すがすがしい初日の出とありがたい一家揃っての初来訪、そして元旦の祝いに始まり、忘れ難い初笑いや初仕事へ続いた元日でした。2日。喫茶店を再開。息子連れの知範さん。知友。そしてリズさんの教え子から始まった来訪者は、6日の「ヤマブシタケの初賞味を」との久保田さんやパンドラム奏者と続き、その間に小夜ちゃんが2晩でしたが初逗留。この間のハッピーの散歩は未来さんのお母さん。七草粥は未来さんと一緒、でした。
初の畑仕事は小雨が上がった8日の午後、第2次スナップエンドウの苗の植え付けと除草。曇天の翌日は、妻がシカの侵入に気づき、糞を2か所で発見。午後はサルの群れを2度にわたり、私が撃退。その後、除草と囲炉裏場での鉈仕事。快晴で明けた10日は第1次アイトワ菜の跡を、左足で、第3次スナップエンドウ用の畝にスコップで仕立て直し、その後は除草。午後から空は小雨に一転、書斎にこもる。かく新春の上旬を過ごしました。
中旬は、大阪に出て商社時代の仲間と昼間の新年会。実質上の仲人にも会し、日没前に帰宅し、妻とパンジーの苗などを買い求める1日から始まりました。翌佛教大生の初来訪日は、力仕事や初の大焚き火。そして午後はデンマーク旅行をご一緒した門夫妻を交えたお茶の時間。その翌日から庭仕事を本格化する日々に入っています。
エンジンソーを初使用した薪作り。薪運び。寒冷紗被せ。2日に分けたシンボルモミジの手入れ。コイモ跡の仕立て直し。そして居宅の屋根の落ち葉掃除で、アワヤに。知範さんがビオトープのデザイン変更に手を付けた日は、私は第4次アイトワ菜の播種。その後、屋根の落ち葉掃除は2度目の佛教大生来訪の朝、エンジンブロワー片手に屋根に上り、仕上げました。この日の学生は、寒の竹切りにも手を出しました。そして20日は、畑のカラス対策を思案し、昨年の試行を下に、ヒモや糸を張る面倒な作業に手を付けています。
この間は、連日シカが侵入し、3日にあげずサルが、とキリキリ舞い。13日にクリスマスローズが咲き始め、翌火曜日は、岡田さんのおかげで初の映画会を開催。未来さんの婚約者を招き、妻は安倍川餅の昼食を用意。16日の夕刻は、一人で祐斎さんを山越えで訪ね、一献傾け、帰路は送ってもらう始末。17日に妻は、冬の樹上で元気にしていた(?)カメムシを見つけました。その翌日、祐斎さんが孫も連れ、一行で来訪。そして19日の佛教大生2度目の来訪時に、ベトナム旅行で知り合った女性が友人同伴で来店など。
小雨で明け、ほぼ終日書斎にこもる1日から下旬は始まり、妻はこの日から1カ月間喫茶店を閉め、創作休暇に。翌日は思い出深い一日に。新カラス対策に目途が立ち、妻がシカの侵入口と、電柵の漏電箇所を見つけ、反省しながら補修、さらに私は幸せの定義ができそうな気分で、1本の心を込めた手紙をしたため、投函しています。
その後25日は、網田さんと市内に出てドボルジャークを満喫。翌日曜日は石神夫妻を迎えて旧交を温め、午後は知範さんと庭仕事。その後、歯科医では至極満足。川上さんを迎えてワクワク。翌日は病院を訪れてガッカリ、日本を嘆きました。そして29日は、未来さんと石畳道で、懸案だった防草土舗装の補修に取り組み始めたのです。妻は生徒さんたちと、来る5月の教室展に供えた案内状用の撮影会。賑やかなこと。
30日はややこしい空模様でしたが、トピックスが3つ。まず、HKの倉田さんを快晴で迎え、無事を体感。その間に小雨。サルは私の不注意を突き、畑に侵入、手あたり次第。でも気を取り直し、曇天をついて防草土舗装の下ごしらえを済ませました。月末は知範さんを迎えながら庭に出ずじまい。ややこしい空模様の下、1カ月を丁寧に振り返りました。
~経過詳細~
結婚47年来初の、変則の元日になった。主因は妻の左脚の不具合で、大晦日のありようが例年とは随分異ったからだ。妻は2日がかりでお節造りに取り組み、年越しそばを夕食時に添えるなど異例の手抜きもしたが、それでも夜更かしに。私は、風呂炊きや、詰め終わったお重を(火の気のない寒い部屋へ)運ぶ作業などを肩代わりしたこともあり、本来の担当である注連縄のとり付けや、お鏡餅の飾りつけなども元旦廻しになった。
妻の左脚の症状は、背の左尻上部からふくらはぎにかけて損傷、甲はさするだけで痛い。私の右膝も完治にいたらず、不安をつのる年の瀬であった。
だがこの間に、痛み入るほど嬉しいことがあった。未来さんが母親を伴って訪れ、正月休みの間のハッピーの散歩は肩代わりすると提案し、父親(に治療の心得があり、「ご希望なら」と)の伝言を届けてもらえ、妻は大喜び。
また私は、デンマークの旅行記を年内にまとめようと中旬から手掛けていながら、難儀していた(旅行時のメモが、後半は粗雑になっていて、物忘れに泣かされていた)が、やっと目処がたち、ホッと胸をなでおろし、大晦日を迎えていた。
かくして元日を迎え、私は4時に起床、PCで旅行記の仕上げに取組んだ。やがて、日の出に気づき、庭に出た。なんともすがすがしい初日の出。さっそく門扉などに注連縄を付けて回り、お鏡餅なども所定の位置に備えた。
妻も早く起き出してきたので、フトいつも通りに朝の挨拶を交わした。早速妻は、神棚のお神酒と、仏壇に仏飯も供えたので、いつも通りに、神棚そして仏壇の順で、新年を祝い、1年の願い事を黙とうした。冷気に満ちた部屋で、ローソクと線香の香りが一帯にただよい、ピーンと肌を引き締め、いつものごとく1年の始まりを肝に命じた。
榊立てには、例年通りに庭のサカキの小枝を立てていたが、今年の仏花は、私に摘ませた水仙と、剪定クズの蠟梅などで済ませていた。そうと知った直後だった。門扉のピンポンが鳴り、ありがたいことが生じた。大園ご一家(未来さんとご両親に加え、初めてお目にかかったお兄さん)が揃ってのご来訪。思わずお兄さんと握手。
この今年最初の来訪者を、すがすがしい朝日が、まるで目線を合わせて微笑みかけるかのように照らし出した。
一家を門扉まで私が見送っている間に、妻は雑煮などに取り掛かったようだ。私は温度計道を戻りながら「今年は…」と、例年の元旦とは異なった朝の挨拶であったことを振り返った。それは、屠蘇の前に2度も声を発していたことだ。2度目は大園ご一家と、新年の挨拶を交わしたことだが、その前にも、なぜか私は、起き抜けの妻に、私の方から「おはようございます」と声をかけていた。例年とは異なる。
居宅に戻り、そのまま「冷暗の間」にむかい、お節料理などを居間の食卓に運び出し、黙々と46回目の元旦の祝いにとりかかった。いつも通りに無言の副茶から始まり、次のお屠蘇の時に(杯は年若い順に受け)「お目出とうございます」と「今年も1年、よろしくお願いします」などと発生した。本来ならこの新春の挨拶の交わしあいが1年最初の発声のはずだが、本年は2度の例外があったことになる。とりわけ膝の故障などスッカリ忘れて飛び出して迎え入れ、大園ご一家と交わした挨拶が、安堵や安らぎを私たち夫婦に与え、実に目出度い1年の始まりになった。
いつも通りに初餉は白味噌雑煮から。次いで白飯にお煮しめだが、仏壇から私が下げた仏飯を、「私が」と妻すべてが引き受けた。今年は蒲鉾に代えてサーモン巻きが入っていた。酢の物3種と、母ゆずりの浸け方のカズノコは例年通りに準備された。だが、睨み鯛がない。頂き物の鯛が大きすぎて、そのまま焼くわけにはいかなかった。
夜は、このお煮しめにハマグリの吸い物か茶わん蒸しのいずれかが添えられる。このたびは生ハマグリが暮れの店頭で見当たらず、調理済み真空パックに代わらせたが、ないよりはマシよりは上回っていた。昼は焼いた餅に海苔をまき、砂糖醤油で食すか、麺類になる。こうした食事で3ガ日を過ごし、お節料理を今年も片づけることになる。
そう思いながら祝い箸を茶で洗っていた時だった、2度目のピンポン。初の宅急便で、恒例なら年末に届く友人からの小田原の蒲鉾だった。かく元旦は過ぎ去った。
3度目のピンポンは10時で、女性の声だった。なぜか私は用件も聞かずに飛び出したが、犬を連れた母子と思われるお二人だった。「喫茶店は…?」とのお尋ねに、「明日からですが、どうぞ」と、私はなぜかテラスに招き入れた。それがヨカッタ。底抜けの忘れ難い初笑いに恵まれることになったからだ。子どものころに夢見たこと(小さくてヤンチャなライオンやゾウを飼いたかった)の疑似体験だったが、あまりにも何かが違った。
妻がビッコで出て来て大喜び。妻と親しい間柄の母娘と分かった。好天に甘え、テラスでのもてなしに終わったが、長年に亘って妻の人形創作意欲を掻き立てて下さった人たちだった。この一服の抹茶が、本年最初のお茶の時間をふくよかにした。
その後、初仕事に取り組んでおり、願った通りになし終えた。まずハッピーの小屋の保温。かねてからの妻の提案で、使い古した風呂マットの廃物利用だった。次いで、電動ドライバーなどを持ち出し、テラスのオブジェを強風から守るアンカー(?)を取り付けた。さらに、購入して48年来の(学生時代に最後の旅行用にと溜めたアルバイト代が、幾種かの家具に化けた。そのうちの)2客の椅子を修繕した。この度から薪ストーブの側にデヴューさせることにしたが、ガタがきていた。
かくのごとく新しい1年が始まった。
2日。大園夫妻サマサマの日々が始まった。未来さんのお母さんの手でハッピーの朝の散歩が始まったし、お父さんに気功治療の世話を妻は受けることになった。
食後、妻はビッコを引きながら例年通りに喫茶店を開いた。おかげで、顔なじみの方々との年始めの挨拶を、これまで通りに交わせたようだ。薪ストーブにはこの冬初の火を入れたが、ついに私は、その余熱で温まった書斎には入らずじまいになった。
知範父子来訪の知らせで私は店に出たが、店内には読書にふける知友の姿があったし、他にも次々と来訪者に恵まれ、賀状の拝復や録画の観賞などで1日が過ぎ去った。
知範さんは、奥さんは風邪気味とかで息子だけ連れての来訪だった。妻は「お父さんソックリねぇ」に次いで、「孝之さんは腹話術でもお始めですか」と冷やかした。
次いでリズさんの教え子に立ち寄ってもらえた。だから、40年以上も前の正月休みに、リズさんと2人で伐採した松の玉切りまで見せた。当時はまだ、太い木を根元から切り倒せる余地のある庭であったわけだ。店内で読書中だった旧友の千野さんは、「これイイヨ」と拙著を買い求めてテラスに出て来て、再訪を約して去った、など。
翌朝は、白味噌雑煮に代えて澄まし雑煮が出た。私の心の歳時記によれば、3ガ日が明けてから、大椀の(焼いた餅が入った)澄まし雑煮が朝食として出始めたものだが、妻の記憶はチョッと違い、3日に澄まし雑煮をつけ、3が日後も時々白味噌雑煮を振る舞う。
この日から私は庭仕事に手を付けた。それは未来さんのお母さんと(暮れにやり残した)ヒノキ林の土手部の掃除で、エンジンブロアーも活かし、大量の落ち葉をかき集め、3つの小山を作った。この小山は、佛教大生来訪時に(腐葉土小屋に積みこんで)片づけてもらうことにした。
午後に、四国の小夜子さん(妻と同姓同名)が到着し、5月の教室展にむけて、集中して人形作りに取り組み始めた。夕食時のことだ。祝箸の名を記すことになったが、この時から私も小夜ちゃんと(記し、)呼び始めている。そして小夜ちゃんが事前に送ってくれた清酒をとりだし、発泡する搾りたての辛口の原種を、お煮しめを肴に楽しんだ。
彼女は2泊し、夜遅くまで創作に打ち込み、5日の昼前に「明日からお仕事。今度は5月(の教室展の時)に」と言い残して去った。その見送りは私が引き受け、門扉まで出たが、その時に宅急便。うれしい贈物だった。その1つは、ほのぼのとする絵手紙が付いた品々で、とりわけワラ細工のツルとカメに目を見張った。亀は大勢の亀仲間が待つ飾り棚へ、鶴の居場所は「方丈」で定めることにした。
午後は、「ニュースでも」と付けたテレビで、ついに2本立ての映画を観てしまった。『ALWAYS 続・三丁目の夕日』と『ALWAYS三丁目の夕陽’64』。
翌月曜日の朝一番は歯科医への初登院。臼歯の歯根を抜く予定日だったが、これが幸いした。3日前から、部分入れ歯を外さざるを得ない事態に陥っていたが、この再装着もかなった。午後は、まず目と、次いで耳を、そして夕には鼻と舌を喜ばせる出来事に恵まれた。久保田さんが初見のヤマブシタケなど長野土産と、「道中で…」パンドラム奏者と知りあったとの話題を持参し、年賀の来訪に来てもらえたおかげだ。
その頃妻は、2人のフィリピンの少女とにわか人形教室だったが、「この眼差しと好奇心に惹かれたの」と、私に紹介し、その両親に2人をかえした。
その時だった。パンドラム奏者の石田さんが現れ、賑やかなことになった。初見のドラムに私が興味津々と見て、石田さんは取り出し、熱いカフェオレのカップで指を暖め、やおら演奏を始めた。その時に、まだ居合わせたフィリピンの少女が入ってきて、久保田さんのスリットドラムを勝手にたたき始めた。
私はパンドラムの独演を願ったが、石田さんは少女の独奏(?)を引き立て始めた。この時に私は、半世紀以上も前の思い出をよみがえらせている。NYのグリニッチヴィレッジでのことだった。ヒッピーのねぐらで逗留したことがあるが、ヒッピーたちのありように、石田さんはとても似ていた。やさしい。
フィリピンの一家が去ったあと、石田さんはリュックからCDを取り出し、ジャケットの裏面に丁寧な意匠を施し、春風のように去った。
その夜、長野の茸が、まず前菜に、次いでさまざまなメニューに、香り豊かに生かされた。初賞味のヤマブシタケにとりわけ心惹かれた。
この夜のデザートに、知範さんの手土産(紫野の菓子)が活かされ、「何度も教えました」との妻の叱責をくらうことになったが、それがとても心地よかった。というのは、かつての顧問先企業の、今は会長夫人が、いつも暮れになると白味噌を送って下さる。それと同じ白味噌を用いた菓子であったようで、「だから美味しいのです」となった次第。30年来の感謝の気持ちを新たにしただけでなく、反省することしきり。
翌朝は、47年目にして初めて七草を、私が庭に摘みに出た。ここにいたって初めて、小カブラの播種を忘れていたことに気付かされた。だから、スズシロは自然生えのダイコンだが、スズナはコカブに代えてアイトワ菜の畝で、根の太い菜を探した。
そこに未来さんが、「今朝は、母に代わって」と、ハッピーを散歩に連れ出しにやって来た。都合を聞くと、散歩の後で少し時間にゆとりがあった。だから七草粥を一緒に、となった。
その後は2つの迷惑が印象深い日々になったが、上旬はことなく過ぎ去った。迷惑の1つは知範さんへの月記の修正で、これは加害。師走の月記とデンマーク旅行記の原稿を年が明けた4日に書きあげて、引き継いだものから、うっかり元旦の様子まで盛り込んでいた。そうと気付いて、修正を要し、2回も余分に駆けつけてもらった。
もう1つの迷惑は、被害。連日のシカだけでなくサルの群れの侵入で、柑橘類に寒冷紗を被せて回ったり、電柵に絡んだツルなどを取り除いて回回ったりすること(漏電対策)が求められた。シカはイノシシと違い、寒冷紗を被せておくと襲わない。
この間の8日(水)午後のことだ。小雨が上がったのを見て初の畑仕事に取組んだ。温室では第2次スナップエンドウのポット苗が植え頃を迎えており、畝に下した。これがキッカケのごとく、翌日は曇天だったが、午前中はひとしきり除草に取り組み、午後はエンジンソーを取り出し、囲炉裏場で薪作りと鉈仕事に熱中。そして快晴で明けた10日は、第1次アイトワ菜の跡を、スコップを左足で駆使し、ほぼ痛みがとれた右ひざを喜びながら、第3次スナップエンドウ用の畝に仕立て直し、かくのごとく上旬を締めくくった。
久しぶりに商社時代の仲間と会する場に駆けつけて、中旬はペーターカーメンチントを懐かしむことから始まったようなものだ。毎回のように生存確認の度合を深める雰囲気になったが、この度は実質上の仲人といってよい宮本に会することもできた。
「オランジー」といきなり声を駆けられ、「シシ」と反射した。それは東京から参加した宍倉だった。思えば、私は在籍17年弱で退社したが、58年前に出会い、それ以来の付き合いになる。この集いも、いつしか「もう歳じゃ」夜は危ない、との意見が増え、昼の集いになっており、「シシ」は東京からの日帰り参加だろう。
幹事は前回から丸山に代わっていたが、今回初めて世話になった。この男とも忘れ難い思い出がある。他にも江藤や阿部など大勢の面々が顔をそろえていた。「ゆうべ、森、オマエさんが夢に出て来た」と高橋が叫び、いよいよ郷愁の時空に私は浸り始める。
独身寮で一緒に過ごした数年が、とりわけ懐かしい。麻雀、ゴルフ、あるいは赤ちょうちん、こうしたものには一切かかわらず、週末は京都に帰り、野良仕事。それでも変わり者にされずに済んだのは、この寮生活と、仲間の噂のおかげだ。いつしか、「オランジーは、京都に女がいる」となっていたようだし、寮では3日にあげず、車座になって杯を重ね、気勢を上げ、くそ真面目に天下家も口にした。そのおかげだ。
実質上の仲人と言ってよい宮本は、独身寮で「羊羹を肴に酒を飲むヤツがいる」という事で知った。その後、彼が属していた部門が、一人の女性デザイナーをトレードして、私の海外出張中に、私が作らせてもらった子会社で席を得ていた。
「森くんスマン。結婚しても絶対辞めない、と約束させたから」と上司は言ったが、事後承諾させられる私としては心中穏やかではなかった。だが、上司の心中も察し、了解した。まさかその女性が、やがて専業主婦として私の妻になるなど思いもしていない。
もちろん諸般の事情があった。まず、当時の本体では、専門職の女性を採用しておらず、女子事務員1本の給与体系しかなかった。また、社内結婚が頻発していたが、本体ではいずれかが退社する決まりになっていた。だから、未来の夫を射止め、嬉々と家庭に収まる女性が後を絶たなかった。私は「そうしたカラも破る必要がある時代だ」という事も提案し、子会社を作り、本社ビルの中に唯一併存させてもらった。
だから、本体では許されない髭を生やした男や、ネクタイを結んでいない男、あるいは制服を着ない女性や、結婚しても家庭に収まらない女性が闊歩できるようになった。上司は「だから森クン、(本体は)彼女をトレードし、頼ってきたんだ」と説得された。
実は、この上司も、子会社誕生に際し、私が人選し、出向していただいた。本体では、子会社といえども30過ぎの年齢では出向社員を役員には出来なかったようだし、私も得心していた。この子会社のプロパー(子会社で採用した)社員の給与体系は本体より低いが、逆に年齢や性別による制限などつけず、能力次第で若き役員も誕生させることもできる。
次の事情が生じた。くだんの部門が念願の(アメリカ企業との提携)プロジェクトをかなえたが、その時のことだ。その部門は「宮本を営業担当に、デザイナーは」と、くだんの女性を人選した。ここで宮本と彼女との付き合いが始まった。
そのプロジェクトの、とある会議での昼食時のことだった。この時の一事も事情の1つかも知れない。私は(好物だった)天丼を業者に運んでもらい、お茶はプロパーの女性社員に用意してもらおうとした。その時に、「私が」と立ち上がった人がいた。1人女性ながら会議に参加していたこのデザイナーだった。「キミは…」と私は制止したが、「私も、女です」と彼女は主張し、給湯室に走った。宮本は実質上(スポンサー)の上司みたいなものだが、黙っていた。
それはともかく、今回はフグ三昧だったが、幹事の丸山は幾つもの鍋の世話もした。その姿を見て、独身寮時代を思い出した。「オレの親友のためだ」と、ある注文を付けるために私の部屋に乗り込んで来たことがあった。それ以来、顔を合わすと立ち話をする仲になった。
阿部も参加だった。リスボン駐在時代が長く、阿部をたよってポルトガルを訪ねたかったが、これは私の都合でかなわなかった。丸山は中国時代が長く、「(中国に)連れて行けよ」と彼が定年退職した後で言ったことがある。それはかなわぬままだが、より広い愛国心(互いに尊敬し合い、憧れ合うような国を思う心)が望める形で、別途独自に立案し、2度に分けて中国の戦績地も訪れている。
高橋とも仕事上では何ら関係がなかったが、なぜか独身寮では酒杯を一番酌み交わした。風呂にはいつも一緒に出かけた3人組の1人だった。そうした仲だけに、私が退社を決めた時はとても心配し、「もう商社の時代ではないのか」とまで口走っている。
逆に私は、新しい商社の時代にしたかった。その構想は、なかなか上層部にも理解されなかった。言葉だけではダメだ、と思った。その構想のボトルネックを、目に見える形で解くことが最優先課題、と感じた。それはいわば宗旨替えの問題、と思われた。
企業には、儲かるとなるといつでも宗旨替えしてもらえるはずだが、個人はそうはゆかないだろう。消費者として贅沢(既製品依存)や(便利などの)怠惰に慣れ親しんだ(弛緩)した心を引き締め直すことは、筋肉の弛緩以上に難しく、宗旨替えしにくいに違いない。
工業社会が可能にした「つぶす(消費の)喜び」に替えて、次代が歓迎する「創る喜び」への転換を、と私は40数年前から提案し始めた。いずれ工業時代は破綻し、追い立てられるが、その前に、と勧めたが、誰しもが「それは、時代に逆行だ」と誤解した。
その誤解が、私の目から見ると、消費者を人間的に2重にも3重にも損をさせているように見えた。平たく言えば、消費者は「遊んでいるつもり」だろうが「遊ばれているのだ」と訴えたが、通じなかった。
財布のひもを緩めて消費に走り、その緩めた財布を満たすために勤労時間はお金の奴隷に甘んじてしまう。それは目に見えない鎖に縛られていることではないか。そのお金のための頑張りが、例えば開発と思っていることが、実態は破壊でないか。
この錯覚がボトルネックのように私は見た。世の中では一億中流と囃していたが、その「えせ貴族のような心境」にさせる生き方に私は罠を見出していた。いずれ身ぐるみはがされるだろう。それはまだしも、生きとし生けるものにとって肝心要の乗り物・宇宙船地球号を沈ませかねない片棒を担いでいるのだ、早晩「川の水で飯盒炊飯ができなくなるゾ」と心配したが、誰も相手にしてくれなかった。
これに代わる本当の幸せや豊かさの源泉を手にする生き方を、目に見える形にして示す必要がある。モデルを創ってそれを実証できれば、説得力を増すだろう、と考えるようになった。この想いは、ロンドンでオイルショックを実感した時に、固めている。
ロンドンの街並みもネオンサインなどの明かりがすっかり消えていた。事務所にたどり着いたが、藤並先輩はアセチレンガスのヘッドランプ姿で、テレックスを打っていた。
この米欧出張の帰路、機中では、次代を生きる指針作りと、その文章化で頭はいっぱいだった。帰宅後、その骨子を文字にしたが、今日のアイトワ12節での理念になっている。
子会社では「コットンハウス」というプロジェクトを立ち上げようとしたが、ジーンズが一過性のブームであったかのような国内市場になり、心中はそれどころではなくなった。おかげで、ファッションという言葉にかえてムーブメントという言葉を思い付き、ジーンズ観を一文にまとめて、この想いを補強できた。
おかげで超優良子会社賞に輝き続けた。
そこで倍額増資をし、プロパー社員に保有させる案を上司に迫ったが、本体に飲ませられなかった。おだやかな(現状の延長線上に未来を描いていた)上司には、既に仲人を頼んでいた。にもかかわらず、秘かに新社長を迎えたくて、ジョウジさんという先輩に打診したが、断わられた。アタマがごちゃごちゃになった。
今流に言えば、リセットの時と直感したのだろう。本体人事部の人に、あと3年辛抱したら企業年金取得資格ができる、と勧められたが、このモデルづくりが先決、と思った。
このモデルが目に見える形になり、それがかなった暁には高橋を訪ね、商社の進むべき新しい方向とするプランとして推奨し、カケに出てもらおう。この男ならカケに出るだろう、と思った。破綻が必定の工業社会にしがみつくのではなく、次代を創出する事業化こそ、商社の体質に相応しい事業ではないか、と今も思っている。
だから、アジア総支配人時代の高橋を、HKに訪ねてもいる。だが高橋はその後、専務時代に病魔に襲われてしまい、かなわなかった。
「オランジー」は、宍倉がつけたニックネームではなかったか。さもなければ鈴木だ。当時、オランウータンが「森のヒト」として注目されており、いつしか「オランさん」と呼ばれるようになった。その後、シシは退社するまでオランジーと呼んだ。
それは入社後何か月か続いた研修時代でのことだった。ある日、力自慢だった私は昼休みに、腕立て伏せを片手でしてみせた。爾来「オランジー」に替わった。母に、「オランウータンとチンパンジーのアイノコの意味だ」と得意げに説明し、叱られたことがある。
この度の鍋の集いは3時間ほどで終わった。帰途、コンビニにまで手を出し始めた商社の今後が気になった。そのような暇があるのなら、新しい時代を創出することに機能と資金を活かす商社にならなければ、いずれはまた時代の批判にさらされるに違いない。
日本の政権は今、これまでの延長線上のありように執着し、女性活躍時代とか一億総活躍などと囃し、乾いた雑巾を絞るような道を突き進んでいる。それは逆に、男女格差や貧富格差を広げており、このままではかつて道を誤った時代のごとき社会に陥れるに違いない。
非統治者にも問題がある。たとえば昨今、都市部での高層マンション群を繁盛させているが、それはかつての追い詰められた時代に、戦艦ヤマトに憧れたような心境と現象に見える。
戦艦ヤマトに憧れた時代に、商社は、あの悪しき方向(欧米諸国に倣い、植民地政策)に突き進む軍部と足並みを揃え、一時は有頂天になった。その二の舞になること必定で、それは自ら前途を断つことに結びつけるだろう。
それはともかく、今は亡き私たち夫婦の2組の両親には感謝だ。妻の両親は、娘が私と付き合い始めたことを知って慌てたようだ。娘の身を案じてすぐに乗り出し、私の留守宅に乗り込んでいる。わが両親が迎え入れたが、2組の両親は「そうだったのですか」と意気投合。それなら早速、と自分たちの都合だけで婚礼の日を決めた。
高橋も「午後なら空けられるよ」ということで、新年初出社の正月5日土曜日に司会役を引き受けてくれて、一緒に会場に駆け付けた。辞表を提出する前の、そこまでの心境に追い込まれる前だったが、企業風土は、ルール違反(社内結婚)を笑い飛ばしてもらえた。
郷愁の1日から中旬は始まったが、その後は(元旦は快晴で始まっていながら)曇天の日が続き、湿っぽかった。だが、佛教大生の2度の来訪、初めて試みた映画会、そして2度の祐斎さんとの触れ合いなどのおかげでカラッと心は晴れ、庭仕事に弾みをつけた。
妻は、大園夫妻の親切や、ハッピーの夕刻の散歩は義妹に肩代わりしてもらうなどしてなんとか喫茶店を19日まで開き続け、恒例の冬休み(1カ月の人形創作休暇)に入った。
人形作りに没頭できる一カ月は妻にとってパラダイスだろう。その前日の夕刻に、除草を終え、温度計道を登っていた私は、漂ってくる薪が燃える香りに気づき、特別の思いで嗅いでいる。妻が脚の不具合来初めて風呂を立てたわけだ。しかも、風呂の焚き口から居間に戻ってきた妻は、夕刊を広げ始めていた私の鼻先に、「ワンちゃんを焼いてしまうところでした」と1本の細い薪を差し出した。その薪を、私も燃やす気にはなれず、一計を案じ、おかげで気分は曇りのち晴れに好転。心地よく中旬を締めくくった。
さて、その間の事。佛教大生の初来訪は2人で、12日だった。モモやカシワの木(を知範さんと切り取ったまま、その場に放置していたが、そ)の幹を、囲炉裏場まで運んだり、大園夫人と掻き集め(3か所に積み上げてあっ)た落ち葉を、腐葉土小屋に積みあげたりする力仕事と、昨年暮れに切り取ったシホウチクの枝払いなどの整理に当たってもらった。
昼食に、妻はサンドウィッチを用意したが、「2人の学生にも…」と考えたようだ。こうした用意ができた時は、これらをキッカケに活かし、私は学生に、コンビニなどに頼る生き方ではなく、自分の手で、と勧めるようにしている。
ちなみに、私は妻と結婚する時に、幸せのバロメーターを伝えている。それは「キミの手作りの食事をどれだけ食べることどれだけができるか、その回数が多いことだ」だった。
この正月に、コンビニは24時間営業を自粛する方向に歩み出した。また、コンビニの総店舗数が初めて減少したことが明らかになった。早晩コンビニも、百貨店やスーパーマーケット、あるいはオリンピックや万博と同様に、文明のオトシゴであったことが誰の目にも明らかになるだろう。このままではいずれも化石になる。
それはともかく、この日は、囲炉裏場に積み上げてあった大量の剪定クズで大焚火を始めた。3時にデンマークをご一緒した門夫妻を迎えることになっていたからだ。イモを早めに焼き上げて、学生も交えて賞味と歓談を、と願ってのことだった。話題にはもちろんヒュッゲも選んだ。ヒュッゲも、門夫妻と同様に、医は仁であるべし、を志向する。
翌日は、遅ればせながらシカよけの寒冷紗を被せて回った日だが、薪作りにも取り組み、エンジンソーでの玉切り作りだけでなく、鉈仕事にも随分時間を割いている。
というのは、このところ連日シカが侵入し、リュウノヒゲは芝を刈ったように食い荒らされ、前夜は3本もの柑橘類の若木がマルボウズにされ、随所に新しい糞を残されながら、侵入口が分らず、途方に暮れた。こうした時は、除草とか鉈仕事など、単調な作業に取り組み、あれこれ思案に努めれば、少しは気が晴れるものだ。
この日、夕食時に、妻からクリスマスローズが咲き始めたことを聞かされたが、ユキワリソウは未だ芽も出しておらず、これも暖冬のせいでは、と首をひねった。
14日の火曜日は、記念すべき日になった。岡田さんの世話になって初の映画会を開催できたのだから。しかも、未来さんの婚約者を招く機会に活かせたし、妻は未来さんに手伝ってもらい「安倍川餅で昼食を」と張り切った。私たち夫婦は、これまでに2度(プロポーズされる前と後で)彼には合っていたし、された日も教えてもらっていたので、招きたかった。映画は中国映画の『活きる』と、フランス映画の『インドシナ』を選んだ。
『活きる』の監督は、この作品で世界に名が売れており、北京オリンピック記録映画の監督に選ばれた、と聞く。この原作の翻訳本『生きる』(中国では発禁ではなかったか)を何年も前に読み知っていた私は、原作と映画の差異に注視して、時代の力と監督の工夫を推し量ろうとした。
どうやら私は、『生きる』を読んだ時に、中国の影絵芝居にも興味を抱いたようだ。過日の彼の地の旅で、そのおもちゃに思わず手を出しており、後生大事に残していた。
『インドシナ』は、フランスの植民地時代のベトナムが舞台だ、と岡田さんから聞いていた。だから(アメリカの傀儡時点から後のことしか知らない)私としては興味津々だった。それはフランスという国とその国民の品性や度量、あるいは自信や誇りのほどを汲み取る機会の1つにしたい、と願ってのことだ。要は彼我の民度のありように興味があった。
わが国では、大学入試の在り方で、「身の丈」という言葉のイメージを反転させかねない用い方をする者が現れて、ざわついていた。森友や加計事件では、「忖度」という言葉を国際的に知らしめたばかりなので、歯がゆい思いをさせられていた。だから、フランスでなら、「忖度」や「身の丈」問題は生じえない事件であろう、との思いもあり、選んだ。
フランスは、バカロレアで知られるように、高校3年生になると、その1年間を哲学年と呼べそうな日々で過ごさせて、オツムの整理もさせる。古典を紐解き、1つ1つの用語を定義するなど、共通認識の醸成に努めさせる。だから、このような事件がフランスで生じようものなら、その心をスッカリ見透かして、森友の時点で「首相」の立場だけでなく「議員」の資格も、国民との約束通りに剥奪していたに違いない。つまり加計事件までうやむやにさせる
ようなことはなかったはずだ。という事は(首相が前言を翻さなければ、あるいは翻しても、官僚が忖度しなければ)、桜問題で国費を使うことなどかなわなかったし、国会の審議なしに軍艦で派兵するようなことも出来なかったわけだ。また、国民が、この問題の追求が審議を遅らせているかのように誤解しなければ、にことは大きく変わっていた。これと同じような不条理が、太平洋戦争時では日常茶飯事であったと見てよいだろう。
それはともかく、昼食の安倍川餅は楽しかった。未来さんに妻は餅の扱い方を教えたが、より一層彼女のファンになったようだ。技術や知識などを洗いざらい伝えたくなる心の持ち主だし、誠実なことこの上なし。おかげで皆が愉快になって、よく食べたこと。
なぜか私は『ALWAYS 続・三丁目の夕日』で見た自動車修理店の社長のような心境になり、好青年の肩をおもわず「たのむよ」と叩いたものだ。
『活きる』では、「塞翁が馬」のごとき夫婦のありようも、『インドシナ』では、結婚という言葉の定義をし直したくなるような一面も描いており、共に固唾を飲んで見守った。
映画の後、陽は落ちていたが、知範さんと婚約者の2人に、12段脚立を囲炉裏場から移動させることを頼んだ。翌日にでも、この庭では最高齢の木、庭のシンボルのごときモミジの手入れがしたかったからだ。ちなみに、こうした映画を見ると「忖度」や「身の丈」がらみの事件などは「ケ・セラ・セラ」と思われて、口に出す気にもなれなかった。
まずパンジーの苗。翌日、コンクリ花壇で私流に活かした。自然生えのオキダリスは冬枯れしていたし、サクラソウは芽を出したばかりだったが、共に残した。いずれは、自然生えの幾種かの花で1年が回わるミニ空間にしたい。
この作業をウォーミングアップにして、やおら短いロープや高枝切りなどを取り出し、シンボルモミジの手入れに取り掛かった。脚立の天板に立つこともあるので、この度からロープで、脚立とモミジの枝をつないだ。
作業は、徒長枝の切り取りと、モミジの枝に這い上ったテイカカヅラのツルを解いて垂らすことだが、2日に分けて取り組むことになった。徒長枝だけでなく、テイカカズラもうまく解けず、随分手間取ったからだ。
次いで、この側で育つナンジャモンジャの手入れをする段取りをして切り上げたが、それは夕刻から一人で、山越えの道のり(近道)で祐斎さんを訪ねることになっていたからだ。実は新年会に招かれていながら、脚の故障で不義理をした。いわば、その心の借りのお返しを兼ねて、私なりに膝の回復のほどを確かめてもらいたかった。
薄暗がりの亀山公園で、何十段かの段差が厳しい自然石の階段を下ったあと、更なる近道をと願い、山肌を進んだが、杖を携えていたおかげで冒険気分を味わえた。シカやイノシシは、四つ足だから死ぬまで走ることができるのだろうかとか、走ることが冒険になる前に死んでしまうのだろうな、などと考えながら、一旦は保津川の川辺にまで下った。裏木戸が開かなかったからだ。最後のゆるい上りの坂道には明かりがあり、「もう大丈夫、山越え(の近道)を選んでヨカッタ」と思った。だが、夜分にこの近道を行き来するのは、いわんやほろ酔い加減では、いずれ…と思案もした。
持参の酒を冷で一献傾けたが、祐斎さんの肴、とりわけサンマの手作り丸干しの美味にはマイッタ。フト天を仰いだが、初めて和室のシャンデリアに気づき、職人技にマイッタ。硝子職人と彫金職人が関わった代物だが、「どちらが主になって」と、トイレで水琴窟に耳を傾けながら思った。
川端康成が逗留し、一書を成したところだが、当時は4つ揃っていたのだろう。だが、このセンスでのセンスと「祐斎さん手作りの干物の方が」などと、つまらぬことを考えているとケイタイ。妻のクレームと帰途の提案だったが、祐斎さんの「ボクが送ってゆく」に甘えると言って切った。足元が怪しくなる前に、と心した。
山は冷えており、動くものが一切なく、音もなく、だから落ち葉を踏むカサカサが楽しかった。妻は門扉の前で出迎えた。
祐斎さんは気象変動の被害者だった。近年は川が荒れ、鮎がとれず、漁で水の中を歩かなくなり、脚は10歳も老けたらしい。アイトワのコーヒーの後、舗装道だが何倍もの距離がある方を、「運動や」といって帰っていった。私より丁度一回り若いが、長生きしてもらいたい。借りを返しに行ったつもりなのに、また借りてしまった。
見送った後で、番茶を飲んでいると、「まだ、こんなに元気にしています」と、妻が差し出したものがあった。それは、シンボルモミジで切り取ったテイカカズラの萎れ具合のことではなく、樹上で元気に過ごしていた(?)1匹のカメムシの事だった。
思えばまだ、氷らしい氷は張っていない。だから毎日、凍結防止のために垂らしておく水道水が、一晩でバケツにいっぱいになる。だが、その活かしようがない。うっとうしい日が続いており、水余り気味だ。
翌日は知範さんがビオトープのデザインを変更中に、私は第4次アイトワ菜を播種して、その畝には促成栽培を願い、再々利用のビニールを被せ、トンネル栽培(他のトンネル栽培は霜対策だが、これは加温が主眼)にした。
次いで、居宅の北西部の(わが家では落ち葉が一番積もる)屋根の掃除に取り掛かった。加齢とは悲しいものだ。天窓を真っ暗にするほど積もっていた落ち葉のボリュームと、瓦の凹凸や、屋根の傾斜にビビってしまい、スタスタとはいかない。
しかも落ち葉を3分の1ほど落しただけで、ズルっと足がすべり、ドキッ! しばらく、落ち葉の上にしゃがみ込み、北国の人々の「雪落とし」とはいかほどか、と思った。「これが最後の屋根掃除かも」とも考えた。そのときのことだ。カラダでは滑ったわけを追求していたようで、箒の柄をかざして落ち葉をかき分けていた。厚い落ち葉が日陰で腐食が進み、瓦が濡れていたことが原因とみた。そこで、この日は切り上げた。
祐斎さんが孫も伴った来訪予定の18日になった。まず現在の奥さんに、土産の青菜を用意した。この人ほど野菜の味が分かる人はめずらしい。その上で、迎える時刻までに、と前日の屋根掃除の続きに挑戦した。翌日には佛教大生2度目の来訪を予定していたので、その助成を期待してのことだ。大量の落ち葉なので、西面に落とした分だけでも腐葉土小屋に積み上げてもらいたい。そう願い、勇気を奮って取り組んだ次第。
エンジンブロアーも取り出し、半ば落した時に、一行の来訪。まず用意してあった野菜を手渡し、孫が主役の喫茶の間は席を外し、頃合いを見て再度加わり、5人を見送った。その時に、ドキッ!とした一件を話題に出した。なんと祐斎さんは落下体験者であり、かかとの骨を幾つもに割ったことを知り、その日は再度屋根に上る気にはなれなかった。
かくして3人の佛教大生を迎える19日になった。あと1時間もすれば3人を迎える、となった9時に、やおら私は屋根に上りたくなった。残っていた落ち葉を、落し切っておき、腐葉土小屋にどうしても運んでもらいたかったからだ。
リーダーで3回生の石原千夏さんには、一帯に散らかっていた杉の落ち枝を(薪風呂の焚き付け用に)拾ってもらった。2人の男子1回生には、西面に落とした山のような落ち葉をかき集めて袋に詰め、腐葉土小屋まで運んで積みあげてもらった。
その最中に、ベトナム旅行で知り合った女性の1人が、友人同伴で「お立ち寄りです」と知らされ、挨拶も出来たし、見送りも出来た。
午後は3人の学生に、はびこってほしくないところに出た竹を切り取って、その枝を払う作業に当たってもらった。もちろん、寒の竹切りであることや、竹の効能を語った。
私はイモを焼きながら、ブルーベリーの大きい方の畑で、剪定だけでなく防鳥ネットの整備にも当たった。ここで分かったことだが、庭に侵入しているシカはメス、と判断した。なぜなら、ブルーベリー畑のネットを一部めくり上げてあったが、シカはそころからかいくぐって出入りして、食害を与え、糞を残していたからだ。オスなら、角が網にかかり、大変なことになっていたはずだ。
そうと分かり、この日の焼き芋がなぜか余計にうまく感じた。だが後日、そうと分かっていながら知恵の絞り方が、決定的に不足していたことを思い知らされている。
かくして20日を迎え、カラス対策という懸案に取り掛かる下準備に精を出した。
下旬は小雨の1日から始まった上に、うっとうしい日が多かった。また、知範さんは26日まで、未来さんは29日まで来訪予定がなかった。だから、懸案のカラス対策に当たることにした。それは畑の全面に、天井を張るかの如くに、特殊なヒモや糸を十字に張り巡らす作業だが、試行錯誤を覚悟していた。そこで、この立ち仕事の合間に、除草作業というしゃがみ仕事を織り交ぜて取り組み、24日までに目途を立てようとした。
この対策で効果が認められれば、過去1年の試行のしがいがあったことになる。その上に、半ば恒常的な獣害対策(イノシシ、シカ、サル、に加えてカラス対策まで)を施せたことになる。とはいえ、新たな不便や配慮が求められる。畝はいよいよ(備中鍬など振りかざせなくなるから)スコップのみで耕すことになる。ツル性作物の背丈に制限が(天井に当たるヒモや糸に絡ませないために)生じる。あるいは、畝を(支柱に合わせて)仕立て直す必要もあるなど。とはいえ、うまくゆけば、露地栽培に取り組む人に倣ってもらえそうだ。
実は、10数年前からテグスでの防除方式を思い付き、始めたが、アッという間に広がっていた。人間とは不思議なもので、同じアイデアに思いつく人が短期間の間に散発するようだ。だがこの方式は、恒常性に欠けていた。そこで、よりカシコイ方式を、と願ってこの度手作りしたが、上手く行って既製品の開発に結び付けば、と思う。
この間にも、アポイントのあった来訪者や(獣害監視カメラの不具合での)業者を始め、予期せぬ来客もあった。その1人、庭師の井上さんの来訪は助かった。大量の古いモミガラを携えてもらえることになり、瞳さんにもらった分の使途に加え、実験的な使用を思い付いたからだ。その好例は、エンドウの畝での試用だった。
上面にマルチング材として敷き、のり面にはコーヒーかすとそのフィルターでおおった。タマネギなどの畝では、上面には防寒材(霜柱を立たせない)用に瞳さんの分でおおっていたが、のり面にもこの古い分を防草材として被せた。
なにせ畝の除草は腰を傷めかねない作業だし、随分時間をとられるだけに、もみ殻で防草効果が得られれば、一石三鳥に思われる。まず冬場は防寒(夏場は乾燥)対策になり、いずれは腐食し肥料になる。これは、無農薬有機栽培故に可能な策である。
25日は良きインターバルになった。大阪から網田さんに出て来てもらい、一緒にチェコの作曲家ドボルジャーク(かつてはドボルザーク)の世界を満喫した。独身寮時代には、ステレオを持っていた階下の寮生が『新世界』を聞こえがよしにかけた。次第に私は惹きつけられるようになり、待ち遠しくなったことを思いだした。
ピアノ、バイオリン、そしてチェロ奏者によるトーク&コンサートだったが、音楽好きの網田さんと至福の一時となった。また、チェコの香りを教え子から手紙で届けてもらっていたばかりであったし、アンコールでは『ユモレスク』が選ばれ、嬉しかった。
26日は知範さんを迎え、PC作業の後、知範さんはビオトープの改装で、踏み石の仕上げに当たった。私はその奥で、剪定作業と落ち葉掃除に従事した。カシの木が覆いかぶさっていたし、屋根から落とした落ち葉が溜まっていた。
その最中に、久しぶりに伴さんが3人の子ども「待って(い)ました」とばかりに迎え入れた。京都は近年、下手な観光政策でとても荒れており、その実態に近づきたかった。彼は高校時代をイタリヤで過ごしたこともあって、フェアーとは何かとか、自己責任精神をたたき込まれており、曖昧な会話を好まない。だからトントン拍子で話が弾んだ。結局この日も、庭仕事には短時間しか割けなかったが、良きインターバルと喜んだ。
次の2日間は、本年2度目の歯科医と、初の心臓の定期検診で病院を訪ねる日だった。歯科医では部分入れ歯の補正だったが、先の先を読んでもらえていたようなことになり、すこぶる満足した。病院ではわが国の医療の行末を嘆いた。たどり着いた時は血圧162-68、脈拍81だった。このデーターが医師の目にとまれば、また降血圧剤を増やされかねないだろう。幸い看護婦さんと一緒に同じ機械を使った時は128-66,61になっており、20分の待ち時間の差で救われた。要は、瞬時のカラダを機械で調べ、そのデーターに基づいて、過不足を薬で調整しようとでもするような治療に陥らざるを得なくなっているようだ。
これは医師の問題ではなく、瞬時(検査時)の「ヒト」を観て、「人」は診ず、その時のデーターで薬に頼る医療システムに医師を追い込んでいるところに問題がある、と思う。食べ物や生活習慣など、病気の原因に迫る医療が望まれる。つまり、政治の問題だ。NZやデンマークなどのように患者を薬から解放し、健康を維持させれば、それも病院の報酬につながる制度が望まれる。要は、医を仁から遊離させかねない意識を蔓延させた社会問題と見てもよいだろう。この医療システムも早晩が破たんが露わになる。
この歯科医院と病院との通院の間に、川上さんとのアポイントを入れておいてヨカッタ。彼女は、生体をいかに保てば健康に寄与するかに傾注し、カラダとココロを未病の面から助言できる人だ。一層若々しく感じたが、それは還暦を機に髪染を断ったからかもしれない。妻も11年前の還暦で断ったが、「私は姿勢が悪いから、老けて見えそう」といつも悔やんでいる。いっそのこと、川上さんをアイトワに迎え、講座を開いてもらえばいいのに。
29日、久しぶりに未来さんを午後から迎える日だったが、快晴で明けた。妻が人形教室の幾人かの仲間と朝から集い、来たる教室店の案内用写真の撮影日でもあった。
未来さんとは午後の半日だったが、防草土舗装した石畳道の(上手く舗装できていなかった部分の)改修に取り組むことにした。2月にでも、と考えていた作業だが、暖冬で気が早い夏草が動き出しかねない、と見て慌てた次第。
この度の部分改修は、水仙などが舗装を突き破って発芽した部分をコンクリートで固め(親水性を犠牲にするが)植物の力を抑え込む養生作業だった。
2人で様々な話題を取り上げ、楽しみながら、まず改修を要する部分の掃除を済ませ、セメントを注ぎこみ始めたが、半ばで中断した。暖冬とはいえ、日が傾くと冷え込みが始まったからだ。未来さんは「夢中になる仕事ですね」と話しながら帰っていった。
翌日は好天で明け、予期せぬ歓びに恵まれた。HKの倉田さんが友人連れで立ち寄り、無事を体感できたからだ。手紙で、騒動前にHKでの活動を切り上げたことや、日本の居所を知らされていたが、手を取り合って、そのぬくもりに安堵。同道の友人は、今も現役のフロ-リストとしてご活躍だが、その海外での活動や、心配りに触れ、魅了された。
この間に天候は、小雨になり、2人を見送る時点では曇天になっていた。そこで、直ちに前日の作業の続きに取り組んだ。未来さんの来訪は1週間先になるが、その時には本塗りができるように、と下ごしらえに取り掛かり、セメンいた夜トを打ち終えた。
この後で、畑を覗き、驚いた。小雨の間だったのか、サルの群れが私の不注意(獣害フェンスの扉の閉め忘れ)を突き、畑を荒らしていた。実は、前日、妻は電柵(サル避け)の漏電箇所を発見し問題を解消していただけに、妻には小言を喰い、その前にサルには手あたり次第に野菜を喰らわれていた。だからこの日から数日は、ダイコンはサルが見捨てた部分を喰うことになった。せめてもの慰みは、「どうしておサルさんは、こんなにおいしい(辛い)部分が分らないのでしょう」と妻があきれたことだ。
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夫婦して足腰に故障を抱えたまま新年を迎えたが、思えば少し昨年は無理をした。私は国内外4度の旅にずいぶん日数を割きながら、何とか庭や畑を同じように維持しようとした。妻の無理は、ハッピーの散歩での転倒がキッカケにして、露わになったようだ。
とはいえ、何とか年を越せた。それはひとえに、大勢の人の助成と、昨年までに施した加齢対策、とりわけ囲炉裏場を始め4カ所を防草土舗装したおかげだと思う。随分手間が省け、延べにすれば2週間ほど浮かせただろう。
おかげで今年もなんとか新しい1年に踏み出し、最初の1カ月を過ごせたが、この過程で、記し切れなかった話題が多々あった。ここでその9件を取り上げたい。
それは、何ともクヤシイ反省を2度(シカと漏電で)迫られた事件。温暖化と自然農法。物忘れ。剪定用新兵器。お雑煮のこだわり。そして3件の判断のしどころ(オブジェ、シイタケ、そしてハッピーの注連縄)。これらはアイトワの生活に直接関わる案件で、他に3件、LGBT問題、国際交流問題、そしてわが国の体質に関わる問題にも触れたい。
こんなにはっきりしたシカの侵入口に、なぜ気づけなかったのか。それは「よもや」と思っていたからだ。「それで分かった」ことがある。かつて、庭に侵入したメスのシカがいた。その敗走箇所が分からずじまいだったが「ここであった」と合点した。逃げようと努力する時のイノシシやシカの頑張りは想像以上だ。バカ力を出す。そうと分かっていながら私は、「飛び越えて逃げた箇所」ばかり探していた。
電柵でも、同じ失敗を犯していた。きっと、木の枝か、蔓(つる)が絡んでの漏電が、と思い込んでいた。だが、妻が見つけた箇所は、木の枝や蔓とは関りがまったくない所だった。強風が原因だろうが、緩んだ電線が金属の支柱に触れていた。ショートするパチパチいうかすかな音で気づいたという。
さて、温暖化と自然農法の問題。この数年、温暖化に急かされて取り組んだ農法があり、一定の成果を収めたように思う。路地で、無農薬有機栽培するうえで大切にしたい。
それは冬野菜の播種期に悩まされる虫害対策だ。まいた種や発芽したての芽が虫に襲われる率が、温暖化で深刻なほど高まってきた。かつては冬場に天地返しをして、害虫の数を抑制したものだが、近年では、土がカチカチに凍てることなど期待できなくなった。
そこで、直まきを避け、虫害の少ないところで苗を育てながら、気温が下がって虫が少なくなるのを待つ戦法を試みて来た。幸い、わが家には加温していない温室があるので、これを活かして苗をつくり、畝に移植する方式を試みて来た。おかげで、まず、ハクサイを早くから育て始められるようになり、一人前に結球させられるようになった。この冬はこの方式をダイコンなどの根菜でも採用し、成果を収めた。
大量に育てる青菜の場合は、土地柄にあった丈夫な品種を創出することが先決だと考え、アイトワ菜作りに精を出して来た。その種をひと冬に(時期をずらして)何回かに分けて直まきする方式だが、これも功を奏するようになった。
当初は、「1本1本の姿かたちが異なるでしょう」を自慢にしていたが、2代3代と自然交配を重ねるうちに、いずれはこの土地に適した新品種ができるのではないか、と期待するようになっている。
種を厚まきにして、大きく育った分から間引いて食材として収穫する方式だが。この冬は4次に分けてまいた。1月末時点では第3次分の収穫に入っており、順調にすすんでいる。だが、4次分は播種時期が(10日ほど)遅すぎたようで、大きく育つ前に薹を立てさせてしまいそうだ。
過日、第1次分の収穫期を終えた。これまでは、第2次分が最盛期になる前にすべて一度に抜き去って、堆肥の山に積んで腐食させ、肥料にしていたが、この度は異なる活かし方をしてみた。もし、第2次分を育てていなかったとすれば、と思ってのことだ。
青菜が必要になる都度、必要と思われる量を見計らって畝の端から順に抜き、(これまでならまとめて堆肥の山に積んでいたものを)食材にする。この畝の端まで収穫が終われば、次の作物のために耕す。この収穫は、間引く方式と異なり、大小さまざまなので、掃除が大変だ。とりわけ末期の野菜は外葉などが傷んでおり、捨て去る分(堆肥にする分)の方が多くなり、3分の1ほどしか食材にならない。しかしこれが、3つの喜びに気付かせた。
時間をかけて育った野菜の、中心部の新しい葉は、味が濃くて実に美味しい。思わずニンマリしてしまう。おそらく滋養面でも優れているに違いない。
加えて、傷んだり古くなったりした外葉を取り除く掃除は嫌になるほど面倒で、時間がかかる。だが、その過程で2つ目の喜びに気付かされた。この庭を縄張りにしているモンツキ(ジョウビタキ)が、土の臭いを嗅ぎつけて側までやってきて、ミミズなどをついばみ始めるが、その姿の可愛いこと。
そしてもう1つ。寒空で、丁寧に掃除した大小さまざまな野菜は、妻にも特別な野菜のように思われるようで、料理により力が入るそうで、食卓がより豊になる。
新年最初の新兵器は、長勝鋸に電話で要望を伝え、手にした剪定鋸だ。まず電話での注文時に、「なるほど」と感心した。「それは押して切る、になりますね」との長津勝一親方の返事だったからだ。日本の鋸は「引いて切る」が一般的だが、即座に合点が行き、了解した。そして、その使い勝手の良さを知った時の爽快な気分、流石は!と感激。
わが家のお雑煮のありようは、今年から替わりそうだ。時々朝食が大椀一杯の澄まし雑煮が出始めたので、白味噌雑煮を楽しむ季節は終わったもの、と思っていた。ところが、妻が「これで、次のお正月まで…」といってある朝に、大椀一杯の「白味噌雑煮?!?」を出した。そして、この雑煮は、頂き物の白味噌を使い切っ(て造ろうとし)たのだが少し足らず、わが家の手前味噌を少し加えたものだという。だから少し色合いが異なっていたのだ。
とはいえ、これで、雑煮好きの私にとって新たな喜びが始まったことになる。これまでは、最後の白味噌雑煮は、味噌を使い切っていたようで「お代わりをいかがですか」だった。だが、加齢で私は、お代わりをしなくなったようで、使い切り方を改めのだろう。どうやらこれから、ひと朝多く、白味噌仕立ての雑煮にありつける正月になりそうだ。
それはともかく、この冬は「どうして」と言いたくなるような不注意があった。物忘れの進行だろうか。まず、七草粥の日にコカブ(ラ)の種まきを忘れていたことに気付かされたが、これで終わっていなかった。なんと、例年なら11月から盛期に入り、今頃は大量に花芽を摘んでいるナバナなのに、その種まきを、今の今まで忘れていた。
しかも、この気づかされ方が情けない。畑でアイトワ菜の1次交配と思われる自然生えが花芽をつけた。これを見て、初めて気付かされた。この失念を妻に伝えたが、その反応にまたビックリさせられた。「そうでしたね」との相槌まではヨカッタが、「いいじゃないですか、リョクサイもできていますから」と来た。
リョクサイとは、播種が遅れ、結球する前に春をむかえてしまい、花芽を立てさせるハクサイのことだ。言われてみれば、ナバナとリョクサイの花芽は食感や味は似ている。だから、それでヨシと言われればそれまでだが、何かが釈然としない。第一に、こうした考え方や片づけ方は物忘れを一層加速させるのではないか。
「さてどうするか」と思案していることがある。まずはロウバイのオブジェ。この冬に初めて試みたが、「このたび限りにするか」、否かと思案している。
葉のある時期から、葉を落し、満開になる時期まで、随分多くの人に愛でていただけそうだ。それだけに選択に苦しんでいる。
それは、このたび初めて「こうしたオブジェ」がかなうほどロウバイの木が大きく育ったおかげ、であった。だから、その気になれば、今後もテラスにふくよかなロウバイの香りを漂わせることができる。だが、それは新果樹園を木陰にする。背丈をつめてロウバイのオブジェをあきらめ、新果樹園の果物を優先することになりそうだ。
シイタケの栽培を、今後も続けるか否か。これも思案している。冬子のシイタケの季節も終わり近づいた。大きくて分厚い、そして香りがよい採りたてのシイタケを焼いて、スダチを絞る。鍋の具にして、ダイダイ仕立てのタレで食す。この喜びを、これからどうするか。次のホタギを用意するか否か。思案のしどころだ。
もう1つ、思案のしどころがある。ハッピーの注連縄の是非。ハッピーは小正月まで注連縄を外さなかった。褒めていいのやら、あきれるべきか。要は関心がないわけだ。だが妻はつけたことを喜んでいる。ハッピー用を編んでいた時から喜んでいた。さて、来年は用意すべきか否か、これも思案中。
もう1つあった。膝が痛い最中にピザ釜の赤土を(知範さんと未来さんの助力で)塗り直したが、これが有効であったようだ。ツチバチが巨大な巣をこしらえなくなった。巣の数も減ったし、小さくなった。今のところ窯の土を取られた形跡はない。これも手放しで喜んでいいのか否か。
ニッポンはこれでいいのか、と思わせられることが多々あった。リーダーが不正直とか不公正、あるいは教条的になってのさばり始めたら、その組織は必ず腐る。その恐れを、このたび、1枚の年賀状と1通の封書で感じてしまい、憂鬱になった。昨年のデンマークで知った郵便事情と違い、日本のありようは何かが大きく異なっている。
わが国がデンマークよりも平均所得が多い国に、はまだしも、デンマークを超えて幸せと思う人が多い国に、を願うことは誰にでも、その気になれば可能だと思う。だが、日本は今、国を挙げて逆行する道をすすんでいるように見える。
賀状が1葉返送された。急いで、いただいた賀状を調べ、住所間違いだった(転居)と追認した。急ぎ正住所を赤ペンで記し、新たな切手を張って、投函した。だが、新たに張った切手に消印を押しただけで、そのまま再返送されて来た。新住所の書き間違いはなかった。
この(なぜこのようなことになったのかとの)不信感が冷めやらぬ間に、ある封書が返送されて来た。その理由(1円不足)を知って、先の不信感は収まった。だが、もっと深刻な不安にさいなまれてしまった。これは局員の問題ではなく、局員をそうした状況に追い込んでいる上層部の問題に違いない、と見て取った。
ちなみに、ハガキの方は、赤の「あて所に訪ね当たりませんの」印に、赤線を1本引いて再投函したところ、今のところ帰ってきていない。
昨今、郵政ではケシカラン問題を生じさせたが、その根本が透けて見えたような気分にされた。経営陣が劣化し、教条主義に陥っているに違いない。たとえが悪いが、太平洋戦争と同じではないか。上層部に原因があるのに、上が権力を傘にきて不正直や不公正を押し通し、机上判断で、下を教条的に追い込んでゆくやり方ではないか。局員のほのぼのとした人格を誘発する心遣いが欠けているに違いない。
太平洋戦争では200万人からの日本兵士を死なせたが、大半が餓死や下痢などの病死だ。それ以上に問題は、その10倍以上のアジアの人を殺させた。だが、皇軍や聖戦に送り出したと信じる家族に、生きて帰った兵士の多くは実態を話せずに死んでいる。また家族も、問い詰めて、事実の把握しようとするよう努力を怠りがちになっているて。
これと同じような心境にさせ、真綿で首を絞めるような状況に追い込んでいるのではないか。要は、福島原発の事件や、JR尼崎脱線の事件のように、上層部には責任がおよばず、多くの人を死ぬより辛い心境に追い込んでいる。
こうした事件で、多くの死者を出させたような事件の責任者が明らかにできない時は、そのあいまいな判決を許したが時の首相に責任がある、にすればよい。それは、システムに大いなる問題があるわけで、それが法に関わりがあれば、まさに首相の責任重大だ。ならば、多くの悲劇は救われて、国全体が明るくなり、放っておいても1億が総活気づくだろう。
ドイツには、軍隊にさえ(兵士に)抗命権があると聞く。多数の暴力にも近い国会審議がまかり通らせておいていいはずがない。国民を分断しかねない。国をその悲劇に陥れないために、何らかの安全弁を新設すべきではないか。
それはともかく、韓国からの旅行者だった。道ですれ違ったが、「仲良くしましょう」と言って、何かを手渡された。韓国海苔の入った小袋だった。韓国で用意して、持参したのだろう。その日の内に食べたが、血肉になったような気分になり、嬉しかった。私は、いわゆる特定の宗教には帰依しておらず、「自然の摂理」を信奉して生きている。だから、指針もなければ信じる神もない人より、何らかの宗教に帰依している人の方が理解しやすい。
幸せになるコツは、とかつて教えてくれた人があった。その第一は、他の人の幸せを喜ぶことから始まる、と教わった。日本は、その逆を行くような世の中に、自ら追い込み合わされているように見える。それが子どもにも影響し、いじめ問題を深刻にしているのではないか。その兆候は、上層部が不都合な情報を権力を行使して隠し、下層部を分断することから現れるのが常ではないか。唇寒しにされる人を増やしている。
よいTV番組があった。NHK=TVだった。ニッポンぶらり鉄道旅「かがやくロマン」を探し、だった。モダンガールに憧れる浅井なす、モダンボーイの郡修彦さんの2人が、大正時代の(氷の冷蔵庫や洗濯板を活かす)生き方に勤しんでおり、助け合って生きている。浅井なすさんはTではないか。カツヲブシを削ることから調理に係り、ヒチリンでアジの干物を焼く。郡修彦さんは…。
もちろん私はLGBTとかに関心があるわけでも、擁護者でもない。むしろ逆であったと言った方が正直だろう。しかし、未来世代に負担が少ない生き方に感心した。その生き方に幸せを見出せている2人に幸多かれ、と心惹かれた。そこに一心同体を見たのだから。それが幸せの源泉だと思う。LGBTがこうした心のつながりの源泉になるのではないか、と過日の群馬出張来考えていたので、とても嬉しかった。こうした心のつながりが環境破壊に手を染めずに済まさせる秘訣の1つだと、いずれ誰の目にも分かるようになうだろう。