目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 春爛漫
2 御車返しの桜と不自然
3 佛教大生
4 堆肥の山を更新し、キャベツの収穫
5 人形教室展
6 その他
ピュット、地球に良し、夏への備え
卯月は大変な1日から始まり、実に嬉しい1日で過ぎ去りました。月初めに、私には計3つ(当日に2つ、2日に1つ)の約束がありました。妻は6日から、3年ぶりの人形教室展(ウクライナ義援金募集の準備を随分前からしていた)を開く手はずでした。にもかかわらず、北欧からの帰国後、チョット無理を重ねて体調を崩し、「もしコロナだったら」大変、と「お店を閉めよう」との声さえ飛び出す始末になったのです。
この心配は、瞬時に幾つもの想いを頭の中で駆け巡らせ、即座に「NO」の返事を下させたのです。まず、北欧での学び。次いで北欧で受けた日本からの2本の電話。帰国して感じたこの春の常ならぬ訪れ方。そして、もし今も短大の学長であったのならとの想いなど、でした。2本の電話の1本は、東京から関西旅行中に立ち寄りたい。もう1本は佛教大生からで、クラブ閉部(コロナ問題の影響)の連絡でした。
結果は、かかりつけ医の判断、京都市当局の定期的な電話相談や支援物資、友人たちの大いなる助成、並びに、幼い頃の体験に助けられ、事なきを得たのです。まず妻は、即座に母屋に移住。私は戦中戦後の記憶(重症の結核患者であった父を5年間、母は小さな家の1つ屋根の下で看病し、病院が見放した父を発病8年後に治させたなど)を手繰り、判断して、3つの約束の内の2つは遠來の来客でしたが、「コロナかもしれません」と断わり、私なりの十分なる配慮の下で面談、などの工夫です。
5日に市当局から“要注意での外出”を許されました。1m以内で挨拶を交わした人とは4月20日に、電話で何ら異常なしを確認。かかりつけ医に状況を報告しました。
その後も、数人の友人の助太刀などに恵まれ、実に楽しく月末を迎えたのです。この間は(1日の夕刻、年に1度の町内役員引き継ぎ会に、妻の代理出席さえ控えた)残念なこと。“一枝に一重と八重の花が咲く桜”の確認。GReeeeNのHIDEの母親が、妻の元生徒さんであったと知った喜び。あるいは夏野菜の準備をし終えたなど、実に多様で多彩でした。
4日、養蜂の師匠・志賀さんを(京都に来ているので、と連絡があり)迎え、巣箱にルアー設置。6日、妻の人形教室展会場を知範さんと訪れ、友人と歓談。その後、常照皇寺まで“御車返しの桜”を見学に出掛けたわけです。8日、右目が上部から1分ほどでブラックアウト16:44。3分後に復旧。9日に鈴木夫妻、10日に望さんが来訪、が上旬です。
中旬は、妻はハッピーのシャンプーと、私は堆肥の山の更新作業で始まりました。その後、12日にエンドウの蔓吊り。14日、午前は内山さん、午後に伴夫妻の来訪。16日、今村さんと大仕事(畑に腐葉土投入)、夕刻西村ホームびるだー(HB)来訪。17日“匠の祭典”の打ち合わせで外出。18日、下村知範さんと大仕事(“ブランコ人形苔庭”でカシの木の剪定)。20日、朝は歯科医で治療。帰途は徒歩で、緩い上り坂を2200歩30分。昼は池田望さんと中華おこわを賞味。そして、電話で万全を期し、8日までに触れ合った方々と異常の有無を確認。この間に、拙論文は出版社に廻っており、畑の様子は、北欧旅行での遅れをほぼ取り戻す見通しがたったのです
下旬は、白砂先生と本拙文の校正で打ち合わせ、で始まりました。23日、土橋一家と今村さんを迎え、2つの大仕事で畑は一変。翌日、6本の畝を仕上げたところに池田望さんが来訪、写真に収めてもらえたのです。その後、妻たちは市長に義援金を託すため外出。私は啄木舎の谷口照恭さんを久保田英和さんと訪問。漢詩がご趣味の人との歓談。岡田さんを迎え、音響士を交えたある打ち合わせ。月末は幼馴染の来訪や中国人留学生との触れ合いに恵まれました。この度のデンマークで知った「ピュット」を思い出しながら、一カ月を振り返りました。
~経過詳細~
1. 春爛漫
この春のトピックスはまず、「Pyt=ピュット」という言葉をデンマークで知ったこと。北欧旅行中に畑がすっかり“晩期の菜の花畑”になっており「何かが、おかしい」と感じたこと。
「ピュット」とは何事も前向きにとらえようと、励ますかのような言葉で、前回知った「ヒュッゲ」の前奏曲のように受け止めた。“晩期の菜の花畑”の典型は、2種育てたブロッコリーだった。一方は既に長けており、かろうじて他方がスティックブロッコリー(花軸の長い未開花の花芽)として採取可、程度の最晩期だった。
畑で自然生えするケシは、4月18日に咲き始めた。20日にダイコンの種房を食材として採った。
この時期は、わが家の食卓では“菜の花料理”が主役になる。それは、私たちの体が(人類史的に見て)冬に不足がちになる栄養素を、この時期に(菜の花などを摂取することで)大量補給し、年間バランスをとる構造であるに違いない、とおもうが故だ。
食材面から見れば、この春は3つも新たな春の喜びに触れた。それは “菜の花パスタ” “菜の花をそえた中華おこわ” そして“大根の種房を活かしたサラダ”。
先の2つは池田望さんのおかげ。“菜の花パスタ”は写真を送って下さった。後者は、望さんの予期せぬご好意に触れた妻(10日のこと)が、「私には何ができるかしら」と思案し、20日に見える「望さんに」と、準備した。そうとは知らぬ私は、そそくさと(写真に収める前に)望さんの分をよそってしまった。
望さんの予期せぬご好意は2冊の写真アルバムだった。初日に会場を訪ねていただけた時から、会期中に収録された写真のアルバム。とりわけ妻は “起き上がり小法師”( 義援金募集のお礼になった)の多くが(まだ残っていたので)収められており、大喜び。
北欧から帰って、最初の畑仕事は、帰国9日目の5日のこと。畑のあちらこちらで茂る “長けたナズナ(ぺんぺん草)” 抜きだった。ここまで増えていようとは思っていなかった。
わが家ではその昔、一旦この庭からぺんぺん草を絶やしている。“眼の敵”のように見て、長年にわたって抜いて、抜いて、抜きまくり、“成果” ではなく “結果” を残した。
ナズナは七草粥の食材として必要だ。「まさか絶えてしまうとは」思っていなかった。痛く反省し、10年ほど(?)前から、急ぎ復元作業に取り掛かった。
2年ほど前から、ヤット畑で自生するようになり、喜んだ。だが、このたび(2週間も家を空け、適当に間引くことが出来なかった故に)再び制御不能になりかねないほど種を付けさせてしまい、慌てた次第。
この度のぺんぺん草抜きは “第2次リベンジ作戦” の始まりになる。これまでの10年ほど試みてきたことは “第1次リベンジ作戦” であった。つまり、わが家の庭の一部である畑(ぺんぺん草を生やしたくないところ)で何とか復元させただけ。
“第2次リベンジ作戦” は、畑で種を収穫しながら “ヘビなどのサンクチュアリとコリドール(野草を茂らせる場)” にまき続け、自生化させ(毎年正月7日の早朝に、七草粥用に)摘めるようにする作戦である。それがかなえば、畑からは消し去る。
このぺんぺん草との格闘は、わが “小さな時空” での体験や繰り広げた試み(野生の生きもの特性?!? に触れた)だが、この拡大版は、地球を、生きとし生けるものの大きな庭と見ることであり、それが“真のSDGs”の核心であろう。たとえばブラジルの熱帯林。それは地球人だけでなく、生きとし生けるものの肺に見る心、ではないだろうか。
一輪車一杯分のペンペン草は、これまで通りに “3か所のサンクチュアリ” と コリドール(渡り廊下)の1カ所まで運んで、自生することを願い、捨てた。
この卯月、最初に満開にさせた花はハナズオウ(目立つがゆえにそう思っただけかも)だった。マメ科植物の灌木で、無数に(花の数だけ)果実をつける。だが、この庭では、種を落し始めて30年(?!?)にして、やっと1本だけ跡継ぎが出来て、花が咲き始めたに過ぎない。
それはエゾヤマレンゲでも同様。40年来、1本だけ芽吹き、2015年に初めて1輪の花を付けて、今に至るに過ぎず、2本目は未だ芽吹いていない。
ムサシアブミ、ユキモチソウ、あるいはウバユリは、1986年から10年ほどの間に、自生を願って持ち込んだが、ここ数年、やっとその甲斐を実感し始めている。ムサシアブミは確実に、後の2者も勝手に、芽吹くようになったからだ。ムサシアブミとユキモチソウは小鳥が糞で、ウバユリは風が、一帯に広げる。ユキモチソウは25日に花をつけた。
オドリコソウが(侵入したシカに一旦丸坊主にされたが)旅行中に見事に再生。防御の柵を(シカが再侵入した形跡がないので)20日にとり除いたが、満開時期を迎えていた。二か所目の自生地を、死ぬまでに作りたい。
シカの侵入問題で言えば、ギボウシが思い浮かぶ。かつては、幾種かのギボウシが随所で咲き誇る庭(山野草の師匠であった故吉田俊夫さんのおかげ)であった。
だが、よほどシカには美味(ヒトの食用になり、食用ギボウシもある)とみえて、多くは絶えさせられてしまった。今年は、残っている分を株分けし、再生元年にしたい。
畑ではついに、ホウレンソウが咲き始め、アイトワ流収穫法を学習した。
北欧からの帰宅時、長けて蕾を付けていたので慌て、その後10日の間に3度も夕食に “ホウレンソウ鍋(ホウレンソウと豚肉だけのハリハリ鍋)” を所望した。その後、残った3分の1ほどが花を咲かせ始めたわけ。そこで、最後の「よいところ取り」をしたが、おかげで2つのことを学ぶことができた。
まず成長が遅れて日陰になっていた分は、まだ蕾さえ付けていなかった。次に、早く長けて、妻が軟らかい部分を摘み取っていた分は“脇芽”を出していた。つまり、工夫次第で、ホウレンソウの収穫期を伸ばせそう。
良いところ採りをした残りは、堆肥の山に(来年の野菜を育てる肥料として)積む。だが、戦時中なら「この大部分も食用にしていなぁ」と振りかえった。そういう時代が、私の目の黒い間に来そうで心配だ。
第2次と第3次のスナップエンドウの畝の一帯を除草。
ついで、昨年の11月に、余った苗を(第1次ツタンカーメンとスナップエンドウの余り苗を)捨てずにキャベツの畝の端などに植えておいたが、それら蔓の整枝に取り組んだ。
いずれもきれいな花を咲かせ、実を結んでいる。
2. 御車返しの桜と不自然
人形教室展に出かけた帰途、この機を失せば「来年になりそう」とみて、下村知範さんと断行したことがある。常照皇寺での「御車返しの桜」の見学。
境内には、光厳天皇・光明天皇お手植えの国の天然記物「九重桜」や岩倉具視が御所の紫宸殿から移植した「左近の桜」だけでなく、後水尾天皇命名の一重と八重が一枝に咲くという桜がある。
その木を探しあて、見上げた。八重ばかりで一重が目にとまらない。「一重はなさそうね」と、語らいながらその背が高い古木の周りを動き回っている人もいた。望遠カメラを持った人に、探ってもらった。「なさそうですなぁ」とおっしゃる。
前回のこと、この「御車返しの桜」の一枝から、ある庭師が増やしたという木があり、今では大きく育っている、と聞いた。その木も探し当て、しげしげと眺めた。一重は目にとまらなかった。
半ばガッカリしながら帰路についた。半ば安堵もした。一枝に一重と八重が一緒に咲くなんて、本当に生じるのだろうか、との疑問と期待にケリがついた気分。
当日の夕刻だった。知範さんに「一重があった」と言って、証拠写真をメールで送ってもらえた。「一輪であれ、あったことが分れば充分」と、感動し、感謝した。
2日後のこと。自分の撮って帰った写真をPCに取り込み、確かめた。一重が2輪も映っていた。おかげで、もう1つの謎も解けた気分。それは、この木の名称。なぜ「御車返しの桜」と命名されたのか、不思議におもっていた。
私の写真には一重(の五弁)があと1~2輪映っていそうに見える。知範さんの方の五弁の一重の隣の一輪は、六弁であるかのように見える。だから、その昔、この桜を見た人が帰路の「御車」で、「不思議だなぁ。一重の花が咲いていた」などと言い出したに違いない。その一言が「御車」を引き返させることになり、後水尾天皇の命名に結び付けたのではないか。
この連想は、2つのことをおもい出させた。当日の帰路での一時停車と、2つ目は5日前の8日に、来客と愛でた一陣の春風だった。
一時停車は。往路で見かけたある異様とも感じた光景を眺め直すためであった。その光景が展望できる一角まで戻ると、ロープが1本張られており、中に入るには駐車料500円、と表示されていた。だが、一帯はガラーンとしており、見張り番小屋も空だった。ロープをまたいで侵入し、そのヤマツツジの群落を凝視した。
量で面食らわせる「人工の不自然」に過ぎないことを確かめ、長いはしなかった。早晩、この美意識(いまだに軍事パレードや女性の商品化などがはやっている国や地域では人気がある)は、循環型社会の意識が行き当たれば語り草になるだろう。
8日のこと。来客は、お嬢さんを同伴された。コロナ感染者として私は用心を要し、おもったように歓待できなかった。だが、一陣の風に救われた。お嬢さんがハッピーと遊びに行き、戻って来られた時のこと。ほんの1分ほどだが、一陣の春風が吹き、ヤマザクラとベニシダレの花吹雪がお二人を愛でた。
3. 佛教大生
佛教大学の “社会福祉研究会” は廃部が決まった。北欧旅行中に長谷部佑馬さんから知らされた。過去2年余にわたるコロナ騒動がもたらした問題でいえば、これが私にとって、最も残念な思い出、として残りそうだ。
長谷部さんは過去1年間、3回生になりながらこの部活動に関わってきた。以前は、2回生と1回生が主となってこの学外活動に当たっていた。だから、長谷部さんの姿に、閉部を避けようとする気概を感じさせられていた。電話の向こうで「今年も入部者がなく、スミマセン」と彼は発言し、「誠に残念だ」と返した。
むしろ今こそ立ち上げるべき部活動ではないか。
これまでの付き合いの間に大学祭を3度覗いている。この部員のみが、身を張って循環型社会に則した活動に取り組んでいた。
ごみの分別収集や、大学祭期間中の使い捨て食器を回収し、洗浄し、使いまわす活動などにも当たっていた。
このクラブとの付き合いは、元をただせば、内藤正明先生が(京大を退官し、佛教大に移られた2004年の夏に、授業の一環として)引率された学生の一人にさかのぼる。後日、その学生・徳本英明さんがやって来て「僕たちだけで来たのでは受け入れてもらえないか」がキッカケだった。やがて軌道に乗り、月に1度のペースが原則で、18年間も続いた。
内藤先生は『エコトピア―環境調和型社会の提案』の著者で、長い付き合いがあった。京大時代は年一度、講義の一環として学生をアイトワに引率された。もちろん、その他幾つかの大学の教官や教員も学生を引率された。その後、学生が、単独で、あるいは仲間連れで訪ねることは多々あった。長く続いた例はない。
条件は、私が行う作業の肩代わりしてもらい、その相当時間の話し合い手をつとめる、だった。当初は男子学生が3人で、とか多くて数人で、数カ月続いた。作業の道具と昼食を用意して迎えるのが楽しみになった。
やがて女子学生が混じり、高い木にも登り始めた。ある日、来訪人数が9人と知らされた時から、軍手と昼食持参、そして怪我などをしても自己責任で、との条件を加えた。それが驚くべき現象を生じさせた。
かねがね学生が10時の集合時間を厳守する姿勢に感心していた。だが、10人前後にもなると、1人や2人の遅刻や早引きが生じかねない。驚いたのは、そのいずれもが走って来てたどり着き、走って帰っていったこと、ではない。そのすべてが、アルバイトの都合であったことだ。
たくさんの思い出ができた。大勢が息を合わさないと出ない作業や、私の手ではもはや一人ではできない作業に、むしろ進んで当たってもらえた。
福祉関係の道に進もうとしている人が多かった。それだけに、こうした人の善意を踏みにじるような老人にはなりたくない、と強く思った。
囲炉裏場の改装は、その最たる例。なだらかな坂地にあった囲炉裏場を、311を契機にして(古瓦を割って敷き込んで水平にかさ上げし、排水設備を新設するなどして)いざという時にテントが張れるようにする工事だった。
月に1度のペースだし、他のテーマもあったから、完成までに何年かかかった。その意義を継承し、年度を超えて完成させた。
この間に、女子学生の参加比率がだんだん増え、ついに女子学生が年次リーダーになる年が混じり始めた。それを記念して、庭にトイレができた。
ある日、リーダーの女子学生に、屋外用のさびた炊飯釜を、コールタールで塗装する作業に取り組んでもらった。彼女はしばし考え込んでいた。目を離している間に、見事に塗り上げた。自らのジーンズの膝あたりを少し汚した他は、どこにもコールタールを漏らさず、汚しもせずに塗り上げた。塗り忘れがなった。
その段取りと技のほどは、今も私には謎だ。
ある女子学生が発した質問に、仰天させられたこともあった。「この生活で、辛いっていうことはありますか」。しばし返答にうろたえた。「君が、結婚したとしよう」と切り出し、夫が「あなたが好きなら、やっておればよい。僕はパチンコに行ってくる」と言ったらどうだろう、とつないだ。「それは辛い」と彼女は呟いた。
その時から2年後(?)に、彼女は一人でヒョッコリ訪ねてきた。「それは辛い」と彼女が呟いたところに案内した。
ある年は、1年の締めくくりの日に、記念品を贈られたこともる。
卒業後に友達づれで訪れ、ついでに一仕事に当たり、回顧してもらうようなこともあった。
最近の事例は、山澤友裕さんの来訪で、今月の5日。6~7年ぶりだった。彼は2016年の春にも迎えている。その折は、かつて植樹したクルミの木と再会した。
このたび、彼らの写真を整理した。山澤さんは徳本さんと同期生であった。
コロナ騒動中のこと。もしこの騒動が、私が短大の学長中に生じていたら、と心配したことが、幾度かある。
コロナ騒動のおかげで、と言いたくなる「有形無形の資産をわがものにする個性的な時間にしなさい」と、私は助言したかった。最低でも、学生には、自己リスクの学外活動は推奨したい、と思ったものだ。その推奨先として、勇んで受けて立てるアイトワでありたかった。
それはともかく、短大生の多くは、対面教育も、自然の中でその節理に触れることもなく、卒業したのではないか。それが学生の未来も守ったことになればよいのだが。
国は、未来世代のために、コロナ騒動の総決算を実施できるのだろうか。昨年度の貿易収支が大幅な赤字であっただけに、真の国の安全保障上の問題として、実施が望まれる。
4. 堆肥の山を更新し、キャベツの収穫
ペンペン草は5日に、畑からあらかた抜き去った。10日に菜の花畑に手を付けて、その半分近く抜き去って、堆肥の山の更新に活かした。
まず、これまでの山に積み足し、台所から出る生ゴミを、2回分ぐらい放り込めるスペースを作った。次いで、この山の側に新たな山の基礎をこしらえた。
この一角で、カシワの木が花を咲かせていた。この新旧の山の間には、2年前の山があったが、その堆肥の取り残しが残っていた。
20日、更新する山に、新たに抜いた菜の花を積み、中央に出来た穴の底にキャベツの鬼葉などを敷き、生ゴミを投入できるようにした。22日、長けたホウレンソウなども抜き去って、新しい堆肥の山に積み足し、最初の生ゴミを投入した。
この時には既に、古い方の山は随分かさが縮み、低くなっていた。この日、タツナミソウが満開。
古い方では、それまでに放り込んだ生ゴミは、カラスも見向きしなくなっていた。金網(カラスや小動物が生ゴミを荒さないようにする)を移動させた。この日、ムラサキハナナ(諸葛菜)も満開になり、スパニシュブルーベルが八分咲きになった。
キャベツは16日の朝に初収穫。この時まで妻は収穫していなかった。そのオカゲかセイで、小さめの玉だったが、ズシーンと重みを感じた。
目方を計った妻は「重さを当てて下さい」と叫ぶ。「重かったョ」と畑から持ち込んだ時の体験で応じた。「この大きさで、2.4kg」と、鬼葉の目方も計り、自慢げだ。
「案の定」妻は、鬼葉の良いところ取りをして、刻み始めた。私は、養鶏担当だった昔を振り返った。すべての鬼葉を洗って細かく刻み、フスマ(小麦の製粉時にでる皮)をまぶしてニワトリに餌として与えた。
妻は、ここまで収獲せずに放っていたことに、想いをはせているに違いない。もちろん「ずぼらをした」つもりはなく、妻なりの豊かさ感に酔っていたはずだ。
妻は “預金通帳” の “残高” よりも、畑で野菜が豊かに育っている方が豊かさを実感する質だ。だから、畑じゅうを菜の花畑にしてしまう。
冬野菜が蕾を付け始める時期になると、まだ蕾を付け始めていない菜を探して引き抜いて用いるのではなく、妻は蕾を付けた菜の “花芽” を(待ちわびていたかのように)摘み始め、食材にする。
摘まれた菜は、脇芽を次々と吹かせ、新たな花を付ける。その間に、蕾を付けていなかった菜も、菜花になる。やがて畑じゅうが菜の花の畑になってしまう。今年は、その典型になった。
妻は奈良の山奥で、戦後に生まれている。その母は戦時中に、過労で倒れた夫と3人の子どもを連れて、その開発地に入植した。その無医村では、コンニャク芋と菜種油が現金収入の糧であったらしい。だから妻は、菜の花畑に安堵するのかもしれない。
「昼は、お好み焼きにしよう」と言ってあった。だから、妻は丸いキャべツをバシッと音を立てて2つに切った。予想通りに主軸が、太く、長く伸びて、その先に花芽を育て始めており、上部の葉を圧迫していた。
この時期の花芽と(圧迫されながら裂けずに頑張っている)葉が、私には一番(香り高く、野趣に富み)美味に感じられる。
この日から18日にかけての3日間に、2つの大仕事が片付き、昼食は共にこのキャベツを活かした “お好み焼き” だった。16日は、今村昇さんを迎え、6本の畝(前もって菜の花などを引き抜き終えてあった)に、腐葉土を運び込む大仕事に取り組んでもらえた。
18日の火曜日は、知範さんを迎え “ブランコ苔庭” と呼ぶ一角で、数本のカシの剪定に取り組み、剪定クズは2か所に分けて残し、後日囲炉裏場まで運ぶことにした。
この間の17日、望さんに喫茶店の新メニュー “ローストポークサンドイッチ” の撮影に駆けつけてもらった。この機にとばかりに私は、キャベツ談義を繰り広げた上で、キャベツを持ち帰ってもらった。
23日は土橋一家を迎える日だった。そのためにカシの剪定くずを “2か所” に(喫茶店に至る道を挟んで左側・金太の小屋の側と、右側の“ブランコ苔庭”に)分けて残した。
“ブランコ苔庭”の方では、生け垣の内側の脇に、道行く人の眼には見えないようにして、大量に残した。
23日の作業の主テーマは、この “剪定くずの処置” だった。日曜日で喫茶店は開いている。だから第一義は、喫茶店の来店客に迷惑をかけないこと、にした。第二義に、土橋一家の6歳の息子・奏太君に、良き感化をおよぼすように、をあげた。
子どもは、母親が熱心に取り組むことを真似て、遊びにする。そこで昇さんにも参加してもらった。この “2か所” に分けた置き場を(来店客の邪魔にならないように)活かし、いかに囲炉裏場まで剪定クスを運び込んでしまうか、が課題。昇さんは、ご自身の息子を2度も庭仕事に同伴された。その想いを活かし、第二義を第一義相当にしてもらえるように願ったわけ。ことはこの期待通りに運び、剪定クズは、手早く見事に囲炉裏場に運び込まれた。
今度はこの剪定くずを、燃やして灰にし易いように、全員でハサミやノコギリを使って処分しはじめた。これも午前中に片付いた。
ちょうどその時に、妻が私の昼食を運んできた。昼食の場を、急ぎパーキングに用意した。そのテーブルに、私の昼食・イチゴも活かしたサンドイッチが最初に載った。それを奏太君が見た。次いで昇さんが既製のおにぎりを取り出し、最後に土橋一家の手作り昼食(お惣菜付きのおにぎり)が並んだ。
この間に、困ったことが生じていた。奏太君が「パンがいい」とむずかりだしていたことだ。大人の判断の下しどころとなった。
母親の佳代さんは「与えないでください」と、その考え方を明らかにした。「嫌なら食べなくてよいのよ」と奏太君を諭した。私は幼い頃の、選り好みを厳しく諌められた思い出を振り返り、安堵した。清太君はキチンと食事を済ませた。
土橋夫妻は家庭菜園に取り組む計画がある。昇さんは大きな農家で育った。話はおのずと弾み、「ならば」と、午後も作業を継続することになった。昇さんが1週間前に腐葉土を運び込み、敷いた畝が4本あった。大人4人で耕すことになった。私が1人で2日に分けて、と目論んでいた作業だが、1時間強で片付いた。
翌24日(月)、この大人4人で耕した畝を、散髪で言えば際剃りのごとき作業(畝の両側を一スコップ分堀りたす)を施し、予報通りに火曜と水曜に雨が降ることを期待した。山の向こうに日が沈んだ時に仕上がった。
丁度その時に、ヒョッコリと望さんに立ち寄ってもらえた。オカゲで、いつでも夏野菜の苗を植え付けられるようになっていた畝を、撮影してもらえた。
3つの意味で、この写真は記念になる。まず、昇さんの腐葉土投入という大仕事。次いで土橋夫妻と昇さんに助けられた腐葉土の鋤き込みという大仕事。この大きな2つの助太刀のおかげで、卯月の内に夏野菜の苗が植え付けられそうになったこと。
この2つの助太刀がなければ、今の私ならフル稼働しても、数日遅れになり、月内に夏野菜の準備はできていなかったところだ。その後、26日にかけて雨がシッカリ降った。
おかげで、北欧旅行やわが身のコロナ騒動による日程の遅れを、ほぼ取り戻せた。
5. 人形教室展
第24回展は、副題として「おきあがり小法師に ウクライナへの支援を託して」を掲げ、恒例の京都文化博物館で6日から4日にわたって開催した。
100数十のおきあがり小法師と、手作りの義援金箱が用意された。初日に半数の小法師が各人・各家庭に引き取られていった。3日目にはすべてがなくなり、最終日に数点出品できた生徒さんがあり、その分もたちまちにして義援金と化した。
この募金活動は、NHK京都局のTVで(初日の午後一番に取材を受け、夕刻に)ニュースとして紹介された。この影響力の大きさに出展者の皆さんはとても感謝した。
会期中のBGMも効果的だった。久保田英和さんは4日間を通して、次いで池田望さんは初日の見学後、最終日まで、それぞれ得手とされる楽器を演奏してくださった。この旋律とリズムは会場を随分和ませ、盛り上げた。
児童文学作家の今関信子先生は初日の昼に、劉穎さん(『未来が微笑みかける生き方』の中国訳に当たって下さった)を誘って訪ねる、と知らせて下さった。知範さんに月記の原稿と資料を引き継ぐ日だった。彼の世話になって駆けつけた。
今関先生と劉穎さんだけでなく、友人の高橋洋次夫妻をはじめ、幾多の知友と旧交を温めることができた。
“おきあがり小法師”の中には、到底おきあがれそうにない作品もあった。70数年昔の思い出に耽った。それは小学生時代の工作の時間だ。ナイフを使う細工に夢中になり、指から血が出ていたことに気付いていなかった。女の先生が、そうと気づいて「森クン、夢中になったのでしょう、気をつけて」と褒めてくれた。
各人の自由作品には、異なる興味をそそられた。世の中に一つしかない “雛人形” の前で「キット、お孫さんにでも…」と、しばし立ち止まった。
端午の節句に私は、2人の「祖母から贈られた」と聞いた品をおもい出した。父方の祖母は石灯篭で、私は喜ばなかったようだ。だが今も庭で生きており、祖母の選んだ気持ちにときどき想いを馳せる。母方の祖母は騎馬武者と兜を掲げ立つ武者の2つの人形だった。当時の私はとても喜んだようだ。だが今や、行方不明。
かつて中国の雲南省で、妻への土産として買い求めた民族衣装もおもい出した。使い古されたその衣装を手にした妻が、この人は左利きで「器用で、働き者だったんだ」と呟やいたことが今も心に残っている。その左利きが手縫いし、刺しゅうし、使い込んだ代物は今も、幾つかの人形となって生きている。
3年ぶりに開催できた教室展だった。妻はつくりためていた作品も出展した。募金活動もできた。加えて、池田望さんは、会場の様子や作品を2冊のアルバムに収めたり、出展者の集合写真を撮って、皆さんに贈って下さったりした。教室の皆さんにとって、とても印象深い催しになったようだ。
人形展が終わった後で、会場で手作り募金箱を開けると485,530円もの義援金が入っていた。27日に、ウクライナの姉妹都市キーウ市に届けてもらえるように、と京都市長を訪ね、託すことができた。
6. その他
A、流動食に始まり、季節の美味の賞味で締めくくれた。卯月は、妻が用意した流動食さえ食べられない朝から始まった。
その6時間後に約束通り、厳重なマスクをして最初の来客を迎え、事情を伝え、距離をとった応対をすることになった。だが、ほどよい一陣の風が、私の気持ちを察したかのように桜吹雪で来客を愛でたわけだ。
帰国すると、あらかたの山菜が長けており、庭の山菜を賞味できない年になりそうだ、と嘆いた。その後次々と3軒から、わが家では採れない孟宗竹のタケノコをいただくという幸せに恵まれ、気を取り直した。
さらに、下旬になって“ウコギ飯”と、自生のヤマウド(2種ある1種)やミツバを活かした総菜が食卓を並び、この春も有終の美を飾れたような気分になった。しかも、青い方のヤマウド(一旦絶やしかけた)も立派な芽をふいたいたことに気付き、再生の期待で胸を膨らませている。
B、中村博宣父娘の来訪。2日の来客は、大垣時代の10年間を通してとてもお世話になった中村博宣さんと、大学生におなりのお嬢さんだった。だから、このお嬢さん世代が迎える未来に想いを馳せ、選んだ話題もはさんだ。いつも中村さんとは、とてもスパンが広くて奥行きの深い話題に夢中になったものだ。それだけに体調さえよければ、と強く願う一時だった。
C、多々献本に恵まれた。それは “地元史に精通” で、広く知られる久世仁士さんの『百舌鳥・古市古墳群をあるく』を頂いたことから始まった。
おかげで、先月の徒歩体験(北欧の旅で平均して日に1万歩)や、人生最初の飛行経験(入社した翌1963年に、とても気が合った高橋宣博さんに誘われ、八尾空港から飛び立って古墳群の上空を遊覧した)をおもい出し、今度は歩いて巡ってみたくなった。
高橋さんとは後年、“エコヴィレッジ” 構想(事業化の夢)を語らう仲になっており、入社16年後に、そのモデル作り(真価の実証)に私は踏み出すことになる。残念ながら彼は専務で発病し、引退。かなわぬ夢になった。
D、鈴木伸幸夫妻を濃厚接触者にする。9日、かつてわが家で長期逗留したことがある伸幸さんが、さちよ夫人と来訪。体調を崩したあと、マスクなしで過ごした最初の2人にしてしまった。過去2年は、来訪者をマスクなしで迎え、敬意を表したつもりになっていた。だが、このお二人とはウッカリしてマスクをし忘れたもの。
X、CGH活動を初めて知った。友人の中村雅子さんから『みちびき』が届いた。公立の中学校で繰り広げた活動の紹介もあった。こうした活動が近年の公立中学校で繰り広げたられていようとはをおもっていなかったので、驚くとともに、感心させられた。
E、ハッピーの毛替わり。10日から屋敷内別居を解除。発病後最初の風呂。翌日、妻は毛替り期に入ったハッピーのシャンプー。
F、内山栄一さんの再訪。14日、内山栄一さんを迎えた。四国の松山にある知人宅(砥部焼の窯元であった)を訪ねた話題も紹介され、訪れたくなった。
G、伴夫妻来訪。14日午後、近況を聞かせてもらい、清太君が発芽させた珍しいトーモロコシの苗をもらった。久しぶりに育て(近年は畑の日照時間が短くなり、育てていなかった)もぎたての味を期待することにした。
H、匠の祭典の打ち合わせ。17日、京都建築専門学校の町家の校舎で、収録に関する打ち合わせがあった。下村知範さんも参加した。
I、お予期せぬ午後のお茶。18日火曜日(喫茶店の定休日)の午後、妻が門扉越しに語らい、迎え入れた人たちがあった。
カシの大剪定を終え、知範さんと午後のお茶をとることになったが、この人たちとご一緒させてもらえ、楽しい一時となった。公務で来日、1年前に京都を訪れ、その折にプラッと立ち寄ってくださった人。そうと気づいた妻は迎え入れた。このたびはロンドン在住のお嬢さんをご案内の途中だった。
J、サンコウチョウの巣。この日、カシの剪定中にサンコウチョウの巣を見つけ、感激を新たにした。この小鳥も、新建材を巧みに用いていた。常は、巣の外部に張る苔をクモの巣で固定するが、スプリットプラスチックのひもを廃物利用していた。
「賢い!」と妻は感激したが、私は「?」「これも本能?」。
K、ボーカルグループ『GReeeeN』。リーダー・HIDEのお母さんが、妻の人形教室の生徒さんだったことを妻も知らなかった。『それってキセキ』やアルバムなどをいただいて初めて知った。4人はいずれも歯科医師とか、素敵な生き方だと感心と関心。
L、2人で除草の半日。20日午後、何か月振りかで妻と、同じ庭仕事に取り組んだ。人形展の後片づけも済み、土に接したくなったようだ。そこで、草ぼうぼうのニラコーナーに手を付け、3分の1を片づけた。今年はニラの株も更新し、このコーナーの活かし方の模様替えもしたくなった。
M、嬉しかった。いつもの季刊誌『星の商人』が届いただけでなく、2冊の雑誌が入っていた。しかも、季刊誌は、特集 “駐在員の旅案内” でNZ(北欧に次いで移住したくなった国)を取り上げていた。
文芸春秋では、岡藤会長は「利は川下にあり」と語っている。「それ(利は川下にあり)を言うなら、当社は“売り手良し” ではない。“三方良し(売り手良し、買い手よし、世間良し)” を旨としている」と付け加えてほしい。
親友の高橋は、この会長が若かりし頃、とても有望な青年だと高く評価していた。
N、白砂先生のレパートリー。21日のこと、SDGsに関わる拙い論文の校正作業時に、話題が膨らみ、また先生のレパートリーの広さを思い知らされた。この拙文では、“三方良し” に “地球に良し” を付け加え“四方良し”にしたかったことや、結婚問題にも触れざるを得なくなっている。
O、カエルのお出まし。22日、モリアオガエルが玄関前に現れた。冬眠明けと見えて、とても痩せていた。トノサマガエルは15日に、テラスにお出ましだった。オレンジプールではいつしか2匹のカエルが住み着いていた。
P、啄木舎訪問。27日午後、ハープシコードの製作者としても知られる谷口照恭さんを、久保田さんと訪ねた。玄関わきに、観たことがない小さな黄色いビオラ(野スミレほどの花)の鉢が飾られていた。谷口さんはかねてから音楽鑑賞サロンも続けてこられた。
この度、近くのパーキングがとれる物件への移動を計画、その庭づくりに助言ができれば、と訪れた。元染色業を営んでいた経営者宅だった。忽然と老人が亡くなられたまま、長年放置されていた。家具。食器。衣類。美術全集。多様な品々がそのまま残されていた。買えば高価だが、古物商は引き取らなかった。
帰路、小さな黄色いビオラを買われたという“無人の花屋さん”に立ち寄った。予想に反して、大きな温室を構えた店だった。継ぐ人もなく、年を取り、店じまい中だった。水やりも怠りがちで、多くは萎れていた。
Q、それはないだろう。28日、初めて深く語らうことができた来訪者(文化財の保護に傾注。漢詩に詳しい)を、再訪を期す想いで見送った。翌日、「見つけました」といって、その新聞を届けて下さった。まぎれもなく、父方の姻戚が住んでいた元某藩邸に関する記事だった。その屋敷内には、築100年の洋館の(吹き抜け部分のあった)書斎もあった。
一家の没落などは世の常だ。だが、文化財は守ってほしい。問題は、文化財として指定しながら(本人の経済力に見合った改築を許さない)、経済的に維持できなくなれば、買い手になら潰させても良い、はないだろう。
R、岡田さんと“音楽の夕べ”。28日午後、岡田さんを迎え、29日にかけて、かねてから計画してきたこの夏の “音楽の夕べ” を共催する骨子を決めた。音響のプロによる会場のチェックと、池田望さんに協力を求めた。今回は招待客にしぼり、スタッフの編成と要領を確かめ、いずれは開放できるように、と願った。
S、夏野菜の準備。28日の夕刻、苗などを買いに出かけ、翌29日朝に第1次の手を打った。ナスビとキュウリ各3本、トウガラシ2種計4本、そしてトマト3種計7本の苗を植え付けた。インゲンマメ、オクラ、そしてモロヘイヤは苗づくりに着手。畑ではケシが満開。
T、有終の美を飾ってもらえた。30日、今村さんの助成を得て、ニラコーナーの改修にとりかかった。そこに、中国からの研究者留学生が立ち寄り、アイトワの動きに共鳴してもらえた。
次いで、小学生時代から旧知の春田さんに、お嬢さんの付き添いで立ち寄ってもらえた。大手家電メーカーを勤めあげ、余生は “地元史に精通” し、 京都のガイド資格を取り “カリスマ・ガイド” として鳴らした。
奥さんは、妻の教室の生徒さんだったが、半身不随で倒れ、それが急速に彼を老けさせた、と私はみる。だが、とても可愛く老け、お嬢さんに甘える姿が羨ましかった。
これがキッカケで、1か月を振り返った。1日は、食が喉を通らない状態で明けた。昼に迎える約束があった。それが励みになり、気を引き締めた。妻は「お断りすれば、それが礼儀よ」と勧めた。私は「結果がすべてを語る事態」に久しぶりに立たされた、と覚悟した。マスクをして、状況を話し、応対した。
相手は、さまざまな状況変化を乗り越え「結果を出してきた」人だ。その人が「冗談でしょう」といった顔で、正常者扱いして下さった。それも励みになった。
お嬢さんに「庭を巡らせたい」とおっしゃったが、付き合えなかった。妻は、床に戻った私には知らさず、お見送りが出来なかった。それを私は叱らなかった。
翌朝9時の来訪者に備えた。それも励みになった。また、卯月の「う」は「初」や「産」を意味し、一年の循環の最初を意味するとの説もある。
おかげで、多くの人に甘えたが、チョット異常な訪れに見えた春を、無事に乗り越えることができた。予期せぬ2人の立ち寄りや来訪に、卯月を有終の美で飾ってもらえたように感じた。
庭では、エビネランや、毒でもあり薬でもあるクサノオウが2カ所で自生し、花を付けた。Pyt!の心、大事にしたい。