目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 農業は国防。国民はせめて個別であれ主食の安全保障を
2 1泊2日の山口・広島の旅、本質と属性に想いを馳せた
3 浅き“深切”が仇となった
4 イトトンボが再び、繁殖するかもしれない
5 偶然や久方ぶりの触れ合いに、感謝した
6 商社の同期生に、カルチャーショックを受けた、などその他
農業は国防。文化は国家の精神、法を越える領域
神無月の初日は、まことにありがたい電話で明けました。義妹のチョットした配慮不足が生じさせた20年来の“コメの安全保障”問題が、雨降って地固まるがごとし、になったのです。加えてこの日はもう一つ、予期せぬことがありました。長津親方が「これから・・・」との電話の上で、お訪ね頂け、あるお手伝いができたのです。そして上旬は、10日の夕刻でした。また親方に「翌日に備えて、」と、お訪ねていただくことで暮れています。
この間に、次の11のトピックスがありました。野鍛治の堀田さんと1泊2日で、山口と広島を訪ねた。昇さんに畝をつくってもらい、第1次冬野菜の準備を終えた。他に、フミちゃんの来訪再開と、ハクモクレンの種房が7日(火)から落ち始めた。知範さんに月記原稿の引継ぎ。望さんのオカゲで、アイトワの字体ロゴがリフレッシュ。個離庵横に積んだ薪が、自然倒壊。心臓の定期検診。異常豊作のカキの採取が始まる。妻が、先月私が見つけた所とは異なる場所で“朝青”を発見。加えて、ごみ出し(週に1度の燃やすごみ、プラごみ、そして空き缶に加え、月に1度の古紙) にことなく携われ、慣れたことです。
ちなみに、山口では、駅前のレストランで、堀田さんが親友の元妻子との歓談に陪席。岩国では“錦帯橋”の何たるかの見学と学習。そして帰路は、広島に立ち寄り、堀田さんにも紹介したい人・吉長成恭先生のお宅をお訪ねし、予期せぬ喜びに恵まれました。
中旬は、1泊2日の “「匠」の祭典を仕切り直す集い” で明け、2泊3日の関東出張の初日で暮れました。この仕切り直す集いの結果は、「おかげさまで」と、長津親方は喜んでおられました。だが、堀田さんも、私と同様に、物足りなさをお感じではなかったか。
この間のトピックスは、錦帯橋の棟梁をわが家にお迎えすることに始まり、次の10件でした。関東への出張準備の総仕上げ。昇さんと、自然倒壊した薪の積み直し。精神病理学者で旧友の野田正彰ご夫妻と歓談。スズメバチの女王が寝室に、なぜか2度も侵入。買い物に出たスーパーでの帰途、妻が車中に閉じ込められ、大慌て。16日、雨が「降り出す前に」と、まず昇さんとブロワーで落ち葉掃除。次いで自然倒壊した薪の積み直しに着手。この最中に、来店客と楽しい交歓。商社時代の同期生と、ZOOM交歓会。昇さんの車で市民講座 “命のフォーラム” に妻も同道で出かけ、鍼灸の何たるかを学んだ。そして小雨の19日(日)は、昇さんと個離庵の一部補修に着手。そして、雨の止み間に冬野菜をトンネル栽培にした。
2泊3日の関東出張は、人間の未来に夢を抱く勉強会でした。しかも、初日の夕餉では、お嬢さん同道の高潔な御仁と(お招きいただけていたので)4時間もご一緒できたのです。勉強会も爽快でした。
帰宅翌日は、PC作業で陽が傾くまでに旅の疲れを癒し、やおら妻を外科医に連れて行きました。魚の目の治療で(靴の中敷きも要していたので)その最終点検でした。なのに、帰宅時は、くるぶしから下部が、石膏ギブスで固められていたのです。それは、ついでに診てもらった左足甲の痛みが原因です。帰途、ふと“孔子”に、『すぎたるはなお、及ばざるがごとし』に想いを馳せたのがヨカッタ。
その後、居間、畑、あるいは庭で、昆虫の珍しい生態、アサキマダラの飛来、あるいはヒメカマキリなどと遭遇し、気分は少年に返っています。畑は、昇さんが、3種の夏野菜の支柱を片付け、冬野菜の畝に仕立て直し、私はスナップエンドウやルッコラの作付けや苗づくり。彗生君はアーチを立てる穴を掘り、フミちゃんと妻は除草に、と励んでいます。
そして月末に、大垣とフランスから旧友に立ち寄ってもらえ、旧交を温めたり、アリコさんのレッスン時に近況を知らせてもらったり、でまた1カ月が過ぎ去ったのです。でも、チョット気掛かりなことを翌月に回しています。
~経過詳細~
1.農業は国防。国民はせめて個別であれ“主食の安全保障を”
初日は、心にしみる1日になった。2004年夏の海外旅行・スリランカグループツアーを、懐かし気に振り返ることから、1日が始まったようなことになった。それは、この旅は、主目的を十分に果たして帰国している。しかもその上に、その後、次々と付録に恵まれるようになったからだ。しかもこの度は、その1つを追認し、得心するに至っている。
最初の付録は、わが家のコメの安定需給態勢を強化できたことだ。それは、この旅に有機栽培米農家の主もご参加で、数日にわたって話し込む機会に恵まれ、意気投合したオカゲだ。結果、このコメ農家と、コメの安定した需給関係を成立させている。
本来なら国が、国民と主食の安定した需給関係を固めるべきだ。その発想がないのなら、、せめて個別的であれ、量的に安定した需給関係を国民が個別に固め、イソップ物語ではないが、“キリギリスではなく、アリの仲間”が増える国へと広がるキッカケにできれば、と願ったわけだ。
この旅の、私にとっての主目的は、“サルボダヤ運動”の実態に触れることであった。この運動は、工業化に出遅れて、未だ農業国のスリランカにあって、工業時代を経ずして一足飛びに“次の時代”に移行しようとする動きであった。元は生物の教師のアリヤラトネさんが提唱し、「成功裏に展開している」とNHK=TVの報道で知った。
即“第4時代”への移行を夢見て来た私は、サルボダヤ運動は、私が目指す第4時代と同じもの()ではないか、と観た。なんとかして訪問し、その実態を目の当たりにしたい、と願うようになった。その願いがかなったわけだ
サルボダヤ運動の本部も訪ね、意見を交換することもできた。
サルボダヤ運動の本部庭園にも訪れておいてヨカッタ。
オカゲで、後年のことだが、次の付録に恵まれている。この庭が、白砂伸夫先生(バラ園の作庭家としても有名。昨年はSDGs関連の叢書つくりで共著者仲間に入れて頂いている)の作品であったことを、教えられるに至ったからだ。
それは、その後、白砂先生との縁が始まっていたオカゲだ。かつてわが家の庭で、橋本宙也さん(マクロビアン活動家)一家と、餅つきパーティを開いた。そこに白砂ご夫妻も参加して、お訪ねていただいていたからだ。
先生と親しくなった。ある時、自論・第4時代到来論を開陳し、サルボダヤ運動を引き合いに出したことがある。その時に、「あそこの庭園、ボクが創らせてもらった」とおっしゃった。柄も癒えぬ喜びに恵まれるところとなった。
3つ目の付録は、その後、アイトワの喫茶店で、スリランカの稀有なオーガニック紅茶を振る舞えるようになったことだ。これは当月記の今年8月分で、既に触れている。
問題は、最初の付録が、一旦ご破算になっていたことだ。過日のコメ不足問題が発生した時に、その事実を知った。義妹が独断で“半年分の前払い方式”をやめて、勧められるままに “入用時の発注方式”に切り替えていたことが原因だった。
そうと知ったタイミングが悪かった。わが家の“コメの安全保障”方式を誇りたく想ったわけだが、時既に遅しだった。もちろん急ぎ、前払い方式に戻させようとしたが、農家に「コメがない」を理由に、「断られてしまった」という。
タイミングが悪かった。市中ではコメの価格が(政府が食糧政策を間違えたセイで)高騰し、乱れていた。前払いが続いておれば、安くついていたわけで、誤解(確保する量の安定が目的であった方式が、安値狙いであったかのように誤解されかねない) を恐れ、黙して語らず、を守らざるをえなかった。
これで、縁の切れ目か、と思っていた。そこにこの度、このコメ農家から私宛に、「先だってはお米がなくてご迷惑を」かけた、との電話をいただけたのだ。
おそらくこの農家は、定期買いをしていなかった人にも、せがまれるままに応じて、売り切ってしまっていたのではないだろうか。
悔やまれた。「残念だなぁ」とも想った。なぜなら、スリランカの旅で意気投合した有機栽培米農家の主は、その後夭逝されており、今は亡き人になっていたからだ。
ご存命なら、語り合いたいこと、思い出し合いたかったことがたくさんあった。この農家の主とは、この度生じたようなことを読み切って、意気投合しあっていたからだ。せめて、そう遠くないうちに、跡を引き継がれた夫人と息子さんをお訪ねしたい。
こうした夢を、この度つなぐことができるようになったことを、ともかく喜んでいる。
大事なことは、日本人にとって、コメは主食品にすべき作物であって、必需品である、ということだ。義妹には、農家の言い値で、わが家と義妹の需要分を、半年分前払い方式で確保させることにした。その値は前回より上がっており、私はむしろ安堵した。
まず、昇さんを誘った。そうと知って、フミちゃんも仲間に入りたい、と願い出た。
今後、政府がコメ政策をさらに間違い、米価が一時的に暴落することがあるかもしれない。それでも、この2人が、この農家がやって行ける価格で、年間買い付けを保証してくれたら、常連として認めたい、と希望している。
わが国は“有ればあるに越したことがないシロモノを、外国に売った収益”で、“なければ生きて行けない代物を外国から買う”ノー天気な国に成り下がっているのだから。
愚かな大臣は、この度の程度の騒ぎで、備蓄米を放出した。本来は、国民啓蒙の好機にすべき時であったはずだ。にもかかわらず、安い国から、アメリカから輸入すればよい、などとのたまった。情けない。
本来なら、主食政策の根本を語って見せるのが愛国心であり、職務のはずだ。まるで売国奴のように、私には見えた。国民も、国民だ。惑わされてはいけない。
最たる必需品のなんたるかを考え、農家の立場を第一に位置づけ、存立条件を満たし、尊重すべきだ。国民は消費者に留まらず、いざという時に備え、農作勤労奉仕ができる能力を前もって備えておくべきではないだろうか。
余談だが、スイスは永世中立を国是にしたが、いわば国民皆兵性にしている。青年は皆、期間限定だが兵役義務があった。そうと訊いたはお宅は(視ていないが)軽武器だけでなく、裏庭には高射砲がある、と聞いたように記憶する。
このような想いを抱かせられるほどの、農業も国防だ、と睨む私 (戦中戦後の思い出だが、幾人もの幼友達が栄養失調で死んでいった) にとっては(この度の、農家からの電話は)大きな付録であった。
これらに加えてこの間に、もう1つの付録があった。それは、サルボダヤを訪ねた10年後のことだ。2004年に訪れた折は、アリヤラトネさんは海外出張中で、その夫人とご子息にしか会えなかった。だが、2014年秋のこと。アリヤラトネさんが来日されたが、楽しい交歓が出来たことだ。
かくのごとく、水無月の初日は、有難い電話と、こうした思い出を振り返ることで明けた。その上に、15日後のこと。京都新聞は「農業は国防」との一面記事を掲載した。
思い出したことがあった。先月の“9条の会・最寄り支部”が発行した9月号ニュースで、次の一文を取り上げていたのことだ。鈴木宣弘先生のご意見を引用していた。こうした学者が想い描いている心配の根源こそが、真の愛国心ではないだろうか。
2.1泊2日の山口・広島の旅、本質と属性にもいを馳せた
野鍛治の堀田典男さんが山口県まで、車で出張すると知って、便乗を願い出た。まず堀田さんと話し込みたかった。その出張目的にも心惹かれた。
岩国では、創建1673年来、350年余の歴史を誇る錦帯橋(海老崎家という棟梁一家が、江戸時代から世襲で護ってきた)を見学できる。しかも、この平成の架け替え工事をしきった棟梁・海老崎粂次(くめつぐ)さん(日本の5大棟梁のお一人)を「お訪ねできそう」だった。
ついでに、山口駅前で前泊し「僕の親友が“離縁した元妻子”との会食も」と聞いた。私が割り込んだのでは、と躊躇したが「むしろ有難い」とおっしゃる。
ならば帰途、広島に立ち寄って、お尋ねしたい学者があった。この巨視的な眼をお持ちだし、それだけに懐がお深い学者と、実直な職人である堀田さんとなら、キット互いの琴線が・・・などと期待が膨らんだ。
問題はわが家の妻だった。「帰ってみたら、私はいなくなっているかもしれませんよ」とむずかたった。時が時だけに、説得に努めた。“「匠」の祭典”のいわば “仕切り直しの催し” が1週間後に迫っていた。しかも、その開会の挨拶を、と長津親方に依頼されながら、私は固辞した。翌日の当日限りの挨拶ならば喜んで、と応えてあった。
大工職人の世界とは門外漢の私だが、仕切り直す意義を述べてみたい。職人の賛意を得られたら、今後のこの催しの進め方を語らうムードを醸し出し、語らって進むべき方向を見定めたい。
加えて別途、親方と堀田さんから、心配事を個別に聴いていた。親方は、この度も10名近くものそうそうたる発言者などの賛意を得た。にもかかわらず、参集者が少ない、とのご心配だった。もとより私は、間近になっての1泊2日の呼びかけでは、応募者は少ないだろう、と睨んでいた。
他方、堀田さんは、むしろ少なくスタートして、この催しの意義や今後の進め方を見定めることが先決ではないか、との意見の持ち主だった。問題は、この意見が親方と噛み合わず、苦言を呈してしまった。つまり、“職人道に反すること” をしてしまったことになる、との心配だった。
親方の心配事は、善後策 (参集者が少ないことや、集いの狙いなどを事前に通知することなど)を話し合って、既に手を打ってあった。この心配は無用になったはずだ。
他方、堀田さんの意見は妥当だと思われたし、親方との衝突は互いの善意や誠意が、言葉足らずであったことが原因、と思われた。
西国の旅程は「3日(金)から1泊2日」で、決まった。しかも、8時半にピックアップして、送り迎えをしてもらえることになった。妻は少し安堵した。
3日の朝を迎えた。洋風の朝食がたっぷり出た。デザートは瞳さんの先月の手土産・イチジクのコンポートの、最後の1つだった。庭ではアイの花が咲き始めており、異常な豊作になったカキが色づき始めていた。
昨年は、カキが1つも実を着けなかった、と言ってよい。だから、蔕(へた)喰い虫などが、いわば飢饉に苛まれ、子どもをつくれなかったのでは、などと考えながら車の人になった。順調に走った。
3つ目のICを経たあたりから、天候が下り坂になった。車は走り続けた。その後、道中で3度驚き、ICで1度心がなごんだ。
まず異様なまでの立体交差で、逆走しかねない。トンネルに次ぐトンネルも、耐用年数が来た頃は、と心配した。加えて「こんな、危険な物を積んだ車が真昼間に、」と驚いた。次いで、あるICでは小さな親切が目にとまった。
そのICでコーヒーを飲みながら、海老崎棟梁が奥さんを亡くされ、お一人住まいだ、と知った。逆の立場なら、と私は所帯じみた土産を思いついた。堀田さんに相談すると、同意を得た。幾つか買った。これで、お目に掛かれる可能性が高まった、とみた。
この間に、小さな親切の帽子はなくなっていた。
ホテルには暗くなる前に着いた。山口の駅ビルで、時間キッカリに予定の母子と会えた。次男と長女を連れて、母は故郷に戻り、国家資格を活かして生計を立てていた。2人の子どもは、伸びやかで、小学生の長女には、孫のごとくに私は絡まってもらえた。ジャンケンを挑まれて、6度とも私が勝ってしまった。とりわけ次男は聞き分けがとてもよい。
夫は、腕一本を振るって生きる人らしい。長男は父について、今も関西に残っている。子どもたちは互いに父と母との交流がある。こうしたことを話題から知りえた。
堀田さんは、この母子家族3人とも、離縁前と同じように付き合ってきたことが分かった。つまり、しばしの下衆の間繰りは、見事に外れたわけだ。復縁の労を堀田さんは取ろうとしていたわけではなかった。さわやかな夕食時になった。
翌朝、小雨の岩国に移動。錦帯橋の見学者用パーキングは広い川原にあった。海老原棟梁には、出て来ていただけることになった。
橋の袂にまで登って、棟梁と落ち合った。喫茶店で錦帯橋の歴史などを伺ったあと、再度川原に降りた。橋を見上げる位置から5連の橋の説明を受けることになった。
この説明は、後刻頂いた“30頁ものの冊子”の中に、あらかた盛り込まれていた。
木造の橋では、今や日本の3大名橋の1つだ。明治時代までは、4大名橋があった。橋間60mという史上最大の木造の橋が富山県にあった。架け替えられず、再建する機運も興ってはいなかったようだ。
思い出したことがあった。20年近く昔のこと。中国は雲南省の少数民族の村々を、幾度かにわたって訪れたことがあった。その1つで、出くわした木造建築物のことだ。
3000年ほど昔、戦に敗れて山奥に逃げ込んだ馬族があった。幾つかの集落に分かれ、馬を捨て、稲作農業で暮らしてきた。ある集落群は、1300年前に発見されるまで、人知れず隠れ住み、その後もほとんど外界との交流がないままに過ごしていた。
そうした1つで、集落の村人が川を渡るだけなのに、立派な橋が架かっていた。村人の集会場に過ぎないのに、内部はがらんどうだが、屋根を7層にしていた。
訊くと、設計図はなかった。その気になった1人の男が、頭の中で設計図を描く。その男が言うままに、村人は総出で立ち働き、建て替えたり、架け替えたりして来たようだ。次第に立派になり、今の姿になったに違いない。
村人は誇らしげであった。私はなぜか、文化の賜物に観えて、人間が誇らしげにおもわれた。つまり、文化の精神に燃えて、次第に昇華したに違いない。こんなことを、錦帯橋を裏側から見上げながら、思い出した。
川底は、大きくて平らな石が敷き詰められている。川底にある橋台の基礎を増水がえぐり、崩さないようにする古人の知恵だ。今日では、その石組みの橋台はコンクリートで固めてある。棟梁の説明は続いた。
過去の橋台は、1950年の“キジヤ台風”に伴う錦川の増水で崩れたという。だが、この不可能を可能にした木造の橋が、折れて流されたわけではなかった。
この木造の橋は、まるで生き物のようだ。
橋の上に荷重をかけると、かけ方によって橋が沈んだり浮いたり、それを外せば戻ったりしている。
架け替え工事は大変な苦労や工夫などを要したに違いない。とりわけ難題は、実際にモノを一から知恵や匠などを駆使して手造りしたことがない人に、しかも机上での知識だけを頼りにする専門家には、手を焼かされたことであろう、と憶測した。
その質問は、勉強不足の穴埋めのごとし、であって、大問題だ。得心をえるために、いわば机上の知識習得に付き合わねばならない。しょせんそれは、いわば耳年間にするにしかねなず、絵にかいた餅で、弊害あって実益なし、になりかねない。
こうした文化財に使用する木材(マツ、ヒノキ、ケヤキ、ヒバ、あるいはクリなど)や金物などは、それぞれが唯一無二の品々であり、その性質や性能とか癖を活かすに足る、十分なる経験や知識、あるいはそれらの経年変化を見抜く見識などが不可欠だろう。
その十分なる経験とは、例えば幼い頃の木登り。本能が誘う、落ちて死なない範囲の木に登る。何度もしくじる。柄は折れたり、しなったり、折れなかったりする。樹種、日陰か日当たりか、太がよいとは限らない。生か枯れ枝か、若いか長けていたか。傷の有無とありよう。こうしたことを瞬時に判断する勘を育み、えとくするがよい。
直接言葉では聞けなかったが、こうした面での歯がゆさのようなものが、「木造伝統建築へに想い」での頁にもにじみ出ていた。
これは、“本質”と“属性”が関わる問題ではないだろうか。この峻別を、違いを、わが家では、庭に出るキノコにでさえ私は思い知らされてきた。
たとえばシイタケなら、大きさや色柄とか、生か干してあるかなどに関わらず、あらかたの人は躊躇なく、見分けて食用にもできるはずだ。私も幼いころから出来るようになっていた。マツタケでも、父の里の山で会得しており、私は判別できそうだ。
だが、成人してから、アグロフォレストリー(Agriculture=農業と、Forestory=森林を掛け合わせた言葉で、森林農法)型の庭づくりを始め、庭にキノコが出始めたが、そうは行かなかった。「似て非なる毒キノコではないか」との心配が先だってしまい、到底食すことはできない。
だから、次々と写真付きのキノコの本を買い求めた。何冊も買ったが、願いはかなえられなかった。ついに「それは当然だろう」と閃いた。自然が生み出すものは、他人の空似などはあっても、よく見れば2つとして同じものはないからだ。
毒キノコを机上で学び、知識で恐れたら、他人の空似程度の差であれ、怖くて口にできない。その知識は形や色などの属性からであって、それが邪魔して、惑わされかねない。シイタケのように、幼い時から食べ慣れるなどして、その本質を体得していないからだ。
橋脚のふもとで縷々語らながら、このようなことを私は連想した。
想えば、国家資格などなかった時代から、五重や七重の塔がわが国でもたくさん作られている。それが地震で崩れた例を聴いていない。こんなことを考えていた時に、折よくそばまで踏み込んできた人があった。耳をそばだてて頂いた。そのよしみで、撮影のお世話になった。
棟梁に「渡すものがある」と言って誘われた。お宅まで車で誘導していただけた。そこで“30頁ものの冊子”と、カボチャを切る鋸を頂いた。
この鋸は、帰宅してからのことだが、非力になった妻にとても喜ばれた。
お宅には広大な仕事場があった。私の目には、宝や魂、あるいは歴史に観えた。
江戸時代から引き継がれた道具なども、多々あるのだろう。堀田さんは、3丁のチョウナ(釿)の補修を棟梁から頼まれ、「喜んで」と引き受けた。先祖伝来の使い込んだ品で、刃を足さなければならないようだ。
翌週の、京都郊外で催される “「匠」の祭典” 関連の会場での再会と、その後のわが家へのご案内を約し、岩国を後にした。大通りに出て、堀田さんはナビを広島に改めた。目指すはこの3カ月来、再会を待ちわびてきた吉長成恭(はるゆき)先生だ。まったく私とは逆の道を歩んでおられるが、同じ方向を目指しておられるに違いない、と睨むようになった人との再会である。
医学博士で漢方専門医でもあり、脳神経内科医として、あるいは日本園芸福祉普及協会の理事長としても活躍なさっている。一見すれば、矛盾しそうな国家資格を多々取得して、活躍されている。逆に私は、75歳の時に、妻と2人の友人に勧められるままに、運転免許という国家資格も喜々と返上した。今は、パスポートと健康保険証しか、国家が関わる存在証明書はない。にもかかわらず、だからだろうか、この先生に心惹かれる。
かつて私は、「このままでいいんですか」と、世の中に向かって叫びかけたくなったことがあった。工業文明の矛盾が露呈し、歪が破綻させるであろうと、その先が気になった。今の延長線上には未来はない、と言い知れぬ不安に駆られた時があった。その先について、いつの日にか先生と語らいたい、と願うようになっていた。
その頃のことだ。戦時下の母の奮闘や、疎開先での伯母の頼もしさを振り返っている。貿易商の父と結婚した母は、父の結核と戦争で生活が一転した。
医者に見放された父と、3人の子どもを抱え、農業で家族を支えなければならない身になった。空襲警報を見上げながら、野良仕事をやめなかった。そこに生きる知恵や希望と、新たな喜びや幸せ、使命感などを感じ取っていたに違いない。
いつしか私は、母が耕作を (父が復活し、朝鮮戦争特需で世の中が潤い) 放棄した後、荒れ地になった土地の再開墾に手をつけた。結核菌に私も侵されたから、だろう。母が愛用していた鉈の柄を改造もした。最寄りの村の鍛冶屋で、鉈(ナタ)と鉞(マサカリ)を兼ね得る斧 (オノ)なども別注した。「いつしか」か「これでだめなら」と、心に秘めたコトやモノがあった。
広島までの道中は、気は焦った。岩国からは随分遠く感じた。数日前に願い出たアポイントだから、先生の(出先で、中座しての)ご帰宅と、私たちの到着可能時刻で調整した。
ご夫妻で、温かく迎えていただけた。堀田さんにも会話の輪に、生き生きとすぐに加わってもらえた。それは先生が、鍛冶でも私よりはるかに興味をお持ちであったし、造詣だけでなく、体験でも富んでおられたからだ。
産業医でもある先生は、キット工業(機械)文明に蝕まれた社会を、あるいは工業社会が蝕む人々の心をいかに誘うか、その好ましき方向を模索されているのだろう。夫人は茶道に関わる生業で生きておられる。生きる力という面で、この上なきご夫妻と感じた。
ご夫妻に見送っていただき、陽が傾き始めた広島をあとにした。次第に待ちわびているであろう妻のことが、気になり始めた。
道中のICで、チョットしゃれたレストランで黒豚とんかつをとり、妻に期待する帰宅時刻を知らせた。
なぜか、次回は、吉長夫妻と焚火を囲みたいなぁ、との想いが沸き上がった。
3.浅き“深切”が、仇となった
この17日のこと。まず早朝に、ごみ出しを済ませた。いつも感心することだが、朝の6時ごろから、欧米人観光旅行者がわが家の一帯を散策している。寺院の拝観など名所旧跡巡りよりも、それぞれの国や地域でどのような生き方や、人生が繰り広げられているのだろうかなど、国情や民度などに興味をお持ちではないだろうか。
PC作業に取り掛かりながら10時(NYの22時)を待った。商社時代の同期生と、年に数度のZOOM交歓の時刻に心を備えた。
この日の交歓を機に、彼我の国家間で「かくなる差異があろうとは」と、驚かされることになるなどとは、この時はまだ思いもしていなかった。
この日はもう一つ、午後に予定があった。歯科医で、差し歯の型をとる日になっていた。妻の運転で、出かけた。帰途、歯科医の前の大通りの中ほどで、私たち夫婦は転んでしまい、チョットした怪我をした。原因は、送り迎えで2度も運転するよりも「1度にしたい、」との妻の希望だった。
歯科医に私を送り届けた後、そこのパーキングが満車だったので、妻は向かいのスーパーに車を停めた。ビッコの足で、20mほど離れた横断歩道まで歩いて渡り、歯科医まで来て、私の治療が終わるまで妻は待たせてもらった。
治療を終えた私は、「ならば2人で、車を取りに行って、せめて果物の1つでも買わせてもらおう」となった。
折よく、20mほど先の横断歩道のところの信号が赤になっており、車がみんな止まっていた。「急げば、」と、横着をして、真向いのスーパー目指して車道に飛び出し、止まっている車の間をすり抜けようとしたのがまずかった。もちろん車の運転者と目が合い、手をあげて挨拶をした。
中央線の凹凸具で私が躓き、私のベルトをつかんで付いて来ていた妻も、一緒に転んだ。幸い私は、チョット擦り傷をしただけで済んだ。問題は翌朝のこと。妻が左足の甲を見せて、「痛い」と訴えた。赤くチョット腫れて、熱っポかった。「日にち薬だ」と言いたかったが、控えた。このところ、妻は妙に神経が過敏で、些細なことですぐぐずつきかねない。ある期待を込めて控えた。
翌日は、“いのちの科学フォーラム”で、出かける予定が入っていた。だが、昇さんも一緒だから「車で連れて行ってもらえる」ということで、妻も予定通りに同行することで納得した。次いで日曜日は休診だし、月曜から私は2泊3日の出張予定が入っていた。しかも、出張から戻った翌日は、折よく妻の外科医での“魚の目”治療の最終点検日になっていた。
だから、フォーラムに出かける前に、外科病院に電話を入れた。同じ整形医に、ついでに痛む足も診てもらえることになり、妻は安堵し、とても喜んだ次第。それまでに、妻の負傷を、妻の体が治しているだろう。
フォーラムは、妻も興味津々のテーマであった。問題なく過ごせた。日曜日も、3度の食事や、2度のお茶の用意をしてくれた。2泊3日の出張も、妻は最寄り駅まで車で送り迎えしてくれた。出張先での仕事も予定通りに進み、ことなく終えた。
出張から帰宅すると、妻は「まだ痛い、」と訴えた。だが、整形医に診てもらえる翌夕刻を期待して、安らかに眠った。
当日、整形医は待ち構えていたかのように「痛みますか」と、妻の甲から手をつけて下さった。即「レントゲンで、」になった。骨折は見当たらなかった。妻は痛いという。プロの目で、よくよく調べて下さり、やっと「ここが、剥離してます」と、原因を究明できた。私の目ではとうてい、指さされても判別出来なかった。
「日にち薬です」とおっしゃるだろう、と思った。だが、そうはならず、妻は勧められるままに、くるぶしから下部を石膏ギブスで固められることになった。次いで、また異なるプロに松葉杖での歩行法も学ぶはめになった。
やおら、妻の運転で帰宅することになった。左足でヨカッタ。車中で、「魚の目の点検はなかったなぁ」とか「あの先生はBパターンなんだ」などと勝手な思いを巡らせた。なぜか、『すぎたるはなお、及ばざるがごとし』を思い出した。それがヨカッタ。
帰宅し、温度計道を登る時点で、妻は早、指導を受けた松葉杖での歩行要領を忘れ去っていた。私は、ゆるい坂を、初めて妻の手を引いて登る機会を得た。
居間にたどり着き、椅子にかけさせた後、さっそく論語で確かめたいことがあった。先月の月記でとりあげた“論語の根本思想”であろうと気づかされた成句である。「己の欲せざる所、人に施す勿れ」であった。ドキッとした。
なぜか、妻への私の浅はかな親切心が、仇になったのではないか。つまり、私が逆の立場なら、ギブスなど断っていたはずだ。だから、妻が受け入れたとはいえ、私の浅き深切が、妻を “足かせの刑” に処したようなことになった、との反省の念が沸き上がった。
同時に、その昔の小学時代の校医・『赤ひげ』のような安井先生を思い出した。父(息子の私の助言よりも、当時のかかりつけ医の言葉を信じていた)に、一度受診を勧めたことがあった。安井先生に「これぐらい、病気じゃない」と追い返されたようだ。
父がそうと知って、安堵することを私は期待していたが、逆に、「薮医者メ」とばかりにとても怒っていた。
医師は二通りありそうだ、と思った。父はBパターンの医師好み、と診てとった。
翌朝、妻は早「どうして、こんなギブスなどを」と、愚痴をこぼした。「自業自得だ」と言いかけたが控え、「20日間の責め苦だ。そう思って辛抱しなさい」と、応えた。
朝食後、すぐさま妻は、持てる力を発揮し始めた。ギブスにはヒールがついていたからだ。つま先を床につけずに、ヒールで歩くように、との指導を受けていた。だから、まずヒールと同じぐらいの高さのヒールがある履物を探し出した。次いで、屋内用だけでなく、人形工房まで移動する外履き用も、工夫して手作りで賄った。
次の苦情は「つま先が冷えるノ」だった。戦時中に、10歳上の姉が真冬に訴えた悩みを思い出した。早速、かつてフミちゃんにもらった一味唐辛子を探した。サルの被害が出ていた時に、「これをまいたり塗ったりして・・・」と言ってもらった品の、転用であった。
姉は当時、16歳だった。学徒動員で、真冬に朝早くから出かける時は、足袋の爪先に “空向き(辛)トウガラシ” をつぶして忍ばせた。「ほかほかするノ」と喜んでいた。下駄ばきで、飛行機の高度計つくりにでかけていた。
だが、妻にはまったく効かなかったようだ。温室育ちで過保護の身体は、人間力を鈍感にするのかもしれない。いわゆる厚着法を、妻は採用した。
「せめて、これを機に」と、考えた。まず、「義を見て為ざるは、勇なきなり」と、反省した。次いで、父とウマがとても合った妻だが、これに懲りてほしい。Bパターンではなく、Aパターンの親切が、あるいは真の深切が、素直に理解できる心の持ち主になってほしい、と願った。
「巧言令色、鮮し仁」
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」
「過てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿かれ」
「学は及ばざるが如くせよ。猶(なお)之を失わんことを恐るるが如くせよ」
「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」
「三人行えば、必ず我が師有り」
「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う」
「君子は人の美を成す」
「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」
言われて見れば、と新宮秀夫先生を思い出した。
「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」
月末に、妻は「あと何日で外せるのでしょうか」と、問うた。
「あと、10日の責め苦だ」
4.イトトンボが、再び繁殖するかもしれない
先月末の、イチモンジセセリとの出会いが、その予告編であったのかもしれない。この用心深いチョウが、この日はなぜか、間近に寄っても逃げず、存分にカメラに納められた。
あるいは、冷房の室外機で見かけたミノムシに「降参!」したのが、その始まりであったのかもしれない。身を隠す箕の中のイモムシを見たくなった。箕を破ろうとして、たちまちにして「まいりました」と、あきらめた。絹より見事な真綿がとれそうだ。
居間での朝食時に、何かが何かを食べているような、とても微細で、リズミカルで奇妙な音がした。当たりを見回して、ギョとした。7時47分のこと。
わが家に住み着いているクモが、食事のまっ最中だった。人でいえば中学1~2年生ぐらいのアシダカグモが、わが家の庭で棲んでいる一番大きいカマキリ・オオカマキリリにむしゃぶりついていた。
朝食を終え、TV番組に興じていた間に、3時間近くが経過していた。10時34分。
大喰らいを終えたようで、クモがカマキリから離れた。オオカマキリの下腹部を食べ残していた。アシダカグモがひと回り大きくなったように感じた。クモの腹は膨らんではいない。
午後のお茶の時に、再び、丁寧に観察すると、カマキリは両の鎌を獲物を襲う態勢で縮めていた。
アシダカグモは夜分に動くアブラムシなどを獲るために、屋内に常住している。オオカマキリも、電光につられて屋内に飛び込んでくる夏虫などを狙って、忍び込んで来ることがある。
アブラゼミなど大きな昆虫も捕食するオオカマキリだが、その目は、暗くなるとよくは効かないのかもしれない。小鳥も捕食することがるオオカマキリガ、この度は逆に、中学生ほどのアシダカグモの餌食になってしまったわけだ。
月末のこと。オオカマキリの遺体がほっそりしていた。確かめたくなった。また、両の鎌を縮め、獲物を襲う態勢で、なぜアシダカグモに敗れたのか、これも確かめたかった。普段は、糸を出して巣を張るなどしないクモだが、こういう場合は糸を吹いて・・・、などと勘繰ったからだ。
板戸から外して観察した。下腹部もスッカリなくなっていた。その顔や目は、シッカリとアシダカグモを睨みつけていたことになる。だが、閉じた鎌を縛り付けた蜘蛛の糸は見当たらなかった。このクモは、麻酔剤を体内で造って駆使できるのだろうか。
14日早朝のこと。妻が「スズメバチが寝室に入っていまいた」と言って、居間に連れて来て、平然と逃がした。敵愾心を抱かなければ襲われないものと、信じている。
この2日後のこと、先にやすもうとして寝室の天井燈を灯した妻が、「(寝室に、あの)スズメバチが戻ってきたいます」と言って、居間に戻て来た。「消してやすめば」といえば、「そうね」で済んだ。越冬する場を探しているのかもしれない。
25日(土)はビッグな1日になった。9時半から昇さんは畑仕事。私は温室仕事に当たった。まず私が、ホウジャクのミイラ(自然死して、乾燥していた)を見つけた。丁度その時だった。昇さんが「アサキマダラが来ました」と叫んだ。「わが家にもヤット来た」と、フジバカマが咲いているところに走った。
温室に戻り、やおらホウジャクをケイタイに収めた。ハチドリの昆虫版のようなガで、主に夕刻に現れ、気ぜわしく花を次々と渡り飛びながら、ホバリングし(空中で停止した飛行状態を保ち)ながら花の蜜を吸う。
ミイラとはいえ、しげしげと、好きな角度からホウジャクを、生涯で初めて眺めることができた。
ケイタイをポケットの収めようとした時のこと。何かが視界に入った。「まさか!?!」と中空を追った。間違いなく、イトトンボだった。かつては、わが家にたくさん棲んでいた。15年ほど前までは、水鉢を掃除するときに、そのヤゴをしばしば見かけた。
10余年前に、不注意にも、すべての水槽や水鉢の大掃除を一時にした。その後、目にしなくなった。この度は、1頭だが、温室内で飛んでいた。とまったところをケイタイに収めた。ことごとくピンボケだった。
この日、後刻のことだ。妻も、温室から離れたところで1頭だが、見たという。どこかで隠れ棲んでいたのが、今や目に留まるぐらいまで繁殖し始めているのかもしれない。
2日後の27日のこと。イトトンボのことで興奮冷めやまぬ心境で、畑に出た。畝を仕立てていたら、何かが動いた。凝視すると、ヒメカマキリだった。すんでのところで、埋葬しかねなかった。これは、わが家の庭に棲む5種のカマキリのうちの1種で、3年ぶりのお目見えだった。
かくしてわが家では、庭の昆虫の季節がフィナーレに近づいた。コオロギがとても少ない年であった。
5.偶然や久方ぶりの触れ合いに感謝した
神無月も様々な触れ合いに恵まれた。錦帯橋を架け替えられた海老崎棟梁との関係は “「匠」の祭典” での触れ合いから始まった。この度は、錦帯橋を案内していただけただけでなく、当初から、この催しに参加しておられる意図が、やっとわかった。『30頁ものの冊子』の“はじめに”で、ヤット得心し、なぜだか恥ずかしくなった。
かねがね、気になっていたことがある。わが国は、敗戦で魂まで抜かれたのか、高度成長期に浮かれたのか、国民の住宅政策では、あってはなるぬ “潜在的廃棄物造り” に邁進してきたようなことをしていた。わが家は、1964年(独身の時)に、住宅金融公庫で建てた20坪の純木造住宅を、8度の増築(結婚やDIY本格化、あるいは来客を迎える身になったなど)と、数えきれない改築や補修で今がある。
その目で見ると、わが国の実情は、一刻も早く「潜在的廃棄物と決別」しなければいけない、ように想われる。
棟梁は、「匠」の祭典に意義を、ずっと前から見抜かれていたわけだ。
有難い人との触れ合いは、海老崎棟梁との親交に加え、当月は偶然の触れ合いも含めて多々恵まれている。
その最初は、棟梁を妻の人形展示ギャラリーに案内した時のことだった。そこに旅の途上のご夫妻が来合せていらっしゃった。錦帯橋を架け替えた棟梁と知って、とても喜んでくださった。なぜか、写真をご一緒したくなった。
13日の朝、野田正彰先生から「本日は、ご在宅」か、との電話があった。高名な精神病理学者だが、久方ぶりに、しかもご夫妻で岩倉から訪ねて下さることになった。
話が、とても弾んだ。まず先生が、 “奥様の物忘れ”が始まり、「とても怖くなった」とおっしゃったからだ。「わが家も同様です」と、相槌を打ち、おお笑いになった。
どうやら物忘れは、話の文脈を理解した上で、ではなく、いわば言葉尻にこだわり、突っかかり兼ねなくさせそうだ。叱られがちになった身を、お互いに大いに嘆きあった。有難いことに、ご夫人だけでなく、妻も失笑しながら、とても楽しそうに聞いていた。後で叱ららるのではない、と心配したが、終始上機嫌であった。
先生は、この道のプロでもあるし、この話題は先生がお出しになったのだから、ご夫人も多分、帰途もご機嫌であったに違いない。問題はそれが、物忘れと関係があるのか否か、ではないだろうか。ともかく話に花が咲いた。
2人のお嬢さんはともに芸術家だが、ともにお元気のご様子。ガラス工芸作家のお嬢さんは、この12月14日まで、「高台寺」の塔頭「圓徳院」で作品を展示中とか。夜間照明もされているようだ。
「それにしても、」と、次々と話題は移った。「分り切ったことであったのに」わが国は・・・酷いことになったものだ。と、過去を振り返りたくなるような話題も出た。自ずと思い出したことがあった。
あるビジネス誌から、先生との対談を持ち掛けてもらえたことがあった。時は、不毛な、失われた10年に入っており、誠に時を得た特集であった。
庭もめぐりながら想いを巡らせた対談だった。新しい時代を切り開く好機であったにもかかわらず、(世襲の如き政治家の世界はさておき)自分でリスクを取り得る企業群や、そこで働く勤労者までが、肝心の目標を見失い、本質的な転換を忘れてきた。
結果、振り返ってみれば、失われた30年にしてしまった。
手土産の生麩は絶品だった。
2日後のこと。著作を送っていただけた。丁寧なルポルタージュだった。読み進むにつれて、わが国は未だに、敗戦から立ち直れていない。むしろ、真に立て直そうとする人をつぶして来たのではないか。未来世代に負の遺産を残しかけない。問題点や課題が次々と見えてきそうな心境にかられた。
「いかに私たちの文化を貧しくしてきた」ことか、との先生の一文が、心に刺さった。このままでは、若い人や学生、あるいは未来世代から観れば、 “先生”とは(私は、中国語の先生の意味で用いているが) さしずめ“先ずは生きていた人”に過ぎなくなるだろう。読み進むうちに、若い世代のために、「誠実な国にならなくては」と背を押されたような想いに駆られた。
17日は10時から、NYから参加の北村隆司さんも交えて、ZOOM交歓会が始まった。近況報告で私は、錦帯橋見学の印象と、その架け替え時のエピソードを紹介した。
ある仲間は、敗戦後に再建した鉄筋コンクリートの名古屋城を、元の木造に建て替える構想がとん挫している、と紹介した。文化と文明の狭間の葛藤、と私は感じるなど、喧々諤々の楽しいひと時だった。
翌日から、待ち遠しい日々が続くことになった。庭ではスイフヨウ(酔芙蓉)やオレンジ色のリコリスが、畑の畝間ではホンアイ(本藍)が、そして加温しない温室では、生き残りのトウテイ(洞庭)ランが、それぞれ満開期を迎えた。
大豊作のカキは虫食いが落ち始めた。朝一番に私は、ある運動に手をつけた。車で出勤する人が敷きつぶす前に、拾っておいた方が、後の手間が省けるし、気分がよくなる。そうと気付き合う運動であった。2日もせぬうちに、運動は行き渡った。
内にあっては妻に「もうすぐ新米のもち米が採れる。それまでに、」と拝み倒して、餅を搗く気にさせた。おかげで、しばしば澄まし雑煮に恵まれた。
ついに、待ち遠しかった日がめぐって来た。大垣時代の友人・豊田富士夫さんと、4半世紀ぶりの再会だった。秘書を通してかなり以前から日程が決まっていた。京都方面への出張があったようで、立ち寄ってもらえたのだ。
大垣時代と、大垣を去った後の数年を含めた10年数年ほど付き合った仲だった。彼は、知る限り、移動がなく、緑化や水都大垣の水問題に関わる部署のエースだった。価値観や美意識、あるいは物事との取り組み方や判断の下し方で、独特の気概と雰囲気の持ち主であった。訊くと、若い頃に、青年海外協力隊員として辺境の地で活躍していらっしゃった。影になり、日向になり、私は世話になった
大垣市の環境基本計画、緑化事業、あるいはごみ減量など、環境にかかわる問題のほとんどの審議会で、私は策定委員長や座長などを勤めさせていただけるようになった。
「暮らしを変えて、未来に夢を」を合言葉にして、豊田さんは市の職員として、私は地元短大の教員として、力を注ぎあう仲になった。
ことのほか彼は、水都大垣の地下水への関心が深く、見識が高かった。それは、審議委員として最初に任命された水委員会で、環境を守る価値や尊さを、数値化して私が漏らした一言が多いに関係していたようだ。
かつて大垣には、多くの紡績業者がこの名水を求めて進出し、繁栄した。だが、繊維産業の構造的不況には勝てず、余儀なく撤収の時代に入った。その変わり目が大垣と私の縁をつないだ。その縁ができた初期のことだ。水委員会で私は、紡績が使用していた水の量をトンからリットルに換算してもらい、それを金額化した。
確か日に5億リットルであったように思う。これがミネラルウォターであれば、リットル50円としても、日に250億円に値する。ミネラルウォターに相応しい環境整備に日に150億円ずつ投じても、今や日に100億円が残る時代である。
大垣はかつて教育都市でもあった。日本で博士号制度が誕生した時のこと。最初は5人の博士が選ばれたが、大垣がそのうちの3人を排出している。
芭蕉は“奥の細道”で、結びの句「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る」を、大垣で詠んでいる。こうした事例が多々ある地だ。
ミネラルウォターに相応しいイメージ作りに励んではどうだろうか。
後日、豊田さんは、ペットボトル入りの大垣の水をつくってくださった。大垣を去って四半世紀が早過ぎ去ったが、当時のままこの水はわが書斎に鎮座している。
豊田さんが、大垣市の副市長に選ばれた時は、この日が来るのを心待ちにしていただけに、飛び上がるほど嬉しかった。この29日に頂いた名刺の裏面には自噴水が選ばれていた。
この間のこと。商社時代の同期生とのZOOM交歓会の後、NYの仲間から驚きと感動のメールを受け取っていた。フランスが例に挙げられ、彼我の役人の在りようが縷々述べられていたからだ。おかげで、豊田さんとは話がはずんだ。
翌30日のこと。「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」を、おこがましくも連想する日を迎えた。フランスやスイスに、夫のRobert Harris さんと居を構える松岡ハリス佑子さんが、夫妻で訪ねて下さった。
最初の話題は、わが家でホームステイしたお嬢さん(デザインを学ぶ学生だったジェニファーさん)の近況だった。今は2児のよき母でもあるようだ。当時をしばし振り返った。
松岡佑子さんが『ハリーポッター』の翻訳と出版で多忙を極めておられたころに、妻小夜子の人形に目をとめて頂いたのが縁の始まりで、今日に至っている。
それらの人形が、フランスやスイスのお宅だけでなく、『ハリーポッター』の著者・ジョアン・ローリングさんのところでも元気にしている。
話題がこれらの人形に移った時に、妻はビッコを引きずりながら話題の輪に入った。
お土産に、ハリスさんの近著や、ギリシャの民族衣装の本を頂いた。近著は、今日の世界を作り出した5つの革命を取り上げている。表紙にはジェニファーさんの絵が活かされていた。
この度の米中首脳会談では、習近平はアヘン戦争を話題に挙げたが、トランプはきちんと対応できなかった、とニューヨークタイムズは報じたらしい。同様の指摘を、ハリスさんは近著のアヘン戦争の章で取り上げていらっしゃるようだ。私の語学力では到底理解できそうにないので、残念だ。
日本の新聞が、トランプはポーカーゲームの手口で挑み、習近平は囲碁のごとくに迎え撃っている、と報じたことを私は紹介した。結果は見えていそうだ、と言いたかった。
お見送りした後のこと。夕食後、妻はギリシャの民族衣装の本を改めて開き、「よい本を頂いた」と、喜んだ。
翌朝、ハリスさんから、1枚の写真を添えたメールが入った。
6.その他
1)ハクモクレンの種房がこの7日に、落下し始めた。結んだタネが熟れ始め、オレンジ色になり、赤く変色した種房ごと落ち始めた。10日にはカラスが見つけたようで、小枝ごと次々と落とし始めた。
2)アイトワの字体ロゴがリフレッシュ。アイトワを立ち上げようとした時のこと。アメリカの長女(ホームステイ第1号で、アメリカ人学生だった)が、その意図に痛く共感してくれた。文字ロゴのスペルは自身で、字体は母親に考えてもらい、推薦してくれた。
この度、その文字ロゴのアイデア・オリジナルを、池田望さんがリフレッシュしてくださった。折よく、この長女が「懐かしい写真を見つけた」といって送ってくれた。夫の母親が90歳の誕生日を迎えるので、「人生写真集」を贈ることになったようだ。
3)個離庵横に積んだ薪が、自然倒壊。原因は地震ではなく、土台の竹の丸太がシロアリに蝕まれていた。昇さんと積み直し、雨除けをして、湿気ないようにした。この最中に、喫茶店の「メニューを読んだ」と言って、お客さんが近づいてきて、激励してもらえた。
4)異常豊作のカキの採取が始まる。昨年は実が1つも、と言ってよいほどの不作だった。今年は一転し、「どうして?」と言いたくなるほどの豊作に。共に、生涯で最初で最後になりそうだ。転変地変の先触れでは、と気になる。
着いた実が落ちない理由は解る。昨年のカキの凶作は、蔕喰い虫にとっては飢饉になって、子孫を残せなかったのだろう。虫に喰われたカキは、メジロなど小鳥のごちそう。
5)妻は “朝青(野生のアサガオ?)”を、別の所で見つけた。先月私が見つけた所とはかなり離れた場所で “朝青” が生えていた。わが家の庭でも自生してほしい。
6)もう秋たけなわ!と、9日に慌てた慌てた。酷暑が一転し、冷え込みが急に始まった。9日にカキの初取り。13日には、カキの落ち葉が早、秋の盛りを感じさせた。
25日にムカゴを収穫すると、ムカゴ飯に。
そして29日に、シホウチクの佃煮風煮物が、小量だが出た。かつては、11月の作物だっただけに、晩秋のごとくに感じた。妻が気付いた時は既に竹のように長けており、その先っぽしか生かせなかった。
7)愛車の軽4輪に妻は閉じ込められ、パニックに。スーパーからの帰途だった。妻が先に乗り込み、私が乗り込もうとするとドアーが開かない。妻はパニック。私もおおいに慌てて、散々苦労をした。
後で分ったことだが、妻が “ドアーのロックボタン” をなぜか押していた。過日は、動かしたワイパーが止まらない。補助席の窓を開けられない、もあった。一つ、一つ、改めている。ブレーキとアクセル、そしてハンドルさばきは大丈夫。バックの下手は治らない。
8)商社の同期生に、カルチャーショックを受けた。東京の仲間が3カ月に1度開いている。この度は、比較文化論のような話題にも花が咲き、とても愉快だった。それは、錦帯橋を訪れ、海老崎棟梁に案内しにいただいていたオカゲだ。
本来は、勤めあげた同期生の交歓会だろう。私は、アパレル企業に拾っていただいた8年間が終わった後、まず大阪の集いから声を掛けてもらえた。その大阪では仲間が次々と欠け、有名無実になった。その後、東京の仲間から。仲間とはありがたいものだ。
今回も、参加者の近況報告から始まった。私は、歴史的建築物の修復などと、現代の建築法などとの整合性を問題視した。司会者のリードよろしく、花が咲いた。結果、NYから参加の北村隆司治さんから次のようなメールが届くに至った。
37会の皆様
今日のズームは私の不得意な日本文化話に花が咲き、大変勉強になりました。
特に森さんの私に対する問いから始まった、文化財保全と規制に関する諸問題には刺激を受けました。と申しますのは、引退以来ずっと続けてきた「世相比較学会会長(会員一人の極めて限定的組織)」の活動を通じて、文化の鏡ともいえる世相の違いに大きな影響力を持つ「統治制度比較」については可なりの資料を集めてきたからです。
今回の対話を通じて、錦帯橋の再建では国交省の安全基準が優先され、地元が望んだ「完全木造・古式再現」は退けられる一方、伊勢神宮の式年遷宮は例外では、法的枠外の宗教行事として、官僚制の干渉を受けない「聖域」扱いで判断を避け、名古屋城の木造復元では、エレベーター設置の是非をめぐる論争が行政を麻痺させ、結果として誰も決断できない構図が続いている事を知り、これこそ日本の統治形態の欠陥のなせる業だと実感しました。
日本と同じ官僚国家のフランスですが、フランスでは、文化省が文化財修復における最上位の主管庁と規定され、文化省の権限は、内務省や建設省より上位に立つことになっています。従って、仮にノートルダム修復費を国庫が全額負担したとしても、最終判断権は「文化遺産法に基づく文化省側にあり、その為に、恩田さんが指摘された様に「真正性」の原則を掲げ、部材の運搬に至るまで古式を貫く事が「文化財の保存目的は安全性よりも歴史的真正性の保持にある」と法的にも保証されているそうです。
この様に、国家が文化を支えるという明確な哲学があり、官僚は法ではなく文化の論理に従うと言うのが先進欧米各国の伝統で、アメリカでも、ADA(障がい者法)に「歴史的建造物例外」が設けられ、バリアーフリーとかエレベーターの様な論議では、文化財が「平等原理」よりも歴史的正当性を優先できる法的根拠を持たせています。
米仏では「文化とは国家の精神であり、法を越える領域」とされるのに対し、日本では「文化とは行政の管理対象であり、法のもとに置かれる存在」とされていると言うのが私の解釈です。
錦帯橋のボルトも、名古屋城のエレベーター問題も、私流の「世相比較論」から見ますと実は文化財ではなく統治形態の欠陥の象徴で、日本が本当に再建すべきは、木造の天守より統治形態そのものだと思う次第です。北村
カルチャーショックを私は受けた。もちろん双方に言葉足らずな部分などもあろう。分る範囲の修正は試みた。大事なことは、部分ではなく、訴えんとする本質ではないか。その本質に私はカルチャーショックを受け、感謝した。
余談だが、北村さんと、幹事の小林信生さんの薦めで、この交歓会に私は入れてもらえたが、この2人とは、特別な縁がある。海外出張中の私を、妻帯家庭に最初(1970年代初期)に招いてもらえたのが小林さん。最後に(2002年、大垣市女性アカデミーの一行と一緒に)招いてもらえたのが北村さんだ。
このお2人は、とても早くアメリカに駐在した。だから月収が当時の社長の月収を最初に上回った人たちだろう。もっともそれは、彼我の平均所得格差(アメリカは日本より8倍上回っていた)がそうさせたものだ。これも若くしてのルチャーショックであったことだろう。わが国はその後、1980年代末頃には彼我の平均所得を逆転させ、わが国は勤労者の平均所得が確か世界1になっていたようにおもう。
言いたいことは、それよりも何よりも、国家の魂である確かな文化を育み、保ち続けることが恒久的繁栄の礎ではないだろうか。
6)鍼灸の何たるかを学んだ。市民講座“命のフォーラム”に、昇さんの車を頼り、妻も同道で出かけた。明解な2人の講師のおかげで、近代医学との差異が、欧米が東洋医学を重視するようになったわけが、よく呑み込めた。
欧州の、5300年前の氷漬けで発見された男性(アイスマン)の身体には、15か所計63個の入れ墨があった。そのいずれもが鍼灸のツボに一致していた。
江戸時代の人は、伊勢参りなど結構な長旅をしたらしい。その仲間をつくる心掛けとして「“足三里に灸の跡がない人”は選ぶな」という諺があったらしい。上のアイスマンも、医者いらずの(自己免疫力などを活用し、健康を維持管理する)能力を心得ていたのだろう。
10)今は亡き母の生きがい。書類の整理と処分をしていたら、母の遺言書が混じっていた。生前は、時には妻を「鬼嫁」呼ばわりしたり、「飯焚きババァじゃあるまい」と毒づいたりしていた。その母が、その七番目で、感謝の言葉を綴っていた。この度、改めて(母は平成12年初夏に死んだ。この遺言書は予期せぬところから出てきたので、7年後に第3者も交えて開封し)読んでいる。
この母の感謝の言葉は、母が大腸がんで倒れ、死ぬ1年前まで、妻が役割(最後は炊飯器での飯炊き)を与えていたオカゲではないか。母は別途、自発的に年2度オハギとボタモチを造り、大勢の人に振る舞ったいた。文化の構成員だと自負したかったのだろう。今も時々「あのオハギを」などと言ってくださる人がある。
11)燃やすごみを出す(カラス除けの)袋の補修。底が擦り切れてきれたのを幸いに、妻に補修を頼んだ。トクトクと妻は取り組んだ。
妻にとって人形創作は“人間の解放”に当たるのだろう。同時に、 “人生のご褒美”に感じているかもしれない。 “欲望の解放” には興味が湧かないのかもしれない。だから、文化の構成員だと自覚できるように心がけるようにしたい。
11)関東出張は、人間の未来に夢を抱く勉強会だった。文明は“欲望の解放”を促すシステムだ。古代の農業文明もそれが則を外させたに違いない。木を伐採し、砂漠化に苛まれ、ことごとくを滅んでいる。
人生にとって “欲望の解放”よりも桁違い大きくて豊かなご褒美があっていいはずだ。その模索を私はライフワークにした。それは“人間の解放”ではないか。このような「青臭い!」と、笑われそうなことを2泊3日を掛けて語らった。
工業文明化した日本では、2014年から線状降水帯も始まっている。不気味だ。帰途の新幹線で、ふと“ノアの箱舟”に想いをは馳せた。古代の農業文明が爛熟した地域では、線状降水帯が頻発していたのではないだろうか、と。
12)月末のわが家の畑は、冬景色に近づいた。夏野菜の3種の支柱を、昇さんは片付け、冬野菜の畝に仕立て直した。私はスナップエンドウやルッコラの作付けや苗づくり。彗生君はイノシシスロープの入り口で、アーチを立てる穴を掘った。来訪を(酷暑中は休んでいたが)再開したフミちゃんと妻は除草に、とそれぞれ励んだ。
残る支柱は、予期せぬところで唯一発芽したトウガンの支柱と、唯一の実を支えるために追加した支柱だけになった。
異常な残暑が一転して、すぐに晩秋になるとは思いもよらず、インゲンマメのタネをまいた。かろうじて実を7本収穫。初の調理で、本年最初で最後のインゲンマメの収穫と、その賞味となった。
13)自生のカボチャとトウガン。今年は、かろうじてカボチャと、かなり遅れてトウガンが、それぞれ1本ずつ発芽して、実をつけた。だからまだ、これらの実は食べていない。
そうと知っていただいたのか、カボチャは、妻の人形教室の生徒さんに頂いて、賞味した。そのお裾分けをした望さんは、かくして頂いた、と写真を送ってくださった。
14)オリジナルを味わった。喫茶店を手伝ってくれている外姪は、初めて味わうパンを焼いて、また味合わさせてくれた。
15)心にとまった新聞記事。五次元(勝手に、=4次元+私の心を揺れ動かす要因)で生じる事象を、どのような文字にすべきか、悩ましい。写真週刊誌が出た時に、飛びついた。だが、すぐに警戒した。部分を切り取った二次元の情報に、瞬時に振り回され、勝手に揺れ動いてしまう自分の心が不安になった。だから丁寧に、説明文を読むようになった。チョット視界が広がった。
文章は読み直せる。いつまでも読み直せる。取捨選択や反省も容易になる。積み重ねられる。その過去を頼りに、その先が見えそうな気分にしてくれる。それだけに、文字にするのは、とても勇気がいる。どれだけ未来を読めていたのか、不安が残る。でも挑戦しよう。挑戦して、反省できるようにしたい。だから、脱サラし、著作に手を出した。
デジタル化教育で先行した北欧が、紙(文字)の教科書に回帰しそうだと知って、膝を打った。
英国は、プルニウムを“未来世代への負荷”と視て、廃棄を決めた、との報道に触れた。日本は捨てられるか。戦争のための武器こそが未来世代への負荷だ(綺麗な水や空気など、生態系を豊かに保つな地球が大事だ)と言い行ってほしい。
米学生オリビア・ペニックさんの意見を知って、加州の州都サクラメント市を思い出した。スーパーマーケットはもとよりコンビニもなかった。その理由は、当地のローカルTV番組(市議と学生がコンビニの是非も毎晩討論していた)で、学生が「コンビニができれば、お母さんはいらなくなる」などと言きった。母親たちが立ち上がった、導入反対運動を繰り広げた。大垣市女性アカデミーの人たちと取材に出かけた時に、同市職員が説明した。
人類最古の介護の痕跡は180万年前、と知って「ハテ?」と想った。もっと古いのがあって当然、と思っていたからだ。少なくとも人間の赤子は、介護がなければ生き続けられない。だから人間の赤子は笑う。介護したくなるように笑う、と聞いたことがある。それが、無償の介護をするひとへのご褒美ではないか。それは人間の本能になったのではないか。
大阪万博は終わった。万博は、工業文明のおとし子だ。工業文明で先鞭を切ったイギリスが生み出した。その3年後に、農業文明では先進していたフランスが、工業文明でも追いつき、テーマを初めて掲げ、万国博覧会と銘打って開いた。農業文明時代の「人間による人間の搾取に代えて、機会による自然の活用」がテーマだった。
このテーマでの「活用」が「破壊」であった自覚した今日、万博はもう時代遅れではないか。いわんや、IRの地ならしの如き人騒がせはつつしむべきではなかったか。このように読み取りたくなった記事触れた。。
月末に、もっと気になる記事が目に留まった。それは宿題にした。