大変な日々から11月は始まりました。先月29日に妻が腰をひねり、整形医へ。やっと1週間後に、ほぼ日常生活。次いで私が4日の夕刻、右脚に違和感を覚え、翌朝は歩くのが辛く、「困った」に。だが、それなりの活かし方を思案し、予定をこなしましたが、7日の朝は動かすだけで厳しい痛み。この日は早寝して「翌朝こそは」と期待。だが、むしろ悪化。妻に遅れること9日目にして同じ整形医院に駆けつけ、失笑も買ってしまう始末。
原因は年甲斐もなく躍起になったことです。なにせこの間に、2種のエンドウの種をポットにまいたり、その畝の準備にも手を付けたりしています。そして6日、予定通りに知範さんと未来さんを迎え、懸案のピザ釜の補修をし、エンドウ用畝の粗起しの目途も立てました。かくして上旬最終の日、当月2つ目の節目の9日、3人の佛教大生を迎えたのです。
もちろん、それまでの間に、いざりを幸いに当「月記」10月用原稿を大幅に書き換えただけでなく、当年最初の海外旅行・ベトナムの旅を、引率者への追悼の気持ちに駆られ、レポートにまとめました。また、睡眠を十分にとるように心がけたのですが、9日は膝が痛くてうまく起き上がれなかった。「ならば!」との想いで3人を迎え、事情を訴え、想い通りの1日にさせてもらいました。それがヨカッタようで、翌朝は悪化していなかった。
その後も私流のリハビリに努めながら、当月3つ目の節目の日、2人の佛教大生を迎える17日に備えました。膝には負担をかけず、庭仕事に復帰する予行演習の日々にしたのです。雨勝ちだった11日は、3本のニンジンボクの剪定という立ち仕事。16日はエルダーの大胆な剪定も。次は、膝を曲げずに済む作業(3種の果物の収穫とエンドウの畝仕立て)の後、左足でスコップを操る訓練です。その合間にサフランの収穫やエンドウのポット苗の本植えなどいざり作業を挟んでいます。13日に知範さんを迎え、1人で「ビオトープの改修作業の仕切り直し」に当たってもらいました。17日の2人の佛教大生には、9日の3人と同様に、汎用性AIロボット時代を期待する生き方に想いを馳せあって動きました。
この間に、亡き母を思い出す頂き物に恵まれたり、網田さんと鈴江さんを迎え、歓談に時を忘れたり、あるいは大嘗祭をキッカケに四国旅行を振り返り始めたりするなど、良きインターバルがありました。その後は月末の出張に備えた準備に追われましたが、その間に、日替わりのごとき多様な日々を過ごしています。乙佳夫妻には相談事で、橋本家女性軍は嬉しい知らせを持参で、財木さんはある問いかけに応えて、AGUはヒョッコリと、などの来訪者。あるいは賀状の打ち合わせや知範さんと月記の作業にも当たっています。
もちろん、庭仕事も、やるべきことはやりました。巨大ツルムラサキの畝を片付け、タマネギ苗の植え付け。第2次ヤーコン茶の準備やカキの収穫。左足でのカボチャの畝作りと、巨大ニンニクの植え付け。あるいは未来さんと、裏庭でのキハダやモミジの剪定や、干し柿の準備など。問題は膝。その回復を期し、29日の朝から2泊3日の群馬出張に(3年目、3度目ですから、甘えさせてもらいに)出掛けようとしています。
~詳細説明~
まず、夫婦揃っての脚の問題。結論は、先月末頃に発症した妻の左脚は、しびれがとれず、検検査の結果、持病と覚悟。片や月初めに発祥した私の利き脚の不具合は、一過性と願い、左脚の活用を試みながら、予定貫徹を目指すことになった。これは「不整脈10連発への警報かも」と感謝しながら、用心したわけだが、その経過は以下のごとし。
妻は2日後に大事な5人の来訪(研修)者が予定されていたし、その後に多忙な秋の行楽シーズンも控えていたので、「どうしよう」と真っ青。翌朝、私が付き添って、整形医を開院前に訪ねた。そして再度レントゲン撮影にも応じさせると、1年前に判明した背骨のゆがみと圧迫骨折は、もはや持病と判断せざるを得ず、と判断した次第。要は、無理なガンバリは控えさせ、騙しながら生きてゆく工夫に取り組むことにした。
このした覚悟も束の間、秋は次第に深まり(11/29撮影)、夫婦ともに多忙期を迎えるのに、今度は私の右脚に支障が生じ、「困ったことになった」と思った。
原因は前日の「中腰作業」であったと自己診断した。それは、「エンドウマメ用の畝に」と仕立て直し始めた畝で水仙の球根(昨年、養生させた分の採り忘れ)を掘り出し始めたことに始まる。10球ばかりのところで中断して草屋根に(掘り出した分を)移植することにした。その際に、草屋根にはびこっていたカニクサ(日本で唯一と聞く蔓性のシダで、別名ツルシノブ)の根をシャベルで掘り出す羽目になったが、これが意外にシブトク、つい躍起になってしまったからだ。中腰のままで半時間余の格闘がよくなかったようだ。
大事な約束が2日後に迫っていた。知範・未来ご両人と3人でピザ釜の補修に取り組む約束であり、ずいぶん以前から交わしていた。
幸いその前日(翌日のこと)は、来訪者の予定が2件あり、共に長時間座って過ごす用件だったので、安静に供することにした。チョットした力仕事は、イモリの水槽を冬支度にしたことぐらい。にもかかわらず、夕刻には右ももの後ろ内側付け根の筋肉に痛みが増しており、歩行困難に。やむなく知範・未来ご両人に電話で、万一に備えて予告した。
予定通りに2人を迎えると、「やる気満々」。「シメタ」との想いで「決行」の賽を振った。前夜眠りながらこの日の活かし方を思案してあったし、痛みは悪化していたが、痛点が右ひざに移行していたからだ。2人にそれなりの要領(私が指図し、2人が作業)を説明し、「よい機会」とばかりに手を付けた。だが、時々「ア痛っ!」と悲鳴を押し殺す場面があった。
問題は翌朝のこと。右ひざに移行した痛みが悪化。その上に、妻が「たしか去年も今頃に」と言い出し、私も「そう言われてみれば」と慢性化を心配し、妻の勧めで整形医へ。
妻は運転しながら「(去年は)講演の前の日でしたね」と話し出した。「這ってでも行く」と私は言ったようで、「無理やり」医者に連れて行ったのがヨカッタ、「ウソのように治りましたネ」と続けた。だから、この度は「素直に腰を上げたのでしょう」と言いたげだと見てとり、「利き脚だ」から「なんとしても慢性化させたくない」と応じた。
「そうネ」と妻はうなずき、最初の患者になれそうなタイミングでパーキング。
もはや顔なじみ(昨年来、夫婦連れで通算4度目)の医師は、慢性化を心配する私に、カルテを覗き「去年は左でした」と失笑しながら「それは、取り越し苦労」とご指摘。私には失笑に見えたが、「安心しなさい」とのニッコリだったのかもしれない。それはともかく、「こんなに」と、指示された膝から抜いた水は黄色く濁っていた。
私はホッとしながら院を出た。私の疾患をいつもはよく覚えている妻も、このたびは左右何れであったかまでは記憶していなかったのでホットした。妻も一過性との診断だろう。
帰宅し、そろりそろりと温度計道を上ったが、急に秋の気配が進んだように感じられ、少し気が焦った。庭には先月顧問先の幹部に切り取ってもらった2種の竹の始末の他、霜が降る前に片づけておきたい作業が多々待ち受けていたからだ。
ピザ釜の補修は、2つの狙いがあった。ツチバチが(巣作りに用いる土を取る絶好の場と見たようで)土を奪い、傷だらけにしていたので、その補修。加えてもう1つ。土を再度ツチバチにかじり取られないように耐火漆喰を配合し、硬度を増すことだった。
右足の痛点は右膝周辺に移動したが、膝を曲げたり衝撃を与えたりしなければ痛まない。また、この日の作業工程は言葉で説明出来そうだし、この2人はその言葉をうまく形にしてくれるはず、と思われた。たとえ思い違いが生じても、この2人ならむしろ望ましい方向に解釈をし、学習の糧にするに違いない。「よい機会だ」と思って取り掛かった。
赤土、耐火漆喰、それらを練る船などの重い物は、2人に運んでもらった。コテやハケなどの小道具は(そのあり場所や作り方などを言葉に替えること自体が難しそうだったので)私が取り出したり、作ったりした。
その後も、水の用意など力仕事は、私の指示(言葉)を2人は「形」にしてことは順調に滑り出しが、シクジリもあった。まず、私の悲鳴。力仕事は2人に任せたが、こまごました段取りは私が動かざるをえず、思わず「ア痛っ!」と叫んでしまったからだ。
おかげで私なりに3つの課題を新たに設定できた。1つは、「利き脚」問題。2つ目は、言語化問題。そして3つ目が最も肝心だと思う「主客逆転」への配慮だった。
「利き脚」問題は後に回す。この2と3は、汎用性AIロボット時代を優雅に迎えるための心準備だし、この日の2人だけでなく、3日後の3人の佛教大生と、10日後の2人には容易に理解し、受け入れてもらえそうなので、試みることにした。
上塗り用の土が練り上がり、2人は塗り始めたが、すぐに分かったことがあった。このたびは乾燥しきった赤土(Aとする)の塗面に生じた疵(ツチバチに土を盗られた跡)の補修だが、異なる成分の土B(耐火漆喰配合)を上塗すれば簡単に補修出来ると思っていた。だが、経験不足を思い知らされた。Bで薄く上塗りする作業は、塗りつけたBの水分が即座にAに吸い取られ(それが接着性を良くするはず、と期待してのことだったが)、きれいな塗面に仕上げるのが難しく、2人は大苦戦した。
だから、塗るBの厚さに制限(さらに薄く塗る必要)がある(釜の扉の開閉が関わる)部分などは(作業要領まで言語化するのは面倒そうに思われたので)私が塗った。
厚く塗っても支障がない上部は背が高い知範さんに塗ってもらい、その綺麗に仕上がった表面にメモリアルを刻み込むなど、3人は手分けして予定通りに仕上げた。
この間に、妻特製のサンドイッチを食べながら、ヒビ割れ対策を話し合った。土Bが乾いた時のひび割れが予測されたからだ(2週間ほどでヒビ割れは露わになった)。この補修は経験上、1度ならず求められるに違いない。「さて、どうするか」との相談だ。そこで、土Bをそれなりに容器に移して残し、水をたっぷり追加して保存することを提案し、2人に作業を受け持ってもらった。
こうした作業の度に「主客逆転」した場合のことを意識した。このたびは、この2人に汎用型AIロボットの役回りを引き受けてもらったが、私の願いは、この2人が汎用型AIロボットを使いこなす名手になることだ。だから2人には、私の不適切な指示に気付き、「私なら」と考えてもらいたい、と願った。私は逆に、彼らの動きをよく観察し、その「私なら」を憶測し、汎用型AIロボットになったつもりで解釈したかった。
「そうだ、これを機会に」と思った。四国で訪れた山頭火の終焉の地でフト考えたことを思い出したからだ。汎用型AIロボット時代に備え、生身の人間と汎用型AIロボットのしかるべき差異を心得えられるようになり、生身の人間として安らかに生をまっとうできる時代を体現したい、その1例になりたい、との願いの追認だった。
ヒトは、生まれた以上は、等しく人として生を全うできる世の中であって欲しい。そうした世の中を、私は「第4時代」に見出してきたわけだし、その生き方を「清豊」と呼んできたのではないか。だから「身の丈」といった言葉を歓迎し、「古人の智慧(文化)」と「近代科学の成果物」をうまく掛け合わせることで達成させたい、と願って来たのではないか。
整形医を訪ねるまでの一週間。まず2種のエンドウのポット苗作りに取り組み、翌日はその畝の準備に手を付けた。だが、粗耕しを中断せざるを得なくなった。掘り出し忘れのスイセンの球根があったことに気付かされたからだ。昨年、石畳道の防草土舗装をしたがその時に掘り出したスイセンなどの球根をここに移住させたことを思い出した。
掘り出した20ほどの球根は、発根だけでなく芽も吹いていたので急ぎ再移住先を、と思案した。そこで「草屋根に」と思い付き、取り組んだが、それが歳のほどを思い知らされる結果に結び付けたわけだ。
中断したエンドウ用畝の粗耕しは、ピザ釜を補修した6日に、その補修を終えた後で、知範さんに事情を言って、残る半分を粗耕ししてもらった。この折に、さらに水仙の球根の掘り出し忘れが出て来たが、その移住先は未来さんのお宅の庭に委ねた。
次の庭仕事の日は9日で、3人の学生を迎えたが、6日と同様に「ならば!」との想いで招き入れた。事情を伝え、2種の竹の後片づけや土の移動など幾つもの作業に当たってもらったが、うち1人は初参加者であったにもかかわらず、3人には想い通りに作業を進めてもらえた。だから私はもっぱら芋焼きの焚火に従事できた。
おかげで、焼き芋を味わいながら汎用型AIロボット時代に想いを馳せた話題を選ぶことができたので実に楽しい1日になった。
その後、次の2人の佛教大生を迎えた17日まで、「私流のリハビリに」と願う日々を過ごしたが、これらの日々はこの2人の受け入れ準備の一環でもあった、と言ってよい。まず、玄関周りの3本のニンジンボクを手始めに、低木の剪定という立ち仕事から手を付けており、これらの剪定クズは佛教大生に囲炉裏場まで運んでもらう算段だった。
こうした作業の後、3種の果物の収穫と、まだ霜が降っていないのを幸いに、第2次のヤーコン茶の準備などに当たったが、これらもほぼ立ったままで可能な作業であり、膝に負担をかけない。熟れていないイチジクの実は砂糖で煮て、そのまま茶菓子にしたり、後日ジャムに煮直したりする。ヤーコンの葉はその後、刻んで干し上げ、来夏(麦茶のごとく冷やして用いる)まで保存した。
「利き脚」問題にも取り組んだ。亡き母を思い出しながら、スコップを左足でもじょうずに操れるようにする訓練である。母は、大腿骨をセラミック製と取り替える手術をしたが、「ナニクソ」と頑張る母でさえ、さぼろうとしていた。だから、子なしの私は、自らに言い聞かせざるを得ないので、発奮した次第。傷んだ脚への負担をかけずに済むように配慮しながら、気力を保ち続けたいと願ってのことだ。
これは妻が「今夜は、おでんを」と言ったのを幸いに、実行に移した作戦だ。2株で終わったが、コイモを左足を操ってスコップで掘り出した。さらに、知範さんに粗耕ししてもらったエンドウの畝にも手を出し、スコップで縁取りを整える作業を左足で果たし、鍬で畝の形に仕上げ、日をおいてポット仕立てのエンドウの苗を植え付けた。
こうした作業で汗をかきかけるといざりの作業に切り替えた。サフランを収穫したり、干し上げてあった野菜や花卉の種を、冬の日差しをもわせる広縁で袋詰めにしたりする作業のことだ。
この間の13日には知範さんを迎えたが、彼には1人でビオトープの改修作業を仕切り直し始めてもらった。夏場には草木が茂っていて見えにくかった欠陥が、秋に入って露わになっていたからだ。そこは風除室の屋根に降り注いだ雨が流れ落ち、その基礎部の土をずいぶん流し去っていた。だから3人の佛教大生に、袋詰めの土を補充しておいてもらったが、「ヨカッタ」と思った。
月初めに想うところがあって、大幅に10月用月記の原稿を書き換えただけでなく、当11月用以降の記し方も改め始めている。脚を痛めた記念にでもあり、「キットその頃には」と思うことがあってのことだ。その頃とは、健保や年金の破綻が隠しおおせなくなり政府が開き直る頃のことである。キットとはまだ暢気に構えている人たちがその時には慌てふためくに違いない、と思われるからだ。
本来は、「ヒト」は生まれた以上は、等しく「人」として生を全うできる世の中であるべきだ。だが、現工業社会はロボットのごとく働きさえすれば、特化型ロボットが出来るまでは「ヒト」の欲望の解放を許し、油断させる。その欲望の解放が大量消費を促し、それが特化型ロボットの開発を促す。要は、「ヒト」が「ヒト」の首を絞めるシステムである。だから多くの「ヒト」は、自己の身体管理の面でも油断させられてしまう。
これは、私の脚の不具合を知った時に、妻が「医学書」を探そうとしたので、ハッと気付かされた。そして「赤本(と両親が呼んでいた表紙が赤色の医学大辞典)を思い出した。
敗戦前後の両親は、経済的には医者にかかれる身にあったが、それでも「赤本」の愛読者であり、まるでバイブルのごとくに読み返していた。当時は、多くの家庭にとって、医者と言えば、僧侶より幾日か前に呼ぶような位置づけにあった、と言っても過言ではない。
「Aさんのお宅、昨日、医者を呼んでました」とBさんがCさんに耳打ちすれば、Cさんが神妙に「もう(葬儀が)近いんでしょうな」と応えるような貧しさゆえの場面に、幾度も私は立ち会っている。病気にかかることは「欠陥人間」でもあるかのごとく恥ずかしことだったし、その家庭にとっては恥であり、病人を出したことを隠そうとした。
そうした意識が残る時代に「健保」制度は生まれたが、この意識が180度転換した今も、そのシステムのまま放置されている。わが国の体質はかくのごとく、太平洋戦争の場合がそうであった様に、行くところまで行かないとどうにもならないのだろう。
振り返れば、1955年体制ができた年に肺浸潤の悪化を私は知り、暮に右手重傷。受験浪人。どん底の気分になった。だが、源ちゃんという知的障碍者の一言のおかげで救われた。工業社会の行末に気付かされたからだ。そのころに渇望したものがある。
妻は入院の体験がなく、あまり読書に時間を割けない日常だが、赤本に類する書物(たとえば勤めていた商社が半世紀ほど前に支給した医療辞典。だから同類の「赤本」は捨てた)に限って言えば、私よりも愛読者だ。だから「ヒョッとして」と思うに至った。
「赤本」は当時の対症療法の手引きだったが、多くの人の心の支えだった。私としては、予防が大事と気付き始める人から順に、救われる世の中になってほしい。その時にヒョッとして「ワラ(藁にでもすがる、のワラ)」にでもなればとの願いが込みあげた。
だから、学生が主に聴講する講演資料だけでなく、月記にまで手を加えたくなった。
天からの贈物・冬子のシイタケが出始め、初見の大きなイモムシのお出ましを愛でた余韻が覚めやらぬ最中に初の来訪者があり、京都西山山麓の朝掘りタケノコを活かしたカレーをはじめ「京都缶×環づめプロジェクト」の展開が始まったと知らせてくださった。
網田さんの元気な姿と鈴江さんの「バスキア展」にも出かけた話題に触れ、そのカタログで工業文明の産物も堪能させてもらえたので、しばし時を忘れ、元気をもらった。
この間に皇室にも届けられたとのチューリップの球根を下さる方があり、それが鈴江さんも一緒に参加した麁服(あらたえ)に関するシンポジュームを思い出させた。なぜか明治政府は忌部をかき消そうとしたと聞いていたこともあり、このたび令和の令は命令の令と見るのが妥当だろうと思わせられたこともあって、四国旅行を振り返り始めている。
乙佳夫妻には頼みごとがあって訪ねてもらったが、親方には「ついでに」と母屋の屋根掃除をしえもらえた。妻が進呈したイチジクの砂糖煮を見た乙佳さんは「これで!」と目を輝かせた。庭にはイチジクの木があり、沢山実をつけるが、寒地だから熟れる前に霜が降ってしまうようだ。
橋本家女性軍を迎え、歓談。その後で居残った明朱花さんには目出度い知らせとフィンランドの土産を、朋香さんには自分で育てたピーナッツを手土産にしてもらえたが、これぞ土産と嬉しかった。
次いで、顔見世に出かけた人たちから土産が届き、「母(歌舞伎好みだった)に」と思って仏壇に供えた。おかげで幼年時代に体験したあの賑わいがよみがえった。
元アイトワ塾生の3人目は財木さんだった。前回来訪時に、父は南方で戦死と聞かされて育ったが、後年にその健在を知ったと聞かされた。そこで、その折の心境と共振したくて、この度となった。キラ星のごとく氏名が記された姻戚図を持参願えた。
名だたる旧家にふさわしい養子を迎えたが、軍国主義下に平和主義者であった。やがて「反」社会や「反美術」ではなくて「超」社会や「超」美術のダダカンで鳴らす人となった。家を去る時に幼い息子(財木さん)宛てに「父のことば」を残した。その機械体操で国体にも出た「父の鐵の肉体に倣い、母の愛に学べ」を、「母は大事に残して」いた、という。
ダダカンの作品はパリの国立近代美術館・ポンピドーセンターに収蔵され、常設展示されている、という。また、メールアートの誕生と普及にも関りがあったようだ。
四国旅行で今治の宮崎陽平さんに会っていたし、知らせをもらっていたばかりなので、その今は亡き父親からもらったメールアート(? なぜか20年も残していた)を思い出した。
ヒョッコリとお訪ねいただく来客が多い時期だが、安野さんも妻が声を弾ませて知らせたお一人だ。文部省時代に「ゆとり教育」に関わられ、妻が先にお相手いただいた。今も教育のあるべき姿を追求し、その普遍に尽くされている。
最後の来訪者は「今、京都に」いる、との教え子AGUだった。駆けつけた彼女と一緒に最寄り駅まで妻に送られ、京都駅で、今度は「ヒョッコリはダメ」といって別れた。頂き物の「母が育てた」とのジャガイモがとても暖かく思われ、胸が膨らみ、学生が主に聴講するという群馬を目指すことになった。
庭仕事は、ほぼこなせた。脚を傷めたのを幸いに、歩行数は稼げなかったが、段取りよく動かざるを得ず、頭の体操に勤めることができたように思う。
第2次のヤーコン葉を干し、茶葉にする手前にまでこぎつけた。巨大ツルムラサキの畝を4次に分けて(葉を日ごとに収穫し)片付け、タマネギの苗を120本植え付けた。。
畑に残る夏野菜はヤーコンとコイモ、そしてシカクマメ(の種を取る)だけになった。甘ガキと初成りのレモンは収穫し終え、自生のシブガキは未来さんと必要な分だけ採り、今年は三宝用の小ぶりの干し柿も準備できた。残すは大きな渋柿とユズのみになった。
脚を傷めたことが幸いした最大の成果は、なんとか左足を右利き並みに生かせるように、と発奮したことだ。老眼を自覚した時から、身障者としての誇りに感心と興味を深め始めたが、チョット異なる発奮であり、パラリンピックへの想いが深まった。
だが、失敗も体験しており、ヨカッタ。カボチャの畝作りと巨大ニンニクの植え付け、あるいはタマネギの畝作りは、チョッとした思い違いに気づかせた。スコップを左足で操ったわけだが、荷重は左足だけでなかった。なれない右足で踏ん張ったようで、その荷重も相当なものであるようだ。右ひざに移動した痛みの原因を知りたくて整形医を再訪したが、腱鞘炎を起していた。
カボチャの畝作りだけでなくタマネギの畝作りでも、大量の腐葉土も要したし、未来さんと裏庭でキハダやモミジの剪定をしたが、いずれも三脚脚立や傾斜地で踏ん張っており、その負荷も関係していたようだ。
だが、成果もあった。未来さんはモミジの剪定に挑戦し、幹の切り落とし方で失敗した。だが、彼女の勉強になっただけでなく、私も「ここまで(失敗してくれていなかったら)背丈を縮める勇気はなかった」とまず喜んだ。また、切り取った頭部で、妻を大喜びさせることもできた。