長雨が続いた先月とは一転、日々炎天が続き、キノコがかわいそうでした。夜の暑苦しさも一際で、この20年来初めての異常なことや異常事態が次々と生じる1カ月になりました。しかし、予期せぬ嬉しい大団円が、2度あることは3度ある、のごとく待ち受けていたのです。
長梅雨がやっと明けたと思われた1日、4時半からヒグラシが鳴き、日中はアブラゼミとクマゼミがうるさいほど。ついにニイニイゼミの声を聴かず、ミヤマカワトンボとイトトンボが舞い始めました。朝飯前の一仕事は、草刈りに始まりエビネランの手入れなど。夕は、カラムシの制御から始め、今年最初の夏野菜、第1次のトマトの始末で暮れました。
その後も好天続きでしたが、5日にある嬉しい集いがあり、その準備のために頭がさえた早朝を活かし、連日朝飯前の一仕事とはゆきませんでした。実は、大勢の仲間に支えられて、私にとっては初めての編・著者の役を賜わる機会を得たのです。その顔合わせが編集会議のごとし、になり、「三蜜だ」と自嘲し、妻には「空気を入れ替えましょう」と促される始末。『次の生き方』パートⅡが誕生する運びとなったわけです。
82歳になった日にナスの切り返しに取り組んでいると嬉しい贈物。元気をもらった私は、夕に枝垂れザクラの下枝の切り取り、第1次インゲンマメの支柱を解体。妻は囲炉裏場の整理。夜に、妻はラッキョや青いトマトはピクルスに。私は今年最後のドクダミを刻みでした。
9日は、ある再会に感激し、10日は後藤さんを招き、共に元気を愛であいました。
中旬は、桑原さんの立ち寄り、裕一郎さんのいわば巣立ち、そして知範さんと初の朝飯前の一仕事がトピックスの日々がありながら、この間に忘れ難い26時間に恵まれたのでます。それは12日の5時10分、ツクツクボーシの初鳴きで目覚め、朝飯前のハードな一仕事。この夏初の昼寝。その後は書斎。夜は熟睡中に雨に恵まれ、翌朝は庭の草木が大喜び。私は初めてお盆の墓掃除に参加し、今後はわが歳時記に組み込みたいと願った7時10分までのことです。
中旬は他に、第3次のキュウリとトマトの支柱立て。第1次のインゲンマメとキュウリを始末して冬野菜の畝に仕立て直し。フェイジョアやブラックベリーの手入れなど。さらに、妻が裏庭で草刈りに手を付けたので、私はシイタケコーナの手入れ、とハッスルでした。
下旬は、連日の日照りとカラカラの庭で、第3次のキュウリとトウガラシに初めて遮光ネットを被せました。夏野菜の支柱を1つ、また一つと解体し、次々と冬野菜の畝への仕立て直しが続いています。「切り返したナスに期待」と、私が叫ぶと、妻は「キュウリが4本も採れました」と返事。ついに、シカクマメは発芽せず、全滅。カボチャコーナーは獣害フェンスを閉め忘れ、シカの食害で全滅。夏野菜の多様な(異常な高温、不順な雨、野生動物の食害や虫害などで)育てにくさは一際。日本の、いや地球の行く先が心配なほどです。
19日、裕一郎さんの指導でZOOMを実用。22日、前歯がポロッ。26日、井上さんが「早生ですヮ」と、ヒョッコリ来訪。28日、知範さんと2度目の朝飯前の一仕事。この間の25日に不気味なことが生じました。井戸枠水槽の水位が気になり、覗いてビックリ。20年来初めて生じた異常事態発生です。この機に、と2日がかりで妻と50㎝も溜まっていた泥を取り除き、畑の客土に生かしました。翌朝、知範さんを見送った後、待望の雨に恵まれたのです。
世間はコロナで心配だけど、私たちには有意義な1カ月になったと喜んでいた矢先でした。水俣の知友に友人連れで立ち寄ってもらえ、旧交を温めることが出来たのです。さらに翌日、長勝鋸の親方ご夫妻に訪ねていただけ、しばし歓談。まさに大団円でした。
~経過詳細~
雨続きの先月から一転して日照り続きの日々が始まり、まず庭のキノコがかわいそうと、干上ったキノコに同情すること盛ん、の上旬だった。
マツバボタンが咲き誇り、ブルーベリーの実を摘みとる最盛期であり、タカサゴユリ、タカサゴムクゲ、ミツバチが好むタラの白い花、あるいは単のチュウゴクホウセンカが咲く盛夏に入った。
畑ではトウガンをアーチで育てた関係で、実が順調に育つように、とツルの補強と整枝。次いでバジルの畝の除草。庭では鉢で育てた中国ホウセンカをカフェテラスに移動させ、その後は妻の柏手まで草刈り。当月最初の朝飯前の一仕事は順調に始まり、ほどなく朝食の合図があった。
アイトワでは野草にも、随分時間と勢力を割いており、それなりの工夫と努力を傾けて付き合ってきた。もし私たち夫婦が長生きができた上に、ピンピンコロリの往生を果果たせ、その秘訣はと問われたら、野草との付き合い方をその1つに挙げるだろう。
カラムシはその典型の1種で、長年にわたって「増やさず、減らさず」のグループの代表として扱ってきた。
この草は、縄文時代の人たちが衣服の素材として重宝した草だし、わが家ではもう一種のヤブマオと共に、適度な制御をしながら自生させ続けてきたイラクサル科の草だ。身勝手なもので、庭から減りつつあるハンゲショウの花穂は残す。
いざという時は、これらの草で衣服を作ればよい、と思えば楽しくなるし、そうしなくてもよい人生で終われば、それはそれで「便利な世に生まれ合わせたもの」と人一倍便利さを実感できそうだ。「これが当たり前」とか、いわんや「お金さえ出せば買える」との依存症には気を付けたい。だからこの2種を、わが家では食材にも生かしており、毎年1度か2度はこの新芽を摘んで、ベーコン巻きにするなどアスパラガスの代わりをさせる。これは、シカが好んで食べるので試み、妻が思い付いたメニュー。もちろん子どもが遊びに来たときは、この葉で「ポン」と大きな音を立てる芸をしてみせ、驚かせる。それだけに、この度も種を振りまかせないために花穂を丁寧に摘みとる作業に励んだ。
わが家では、野草をかように「生活に組み込んでいる」草と、「増えてもらっては困る」草に2分している。前者の代表は、七草粥に始まり、フキノトウ茶漬け、あるいは草餅などと、わが家の歳時記にも用いる食用の草である。次いで、オオバやミントなどの香辛料や、ドクダミが代表する薬草として活かす草。さらに、お節料理を重詰めにする時などに用いるハランなどが含まれる。もちろん野草はこのように酔狂程度の活かし方で、依存率は低い。
だが、食用や薬用になる草に囲まれて生きていると、なぜか遺伝子が落ち着きそうな気分にされる。だから、「いざっ」という時のために、予行演習的な活かし方を怠らずに続けており、幾種かは意識的にはびこらせている。ミツバ、シュクコンソバ、セリ、あるいはタンポポなどを庭のあちらこちらで茂らせている。妻は私より10歳も若く、「ゴロッ」と私がお陀仏した時用の野菜と見ての備えだ。この心掛けは、幼児期に敗戦後を体験した賜物だ。
「増えてもらっては困る」草の典型は「目の敵」のごとく、見つけると抜き去るグループだ。抜き去るゆとりがなくとも、種を結びかけているのを見かけたら、その穂だけでも取り去るようにしている。厄介なのはカラスビシャクなど球根で増える草だ。
これはいちいちシャベルで掘り出さないといけないが、いつも手を付けると、青春時代を振り返らせてくれる。あるとき「ここにも」「あそこにも」と躍起になって掘り出したが、ふとニキビ取りに夢中になった時を思い出し、懐かしんだからだ。
問題は、この中間に位置する草が大部分を占めていることだ。だが、これも2つのグループに分けてきた。数は少ないが、カラムシだけでなく七草粥に用いる1種、ナズナもその代表格で、「増やさず、減らさず」のグループである。
ナズナの別称はペンペングサで、とても繁殖力が強く、一度は絶やすまで減らしてしまったことがある。ある春先に「さあ大変」と気付かされ、再生するのに数年を要した。その時から「増やさず、減らさず」のグループの一種に数え、気を払うようになった。
それらの他の多くの野草は、庭のどこかで残そうとしている。それは「この草を唯一の、あるいは主要な宿主とする虫がいるかもしれない」とおもんばかってのことだ。こういえば聞こえがよいが、要は勉強不足に過ぎない。オオバコのように、ある日を境にして意識が一転、なんてことが起こりかねない、と思ってのことだ。
オオバコは薬草とは知っているが、わが家では活かしていない。だがある時、ある人から「シャゼンソウ」との別名を教わった。その訳を聞いた時に、なぜか小野小町と深草少将に思いを馳せており、特別の野草になった。そのころから私は、雑草という総称を用いなくなったが、あの吉田さんは今頃、いかにお過ごしか。
オオバコの種はヒッツキムシの一種で、粘着性があり、道行く人の履物や衣服にヒッツキ、種を運ばせる。だから、小野小町と深草少将を結んでいた道は、いつしかオオバコの道になっていたに違いない。少将は牛車の「車前」に続くこの草の道を見つめながら、心をときめかせたり、落ち込んだりしていたことだろう。
「この草を唯一の」の例でいえば、私にも幾種か分かっている草木がある。フジバカマの花が咲けば、必ずと言っていいほど、その時だけアサキマダラが飛んでくる。フヨウが茂ると、必ずこのトラ縞のイモムシが沸き出すがごとくに現れる。
最も増えてほしくない野草はヒッツキムシ類だ。この夏もイノコズチ(?)を2か所で見つけ、即刻抜いた。だが、宿根草で根がしぶとく、簡単には抜けない。いつの日にか根を掘り起こし、捨て去りたい。それとも、「ニキビ、ニキビ」と躍起になるほどまでに、もう一度増やさせてみるか。
ゴボウの種もヒッツキムシの典型だ。だが、わが家では自生化させている関係で、毎年のごとく衣服につけ、酷い目に合わされるが、やや大目に見ている。それは、自生化したゴボウの根の香りのよさに心引かれており、毎年種を振りまくまで残している。
香りのよさで言えば、オオバが最右翼だ。この夏も、後藤さんに声をかけ、2度に分けてオオバを持ち帰ってもらえた。奥さんは後藤さんの母ゆずりで、オオバを活かして「ふりかけ」を作る名人である。わが家もその作り方を教わった。
その奥さんが半身に不自由を覚える病に悩んでいたが、裕一郎さんのおかげで積極的に声をかけることが出来た。1度目はチョット控えめに、それがリハビリの励みになったと知って、2度目は沢山持て返ってもらえた。
ちなみに、後藤さんが首にかけている小道具は扇風機で、夏場の庭掃除に重宝するとか。たかってくるカやブヨを吹き飛ばしてしまうと聞き、写真に収まってもらった。
この夏はまだ、オニメンスズメガの食欲旺盛で大きな幼虫をまだ見ていない。クマゼミも進出してきて久しいが、アイトワの庭ではまだその抜け殻を目にしない。
虫も草と同様に、様々な理由でグループ分けしている。とても困らされるグループは2つある。痛い目や痒い目に合わせるグループと、野菜や樹木を食害で困らされるグループである。共に目の敵にしているが、これはとうてい絶やすことはできそうにないし、小鳥やハチの食糧でもあろうから、とほどほどにつき合っている。そう遠くない将来、人間は虫を主要なたんぱく源にしなければならなくなるようだが、まだ食用や薬用には活かしていない。
ハチにはしばしば痛い目に合わされてきたが、スズメバチやアシナガバチだけでなく、よほどのことがない限りハチ類は殺さないことにしている。ハチは肉食が多いから、ケムシ退治におおいに貢献しているはず、と見てのことだ。とはいえ、すでに今年もスズメバチを3匹殺した。それは、ミツバチの巣箱に近づき、威嚇していたからだ。
この夏は目の敵にしている3種の虫とかなり熱心に対峙した。まずイラガの幼虫。刺されると「熱い」と叫んでしまう激痛を伴う。昨年はクヌギで最初に見つけたが、この夏はクボガキにわいたことに妻が、その食害で気付いた。まだ年の頃ならローティーンだったので、「シメタ」と思い、目についた分は退治した。ローティーンの間は群生している。
次いでカメムシの一種。何年か前にトウガラシで初めてこのムシが発生しており、その臭いでカメムシだと分かった。この夏もトウガラシで発見したが、他に、ナスとホオズキにもつくこと知った。触るとポトポト落ちて逃げる癖を逆用し、容器に受けて捕ることを思いついた。次いで、水に弱いことに気付かされ、容器に入れた水の上に落せばはい上がる力に欠けており、蓋でもしておけば悪臭に苛まれずに、退治しやすいことを知った。この虫取りが早朝1番の仕事になった。この虫は、年に一回発生して卵で越冬して子孫を残すタイプではなく、一夏の間に何回も繁殖を繰り返すタイプのようで、厄介このうえない。
次いで現れるのがスモモに群生するケムシの幼虫だが、この発見と退治はいつも妻が受け持つ。この夏は、昨年の努力が功を奏したようで発生数が少なそうだ。今年は裕一郎さんがいる時に妻が小さな幼虫を見つけ、「よく目につきますね」と彼を感心させたようだ。
それにしても、今年のブヨなどの発生数の多さには驚かされる。少々の虫刺されは、免疫力をつけ、健康のために良いと見て、容認してきた。事実、今や大きく張れるようなことはなくなったが、このたびは妻に「馬鹿ね」と笑われた。また、虫もるさくて仕方がないから、ミツバチを飼い始めた時に用意した防虫ネットをかぶり始めた。
顔合わせが編集会議のごとし
何か月か前に『桜沢如一 100年の軌跡』や『穴太(あのう)の石組』などの著作を岡田さんに紹介され、この著者・平野さんが『手のひらの宇宙・食と農と里山』『食と農と里山』あるいは『あの世へ行く準備』などを手掛けた小さな出版社を営むことも知った。
その後、予期せぬ方向に話しが進み、私にとっては初めての編・著者の役を賜わることになった。
実は、その話なら「むしろ阿部ファミリーを」と勧めたことから、その方向が浮かび上がることになった。早速6つの目(岡田、平野、そして私の3対)をひっさげて旅に出て、その道中でもう2つ、小木曽さんの1対が加わり、8つの目で6月中旬に、阿部ファミリーと会食し、お宅を訪ねた。期待した通りに、皆さんに即座に私の意を理解してもらえた。
そこから話は急展開、私が編・著者となって一著を、になった。もちろん私が「他にも多様な方たちが」と紹介し、身近に尋ねられる人や仕事場をおとずれて、のことだ。
そこで、希望者に、顔合わせの機会を、と目論んだが、なんと出席者が多くなり、意見交換会で終わらずに、まるで編集会議のごとし、になった。
暑い最中だし、コロナ騒ぎも心配だからと、まずはご到着者に三々五々、フルーツポンチで体を冷やしていただき、その上で三蜜にならない大きな部屋へ移動していただく計画を立てていた。ところが、気付いた時はすでに遅し、「三蜜だ」と、私が叫んでいた。
即刻広い部屋に移動。全員発言の楽しい時間になった。その途中で、茶を運んだ妻が「空気を入れ替えて下さい」と叫ぶ始末。ここで2度目のドッと沸き上がった笑い声。
実は、前夜になって「本当に、東京からお訪ねしてもいいんですか」と問い合わせて来た門村さんが発言中だった。コロナ問題を、都市問題の一環として捉えている私としては、被害者を加害者かのような心境にしかねない風潮と、それを許している国の姿勢に疑問を抱いている。だから独断で、どうぞ、となった次第。
その風潮や国の姿勢が、地方を縮み上らせ、戦時中のごとき「非国民」や「国賊」呼ばわりをさせたり、されまいかと怯えさせたりしているように思われて、残念だ。
ウイルスは私たちの一部だし、共生の関係だ。たまに鬼児のようなのが現れるが、対峙の仕方が間違っているように思う。その鬼児の発生率を、工業文明は飛躍的に増やしている、との自覚がまず必要ではないか。
それはともかく、幸か不幸か、その後3週間以上の経過を見たが、クラスター問題には関係せずに済んだようだ。
嬉しくてありがたい贈物や、「これぞ」と、ばかりに微笑んだ食べ物にも恵まれた。
まず、この時期の天からの贈り物は、ハナオクラが咲き始めること。オクラ、と共にハナオクラの収穫が3日から始まり、その朝餉から盛夏のスタミナ源であり、わが家の歳時記でもある「ねばねば四君子」がご登場。2度に1度ぐらい、私がこぼさないように気を付けて、しっかり練っている。
先月の大雨による母屋の雨漏りで、乙佳さんの世話になって母屋の屋根と、天井などを修繕した。おかげで嬉しいことが4つあった。まず、炎天下の屋根での作業は苦行だろう、と思ったが、職人さんの扇風機付きのジャケットを見て、まず安堵。
次いで、屋根屋さんの親方の提案に感心した。それは、板金屋さんの工事の仕上げ時に、環境変化に即した提案をしてもらえたことだ。昔は、銅板を張っておけば、やがて緑青(りょくしょう)が生じて銅屋根をガードし、丈夫な屋根になったものだ。そうと期待して、わが家ではわざわざ緑青加工した銅板を張ったが、裏目に出た。酸性雨などが降るようになって、様子がスッカリ変わった。このたびは、カラートタンを用いて、雨が強く当たる部分には銅板をガードする手も打てた。
大工さんにも感心した。天井板が、雨漏れと、合板であったせいで、張り替えなくてはならなくなっていた。だから覚悟していたが、「糊で張ってみます」と大工さんの提案。私は大喜び。省資源だし、第一、ごみを出さなくて済む。しかも、安上がりだった。だが、私は、格好いいことを言うようだが、安かったことを手放しでは喜んでいない。
この話は今後、とても大事な課題になると思う。だが、この説明はチョッとややこしくなる。要は、GNPやGDP、あるいは売上金額の多寡ではなく、地球や未来世代への負担をいかに減らし、それでいて胸を張れる実収入をいかに増やすか、が問われるようになる。この想いに駆られてヨカッタ、と今も思う何年か前の事例に触れたい。
いつしか私は、夕食の後で居眠りが出始めた。それを心配した妻が、ひじ掛けのある椅子に替えましょう、と言い出した。「いつか落っこちて、怪我をしますよ」と。
家具屋を回り、家具職人の意見も聴いた。既存の家具と調和しそうな新品のひじ掛け椅子を見つけた。だが、60年間使ってきた椅子にひじ掛けを付ける加工が、ほぼ同じ対価だと分かった。躊躇なく私は、職人さんにひじ掛けを付けてもらうことにした。
加工に要した対価の大部分は人件費だ。しかも、省資源だし、第一にごみを出さなくて済む。それが判断基準だった。おかげで、私は世界に2つとない椅子で居眠りが出来ることになった。さらに、このテーブルセットが、私の生涯に相応しい品、と思って買った若かりし頃の想いや、当時のつつましやかな社会情勢も思い出しやすい。
これが当たり前の価値観や美意識にならないと、この異常気象や、感染症問題も克服できない、といずれ明らかになるに違いないのだから。実は、この度は、この価値観や美意識を半年にわたって語り合った講義仲間3人が関わった作業だし、お二人は今や引く手あまたになっているのが嬉しい。
美味にも恵まれた。友釣りで「自分で捕りました」と、生きた鮎を頂いた。骨を抜いて食しながら、天然の味と香りも満喫した。頭と骨はハッピーがお相伴。
ハッピーは、裕一郎さんのおかげで、わが家に居つくことになった。彼について行ってもらって妻はハッピーを散歩に連れ出し、安全な時間とコースを見定めたようだ。慌てん坊のハッピーに、急に引っ張られたりしなければ、大丈夫らしい。
7日に、最初の荷物が届いた。開けて見て「もう5年目か」と思った。晩婚だったお二人が、アイトワで披露宴を開かれたが、幸せのお裾分け、と感謝している。いつもどこでお探しか、と感心する本を贈って下さる。このたびは寝転んで、ペイジごとにひっくり返しながら、一気に読んだ。お二人の、連名の手紙が添えられていた。
このありがたみは翌日へと続いた。屋根職人さんの扇風機付きのジャケットを見て安心した私だが、当日に着いた荷を開きまずそのジャケットが目に飛び込んできた。他に、この暑さを乗り切ってください、との手紙が着いた様々なクーリングデバイスに恵まれた。ジンベイザメは、口の中に手を突っ込むとヒンヤリするが、妻にとられてしまった。
裕一郎さんの手を借りて早速試着。次いで、炎天下で試みて「なるほど」と思った。ジャケットと体の間に分厚い空気の層が出来て、それがとても快適。その報告を、と居間にもどったが、妻がその様子を盗み撮りしていたことを知った。
実は今年、私のたった一晩の不用心と、シカの皆勤賞が重なって、カボチャが全滅となった。ありがたいことがあるものだ、と思った。妻の生徒さんの中に、日曜菜園に勤しまれる人が多いようで、カボチャを沢山いただいた。その中に1つ、キット妻が先に手を出したに違いない、とも思うカボチャがあった。
この夏は、長雨が続いた後の日照りと雨不足で、野菜はサッパリだった。ナスはまともな実を採る前に切り返し、秋ナスに備えた。乾燥に強いトマトさえ葉が巻いたし、インゲンマメやモロッコマメなど蔓性の豆は大不作。2次分は収穫前に葉が巻いてしまった。余りにも悔しいので、3cmにも満たない小さな実も収穫した上で、堆肥にした。それを、翌朝妻は朝餉に活かした。
「流石は!」と思ったのはノアのシュークリームだった。義妹は西日本に娘を連れて出かける用があり、帰途赤穂でノアに立ち寄ったらしい。「最後の1つだったけど」といって、未賞味だった私のために持ち帰ってくれた。まず、そのズシッとくるシュークリームに期待を膨らませたが、味や香りは期待以上だった。妻は「ミニの方で充分」と遠慮したが「お味は同じ」と、ノアを訪れたときのを思い出していた。
日照りの下で、ヘクソカズラやジネンジョなど蔓性の野草が咲き始めた。とりわけヘクソカズラの花を見ると、その匂いのセイだろうが、いつも「可愛い花なのに、気の毒な名前だ」と思う。そしてこれらの花が咲き始めると、よく亡き母を思い出す。
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妻も同じことを思い出したようで、母が生きていたら「何度も同じことを聞かされたでしょうね」とつぶやいた。「この暑さ、この夏は越せん」が盛夏での口癖だった。
それは、お盆の墓掃除に出かけた早朝のことだ。この度、初めて妻は夜明けとともに出かけることにして、私を誘った。墓掃除と言えば、私は周回忌に何度か行った記憶がある程度で、お盆の墓掃除は初めてだった。誰もいない墓地は涼しげで気持ちがよかったが、「これは大変」と思った。夏草がビッシリ生えていたからだ。
妻にとっては、父、あるいは母と言えば、私の両親のことらしい。「ご実家の」と質し直されて初めて「そうだ、私にも」と思い始めるらしい。それはそうだろう、毎日毎日30年以上にわたって、とりわけ当初は緊張気味に顔を突き合わせていたのだし、2人の世話は何もかも妻に任せていたのだから。だから両親は共に、私よりも妻をあてにしていた。とはいえ、四半世紀にわたって墓を一人で守り、とりわけ真夏の掃除は大変だったろうな、と思った。
一陣の風が吹いた。チョッとしたそよ風だったが、妻は母のもう1つの口癖、「地獄の余り風」を口にした。「極楽の」ではなく、「地獄の」であっただけに、そよ風を余計にありがたく感じたものだ。2人で草を黙々と抜き、水運びや、抜いた草を捨てるのは私が受け持ち、妻が墓石の掃除や、買い求めたキクなどに庭のシュウカイドウ、タカサゴユリ、あるいはホオズキなどを添えて生ける役を引き受けた。
父は庭の花を好み、母は花屋で買わないと気が済まない人だったことを思い出し、今後はこの2時間弱の勤めをわが歳時記に組み込みたい、と思った。私は勤め先が遠方だったし、妻もこうした手間暇に私をあまり関わらさなかった。それに甘えたわけではないが、なぜか参加せずに済ませてきた。
棚経の朝は、このたび初めて膝を崩した。右ひざの不具合が収まっていない。僧侶によれば、最後に「疫病封じの経」も添えてもらえたようだ。
仏壇にも、買った花に庭の花が添えられていた。お供えの籠は、残念なことに、トマト、ゴーヤ、そしてオクラの他は、すべて買い求めた代物だった。それだけに、妻が用意したこのたびの御膳料理が余計にありがたく思われた。
僧侶を見送って間なしに裕一郎さんを予定通りに迎えた。裕一郎さんはわが家に逗留中に妻をめとり、入籍していた。だから、月の初め頃から新居を基点に替えた。だがこの日、裕一郎さんの指導で、初めてZOOMで獣害監視カメラを刷新する交渉に当たることになっていたので、迎えた。
だから、朝食の用意を妻は例年とは変えた。例年は御膳料理に活かせる朝食を用意し、2人で食したが、このたびは裕一郎さんと私には洋食を用意した。妻は仏壇から引いたママゴトのような御膳で済ませた。なぜ妻がそうしたのか、聞かなかったが、私には印象深いお盆になった。裕一郎さんは洋食好き、と見たのか、ハナオクラを裕一郎さんに試してもらいたかったかの何れかだろう。いつにないハナオクラの活かし方をした。
知範さん参加の朝飯前の2時間余は、17日の5時からだった。まず公道前のカシの生け垣の隙間ができた部分を、ヒサカキの苗木で補充、に始まり、8本ばかりの傾いたシホウチクの切り取り、最後はブルーベリーガーデンに一株追加、で終えた。その後、テラスでの朝食と歓談を楽しんだ。
この日は、最後に干したドクダミがそのままになっていたので、休む前に刻んだ。それはこの日、私が掘り出してあった4年物のラッキョウを妻が漬けたことを知ってのことだった。トマトの第1次分の支柱解体時に採った青トマトは、既に青い実だけピクルスにした。今年は裕一郎さんのおかげで随分ドクダミを収穫できた。
当月最初の昼寝から目覚めた時のこと。ふと「今月は」野球の完全試合ではないが、「コロナ騒ぎのおかげで、ついに達成できそうだ」と、思い始めたことがあった。広縁に寝転がっての昼ねだったが、「これがハッピーの目線か」と、新発見でもしたかのような気分。覆いかぶさってくるかのようなスモモの枝ぶりを写真に収めたくなった。
やおら起き上がり、カレンダーを手に座椅子に陣取り、下旬の予定が真っ白であったことを確かめた。外出予定なし、財布に触れる機会もない1カ月を体験できそうだ、と新記録達成に思いを馳せた。それにしても、わが庭宇宙で色々なことが生じたなぁ、と振り返り始めた。
まず、あれは失礼なことをしたなぁ、と恥じた。内線で妻に「学生さんの頃に、インタビューで見えたことがある、とおっしゃる方が」と知らされた。降りてゆき、思わず「やー」と叫んだ時のことだ。「今日はパートナーと」と、素敵な同伴者を紹介された。今は研究者として京大に残っておられるご様子と知った。だから、婚約者か、それとも研究上のパートナーか、と躊躇してしまい、失礼なことをしてしまったなぁ。
縁先に目を戻すと、ハッピーが背伸びをしながらこちらを見ていた。なぜかふと、この日の朝飯前の一仕事が、その草が通せんぼをしていた。戻ってきた妻を立ち止まらせ、「チョット待った」とパチリ。
その日の夕食時だった。奇妙な感触を覚え、注意深く異物を取り出すと、欠けた歯で、前歯の一部と分かった。「明日は土曜日、松井さんは?」と妻。「確か午前中は診療だ」
翌朝、9時を待って歯科医に電話を入れると「今から来て、お待ちいただけませんか」との返事をもらえた。結果、義歯を選んだ。私は失念していたが「4カ月ほど前に」一度欠いており、プラスチックで補填していたことを知った。それが「5年ほど前」のことだったら、「もう一度補填で」を選んだが、10年ほど生きていたくなっており、義歯を選んだ。
妻に車で迎えてもらう間に、完全試合のようなことを意識したのがマズかったのかも、と思った。ついに、財布に触れてしまったし、近くとはいえ外出もした。
当月は12日夜間の雨以来、来る日も来る日も炎天が続いた。そのせいだろうが、その後に、この夏をもって意識を入れ替えざるを得ないことが2つも生じていた。
まず畑で、飲料水(水道水)をいつでも撒けるように、長いゴムホースを常備した。とりわけ、切り返したナスに給水し、なんとしても秋ナスを味わいたい、と願ったことがキッカケだった。これまでは、原則として、庭では飲料水を直接用いないことにしていた。喫茶店のテラスでさえ、鉢植えにやる水は、水槽の水替えをした水を用いるようにしている。
2つ目は、居宅で(寝室で、だが)冷房を使い始めた。「なんと」ありがたいこと、と思った。だから、早朝に1度目覚める私に、1つの役割が出来た。冷房を切り、北と南の窓を開け、扇風機を付けて、涼しい外気を流し込む役目。緑の外気のありがたみを実感する。
居間など他の部屋には導入できておらず、扇風機で過ごしている。だからこの夏から、昼食後の(4時の)お茶の時間まで、私も書斎に非難。連日冷房設備を活かし始めた。去年までは、書斎に避難しても、扇風機で済ませることが多かった。
なぜならこれまでは、適度な汗を夏にかいておくことが、風邪を引きにくい体質にする秘訣、と思っていたからだ。さてどうしたものか、「歳のセイ」や「年は取りたくないな」では片付かないことが生じている。
ついに、炎天続きの25日、文字通り仰天することが生じた。井戸枠水槽の水位が「どこまで下がいるか」と覗き込み、ギョッ。干上がっていた。実は、棲まわせていたキンギョをサギに捕られてしまったので、幾日も餌やりに行っておらず、油断していた。
昨年以前は40cm以上水位が下がったことはなかった。だから昨夏、それ以上に下がった時に驚かされた。だが、まだ心にゆとりがあった。「枯れることはない」と信じていたからだ。常時、キンギョが健在に生きておれる水が1トン以上もあったわけだ。だから、ろ過装置をいつでも作れる用意をしている。その水を煮沸する薪は十分すぎるぐらいある。「断水ぐらいで生活が滞ることはない」と思っていた。
だが、このたびの一大事をもって宗旨替えを迫られた。これまでは「断水ぐらいでうろたえないぞ」と思っていただけに、逆に水道の便利さや有難さを(これが当たり前、と思わずに)実感していただけに、一転して「水道の奴隷」に陥れられてしまったような気分。
慌てた。即刻妻に現実を知らせた。同時に、ある依頼と相談ごとを持ちかけた。依頼は、これを機に、底に溜まっている泥を「早速上げたい。手伝ってほしい」。相談事は、これを機に「底を塞いではどうか」。ならば、最低限の水を常備できる。
即座に妻は、底を塞ぐ案には反対した。泥上げは翌朝の「朝飯前の一仕事」のテーマにした。すぐさま私は、底をさらえる道具などをひと揃え用意。泥は畑の客土に生かすことにして、その算段もした。同時に、底にはセメントを張らず、渇水状況を知るバロメーターの役目を優先することにして、妻の意見を尊重した形にした。
とはいえ、「困ったなあ」と思った。いつ枯れるか分からないところに、水質監視員としてキンギョに常駐させるわけにはゆかなくなった。「いざ」という時の飲料水としての期待が怪し気になってしまったわけだ。
結局、泥上げは、朝飯前の一仕事に2人が2日にわたり、延べ4人がかりで成し遂げた。身体が小さい方の妻が中に入って泥をすくいあげる。その泥を畑まで運び、コイモ、ナスビ、あるいはネギなどの畝に被せて客土する役目は私が引き受けたが、到底ひと朝では片づけられないことが分かった。
途中でサワガニが入り込んでいたことを知り、その逞しさ(水枯れを知り、入ったに違いないと見た)に喝采を送った。この判断の是非を確かめたくて、独力での脱出の可能性を見極めるのに随分時間を要した。それが、良きインターバルになった。
翌朝も、前日と同じぐらいの泥を揚げたところで、「赤土に行き当たりました」と妻が声を上げた。それをもって泥あげを終えた。
ちなみに、その後の雨で水が溜まりはじめたが、一帯の土中の水分が少ないせいか、これ以上は月末まで溜まっていない。
2日共に、2人はコテコテになるほどの疲労を覚えた。妻は「まるでスクワッドね」と筋肉痛を心配したが、有益性を自覚してか、爽やかだった。
「これで、生きている間にもう一度(泥サラエを)、ということないでしょうね」と妻がいえば、「ないだろう」と応えた。そう応えながら、泥の主成分は20年分の落ち葉だから、網を張った蓋を用意し、常は被せておこう、と思った。
翌朝は、知範さんが参加2度目の朝飯前の一仕事の日だった。5時ではまだ暗く、中10日の間隔が随分夜明けを遅らせたものだと思いなから、明るくなるまでPC作業に当てた。
この日は、野小屋の近くのカシの徒長枝の切り取りをウォ―ミングアップの作業に選んだ。この作業の意義は、後ろのデシオを日陰にしていたので、その木を取り払うところにあったが、知範さんがそうと理解してくれることを期待。
次いで、ヒノキ林に移動し、前日の間に手前の方の落ち葉を妻たちがかきとっていたので、この日は男手を要する作業に取り掛かった。それは2~3年にわたって溜まった落ち枝や落ち葉をかき取り、一カ所に積み上げ(て、好ましき腐葉土にす)る作業だった。この落ち葉などには周辺の立木の細い根が養分を求めて絡みついており、掻きとるにはそれ相当の力を要し、非力な人には務まらない。5年ほど以前までは、私には難なく取り組めた作業だが、現在の可能性を知りたかった。案の定、最早、私には重労働になっていた。
知範さんには、己の現今のパワーの可能性と、自然の力を読み比べ、望ましき庭の手入れの仕方を見定める必要性がある、ということに気付いてもらいたかった。これも自然の摂理を会得する秘訣だし、意義だ。変化即応能力の是非が問われる時代には不可欠だと思う。
要は、ハウツーやマニュアルに頼りがちの生き方は、もはや時代に即さない。指示待ちでは、ウイルスにさえ翻弄されてしまう。
この作業中に雨がぱらついたが、作業は続けられた。知範さんは、木立ちはどのくらいの雨までなら支障なく作業をさせるのか、との感心を示した。そうと知ってなぜか私はとても嬉しくなった。そのようなわけで、朝餉は、7時過ぎから屋内でとった。
雨はその後、昼前から本格化。井戸枠水槽の泥さらえを「1日伸ばしていたら」どうなっていたことか。水が溜まれば、底の判別が難しくなる。次のチャンスが分らないだけに、出来ればあって欲しくないだけに、早く動いてヨカッタ、と思った。
この日、昼過ぎに「これが早生」と言って井上さんに、刈りとったばかりの稲束を届けてもらった。その後、4時過ぎから翌朝にかけて雨はシッカリ降った。
これをもって当月も良き1カ月になった、と締めくくり、当月記のまとめに入った。だが、この後に大団円と呼びたくなる出来事が2つも用意されていた。
その最初は、思いもよらない水俣からの来客だった。20年ほど前に、わが家で泊まったことがある青年が、3人の素敵な同行者を伴ってのお立ち寄り、と内線があった。旧交を新たにしだから、これをもって大団円に、と月記を改めに掛かった。
だが、これでは済まなかった。月末に、とても嬉しい予期せぬ来客予定が入ったからだ。だから月記の締めくくり部分を、再び記し直すことになった。勝手に、本文の文字数や~経過詳細~のテーマ数を決めているものだから、結構厄介な作業になる。その時だった。これら2件の予期せぬ幸せは「あの幸せから始まっていたのではないか」と、考え始めてしまった。
さあ大変、月記は大幅に手を入れたくなった。まず13日の来訪者桑原さんが、月末の2度の幸せを導いたに違いない、と思った気持ちを文字にしたい。それほど予期せぬ来訪だった。彼はすこぶる元気だったし、コロナ騒ぎがむしろ追い風になっていたことを知った。今や都会から、田舎を求めて訪れる人が増えた、という。そのうちの1人のティーンネイジャーの存在を知り、私は救われたような気分になった。「たとえ1人であれ」と願って取り組んだ一文作りが報われたように感じられたからだ。
実は、「もし私が今、ティーンネイジャーであったら、気が狂いそうになっていたに違いない」と、思っていた。忘れようがない体験が私にはある。先の戦争で、私よりほんの10年ほど先に生れた日本の多くのティーンネイジャーが特攻兵器と共に、命をさし出していた。その年頃になった頃の体験だ。私は、新日本は、いかにあるべきか。何のために、この情熱を如何に傾けるべきか、生まれた意義は何だったのか、と追い詰められた心境(肺浸潤に侵され、生い先が短い、との心境)になっていた。
日本丸はどこに向かっているのか。国民の安全と未来はいかに保証されるべきか。いかなる努力を傾ければ、誇りうる日本の一員としての自覚を抱くことが出来て、胸を張って生きられるのか。誰か、教えてほしい、と切望していた。
桑原さんを訪ねたティーンネイジャーは「日本は国是を欠いている」と嘆いたようだ。
ならば、と私は想うところを話し始めた。なんと桑原さんはその意を汲み取っていたようだ。「もう読ませました」と反応した。「甲斐があった」と嬉しかった。劉穎さんに中国訳を付けてもらってネットの載せた一文『大方向を夢想させた旅』である。
29日の来訪客は、20年ほど前に、わが家で一泊した青年だった。その前日に、「泊めてやってほしい」との紹介者があり、一も二もなく受け入れた。紹介者は、当時最も信頼しうる地方公務員と見て、付き合っていた人だ。かの水俣病事件でただ一人(と私は思っている)チッソに疑問を抱き、表立って被害者の救済に立ち上がり、終始態度や信念を変えなかった水俣市職員、吉本哲郎さんだった。その著作は今も大事にしている。
吉本さんは、新しい地域づくりにも関わり、水俣の再生に情熱を傾けた。その輪の若き活動家の一人、天野浩さんに立ち寄ってもらえた。天野さんは有機栽培茶園を日本で最も誠実に、3代にわたって守ってきた人だ。彼は「あのシナモンの木は」、とその後を問うた。
吉本さんの母親に掘り起こしてもらった苗木のその後、だった。土産話にしたかったのだろう。彼はポツリと「お母さんも立派な人でした」とつぶやいた。それはそうだろう、チッソの城下町と言われた水俣で、息子が孤軍奮闘。その母の立場はいかほどか。
ついに月末を迎えた。長勝鋸の長津親方夫妻を迎える日だ。異常な残暑のもとで、文字通りの大団円になった。
9月に開催予定だった第5回「匠の祭典」は、新型コロナウイルスに立ちはだかれて、開けなくなった。第4回には参加できなかった私だが、興味津々のお話を伺えた。
さらに、おそれ入りました、との思いで心がいっぱいになることが生じた。それは、長津親方がゲストルームにある教え子の作品に目を留められたことから始まった。得意げに私は教え子の自慢をした。チェコの芸術家の目に留まり、留学の機会を得た教え子だ。
なんと親方はチェコ通だった。何度もチェコに招かれて出掛けておられた。また、第4回「匠の祭典」ではチェコの職人が優勝し、優勝旗がチェコにあるとか。
親方からチェコの匠のすばらしさを伺い、自慢の教え子に恵まれたことがとても嬉しくなったし、その作品を見直した。
また当月も、知範さんに迷惑をかけることになった。予定では、今頃は記すことがなくなって、1~2枚で終わるはず、と話していた日々に入っていた。読書三昧は見果てぬ夢か。