陽光に浮かぶ養蜂箱からミツバチがたくさん出て、箱を埋めるがごとくにウロウロしている穏やかな日から始まりました。昼、トウガラシの畝を(ツルクビカボチャの蔓の一部と一緒に)片づけ、仕立て直し、タマネギの苗60本と、巨大ニンニクを植え付けました。この間に、妻を絶句させることが生じたのです。オオスズメバチが養蜂箱を襲い、入り口をガリガリとかじっていたの牛若丸よろしく捕虫網を振り回し、退治したのです。午後、お茶の時に、ランタナのカラフルな花を見ました。夕に妻は、ツルクビカボチャの幼い実を初めてズッキーニのごとくに活かし、美味。夜は熟睡です。
2日は小雨、平野さんを迎え、知範さんと裕一郎さんも交え、編集会議のごとき相談。夕刻、トウガンの年越し用作業に時間を取られ、妻が苦笑。3日、第2次オクラあとを仕立て直し、ツタンカーメンのエンドウ豆を播種し、ツルクビカボチャを年越し用に。4日、アメリカ大統領選のありように不安を覚え、中国が生態文明に取り組むニュースに触れ、期待。未来さんが夫妻でアイトワの道標2つを設置してくれました。
5日、心臓の定期検診と、知範さんが月記の作業で来訪。6日、防犯カメラの最終打ち合わせ。キクナの苗の手入れとニラ畑の改修に着手。小雨の7日、加齢製皮膚炎(?)対策で町医者を訪ねる。8日、快晴。モッテノホカを初収穫。9日、ニラ畑1畝を仕上げる。10日、妻が柿を、私はユズを、収穫。夜はエフエム京都αステーションでの収録で外出。
中旬の初日も、4つのエピソードに恵まれました。鬼丸夫妻の愛児が修学旅行で来京し、友達連れで来訪。詩人の山口さんのお立ち寄り。そして高等電気の幹部来訪と歓談。夕にヤーコンの葉を収穫。皇帝ダリアが満開だったことに気付いています。
その後の日々もトピックスに恵まれました。畑の支柱をすべて片づけた(12)。妻と吊るし柿作り、メジロの分も忘れずに。私はヤーコン茶の準備、妻はユズジャムなどを煮て、小鳥が落した酔芙蓉を生け花に。知範さんと4本の成木の間伐に着手。第2波のオオスズメバチ13匹と格闘。生け捕ってハチミツ漬けに(15)。この日、9条の会依頼の一文を仕上げ、RCEP合意の報に触れる。翌日、第3派スズメバチ7匹が襲来、これも退治(16)。3冊の書籍に恵まれ、大事な案件で専門家と相談(19)、この日26.9度の夏日。翌日、玉神木と旧玄関周りの植え込みから剪定作業に着手。囲炉裏場は剪定クズの山に。
下旬は、コイモ1畝分の収穫と、イチジクの木の剪定から始まり、翌22日から2泊3日で岐阜と長野に岡田さんと出かけました。第3波コロナ騒ぎをよそに、杉浦千畝記念館、阿部ファミリー、1787年創業の岩村醸造(女城主蔵元)、諏訪大社、原田泰治美術館、そしてかんてんパパを巡りました。この間に、海洋プラスチックゴミ問題に取り組む小木曽さんや佐藤一斉顕彰会会長鈴木隆一先生と再会し、藤時屋のご主人のレクチャーを満喫。
25日、ジョーオダネル写真展に出かけ、久しぶりの北野天満宮。26日、平野さんを迎え、編集打ち合わせ。27日、乙佳さんを迎え、楽しい一時。28日、久しぶりに佛教大生との交信と知範さんを迎えPC作業。29日、あるコンサートに網田さんと出かけ、帰途トッテン邸に立ち寄る。そして月末、ある相談事で2人の専門家を訪ねました。
ヤッと12月から、佛教大生の再訪が始まりそうです。私は、時代が変わる時は「机の上で学べる知識」より、「自然の中で4次元的に習得する智慧」が、と思っています。今の教育は、戦時中の軍事教育のごとく生身のロボットを育てそうで、心配でなりません。
~経過詳細~
今年の紅葉は70点だった。だが、嵯峨の巡りを済ませたお客さんの多くが「ここの紅葉がイチバン」と言って、写真に収めて下さったが、マンザラお上手だけではなかったのかもしれない。
この歳になって、生まれて初めオオスズメバチと、しかも月に3度も立ち回りをした。その最初は、皮肉なことに、穏やかな月初めだった。この日は立ち回った後、午後のお茶の時間に不思議なランタンの花を見かけ、少しは心を落ち着かせた。
朝一番の養蜂箱を点検した時は、箱の外にニホンミツバチが沢山で出て、日向ぼっこをしているかのようだった。
次に覗いた時にゾッとした。オレンジ色のヘルメット姿のオオスズメバチが10数匹、巣箱とその周辺にむらがり、その半数はガリガリと入口を咬んで広げようとしていた。ニホンミツバチは巣箱の中に避難したのか、見当たらない。反射的に私は、小さな捕虫ネットを手に取っており、巣箱の前で飛翔する1匹をすくい捕ろうと網を振り、網を地べたに伏せ、点検した。ハチは入っておらず、空振りだった。
だがオオスズメバチは何事もなかったかのようにあるものは飛翔し、あるものは巣箱をガリガリやっている。私は、「シメタ」と思った。オオスズメバチの習性の1つを知り得たし、幼い頃の記憶をよみがえらせ、退治する要領を会得したかのように感じたからだ。
だから、二太刀目は、静かに網を、佐々木小次郎ヨロシク、ハチが飛翔する空域の下に差し出し、「今度こそは」と、狙いを定めようとしている。なぜかこの時に、オオスズメバチがまるで、イラクを襲った時の米兵かのように思われたし、巣箱の中に潜むニホンミツバチに同情した。
アイトワでは、オオスズメバチを、この一帯の昆虫の頂点と見て、これまでは殺さないようにしてきた。絶対的に強い立場の生きものが、健全に君臨することで、自然の摂理は保たれている、と見ている。強い立場をカサに着て増殖し、バランスを崩すようなことはしない、と思っている。だから、とりわけ春先に出現する巨大な個体は、コロニーをつくろうとしている女王蜂と見て、大事にしてきた。
だが、この日は別だった。ひな鳥をヘビに襲われた母鳥かのごとくに、急ぎ手に捕虫ネットを取って、ニホンミツバチを守らなくては、となってしまったようだ。
第2撃も見事に失敗、空振りだった。オオスズメバチは興奮し、威嚇飛翔に移った。だから、「これだなあ」と思った。ここで逃げ出したりすれば、襲われかねない。気が付けば、真っ黒のジャンパーを着ていた。ジッと耐えながら反省した。足がすくみ、腰が引けていたのではないか。ハチの手前で、網が空を切っていたに違いない。
三太刀目の網の上にハチが来るのを待ちながら、私はオオスズメバチの興奮が収まるのを待った。その後、昔取った杵柄ヨロシク奮闘すること数分、12回も牛若丸よろしく網を振りかざしていたことになる。一匹残らず捕獲して殺し、急ぎ妻に連絡。飛んできた妻は「絶句」。
急ぎ師匠に報告し、助言を得ると、「オオスズメバチの蜂蜜漬け」を作るには生け捕りが肝心、「その毒が効くのではないか」とのこと。ガックリした。丁寧に洗ってあったのだが、草場の影にすてた。
その後も穏やかな日々が続いた。妻が昼食の準備で居間(ダイニングキッチン)に戻ってくるときに小鳥が落した酔芙蓉を拾い、飾ったのは15日だった。
この日の午後、オオスズメバチの第2派の襲撃があった。今度は、さらなる冷や汗と油汗を出すことになった。なんとかして生け捕りたい、と思ったからだ。奮闘すること数分間。11匹を生け捕りにした。途中で「アワヤ」ということがあってやむなく2匹を殺したが、襲ったすべてを捕獲し、1匹も帰還させていない。仲間を連れて反撃にこられたのではたまったものではない。
この立ち回り。最初の1匹を広口瓶に入れようとしたが、恐ろしい形相で網に咬みついており、ホウホウの体で、移すのにひと苦労した。2匹目は、もっと厄介だった。先に入れた蜂が瓶から出ようとして力んでおり、さらに苦戦。次々と5匹も押し込んだ瓶は、ものすごい羽音。2つの瓶で計11匹を生け捕り。この間に、アワヤということが2度生じ、2匹を死なせた。
その後、屋内でこれを1つの瓶に移すのに、さらに一苦労。11匹の蜂が入った瓶に蜂蜜を注ぐべきか、それとも逆の手順が無難なのか、と思案した。記憶は定かでないが、蜜の入った瓶に11匹のハチを入れ終えていたし、その瓶の蜂蜜は半分以上が結晶化していたから注ぐわけにはいかず、蜜が入った瓶に11匹を押し込んでいたことになる。
その後、蜂毒が順当に蜂蜜に混ざるようにと、溶かすためにストーブで温めた。その折に、瓶を随分長い間横にしておいたが、その間に3ccほどの蜜が漏れて流れ出ていた。だから、指でこそぎ取ってハッピーにやろうすると、妻がガンとして許さない。もったいないので私がなめた。なめおわると「どんな味ですか」と聞く。
「何ら、変らん」といった後で、ハっと気づいた。「私が舐めるのは、心配しないのか」と詰問すると、「孝之さんは、判断力があるし、自己責任でしょう」ときた。
「ハッピーも、舐められたものだ」と思った。鎖につないで飼うと、本来の判断力を奪いかねないことを、妻さえ見破っていたわけだ。犬でヨカッタ、と胸をなでおろした。スズメバチを見て慌てふためく男の子など増やしたら、先が思いやられる。
出来上がった路線に上手に載せて、要領よく走らせておけばすむ時代ならともかく、不透明な時代にこぎ出す覚悟は、それでは育めない。
第3波のオオスズメバチの襲撃は翌16日で7匹だったが、1匹も帰還させなかった。何百匹も群がる巣では、謎の未帰還32機、とでも気付いていたのだろうか。
わが国では、特攻隊員や、学徒出陣隊員の犠牲数は数えていない。いわんや銃後の国民など、産めよ増やせよと、兵士製造機程度にしか見ておらず、犠牲者数などものの数には入れておらず、特定していない。受忍を強いて、保証する気にもなっていない。
冬らしい朝焼けで始まった当月だが、新著に関して大きな進展があり、アイトワらしい数々のエピソードにも恵まれた。
それはまず、平野さんの提案で、私は「編・著」者らしく振る舞わせてもらえる打ち合わせから始まった。平野さんから「下村さんと藤原さんにも呼び掛けた」と聞いていたミニ編集会議が、2日にアイトワで開かれ、新たに幾つかの作業が必要になったことだ。
執筆者14人分の原稿に加え、編集者の「まえがき」を添えただけでは不十分。アイトワの何たるかや、私の著作活動の意図などを説明しないと、初めての読者には不親切、とのご指摘だった。そこで、ガイドとなるページを加えることになった。
集った4人が分担することになり、知範さんが2つと、裕一郎さんが1つ、計3つの短文と、私が2つのビジュアル作業などを受け持つことになった。
このガイドページなどが加わることで、それらが香辛料か、あるいはイースト菌かのような働きをして、これまでの原稿を、足し算ではなく掛け算に、あるいはチラシ寿司ではなく、なれ寿司かのごとくに仕立て上げそうな印象を抱かされた。
実に愉快な数時間となった。ガラス越しにミーティングの様子を妻は見て取ったようで、昼に中華おこわを用意したが、あっという間に5合のおこわが片付いた。
翌3日、私は1人で今年最大のトウガンを越年させた。問題は、前年度のネットを廃物利用したものだから、2時間余も床に座り込んでしまった。前年度のネットを参考に、新たな紐を用いて二回りほど大きいのをつくるのなら20分とかからないだろう。だから妻は「いったい何をしていたンですか」とあきれた。
もちろん私はアイトワらしい時間として生かしていた。グラビアページのあり様をあれこれと構想していた。人それぞれだろうが、私のばあいは指先に、細かい単純作業を受け持たせていると、自然と何か考え事を始めてしまう。このネットは、次にまん丸い巨大なトウガンを吊るすことになっても生かせるに違いない。
4日は、トウガラシの支柱を始末したが、自然生えのツルクビカボチャが隣の畝から蔓を伸ばしてきていた。その蔓の始末に取り掛かっていた時に妻が通りあわせ、その蔓にたくさん未熟の実がついていたことを見とがめ、すべてちぎり取ってキッチンに持ち込んだ。案の定夕刻、妻は、新たな食材として様々に活かし始めた。
次は中旬初日のこと。鬼丸夫妻の息子さんが、中学校の修学旅行の途中とかで、友達と連れだってお立ち寄り。この唐突の来訪が嬉しくて、にわか修学ゼミのごとき時間を設けることにした。実は、鬼丸夫妻は新著の執筆者であり、そのしんがりに平野さんは夫人の門村幸夜さんを配したが、これが私にとっては実にありがたいことになっていた。この一著で私が試みたかった「あるなぞを解き」をする上で、とても好都合な配置であった。
かねてから私は、「間違っても、その手には乗らにように」と呼びかけたい2つのグループを意識してきた。近代の世のありようは、武力戦争よりも陰湿な経済戦争を繰り広げているようで、その1つのグループは経済戦争の被災者であるかのごときに私には見える、だがその立場に追い込まれていることに気付いていないかのように思われてならない。まるで武力戦争時代の銃後の国民かのごとし、に見える。
それが証拠に、TV番組を見ていても、貧富格差を映像化する上で1つのテクニックが用いられているように私は見る。「この被災者の家庭である」と印象付ける場面には共通点がある。それは、部屋中に小物が散らかっていることだ。
例えば、その棚から、それらを一切取り払い、一輪挿しの花瓶にでも替えれば、それだけで豊かな家でありそうに見える。つまり、少額消費にしばしば誘われ、置き所がないほどにの部屋にしておくとに、貧しい家庭に見られてしまう。この渦にすでに巻き込まれているグループには、脱出を試みてほしい。
もう1つのグループは、そのグループの新たな仲間に入りをしかねない若者だが、気を付けてほしい。そう思っていた矢先に、この人たちが現れた。
だから私は、お茶をご馳走し、ある思い出を語るところとなった。それは、日本初と言われる元藩校(今は優秀な学校として北国に残っており、取材時に校長先生の計らいで、10名ほどの生徒と座談の機会を与えられた)で繰り広げた思い出だった。
勇んで私は、その生徒に、昨今の消費社会に対する印象を聞かせてもらったところ、期待に反して全員が浪費社会を喜び、それを豊かさと見て、更なる繁栄を夢見て、期待していた。
私は絶句。ヤットの思いで心を持ち直し、「ありがとう」と口を切った。
「そう言ってもらえて助かった」「私が生きている間ぐらいは、地球は持つ」「若い人に一緒に楽しんでもらえていると知って、心が軽くなった」とまで続けたが、そこで「待った」がかかった。
話題は一転、10名ほどの生徒は、野生動物の絶滅、人口爆発、あるいは気候変動などの問題を持ち出し、アメリカでは当時、既に始まっていた貧富格差の顕在化などの話しを引き出す方向へと質問が続いた。
こうしたことに気付く修学旅行であってほしい。
彼らを見送り、当時(1994年ごろの取材時)のアメリカでは、中学校によっては既に、こうしたことを学習テーマに取り組んでいたことを振り返った。思えばそのころからアメリカでは中間層の消滅が始まり、貧富格差に更なる拍車がかかったようで、ブッシュを大統領に選んだ。
それまで、毎年のごとく出かけていたアメリカだが、私はピタリと足を止めた。オバマが選ばれ、「ならば」と腰を上げかけÞが、オバマには思ったように立ち働かせず、訪米を見送った。ついにはトランプを生み出させたので、通算20年、アメリカには出かけていない。そのよいところは行かずとも学べそうだ。
トランプはその熱烈な支持者を食い物にしている。こうした多数の、かつては良きアメリカのシンボルのように見えた人たちの、変わり果てた姿は見ずとも理解できそうだ。トランプの負けているのに勝ったと思わせる手口は、大本営発表に似ているように、私にも見える。始末の着け方が問題だ、と世界は見ている。
それはさておき、新著のトップバッターは阿部夫妻だが、この度の2泊3日の岐阜・長野出張では初日に立ち寄って、はかりしれないエネルギーをチャージさせてもらった。
この夫妻は、私たち夫婦との接点ができた年を開拓元年に数えていた。その年から既に17年が経過しており、共に似た「想い」という形がない「型」を心にまず秘めあい、対極のようにやり方で次々と「形」にしてきたことになる。
阿部ファミリーと過ごした思い出は後ほどの「外出」の括り回します。
新著の2番手は乙佳さんだが、月末に来宅、その原稿の求評と、チョッとした助言を求められた。これが双方にとって幸いした。彼女は田舎に移住4年目にして早や望外の幸せに恵まれていた。健康そのものに見えた彼女が、秘かに病を抱えていたが、私は気付いていなかった。
この日、彼女には掘ったばかりのサツマイモを持参してもらえたので、妻は翌日大焚き火をして囲炉裏場を片づけ、その芋を焼いて私に賞味させた。
今年は夏野菜が大凶作だったが、トウガンだけは大豊作だった。越年用を収穫した後日、残る3つの実と、自然生えのツルクビカボチャの実を採りきって蔓を共に整理。トウガンの小さな実とツルクビカボチャの実は自家消費用に、未成熟のツルクビカボチャの実は直ちに活かしてもらいたくて、下手の言葉ではなく、形で督促し、翌朝から活用が始まった。
カキも大凶作だったが、渋ガキのみは昨年の治療が功を奏したようで(実がなり始めて3年目にしては)上々の出来だった。ただし、肌が黒くなったのは病気のようで、重症のカキはジャム要員にした。
フユウガキとジロウガキにいたっては、共に1つしか収穫できず、フユウガキは虫害が酷かったので、重症の渋ガキと共に小鳥の取り分にした。
クボガキは20~30個は稔ったようだが、採る前にことごとく小鳥に食べ尽くされてしまい、1つも味わえなかったが、これは近年では初めてのことだ。
2畝目のサトイモを掘り出した。量的には不作だったが、そのコイモの味と食感に妻は大喜び。
イチジクの実はほどほどの収穫を楽しんだが、落葉時に枝に残っていた未成熟の実がたくさんあったので甘露煮になった。
ヤーコンは不作で、まともな球根(イモ)が採れなかったが、適量のヤーコン茶は造れそうだ。写真左上にジャム要員の渋柿が見える。
ユズは適度な実りで、幾つかは正月まで取り置き、残りはジャムにしたが、その一部の皮は干し上げた。粉末にして薬味にする。
モッテノホカが、今年初めて単位になるほどの花をつけ、妻はピクルス風に生かしたが、美味。来年からシカに食べられずに済む目立つ所に場所を替え、花を2度楽しむ。
畑での支柱作物を12日にすべて片づけ、竹の整理を済ませた。翌年の使用に耐えそうな分は先をとがらせ直すなどして、所定の用途別収納場所5カ所に保存した。朽ちたり、寸法が短くなったり(土に埋まっていた降分が腐り、切り取ってゆく)して使用に耐えなくなった分は、鉈仕事で風呂の焚き付けにした。次の支柱が立ち始める前に、カラス避けテグスの整備をしたい。
この度初めて二十日大根がすべてまん丸く育ち、サラダに彩りを添え始めた。
ニラとカボチャのコーナーで、畑の仕立て直しに手を付けたが、仕上げるのは翌月回しになった。だが、念願の最も厄介な部分でびこっていたササの根はことごとく掘り出すことができた。
樹木の剪定は、2本のキハダから手を付けた。3本の干ばつは知範さんと手を付け、まず上部を切り取った。その剪定クズでたちまちにして囲炉裏場はまた山をつくり始めた。
この日の昼時、食事を運んだ妻が楓の幹に「今年も出ました」と妻がキノコに気付けば、知範さんは別の楓に現れた現象に気付き、その関心度に感心した。それはその葉に現れた異常だが、これは私には未知の世界で、その原因を話しあった。
おかげで、ムサシアブミの変色し始めた実が目に留まったし、キノコはいかにもナメコに見えたので「来年は、一度」と秘かに思った。
さて、当月の外出は、心臓の定期検診(3カ月一回から毎月に変わった)に始まり、ある相談事で市内でのミーティング、2泊3日の岐阜と長野への出張、そしてジョーオダネルの写真展に加え、28日と29日は連日市街地に出かけ、山下有子さんとの異なる案件での触れ合いを満喫した。
心臓の定期検診では「?!?」があった。2カ月前から不整脈をただす薬を服用し始めたが、それは「目に弊害が出かねない薬剤服用」ということを知らされ、先月は眼科での検診もあり、左目の変調を確認した。実は、この薬の服用後に目の変調を自覚していたので、この特定をとても嬉しい思いで受け止めた。このたびは、不整脈をただす薬の封用を薦めた医師に変調を報告し、判断をあえいだわけだが、疑問「?!?」が残った。
次の外出は、22日から2泊3日の日程で、岡田さんと杉浦千畝記念館を皮切りに、岐阜と長野へ出張だった。実は、3泊4日の予定だったが、コロナ問題の再燃で、急遽キャンセルがでた。もとはといえば、この人たちとの合流をキッカケに組んだ予定であったので、1日縮めて決行したわけた。おかげで、再燃したコロナ問題でキリキリした人情に触れる機会にも恵まれており、行ってヨカッタ、と思った。
9時に出発、全山紅葉の山並みを眺めながら、記念館到着は昼前だった。まず側の食堂で昼食を、と飛び込むと「ひょっとして」と思う代物が目に飛び込んできた。近づくと、オオスズメバチの焼酎漬けだった。
この食堂でカボチャを土産に買いもとめ、念願の訪問先、杉浦千畝記念館に急いだ。過日ある記事に触れていたこともあって、どうしても確認しておきたいことがあったので、勇んで記念館に踏み込んだ。ある記事とは1つの投書のことで、わが国の勲章に対する不信、あるいは不安の声だった。
ある記事とは、1人の主婦の疑問の声だった。沖縄県民の過半が反対する辺野古への基地移設を、退任直前に認可した元知事、あるいはナパーム弾の初使用など絨毯爆撃を指揮し、数十万の日本人を虐殺した米将軍へ、日本はとても名誉ある勲章を与えていることへの疑問だった。
杉浦千畝の行いは、私が当時成人なら三国同盟に反する売国奴とののしっていたに違いない。だが、戦後も戦後、あらかたの日本人があの狂おしいまでに集団発狂したよう戦時の意識から解放され、冷静になってから知っており、人道的に、あるいは国際的に見て、望ましき行為、勇気ある行為と見て、感謝している。だから、国としても、この人にこそ叙勲を思ってきたが、そのニュースに触れたことがなく、不安を抱いていた。
案の定、杉浦千畝は日本の勲章とは無縁であっただけでなく、ユダヤ人が戦後、その足跡を執拗に追っており、やっと28年後に探り当て、顕彰し、彼の名を冠した通りをイスラエルにつくったりしている。
早々に見学を切り上げて、岡田さんに「もういいんですか」と念を押された。この記念館で、ホロコーストの意味が「火に焼かれた生贄」であったことを初めて知って喜んだが、その後、写真キャプションなどに(秘かに核兵器保有国になっていた)イスラエルにやや肩入れしたような表現があり、チョットと、疑問や不安を感じたからだ。
杉浦千畝はユダヤ人を救ったのではないと思う。当時の政府はこの断行を許可していなかったようだから、彼はより普遍的な価値である人道を重んじたのだと思う。その葛藤に対して、日本人として誇りを持ちたい私は感謝したし、その後、世界の多くの人と同様に人類の一人としての感謝になっている。
いざ、阿部ファミリーを、と胸が弾んだ。最寄りまでし掛かったところで、小高い山肌にメガソーラー発電所(?)を観た。
なんとか迎えてもらわずにたどり着こう、と岡田さんと話し合った。うまくたどり着き、温室の位置が変わっていたことに気付き、歓待され、歓談を楽しみ、共通の想いがなせる奇跡のような逸話も飛び出し、やすんだ。
未明に目覚め、岡田さんは散歩。ダイニングキッチンでは焼き上がったばかりのパンの香りが出迎えた。葉を落とした木立ちと、陽光が気持ちよい。歓談の続き。近き再会の願い、お別れ。
岩村はヒッソリしていた。藤時屋で荷を解いたが、前回も今回も、コロナ騒ぎで言えば記念すべきタイミングで私たちはとまったようだ。まず、佐藤一斉顕彰会会長鈴木隆一先生夫妻を訪ね、挨拶。女城主蔵元見学のあと、藤時屋のご主人渡會延彦さんから旧藩における時計の役割と時計屋の歴史を学んだ。時を告げるのが権力の特権であった時代に店いた老舗だけに、民主化されるまでの逸話を、ロンジンなどの例を引いて教えられたり、精密時計修繕の名人に感心させられたりした。その過程で、戦艦大和の乗組員の手記『主砲指揮所に地獄を見た 小林健』がこの地で誕生していたことも知り、異なる角度から無用の長物にした報告に触れた。
夕食は前回訪問時の会食を再現し、深夜まで歓談。タイムスリップも試みた。
翌朝は今年初の氷点下の朝に肌がピンとはった。鈴木先生から前夜の話題を紐解いた資料を頂いた後、少し散策。宿屋を開こうとする資本が外から流れ込んでいた。
歴史ある街だからだろうか、小道具屋を覗くと、アメリカに占領されていた時代の食器がさりげなく並んでいた。日本ではなぜオキュパイドジャパン時代の存在自体を知らない人がいる。歴史から数年間の事実や意義を消したまま、胸を張って愛国心や民族の真の誇りなどを語ることはできないと思う。
24日、両日本アルプスを眺めながら諏訪湖一周。諏訪市原田泰治美術館見学。片倉財団千人風呂を横目でにらみながら上・下諏訪大社を訪ね御柱に触れ、雷電の迫力を感じ取った。境内で、若かりし頃「おんばしら(御柱祭)」に参加したという人に会った。樹齢、200年ほどの樅(モミ)の巨木を7年に一度切り出すが、御柱際は2年後だと知った。願わくば泊りがけで再訪したいたところだ。
最後の訪問先は「かんてんパパ」。消費材、とりわけ食品を扱う企業の1つの好ましい事例、賢い家族連れにとってありがたい施設であり、好ましき社会貢献のあり方と見た。
健康と食の関係に興味がある人には、とても魅力的な見学施設だろう。
広大な丘陵地に立地するが、その庭の手入れは社員の手で起こらっていると聞いたが、詳細は不明。だが、私なら。喜んで就職し、その手入れに要する機器を活かす腕前を学びたく思った。ゴルフやマージャンなどにつぎ込む時間を、こうした活動に活かし、生きる力を身に着けたい。
また、芸術にも注力しており、特別展を求めて足しげく通いたくなる衝動にも駆られた。「かんてんパパ」に肩入れする立場ではないが、賢い家族にとっては格好の訪問先、上手に活かし得る施設ではないか、と思った。
帰宅翌日、最終日のジョー・オダネル写真展を訪ね、久しぶりに天神さんの朝市を覗いた。
過日、ノンフィクション作家梶山壽子さんから、公立小学校でカリキュラムに従わない授業を繰り広げた元教諭の話を伺い、心惹かれた。その後、まず梶山さんがその教諭を取り上げた著作を届けて下さり、目を通し終えた。その日にご本人から著書が2冊届き、読み始めた。これが当月2度目の「足し算ではなく掛け算」の体験になった。
月初めに、平野さんの提案とその意義説明に触れて、「これは」と、「足し算ではなく掛け算」にする工夫と心躍らせたが、その再現だった。
当月は幾つかの道具を買い求めた。まず、ある相談事でのミーティングで市内に出かけたが、その帰途、前回目に留めていた金物屋に立ち寄った。探し求めていた手打ちの農具を見かけていたからだ。2つの余分を含め、4つ買って帰った。実は、ここ30年近く、この類の手打ち製品に出会わず、やむなく大量工業生産の代替品で間に合わせていた。その代替品で後10年やそこらは充分に間に合うが、躊躇することなく買い求めた。
だが、ガッカリすることがあった。この店の主人は、その鍛冶屋は「別注には応じない」とにべもなく応え、「すぐに、『何本発注してもらえるか』と聞かれるんですわ」と続けたからだ。私は「1つなら、万の単位の値になりそうですが」との答えを覚悟していた。だが、この主人も、その鍛冶屋も、生身のロボットのごとき発想になっていた。
次に買い求めた道具は岩村の古道具屋での「横づち」だった。これらの装具を妻はとても喜んだ。横づちの隣のカボチャは千畝記念館の側の食堂で買い求めた。
アイトワの新しい道標・道標が2つ出来た。かつて未来さんが母親のためにこしらえた大工製品を見知っていたので頼んだものだが、私が作るモノとは大きく異なるデザインであっただけに、とても嬉しかった。よき建築事務所になってほしい、その可能性は大いにある、と思わせられた。
久しぶりの昆虫との出会いもあった。おそらく、カメムシは初見のように思う。
監視カメラに関して、ここ半年以上にわたってトラブルが生じていたが、「これが、思い出深い落としどころ」と判断するところとなり、その最後の打ち合わせに望んだ。
「足し算ではなく掛け算に」の体験が29日にあった。これを持て当月の大団円、と思った。前夜、エフエム京都の「アリコ・ピーターズ・レストラン」での山下有子さんと交わしたトークを、妻と2人で軽4輪の車中で聴いていただけに一際だった。
真如堂は初めて訪れる場であり、その本堂での催しだったから興味津々で、だから元アイトワ塾生の網田さんを誘ったが、それがヨカッタ。
アリコ・ピーターズ・レストラン10周年念の催しだったが、広い本堂を埋め尽くさんばかりのファンが集っており、圧倒された。その期待をはるかに超える体験となった。この歳になって、ようやく音楽の何たるかに触れたような気分になった。
寺の本堂故に、しかも折柄、しんしんと冷えている。観光客のざわめきが、パトカーのサイレンが、と様々な騒音も聞えてくる。照明も思ったようにはゆかないのだろう。
一般的なコンサートの、あの咳払い1つがはばかれるコンサートのような様子とはずいぶん違う。それがヨカッタ。音楽のチカラを思い知らされたのは私だけではないだろう。
有子さんの独奏から始まったが、ヴァイオリン、ギター、バーンスリー、そしてタブラの奏者との合奏に次いで、この4人でフィナーレを飾った。
ギターと合奏時に、はっきりと気付かされたことがあった。成川マサノリさんが、「何をしましょうか」と言ったような言葉とそぶりで、有子さんをうかがった。そして互いが「そう来るか」と言わんばかりに、相手の出方にそれぞれ応じて、1つの曲目を仕上げた。2人共に楽譜などもっていない。この2人は小鳥のように、話し合っているんだ、と思った。それが、バーンスリーへ、タブラとの奏者に、そして最後の4人での合奏へとつづいた。終わってみて気が付いたことだが、外部からの騒音も、身にしみる冷気も忘れていた。
「これだな」とかねてからの疑問が解けた思いだった。たとえばペンギン、何万羽がコロニーを組んだ出産時、海から帰ってきた親鳥は子の元に迷わずにたどり着く。おそらくわが子の鳴き声が、あるいは体臭のみを聞き分けるのだろう。
そうした個性的で即興的な演奏が可能な奏者が、が足し算ではなく掛け算を楽しんでいたんだ、と思わせられた。
帰途、網田さんに「今頃?!?」とばかりの顔をされてしまった。「ジャズは譜面など関係なく、会話のようなもの」と聞かされ、腑に落ちた。実は、そこでの生ガキに惹かれてだが、アメリカ出張時に3度も幾度もニューオールリーンズに立ち寄り、そのつどジャズを聞きに出かけており、伏木な心境にされていた。