月初めに「新米を賞味できそう」と喜んでいたら、夕刻に祐斎さんが、捕りたての天然アユを持参して「今晩、塩焼きで一杯を」と薦められた。今年2度目のアユに感無量。
先日、井上さんにもらった稲束を臨時のハザカケに干し、日本ハチミツと鶯宿梅の梅肉エキスで夏バテ回復剤を作り終えた時に、新米を井上さんに届けてもらえた。次いで水島さんを迎え、午後のお茶の時間に明るい未来を聞かせてもらい、「もう一仕事」とそれぞれの持ち場で頑張っていると、祐斎さんから電話があったのです。
その後も、朝焼け、2色のフヨウと2種のアイの開花、アキナスの収穫、イチジクがシーズンに、そして秋の昆虫の季節に入り、と良いことが続きました。
2日、乙佳さんに頼んであった雨戸を「方丈」にとりつけ、チョットしたドラマが。「このことか」と思いました。2カ月ほど前に知範さんから聞いた話を思い出したのです。ハウツーとマニュアルの呪縛に関する悲しい実体です。それだけに、前日の水島さんの話が輝きました。その後も日替わりトピックスのような日が続き、上旬を終えました。
ハーブがいっぱいの感激の私家本が届く。門歯の完成。知範さんと朝飯前の一仕事。裕一郎さんの来訪。長津親方を迎え、チェコへの憧れを増幅など。庭では、夏野菜の始末に手を付け、除草は主に妻が。柑橘類のシカ対策で様式変更。そして3種の害虫退治。
中旬は、雨勝ちの1日から始まりました。庭では2種のアイが満開、毎年妻がオブジェに生かすジネンジョの種が可愛い。12日は知範さん当月2度目の朝飯前の一仕事で、初使用とのディスクグラインダーも活かし、裕一郎さんの世話になった雨水タンクの設置作業に着手。その後、急に肌寒い朝を迎える日々になり、幾度か雨に恵まれた中旬に。
問題は、泉はまだしも、井戸枠水槽は底に3分の1ほどしか水が溜まっていないのに、喫茶の厨房で水害対策を要する1986年来の異常、不気味で不安。しかし、あこがれの2国からの知らせと、初めての敬老の日の贈物に元気をもらった。そして噂をすれば影の詩人、山口賀代子さんの来訪に、しばし心を癒されました。
この間に、獣害対策で新思考。シカやイノシシの移動を防ぐ扉を、3か所に設置。関電の導入電線対策の相談。ミツバチを脅すスズメバチ退治は連日のごとしで、なんだか気ぜわしい気分にさせられました。そこに、ある会社の愚かさに立腹。間違った愛社心をまかり通らせている会社があり、残念この上なしです。
だから、冬野菜の準備が遅れ気味。急ぎキュウリやゴーヤなどの支柱から解体し、畝に仕立て直し、苗を植えたり、種をまいたり、苗床をつくったり。ブロッコリーは苗を買って、白菜は苗と種を買って、ワケギは自家製の苗を、ダイコンとアイトワ菜は自家製の種で、と気ぜわしく手を打った中旬でした。着手は2週間遅れです。
多くの時間を新著の原稿に割いた当月でしたが、下旬は、長津親方が4人の同行者を伴っての再訪から始まり、来訪者に恵まれました。未来さんは2度、妻と囲炉裏場の整理、そして新案件で。PC問題で知範さん。この間に、新規の方や飛び込みの方々が。
とりわけ最後の3日は、平野さんは新しい本の表紙のデザインで。妻が、義妹たちと久しぶりに実家の墓参で何か月ぶりかの留守をした翌日は、津乃吉を引退した吉田さんの挨拶と飛び込みの千野さんとは同志の死を悼む。月末は裕一郎さんがさまざまな案件で終日。そして、亡き母の手仕事ぶりに触れたのがキッカで、これも大団円と喜びました。
~経過詳細~
未明、PCの明かりにつられた初見の小さなガがお出まし。その後、ほのかな外光に「アレッ」と思って庭に出て「これ朝焼け!?!」と東の空を。西の夕焼けと見まがう。もう秋脱炭だと、残暑を振り返る。
畑に出ると、畝の肩や畝間で自生種のマルバアイと、自生化した本アイが咲き始め、イチジクが稔っていた。次々と実り、日々幾度も賞味、あるいはジャムに、の始まり。
昼、秋のチョウが舞い始め、ヤッとホテイソウが咲き、「このジネンジョも」と思った。この庭での3種目の種。その直後に、見落としていたカラムシに気付き、急いで切り取った。この種を落させたのでは大変なことになる。
実生のフヨウを移植してヨカッタ、と思った。濃いピンクの花をつけた元の木は、木陰にされ、ついに枯れた。この隣にもう1本、今度は酔フヨウもここで、と考えた。酔フヨウも木陰にされつつあり、いつ枯れるか知れたものではない。
切り返したナスがたくさん実を付け始め、早く切り返しておいてヨカッタと思った。その初成りを2つ収穫したが「どのような調理に!」と、妻は柔らかくてみずみずしいナスに感無量。私はふと新婚当時のチョット生真面目な「対話」を振り返った。
当時は、世の中がおかしな方向に向かっているように真剣に思いつめ、人間の真の力とは? 見失ってはいけない力とは? それを見失うことが近代化? などと悩んだものだ。本来の生きる力を見失いそうで心配だった。キット今日の貧富格差の時代を予感していたのだろう。それは、ハウツーとマニュアルの呪縛に安堵させられているとはつゆ知らず、やがてはロボットに代替させる身とは気付かずに、得々とハウツーやマニュアルの奴隷になりながら、むしろ安堵している人たちに対しての不安だったのかもしれない。
その危惧の念を、脱サラしてまで処女作に取り組み見たくなったわけだが、世はバブルに(消費ブームに)酔っていた。その時は、10年後にリストラの時代を迎えるとは気が付いていなかったが、それを予感していたわけだ。「ポスト消費社会の旗手」を目指そうと、処女作で呼びかけている。仲間が捨てられる姿を見るのも嫌だし、居残れて明日は我が身日、と慄くのも辛いことだろう。
最後の勤めは10年間の短大勤めになったが、ハウツーやマニュアルの呪縛にさいなまれる若者の多さと、その呪縛の強さに慄き、その呪縛を解くことが次代への備えだが、とやきもきした。
今年は、わが家のカボチャはシカの被害で全滅。だが、ドラマが2つ生じた。まず、幾人ものグリーンサムから幾種ものカボチャを頂き、一工夫した。こうしておけば妻はキット「このカボチャは?」スープに、あるいは煮ると、揚げると、などとワクワクし、カボチャ料理の新メニューが登場するに違いない。
次いで、あきらめていたカボチャだが、トウガンの側で、自然生えのカボチャが遅ればせの実を結び、その行く末を知範さんにひとしきり話すことができた。このカボチャは、身と(下部の)種のいずれに精力を割くべきかを悩んでいるに違いない。共に中途半端になっている。
もう少し遅れて実を付けていたら、種を残すことに集中し、キット上部の身の部分への勢力を割愛していたことだろう。もっと早く実を結んでいたら、下部の種の入る部分をもっと太らせて、種を沢山結ばせかったことだろう、などと御託を並べたわけ。
それがヨカッタ。「なんと」その後、新たな1つがそのすぐそばで実を結んだ。だから再び、後のカボチャの実の気持ちになって語らせてもらった。この実は種か身か、と悩んでいる。気温がぶり返さない限り、多くの勢力を種に割き、食用部になる身(上部)には余り割かないことだろう、と話した。カボチャなりに、身を太らせるハウツーやマニュアルよりも、時候を読んだ自己防衛だろう。
先月末、井上さんに届けてもらえた稲束を臨時のハザカケで干しながら、縄文人はキット弥生人から稲束をもらったに違いないが、それをどのように脱穀したのか、とフト考えた。案外、ここに縄文の女と弥生の男の好意の交換現象が生じて、結ばれた、なんてことにもあったのではないか、との思いを馳せた。
この日の午後、今年最初の「新米!」と言って、井上さんに届けてもらえた。その後、祐斎夫人から電話。ほどなく祐斎さんが、赤いヤタガラスの軽4輪を駆って「さっき、捕ってきた」と、大きなアユを。今年は石神さんに友釣りの若アユをもらったが、打ち網で捕った子持ちアユも賞味できることになった。
新記録の早場米と、子持ちのアユを賞味できたおかげだろか、フト思い出したことがある。それは、ここまで生きながらえた感謝の念と言ってよさそう。
生涯で最初に心惹かれた医者は、中学校の校医で元軍医の安井先生。結核菌に侵されていたおかげで、寿命の話まで出来る仲になった。
その後、商社の健康保険医など2人の心惹かれた医者に恵まれたが、この3人に、私は早死の要注意を助言されている。それが、なぜか揃いも揃って「54歳」だった。「ウソの三八」とは聴いたことがあるが、54は聴いたことがない。だから、かなりの確度で覚悟したのだろう。妻にはその覚悟も迫ったうえで結婚したように思う。
月初めにこんなことがあったからだろうか、2週間後に花が届き、妻に「敬老の日じゃない」と教えられ、感無量に。電話で送り主に「匂いザクラ」だと教えられた。
「なんでこれがサクラ?」と思ったが、広縁で育てたら、月末に「なるほど」と、なった。だが臭いはない。キットこの銘々は、と推し量り、かつて流行った草花の「アッツ桜」の成功に、と勘繰った。
その後も、「なんとまぁ」と心の内で叫ぶ贈り物に恵まれた。ハーブのエピソードやきれいな写真がいっぱい詰まった私家本だった。
この感激冷めやらぬ時に、今度は見慣れた詩集が届いた。「これは、ゆっくり時間がある時に」と取り置いた。そして後日、未明からその文字を追い始め、朝食時に妻としこたまこの詩人に思いをはせた。その日の午後だった。妻の弾んだ声が受話機から流れてきた。妻が仲良しの詩人山口賀代子さんの来訪が知らされた。
後日、彼女に撮ってもらえた写真も届けられ、この光線の写真は初めてだし、妻の表情も初めて。
その後、続けざまに2通の航空便が、NZとデンマークから届いた。NZは土地の相続税などない国だが、複数の子どもに恵まれた親は、一番高価で買い求めようとする子どもに売る傾向にある、と聞いた。この価値判断は、よくわかる。その時空を最も有効に活かそうとする査証と見る智慧だろう。日本流に言えば、「たわけもの=田分け者?」を生み出さない智慧かもしれない。
国民の多くが税金を預金のように感じているデンマークからの郵便には、8マルクの切手が4枚貼ってあった。これは、私が昨年日本に向けて投函した絵はがきと同じ対価だ。32マルクと言えば600円近く。「高いなー」と思った(日本からだと110円)が、その事情を探って得心し、「当月記」で触れたように思う。
この度の封書も8マルク4枚なので「真の得心」にいたったように思った。郵便物は大きさや目方などで料金を細かく分ける時代では、最早ないだろう。郵便物には異なる価値を与えないとメールなどには勝てないし、新思考を試みず、理して競争すれば無益な労働強化などを強いかねないだろう。「なるほど」と真の得心に近づけた感じ。
水島さんは4人の娘を育てているが、次女が「お父さんの後を継いで」との意向を示したようだ。もちろん、心変わりもあるだろう。とはいえ、聴いて嬉しかった。
わが国は少子老齢化社会。新築は減り、改築などは増えるだろう。水島さんに期待してきた仕事は、その時代への備えでもあった。だが、チョット責任感にも苛まれていた。
やたら多様な道具や、釘やパテなど多様な資材を必要とする、それらを巧みに使いこなさなくてはならない仕事だったからだ。それが気になっていた私には朗報だった。
道具や資材を沢山残して死にかねない。それらを引き継ぐだけでなく、親の顧客も引きついで、顧客を安心させてほしい。対価はその安心代になる時代だと思う。
当月は、34年来初めて喫茶店厨房の冷凍冷蔵庫が、底部が水浸するという事件に見まわれて、水島さんと中尾さんの手を煩わせた。
かと思うと、井戸枠水槽の水が34年来初めて底をつき、未だに回復していない。その後雨に恵まれ、一端は満杯になったが、すぐに水位が下がり、原因がつかめていない。こんなことなら、底を張っておけばヨカッタのか。あるいはこうして異常の度に敏感になれる方が大事なのか。後者が大事に決まっている。
水島さんにはまた、シカやイノシシ対策で「これぞ」と思う新思考の工事に当たってもらった。いわば肉を切らせて骨を切るがごとしの対策だ。庭の周囲4分の1を除き、残る4分の3からの侵入を許さない作戦で、この4分の1の部分は地形などが複雑で、防御の手が極めて打ちにくい。そこから侵入されたところは、荒らされて困るほどの物はなくし、その侵入部分から残る大部分への移動ができないようにする。それがために、庭内3か所に出入り口を設け、夜分は閉じておくことにした。
乙佳さんにも世話になった。世の中には、ある人にとっては当たり前のことが、他の人には当たり前でないことは多々あるものだ。とはいえ「ここまで来ているのか」と思わざるを得ないことがあった。ハウツーやマニュアル依存症の人が増えた世の中とは承知していたが、想像を絶するようなことが生じていたようだ。
「方丈」に、台風対策の雨戸を取り付けたくなり、乙佳さんに頼んであった。「方丈」は雨戸を付けない仕様で作った木造建築だが、床まであるガラス戸が入った部分がある。ここに雨戸を取り付けたくなった。もとより戸袋を付ける試用ではないが、そこは「工夫すればよい」だけのこと、と思って乙佳さんに注文した。
もちろん、私の願いは、乙佳さんには容易に理解してもらえ、私が頭に描いた完成図は、即座に彼女の頭の中で描き直されたに違いない。乙佳さんは「アルミサッシになりますね」と応じ、それは私の思案通りだ。だけど、「戸袋」を付ける余地がないから、雨戸を使わない時は、「別途(雨戸の)収納場所がいりますね」とつぶやき、「チョッと高くつくかも」と続けた。その通りだと思う。
この発注が、ささやかな問題を生じさせた。業者の頭にはその完成図がうまく移せなかったわけだ。乙佳さんは、まず変則の鴨居(かもい)を取り付けた。
アルミサッシの業者は、ハウツーやマニュアルをマスターした(だけの、いわば毒された)若手営業員を担当に選んだのだろう、意気揚々と現場に来て、躊躇させてしまったようだ。雨戸を取り付ける仕様の建物に、寸法だけ計って取り付ければよい注文に慣れていた人には、ハウツーやマニュアルが活かせない仕事はパニック状態に陥れかねないようで、頭を抱えさせてしまったらしい。
不幸中の幸いは、乙佳さんのおかげで、業者に「そんな難しそうな仕事」とか「しかも、そんな小さな仕事」に加え、「もしクレームになったら」などと言った声を出させずに済んだことだ。オカゲでこの度、願い通り以上の完成を見た。
戸袋をもうける余地がないことや、私たち夫婦の高齢化に配慮して、雨戸が「重くなってはまずいから」となり、一般には2枚で納めるところを3枚仕立てにした。その時に乙佳さんは雨戸の収納場所が閃いた。濡れ縁の下を活かすことになった。
たったこれだけのことであったが、収納場所はもとより、雨戸の取り付け方さえ、若き営業員には思いつかなかった。おかげで、この完成を見て、ハウツーやマニュアルの呪縛から解放にされたようで、営業員はとてもニコヤカになった。
無事に取りつけ工事を終えたが、2人の担当者にも自信の幅を広げてもらえたようで、3人の誠実な青年だけでなく、私も嬉しかった●15-4。
靴でさえ、靴に足を合わせるのではなく、足に合わせた靴が大事なように、プラモデルを組みたてるがごとき家屋は、使い捨ての家屋は、これから泣かされるぞ。棲む人の顔が違うように、性格が、いわんや考え方が異なるように、住む人の身の丈に合わせ、ライフステージにあわせ、増築や改築、あるいは補修の自由が利く家屋が大事だ。
そこで思いついたことがある。それは、久しぶりに未来さんが訪ねてくれることになった時のことだ。学習の機会を提供したくなった。彼女は独立してまだ1年なので、一般施工管理技士の免許もとれていない。だから、そのウォーミングアップの一環だ。
ここで思い出すのが水島さん。こうした類のさまざまな作業を押し付けて来たが、彼には既に、それが時代の要請だと気付いてはもらえている。だが、その蓄積した適応能力や応用能力が、一代限りで終わるのはクヤシイ。このような仕事にまで、大手に手を出させたくない。またぞろハウツーやマニュアル程度で片づけるために、より巧妙な規格を考え出し、人間までより融通が利きにくい規格人間にさせてしまいかねない。
なんとかして、水島さんの次女に「お父さんの後を継ぎたい」に、なってほしい。
長勝鋸の長津親方に、今月は2度、先月から数えると3度に亘って訪ねていただけた。ある催しの相談だったが、とても楽しいエピソードを伴なった。
先月の夫人同伴の来訪時に、教え子AGUの昨品に目を留めていただき、AGUの自慢と未だ見知らぬチェコへの憧れをとくとくと述べた。親方はニッコリ。
「去年の『匠の祭典』では、チェコから参加した大工が総合優勝し、優勝旗を持って帰った」とおっしゃった。「なるほど」「さすがは」と思った。それは、古くは学生時代に聞いたチェコに対する教師の「世界1綺麗な都市」との評価、近くはAGUとチェコとの関わりから感じ取った印象。この2つと照らし合わせての「なるほど」「さすがは」だった。
チェコの職人の腕は並外れているに違いない。かのヒットラーが、パリから撤退するドイツ軍には、パリの街を破壊し尽くすことを命じたようだが、チェコの場合は違った。街にはいっさい傷を付けないように厳命した、という。それほどの街並みを生み出す腕前の職人が五万といるに違いない。いや、そうした職人を育てた国民性だろう。あのヒットラーに耐える、安全保障のごとき街並みを生み出させた国民性だろう。いやがうえにもチェコへの憧れを増幅させてしまった。
6日は3人連れでお見えになったが、とても重そうな紙袋をお持ちで、その中身はなんと3冊の分厚い書籍だった。チェコの街並み、スロバキアの田舎家、そしてチェコ国立博物館(?)の収蔵物を、それぞれ紹介する書籍とみた。親方は4度にわたってチェコに招かれておられ、持ち帰られた書籍だった。
「この(チェコもしくはプラハ)博物館を訪れる機会があれば、私の名前をお出しください」丁寧に案内されるであろう、とおっしゃる
知範さんにも見せたくて、書籍をお借りした。裕一郎さんにはアーミシュの生き方や暮らしぶりの書籍を見てもらい「一緒に出掛けたい」もの、と語り合っている。知範さんとは、案の定「チェコに一緒に出掛けたい」もの、と語り合うところとなった。
その折には是非とも農業国であるスロバキアにも足を延ばしたく思う。この2国、無理やり引っ付けられていたが、今はそれぞれ、それぞれの幸せを得ているようだ。この様子にも肌をさらし、感受したい。
かくのごとく私には2つの夢ができたわけだが、未来さんによれば、妻はどうやらコロナ騒ぎを歓迎している一面があるらしい。思えばこの1年は海外旅行を控えざるをえなくなってしまいそうだ。
裕一郎さんの世話になって、京都市の補助金がでる雨水タンクを一基設けることになった。タンクは、知範さんの世話になって、ネットで取り寄せた。
タンクは思っていたよりはるかに大きかった。そこで、「方丈」の側に設置することにした。「方丈」には、コンセントを外壁に2か所も設けておきながら、水道の蛇口を設け忘れていた。そこで方丈の側に設置して、その一帯の水やりに生かすことにして、その基礎部は、知範さんの協力を得て、こしらえた。
これが今年最後の朝飯前の一仕事と成り、妻はサンドイッチを用意した。
午後は知範さんと、カボチャ談義も楽しんだ。
後日、コンクリートが乾いたところで、私は一人で雨水タンクを載せ、樋から水を引く工事を済ませた。
月末に訪ねてもらえた裕一郎さんに、補助金申請の書類を作ってもらった。かくして、知範さんと裕一郎さんが関わった記念品が1つ増えたことになる。この日の昼も、妻はサンドイッチを用意した。
久しぶりに未来さんを迎えることになり、妻は懸案だった囲炉裏場の片づけに取り組むことにした。だから前日の内に、山のような剪定クズを私が1人でさばき、焚火で燃やす分と、薪にする部分を鋸と鉈で切り分けて置いた。翌日、女性2人が焚火に取り組んだ。妻は若い頃通りのペースで頑張作り、未来さんを導いたのだろう、2時足らずで燃やし切った。だが「歳は争えないなァ」とこの写真を見て思った。でもこのプレッシャ―が、体力を維持させ、ボケ防止になるはずだ。
この間に、間違った愛社心をまかり通らせている会社の愚かさ(?)に立腹し、愛想を付かしながら、遅れぎみの冬野菜の準備に当たった。キュウリやゴーヤなどの支柱を次々と解体し、畝に仕立て直し、苗を植えたり、種をまいたり、苗床をつくったり、と動いた。ブロッコリーは苗を買って、白菜は苗と種を買って、ワケギは自家製の苗を、ダイコンとアイトワ菜は自家製の種で、と気ぜわしく手を打ち始めた。
柑橘類のシカ対策のスタイルも変えた。これまでは夜に袋をスッポリ被せ、昼間はめくり取るスタイルだったが、背が伸びたので、4方を囲んで頭部を出すスタイルに替えた。これで毎日被せたりめくったりする作業は不要になった。
日本ミツバチが元気だ。夜明けとともに出入り口部に陽が射し、嬉しそうだ。昼間は働きバチが終始飛びたって行ったり、帰還したりと元気に動いている。それに連れて、黄色(小型)スズメバチが盛んに出撃して来るので目が離せない。「さっき3匹」とか「私は2匹」と妻と捕獲数を競い、その都度喜びあっている。
多くの時間を新著の作業に割いた1カ月だったが、最後の3日間を、これも大団円と喜んだり、考え込まされたりした。喜んだ方は、平野さん、吉田さん、そして裕一郎さんに加え、中日の29日にヒョッコリ訪ねたもらえた千野さんの来訪であり、後者は長年付き合った農業関連カタログ販売会社を見限る決断だった。
喜んだ方は、亡き母が愛用したアイロン台を目の当たりにすることから始まった。妻が仕舞い込もうとしていたが、それは毎年棚経の前日に取り出し、野菜籠やスイカをのせてきた。母が手作りの品で、脚は廃物利用だろう。
この日は平野さんを迎え、新著の表紙に妻の人形を活かす案のイメージを確認した。妻は、平野さんの狙いを得心したくて、仮の撮影に臨んだ。
翌火曜日、妻は墓参に出かけることになったが、吉田さんとの約束があった。彼は仕事を完全に息子夫婦と奥さんに譲っていた。その上で、一人熊本に戻り、ペーターカーメンチントのごとき郷愁に浸るという。かつての水俣湾近くの小さな家に住み、狭い部屋に客を招き入れ、家族の食事を分け合って歓談した幼き日の夜などを懐かしむ。
海で魚を捕り、海岸で海藻を拾い、迫りくる小山で木切れを拾い、母の帰りを待って夕餉の用意をした日々も懐かしんだ。その間に父を水俣病で失っており、その後母も水俣病で失ってしまった。解剖されたその脳は、鉛のようであったとか。
彼は、バラの花びらを活かし、手作りしたという菓子を持参、賞味させてもらった。これでしばしの別れになりそうだが、何よりの手土産だった。
午後、千野さんに立ち寄ってもらえた。彼は70年安保の闘士であったようで、チョット長話をした。だがこの日は、妻が帰宅する前に仕上げておきたい一仕事があった。3日前から準備に入り、朽ちたポールを取り替え、喫茶店の道標を補修した。
こうした合間に、冬野菜の補充に勤しんだ。チマサンチェは義妹にもらった苗で、ニンジン、コカブ、紅芯ダイコンなどは種を買い求めて、加えて混合レタスとハクサイの種を苗床にまいた。これでひとまず手を打ち終えたかたち。
あるカタログ会社から、ハガキが届いた。冬野菜の種と汚水用排水ポンプを注文したのが災いし、3週間も遅れてしまったわけだが、その理由に私はアキレ果てた。露地栽培の種のマキ時で言えば、3週間は致命的だ。
6株の苗から育てることになったハクサイは巻くかもしれないが、種からの分は、結球せずに「わが家のリョクサイ」と、妻にまた冷やかされることになりそうだ。
クレームの応対に出た担当者は、私の「なぜ1本電話をくださらなかったのか」に対して、会社の経費節減方針を理由に挙げた。私は長年付き合ってきた会社だから「何とかこの会社を」と願ったのだが、クレーム対応は「私の段階で処理することになっている」と言い張って、防戦体制に入られてしまい、この会社を見限った。
これは私の考え方とまるで逆だ。その昔、再就職したアパレル会社で、のっぴきならない立場に追い詰められ、編み出した策とはまるで逆さまだ。まだこのような会社があったのか、と驚かされた。
再就職した会社の社長は、年商と経常利益の倍増と国際化をはたすことが夢と語り、「手伝ってほしい」と誘って下さった。私は心打たれ、その要員の一人となったつもりだが、入ってみると、社長室長の席が用意されており、のっぴきならなくなった。
そこで、クレーム対応総責任者の任を、と進み出ると、誰しもが嫌がっていたようで、即決だった。だが「こいつ、アホと違うか」といった顔の役員もいた。
私にすれば、大漏らさずクレームを一元管理して、消費者の心を細大漏らさず受けとめて、消費者の心を拾い、時にはたしなめながら背にすれば、ワンマン社長といえども対で渡り合えそう、と読んでの苦渋の決断だった。願いは的中し、会社には弾みがつき、夢は8年後にかなえられた。
このカタログ会社は、クレームを前線で阻むのが忠犬かのごとくのようで、阻まれた。苦渋の決断を迫られた当時を思い出し、なぜか悔しい思いがこみ上げた。だがすぐに、この会社もいずれは気付くだろう、と思い直した。