ダチュラが咲き、花殻が魅力的なオオモクゲンジ。ソテーに用いるローズマリーとオキダリスがやっとマッチし、イチジクが最盛期。午前は心臓の定期検診。午後は未来さんとカシの中木の切り取り。夕餉に最後の秋ナスを味わい、夜はいつになく沢山実を付けたドングリが、ガラス屋根を打つ音に不安を覚えました。かくなる一日ら始まった10月でしたが、四連峰の山並みをハイクしたような一カ月だった、と振り返っています。
2日、知範さんと大型HCでの買い物の後、オオモクゲンジの剪定。夜は快晴で満月。3日、脱ハンコ時代到来を気にしながら久保田さんに誘われ、鹿ケ谷に出掛け、錫の古印づくり。曇天の4日、秋ナスの畝を始末し、跡を仕立て直す。夕刻、2人の素敵な女性に喫茶店に立ち寄って頂け、楽しい歓談。5日月曜日は、歯の加齢性疾患の治療、そして高田賢三の死を知る。6日は未来さんが、7日は知範さんが、共に再訪。この2日間にトウガンを2つ収穫し、8軒で分けました。思えばこの1週間が最初の峰のごとき気分でした。
その後は、8日の台風19号が南東に大きくそれ、雨勝ちの日々で終わり、10日まではもっぱら新著の担当分原稿綴りに心を奪われており、物静かに過ごしています。しかもこの間の9日は、妻が久しぶりの外出。留守を幸いに非常食の消化。小降の止み間に畑に出て、スナップエンドウやアイトワ菜など冬野菜の準備。夕刻に1時間ほど、長津親方に借りていた書籍の返却で外出。他は、PCの人か書斎にこもって資料整理、と過ごしました。
中旬は、大垣でお世話になった「にしんそば酒井亭」ご一家のお立ち寄りと長津親方のヒョッコリご来訪に感激、で始まり、16日の久しぶりに催したパーティまでの6日間が、2つ目の峰であったことになります。このパーティでは13名が集い、途中で妻の一喝もありましたが、盛り上がったこと。この間に、岡田さんが久しぶりにご来訪、近・遠の楽しい計画を伺った。裕一郎さんが再訪し、幾つかの懸案を解消。9条の会嵯峨支部の面々は原稿依頼で。地区2役のリーダーが個別に来訪。特記すべきは、持論にまた1歩近づけたTV録画に感無量、と高揚感にひたる2つ目の峰を楽しんだことになります。
その後の2日間は谷あいのような日でしたが、19日のミツバチの師匠志賀さんが、巣箱の点検でご来訪、居合わせた知範さんも一緒に巣蜜を味わえたことに始まり、23日のゴーグル着装会議まで5日間が3つ目の山場でした。この間の20日、妻の大焚き火に始まり、連日何らかの形で延べ7人が取り組んだ囲炉裏一帯の大掃除と、22日の朝に、未来さんを迎え「雨が降り出すまでに」と妻と3人で、溜まりに溜まった剪定クズを片づけた2時間が、とても印象的でした。これは知範さんが19日に、重たい土袋をイノシシ坂から撤去する任に当たってくれましたが、そのオカゲがおおいなる励みになっています。
この間に、新政権(日本学術会新会員承認問題)への見事な警鐘記事と、子どもを思う心が「大丈夫?!?」と首を傾げさせた記事に触れたり、平野さんから新著のラフ構成案を受け取って「さすがは!」と感動したりする2日間があり、有意義な骨休めでした。
かくして、最後の山場は29日の午後、ある案件の打ち合わせで山本有子さんが、梶山寿子さんと再訪くださり、翌日は岡田さんが、聲明舞の伝承舞踏家・後藤有美さんをご案内。このご両者に掃除が行き届いた庭巡りを提案できましたし、月末は祐斎さんに招かれていた夕べに、夫婦でお訪ねし、当月も大団円になりました。夕闇迫る祐斎亭の砂利敷きの、嵐山を背にした庭で、針山愛美さんが舞う「瀕死の白鳥の踊り」に心惹かれました。
~経過詳細~
1日は目の不安に次いで、夜は聴覚によって不安を煽られることから始まったが、振り返ってみれば最初の6日間が一つの山場であったことになる。
1日は心臓の定期検診に始まり、3日の鹿ケ谷に出かける約束まで3日間連続の外出予定が入っていたが、中1日飛んで6日に歯の治療予定があった。その中1日が、予期せぬ人との出会いに恵まれて、6日連続して印象深い日となった次第。これを契機にして、当月はまるで4連峰のハイキングを楽しんだような結果になった。
1日は、薬害問題から始まり、夜は聴覚によって不安を煽られたが、その間に未来さんを迎え、カシの中木を切り取っている。薬害問題は、不整脈をただす薬の薬害だった。オカゲで心爽やかな眼科の女医に出会える機会になっており、後付けだが、これが最初の山の稜線に踏み込むく気分にさせたようだ。
実は、2カ月ほど前からPCに立ち向かっている時に妻にしばしば注意された。なぜか左目を閉じ、右単眼で取り組んでいたからだ。この謎は、上の定期検診日に目の検査予定が入っていたオカゲで半ば解けた。それは心臓医が、不整脈を正す薬の薬害を心配して入れて下さった予約のおかげだが、胸がすく思いがする若き女医と巡り合えた。
まず、左目を閉じてPCに立ち向かってきた謎が解けた。次いで、かねてから心配していた右目上半分のブラックアウト問題も、得心できる説明!?!に近づけたように思う。
この眼科医とは2か月後に再検査の予定日が入ったし、その間に「薬害が伴いかねませんが」との注釈をしなかった、あるいはできなかった(不整脈を正す薬を出した)医師の診断もある。今後どのような思いや想いを抱くことになるのかと興味津々。
しかもこの日は午後に、未来さんを迎えており、径10㎝強のカシの双樹を切り取った。下部にガラス屋根が控えていた関係で、このガラスを傷めないように切り取る手順や切り方を指導することができた。
夜はいつになく大豊作のドングリがガラス屋根を打つ音がまるで巨大アラレ(霰)のごとし。とりわけトイレ用雨水タンクの掃除用足場は鉄板だが、ガン、ガーンと響き、「あれは何ですか」と妻も飛び起きた。だが妻は、その分けを知ると、また熟睡。だが、私はそうはゆかないたちなので、困ったものだ。この散らかったドングリの掃除は大変なもので、この実だけ平らげてくれるなら、イノシシなりクマさんなりを大喜びで迎え入れたいところ、と考え始めてしまった。
TVニュースによれば、幾多の地域ではドングリが不作とか。だから市街地へのクマの進出が続き、次々とクマがヒトに殺されている。
だから、こんなことでいいのか、とフト想ってしまったしだい。教育者や政治家などは何をしているのだ、との怒りにも近い気持ちだ。こうした問題こそ、TVなどで話しあってほしい。そうした番組を、家族でキチンと一緒に見聞きして、自分たちの住まう環境や自分たちの郷土のあるべき姿を考えておかないと、野生動物の絶滅問題の解消はとうていおぼつかないし、国を愛する健全な心を養うことなど程遠いことで、真の国の活力など望めようはずがない。この因果関係はいずれあきらかにされることだろう。
逆に、eスポーツを流行らせて、子どもまでを虜にしているが、なんとも嘆かわしい。国の為政者には、今の日本の沈滞原因が何であるのかが分かっていないのだろう。
ドングリが豊作の地域と、凶作の地域あることに眼をつけて、クマ救済ドングリ隊を編成するような子どもが現れ、地方の老人の賛同を得て、殺されかねない都会にクマが出ずに済むようにする運動を起こす。こうした子どもが現れやすい体質や風土の国になればよいのに、と思った。文科省や教育委員会はそのためにあるのではないか。
それがひいては、ウイルス感染症問題などを遠ざける効果に結び付けていた、ということもいずれ分かる時がやって来るに違いない、などと夢想した。
2日、大型HCから帰った後、オオモクゲンジを知範さんに(昨年頭部を切り採ったところまで)切り詰めてもらった。この木は2012年にかなりの大木になることに気付き、今の剪定方式を計画した。だから、その切り詰めたところには「こうなってほしい」との願いを込めており、この治療法を(数年がかりで側のホウの木でも試みていたので、その傷痕を見てもらい)知範さんに教えることができた。
切り取ったオオモクゲンジの花殻は、幾カ所で活かされた。前年度の分はスッカリ退色しているが、来年はもう少し早めに切り取ろう、と思った。
この夜は快晴の満月だった。妻と二人で満月をいただきものを幸いに愛でた。
3日、久保田さんに誘ってもらい、鹿ケ谷を初めて訪れた。200度Cで溶かたし錫を鋳型に流し込んで古印を作るワークショップだったが、幾つもの学びがあった。まず、にわかに生じた捺印制度廃止に想いを馳せた。次いで、芦屋という地名は福岡県にもあって、釜の郷であり、重要文化財の茶釜は日本に9つあるが、内8つを芦屋釜が占めていたことも知った。
このワークショップは泉屋博古館で開かれたが、元は住友家の別荘だったのだろう。今は住友家コレクションの古代青銅器常設展示場があり、別室では、瑞獣伝来展「空想動物でめぐる東アジア三千年の旅」が開催されていた。
古代青銅器は紀元前12~11世紀ごろのモノから161点。青銅祭器は、三本足の鼎(てい)と銅鐸の原型?のごとき鐘(しょう)しか名称を知らなかった私としては、鬲(れき)はもとより13種にも分類されていたことや、悠久3000年余の高度な文化の賜物に触れ、アジア人としてなぜかこよなく嬉しかった。
曇天の4日は、ハクサイの手入れなどに生かしたが、午後のお茶の時間の頃に予期せぬ来店客との出会いがあった。作曲家でピアニストの山下有子さんと、SDG’s型企業が主対象のノンフィクション作家の梶山寿子さんに立ち寄って頂け、拙著に目を留めていただけた。改めてお目にかかりたく思った。
5日、歯の加齢性疾患の治療と、高田賢三の新型コロナウイルス感染での死亡の報に触れ、同年配の故もあり、ちょっとシンミリ。ケンゾーとの出会いはパリのジャングルジャップだった。パリ駐在員が案内したそのショップは、通路に張り出した大きな洋服箪笥だった。くぐって入ると、彼がいた。彼はブランドを立ちあげ、私は子会社を立ちあげさせてもらったばかりの時に出会っている。その後ミラノに私は飛んでおり、あるニット会社に案内された。そこでケンゾーと欧州人に敬意を表せざるを得ないカルチャーショックに出合っており、劣等感にさいなまれたような気分にされている。
6日、未来さん再来。ある打ち合わせの後、竹製のサラエの分解処分を頼んだ。ビニールコーティングされた針金は再使用する。竹は燃料にして、灰は肥料に。未来さんにはいずれ、サラエを自分で作ってみたい、と思うような人になって欲しい。
彼女は帰り際に、4分の1のトウガンに加え、「これ、もらっていいですか」と、連座ブランコのオモチャ(?)を持って帰った。人形教室の生徒さんのお一人が、教室展用に作ったものだが、不要になっていた。未来さんはキット手を加え、設計事務所のディスプレイとして再生させたいのだろう。
この日の最後は、秋ナスを収穫の上、畝に仕立て直した。その後、13日のことだが、この畝は第1次スナップエンドウの畝に模様替えした。
この日は居間に引き上げる途上で、最盛期に入ったイチジクも摘み採り、咲きはじめたダチュラを愛で、井戸枠花壇ではソテーに用いるローズマリーにオキダリスがやっとマッチして咲いたことを喜んでいる。イチジクは「アリが狙い始めていた」ので、後の分は早めに収穫し、ジャムに活かすことになった。
この夜、陰ながらケンゾーの死を悼んだ。そしてミラノで出くわしたカルチャーショックに想いを馳せた。そのニット会社の社長は、胸元に赤い大きな唇が配されたベストを摘まみ上げ、オマエは日本人だろう、と感謝し、ケンゾーを讃えた。
そのイタリヤ人は、このケンゾーのアイデア―に感激し、ケンゾーの許可を得て、イタリヤで「作って売れることになった」と喜んだ。これが、私にはショックだった。
少なくとも当時の日本では、このような色や柄や形などのアイデア―は黙ってパクリ、勝手に真似ていた。それがいかなる人権の侵害であるかに思いが及んでいなかった。この文化の違いに大いに考え込まされたものだ。
7日、知範さん再来。PC作業の後、午前中は歓談。午後から剪定クズさばき。空模様が怪しくなり、解散。台風19号の影響で10日まで雨模様で穏やかな日々になった。
この間は、予定が入っていなかったのを幸いに、PCの人または書斎にこもり資料の整理。その中日は、妻が義妹と連れ立って珍しく外出し、留守。万一早く帰れなかったら、と心配したので、非常食の消化日に当てることにした。非常食は、常は妻が1人の時に更新のための始末しているようだ。その1つであるチキンラーメンを久しぶりに賞味。
妻の帰宅は遅れ、大事そうに2人の工芸作家の作品を抱えて帰宅、ご機嫌だった。とても楽しい催しであったようだ。
10日は、雨が上がったところでやっと、大型HCで買い求めた様々な道具や消耗品を仕分け、常備場所に補充したり、新採用品は常備場所を決めて収納したりした。
新採用の常備品は、「電動の汚水用排水ポンプ」とホース。そして土管掃除道具(これまでは奥の一つと、竹の製品)で土管に侵入した根を取り除いてきた。共に加齢対策用品。
前者は、このところバケツをぶら下げて階段を通ったり、遠方まで運んだりする作業が心もとなくなった。そこで、転ばぬ先の杖、もしくはわが身のエンスト予防用品と見て購入。後者は、これまでは青竹で5mほどの割竹を作って用いてきたが、これも作ること自体がかなりの作業だし、それを億劫がって古くなった分を使ってしまい、途中で竹が折れたらサー大変。土管に取り残した竹が腐って流れ去るまで何年か待たなければならなくなりかねない。そこで、土管に侵入したしぶとい木の根をちぎり取って、引っ張り出したり、次の排水桝まで押し流したりする道具を探したわけ。
かくして中旬初日を迎えたが、振り返ってみれば、この日から第2の峰に踏み出していたことになる。この日は、大垣でお世話になった「にしんそば酒井亭」ご一家のお立ち寄りと長津親方の、共にヒョッコリご来訪に感激で始まり、16日の当月最大のトピックス、久しぶりに13名が集ったパーティまでが2つ目の峰のハイクだったことになる。
この間に、裕一郎さんに(ある依頼事項の仕上げのために)訪ねてもらった2時間。岡田さんは久しぶりの来訪で、近・遠2つの計画画策。町内2つの役目のリーダーが個別に来訪で2時間余。9条の会嵯峨支部の面々は原稿依頼で小1時間、など。畑では、自家製ハクサイ苗の植え付け。ルムラサキとゴーヤの支柱解体とその跡の仕立て直し。知範さんと土の移動と薪作業に着手などに励んだ。1日が短くなった。
実は、「にしんそば」を私は56歳になるまで味わったことがなかった。大垣と縁ができて、大垣市と環境関係の仕事で関わらせてもらえるようになり、昼食時に案内されたた先が「にしんそば酒井亭」で、そこで初めて味わい、虜にされた。その後、審議会や委員会はもとより、市庁舎の近くで昼食時になると、決まったように酒井亭に足を運んだ。「おいでやす」と声をかけてくださる女将さんと、厨房を取り仕切るご主人とは、ご夫妻が京都のご出身ということもあって、すぐに顔見知りになり、仲良しになった。
大垣を引き揚げてきたあとは、今度はご夫妻が、墓所が京都ゆえに、年に1度か2度、わざわざ一方の京都の端まで足を延ばし、訪ねて下さるようになった。その後、女将さんは他界されたが、最後の外出時の、最後の訪問先がアイトワであったようだ。
この度は親子3代で訪ねていただけたが、「孫が京都で」と、嬉しいニュースもうかがった。おじいさん澤田壽雄さんの夢をお孫さんがお果たしのようで、京大の文学部で、しかも美学を極めようとされている様子。私は今や、既に次代に突入していると見る立場だが、美意識の転換に期待をかけており、楽しみが1つ増えた。
16日のパーティは、生物学(とりわけ細胞生物学と発生遺伝学)、動物学(とりわけ水産物理学)、総合医学、法学、そして経済学などの面々と共に、新型コロナウイルス問題で沈滞する世を睨みながら、4時間近くにわたって喧々諤々。
その途中で妻の一喝。思い余ったのか、「皆さん、勝手な孝之さんのせいで、ここではマスクをしてはいけないように感じておられるかもしれませんが、どうぞ」と、「自分の身は自分で守ってください」と言わんばかりの一撃を私に加えた。ワイワイガヤガヤは一瞬静まったが、なにせ待ち合わせの食前酒の最中、ついに妻が願うようにはいかなかった。
参加者のお一人は、鮮魚について質実両備で右に出る人は他にいないはずの人。運よく前日に、瀬戸内海の友人から魚を送ってもらったので、しからば、と妻は見事な鯛をコブジメにしてカキノハ寿司を用意した。
席は、来客最高齢のトッテンさんを安全な位置に、他の参加者の席は互い違いにして、妻は弁当を振る舞った。そのおかげもあってか、2週間余が過ぎた今も異常の知らせはない。実は皆さん、コロナのことなどスッカリお忘れのご様子だった。
このパーティのおかげで、カキは大不作だと知った。前日、柿の葉寿司用の葉を採る役目を引き受けて、庭にある6本のカキの木を巡って驚いた。クボガキ、フユウガキ、そしてジロウガキの実は、ほぼ虫害で落ちており、1本の渋柿のみが期待以上の実を残していたが、その面構えは尋常ではなく、黒いアザだらけ。
甘ガキが庭では採れそうにない秋になったが、幸いなことに2軒から頂いた。その1方は初賞味の品種。新品種だろうか、外観はジロウガキそっくりだが、果肉は見栄えも味も、クボガキのごとし、だったし、確かめると私好み。
この第2の峰の間に、ツルムラサキとゴーヤの支柱を解体し、そのあとを仕立て直し、コウシンダイコンとチンゲンサイの種を播種。また、新著に関して平野さんと電話で意見交換をしたが、平野さんはグラビアのページを加えては、との相談だった。
その後、谷間のような2日間があったが、この間にNHK-TVBS3で「ヒュ―マニエンス」第2回分「“腸”脳さえも支配する?」を観る。最初に出来た臓器は腸で、脳は腸から出来た。腸には舌とほぼ同等の味覚神経があるなどを知った。いよいよ、人間より植物の方が賢いに違いないはず、との私の想いは一段と昂じるところとなった。
19日、ミツバチの巣の点検で志賀さんに訪ねていただき、さすがはわが師匠との感にまた駆られており、この日から3つ目の峰に踏み込んでいたことになった。
師匠はミツバチを幾頭かを捕獲し、ダニが発生していないかどうかを点検してくださるようだが、そのための捕獲機を、ハンディー掃除機を活かし、手作りされていた。
このところミツバチはすこぶる元気に活動していたが、期待通りに巣箱1つを分採蜜のために取り外し、代わりに空の巣箱を1つ補充した。あとの2つの巣箱にも蜜が溜まっているようだが、それはミツバチの越冬用の食事。
蜜が詰まった巣の一部を切り取って、居合わせた知範さんと一緒に巣蜜を味わうことができた。この巣の上部と下部ではミツの色が異なっており、それは採蜜した時の花の種類が異なるゆえのようだが、もちろん風味も大きく異なる。
先の2つと、3つ目の峰は大きく異なるところとなった。延べ8人がかりになった5日がかりの庭仕事がそのピークであった。それは19日の知範さんと2人で取り組んだイノシシスロープに残っていた最後の土袋の移動と、剪定クズの始末がキッカケだった。囲炉裏場に溜まりに溜まっていた剪定クズの始末と、イノシシスロ―プ一帯の掃除を誘った。
知範さんは、私が土の入った大きめの1つの袋を一輪車で、遠回りして運び上げるだけ息せきっていた間に、両手に土袋をぶら下げて、何度も往復し、片づけた。
翌20日、薪にしない剪定クズを妻が大焚き火をして片づけ、その燠で芋を焼いた。3日目は私が、エンジンソーと鉈で、残るすべての剪定クズを薪の寸法に切断し始め、玉切りや細い薪の山を作った。風呂焚き口にはいらない太い薪や大きな薪は、薪ストーブ用燃料としてその収納場所に一輪車で運び込んだ。
4日目は8時に未来さんを迎え、「雨になる前に」と、妻を交え、3人がかりで、私は残っていた鉈仕事、2人は薪束を作りから手を付け、2時間でこの一連の作業の大団円。丁度そのころから雨が降り出し、大仕事を済ませたかような気分でお茶の一時に。
中l日置いた土曜日は雨は上がっており、陽が射し始めた朝食後、私は庭に飛び出し、一帯に溜まりに溜まりすっかり湿っていて落ち葉を、サラエで乾きやすいように広げた。そして午後2時から妻と出て、落ち葉を腐葉土小屋に運び込んだ。次いでエンジンブロワーで一帯の落ち葉掃除に取り掛かり、息が上がり始めた時に来客の知らせ。ちょうど囲炉裏場一体だけでなく、イノシシ坂も半ばまで片付いていたので、この日の庭仕事は切り上げることにした。
来客は、6月中旬に訪れた岐阜県の岩村からのご家族一行で、岩村で夕食をご一緒した佐藤一斉顕彰会のリーダー鈴木隆一さん。奥様によれば、岩村ではすでに冷え込みが始まっているが、近いうちに、と誘っていただけた。かくして3つ目の山場は終わった。
この合間に、様々な用件に取り組んだ。まず、20日、焼き芋を手土産にそえ、3つの懸案を相談したくて、ある事務所訪問など。21日に平野さんから新著第1次構成案が届き、その見事な構成に感激。夜、この秋最初の風呂焚きを受け持つ。湯は太陽光温水器の湯で充分間に合いそうだったが、私が水でぬるめ過ぎたため追い炊き。薪がタップリあるおかげで、タップリの湯につかれることになり、それだけで妻は大喜び。
23日のゴーグル会議は、長津親方が持参されたゴーグルを6人が装着し、ある案件の打ち合わせを11時から始めた.この間に、義妹の娘夫婦が焼き物の納入に。この娘は、義妹の趣味に刺激されたのか陶芸家になり、一家をなしている。
この日、喫茶店では、「5人連れの予約」を入れてもらえていたので、とピザを「手作りの原初型の釜」で焼いて振る舞うことにした。そこで、長津親方一行を加えて10人以上になり、釜の出番に相応しい1日になった。おかげで、久保田さんやたまたま通りがかった観光客にも振る舞えた。皆さんにイレギュラーな焼き上がりを愛でてもらえたし、釜で焼く光景が珍しかったようで、何人もの方にカメラに収めてもらえた。
その後、程よいインターバルを得て3つ目の峰にいたったが、このインターバルの間だけでなく、先の2つの谷あいも含め、それぞれ異なる心地よさを心に刻むうえで程よい変化や発見、あるいは喜悲こもごもの思いに駆られニュースなどに触れている。
まず夏の間の朝飯前の一仕事(5時から7時15分まで)が、庭仕事から屋内作業に変わっていた。それは、日の出が遅くなり、肌寒くなっただけが理由ではなく、新著の作業が加わり、PCの虫になり、やがてストーブの友にもなっていた次第。また、寝所では電気毛布を取り出し、やすむ前に布団を暖めてもらうようになった。心臓を弱らせたカラダには冬が早い。かつて寒さに強かっただけに、身に染みる思いがする。妻は苦笑。
これは、今年も温室の屋根ガラスの掃除が、水仕事ができなくなったことを意味している。来年こそは夏場を待って、まず高圧の噴射水で汚れを洗い落としたい。風除室のガラスは、夏場に妻が、裕一郎さんの助成を得てガラス磨きにあたっており、おかげで、ヨシズを巻き上げたが、とても気持ちがよい。
畑はほぼ冬装束に模様替えができた。残るはあと3つの模様替えのみ。
それはまず、ニラとカボチャのコーナーの模様替え。今年はニラの株を掘り出して、場所を入れ替えたい。このニラの株を掘り出したついでに、幾つかの株を3カ所ほどに分けて移植したい。ニラの株を掘り出して、そこはカボチャ用のスペースにするが、かぼちゃの播種期までの間を活かし、巨大ニンニクを育てよう。この作業は来月最初に取り組みたい。
コイモとヤーコンを掘り出して、跡をツタンカーメンのエンドウと第2次のスナップエンドウの畝に模様替えしたい。そして、3つ目は、トウガラシとトウガンの畝を第2次のアイトワ菜やレタスの畝に模様替えすること。これで畑は完全に冬装束になる。
自然生えのツルクビカボチャは、1つ目は充分に熟れた。問題の2つ目。「予測通りに」とまではゆかないまでも、既に成長はとまり、「やはり」と思わせられる結果になった。勢力を種の入る部分に割いたことが分かる。
食べ物では、まず天然のナメコをミツバチの師匠に頂き、助言に従ってソテーにした。美味。わが家では、佃煮にするケノコしか今年は出ていないが、時々天然ナメコが出ることがあり、楽しみが1つ増えた。
義妹が育てたピーナツカボチャのスープにあやかったが、糖分がとても高い。煮あがったばかりのイチジクジャムのヨーグルトが添えられた。
わが家のクリは不作。妻はやっと拾い集めたヤマグリを丁寧に剥き、グリご飯に。不作に加え、シカに食べれれていたことが分かった。クリの木の下は、一帯がシカの糞だらけ。来月は、この侵入口を探さなければならない。
中旬はシホウチクのタケノコが出る季節だが、私好みの佃煮に加え、妻は海苔巻き寿司に活かすことにした。
昆虫では、まずカマキリ。この庭での「6種目の発見か」と思った。「オオカマキリ」の小型のごとき新種?と見たわけだが、そうとは言い切れない。チョット細めの既知の種か、もしカマキリの世界で混血種があり得るとすれば、「なるほど」となるところ。
初見のカメムシを妻が見つけた。とても小さいが、丁度10年前にハートのカメムシを見つけた時以来の珍しさに心惹かれた。
次いでカエル。これほど図々しいカエルは初めて。玄関口の水槽に棲みついたカエルだが、私たちの出入りには動じない。もちろん、指で背を突こうとすると水に潜るが、すぐに出て来て日向ぼっこをする、これは度胸か、賢いが故か、考えさせられる。
小鳥が玄関口の側など、家人がよく通るところでよく巣を張るが、これは賢いから、と見る。冬を迎え、木の葉が落ちてからいつも気づくことだが、今年も一つ、そばに落ちているのを妻が見つけた。ヒナが巣立つまで私たち菜気づいておらず、それは人気のある間はヒナに声を立てさせなかったわけで、よくぞ!と思う。
この小鳥の巣が、苔とプラスチックの紐くずを見事に組み合わせており、妻を驚かせたが、まるで人間が編み出した智慧の製品FRP( Glass Fiber Reinforced Plastic)のごとしだ。しかも、内部は棕櫚の繊維だけ、つまり天然繊維だけで作っており、2度目の感心と関心。
この日、妻は未成熟のハクモクレンの小さな種房を拾って帰って来て、「まるで妖精ネ」と後生大事に喜ぶ心に私は驚かされた。オモチャなどを売る店などなかった地で生まれ育った妻には、おそらくこのような自然のいたずらに心を躍らせて育ったのだろう。
中旬は、そうか、朝焼けのシーズンが始まっていたのだ、との気づきから始まった。やがて、低くなった陽光が部屋の奥まで射し、サンショウの実が赤く色づいていたことに気付かされた。
3つ目の峰を過ごし終え、4つ目の峰に期待を膨らませていたら、平野さんから新著の表紙デザインについて修正提案があり、そのアイデアにそって、妻は2度目とは逆に、後ろ姿の撮影に取り組み、そのデーターを平野さんに送った。
その後、フィンランドからの知らせと、ある予期せぬ知らせに恵まれている。フィンランドからのハガキは橋本明日香さんから。ヘラジカのデザインも素敵だが、家族で森に繰り出し、摘んだブルーベリーの果汁で押したわが子の手形と記されていたし、ムーミンの切手と実に色合いがうまくマッチしていた。
そのムーミンの切手にも注目した。文字は、2017とSUOMI FINLAND しかなく価格表示がなかったからだ。SUOMIとはフィンランド語でフィンランドそのもの、フィンランド語(スオミ語)やフィンランド民族 (スオミ人とフィン人で構成される) を表す。
それにしても、なぜ価格表示がないのか。右上に地球を連想させるマークがあり、これは国際郵便用切手であることを示していそうだ。これでわが家まで届いたということは、この切手でハガキを(もしくは封書も?)「航空便で世界のどこにでも届ける、と2017年に約束して売った切手であり、その約束が2020年の今も有効だったのだろう。問題はその有効期間だ。この間、郵便料金が上がっていないからか、仮に上がっていたとしても、先に交わした約束は反故にされず、履行されるのではないか。もしそうなら、と様々なことを憶測し、頭の中が、次いで胸が、次第に熱い何かでいっぱいになっていった。
封書で一番印象に残ったのは、1年4カ月前に巡り合っていたという人からのもので、実生の苗づくりに努めておられる人からの便りだった。当時、私は小さな苗を所望されたようだ。キット掘り出して期待にお応えしたのだろう。
スオミ人とフィン人が暮らすフィンランドも良い国のようだが、心温まるこの手紙に触れて、その昔はこうしたことが当たり前の日本ではなかったか、と振り返った。今や、ハガキや手紙が交信手段の主であった時代ではなくなり、こうした文化を見失っていたように思う。私も、こうした丁寧で、気長な対応をすることを忘れがちになっており、メールで「昨日はありがとうございました」程度で済ませていた。私たちは交信手段が簡便になったことで何らかの悪しき影響を受けているのかもしれない。書籍も大事にされなくなった。情報に対する意識が変わり、その進展度に合わせるようにして、貧富格差が広がっていたようにも思え、ちょっと残念な思いがした。
残念、といえば、もっと残念に思ったことがあった。それは、丁度読み進んでいた一著にも影響されたのかもしれない。鯛は頭から腐る、との諺がある。
政治の清潔度や、公正さを尊ぶ国民性でも1、2を競うデンマークやNZでは、とても考えられないことが生じたわけだ。韓国では前大統領を刑務所に収監する判決を下していた。
わが国では、「日本学術会新会員承認問題」でも持ちきりだった。私の抱いた想いは1人の賢者(10月21日京都新聞に見た小島毅東大大学院教授)の戒めに触れ、膝を打たせた。月末のことだが、もう1人の賢者(10月29日朝日新聞夕刊に見た永田和弘細胞生物学者で歌人)のご意見に共感。文字の力のおかげだと思った。
国税を10億円もつぎ込んでいるのだから、その管理責任が政府にはある、と言わんばかりの言い訳もした。だから、国の方針に逆らう者は任命されなくて当然、といいたいのだろう。国民がこの考え方を指示すると期待しての言い訳だろう。それは政府の了見の狭さを露わにすると共に、国民を貶めていることになるのではないか。権力の横暴、とりわけ多数の横暴を、キチンと諫め、国民に知らせ得る仕組みを欠いたのでは、民主主義ではないだろう。それに反した愚挙の言い訳に、国税10億円を持ち出した。これを世界の目は、どう見ているのか。
この事件が露わになった時に、市川の友人から滝川事件を思い出す旨の連絡があっただけ、余計に不安がいや増した。当時、後に立命館大学総長になる末川博は「この事件は瀧川個人に加えられた弾圧ではなく、日本の学問の自由と大学自治に加えられた弾圧だったから京大事件と呼ぶべきだ」と語っている。この「日本学術会新会員承認問題」でも、残る学者の中から連座続出が生ずるのでは、と不安にかられた。
当月一番心配だった記事は、10月17日朝日新聞夕刊のトップ一面記事だった。
4つ目の山並みは28日の通院から始まり、月末は祐斎工房に招かれることで終わった。その間の29日は午後に、ある案件の打ち合わせをかねて山下有子さんが、梶山寿子さんと一緒に再訪下さり、ご要望の庭巡りに応じた。お二人には拙著に共感いただけたようで、その追認のためかも、とチョット緊張した。
翌日は岡田さんが、後藤有美さんをご案内、庭掃除が行き届いた「この時に」とばかりに庭巡りを提案した。そして月末、祐斎さんに招かれていた夕べに、夫婦でお訪ねし、夕闇迫る砂利道で舞う「瀕死の白鳥の踊」を鑑賞。当月も大団円となった。
それは皮肉なことに、28日の午前中の通院が、とても情けない結果で終わり、それが残る3日間を余計に際立たせることになった。気の毒な医者だ、と思った。
さらに皮肉なことに、この3日後の金曜日の夜、NHK-TVがドラマ「赤ひげ2」の放映を始めており、その第2回目があった。江戸時代に女医を誕生させる内容だったが、この観賞が大団円との落差いっそう際立たせたように思う。
気の毒に思った医者は、過日眼科医に気付かされた私の目の異常に対して、「この薬ではその異常は生じていない」と過去思考に留まっておられた。他にも、この錠剤を服用するようになって現れた数値変化があったが、それを正すために、新たな溶剤の服用を検討し始めた。この間、終始パソコン画面を覗いており、人間を観ようとはしなかった。この一件は大団円直近の落差を際立たせる予告編だったが、この山の入口までに4日にわたる穏やかな日々があった。畑仕事と庭掃除に加え、作文や資料整理にも努めた平地での心境だった。とりわけ、28日の午後、翌日に備え、妻は電動の、私はエンジンの、共にブッロワーを持ち出し、庭掃除を仕上げたが、2人で2台のブロワーを駆使すれば、庭の南西半分の落ち葉掃除は3時間ほどで、私はヘトヘトになったが、まだ片づけることができることを知っている。
この間の27日朝に、1時間余の外出という例外があったが、これも穏やかに過ごした。最寄りの個人医でのインフルエンザの予防接種だったが、父が看取ってもらい、母がファンだった医師の娘婿で、この人に看取ってもらおうとの私の心密かな準備であった。
4つ目の峰は、一旦沼地を経たようなことから始まり、翌日の午前中はある3つの案件で基本方針を定める打ち合わせがあり、これで平常心に戻しており、その日の午後から始まっている。山下有子さんの来訪用件は、ラジオ番組へのお誘いだった。
彼女は、エフエム京都αステーション「Arico Peter‘s Restaurant」という番組を10年前からお持ちだが、夫婦でゲスト出演に誘っていただき、収録は11月10日の夜と決まった。
翌日は、「聲明舞」の伝承舞踏家・芸名「花衣 天女」さんを岡田さんがご案内。日本の伝統文化を尊び、その伝承に努める後藤有美さんのことだが、この女性にも心惹かれた。お仕事の関係もおありだろうが、魅力あふれる人生を彷彿させられるさまざまな一時が流れた。いつの日にかの出会いを願う人たちの存在にも触れた。
過日岡田さんと近と遠の相談をしたが、これが近の方で、この日は他に遠の方の予定も話し合っている。
月末は、2時半まで雑務に追われ、一歩も庭に出ていない。その後は祐斎亭まで亀山公園を横切れば20分足らず、1kmほどの道のりだが、上り坂や下りの階段があり、深呼吸しながらたどり着き、お招きにあずかった。何か月か前に、奥田祐斎さんから相談を持ち掛けられていたが、祐斎亭を1カ月ほど前から一般公開していた。
この日は、「~秋の嵐山、自然を舞う~」と銘打った催しがあり、さまざまな思い出を振り返ることとなった多様な人との出会いがあった。
この時期の、この一帯の、しかも夕暮れ時を控えた景観を、川端康成が愛でた部屋から眺めたのは初めてだった。おかげで、振る舞われた一服の抹茶も美味だったが、机にほどこされた楕円の装飾に浮かび上がった景色も見事であった。
奥田祐斎さんはそのトイレにも一工夫凝らしている。このたびは狭い方の金魚の間を拝借し、次いで夕暮れ時の茶席を覗いた。さらに彼が、手に加えることで、そのありようを一段と印象的にさせた広間で、染色家祐斎さんを輝かせた『黄櫨染(こうろぜん)』などの説明を聴いた。
祐斎さんがパリに招かれたのは「ついこの間」と思っていたが、12年も前のことであった。そうと知り、しみじみとした心境にされた。だから、つい新著の原稿に思いをはせた。私が分担する本文最後の一文に「清豊」の生き方に触れるように平野さんに求められていたからだ。思い残すことのない人生を、多くの人に送れる社会になってほしい。
針山愛美さんはスタジオでは夢黄櫨染をまとい独創的なバレエを披露され、それはその魅力を躍動的に紹介する見事な工夫であった、と観た。
この催しでの最後のバレエは、保津川を挟んだ対岸に迫る嵐山と、小倉山に位置する祐斎亭の時空を、「瀕死の白鳥の踊」で膨らませるような一時だった。そこは砂利敷きだったが、まるで湖水のごとくに感じられた。