一日の午前に心臓の定期検診があり、先月の運動検査や24時間検査と、当日の血液検査の結果も知り、「身体は一筋縄ではゆかないようだ」と自覚。下旬に南中国歴史の旅を組んでいましたので、肝心の生活の営みに支障をきたさないように、とまず心に言い聞かせています。その上で、庭周りの作業予定を見直し、向こう一カ月の計を組み直したのです。実は南中国の旅を挟んで計5つのイベントがあったので、ヒュッゲな1カ月を、と願ったわけです。
午後も残暑がきつく、妻とHCに出かけ、円形花壇のつなぎの花苗などを求めましたが、そこでバッタリ旧知の庭師と再会、元気をめであいました。帰宅後に庭に出て、畑を確かめると、まだヤーコンやモロヘイヤなど8種の夏野菜が残っていました。まず(ゴーヤとツルムサキが自然生えしていた)バジルの畝の後片づけから手を付けました。
翌日は一転肌寒くなり、本格的に庭に出たのは空気が温んだ後、になりました。モロッコマメの畝を片づけ、支柱が残るのは2畝だけにした時に、前日再会した庭師が坊ちゃんカボチャ持参で来訪。その後、夕刻まで畑仕事に当たりました。その間に久保田さんが見えたので、手を休め、デンマークで知った郵便事情を話し、しばし語らいました。
その後、畑仕事は順調に運び、キクナやハクサイなど妻が準備した苗床を(温室に持ち込み)無駄にせずに済まさせる作業や、私が用意したレタスやミブナの苗を畝に本植えもしました。とりわけ9日に知範さんと未来さんを迎え、アイトワ流畝の仕立て直し方を伝授が楽しかった。他に嬉しい来訪者や贈り物にも恵まれた上旬でしたが、トウガン汁や最後のインゲンマメも楽しんでいます。もちろん末期の野草対策も怠ってはいません。
中旬も、佛教大生とのパーティと顧問先スタッフの受け入れ研修(5つのイベントの内の2つ)だけでなく、多々楽しい出来事に恵まれました。もちろん、それらの前に予期せぬ台風19号を迎え、慌てましたし、関東以北の豪雨被害におののきました。その間の、ラグビーのスコットランド戦をTV観戦して手に汗を握り、2頭のシカの侵入に仰天。中国旅行の準備をしながら、シカの侵入と日本近海で発生する台風への不安におびえています。
中旬最後の二晩はアイトワ流の歳時記を検証。翌早朝から(昨年の傀儡国満洲の旅に次ぐ)南中国歴史の旅に出立。有意義な5日間になりました。その古代文明との連続性を尊重する近代文明化、とりわけ2千年におよぶ都を目の当たりにさせる西安の統一感には眼を見張るばかりで、歴史を尊重する姿勢に感心。東洋人として誇らしげに感じました。
帰宅翌日、雨が上がるのを待って畑に出ると、出立12時間前にまいて出たアイトワ菜などの芽だけでなく野草の芽も出そろっていました。急ぎ義妹が種をまいたネギ苗の畝などの除草と、当月3つ目のイベントの準備に励みました。疲れている暇はりません。
土曜日は知友一家を、日曜日は村上夫妻を、そして月末から1泊2日で顧問先第2陣のスタッフを迎え、それぞれ楽しい一時を過ごさせてもらいました。
~経過詳細~
6月中旬から「月がわり」なんとかのごとく4度も、今年は老骨に鞭打った。中部ベトナム旅行、四国を車で2000km走破の4泊5日、日に1万歩も歩く日が重なった(妻も同行した)デンマーク、そして当月の「日に2万歩」を記録した南中国歴史の旅のこと。
とりわけ6月のベトナムの旅は、団長の松村さんがその後、永眠。旅の前に伺っていた通りになり、彼が最後に浸ろうとしたダナンでの時空に付き合うことができてヨカッタ。彼にとっては生涯で最も長く過ごした地がダナンだった。願わくばもう少し早く知り合っておきたかった人だった。
それだけに、6月4日の心臓の定期検診時に、少し躊躇した思い出が懐かしい。「心不全」係数が急上昇していたことを知り、薬の種類や量が増え(3カ月に1度になっていた)定期検診が毎月検診になった時のことだ。4度も老骨にムチ打つ予定を組んでいたが「大丈夫か」。最後の南中国歴史の旅は、形だけとはいえ団長だ。
こうした心配をよそに、なんとか3度目のデンマークへの旅まで楽しくこなせた。そして帰国4日目の10月1日に定期検診があり、ヒトの身体とは一筋縄ではゆかないようだ、と、つくづく思わせられている。前月の臨時検診(デンマークに出かける1週間前)の24時間検査結果を知ったが、10連発の不整脈を記録していた。だが、そうとは知らずにデンマークに出かけて7日間、平均して7800歩の日々に続いた。その3日後のこの日の血液検査では、心不全係数が逆に安全圏近くに戻っていた。
おのずと「10連発もの不整脈が意味することは?」と気になった。知り得たことは「酸欠(になる心配)でしょう」だけ。だから、「これから(不整脈の)自覚症状があった時は、深呼吸に努めなくては」と自分に言い聞かせた。というのは、3週間後に南中国の旅が控えていたし、その前後に計5つものイベントを組み込んでいたからだ。
それだけに、生活の営みを強く意識しており、心を引き締めている。人生にとって麗しき日々の生活の営みこそが肝心要、と私は心がけている。それが心身の健康だけでなく、ゆとりある暮らしの源泉、と思っているからだ。
その生活の営みを、わが家では妻と分担しあっており、私の役目は生活を豊かにする「創造的住空間」の創出であり、この住空間のいわば片輪である「庭」を、常に活用できるように維持、管理、そして改修することだが、手抜きしたくない。
実はこのたび、このように心を引き締めたのは、妻が発した一言のおかげだ。病院から帰った私の着替えに付きあった後、妻はお茶の時間にしたが、「今年はヘンヨ」と言ながら盆にのせた柿の葉を運んできた。例年のごとく庭を巡り、わが家の大事な歳時記の1つ・柿の葉寿司を作るために集めたようで、葉の様子から「何か?」を感じ取ったわけだ。
妻は3日前までデンマークに同道していながら、何事もなかったかのごとく見事に日常生活に戻っていた。急ぎ私も庭に飛び出し、庭周りの7本のカキの木を注視して回り、愕然としている。近年一番目を配っていたはずの(庭にある最も若いカキの木で、昨年から実を付け始めた)渋柿の木で、致命的な異常事態を生じさせていたからだ。
最早「取り返しがつかない状態」と判断し、反省した。せめて帰国後「すぐに、気付いておれば」と悔やみながら、昼食をすませ、妻に誘われるままにHCに出かけた。
「もっとも」と、帰国した3日前を振り返った。この度はいつものように庭の点検は出来なかった。帰宅後そのまま失敗学会の皆さんの輪に加わり、夕食までご一緒したからだ。とはいえ、その後の2日間は非日常の気分から抜け出せてなかったことになる。非日常もとても大切だが、それは嗜好品と同じで、酔い過ぎに要注意だ。
残暑が少し緩んだ夕刻に妻は庭に出て、買い求めた花苗を活かし、黙々と荒れた円形花壇(シーズンが終わったチュウゴクホウセンカなどが目立つ)に手を加え、仕立て直した。「よいパンジーの苗が、まだ(店頭には)出ていない」ようで、紅葉シーズンが始まるまでのつなぎの花壇をと願い、喫茶店の定休日を活かしたわけだ。
二日の朝は一転して肌寒くなり、庭には出ずにPCにかじりついた。前日は残暑がとても厳しかっただけに、「朝飯前の一仕事」のシーズンは終わった、などとは思っていない。にもかかわらず、起き出してきた妻に「ボツボツストーブを」と言って、笑われた。
南中国の旅が控えていたし、前日の「不整脈10連発」の認知や、大事な渋柿での失態発見で少し気が滅入っていたからだろう。フト「あと何年、嬉々と朝飯前の一仕事に取り組めるのだろうか」と、おセンチになった。その後に分かったことだが、前日が「朝飯前の一仕事」に取り組むにふさわしい今年最後の1日だった。それが定期検診で飛んだ。
「ともかく体を温めよう」と思い直し、畑に出て「そういえば」と過去を振り返っている。かつては真冬に「薪割を!」と朝一番に飛び出し、体を温めたものだ。
オクラの跡をスコップで仕立て直し始めると、すぐに体は温まった。一息入れ、なぜか向かいの竹薮に目がいった。既にそこにはあの朝日はなかった。日毎に太陽は昇る位置を南にずらしており、竹林の間からチカチカと射すあの陽光のことだ。
妻が野菜の収穫に出て来た。ほどなく妻の柏手が庭中に響く。朝食の合図だ。私は急いで軍手を脱ぎ、数秒後になったが、ポンポンと柏手を打って返す。
今朝は、自家製「みそ」を活かした「和」か、自家製ブルベリージャムが入ったヨーグルト付きの「洋」か、などと考えながら温度計道を登る。フト「有難いなぁ」と思った。このゆるやかな坂道を、いつぞやは(緊急入院になる前のしばらくの間は)妻に背を押してもらって登っていたものだ。
『スカーレット』を見ながら食事を終えると、妻が先に立ち、フリースの上下を取り出してきた。下は履き替え、上は重ね着するとストーブは不要と分かり、PCの前に陣取り直した。そしておもわず「あのころとサカサマだ」と、苦笑した。
妻は真冬に、セントラルヒーティングの家から嫁いできたが、当時のことだ。室温16℃以下にならないと「タルでいる」と説教し、暖房(石油ストーブ)を使わせなかった。「あれもヨカッタ」と、振り返った。
その後、まず妻は初秋に、「夏痩せせずに済みました」と喜んだ。鉄筋コンクリートの家では、空調があっても寝苦しくて、「夏痩せした」という。その点、夜は網戸を通して流れ込む緑風が涼しく(当時は合布団で寝ていた)「熟睡できるようになった」と、喜んだ。
次の喜びの声は数年後だった。「メガネが要らなくなりました」だった。緑豊かな借景を日々遠望する住環境と、新鮮な野菜を主とする食事、あるいは植物との共生を尊ぶ生き方などがよかったようで、近視眼鏡が要らなくなった。
植物との共生とは、酸素と炭酸ガスなどの交換だけではない。私は、アロエを火傷の薬と見て身近に育て、妻が日々目にするところにナツメの木(婦人病のクスリと聞く)を植えているなど。
この日、庭には「空気が温んだ」と見てとった10時前から本格的に出た。まず支柱がいる夏野菜の畝を2畝だけにした(ただしヤーコンやコイモなど背の高い夏の作物は残っていた)が、その時に内線で「井上さん(前日再会した)がお見えです」と知らされた。
彼は坊ちゃんカボチャを持参だった。だから話題にカボチャを選ぶと、「待って(い)ました」とばかりに彼は「日本のハローウィンはチョット」と不思議がった。
秋の「収穫の喜びなどおかまいなしに…」、その後の騒ぎだけを真似ており「勿体ないなぁ」と嘆いた。近年の「やらせのごとき仕掛け」と彼は言うが、非日常の飲酒がごとき部分のみに乗せられたかのごとく大騒ぎをする人たちに対して「勿体ないなぁ」と同情した。
私は「ドキッ」とした。思い当たるフシがあったからだ。そうでもしないとやり切れない時代や時期があった。その頃に「亭主は元気で留守がよい」や「オシャレと違うワイ、エチケットだい」という男の子が歌う歌詞が流行語になっていた。
この井上さんが用いた勿体ないという言葉の活かし方に私は痛く共感した。
150年以上も前のウイリアム・モリスの予言を思い出した。世界で最初に「デザイン」の概念を特定した人だが、産業革命が進むイギリスで、工業社会が出現し、賃金労働者を生み出しつつある状況を視て、次のように危惧している。「賃金労働者は、古代の奴隷や中世の農奴よりも惨めな存在になるだろ」と。
この予言を学んだ当時、私には理解できなかった。社会人になり、欧米に足しげく出かけ、衣料業界が主勤労働者は、奴隷と違って、リストラされると悲観し、路頭に迷う立場になりかねないことに気付かされている。奴隷は(実態は)リストラだったが(篭の鳥が放たれたかのように)奴隷解放と喜んでおり、悲観して自殺した例など聞かない。
賃金勤労者は、お金のために働き、そのお金で非日常を求めるがごとく(生活の営みを疎かにして)ファーストフードなど既製品化された生き方に走り、生きる力を失ってゆく。やがて見えない鎖・賃金に縛られ、身動きできない立場に自ら陥れる。
勤労が悪いのではない、人一倍勤労し、その神髄(システムのありよう、モノやコトの軽重、あるいは因果関係など)を学び、それを日々の生活の営みに活かすことが大切だ。勤労を奨学金付き学習の機会と位置付け、全人的な力を養えばよい。
こうした想いが頂点に達したころに私は、いてもたってもおれなくなったようで、著作に手を付けている。それは迫りくる貧富格差やリストラに慄かずに済ます秘訣を紹介したかった。その根本は「次代」を、進むべき「方向」見据えを、専業化分業化した単色の賃金勤労者を脱し、多能な全人を目指そう、と呼びかけた。
そして、その気にさえなれば誰にでも可能な方法で、その生きる力や、生きる喜びを得られる実例を作って見せよう、と心に決めている。裏返していえば、勿体ない立場に己を陥れないように用心しよう、との呼びかけだった。
午後には久保田さん(かつて郵便局にお勤めだった)にも立ち寄ってもらえたので、「待って(い)ました」とばかりに、デンマークで知った郵便事情、とりわけ「プライオリティ」について質問したが、ご存知なかった。
この日は夕刻に、モロヘイヤをすべて根元から切り取って居間に持ち込み、畑仕事を終えた。そうと知って妻は、夕食の準備前に、このモロヘイヤは「保存食材にします」といって葉をちぎり取り始めた。
その後、中国に出かける日が近づくにつれてわが家の心の歳時記を大事にする気持ちを高めている。それは、庭師・井上さんの「勿体ない」と、妻の「今年はヘンヨ」のおかげだ。
9日は、知範さんと未来さんを迎え、アイトワ流の畝の仕立て直し方を開陳する日になった。それは、いわば「無手勝流(教科書なしで創造的に実践した)農業で身に着けた極意」の一端の伝授と言える。なにせ知範さんは、樹木で知り得る「自然の摂理」の一端に紹介すると、人間の所業や生業に結び付けて考えてみる人だ。見事なマツカサを手にすると、そこにもう一つの摂理を見出そうとする。
この考え方や感受性を、うまく育んでほしい。たとえばフランス革命も飢饉が原因だった。台所を預かるおかみさんたちの共通の危機意識が誘ったのだろう。これを逆に悪利用する人もある。その善し悪しや善悪は、「自然の摂理」をいかに認識し、歴史と照らし合わせ、検証し、自己制御もしておれば、自ずと見えて来そうに私には思われてならない。
未来さんも同様だ。手抜きや横着(を促す誘惑やカラクリ)に不安を抱き「自然の摂理」に即した実働(生活の営み)に誘うと安堵する。この2人は、私の持論の1つでる「つぶす喜び」と「創る喜び」でいえば「創る喜び」を志向する。
先月知範さんに「粗耕し」に当たってもらったが、それは私がスコップを用い始めた当時のやり方である。これを第1ステップとすると、この日は第5ステップの伝授といって言ってよい。つまりここ10年来の日常化したやり方・現在の仕立て直し方に取組んでもらうことにした。これは、高齢化社会対策でもあれば、わが国の「国家」存立対策となるに違いない超多品種超集約農法の手段である。
西ドイツ時代のさる大統領は「食料自給率が8割を切ればもはや国家ではない」と喝破した。当時、わが国はまだ7割程度を自給していたが、イギリスは4割を切っており、私は「イギリス病」と笑った。その後、イギリスは植民地をどんどん失ったが、現在は食料を(肉食率を落とせば)自給できる状態に戻している。
農作業に手を出した当初は、スコップではなく、備中鍬を振りかざし、がむしゃらに「粗耕し」から手を付けた。その後、2~3の曲折を経て、30年ほど前(のように思う)からスコップに持ち替えている。だが、まだ「粗耕し」から手を付けていた。その頃のようすを、嫁いできた妻は覚えており「日に3往復ほど(耕)していました」と証言する。それは、畑地が今の2倍以上あった(パーキング場や温室などに畑地を割いていなかった)頃のことだ。
現在の広さで言えば、この半分以上に当たる面積を一気に掘り返していたことになる。なにせ私は、そのころは週末しか野良仕事に当たれなかった。裏返していえば週末だけの肉体労働だったからだ。それが自然の摂理に富んだ専用ヘルスクラブのようなつもりになっており、農民が日常的に耕作する面積を上回っていたかもしれない。
その後、母まで失い、私も非力になり、20年ほど前から仕立て直し方を次第に改め始めている。だから、2つの備中鍬は出番を失い、スコップは4本目(も先がちびて薄くなり、割れ始めている)が引退期を迎えつつある。
耕し方を決定的に改めたのは「ある読み間違い」に気づかされた時だ。降雨量を、国と同様に私も1時間当たりせいぜい50mm程度と見ていた。だが89mm(50年に1度の大雨と聞いた、が降った。この時に妻は、私を起した後で一過性健忘症になっている)を体験し、考え方を改めており、即刻コンクリプールを作った。
だから、畑地の中程に(大雨対策の配管を埋めたりしたので)十字型に固定通路を設け(配管を守ら)ざるを得なくなり、畝を途中(この通路)で分断した。だから畑地はさらに狭くくなったし、体力低下も実感したので、畝の仕立て直し方を大転換した次第。
「無手勝流農業」の経験は、本格的に「超多品種超集約農法」へと誘った。半分の長さになった畝に3種も4種もの野菜を育てる農法であり、畝の仕立て直し方を改めざるを得なくなったわけだが、それがヨカッタ。
また、カラス対策が必要になったが、スコップでの耕作であれば(備中鍬を高くかざして振り下ろす場合と違い)テグスを張って(その対策にして)も、問題を生じさせない。
この日は、ご両人に「4種の肥料(発酵鶏糞、油カス、有機石灰、そして囲炉裏場の灰)」の調合を見学してもらうことから始め、短い3畝を仕立て直した。小回りが利く未来さんが(腐葉土小屋から)運び出した腐葉土を、仕立て直す畝に被せた。パワーに富む知範さんが、それらをすき込みながら2畝を仕立て直した。残る1畝は、同じ要領で未来さんに仕立て直してもらった。
この間に、未来さんの手が余る時間帯があったので、腐葉土を余分に運び出してもらい、ネギの畝の根元に投入した。その上に私は発酵鶏糞をまき、それらを畝の両肩に盛り上げてあった土を削って覆せる「土寄せ」をし、土を削って平らになった所にチンゲンサイの苗を植え付けた。
この3人がかりの作業を、今の私が1人でこなそうとすれば3倍ではなく、一服の時間も要することだろうし、5倍以上かかったと思う。それだけに私は2重の意味で嬉しかった。次回3人で同じことをすれば、手慣れた分だけ早くなり、6分の1はどの時間(1人当たりで見ると半分ほどの時間)で済むことだろう。と同時に、協働の喜びも得られるに違いない。「結(ゆい)」はこうして世界中の農業社会に広がったに違いない。
そのゆとりや楽しさなどが人々を非日常であった歌謡や踊りなどに誘い、それらが自然の摂理によろしく合致すれば歳時記になり文化となったのではなかろうか。
もちろん、こうした合間のチョットした時間を活かし、私は妻が(私が旅に出る前に本植えさせようと)苗床を準備したキクナやハクサイなどの苗(4~5日遅かった)を無駄にせずに済まさせるための作業(温室に持ち込み、観葉植物用液肥を補った)や、私が(旅に出る前日に)用意したレタスやミブナの苗床の苗を活かす段取りに取り掛かっている。
こうしてわが家はわが家なりに心の歳時記を編纂している。
この日、最後のトウガンを収穫し、3人で分け、早速わが家ではトウガン汁を作ってもらった。夕刻には白菜やブロッコリーの畝に(残っていた)電動カンナのクズ(書庫の工事で出た)でマルチングをした。他の畝は順にもみ殻で、と考えている。妻はバジルの畝に1本混栽してあったインゲンマメの最後の実を収穫した。
野菜や樹木の種が自然生えするときの様子をうかがっていると、何かが見えてくる。それは、人間の介在が「自然の摂理」を乱しているのではないか、との反省である。
自然にこぼれた野菜の種は勝手に「この日」という日を選んだかのように一斉に発芽する。サクラやモチの木などは無数に種を落すし、小鳥が食べた分は糞にまじえて様々なところに落す。だが、そのいずれであれ何万分の1ぐらいしか発芽しない。
もちろん共に、人間が作為的に手を施すと90%とか95%とかの発芽も可能だろう。これを「人間の智慧とか勝利」と見なしているが、それは「劣性遺伝」を促しているのではないか、と不安にさいなまれることがある。これは鳥インフルエンザ時の殺処分で「ピン」と来た想いだが、豚コレラでその想いを増幅させている。魚の養殖もしかり。それらはいずれもつじつまが合わなくなり、パニックの原因になりそうに思われてならない。
昨今の体験したことがない豪雨の多発を始め、台風、ハリケーン、あるいは竜巻などの異常化はいずれも、自然の予備警告であり、自然が地球(己の体)の発熱に施すいわばアスピリンのようなものだろう。それはいずれ、明らかなるに違いない。
このような想いしているためか、心に秘めたアイトワ流の歳時記に沿った生き方ができた時に、なぜか心が安らぐ。逆に、まるで自然に促されたような形で成し遂げてきたことに気付かされ、安らぎ覚え、おのずと心に留め、それが心に歳時記を刻ませたのかもしれない。
その意味でこの2年間は、足しげく異国にまで(肝心の棲み処を離れて)足を延ばすことにさせたようだが、それゆえ余計に、己の生きる座標軸であるかのごとくに、心の歳時記を尊びたくなったのかもしれない。これを疎かにすると、どこかのピンが外れたり、生きものとしてのリズムを見失ったりして、フェイクニュースに踊らされやすくなるのではないか。
この想いは、妻が庭でシホウチクを収穫し、調理に掛かる姿を目にしたことで「その季節か」といや増している。
佛教大生とBBQをしたくなった13日、これを学生が非日常の喜びにしないように、と配慮した。日々の生活の営みのごとき庭仕事に興味を示す「この人たちの優れた感受性」を損なわないように、との注意だった。だから、準備や語らいの内容、あるいは後片づけをより丁寧にした。
その翌日から、妻は庭でムカゴを集め始めた。もちろん私も見つけると収穫し、加えた。かくして5日後に「ムカゴ飯」が振る舞われた。
19日の朝に妻は「柿の葉寿司」を用意し始めたが、私は改めて、渋柿で生じさせた異常事態をくやんでいる。と同時に、「明朝から中国だ」と心を引き締めた、それがヨカッタ。
「万が一」と思い立ったことがある。「もはや手遅れ」と一旦諦めた渋柿の手当てだ。様々な想いを巡らせているうちに、カキの木の身になったような気分なり、その治療に求められそうな道具や資材を手に取って庭に飛び出した。あいにく冷たい雨が降り出し、妻が傘を持って駆けつけた。だが、「見たら分るだろう」と言わんばかりに無視した。込みいった梢の下では傘など広げられるわけがない。「余計な時間を使わせるな」と言いたい。
20分ほどで「こうしておけば思い残すことはない」との治療が終わった。その大部分の時間は、カキに異常事態を生じさせた主因と見た重そうな実を、すべて切り取り、さらに長く伸びた枝の半分以上も切り取る作業だった。
玄関に戻ると、タオルと雑巾が用意してあったので感謝。その後、小雨もあがり、促されるようにして庭に飛び出した。妻が準備したキクナの苗や、私が用意したレタスの苗などを活かしたくて、モロヘイヤの跡を仕立て直し、苗を植え付けた。さらに、条を掘ってアイトワ菜と第2次のノラボウナの種を、留守中に発芽していること期待してまいた。
ヤーコンにも目がいったが、イモの掘り出しは先だし、葉の収穫は霜が降る直前が望ましいから後に回し、引きあげた。夕食は柿の葉寿司だった。
食後に、「吊るし柿を」と考えたが、木の治療の都合で取った実だから「若か過ぎそう」と妻は言った。だから自ら包丁をとった。
かくして翌早朝から4泊5日を南中国で過ごし、24日の夜に戻った。
帰国翌朝は小雨だったが、ツルクビカボチャの温かいスープがありがたかった。傘をかざして庭に出て、まず軒先に干して出た吊るし柿に目がいった。妻の危惧のごとく湯通しまでしたのに黴が出始めていた。
庭ではホトトギスの花が盛りだった。畑ではアイトワ菜とノラボウナの芽が出そろっていた。だから急ぎ、外に出してあった水槽などを掃除し、取り込んで広縁を冬仕立てにした。
祈る思いで、傘を斜めにして木立の間を進み、渋柿の木を目指した。たどり着き、つくずくと「ヨカッタ」と思った。曇天続きにも助けられたのだろう、「100%無理」と思っていた大事な方の幹も、葉が萎れずに保っていた。
実は、裂けたままあまりにも長期間放置していたので、ちぎれずに残っていた部分が曲がった状態で硬化していた。だから戻すときにポキっと折ってしまい、幹と割れた枝を完全に切り離してしまった。だから、上下に5mmほどずらした形でくっつけざるを得ず、その上からチューブゴムで縛っておいた。
どこかの接点で導管がつながり、生を留めたのだろ。こうした生命力に気付かされると、なぜか私はいつも、ジャングルで見放された傷痍軍人であるかのような気分にされ、無性に嬉しくなってしまう。
霜は、願っていた通りに、留守中には降った様子がなかった。だから急ぎ、ヤーコン茶を作る葉を収穫し、干した。夕刻に気付いた妻が「1年は、あっという間ですね」とつぶやいた。
当月は庭師の井上さんの来訪を始め、予期せぬ来訪も多く、多々親交の機会に恵まれた。
久しぶりにリズさんの夫・エリックさんと合えた。リズ夫妻は予定通りに、嵯峨巡りの途上で立ち寄り、引率していたアメリカ人留学生20人ほどに「私の日本の両親です」とリズさんは私たち夫婦を紹介した。
この夫妻は共に日本文化の研究者で、リズさんは単身赴任で過去1年(ある日米交換留学生事業の任で)滞日中だった。その業績が評価され、このプログラムの上司でもある夫のエリックさんともう1年、駐在できることになった次第。妻の人形を見たいという数名を案内し、帰途再訪してもらえた。
吉田さんに訪ねてもらい、声援を送った。リクチュールプロジェクト仲間の懇親会で、仲間の1人から紹介された青年だが、人生の岐路・転身の好機にあるようだ。
そのリクチュールプロジェクトのリーダーであった木田豊さんから「京都に来た」と電話があり、翌々日になったが市中に出向き、元ワコールの共通の友人を交えて旧交を温めた。他に、込み入った話も電話で相談できる知友の1人に訪ねてもらえ、再訪を約した。
中旬の最初は、京都市ごみ減量推進会議の「こごみ日和」の件で関わったお二人だった。ごみ減の担当者・上間茜さんと市民ライターの松村香代子さんには6月に取材を受けており、次代を睨んだ夢を3時間近くにわたって語りあった。にもかかわらず、手直し不要のほぼ完成形の原稿にしてくださったお二人であり、感謝感激でお迎えし、カジュアルトークを楽しんだ。
この来訪の間に、隣の喫茶室から2度、手招きする妻の姿があり、お二人には失礼ながら中座した。最初は、門扉脇で妻がスズメバチを誘導する光景がキッカケとなり、半時間ほど後に取って返して来てもらえたカップルだった。
この時期は門扉脇のカキの木は、虫食いの熟し柿を次々と落す。この実を狙って夜はアナグマなどが、昼間はスズメバチやメジロなどがやってくる。だから朝の掃除時に、妻は「危ないよ」などと言ってスズメバチが喰らいついた熟し柿を拾い上げ、奥の方に移動させることがある。その光景を目にしたNZからのカップルで、「このような生活が夢」と言って訪ね、お茶の時間を楽しんでもらえたし、拙著にサインを求められた。
次の青年は、アイスランドからの旅行者だった。フラリッと席につき、『未来が微笑みかける生き方』に眼をとめ、読みふけり、とりわけ最終章の「未来への夢」に共鳴してくださった。そこで妻の手招きとなり、記念写真に収まり合った。
今月の佛教大生の来訪は13日だった。事前に常連メンバー6人の顔がそろうことが分かり、1度試みたかったことを計画した。今年は例外的な年で、来訪メンバーが(3回生のリーダー石原千夏さんと、5人の一回生が)常連となっている。そこで、この庭のもう1つの活かし方も学んでほしと願い、アイトワ流湯豆腐パーティを庭で開いた。
もちろん、最初に段取りや用具の収納場所などを示し、場作り(掃除や席造りなど)とか囲炉裏の準備から始めた。無煙炭化器やその雨避けカバーを取り除いて場作りをする関係で、薪を母家の軒下まで運んでもらったし、最後の後片づけも滞りなく済んだ。
食時の合間にはデンマーク旅行のエッセンスを語り、「このパーティも『ヒュッゲな一時』を体感する機会にしたかった」と説明し、「おかげさまで」と感謝することになった。それは「ヒュッゲの一時にふさわしい話題を」と願い、人類が「衣類と関わったキッカケ」を話題に選んだ。6人は、期待したあらかたの意見「身体保護論」「羞恥論」「顕示欲論」あるいは「偽装論」などを指摘し、感心させられた。そこで、着用が当たり前になった自分の意識で(裸になった場合を)考えるだけでなく、「裸が当たり前であった原始人になったつくもりで」「まず思いつきそうな動機」とか「2度3度と、その効能を発見し、知恵づきながら」などと、今日の姿にいたった過程に「想いを馳せてほしい」と助言した。
近年、子ども教育の一環として農作業がよく取り上げられる。だが、たとえばサツマイモがテーマの時は「イモ掘り」が選ばれ、それでおしまい、の場合がある。私ならイモの「苗の植え付け」に当たらせ、それでおしまい、の方が良いと思う。もちろん、その後の手入れも体験させ、その上で収穫の任にも当たらせるのが一番望ましい。
こうした想いの下に、6人と接したが、これが中国旅行を挟んで5度あったイベントの最初だった。その2件目の来訪は、顧問先スタッフ第1陣5人(女性2人、男性3人)だった。1泊2日で来訪した人たちの受け入れ研修だが、これも楽しい一時になった。
宿泊は多くの俳優が定宿にする「菊香荘」でお世話になった。24時間大風呂が湧いており(嵐電の最寄駅まで徒歩2分だし)、これも5人にとても好評だった。
シカの侵入は予期せぬ出来事だが、来訪者の1つに数えたくなる。朝食中にハッピーが異様に吠え、縁先に目をやって眼を疑った。朝っぱらに、メスジカが侵入していた。慌てて飛び出し、2度ビックリ。立派な角を備えたオスジカが、メスの後を追うか、温度計道の半ばまで侵入し、私の気配で躊躇していた。この招かざる来訪者は身をひるがえし、逃げ去った。門扉脇まで追ったが、影も形もない。
急ぎ反転し、メスジカの足跡を探ったが、ついに発見できずじまいになった。後刻、妻が気付いたことだが、イノシシスロープの上部で脱糞し、下部の垂れ下がったカキの枝の葉をちぎり取って食べながら、どこかから逃げ去ったようだ。
サァ困った。出入りした箇所が分らない。そこで、まず毎夜、2つの門扉に防御策を講じなければならなくなった。次いで、第1陣顧問先スタッフの女性2人に、ピアノ線に反射リボンを結わえてもらった。シカは侵入時には用心深い。だが、慌てて逃げる時はピアノ線が目に留まらず、脚をキッカケないとも限らないからだ。
当月は秋の味覚を主に贈り物にも恵まれた。さまざまな果物や新製品などに加え、「このような針で釣るのですね」といって、喉からが出てきたという釣り針を妻が示した。だから、このシカケなり誘惑にひかれたアマダイに同情したが、これは(貧富格差のような)弱肉強食ではなく食物連鎖だと言い聞かせ、賞味し、感心した。
後先が逆になるが、4泊5日の中国旅行から戻ると、アイトワ菜とノラボウナが見事に発芽していた。小雨の一日だったのでコウモリ傘の下で眺めたからだろう。出そろった双葉がまるで天からの来訪者のように感じられた。
翌土曜日は快晴の予報だったので、囲炉裏場の掃除から手を付けた。何かと電話で相談することが多い知友に一家で訪ねてもらえることになり、これが海外旅行前後5つのイベントの3つ目で、久しぶりにレンガの釜を活かすことになった。妹はイカが大好きだった。
日曜日は村上夫妻を迎え、恒例になりそうな交歓と交換(もみ殻とわが家の木灰)の日になった。妻は、ブルーの紅茶キッズをこの日からデビューさせた。瞳さんの竹細工の腕は格段に上達しており、今や教室を開いているという。義信さんは勤務校がかわったが、楽しく多忙を過ごしているご様子。
そして月末に顧問先スタッフ第2陣の受け入れ研修があり、全員が幹部という事もあってより濃密な時間を過ごすことができた。
かくして旅行後に組んでいた3つのイベントを無事に終えた。この間にも、知範さんと未来さんには、それぞれ半日だが訪ねてもらった。
この度の中国の旅では、この目で確かめ、私なりに得心しておきたいことが幾つかあった。その願いを果たしたくて計画したが、知範さんの提案で、西安では「青龍寺」訪問も組み入れることになり、予期せずしてもう1つの願いもかなえることができた。
いずれ自分なりの報告書をしたためるが、4泊5日を通して感じた私なりの中国の印象を簡単に記したい。それは、数千年の有史を目の当たりにして、卑弥呼の都さえ特定できない歯がゆさを感じただけではない。わが国以上に激しい動乱を、はるかに数多く経ながら、その古代文明から引き継ぐ歴史と伝統を尊び、その連続性を尊重する近代文明化のありようには目を見張らずにはおれなかった。
その典型は、4泊目の早朝だった。ホテルの真ん前に「鐘楼」があるホテルを予約してもらったった劉穎さんに感謝しながら、この目で内部も見ておこうという事になった。有志をつのって訪れたが、その時のことだ。
西安の都の概要は、書物やこのたび手にしたパンフレットで承知していたし、前日には永寧門(南門)を訪れて、その城壁にも上り、願いを最後の。
これまでは飛行機の窓から眺めた印象に過ぎなかったが、確信に変わったし、「城」という文字の概念を替えさせられている。城壁には指を差し込む隙間などない。その上部は、印象の通りで、ゼロ戦など旧日本の戦闘機なら離発着できそうなスケールだ。
でも、これらは「想像」の範疇だった。だが、「鐘楼」から東西南北を眺め、息を飲んだ。なぜ私たちには、と残念に思わせられている。GDP世界第2を誇った時代を有していながら、こうした都市づくりができなかったのか、と淋しい思いがした。
だが、鐘楼を下りながら、東洋人としてとても誇らしげに感じており、かつて韓国や中国を訪れた時の思い出まで振り返った。40年もさかのぼる思い出だが、商社時代の韓国出張や、その後の敦煌まで足を延ばしたりした中国旅行での体験だ。多くの東洋人の眼に、当時の日本は、東洋人として唯一、西洋の工業文明を消化吸収したかのごとく映っていた。その頃の日本への眼差しのことだ。「あれと似た眼差しを今、私は(中国に対して)よみがえらせ(ることができ)たのではないか」と思った。
時々私は心に言い聞かせることがある。「生きとし生けるものの眼差しを持ちたい」との願いだが、せめて「人間としての眼差でいたい」と思っている。だが、このたびの中国ではどうやら、ちょっと近視眼になり、東洋人としての意識がもたげたようだ。
「南京中国科挙博物館」も訪ねたが、その展示物の中に、私には「!?!」のパネルがあった。次いで「青龍寺」では、その空海記念館の最後の紹介パネルで、結語に目を留めた。そして「もしや」と思わせられている。こうしたことが関係したのかもしれない。
この1カ月で、庭と庭仕事は様子を大きく変えた。まず「朝飯前の一仕事」のシーズンが、先月をもって終わっていたことを知った。だから支柱を要する夏野菜の畝から急ぎ片づけ始め、月末には種を採取するシカクマメを除き、支柱はなくなり、畑は冬景色になった。
幾つかの懸案があったが、顧問先スタッフの受け入れ研修のおかげで片付いた。先のチームに10年ほど手が回っていなかった水路の掃除や(生け垣に移植するために)自然生えの木の掘り出しを、後のチームには枯れ竹の切り取りを受け持ってもらえた。
また、先のチームは力持ちの男性3人だったので、重たい土の移動を受け持ってもらえたし、後のチームの男性2人はベテランで仕事が早く、予定外の案件も片づけてもらった。まず前日、陽が落ちたのに、昨年知範さんが切り戻した高木の剪定に取り組んでもらった。
翌日は、私が焼き芋に取組んでいる間に、頂き物のブルーベリーの成木を植え付けや、トチュウとミニザクロの剪定に取組んでもらった。かくして、今年は例年より一足早く樹木の剪定シーズンに入った。
顧問先スタッフの女性にも、記念すべき作業に取り組んでもらえた。先のチームには、キモを冷やしたシカ侵入の対策として反射リボンの取り付けに、後のチームには、この年最後のハーブの収穫であるレモングラスの刈り取りと鉢の越冬対策に取り組んでもらった。
この計5人の女性は人形工房で、それぞれ1体の小さな人形の創作にも取り組んだ。来年5月に開催される妻の人形教室展「キッズオリンピック」という国際色豊かなテーマに沿って、各人は想いを形にした。
彼女たちはそれぞれ「専門分野」のベテランだが、これがキッカケになってより「自然の摂理」を身に着けながら「生活の営み」のベテランを目指し、生き方改革に精進してほしい。いずれそれが、各人の幸せだけでなく、これからの企業防衛の謙策であったことが分かるだろう。
そして、この1カ月で改めて思い知らされたことがある。「ほんの15分ほどだろう」と思って(ネギの苗づくりの畝で)取り組んだ除草だが、「つるべ落とし」のごとき日の暮れ方を思い知らされた。