けだと強く感じるところとなった。
思えば、この私の循環型の生き方は、半世紀前でも「時代に逆行」と、さんざん嘲笑された。だが、盗って、使って、捨てる生き方の限界を見抜き、くじけなかった。オカゲで、時代はその後、評価を随分変えた。とはいえ、多くの人は未だ、踏み出すには至っていない。それだけに、私の瞼には、あらかたの人が早晩、追い立てられながら踏み出さざるをえない光景が浮かんでいる。にもかかわらず、イモを育てるにも「育て方が分からない」などと慌てふためいているような光景も浮かんでやまない。
こうした想いは、22年前にも駆られておりおり、この『自然計画』プログラムは誕生している。オカゲで“「匠」祭典”を通して、先月は、海老崎棟梁と親しく触れ合わせていただけ、こうした想いを新たにすることができた。
当月は、志賀師匠にカキをたくさん送っていただき、何か心に期すものがあった。この老いぼれた私にでも、できることはないか、となぜか心に迫りくるものがあった。そこで、その気になれば誰にでもできる保存食づくりを、と考えるに至った次第だ。
干し柿造りに熱中してみよう
月初めに「これは異常だ」と、驚くほどの実が着いた庭のカキの木を見上げた。遠くない将来に何か「天変地変が起こるのかも、」と、感じたほどだ。
ことし2025年は、わが国が破綻する年、と私は何10年も前から睨んできた。それは食糧問題を主に、インフラ問題なども噴出するなど、国民の心情や国の屋台骨が揺るぎ、動揺し、自信を喪失するに違いない、と睨んできたわけだ。だから新年早々に、道路陥没事件が発生した時は、あってほしくない不吉な予見が当たるかも、と不安にかられたものだ。
もちろんこれは偶然の一致だろう。だが年末が迫った今、わが国は主食・コメ問題で揺らいでいる。かつてドゴール大統領は、食糧自給率が1%を切っても国家は体をなしていないことになる、と叫んでいる。そして治世中に自給率を130%に上げさせた。フランスは今もそれに近い自給率を保っている。わが国は、国民も、ノー天気ではないか。
石破政権は米増産に梶を切った。備蓄米の放出は場当たり的でいただけない。だが、啓蒙には活かしうる、と睨んだ。よしんばコメ余り現象が生じても、政府が大々的に買い支え、備蓄を潤沢にすればよい。「腹が減っては戦もできぬ」、武器弾薬の備蓄に勝る国家防衛戦略だと想う。せめてこうした議論を国会で進め、国民の意識に火をともすカツを入れるべきときではないか。
今も、全国的にわが国はクマ出没問題で騒いでいる。だが、肝心の出没するクマ側の事情があまり掘り下げられていない。カキが大豊作だったわが家でも、クマに見つからないようにカキの実を取り去っては、などと妻が言い出す始末だった。
折よく養蜂の師匠(何時も大事な生きる力に気付かせていただく)志賀さんが、渋柿を送って下さった。干し柿造りに熱中してみせよう、これなら老いぼれにもできることだ。行動で示そう、と考えるに至った。もちろん妻はけげんな顔をしたが、決行した。
思えば昨年は、庭にある8本の柿の木は、1つも実を着けなかった、と言ってよかった。今年は逆に大豊作だ。何かがオカシイ。このような事態は、この80年来生じたことがなかった。
例年なら、多くのカキの実がヘタ虫に蝕まれてポトポトと落ちている時期だ。今年はほとんど落ちていない。この虫害現象は解からぬでもない。だが、昨年は1つも花さえ着けなかったクボガキが、今年は異様なまでの鈴生りではないか。オカシイ。
庭には、カキの木が計8本(甘ガキ4本〈富有柿2本と、次郎柿とクボガキが各1本〉と、渋柿が〈自生の渋柿3本と、あたご柿1本〉の計4本)ある。それらの木々が、昨年と今年では、極端なまでに実の着き方を一転させて見せたわけだ。
余談かもしれないが、もう少し昨年の様子を正確に記す。甘い富有柿と次郎柿は実がパラパラっと着いていた。だが、いずれもが大ききくなる過程でヘタ虫に襲われ、ことごとく落果。1つもまともに収穫できなかった。自生の甘い実がなるクボガキは(雌花だけでなく、雄花もつく木だが)花を探し回ったが、雌花も雄花も1つも着けていなかった。
次いで3種の渋柿。まず古木の自生種2本(共に樹齢70年ほど。数年前に一度、背丈を3分の1に切り詰めた)は、昨年は実を探すのが無理なほど少し、であった。今年は逆に、2本共に鈴生りである。
樹齢10年ほどの、今が盛りに入った自生の渋ガキの木も、昨年は10余りしか実をつけていなかったように思う。今年は鈴生りで、2次に分けて(まず大きいめを35個。後日、小さいめを選んで12個)取っている。
そして10年余前(?)に苗木を買って育てた“あたご柿”。昨年は(木陰にされてしまったとはいえ)実が1つも(それ以前は着けていたが)着かなかった。今年は、実が15個しか着かなかったが、いずれもがとても大きくて立派だ。すべて収穫し、吊るし柿にした。
クマの出没の波は京都にも、わが家の近くにまで及び、妻までが浮足立ったわけだ。過去に1度クマが現れて、数100mほどのところで射殺されたことがある。その時は、妻は気の毒に思ったようで、なぜ山に追い返せないのか、と不満の声を漏らしていた。
この度は打って変わって、わが家の鈴生りのカキの実がクマを呼び寄せないか。ご近所の人が、呼び寄せるに違いないと心配されるのではないか、などと狼狽えたわけだ。これは、ボケが生きる自信を揺るがせたセイかもしれないが、悲しい。
戦時中の「灯火管制じゃあるまいし」と、私は笑った。米軍の夜間爆撃に怯えた戦時中の国民は、標的になることを恐れ、戦々恐々と電灯の光が漏れないようにし合っていた。漏らせば近隣が非国民呼ばわりする社会にしていた。
獣害は、夜間爆撃とは違う。「むしろ (豊作のカキを)避雷針のごとくに観て、チョット賢い人なら、むしろ安心してくださるよ」となだめた。だが、ボケ始めた今の妻はピンと来てくれなかった。やむなく、次のような言葉を足した。万一クマが近所にまで出て来ても「まずわが家のカキに気付き、襲い、腹いっぱいになる。だから山に帰ってゆくのじゃないか」。やっと妻は落ち着き、得心した。
このような次第が、この度の“干し柿づくりに熱中させる下地になっていたのだろう。その後、志賀生美さんを6日に迎えた。そして、後日4種のカキを送っていただいた。これが「そうだ!」とばかりに“干し柿づくり” に火をつけさせるキッカケになった。
とはいえ、その後、激しい物忘れをするようになった妻の気持ちをおもんばって、21日に望さんに、カキ採りに来てもらえるように頼んでいるいる。
まず門扉脇で育つクボガキの木から手をつけてもらえた。2時間ほどで、イシミに2杯分ほど実が溜まった。道行く人で賑わったこと。
そのお一人は、アルゼンチンから、とおしゃった。「今日は私の誕生日」といって、エールを交換し合うような場面もあった。
ここでインターバルを設けている。喫茶店は休日だった。だが、妻がコーヒーを入れてくれた。そのころ、なぜか体調が異常だ、と気付いている。何かがオカシイ、と感じた。
原因は、「あそこまで凝らなくとも」と思ったほど精を出した干し柿作りのセイだろう。今年の干し柿作りは、10日の、志賀師匠から届いた4種の柿で火が着いたわけだ。その後、数段階にわたっていたのだから。
届いたカキは、いずれもが大きくて立派な実であった。そうと知った時に、急ぎ庭に走っっている。陽がある間に、と太い竹を切って、鉈で割って、鎌とナイフで随分時間と手間を割いた。丈夫な10本余の竹串が出来上がった。
次いで、夜なべ仕事に、と妻に柿をむき始めてもらった。その時になって初めて、すべての柿の蔕(へた)には、ひもで吊るせるように、T字状の枝を残してもらえていたことに気付いた。しかも、1枚の棕櫚の葉がそえられており、その1本を割いて作ったヒモが1本入っていた。竹串は不要だ、と分った。シュロの紐をたくさん作り、シュロ紐でカキを吊るす役割を私は受け持つことにした。
2つの実は皮をむかず、熟した果肉をスプーンですくって食べることにした。
翌朝のTVで、目をくぎ付けにされる紅葉を知った。聴くと、先人の知恵、尾根筋を尊び、活かす知恵であった。これは、未来世代への時を超えた贈り物であったのだろう。
わが家の紅葉も、本格化し始めた。
中庭はハクモクレンの落葉で、ジュウタンになり始めた。
わが家の居間の前の軒先は、幅が4mほどしかない。やむなく、吊るし方を変えざるを得ないことに気付き、プラスチックの紐を取り出して、その紐で吊るし直すことにした。
次いで、黴が湧かないように、アルコールで消毒した。この方式は、奥田祐斎さんに教わっている。それまでは、大鍋で湯を沸かして、湯通ししていた。
竹串づくりは無駄にしたが、妻と2人で取り組む連携作業は達成感を味あわせた。寝酒にジントニックを選んだ。酔うほどに、せっかく作った竹串が「もったいないなあ」と、気になった。
2日後の13日に、庭で近年自生した若木の方の渋柿の実を、小ぶりのバケツに1杯取った。小さいカキなので、元の丈夫な竹串から、4分の1ほどの細さに削り直した。ずいぶん時を要した。
この間の12日に、一度買い物に出ており、干し柿が食べたくなっている。妻の小言をよそに、買った。とても安く感じた。大量生産の恐ろしさと危なさ、を思い知らされた。おいしそうなのに、なぜか感謝の気持ちが湧かない。おかねさえあれば、との欲望に負けた感じだ。買求めておきながら、干しガキが気の毒になった。
19日のこと、メジロが早、軒先まで張り出しているスモモの枝にとまり、干し柿に目をつけていた。急ぎ、以前い用いた防鳥ネットをとり出した。幅は1mほどしかなかった。
やむなく、幅3m余のネットを新調することにした。サー大変。先ず適当はネットがない。果樹に被せる大きな防鳥ネットを取り出してきて、切り取ることから手を着けた。
さんざん苦労したあげく、なんとか成し遂げた。半日がかりの根を詰めた仕事になった。
もちろん妻の、馬鹿じゃない、とばかりの小言と眼差しがあった。往年の妻ならとってかわってくれていたはずだ。それができないから、悔しいのだろう。
おかげで、1つの自信と、確かなる実感だけでなく、新たな余地を見出しており、急ぎ庭に出た。まず、明るいうちに、庭で最も小さい渋柿を10個選んで、取った。次いで、より細い竹串を1本作った。最後は、それまでの吊るし柿を大幅に移動させて、新しい余地をつくった。それは、新年を祝う御鏡モチを飾るひと串造りのためであった。
かくして望さんを迎えている。喫茶店の休みの日だった。インターバル時に、「望さんのオカゲで、コーヒーにありつけました」と喜んだ。それまではヨカッタ。
この当たりでチョット異常を感じ始めている。その後、望さんがクボガキ取りを再開。その高枝切りハサミの行方を、顎を突き出して仰ぎ見ていたら、目が回り始めた。
望さんに、たくさん取っていただけるとありがたい。だが、「取った分は責任をもって持ち帰ってください」とお願いし、引き上げざるを得なかった。
遅がけの軽い昼食の後、バランス感覚を取り戻したくて、畑に出た。望さんはお帰りになった後だった。畑仕事に妻が、久しぶりに付き合ってくれた。わが家の紅葉は一段と進んでいた。
なんとかこの日は元気を取ろ戻せた気分で、畑仕事を引き上げることになった。クボガキの木の側を通った。あたり一帯がカキ取りで出た落ち葉や小枝などで随分散らかっていた。
そのそばに、望さんに取ってもらえた大量のカキが残っていた。望さんには出直す、と言ってもらえていた。
これら、袋詰めのカキは「池(小倉池)側の富有柿を、取れるだけ取ってください」と、頼んであった分だ。道行く人からよく目立つ実を取ってもらえた。
薄暗くなってから、望さんはみえた。見送りに出た。感謝感激でお見送りした。この日は9時過ぎから寝よう、とおもえば寝ることができた。だが翌朝の大仕事が気になった。そこで、懸案を片付けることにした。
ごみ出し担当になった私は、夜なべして、ある細工仕事に手を出した。それは、ごみ出し籠(カラスの襲撃からごみ出し袋を守る覆い)の改善で、ごみ袋をワンタッチで収集してもらえるようにする細工だった。
「なぜこんなことに」と言わんばかりに、2時間も3時間ももたついている私を、妻は悲し気に非難した。それでも止めない私に愛想をつかし、寝室に引きこもった。
もちろん私は、これはキット私の身を想っての非難だろう、とは承知した。手伝えないわが身が妻は悔しいのだろう。だが、これは、もし私が市長にされていたら、どうしていたか、とさえ考えたすえの実験であった。ごみ出しを受け持てたご褒美のように想えた。「カラスはこれで十分防げ、最も大事な仕事であるエッセンシャルワークの改善こそが・・・」と、私は想っていた。その方向を探る実験であった。これからは、指先がしびれる冬になる。
翌22日の朝、紅葉が、カエデとハクモクレンの競演が、朝日で映えていた。
予定通りに昇さんを迎えた。2台のエンジンブロアーを吹かして、手分けして、作業に当たった。門扉から温度計道にかけて、は私が。パーキングは昇さんが。それぞれ、半時間ほどで、開店時刻までに、落ち葉や小枝を掃除した。
エンジンを切った時に、わが身のエンジンに異常を感じた。これが、トドメになったようだ。10時から始まるバイトに備え、彗生君も早めに来ていた。居間で4人でお茶を飲み始めた。異常を隠せなくなった。妻は素早く動いた。嘔吐が耐えられなくなり、3度にわたって洗面器を抱えた。失態を演じた。せめてもの幸いは、朝食を取っていなかったことだ。
だが、出るものがない嘔吐の苦しみを、初めて知った。
妻には叱られて、昇さん父子には勧められて、この日は寝て過ごすことにした。重くて風力が強いブロアーを、箒のように操ったのがいけなかったようだ。このときはまだ、この後に“幸いなことが2つも続く”ことになろう、とは分っていない。
最初は4時前の、予期せぬ来客だった。念のために、と妻が知らせてくれた。元アイトワ塾生の紅一点、鈴江さんが京都に来たついでの立ち寄りであった。その後がとても気になっていた人だ。気掛かりな網田さんの消息も聞けそうだった。
面談に出た。気力が次第によみがえるような気分になった。鈴江さんは、事業家の如き風格を醸し出していた。
この日、妻は「雑煮なら、キット」私が、と考えたようだ。奇妙な雑煮を夕食に用意した。この半ば流動食で、そそくさと早めに床についた。改めて鈴江さんに来てもらえたことを感謝した。あのまま昼間から眠りこけていたら、キット睡眠のリズムやペースを崩していたに違いない。翌日は岡田さんと久しぶりの映画会を約束していた。なんとしても実施したい。そう願いながら眠った。高安先生は先約で欠。昇さんとフミちゃんを誘ってあった。
当日は、映画鑑賞のおかげで心が引き締まった。権力が人を狂わせ、人が人をないがしろにした事例の紹介だった。なぜか気力が高まり、少なくとも精神面では旧に復せたような気分になった。
翌24日は旗日で、昇さんを迎えた。私は庭仕事だけでなく食事も自制。昇さんに新種のスナップエンドウの苗をもらったが、畑仕事も割愛した。いわんや目が疲れるPC作業はご法度の1日にした。だから、読書『世界で最初に飢えるのは日本』に時間を割いた。
その過程で、かねてからの私の嘆き(わが国は、有ればあるに越したことがないものを輸出した代金で、なければ片時も生きて行けないものを輸入している〈愚かな国〉)が、アメリカに諮られたわが国の政策であったことを知った。悔しい。
この日はやすむ前に、エチルアルコールで干し柿を追加消毒した。段々小さく萎んでゆく干し柿を眺めながら、チョット残念な思いがした。未だクマ騒動で騒がしかったからだ。クマを呼ぶからカキの木を切り捨ててしまえ、と叫ぶ前に気付くべきことがあるだろう。戦中戦後は、大島の着物がジャガイモ数十個と交換された。
皆で実を収穫して保存食にする学習をしたり、せめてクマ被災地に送り、奥山にまいてもらおうとしたりすべきだろう。あるいは、わが家の樫の木は平年並みのドングリをつけている。全国的にドングリを探して、拾い集め、クマ被災地に送る運動を、どうして子どもの教育の一環として実施しないのか、などと考えているうちに眠ってしまった。
翌日も読書は続いた。同書は農林水産省出の学者で、鈴木宣弘東大の院教授の一著だ。
大胆な指摘が多々記されていた。そこに民主主義の愛国心を見た。
気が付くと、ベンチの上に干し柿が1つ落ちていた。志賀師匠にもらったカキで作った、大きな吊るし柿だった。T字型の蔕がちぎれていた。放ってはおけなかった。
2.久方ぶりに会した4 OBが、昼間から飲み会に
この四半世紀強にわたって、何年かに1度この4人は会してきた。2人は帝人(元は帝国人造絹絲)の、1人はワコールの、それぞれOBで、私も(定年までいなかったが)伊藤忠のOBだとすれば、4 OBには共通点がある。
人造繊維や合成繊維が華やかなりし頃の、それはわが国が高度経済成長期でもあった頃だが、ある意味で“帝人グループのOB仲間”であった。
もう1つ、この帝人OBのお一人・木田さんがこの度、旧三商大OB男性合唱団の一員として関西にお越しになった。この機会を活かさぬ手はない、と考える仲間であった。
この4人が現役時代に、もう1つ、東洋レイヨン(通称東レ)という人造繊維や合成繊維の会社があり、東レグループを形成していた。そのグループの主要商社は三井物産であった。自ずと2つのグループは互いに結束心に燃え、競ったものだ。
この2つのグループの沿革を語れば、1つの日本史が語れそうだ。わが国は繊維(最初は絹)産業で立国し、工業国の仲間入りをした。その繊維産業の主要素材が絹から綿へ、そしてレーヨン(人造繊維)やテトロンなど合成繊維へと移行する。
この過程で、わが国は戦争好きになっており、大日本帝国になった。やがて破れて国名を、日本国に戻している。だが、日本国は敗戦後に、奇跡の復興を果たした。
GDPでは世界第2の冠たる国にもなった。瞬間風速的にだが、国民平均所得では世界1と言ってよい国にもなり「欧米に学ぶものなし」と、豪語する男たちや、踊り台に群がって踊り狂って見せる女たちも表れた。バブルはすぐにはじけた。
この4人は、この高度経済成長期を(ワコールはこの初期に誕生している)働き手とし、それぞれ過ごしている。いずれもが、なぜかバブルには有頂天になれなかった。
敗戦の体験が、私の場合は邪魔をした。生家の座敷には世界地図があった。そこには“小さな日章旗が着いた虫ピン”が、たくさん立っていた。大日本帝国が占領した都市や島に立っていたのだろう。それもつかの間。ほどなく、遊び仲間の餓死も視ることになる。
私が社会人になった1962年頃は、帝人は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ワコールは冠たる女性下着会社になっていた。伊藤忠はまだ主たる商いは繊維だったが、総合商社を目指していた。入社翌年、繊維部門は、商い高シェアーで50%を割る。
とはいえ当時、繊維産業は3割産業と呼ばれていた。就業者数や工業出荷額、あるいは輸出額などが3割を占める業界であった。
今や総合商社で繊維部門が健在は、伊藤忠だけだろう。元化合繊メーカーで、繊維部門が健在は、東レぐらいではないか。帝人は繊維部門を子会社化して切り離している。
こうした栄枯盛衰を体感した4人がこの度も会した。
ある意味で、画期的な時期に、私は大学生活を過ごしている。大学進学率が14%ほどの時に入学し、ワコールが初めて大卒も採り始めた年に卒業している。この年は、カネボウ化粧品も大卒の採用を始めている。鐘淵紡績(現カネボウ)は、子会社・鐘淵化学工業が取り組んでいた化粧品事業を、カネボウの名前を使っていると言わんばかりに引き取った。そして、大卒も採り始めた。鐘淵化学工業は社名を「カネカ」に変更した。
実は、学生気分で私は日立製作所に入社が内定していた。にもかかわらず、長男である気分と健康問題での躊躇が、自宅通勤を願わせた。そこで、まず候補に選んだ就職先がカネボウの化粧品であった。すぐに通勤が楽なワコールを候補に替えた。いずれも、成長産業とみた。だが、母がもらした意外な一言「あなたは女が好きですね」が、断念させた。
伊藤忠に入り、ほどなく繊維部門の構造改革を提唱し、わが国の衣服の既製服化に邁進した。海外技術導入を図り、日本での製品化展開を次々と帝人と組んで進めた。ワコールにも外衣部門への進出を勧めた。こうした背景がこの4人にはあった。
その頃は、世界では女性が跋扈していた。美人コンテスト(ミスワールドやミスユニバースなど)に老若男女が湧いていた。私は少し違和感を抱きながら、まぶしげに横目でながめたものだ。やがてそれが、女性の商品化だと知る。アメリカに、60年代末期から出張し始められたオカゲだろう。繊維部門の大改革に貢献できた。
このたび、もう一人の帝人OB・佐伯さんが、51年前から私との縁は始まっていた、とおっしゃった。『ジーンズ リーダー』という機関誌で、ご一緒したのが最初だった。
佐伯さんも私と同様に、ジーンズをファッションとは見ずに、ムーブメントと捉えていらっしゃったようだ。時代の転換を感受していた。人はその本質を(人種や性別、学歴や地位、あるいは職種や所得、いわんや出自などの属性にこだわらずに本質こそ)大事し合うべきだ、との想いを抱いていた。
世間では、市場に透明感のあるナイロンの女性用製品が溢れていた。帝人と東レは、イギリスのICI社から、ポリエステルの製造技術を同時に導入し、(共同商標「テトロン」の下に)拡販に姸を競い、これが見事に成功をおさめ、ともに冠たる企業になっている。
『ジーンズ リーダー』は23年後に版を重ねた。この頃には、何かとこの4人のつながりが始まっていた。その見定めていた方向に狂いはなかったようだ。
木田さんが立ち上げたファイバ-リサイクル関係のNPOが活動を始めた。衣料品のリサイクル問題を一緒に審議したたり、衣料品のリクチュール企画を展開したりもした。
この度の集いでは、3商大の沿革も話題になり、そのひと時がとても印象に残った。わが国は、「商」より「工」を重んじた。芸術より商業を、商業より工業を目指してきた。これが、かつてのわが国を繁栄させ、深追いして今日の沈滞と大きくかかわらせている。
「人間とは何か」「人間はいかにあるべきか」あるいは「どういう社会をつくりたいのか、創らなくてはならないのか」などと、想いを深めることが、わが国は疎かにみえる。人文知に、もっと目を向けないといけない。
ほろ酔い加減で帰宅した。畑では、唯一自然生えしたトウガンが、唯一の実を結ばせたが、その小ぶりの実が収穫期に入っていた。来年はこれで、再生を目指そう。
温室では、唯一生き残ったテンモクジオウが、立派に育っていた。これも、再生を目指そう。これは、ムラサキを絶えさせてしまった反省だった。
イノシシスロープの入り口では、個離庵前から移動させたアーチが立っていた。彗生君が4つの穴を掘り、その穴を活かしてその父・昇さんが立てたものだ。セメントなどを用いて固定する仕上げは、来春、この父子の手に委ねよう。
かくして6日に志賀師匠を迎えるところとなった。丹波クリを土産に下さった。妻はまず栗ご飯に活かし、次いで妻流の焼きグリにした。
その後、柿を送っていただき、干し柿作りに熱中することになったわけだ。
3.“お金が関わったミニ事件” 。思い出に
NHK=TVの天気予報が「圧手のコート-を着て、傘を持って」出かけるとよい、と今朝も助言した。こんなことでいいんだろうか。
わが家から最寄りの2つの金融機関で、私は口座を開いている。その1つで、この度は、これに似たようなミニ事件に出くわしていた。それだけに、余計に気になった。
1つは父が使っていた地銀で、60年以上も前に、私も普通預金の口座を開いた。バイトのお金を貯めて、旅行代金などに活かすためであった。後年、所帯を構え、そのまま生活費の口座になり、やがて給与の振込口座にもなった。
2つ目は、学校勤めを辞めた後で、できた。その年金がもらえる時期になった時のことだ。最寄りの信金が預金獲得運動の一環だろう、個別訪問活動を受けた。ならば、とこの年金の振込先に選んだ。短期間の勤めの年金だが、塵も積もれば山となるものだ。まとまった額となった。その後は何ら音沙汰がなく、普通預金のままで眠っていた。
妻が健忘症となり、地銀での入出金も私が代わって引き受けざるを得なくなった。なにせこれまで、所帯を構えてからは一斉、金融機関の窓口を訪ねたことがない。いわんやまとまったお金を数えたこともない。妻に押し付けていた。
だから、いちいち行員に教えてもらい、助けてもらわないとならないことが多い。幸いなことに、この地銀にはもう1つの口座がある。脱サラした後で造った小さな会社の口座である。妻の人形工房や併設喫茶店の勘定も、この会社に関わらせた。だから、この口座も、妻が管理してきた。オカゲで妻は地銀で顔見知りの行員ができる関係にあった。
このたび、私はこの人のお世話になることになった。そこで、チョットまとまったお金を信金から引き出し、地銀の定期にすることで、印象を良くしてもらおう、と目論んだ。
問題は、その信金で生じた。通帳とハンコを持って行っただけでは、本人がお金を引き出せない社会になっていた。運転免許証も、マイナカードも私は持っていない。出直さざるを得なくなった。言われるままに健康保険証を持って行った。
かなり待たされた挙句、警察官が立ち会うことを了承してほしい、と告げられた。了承した。ヒョッコリ現れた見知らぬ男に、お金を盗られたのでは、との用心だろう、と睨んだ。
警察官は3人も現れた。何に使うお金かとか、ならばどうして振り込まないのか、などと質問を始めた。大きなお世話ではないか。ムッとした。
虎の子を私は、目と鼻の先にある地銀にご祝儀として自ら持ち込みたかった。そうと分れば信金は寂しいだろう。振り込みにすれば、なんだか地銀には、70年来の付き合いがあるのに、浮気をしていたような印象を抱かれまいか。
信金の想いが次第に、詐欺被害老人撲滅運動中ではないか、と読め始めた。わが家まで警察に護衛してもらうことでケリをつけた。
後日、聞き覚えのある声の警察官から、電話があった。据え置き電話への海外からの通話を「ブロックしてはどうか」との提案だった。このところ、電話での海外との交信はない。後日、最寄りの交番に出かけると、簡単な手続きだった。生活安全課に連絡しておきます、との発言もあった。何もかもが見えたような気分になった。
この日の天気予報は、傘ではなく「折り畳み傘」を持っておくと便利でしょう、だった。、思い出したことがった。アパレル勤め時代のこと。ブティック会社の経営に携わる代表者から聞いた嘘のような話だった。店員の仲人を勤めた折のエピソードだった。
披露宴たけなわのこと。部下が射止めた優秀な大学を出た新郎が、緊張のあまりか、粗相をした。それはまだよかった。問題は、下座に向かって彼は、大声で「ママ、どうしてオシッコをしておくように、注意してくれなかったの」と叫んだらしい。
4.堆肥の山で、義妹と昇さんを交え、ある学習
この庭では、ことのほか“堆肥の山づくり”を大事にしている。この山づくりを思いついてからこの方、片時も休まず、70年近くにわたってブレズに造り続けてきた。オカゲで今の“私なりの豊かさ”を手に入れることができた。
とりわけ、1973年に“生きる理念”を見定めてから、今と同じスタイルで堆肥の山を築き始めた。それがヨカッタ。創造的に循環型の生き方を切り拓く私になり、私なりの豊かさを、複利式定期預金かのように膨らませてきた。
この時期は、この山づくりをする上でとても大事な四半年である。この山の井桁型の躯体を造る材料が、畑や庭から沢山出る時期である。にもかかわらず気温が下がり、腐食が進まず、あるいは腐食の進み方が材料によって大きく異なり、山のバランスを崩し、自然倒壊させかねないからだ。
これまでに幾度か、この山をイノシシに崩されて、生ごみが飛び出し、苦労して築き直している。その都度ココロ新たにさせられる厄介な体験になった。
それらの体験を、イノシシにではなく、己の学習不足や配慮不足で重ねたこともあった。その都度、物言わぬ堆肥の山に“学習するココロ”や“配慮するココロがけ”を育まれて来たように思う。その都度、これで何かを会得すれば、生涯を“無上の豊かさ”で彩れそうな気分にもされた。堆肥の山は、そうしたココロの“増殖センター”のようだ。
わが家は戦時中に、この地の近所の親戚に疎開した。別途、結核病棟の父は山裾の荒れ地を手に入れた。母は“家族の生活から出る有機物”と野草を燃やした灰などを活かす農業と、小学生の私の養鶏で一家を支え始めた。少なくとも私は、生きている実感と生きる自信を育ませてもらえた。だが小学6年生頃に肺浸潤におかされた。
19歳の時に、その母が携わって見せた生き方を、生きる基盤に、と決めている。ライフワークにした。死を覚悟した病気と、受験に失敗したオカゲと言えなくもない。サラリーマンになれた後もやめなかったのだから。
母が耕作放棄して荒れ地に戻っていた3反が、何時しかエコライフガーデンと呼べるようになった。
この“増殖センター”にとって、今年も大事な時を迎えた。夏が過ぎ、冬を迎えるこの時期は、とても大事にしなければならない。この四半年は9月から始まっていた。
写真は9月7日の6時15分。台所の生ごみを投入した。
9月12日には、6時50分に生ごみを持ち込み、この山の窪みに投入した。この日もすぐに、この生ごみをカラスから守るために金網を被せた。その上に重石のブロックを乗せた。
同日の昼前・11時半に、畑で刈り取った自生のオオバとエゴマを一輪車で、この山の側に運び込んでいる。
翌13日の12時15分に、少し萎れ始めた前日のオオバとエゴマを、20数分かけて、井桁のように積み上げた。大きくなった窪みに、生ごみを投入した。その上で、金網を被せ直し、重石を乗せた。この日と、前日の重石を乗せた位置に、ずいぶん注意を払った。
その後、畑でサツマイモの蔓を一部刈り取った。その葉柄の収穫が目的だった。これは、戦中戦後の“美味の思い出”を振り返り、追認するためであった。
当時は、様々なものが配給された。サツマイモの葉柄は、母が総菜として金平にした。これが私には、ことのほかおいしく感じられた。その感覚を確めるために、何年かに一度、わが家ではサツマイモを育てて来た。いわば私の味覚の座標軸の確認だ。
後日、葉柄を取り去ったつるや、畑や庭で出た (タネや球根が付いていなくて、この山に積める)植物残滓、あるいは葉を食用にちぎり取った後のモロヘイヤ)などを、丁寧に山に積み足している。
問題は、この時期の畑では、モロヘイヤなどが茂っており、この腐食しにくい残滓も、たくさん過ぎるほど出ることだ。とても山に積みにくい。
しかもこの時期は、気温が日ごとに下がり始める。バクテリアの活動は鈍るようだ。山は腐食が進まず、あまり沈まなくなる。その都度、腐食の仕方などをおもんばかりながら、丁寧に積み上げる。だが気が付くと、山は高くなり過ぎたり、上細り気味になったり、傾いていたりしがちだ。
写真は9月19日の6時50分。“重し”の位置を、中央からさらに大きくずらしている。
今年は、庭のシホウチク(四方竹)が、気が付けば、10月中旬なのに早、半ば長けていた。例年は11月に収穫してきたタケノコだから慌てた。
「先の方を・・・」収穫しては、と妻に勧められた。長けたシホウチクの先の柔らかい部分だけを折りとって収穫した。佃煮になった。このとても腐食しにくい竹の皮も、この山にこころして積む。
10月末にはマツバボタンの鉢に、勝手に芽生えたトロロアオイが花を、ハナオクラを咲かせた。これがこの年、まともに開花した最後のハナオクラになった。
11月4日に、温室沿いで育っているジンジャーを刈り取った。フミちゃんが堆肥の山の側まで運んでくれた。その後、トウガラシの残滓などは昇さんが運び込んでくれた。それらが、期待通りに分別して置かれていた。
かつては“ごみ”と観てか、一緒くたに積まれていた。過日、漢字の「塵埃(ごみ)」の字の元来の意味と、“生ごみ”を放り込む井桁の何たるか、あるいは資源としてすべてを生かすことになる堆肥の山の仕組みも説明した。その成果だった。
“塵”は、和算では10の二十乗分の1を表し、“埃”は10の二十四乗分の1を意味する漢字である。循環型の社会であった時代は、塵埃(ごみ)は無きに等しかったわけだ。かまどの灰や、落ち毛も資源として回収する仕事があった時代だ。
ジンジャーを14日に、苦心惨憺して井桁に積んだ。次いで、井桁の中央にできた穴に、生ごみをひと工夫凝らして放り込んだ。
ここで言うひと工夫とは、堆肥の山が自然崩壊しないようにする配慮である。その上で、生ごみ容器を洗い、洗った汚水を肥料として(この時期は、そばのアケビの根元に)流した。
そのうえで、堆肥の山に戻り、カラス除けの金網を山に被せ、重しのブロックもまたひと工夫して乗せた。帰途、水が切れた生ごみ容器をやおら持ち上げ、台所に持ち込んだ。以上が朝の、妻が目覚めるまでに済ませておく日課の1つになっている。
14日の朝になった。堆肥の山で、ある問題が生じ始めていた。その原因はすぐに分かった。前日、大量の吊るし柿を作ったが、その剥いたカキの皮を、妻は妹に処分させた。それが、問題を発生させていた。
前日の生ごみを、私は投入するときにひと工夫していた。生ごみは井桁の窪みの“中央に”ではなく、片寄らせて投入し、重しも片寄った所に置いておいた。
その生ごみを、義妹は均等に広げ、その上にカキの皮を丁寧に広げて被せ、生ごみを隠していた。しかも、重しを金網のまん真ん中に乗せてあった。これは、私にすれば“誠に真面目” に“実に不真面目”なことをしでかしてくれたことになる。堆肥の山は、バクテリヤの腐食活動しだいでバランスを崩し、自壊しかねない。
急ぎ私は、重しの位置を元の位置に戻した。次いで、堆肥の山が傾いていることが分かりやすい方角から、写真に収めた。
その上で、カキの皮と下の生ごみとを一緒に、ひと苦労して好ましき位置に片寄らせた。次いで重しを、さらに片寄った位置に置き直した次第だ。その上で定休日明けの翌朝を待つことにした。
翌土曜日のこと。昇さんと義妹の3人で、堆肥の山の側で、学習のひと時を設けた。
まず堆肥の山は、その姿をバクテリヤが刻々と変えてゆく“まるで生き物”である、とまず認識し合った。次いで、この生き物は、自ら大きく育つことはなく、逆に (微生物が生ごみや井桁を刻々と腐食してゆき) 小さくなる、ということを認め合った。
こうしたことを認識した上で、生ごみの入れ方、この生ごみなどの腐食の進み具合、井桁の組み方、あるいは重石の置き方などを工夫しないといけない。さもなければ、山は勝手に倒壊しかねない。
しかもこの山は、生き物だけけれど声を出さない。前もって私たちが、何を訴えたくなっているのかを推し量って、常に先手、先手と打っておかないといけない。今はその一番大切な時期だし、学習できる大切な期間だ、と認識し合った。
実は、私ははここで学んだことが多々ある。あるいは学ぼうとして勤めたことが、会社や学校の経営を任された時に、とても役立ったように想っている。とりわけ女子短大では、心優しい女子学生に確かな手ごたえを感じさせてもらえたように感じている。
5.ディベートができる人になりたい
長堀さんと、まるで “ディベートの醍醐味のような対話” を楽しんだ。前回は、「次回は卵サンドを」と言って別れていた。今回もゲストルームで、卵サンドとオーガニックティーで延々4時間も話し込んでしまった。異なる想いをもって始まった対話でさえ、「なるほど、」と膝を乗り出したりしている内に、共通認識へと次第に近づいていったりしたのだから。
この喜びは、妻の健忘症が始まってから久しく、私は味わっていなかった。次第に妻は、異なる意見にぶつかると、自己否定されたかのような受け止め方をするようになっている。あるいは、認識していなかった事実を聞かされると、混乱しがちだ。「知らなかった」と言って、知り得たことを喜べない。甚だしい場合は、自己卑下したかのようなことさえ口走ることがある。
それだけに翌朝、長堀さんとの「次回の対話が楽しみだなぁ」と、余韻を楽しんでいたら、次のような礼のメールが届いた。
森孝之様
こんばんは。
昨日はありがとうございました。
お忙しいだろうと思い1時間ほどで失礼しようと思っていたのですが、ついつい長居をしてしまいました。お話をするのが楽しくてあっという間でした。
タマゴサンドは本当に美味しかったです。紅茶は私には猫に小判だなと思いました。
私は改めてアイトワさんは採算性という面では全く事業として成り立っていないだろうなと思いました。そしてそれを続けられていらっしゃること自体が生きていく意味なのだと思いました。ゲストが嵯峨野でいい時間を過ごして喜んでくれればいいという御発想だと思うのですが、それはとても人生を豊かにされていることだと思います。世の中にはお金を持っている人はたくさんいますが、こういうことをされている方は少ないと思います。美しい生き方だと心から思いました。
昨日、ゲストのほとんどが外国人であったこと。そのあと二尊院・祇王寺に行った時は結構日本人がいたことを考えると、日本人というのは時間の効率化をやはり考えてしまうのだと思いました。私が自分がそうなのでよくわかるのですが、観光地へ行ったらできるだけ多くを見ようとするのですが、そうではなくそこでお茶を飲みながらゆっくり過ごすということを日本人は「もったいない」と思ってしまうのだと思います。
本当の豊かさとはそうではないと改めて思いました。
とは言いつつ、昨日は二尊院の紅葉が素晴らしく、これまでこの季節には行ったことがありませんのでまだまだ知らないところがあり、またいろいろ回ってみようと思いました。
私は森さんの自然計画には足元にも及ばないのですが、毎月日本の写真集を作り、それをツアーで出会ったゲストに送っています(今では300人を超えています)。
今回は最初から京都の紅葉をテーマにしようと思っていたので写真集を添付します。(あのあと亀岡公園の展望台にも行きました)
通訳ガイドというのは季節労働者なので、これで来年の3月までロングツアーはなく、日帰りのガイド下衆とr-無でを細々とやることになります。次にお伺いできるのは4月の後半だと思います。またお会いすることを楽しみにしております。
もし東京へ来られることがありましたら、ガイドとして御案内させていただきますのでお声をおかけください。
重ねて御礼申し上げます。
長堀
往年の妻を、私は思い出した。妻とは再婚だが、彼女も当初、私の懐具合をとても心配していたからだ。オカゲで、私の懐ぐあいはすぐによくなった。
それは、妻が何かにつけて役に立つ喜びに目覚めたり、創造的な趣味に手を出したりして、生きる実感を感受し始めたオカゲだ。犬や私の年老いた両親の世話や、庭仕事や日曜大工の助手に喜々として取り組んだ。
トイレの便座が、毛糸を編んでくるまれた。隣家の母とは、料理の一品を交換し始めた。父は「きれいにしはるなぁ」と、苗木から育てた桜並木を愛でた。やがて、独学で独創の人形作りに取り組み始め、私が長期海外出張しても、孤独感さえ感じなくなったようだ。ともかく妻は、母がケチだと見るほどお金のいらない人になった。
趣味が高じて、自然発生的に居間のホームこたつから人形教室が始まった。「一緒に人形を創りたい」と、近所のご隠居さんに頼まれ、妻が人形作りを始める前に電話を掛けたからだ。生徒さんが2人になった。やがて、「今かいまか」と電話を待っていたら「手洗いにも行けない」と言われ、教室の曜日と時刻を決めた。お2人ともに京都の老舗のご隠居さんで、妻の張り合いになった。
そのうちに、手土産を考えるのが大変だから「月謝を取ってほしい」と頼まれた。かくして生徒さんが5人、10人と増えていった。ほどなく、市の広報紙でも紹介された。
そうとみた母が、妻のために、人形工房を私に造らせた。この妻にまで愛想をつかされたのでは大変、と私を心配したのだろう。私は好機、とみた。半地下構造の省エネ建物を造ってみたかったのだから。喫茶室も併設することにした。
私の来客へのお茶を、私の手で振る舞いたかった。それがヨカッタ。脱サラし、執筆に取り掛かっていたが、商社時代にお世話になった複数の会社から「顧問に」と、言ってもらえるようになっていた。人形教室を持つ立場になった妻の手を、お茶でまで煩わせたくなかったからだ。
竣工まであと1カ月余の時だった。様子を見にみえた近隣のご夫人・桑原さんが「喫茶店にして働かせてほしい」とご発言。また私は好機、とみた。
手作りの“生活を潤す庭”を解放し、生活を豊かにする循環型の生き方を提唱したかった。サラリーマンしながら24歳で建てた住宅金融公庫の家を皮切りに、20年間のすべての休日と可処分所得を投じた生き方の紹介だった。電柱も自分で立てた。その後、両親も越してきた。生きる実感に無上の喜びを見出し始めていた。
「禁煙にするなら、」を条件に “茶話室を喫茶店”に、を了解した。ハイライト3箱のヘビースモーカであった私だが、それが時代の流れ、と読んだ。喫茶店経営上の赤字は私が補填することにした。自転車で通える主婦が主に、日替わりで経営に当たるような店が開店し、庭を解放することができた。
ピクチャーウインドウで、虫や子どもの目線も意識できるようになった。
秋の紅葉シーズンだけだが、学生アルバイトや友人のお世話にもなれる日々があった。これも励みになった。
オカゲで、桑原さんには今も、40年来勤めてもらえている。わが国初の禁煙飲食店と称せられることになった。
この間に、妻の生徒さんが10数人になっていた。これも好機と見た。人形工房が手狭になっており、さらなる省エネ構造の新棟を造りたかったからだ。
旧棟よりさらに1段掘り下げて (旧棟は石張りの床で甘んじたが、結露などの問題がなかたので)床を板張りにできた。草屋根も試みた。この時に旧棟の人形工房は、ゲストルームになった。
このゲストルームで今回も、長堀さんにはこの店の採算性を気にしていただけたわけた。でも私流の計算では、十分に採算が合っている。なにせ喫茶店にしたおかげで、こうして長堀さんにも巡り合えたのだから。
返信は、遅れはしたが、この店が誇るオーガニック紅茶を主テーマに選んで、発進した。この真価を私も感じ得ていないのだから。
長堀篤様
おはようございます。
返事が遅れ、失礼しました。
実に楽しい語らいでした。
あの紅茶が「猫に小判」はよくわかります。
実は、この歳になった私も、同様なのです。
時には、ありきたりの濃いめの紅茶の方が、むしろ、と感じています。
大学3年生の時でした。友人と夏休みに、国鉄の“青森までの鈍行周遊券”で旅をしました。行きはおもて日本側。青森から青函連絡船で北海道まで渡り、帰途は裏日本側の旅路でした。
北海道の牛乳がおいしい、と聞かされていたので、とても楽しみにした旅でした。駅ごとに、と言ってよいほど牛乳を飲み、うどんやそばが食事代わりのような旅でした。行きは、あちらこちらで途中下車し、弥次喜多のような、思い出たっぷりの旅になりました。
結局、北海道の牛乳が「おいしい」という体験をせずに、帰途に就くことになったのです。
帰りは青森から特急日本海を奮発し、一晩で京都まで戻っています。夕食は駅弁、途中で幾度か牛乳を飲み、朝食は京都駅でとったように思います。
この旅を終えて、印象に残ったことは多々ありますが、牛乳の味もその1つでした。北海道の牛乳は「おいしかった」、でした。
美味しい味を覚えてから、まずい味に触れると、チョットの差が分かるのでしょうね。逆に、まずい味から始まって、だんだんおいしい味になったのでは、差が分かりにくいようです。
私にとっての紅茶は、戦時中から始まった代用食(当時はパン食を、こう呼んだ) に着いた紅茶でした。毎朝、紅茶を嗜み、朝食はパン食、の家庭となり、それが大学時代まで続きました。
就職し、すべてご飯食の寮生活が始まりました。ほどなく“薬切れ”症状が始まりました。紅茶が飲みたくて、飲みたくて、仕方がない症状でした。
後年分ったことですが、それはカフェイン切れだったのです。
実は、このオーガニック紅茶にはほとんどカフェインが含まれていないのです。その理由はどうやら、ストレスを受けずに育った茶葉を使っているから、のようです。これは、京大で(農業の工業化を非難して)干された農学博士の意見です。私は得心しています。
どうやら私の体は、紅茶といえば今も、カフェインを期待するようです。
紅茶といえば、私には強烈な思い出がもう1つあります。1973年の出張帰りの機中でした。ロンドンから羽田、だったと思うのですが、一人起きて書き物をしていました。スチュワーデスに「紅茶をいかがですか」と勧められたのです。その一杯の紅茶は、至福のひと時となり、今も時々思い出します。
続きは、次回お目にかかれました折にでも。
お体ご自愛ください。
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アイトワ
森 孝之
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PS: この度の、私たちの往復書簡ならぬメールを、公開してもよいでしょうか。
もちろん「ダメ」のお返事でも結構です。ご判断ください。
わが家の庭は今、紅葉が真っ盛りです。
それもこれも、自然体がヨカッタようだ。1973年に「生きる理念」を見定めたが、そのオカゲだろう。
この想いは、“今の自分”にはチョット厳しいが、“明日の自分”をココロ豊かにするに違いない、と信じる方向であった。覚悟を決め、自分を信じて迷わなかったのがヨカッタ。お金さえ出せば手に入るモノやコトに、惑わされずに済む生き方がヨカッタようだ。
6.その他
1、嬉しい知らせや悲しい知らせ。当月最初の嬉しい知らせは、偶然の出会いがもたらした封書だった。先月、海老崎棟梁をわが家にお迎えし、人形展示室にもご案内した。その折のこと。ご来店いただいていたご夫妻と、交歓の機会に恵まれている。
そのご夫妻から、ツワブキがこの庭で咲き始めた日に、とても暖かくて有難い知らせをいただいた。いつ再会できるのかなぁ。
この喜びが冷めやらぬうちに、この庭でカリンの実が落ち始めた。その日のこと。当月最初の悲しい知らせに触れた。40年来のお付き合いを願ってきたご夫妻の、ご夫人からの、とても悲しい知らせであった。このお2人との出会いも、開店間なしの頃の喫茶店だった。喫茶店の秋の繁忙期に、彼女は泊りがけで手伝いにも来てもらえた。
このお2人は、私たちを実質上の仲人のような立場にして下さった。その後、私は1度きりだが、父亡き後の母を温泉旅行に誘っている。それは、このご夫妻に迎えてもらえ、終始アテンドしていただけたオカゲだ。
何とも悲しくて、淋しい知らせは、その夫の夭逝の報せであった。
その後、AGUをはじめ、嬉しい知らせにも恵まれた。だが、年末恒例の淋しい通知にも多々触れながら、師走を迎えることになった。
2、相談事での来訪者に、当月も恵まれた。当月の相談事の皆さんは、性別を問わず独身者だった。そのお一人は、就職氷河期世代であった。手に確固とした職を持たれていた。だが、生きている実感に欠ける、とおっしゃった。確たる未来が見通せない。生きる目標や、存在している実感が、チョット希薄なご様子だった。
だから、書架の一角を探った。一著を選び出し、「必ず返して下さいね」と念を押して、お貸しした。『菜園家族計画』構想の一著だった。この構想は、わが国が工業文明の次に目指すべき方向を示している、と私は睨んでいる。
お見送りした後で、2つの切り抜き記事を読み直した。1つは、先月2日の記事で、当月記先月分で取りあげた「英は廃棄へ プルトニウム生産 説明が必要」であった。英国が、プルトニウムを未来世代への負の遺産と見定めて、ごみとして廃棄することを決めた記事だ。
その見出しにある「プルトニウム生産 説明が必用」の部分が、「誰が、誰に、であろうか」と、気になっていた。
2つ目は、先月末日30日の次の記事「“政策は未来のために”法で規定」であった。だが先月は、この記事を、事情があってその日のうちに読んでいなかった。
その後、わが国では、現首相が「台湾有事」や「そんなことより」発言をした。だから、すぐに、先月の「誰が、誰に」は、「読めた!」と、叫びたくなった。
憲法9条を持っている国なんだから、「この宇宙船地球号で、人間同士がケンカなどし合っていてもいいのか」「人類共通の敵、気候変動などに立ち向かおうではないか」と、ケンカに割って入る国になってほしい。殺人剣を活人剣にしたサムライニッポンではないか。
3、喫茶店の厨房で、ブレーカー事件。喫茶店の厨房で、ブレーカーが落ちた。冷蔵庫だけでなく、テラスの豪雨対応自動排水モーターにもつながっていた。大いに慌てた。いつ線状降水帯に見舞われるか、知れたものではない時代だし、国だ。
冷蔵庫は、別のソケットにつなぐことで難を逃れた。即、掛かり付けの町の電気屋・中尾さんと、太陽光発電機の高等電気さんに連絡した。共に飛んできていただけた。落ちたブレーカーはすぐ復旧した。だが、作動した原因は分らず仕舞。
やむなく、次回の作動を要観察、要注意で解散した。すぐに飛んできてくださることになった。つくづく、モノを安く買おうとうる生き方ではなく、どのような社会を目指すべきかなど、生き方を相談し、生きる仕組を学び合いながらモノも買う生き方がヨカッタ、と感じた。即アフターケアーに預かれた。
4、ミツバチが全滅、を確認。順調に採蜜し始めていた。にもかかわらず、巣虫に侵されて、全滅していた。疑問も残った。土台と巣箱を固定する丈夫なロープが、2か所で切断されていた。刃物ではない、嚙み切った痕、と睨んだ。
養蜂の師匠・志賀生美さんと茶飲み話ができたのもヨカッタ。昨今の “熊事件” から語らった。カキの木が、全国的に実が着いたまま放置されている現状も、話題にのぼった。それもこれも、掘り下げて行けば、ことごとく “消費者ごっこ社会” に根がありそうだ。
生きる知恵や勇気だけでなく、生きる実感の何たるか、をまた感受させていただいた。
5、“ある相談で”堀田さんを迎えた。堀田さんは、バケットパンを土産に下さった。先月の3日に、山口で次男と長女連れの母子を紹介してくださった。その元世帯主で、長男と暮らしている男性が、生業として焼かれたパンであった。キット旅の帰途で、私は「一度食べてみたい」と、口走っていたのだろう。
お見送りした後のことだ。このパンにブルーチーズを塗って、「ほれ!」っと、妻にも体験してもらった。思っていた通りで、とてもおいしいパンであった。
相談事とは、大げさな言いようだが、未来をおもんばかっての内容だった。今年米寿を迎えた私の瞼には、80年ほど先の日本の姿が映っていそうな気がするのだから。
この国の未来世代は、この国土のきれいで豊かな水資源と、江戸時代に培い、守ってきた職人技、そして敗戦後に植林したスギやヒノキを主とする木材資源が、大事な生きる糧になっていそうに思われる。こうした想いに沿って、人生を狙い定めて生きる若者がいてほしい。ならば、この私に役立てることがあれば「何とかして・・・」との想いを伝えたかった。
6、この冬を迎えるための “大草刈り” に着手。8日土曜日のこと。裏庭で、イラクサだけ私が刈り取って、その後の大掃除は、昇さんにまかせた。私たち夫婦は、妻の剥離骨折の経過検診で、出かけなければならなかったからだ。
妻の治療を待ちながら、“ヒポクラティスの誓い”を読み、原文がとても気になった。
帰途、昇さんに頼んだ作業内容の意味が、うまく通じていたか否かを心配した。ミョウガは堆肥の山に積めるように。長けたワラビは刈り取ったところに敷く。ヤマウドは・・・などと、この庭での伝統や、その意義を伝えて、出掛けていたからだ。
帰宅後、衣服を着がえて、妻と庭に出た。頼んだ仕事は上手く通じていた。
当月最後の大草刈りは果樹園で、昇さんと2人で取り組んだ。ほどなくモミジの落ち葉でのマルチングが始まる。
この日の妻は囲炉裏場で、焚火を受け持った。私は畑仕事をしながら、囲炉裏場に時々足を運び、剪定くずを燃やし易く細断したり、焼き芋の準備をしたりした。昇さんは裏庭で、草刈りを終えた後は、キハダの木の剪定に当たった。
この日の午後のお茶は、この冬初の“焼きいもと冷たい牛乳”であった。3本の焼きいもは、それぞれ味わいが異なった。
7、ワークルームの整理と、人形展用のディスプレイ具造り。「ボツボツ始めるか・・・」と、ワークルームの整理に手をつけ始めた。その第一歩として、天窓屋根からぶら下がる品々の整理を選んだ。昇さんにはそれを、人形展で用いるディスプレイ具にしてもらった。
8、明日のわが身を見た思いがした。これも狂い咲きの類いだろうか、との疑問を、17日に視た1頭のモンシロチョウに抱いた。奇形? と疑った。
ジンジャーを、堆肥の山に積むために刈り取った。1本だけ花をつけ、葉も青々としていた。「狂い咲だろう」といってキッチンに持ち込んだ。ことの他こうしたことを、妻はとても喜ぶようになった。
妻が呼んだので、腰をあげた。カキの実に「これも奇形?」 と視たタテハ蝶が留っていた。
次は、カキの実をむいていた妻が、手を停めた。その1つに小さなマイマイがいた。
その後、あちらこちらのカキの実で、小さなマイマイを見つけた。
マイマイはいずれも別種に見える。越冬する前の食事中かな。
今にして思えば、モンシロとタテハの2頭のチョウは、羽化して間がなかっただけ、のようだ。今頃、羽化するなんて、と思った。
10、餅搗き。妻が当年2度目の餅を搗いた。昇さんが見えた日で、昼食は安倍川餅になった。彼が大変な“餅好みの人”だと知り得た。
そのオカゲかセイか、この度は、澄まし雑煮には4度しかあり付けなかった。しかもそれらはいずれも尋常な澄まし雑煮(青菜、シイタケ、カマボコ、あるいはカシワなどが入った)ではなかった。しかし、珍味であった。
11、初見のキノコと、久しぶりのキノコ。当初は、キノコだとは気づかなかった。ブロワーで落ち葉かきをして、初めてそうだと分った。帯状に出ていたのだから。
2日後に「頭部は?」と、気になって、確かめた。ブロワーで吹き飛ばしたり、腐食させたりしたようで、不明に終わった。次に出た時の、このモヤシのようなキノコの点検が楽しみだ。
5日後のこと。この庭で見かけたのは2度目のキノコ、ヒメツチグリと出会えた。イノシシスロープの野小屋の近くで、ハザカケの北側のスロープ脇であった。
前回は? と確かめた。14年前の11月11日に発見していた。その場所は記録していないし、記憶も飛んでいる。
モヤシのようであったあのキノコに、私はもう1度、巡り合えるのだろうか。
12、ボケの狂い咲き。11日に、庭に3本あるボケの1本で、狂い咲きを見た。
13、チンゲンサイの畝作り。コカブとチンゲンサイは、昨年のタネを厚播きして、トンネル栽培にしてあった。その覆いをとると、コカブは20本ほど。チンゲンサイはたくさん、自然生えの野菜に混じって芽吹いていた。
そのチンゲンサイを、間引くような形で掘り出して、苗として活かした。一畝分相当量を育てることになった。チンゲンサイの間引き菜を、苗として生かす本格的な移植は、新しい試み。
14、鈴江さんが、久しぶりに来訪。体調不良で寝室に追いたてられ、寝込んでいた。妻が様子を見に来た。それは来訪者の知らせでもあった。アリガタイことに、鈴江さんだった。その後のことが気になっていた。
事業家の如くに、しっかりした生き方をしていた。見送った後は、読書の時間にした。オカゲで、早寝早起きの睡眠リズムを崩さずに、翌朝を迎えることができた。小食で済ませ、岡田さんを待った。
15、岡田さんの、久しぶりの映画会。フミちゃんと昇さんもお待ちかねだった。映画は邦画『ボックス』が選ばれた。元ボクサーであった青年が、殺人者に仕立て上げられた冤罪事件が題材で、ドキュメンタリーであった。
この映画を観たか見ないかで、何かが変わりそう、との心境にされた。検察にすれば、何とか犯人を捕らえたいのだろう。その願いが、かくなる冤罪を、国民の税金と国民から付与された権力が生じさせたわけで、残念でならなかった。権力機関が “疑わしきは罰せず” の精神を忘れるようでは、国は乱れる、国民の少なくとも愛国心は育めない。
喫茶店はこの日、賑わっていた。だから、鑑賞の余韻は、人形工房をかりて味わった。
16、冬到来を告げる朝焼け。今年は異常な気象で散々な目にあった。その異常が、ことのほかモミジを映えさせるのかも、と変な期待を、狂ったような期待をしたくなるような朝焼けで、26日は明けた。
屋内に戻ると、カーテンが高揚していた。
17、門夫妻と、妻の失調について相談。京都に出てこられたついでに、久しぶりにご夫妻で立ち寄っていただけた。妻の健忘症について、助言を頂きたかったからだ。
ご到着の時に、”“カイ&ベンテ夫妻に送ると言って、紅葉の愛でていただけた。今やデンマークの共通の友人は「お元気かなぁ」
この月の最後の来訪者になったご夫妻に、とても有難い助言を授かった。買い求めてあたあんぽ柿を、渋めのお茶で味わうこともできた。お金さえ出せば誰にでも買えるあんぽ柿だが、なんだか値打ちがとても高まったような気分になった。
18、報道で、気に留めたこと。先月の、未来世代を見据えた英国の2つの記事を、改めて見直した他に、次の記事に目が留まった。
a、メディアリテラシーで格差が。「分かち合えば余る。奪い合えば足らない」という考え方がある。そう遠くない未来に、人類が幸せに生き残っているとすれば、循環型社会を創造的に切り開き、意識は大きく変わっているに違いない。国ごと、地域ごと、あるいは家族ごとでなど、もちろん特色だけでなく、今の目でみれば格差なども生じているだろう。
だが、それが「特色だ!」と、ヒトが胸を張れる人になっていてほしい。そうなっておれば、それぞれの構成員のメディアリテラシー力が大きくかかわっているのではないだろうか。意識は、地球人になっているのではないだろうか。私たちが、藩人から、日本人になったように。来年の初夢で、地球人になっている自分を見たいなぁ。
b,マイナ保険証のやるせなさ。最新のパスポートが、国内では本人証明の体をなさないわが国だ。案の定、マイナンバーカード制度は、“民主主義の想い”が生み出してはいなかったわけだ。この制度は、次々とほころびを露呈するだろう。やるせない。
c、本当の幸せとは? このような説明の仕方もあったんだ。
19、かわいそうな総理。この度の騒ぎをニュースで知っただけの時のこと、「こんなことを言わせるなんて」ケシカランと、総理を気の毒におもっていた。その後、朝日の19日付けの次の“時時刻刻”を読んで、想いが一転した。
いわゆる本音が出たのかなぁ。今度は、私たち国民がまた、かわいそうな目に合わされそうだ、との心配になった。何が正しいのか、との気になった。
かつて、中曽根総理はたしかレーガン大統領に、わが国土を「不沈空母」とおもってください、といっておべんちゃらしたことがあった。 当時、友人に、おべんちゃらでは済まないよ、と叱られた。日米安保条約では、アメリカは日本を守ることになっている。だが、日本人を守る、とはなっていないんだから、と言って叱られた。
この度の、この件で、世間が大騒ぎし出した時のこと。本当のところは? と気になった。安倍政権時代にしでかしたこと振り返りながら、新聞などを調べた。“時時刻刻”よりも、もっと納得できそうな記事に行き当たった。
日本は大丈夫か、と心配になった。この心配は、翌日の“素粒子”の3節目に、見事に言い当てられたような気分になった。わが国は当時、国際連盟の常任理事国の立場を顧みず、松岡代表に啖呵を切らせた。
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国民は溜飲を下げた。ほどなく、勝った勝ったの提灯行列が繰り返されるようになっていた。同じ坂を、転げ落ち始めたのか、と心配した。
「まさか」とまだ、半ば何かにすがるような気分が残っていた。だが19日の、読みそをこねていた朝日の “時事小言” を読み進み、トドメを刺されてような心境にされてしまった。
もう一度、先の素粒子を読み直した。
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この第1節は、時事刻刻を読む前の私の気分では「かわいそうな総理」であった。
言われてみれば、安倍政権時代、閣議決定で民主主義の底が抜けたかのようなことが繰り広げられていた。
日本は大丈夫か。世の中には、自分の言った言葉に対して“責任を持つ人” と "こだわる人" がいる。“責任を持つ人” は、間違いを、間違いと気づけばすぐに訂正する。
組織勤めなら、“こだわる人”を上司にもったら大変だ。
「それにしても」と言う人がいた。中国外務省のアジア局長が、日本の代表に対して示した態度はケシカラン、と。私もそう思う。
だが後で、私は反省もしている。太平洋戦争時の、ある一場面を思い出したからだ。シンガポールで山下将軍が、敗軍の将パーシバルに対して示した態度だ。イエスかノーか、と机を打って迫った場面だ。もちろん敗戦後に知ったことだが、恥ずかしかった。歴史はよい方に繰返してほしい。
そんなことよりと、もう一度想った。
日本は世界中の国際的なケンカには、割って入る立場になってほしい。憲法9条だけでなく、いよいよなら、それを国際的に裁いてもらえる女性まで、わが国は排出している国なんだから。彼女は身びいきなどせずに、日本や日本国民、あるいは日本女性の歴史的評価を高める人であるはずだ。
20、人命軽視・戦争犠牲者。先の戦争での戦死者は、310万人だと私は信じていた。ところがこの度、民間人の戦死者が大幅に増えて376万人だとする、信ぴょう性が高い調査結果を新聞報道で知った。
この数に驚いたのではない。国は、内地邦人の戦争犠牲者の数をよく調べもせずに、50万人と国民に教え込み、受忍させ得るとみて来たことに驚いた。もちろん、この度の数字が間違いであってほしい。国を信じたい。
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まだまだ私たちは、大事にしなければならないことが、多々ありそうだ。
このような想いや気分で月末を迎えた。庭では今、、タネから育てたモミジ真っ盛り。
モミジ越しの日の出を愛でて下さる方も。
これらの親木を、わが家では“シンボルモミジ”と呼んでいる。19歳の時に、祇王寺で、今は亡き庵主・智照尼さんから苗木をもらった。
テラスでも紅葉が迎えるし、振り返ったり、帰路の階段で見上げたりさせる紅葉もある。楓の木はほとんどが、この“シンボルモミジ”の子や孫、あるいはひ孫ややしゃ子などだ。