群馬出張は1日までの2泊3日のつもりが、3泊4日だったと2泊目の夕刻に分かり、さあ大変。その後、帰宅後の5日まで、嬉しい悲鳴の1週間になりました。
群馬は、ある大学での3年3度目の催しでした。私の基調講演から始まり、夕刻は温泉に案内され、そこで恒例の打ち上げは翌晩と知り、慌てたのです。とはいえ若者とタップリ触れ合えましたし、新たな名物も知り得たし、最終日には八ッ場ダム見学というご褒美にも預かり、ご機嫌に。問題は微熱が続く小康状態の右脚でした。ダムカレーパンを昼用に買い求め、最寄りの新幹線の駅まで送ってもらい、脚を引きずりながら飛び乗る始末でした。
帰宅翌朝は、詫びの交信の後、11月分「月記」と8月の「四国出張」レポートのまとめに没頭し、5日にこれを引き継ぎ、その後で知範さんと庭仕事を始動。この間に乙佳さん、祐斎さんたち、そして鈴江さん他を迎えており、それぞれ楽しく過ごしたのです。
次の波は、翌6日早朝(エンジンブロワーを持ち出した公道で)の落ち葉掃除から始まり(恵那から戻った)8日までの3日間でした。落ち葉掃除では、一帯は既に秋深しで、妻だけでなく「京都・ボッタクリ」で検索可の向かいの女性にまで礼を言われる始末。この日は岡田さんを迎え、楽しい一時を過ごし、翌早朝から妻と久しぶりの1泊2日の恵那の旅に出たのです。村上夫妻を誘っての、阿部ファミリー訪問でした。
この道中で村上夫妻に2組の素敵なご夫妻、「結」の黒川夫妻としいたけブラザーズ生みの親の活動拠点に案内してもらい、感激。その上で、阿部ファミリーのサニーダイニングキッチンを体感し、様々な料理を賞味。深夜に至る歓談と続き、おのずとデンマークの旅を振り返りました。翌日曜日は明智光秀ゆかりの地を案内願い、お爺ちゃん気分に。
帰宅後、ミツバチの師匠・志賀さんの来訪。妻がハッピーと散歩中に転倒。満身創痍の妻と2人で野菜の霜対策。そして咲子さん母子の来訪。これらが特記事項の日々の後、12日は岡田さんに再訪願い、知範・未来両人を交えて次の予定を決めた上でお見送り、やおら3人で庭仕事に励みました。知範さんはビオトープの改修。私は未来さんと旧玄関周りの剪定作業。そして最後は、3人でロープを活かす太い枝落しにも挑戦、でした。
3度目の波は、6人の佛教大生を迎えた15日をピークに、前後の各3日の計7日間。前の3日間は、6人の活躍に期待した準備でした。まずナツメから剪定作業。次いで温室の(観葉植物を越冬させるスペースを作る)後片づけ。そして前年度の腐葉土を使い切るための畑仕事で、これは(腐葉土小屋を片づけて)暮れに掻き集める落ち葉掃除への備えでした。この間に、歯科医に駆けつける突発事態が生じています。そして15日。6人の学生を迎え、まずそれぞれの作業現場に案内し、作業の内容や要領などを説明し、Go。私は囲炉裏場で焼き芋づくりに手を付けました。6人は期待した作業を見事にこなしました。
そして後の3日。まるで暮れの歳時記に供えた予行演習でした。その間に楽しい来客との交歓や未来さんの頑張りにも恵まれており、ヒュッゲに思いを馳せています。
かくして暮れの歳時記の始まりです。まず剪定作業は緑の天蓋の剪定から手を付け、剪定クズの山は知範さんの手も借りてさばきました。落ち葉掃除は妻と、内庭から手を付け、旧玄関あたりまで片づけたのですが、大変な事態、妻の左脚の不具合が発症です。でもなんとか、その後、楽しい来客、賀状したため、嬉しいお招き、恒例の注連縄づくり、テラスのお正月飾り、そして未来さんのお母さんの支援も得た落ち葉掃除などを経て、なんとか大晦日を迎え、2人で新年を迎える用意と心構えを整えました。
~経過詳細記録~
前月29日夕刻から12月2日夜までの群馬出張のおかげで、幾つもの驚きや喜びに恵まれた。「上州ぐんま市民環境保全活動発表会&交流会 社会に学ぶ 地域に学ぶ 人と時代をつなぐ」プログラムへの参加だったが、それを終えた安堵の気分から当月は始まった。
群馬県は桑の産出量では全国シェア―の半分を占めており、この活用と活性化を願う教官がゼミ学生に呼びかけ、取り組んだプロジェクト。この度は3年目にしてその総まとめのような感があり、その一翼を担わせてもらった。
それは基調講演の依頼だったが、演題が『太陽の恵みの範囲で 未来が微笑みかける生き方』に決めた、と知らされた時は、ありがたいと思った。ただし、これを60分で、が大問題。大学の講義では1000分以上(90分×15回)かけて訴えてきた内容を、いかにしてギューッとコンデンスすればよいのか、と嬉しい悲鳴をあげた。
人間にとって最も難しくて大事な課題は「意識の転換」だろう。その提唱がテーマの内容だけに頭を抱えた。なにせ、いち早く CS(customer satisfaction)の大切さを提唱した著作者(1990年に『人と地球に優しい企業』)であるだけに、独りよがりでは辛い。わずか60分でいかなる満足を得てもらえるのか、と頭を抱え始めた。前月初めのことだ。
まず「そうだ!」と、気が付いたことがあった。16歳の少女グレタさんを「How dare you」と嘆かせずにすむ大人の1人だとアッピールすればよい、つまり「グレタさんへの応援歌のつもりで取り組めばよい」と、気付いた。それがヨカッタ。気が楽になった。
次いで、私は人生の曲がり角で、知的障害者の源ちゃんの一言に救われ、今があることを思い出した。おかげで、ならば源ちゃんの代役を、近代的なやり方で(パワーポイントを駆使するなどして)具現化すればよいわけだ、とも気付き、さらに気が楽になった。
源ちゃんは、「太陽の恵みが地球にとって唯一のインプット」であり、地球上で暮らす生きとし生けるものにとって持続可能な唯一のエネルギー、と私に気付かせた。
この源ちゃんの一言で、私は人間の性(サガ)の1つに目覚めさせられている。つまり、人間にとって最も難しいことは「己の『考え方』や『視点』を切り替えること」だと気付かされた。なぜか私は、源ちゃんの一言のおかげで、宇宙のかなたから太陽や地球を見つめるように、私自身を見つめているような錯覚をしている。私も見つめている「私の目」に気付かされている。いわば目には見えないもう一対の目を授かったような気分になった。しばしば母から諭された一言「お天道様が見てござる」とは真っ逆さまの、己を見られる目ではなく、己を見つめる目を自覚した、と言ってもよい。
だから肺浸潤という病持ちで受験浪人の身であったが、受験地獄や一流会社への就職などに躍起になる意識から、小鳥のように、自己責任のもとに自己完結した生き方の方が大切で尊い、と考え始めている。おかげで、志望大学に合格しても、一流と言われ会社に採用されても、この「考え方」や「意識」は変わらず、今があるように思う。このありようを訴えよう、と心に決めた。
幸い、わが家の生き方(17年前の様子だが、今も変わらない)をNHK京都が5分にコンデンスした動画がある。ならば10分ほどで、自己紹介と、意識を転換する力が大事だが、それを何が難しくしているのかを説明できそうだ、と思った。これだけでも十分に、生きる1つのヒントにしてくれる人がいるかもしれない、きっといるに違いない。
とはいえ不安が残った。そこで知範さんと未来さんに時間を割いてもらってリハーサルをして、2人の顔色をうかがいながら、60分でうまく講じ終えられるか否かも確かめ、修正すればよいのではないか、と思い付いた。これがヨカッタように思う。
まず未来さんに応じてもらえた。彼女には別途、確認してもらいたいことがあった。なにせ彼女は、当『自然計画』を1から順に読むという根気のいる作業に取り組んだ人だ。そして付き合いをしながら拙著を買い求め、読み進んでもらえている。ここらで、愛想をつかされるか否かの勝負に出て、「中締め」にするのもいいだろう。
今や彼女は、一緒に庭仕事に取り組むと、力仕事などでは「ワタシ 代わりましょヵ」と、お爺ちゃん名利を味合わせてもらえるまでになっている。その甲斐のほどをここらで確認してもらう好機ではないか、と考えたわけだ。
彼女は喰い入り、時々メモを取った。60分のリハーサルを、5分ほどの余裕を残して終えられた。「どうだ」と問えば、「なるほど」との得心の答が返ってきそうな気がしたが、ヤメタ。一刻も早く庭仕事に移り、手伝ってもらいたいことがあった。
翌日、知範さんを予定通りに迎え、リハーサルを繰り返した。「これでヨシ」との思いで2日後の夕刻から群馬を目指すことになった。京都駅で同道の横山孝司シェフと落ち合い、東京経由だと4時間余で高崎に到着した。
高崎の改札口で、予期せぬ歓びに恵まれた。担当教官の萩原豪さんの他に、もう1人、過去2年来の顔見知りの青年に迎えられたからだ。そして手荷物を引き取り、向こう2日間行動を共にする、と教えてもらえた。今は社会人の鈴木大夢さんだ。
母の手1つで育てられ、母親をまず幸せにしたい、と聞かされていた若者だし、2年前には群馬の名所案内を引き受けて、群馬ファンにさせた男だ。2度にわたって、うどんの名所であると教え、案内してもらった青年だった。
翌朝、豪先生 (と学生は呼ぶ)は名物の弁当屋に立ち寄ったうえでホテルに到着し「これが最後の2つでした」といって昼食のベントを示し、ピックアップしてもらった。昨年、食いそびれた名物だが、覚えてもらっていた。
久しぶりの階段教室だった。機器の点検をしてもらいながら、ドキドキワクワクした。40年来の生き方も紹介し、ヒントの1つでも見出してくれる人に集ってほしと願った。
大半の聴講者が若き学生だとわかったときは、「有難い」と思った。「How dare you」とは言わせないぞ、との想いを込めて、語り始めた。
この後を受けて、豪先生と3人の演者が、総括や個別事例紹介に立った。3人の1人は鈴木大夢さんだった。司会は顔なじみの女子学生で、彼女の歯切れの良さのおかげもあって、ことは順調に進んだ。
その日の夕刻だった。準備室だった教室に、もう1人の顔馴染みの青年が、「今日は仕事があったので…」と断りながら駈けつけた。「父の仕事を継ぐ」と聞いていた北上和歩さんだが、「日々仕込まれています」と聞かされ、安堵した。
どうやら豪先生は「今年も、あの2人が来るゾ」とアナウンスしたようだ。「夜は4人で温泉に行こう」とも決めていたらしい。その前に、名所の1つを見学し、パスタ専門店で夕飯と決まった。チョッと私は渋ったが、大夢 (ひろむ)さんは「群馬はうどんの名所ではなくて、小麦の名産地であることを覚えておいて下さい」と私の弱みを見事に突いた。
名所はダルマ寺だった。ダルマの名産地だと2年前に大夢さんから聞いていたが、聞きしに勝る。また、「日本を不沈空母と位置付ける」ようにレーガンに説いた中曽根と、アジアの安定を大事にし、それが世界平和に結びつける、と考えた福田が共に群馬の出だと知った。
パスタは美味だったし、温泉は外湯がかけ流しということで、外湯で5種の湯を楽しんだ。ここで恒例の打ち上げは翌日の夜であり、もう1泊しなければならないと分かり、チョット慌てた。ホテルで確認すると、3連泊の予約がなされていた。
翌日は受講生を入れ替えて「環境と観光産業、その功罪」というテーマの2コマが待っていた。だから、観光公害から紐解き、信用を積み重ね、吸引力を創出する必要性を訴えた。だが、フリーライドにご用心。目を光らせ、いかにフリーライドを取り扱うかが成否を決める、と気付いてもらいたかった。今の日本は、忖度という言葉を、歴史的なまでに下劣にし、フリーライド、長い物には巻かれろ、あるいは物いえば唇淋し、の世の中にしてしまった。おそらく、取り返しがつかないほどたるんだ、国際的に舐められた国にしかねない。
それだけに気概を持った若者になってほしい。少なくとも私は、給与所得者時代は、フリーライドを見抜けない上司は当てにせず、管理者の立場にされた時は、フリーライドを見抜き、これを許さぬ心構えで取り組んだ。おかげで、勤め人34年間は減収や減益の憂き目には1度も追い込まれず、増収増益に恵まれたのだと思う。
幸いなことに、豪先生は、そうしたことを明かす資料をプリントし、全員配布すると言ってくれた。だから、2重の意味での悪しき事例を、世界遺産になった内外の事例も取り上げ、解説した。2重の意味とは、他力本願か自力本願か。自力本願であれ、保守方式か革新方式か。つまり、自力本願で、自己責任の下に、革新方式で取り組んでほしい。
次いで学生の研究発表に付き合った。桑に関わるさまざまな研究に学生がチームを組んで取り組み、その成果発表だった。
さらに、試食(桑茶を活かした様々な料理の求評)会にも参加した。同道した横山シェフが、3年来の成人女性学生らと準備した桑茶を活かした品々だった。
最後はシンポジュームで、『一歩先の未来へ 知ることから始めよう』であったが、その内容に驚かされた。「LGBTQ+シンポジューム」であったからだ。LGBTと桑や環境保全活動はどのような関りがあるのか、とピンとこなかった。
コーディネーターのSatoshiさんはじめ、パネリストは(「まま」と親しげに呼ばれていた)奥澤幸大さん、そして経営学教授と会計学准教授の4人で始まった。「まま」の発言でLGBTの立場や心境に近づけたし、2人の教官のおかげで「参加してヨカッタ」と思った。環境保全とのかかわりが見えてきたからだ。なぜか私は、野生動物の世界でのLGBTのありようが、とても気になり始めた。
打ち上げもヨカッタ。豪先生は(シェフと私を京都に帰す切符の変更で駅に走り)ケイタイで「開演の挨拶を」私にさせろ、と学生に指示したようだ。何の用意もしていなかたのでビックリしたが、シンポジュームでの気付きをあいさつ代わりにした。
まず「他の哺乳動物のメスは、子どもを埋めなくなった時が寿命だが、人間のみがその後数十年も生きる」と切り出した。次に、LGBTと聞くと「愛」と呼ばれる関りや感情を連想しがちだが、古代ギリシャでは愛を「4つの愛」に分けていた。その「エロス」以外の3つの愛に私たちはもっと関心を払うべきだ、と思う。先程のシンポジュームで「私は、2人の先生のご発言からこうした想いに駆られるようになっている」「なぜなら」と続けた。ちなみに、アイトワには3つの意味を込めているが、その1つは「愛とは?」だ。
工業社会は「一人でも生きてゆけそうな錯覚」をさせがちだが、それが環境破壊と大きく関わっていることはご承知だろう。逆に、私が提唱した自然循環型の持続可能栄を追求うる生き方では相互扶助関係が不可欠である。その助け合いには、上に挙げた他の3つの愛が、これから次第に大きく関わるようになる。こうした意味でも、先のシンポジュームに私は意義を見出しており、その余韻が今も残っている、と締めくくり「ここらで、豪先生の到着を、乾杯の練習をしながら待とう」と促した。
打ち上げは「まま」のビストロで開催されたが、実に楽しかった。
1日延ばしたせいで、京都での大事な約束をすっぽかしたが、おかげで八ッ場ダム見学&プラスという恩恵にあずかった。&プラスは、「時間を融通できなかったノ」との3人目の顔なじみの女子学生に、豪先生と一緒にホテルまで、ピックアップに来てもらえたし、ダムまで同行してもらえたことだ。
このダムは満水実験をする前に、過日の大雨を体験しており、話題が冷めやらぬ最中だったが、満水実験などの物理的問題はたいしてことではない、と見る。ここでも先祖伝来の自然循環型生活(自己責任の下に、自己完結する生き方)を歴史的に送れて来た集落を破壊し、上部に移動させ、消費者化していた。これから、他にもさまざまな悪しき問題に直面するに違いない。一時の(多くの場合は都会の都合に合わせた)ダムなど、消費者化に都合がよいオリンピックや万博と同様に、もはや時代遅れだったと、いずれあらかたの人が気付くだろう。
有意義な3泊4日になった。タップリと若者と触れ合い、エネルギーをもらった。
今年はわが家の一帯の紅葉が遅れていたが、群馬から戻ると、わずか4日間の留守で既に秋は深しの感を与えた。翌朝はお詫びの電話から始まったが、嬉しい悲鳴の始まりでもあった。
まず、約束をスッポカした人には「来年の楽しみに」といたわっていただき、その後は来訪者がほどよく続き、それをよきインターバルとして活かし(脚を傷めてしばらくご無沙汰した)各種庭仕事を、予行演習かのごとくに始動。これが自信を取り戻させ、迫りくる暮れの庭仕事に、「ほぼ例年通りに励めそう」と、気分を楽にさせた。
来訪者は、乙佳さんから始まった。「方丈」の縁側に雨戸を設けたいとのアイデアが浮かび、頼んであった。もちろん雨戸の、平常時の収納をどうするか、が課題だが、これこそ乙佳さんに意識するように、と願っての案件だった。
近い将来、「終の棲家として『方丈』のような住居を設けたい」といった声が多々出てくるに違いない。そして、ここで四六時中住まうとなれば、雨戸は必定と見た。わが家のように深い木立の中に建て、台風対策だけで充分ではなく、騒音、直射日光、あるいは防犯など、様々な要配慮の雨戸となれば、いかにあるべきか、を意識した。
彼女を見送った後、妻と急ぎパンジーの苗などを買い求めにHCまで走った。その後、妻は翌春まで育て続ける円形花壇の模様替えに取り組み、私はモミジの落ち葉をかき集め、マルチング材として敷くために、果樹園の草刈りに、と手分けした。
次の来訪者は翌日で、ヒョッコリ立ち寄ってもらえた奥田祐斎さんたちだったが、華僑の世界に精通した人を紹介された。このところ黄櫨染 (こうろぜん。天皇の大嘗祭での衣装に用いられた)の説明でNHK=TVなどに引っ張り出された祐斎さんよく見かけており、久しぶり、とは思わなかったが、嬉しかった。亀山公園超えに歩けば10数分の間柄だから、いずれは「最寄りの飲み友達に」と、狙いを定めている1人だ。
最寄りの飲み友達候補と言えば、「この人にも」と願っている人に、その後立ち寄ってもらえた。その昔、企業人対象の研修や講演会場でよく席を同じくした人だが、この日初めて知ったことがある。日常生活では年中素足で通しているとか。
庭仕事を本格的に始動したのは知範さんを迎えた5日だが、鈴江さんがたまたま観劇で京都に来ていたことが分かり、訪ねてもらった。ある案件の調べごとを頼んでいるが、これが現実化することになれば、あとは知範さんの手を借りたい、と願ってのこと。
この日、知範さんはビオトープを改修する石組みに取り掛かった。私は高い脚立に上り、ツバキの大胆な剪定から手を付けた。それは、西隣に生えているユズへの日光の照射と、下のタラの木に覆いかぶさっていた枝を切り取る作業だった。実はこの最中に、脚立のてっぺんから真っ逆さまに転落しかねない事故に見舞われかけた。とっさにつかんだ枝のおかげで助かった。これも良き予行演習と心得、隣のユズの剪定は後日に回した。
こうした剪定作業の他に、シカクマメを育てていた短い畝の仕立て直し、除草、あるいは鏡餅用の干しガキ細工(小さく干し上がった串柿を生かした)などに取り組んでいる。
短い1畝では、2つの配慮が求められた。まず、自然生えのアイトワ菜だけでなく1本のハハコグサも残して仕立て直したこと。それは妻が「七草がゆ」に用いよう、と目星をつけているかもしれない。もう1つは、シカクマメの根塊を、丁寧に掘り出し、取り置いたこと。昔の人は救荒食として尊重し、取り置いたものだ、と佛教大生に見せて、教えたい。
除草に励んだのは、スズメノカタビラやホトケノザが花を付け始めたから。
その後、祐斎さんは再来訪、お手製干しガキを届けてもらった。その見送り時に感心したことがある。モミジのカーペットに目を留めてもらえたことだ。軽4輪に施した意匠もシャレて見えた。
実はその後、話しは前後するが、祐斎さんは「こんなジャコは初めてや」と、三度目の来訪。1匹1匹手焼きしたという。「この後味、初めて!」と妻。その後私は、日に4~5匹ずつ冷酒の肴に、悦にいった。この日も彼は、半ば掃除が進み、色が落ちたモミジのカーペットに目を留め、目ざとく3年物のダイダイを手に取り、配置してカメラに収めた。そして、私が置いていた位置にキチンとダイダイを返した。
6日の昼下がり岡田さんを予定通りに迎えたが、ココロが熱くなった。都合があったとはいえあの書斎を片づけ、例の本を「やっと見つけ」た、とご持参。その上に、過日の四国の旅で割愛した福岡正信自然公園を訪れ、跡を継いだ晶子さんの名刺を添えた一書を下さった。
かくして731部隊の件については、日本軍が消し切れなかった証拠録が揃った。これで胸を張って憲法9条の大切さを説く触媒を1つ増やせたことになる。世の中には、こうした非人道的なことがあってほしくないと願う人に、なかったと教えて安心させ、そのココロの隙に付け込んで、戦争が空出来る国にしかねない権力者が現れないとは限らない。
福岡正信の名をアメリカで初めて知った私としては、是非ともこの目で確かめたいことがある。彼の地では農耕革命の聖人として有名だし、活用する事例にも触れた。だが日本では、まだ良き実践者に出会えていない。日本での多くの脱落者に共通する点は、不耕起農法と聞いて「耕す作業が不要」との「手抜き可の耕作法」と早とちりしたような人が多かった。この農法の根本や本質を是非とも確かにしたい。
この日はもう1つ、嬉しいことがあった。岡田さんに前月末の(群馬での)基調講演の復習に付き合ってもらったが、「集大成ですね」との感想をいただいた。
かくして翌7日、1泊2日の恵那方面への小旅行に出る日を迎えた。
妻は、村上義信夫妻同道の阿部ファミリーのお宅で泊まるプランと知って、「私も」と(観光シーズン中にもかかわらず)手をあげた。村上夫妻には守山でピックアップ願い、道中で瞳夫人ご推奨の2組のご夫妻を訪ねることになっていた。
皮肉な話だが、向かいの「京都・ボッタクリ」商法が始まって以来、往来の観光客がガタ減りのうえ、アイトワの入り口の向かい両側で繰り広げる強引な(京都には客引き禁止条例がある)客引きの影響をモロに受け、来店客が大きく減り、それが妻の1泊旅行を許した。私としては、わずか2日間とはいえ、妻が神経過敏になる時間を減らしたい、と思って声をかけたもの。
ボッタクリ商法は「ここ、ご存知ですか」などと切り出し、真っ赤なウソを次々と繰り出し、それが妻の神経を逆なでするようだ。私は今や、やや冷ややかだ。「藤原定家の住まいがあったと言われます」などといったウソに対して、「誰がそんなことを言ったのか」と問い返すとか、オーナは世界的なグローバルアーチストで、という超誇張に対して「何というお名前ですか」と問い返し、スマホで調べるとかせずに、未だに引っかかる人にるが、同情しがたい。
そのようなわけで、私は浮き浮きした気分で出立したが、期待をはるかに超える数々の喜びに恵まれるところとなった。まず、雪を頂く伊吹山に迎えられた。10年に亘る短大通いで見慣れていただけに、心にしみた。
まず「結」の黒川夫妻を訪ねた。『エコトピア便り』で私が願ったような人生を切り拓いておられるご夫妻だった。教員という勤めに携わりながら、木工という趣味の世界に踏み出し、今や2つの建物を設け、木工工房と喫茶と物販コーナーを繰り広げており、むすび(結)で検索すればすぐ近づける時空を創出しておられる。
その木材のストックを一見し、創る喜びを知るご夫婦だと直感した。喫茶は、夫人が勤めのない週末に開き、運営。物販コーナーは想いを同じにする女性作家の作品と、黒川さんの素敵なわっぱ製品を展示販売している。
楽しい会話が始った。拙著『エコトピア便り』を手にして招き入れて下さったし、喫茶店には火が入った薪ストーブがあった。店内は什器もすべて黒川さんの手作りだった。勧められた椅子は、模型を作ってデザインを確かめ、本生産に入るやり方だった。私も椅子を手造りした経験もあり、即座に同好の士としての共感が始まった。
お土産にわっぱ製品を1つ頂いたうえに、おまけもあった。辞す段になった時のことだ。地元誌『ふもと』の編集発行人が次の号を持参され、三田村圭造さんを紹介された。
チョット予定時間をオーバーした。「パンでも買い求め、かじりながら」次のしいたけブラザーズへ、と提案したが、ドライブインで「おうどんでも」となった。おかげで予期せぬ収穫があった。販売機で券を購入すると、製造部門に直結らしい。ブラウン管で用意ができたことを知らせるが、その表示は「券の番号」と「完了」もしくは「COMPREATE」の文字が交互に点滅するだけ。「あれ、何の意味」と首をひねった。「おそらく」と義信さんは「私たちのミッションは『完了』した、のつもり」ではと推測。正解だろう。
瞳さんの生家はなだらかな山際にあり、草餅を用意して待ち構えてもらっていた。お母さんから、夫婦の出会いを伺い、お父さんから長期にわたったアメリカ研修の様子を伺い、素敵なこの日2組目のご夫妻に心惹かれた。
現代では、日本が技術研修生を受け入れているが、半世紀余の昔は、日本がアメリカに技術研修生を送り出していた。私がアメリカ出張に慣れ始めたも時期の事でもあり、時代のありようや流れをありありと思い出し、想いを馳せた。
アメリカではブタの養殖を学ばれたが、この研修で習得した「考え方」と「技術」の下に、帰国して独特のシイタケ栽培法を考案された。おそらくアメリカに定住することをせがまれた人だろう。それだからこそ、ブタで学んだ一環養殖法と、その精神を、娶った女性と(自分たちが立たされている)環境や立地などに鑑み、見事に応用されたわけだ。
クヌギの苗木の植え付けから、シイタケ収穫後に原木を肥料化するまでの一環作業を、最も合理的に成し遂げた。それが自ずと環境問題の面でも優等生にさせたのだろう
。
さまざまな工夫や試行に目を奪われた。原木などの活かし方はまだしも、その極め付きは子育てへの配慮だった。瞳さんは幼児期に、ここで働く親を見守り、素養と安堵などを得たに違いない。脱帽。
夫人は元、研修生派遣事業の機関に関わる女子事務員(?)だったようだが、1人の若き青年に次元を超えた応用力などを見出し、心惹かれ、帰還を心待ちにされたに違いない。
「生きるという事は、こういうこと」という、勝手な想いを抱いている私だが、この日は2例続けてその典型例に触れ、とても高揚した心地で恵那に向かうことになった。デンマークを思い出し、ヒュッゲの何たるかを振り返った。
恵那の阿部ファミリーでの体験や経験は語り尽くせない。この度は、建て増し部分のサニーダイニングキッチン(その考え方や構想と、制作過程は写真などで知らされていた)を実体験することが私の関心事だった。そこで創作された様々な料理(寿也さんが作った辛子レンコンなど)を堪能することから始まった。
歓談は深夜まで続いた。阿部夫妻とは10数年前に拙著が縁で知り合えたが、村上夫妻の場合も似たケースだった。『次の生き方』を手にした義信さんが、瞳さんに読むように勧め、それがキッカケだったことを知った。それだけに心置きなく話した。
深刻な話題が1つあった。この数年の地球温暖化が、このサニーダイニングキッチンに予期せぬ弊害をもたらす原因になりかけていた。何せ、標高600mの寒冷地で、自然の力を活かして快適に住まう工夫であり、地球温暖化に与しない努力だが、つまり真っ当な(持続可能な社会を形成する上で必定の)努力だが、水の泡にきしかねなくなっている。だからといって、こうした工夫や努力を怠っていたら、貧困層に追い込まれかねない。要は、消費者化という貧富格差をつけるシステムに飲み込まれてしまう。
村上夫妻はゲストルームで、私たち夫婦はセミナーハウスで泊めてもらったが、後者の納戸には網田さんの贈物・ヨシズを活かした建具があり、早朝の見晴らしはスバラシかった。
翌朝、明智光秀ゆかりの地に出かけることになっていたので、記念写真の後で出発し、出先でもすっかり甘えてしまった。阿部ファミリーでは2人の娘を「結((ゆい))「花連(かれん)」と孫扱いさせてもらうが、この日は村上夫妻にも年老いたオヤジのごとく扱ってもらえた。岩村城の石段は段差が大きくまちまちで、脚を傷めていた身にはキツかった。だが、義信さんのストックと、見かねた瞳さんの助手で、満喫できた。
この外出では3つのエピソードが印象深い。まず阿部さんの車。友人からポンコツ車を安く譲り受け、塗装だけプロに頼み、エンジンはもとより機械などはすべて自ら分解修繕し、動くようにした。
2つ目は出先での交歓。そして3つ目は帰途の伊吹山。出立する前日のこと、岡田さんを迎えたが、この恵那の旅を話題にしたところ「それなら」と、薦められたことがあった。袖触れ合うも多少の縁、とはよくいったものだと思う。老舗の時計屋のおかみさんは、すぐに岡田さんを思い出し、400数十年前の水道システムの一端をはじめ、予期せぬ勉強をさせてくださった。楽しさいっぱいで帰途についたが、伊吹山にも見送られた。
この日から数えて17日後。「結」の黒川夫妻を迎える機会を得た。妻はひと工夫したわっぱの活かし方で、花を添えた。残念ながら、私の脚が癒えておらず、しかも庭は最悪の状態で、案内できず、肝心の自然循環型システムを見てもらえなかった。
エンジンブロアーをこの秋初めて取り出したのは恵那に出かける前日の、6日の早朝だった。アイトワの前の公道で落ち葉掃除をしたが、早朝でないと行えない。陽のある間は、多い時には2~30人もの人が見上げており、数名が写真に収めているようなありさま。この公道沿いの内側にあるパーキング場の方は、モミジのジュウタンはなるべく残し、大きくて色合いが濁った落ち葉(トチュウやサンシユなどの落ち葉)を取り除いた。その後に落ちる「残りモミジ」の落ち葉を期待してのことだが、そのかいがあって、その後2度に亘って祐斎さんをしゃがみ込ませたのだから。
このブロアーの使用がキッカケになり、その後暮れの庭掃除に幾度も取り組むことになる。それは、妻が座骨神経痛に襲われたと知った未来さんの思いやりと頑張りのおかげでもある。いつも妻が取り組んできた「人形の苔庭」の落ち葉掃除を、未来さんと2人で取り組むことから始まった。未来さんは「この達成感!」と、大喜び。
翌朝、「母も(落ち葉掃除が)大好きですから」と言って参画してもらえ、最低2人がかりでないと具合が悪い生け垣沿いの落ち葉掃除を、3人がかりで済ませた。私がブロアーで公道に噴き出すと、その落ち葉をこの母娘がすかさずかき集める。さもないと、公道に噴き出す場だけ見て下司の勘繰りをしかねない人がいないとも限らない。
その余勢を駆って、ヒノキの苔庭まで3人で片づけることになった。
剪定作業も進んだ。まず未来さんと、新果樹園の南側で育つ庭木に手を出し、背丈詰めに取り掛かった。その際に、ロウバイの1本にも手を付けており、テラスの正月用飾りに活かすことにした。この生け花はその後、さまざまな工夫を求めていることに気付かされた。風が倒しかねない心配、いかにも姿が粗野と感じられ、姿を整える必要がありそうだ、など。
次いで知範さんと、2人がかりだと素手で取り組んでも周りの木々を傷めずに済む2つの作業に取り組み、念願をかなえた。まず、庭で唯一のモモの木を、妻の念願(間伐案)通りに切り取った。この時に知範さんが初見の苔(?)を見つけた。
次いで、これも庭で唯一のカシワの木の(伐採に近い)大剪定に手をつけ、木が込み入った所だから、脚立を活かす倒し方を初めて試みた。この手入れは私の念願で、新果樹園を日陰にしていたからだ。この木は、ヒコバエを出して再生し易いから、春に芽を吹かせ、低く仕立て直したく願っている。
もちろん、1人で頑張ったこともある。それはまず、新たなフキ畑を作りたくて、植え込みの背丈を詰め、見通しもよくした。その北側手前のフキが喜ぶだろう。
次いで「緑の天蓋」に手を出し、ロープを活かす枝落としもした。2日がかりの作業になったが、この枝落としをしたことで、向こう2年や3年は、1人で済ませられそうだ。
こうした大剪定の結果、囲炉裏場には剪定クズの山を、かつてないほど大きく築かせてしまった。だが、後日知範さんと2人で(幹や太い枝と、小枝に)さばき、片づけた。右手前の太い枝や幹は燃料に、小枝は焚火でイモ焼きに、そして葉は腐葉土に活かす。
この間の15日に、6人の学生の来訪に恵まれており、実にありがたかった。各2人の3チームに分かれ、まず3つのテーマに取り組んでもらった。
1つのチームは、ベンジャミンゴムなどの鉢を越冬させるために、温室や個離庵に運び込んだが、見事に枝を組み合わせ、コンパクトに仕上げた。
次のチームは、腐葉土小屋の2つある部屋の手前の方で、使い残っている腐葉土を「ふるい」で振り分けて片づけ、細かい方は5つの袋詰めにして、温室に収納。ふるいに残った粗い方は、奥の部屋の過去1年間かけて積んできた落ち葉の上に敷き、追加腐食させる。
その後、袋詰めにした細かい腐葉土は、未来さんがタマネギの畝などに置き肥として敷き、その上に瞳さんにもらったもみ殻を被せ、防寒体制(霜柱を立たせると、タマネギの根を浮き上がらせかねないので)に入らせた。
空になった腐葉土小屋の手前の部屋には、佛教大生がその日から、落ち葉かきをして積み上げ始めた。その後、未来さんと苔庭掃除をして積み足したが、乾いた落ち葉で満杯になった。だが、雨が降り、腐食が始まると、ガサッと体積は縮んでしまう。
3つ目のチームは、ナツメから始めた剪定作業で出た剪定クズや、シホウチクの茂みを透かすために切り取ったシホウチクなど、大量の剪定クズを囲炉裏場に(ただし竹だけはイノシシスロープに)移動させた。この囲炉裏場に運び込まれた分は、私は派手な焚火をしてイモを焼きあげた。この焚火は、この冬最初の暖を取る上でいかされ、歓迎された。竹は後日、枝払いをして、枝葉は焚火で灰にして肥料に、竹は畑の支柱などに活かし、それが朽ちたら風呂の焚きつけに活かす。
この日、昼食はパーキング場でとったが、まだ妻の座骨神経痛が露わになっていなかった証拠になる。なぜなら、妻は茂みに足を踏み入れて構図や光線に配慮し、しゃがみ込んでシャッターを切っている。それはそれでよかったが、問題は、肝心の顔が隠れた人の有無の点検を怠ったことだ。
他にも、嬉しかったこと、ありがたかったこと、逆に辛かったことなど、多彩な一カ月だった。まず、その後も大勢の来訪客に恵まれた。ベトナム旅行で知り合った楽しい女性たちが今は亡き松村さんの仕事仲間と、アイトワで昼食をと訪ねてくださった。そして、元アイトワ塾生の舞鶴さんと柴山さんと続き、今年最後の来訪者は、庭掃除中に迎えた元顧問先企業で知り合った鎌田夫妻。
今年最後のお招きは、厭離庵での夕餉にあずかったこと。2人の兄に「男の子だなぁ」と思わせられたり、その創造性に感心させられたり。そして、この優れた創造性を伸びやかに発揮できそうな場が5日後の迫っていることに思いを馳せた。この夕餉の折に、念願だったリンゴのワインに恵まれており、嬉しいことこの上なし。
その伸びやかに創造性を発揮する場に、と恒例の注連縄づくりに厭離庵一家をご招待。長男の実生君は見事に縄をない、次男の慧桃君もなえた。そして、父玄果和尚の美的で独創的な注連縄同様に、兄弟は創造性豊かに仕上げた。3男の冬青(そよご)君は、来年は咲子さんにむずかる前に、自ら縄ないに挑むに違ない。私の分は、あいも変わらずのデザインになった。次いで大晦日。新年を迎えるわが家の心の歳時記に、なんとかそって、妻はお節に、私はお正月飾りに、と手分けして用意した。
贈り物にも恵まれた。十二支の盃が、「子」の夫婦杯で揃った。一足早く、おめでとうと万歳を作家の12年間に送った。このような鯛は初めて、と妻。逆にできな目で睨まれそうだし、大きすぎてわが家のグリルでは焼けない。そこで、刺身に始まり、さまざまに味わうことになった。こんな稲荷ずしも初めて。もちろん、天からの授かりもの(初収穫1.2kgの新栽培法ダイコンだけでなく、初収穫のレモンなど)にも多々感謝。だからこの正月は、わが家は「睨み鯛」がなくが、切り身の焼いたタイになった。
今年最後の辛かったことは歯のトラブル。次いで心臓の不整脈検査。検査の後、ションボリ最寄り駅まで歩いたが、チョッと考え込まされたことがあった。あまりにも墓地らしくて、さまよい込みたくなるような墓地が街中にあった。ほどなく高校時代に幾度か歩いた道に至ったが、車が占領し、人は横になって歩まねばならない。車いすなどとうてい通れない。その後、父方の叔父の急な葬儀があった。所用で後日、線香をあげに訪れたが、「家内不幸」との張り紙の異なる時空にたたずんだ。
結局、最も辛い、妻の左脚の不具合は収まらず、年を越すことになった。「ヤメロ」と叫んだが、1人で落ち葉掃除を始めていた。でもこれが、私に2台目のエンジンブロアーも取り出させた。幸いなことに私の膝の故障は小康状態。それもこれも10年来の佛教大生、次いで未来さん母子、そして知範さんたちのおかげ、と感謝。
思えば今年のエポック的収穫はヒュッゲをデンマークで体感できたこと。爾来寝室に、旅行中に手に入れた目覚まし時計(天井に時刻を投影する)を据えており、毎夜のごとくデンマークを振り返る。幸い祐輔先生に「いいですよ」と(当月記では、現役の勤めのある人や、顔のサシそうな人の場合は「差しさわりがあっては」と、割愛の方針だが)いっていただけた。そこで、なんとしてもデンマーク旅行記を当月は仕上るゾ、となった。そこに、学ぶところ大(封書もハガキと同じ切手代)のカードも受け取った。
そこで、なんとしてもデンマーク旅行記を当月中に仕上げるゾ、となった。そこに、学ぶところ大(封書もハガキと同じ切手代)のカードもKaj & Bente から受け取った。
さて気になるヒュッゲ。ネットに「『ヒュッゲ』に習う、幸せのヒント10』を挙げた人がある。ある一面から見て、よく言い当てているように思う。ここに、他の幾つかの視点から、あるいは異なる幾つかの物差しを用いて、さらにヒントを加えてゆくと、うまく踏み込めそうだ。そのヒントは、主語をはぶき勝ちのわが国だが、この点を露わにして掘り下げ始めるとよさそうだ。
「ヒュッゲ」に習う、幸せのヒント10
ヒント1 家族や友人との時間を大切にする
ヒント2 時間の流れを意識する
ヒント3 無理をしない 見栄をはらない
ヒント4 自然を身近に感じる
ヒント5 物を大切にする
ヒント6 心地いい空間作りを心掛ける
ヒント7 ミニマムに暮らす
ヒント8 手作りのぬくもりを感じる
ヒント9 仕事に縛られない
ヒント10 今あるものに感謝する
今年最後の願い。なんとか妻の脚の不具合が癒えてほしい。来る5月には教室展があり、その予告をアイトワのショーウインドーで始めている。その案内版のレタリングを受け持った私としては気が気でない。