目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 春を逃した
2 地下水を活かしたトマトの栽培
3 町家の校舎
4 シカの侵入が止まった
5 デンマークとスウェーデン
6 その他
北欧旅行と春の盛り、そして一文と人生の総括
予期せぬ3つの贈り物から弥生は始まりました。2つは天から。3つ目は教え子から「息子が育てた」と言って、見事なトマトを送ってくださった。次いでチョット慌てました。PC作業を中断し、3日ぶりに畑に出ると、3次と4次のスナップエンドウ(合わせて15株)の蔓が伸び、支柱を求めていたのです。急ぎ支柱を立て、伸びた蔓を吊り上げました。
見ると、畑ではハコベやホトケノザが次々と花を咲かせ始めていました。まず1次と2次のホウレンソウの畝から手を付け、順次除草に取り組むことにして、根気よく抜き去り始めたのです。
翌日は、2種のジャガイモが芽を出し始めたので、まず畝づくりに取り組み、種イモを植え付けました。この前と、間と 後は、ある原稿作りでPCのムシです。3日も、午後の外出までは、PC作業と除草に励みました。外出は、京都建築専門学校の町家校舎で開かれた“匠の祭典”関連の寄り合いです。会場は大正元年上棟の長屋ですから、その見学もできました。当時の、京都の豊かさを目の当たりにした気分にされました
4日は知範さんに自然計画の原稿を引き継き、5日は今村さん父子を迎え、シカの侵入問題にケリをつけた後、古竹と枯れ木の切り取りや、シブガキの木の養生バンド外しなど6つの作業に取り組んだのです。この日、夕刻からコノハヅクが、ホッホーホッホーと鳴き始めました。その後、上旬は、4つのトピックス(村島典子さんが友人と来訪、ドバイの高本佳菜子さんからの電話、心臓の定期検診、池田望さんの来訪)と、一文のマトメ作業で過ぎ去りました。
中旬は、中村均司さんが友人と来訪と午後は“腸内細菌の勉強で今村さんと外出”で始まり、その後は、14日(成田で前泊)から始まる3年ぶりの海外旅行と、その準備(12日は梶山壽子さんに一文の件でお世話になり、翌日は差し歯治療の仕上げ)の2日間でした。もちろん、その合間は、花が咲き始めた野草だけでも抜き去っておこうと、畑仕事に励みました。
旅先はデンマークとスウェーデン。敬愛する医師と薬剤士のご夫妻に誘っていただいたもので、ありがたい旅でした。だが、ロシア領内は飛べないので、往路はブリュッセルでトランジット。グリーンランドの上も飛ぶ北回り。復路はチューリッヒでトランジットの南回りでした。だから、共に初体験の空路でしたが飛行時間が長くなりとても疲れました。
スノードロップが咲き終わったわが家(14日)を後にした後、デンマークのオーデンスではスノードロップが満開で(16日)、スウェーデンのストックホルムでは咲き始め(21日)でした。両国はコロナ問題では対極の取り組み方をしましたが、共にマスク姿をついに見かけず。他に、現金はまったく不要、トイレは男女兼用が進み、父親の乳母車での子守りがとても多いなど共通点が多く、多様な人種がのびのびと暮らしているように見受けました。ウクライナへの支援の気持ちが随所で見られました。
トピックスは、カイ&ベンデ夫妻宅訪問。17日から平均1万歩の10日間。隈研吾設計のアンデルセンミュージアム訪問。夏代澤渡Brandtさん宅訪問。ある教会でパイプオルガンの演奏に触れる。北欧最古の大学・ウプサラ大学を覗く。そして降雪の最終日はホテルで原稿の添削など、多々。27日9時前に成田着、桜が満開。“善意の足止め”もあって19時過ぎに自宅着。ハッピーが大喜び。28日朝、畑はうっそうたる末期の菜の花畑。ハクモクレンは花びらの残骸。コゴミやタラはスッカリ長けており、春を満喫する機会を失ったことを体感。その後はあるお二方、梶山さん、そして島影さんとお茶の時間を楽しんだ他は、庭のあれ具合を見て回り、くだんの原稿を無事発信で暮れました。この原稿は、いわば人生を総括したような内容(「時代に逆行」と笑われた生き方が、楽園づくりになった)です。楽しい海外旅行の選択でしたが、何か大きな忘れ物をした(30年ぶり?の春を見過ごした)ような気分にされています。
~経過詳細~
1. 春を逃した
好天で明けた弥生。門扉脇のエゾヤマツツジが何年振りかで見事な満開に。今村さんが先月、テラスの大水鉢に生けくださった紅梅も満開に。次いで10時過ぎ短大時代の教え子からとても嬉しい贈り物が届いた次第。かく心躍る気分で明けた初日になったが、中下旬に2週間にわたる北欧旅行の予定を組み込んでいたものだからか、どのような一カ月になるのだろうか、と不思議な心境で目覚めている。
目覚めてすぐに、「そうであったか」と、気を引き締めた。まず、何年もかけて取り組んできた加齢対策を台無しにはしたくない、との想いがこみ上げた。それは、畑から野草を締め出す計画である。過去10年ほど(?!?)、野草を抜いて、抜いて、抜きまくり、スズメノカタビラなどはあと一歩で消し去れそうになっている。
次いで、今月末が締め切りの原稿が気になった。“わが人生のまるで総括”であるかのごときが原稿のこと。出発までに骨子を仕立て上げ、トランクに詰めよう。2週間ほど眠らせて、彼の地を発つ前日に取り出して推敲を、と目論んだ。
そうと決めて、朝食後、畑に出た。目についたスズメノカタビラはもとより、花が咲いたハコベやホトケノザはキチンと抜き去った。翌日から、5時に起床。朝食までPC。その後は昼食まで畑、などと出立までの日課を決めた。
3月3日の時点までに、除草はここまで進んだ。
2次と3次のスナップエンドウには支柱が立ち、蔓を吊り上げ、ジャガイモの種イモを植え付け、霜よけのカバーをかけたところまで済ませていた。
その後は、花が咲いて目立つようになり、見落としていたことを知り得た野草は順次抜き去る日々を過ごし、出発することにした。例外はナズナ(春のナナクサの一種)、いわゆるペンペングサだけ。かつて一度、抜いて、抜いて、抜きまくっているうちに、消し去ってしまったことがある。それでは困る。“七草粥”に用いる関係で、適度に再生させる必要がある、と気づかされ、やった今は、畑地での自生を元日化させた時点。
8日(島村さんと庭巡り)に、フキノトウがたくさん芽を出してことに気付かされた。だから、1本の電話をいれて、“フキノトウ茶漬”を賞味する日を、12日と決めた。当日、妻は初めてフキノトウ茶漬けに三つ葉(キット、ムクムクと育っていたのだろう)を添え、ワサビの代わりにホースラディッシュを用いた。
かくして、14日の11時半に、迎えの乗り合いタクシーに乗り込んで家をあとにした。
2週間後の27日、成田空港に予定通りに到着。その後、手違いがあって、陽が大きく傾いてからわが家に帰着。ハッピーの出迎えにもキチンと応えたうえで、まず着替えた。
着替えながら、明朝からわが家の春を、コゴミ、タラの芽、ワラビなどと日替わりで山菜を楽しむ日々を、と期待した。
2. 地下水を活かしたトマトの栽培
1日、大垣女子短期大学時代の教え子・東野あい子さんのおかげで、40年ぶりに解けた謎(もやもやした気持ち)があった。
あい子さんから、かつて「ご当地では(冬に暖かい)地下水(の水温)を活かしてトマト栽培が行われていました」と教えてもらえたようなこと(同封されていた新聞を通して)になったおかげだ。
そのトマト栽培の伝統を活かして、今では温室栽培がおこなわれている。その一翼を、あい子さんの息子さんが大々的に、昨年から担われることになった。
そのトマトをこのたび沢山送っていただけた。そのオカゲで弥生の上旬は、トマトをタップリと生かした食事を楽しむことになった。
わが家の畑では、この時期に、ブロッコリーがとても残念な最盛期に入っていた。それはまず、この冬の大雪をブロッコリーが(葉が大きいだけに)まともに受けてしまい、痛めつけられたセイだ。次いで、寒さのセイで(山が餌不足になったようで)ヒヨドリが、新たに出た葉をことごとくついばみ、丸裸にしてしまったからだ。
残った花芽(野鳥は、花芽を食べない)を短期間に収獲せざるをえなくなった
オカゲで(?!?)、ブロッコリー料理が連日のごとくに続き、この歳にして初めてトマトとブロッコリーの取り合わせがとても良いことを知るところとなった。
40年ぶりに解けた謎(もやもやした気持ち)とは何か。それは、今さらながら、日本の教育のありようを嘆かされたこと、と言ってよいはず。
確か高校時代の“人文地理”の時間だった。静岡県久能山の“石垣いちご”や岐阜県大垣市の“輪中”を習った。だが、“輪中”は洪水対策の智慧として習ったに過ぎないような記憶しか残っていないことだ。
だから、大垣女子短期大学に勤めて初めて、その豊富な水の活かし方があったことを知って驚ろかされた。なぜ、この豊富な水の活かし方を、教科書は教えなかったのか。加えて、このたび、その暖かな水温を活かす産業があった、ということを知って、その驚きは倍加した。
なぜ、教育の場で、被害を軽減する、あるいは回避する智慧を授けるに留めず、その原因(巨大なる水量であるが故に、それだけ余計に、そ)の活用策を教えたり、新たな活かし方を考えさせたりしないのか。主従が逆さまのように思われてならない。
早晩、この地下水の活かし方が途方もなく大事なテーマになる時代が来る。大事業が誕生するに違いない。私たちは“水”の世紀(20世紀は石油の世紀だったが)に踏み込んでいる。
3. 町家の校舎
京都建築専門学校は、「良い学校だなあ」と改めておもった。このたび町家の校舎を知り得たからだ。
この学校の生徒とはすでに触れ合っていた。昨年のミニ“匠の祭典”時に、京北町の会場(“アウル京都”の大きな階段教室)での講義に(日曜日なのに)参加しており、その熱心さが目を引いていた。このたび、その熱心さのわけが分かったような気がした。
実用的で立体的、且つ経年変化に富んだ構造物に、頭と手の両方を駆使して、日々接しているオカゲではないだろうか。
この町家の校舎はその典型だろう。この日、次のように佐野校長、2001年における京都市中にあった町家の比率は38%だったが、2013年は33%と、たいして減っていないように見える。だが安心はできない、町家を30件つぶして1棟のマンションにした、という例が多く、分母が大きくならない事例が多いからだ、と学んだ。それ以上に心配なことは、文化財クラスや、2度と手に入らないような材が多々ごみになっていた恐れであることだ。
襖階段。立派な座敷、その床の間の一枚板や柱、天井板などに目を見張った。当時は、これが長屋仕立ての借家であったのか、との思いに駆られた。まるで、超一流シェフがつくった“まかない”を食したような気分にされた。
この建物も、消え去る運命にあったようだが、学校で買い求め、古民家改造の教材に使い、復元した。
京都には町家のキャンパスを持つ大学がある。だが、町家をこうした創造的な活かし方に供し、且つ保守・保存に供している例は初めて知った。
20世紀は、素材を粗末に扱い、ごみを増やした。21世紀は、大量生産、大量消費ではなく、素材を丁寧に扱わなくてはならなくなる。その技術がとても大切になる。補修や保全も大事になる。
4. シカの侵入が止まった
5日(日) の今村さん父子の来訪は「有難い」1日になった。これからシカの好物・ギボウシなどが芽を吹く時期だけに、まずその侵入口を調べよう、となった。3台の夜間監視カメラ(3夜のわたって設置)の記録をチェックし、新入口を特定した。
その気になって“足罠”でも仕掛けたら、確実に捕獲できる侵入の仕方だった。
侵入時刻はまちまちだったが、毎日母子2頭が侵入し、この庭で日々3時間ほど滞在していた。
小鹿が飛び込む姿を動画で見て、妻は「可愛い」と大喜び。だから、進入路を断つうえで、まず妻の同意をとる必要があった。「こんど侵入させて、残っているギボウシを食べてしまわれたら、枯れて消えてしまうが」などと問い詰め、防護柵を設置することに同意させた。
昼間は、キジバト、ルリビタキ、これらを狙って野良ネコも来ているようだ。時々、ここでも小鳥やキジバトが餌食にされている。
間違って and/or 迷って(?)侵入したヒトも映っており、チョット色めき立った。
それはともかく、シカの侵入口はキチンと塞いだ。これで、シカが物理的に侵入できるところはき3か所を残すのみとなった。内2か所は門扉。特に正門。ここは、2度も飛び越えて侵入されており、当分の間は、イヤガラセの設置を夜毎に続けなくてはならない。
5. デンマークとスウェーデン
生涯で最初に移住したい、と願った国を、また訪れることになった。初めて訪れたのは30歳代に入って間なしの3月だった。ストックホルムの港湾はまだ凍結していた。コペンハーゲンでは、“人魚の像”の一帯には氷がなく、波打っていた。
その時は単独で、五感と直感が頼りの1泊2日か2泊3日だった。ただぶらぶらと首都をめぐり歩いたのが最初だった。あれから幾度となく訪れてきたが、このたびはまず「こんな飛行機は初めて」と思うことから始まった。まるでキリンの首のような主翼だった。
コペンハーゲン駅の構内でデンマークとウクライナの国旗が交互に掲げられていた。
高速電車に揺られてオーデンセまで、このたびは(2019年の時と違い)昼間だったから、海上を走る長い橋梁から風力発電機が望めた。
3年ぶりのカイさんに迎えられた。昼食は、ベンデさんも一緒に、元ドイツ軍の木材倉庫跡(?)が、若者の盛り場になったところ。次いで、最初の訪問先は薬局。アフガニスタンからの移民(と、3年ぶりに再会)がハツラツと働いていた。有能な人はどんどん取り立て、高級をとって、納税してもらい、豊かな社会保障に浴してもらおう、という考え方。
カイさんの自宅では、コロナをキッカケに、塗装のし直しに精を出していた。庭ではスノードロップが満開だった。
まだ冬の、動物園も訪ねた。南極の空を再現し、繁殖に精を出していた。キリンの家、で目を見張った。赤ちゃんの“おしゃぶり”が詰まった大きな容器。なぜかここが赤ちゃんに“おしゃぶり”から卒業させる、名所とか。キリンへの寄付金が募られており、“おしゃぶり”を止めてこの容器に入れるとに寄付行為に結びつく仕掛けになったいる。
次いで訪ねたのは、(前回は、工事が始まったばかり、だった)アンデルセンミュージアム。隈研吾の設計に心惹かれた。色々な角度からアンデルセンを理解できる。
大柄なアンデルセンの小さな生家(父は靴職人)は、ミュージアムの一部だったし、一帯の家並も残っている。
2日目の昼食で訪れたレストランは、街で最も歴史がある建物? 便所を地下に、と工事中に、大昔のワイン庫が現れた。
夜は、聖夜の夕食を再現してもらった。
朝の散歩で、馬で散歩する人と挨拶。馬は1頭では飼えない。老齢の女性は私より高齢だった。老人が余生を送る施設があった。自分でガラス磨きなどをする申請をすれば、サンルームを作らせてもらえる、など。
かくのごとく、内科医の門祐輔先生と、薬剤師のゆかり夫人との3人の旅は始まった。
カイ&ベンデ夫妻は、世界地図に残してきた足跡を記録する。日本には6つのピンが。
3年前より、ごみの収集は厳格になっていた。
夏代 澤渡 Brandt夫妻のお宅にも招かれた。再生(炭酸ガス排出リスクから逃れ得る)燃料ストーブは初見。美味しい夕食。前回訪問時のお土産が、テーブルクロスに。前回の夕食はサンルームだった。
図書館は、デンマークだけでなく、スウェーデンでも訪れた。
北欧は、春を迎えんと花屋さんが随所で大張り切り。
父親が育児に勤しむ姿が街中で、この人は「今、妻は、美容院」とか。
両国で、まったく見なかったのはマスク姿。トイレは男女兼用に。
ある昼下がりのこと。カフェで始めた見るチューリップ。窓の向こうに教会が。その間には大きく掘り下げられた大通りが。そこを歩いて下って、上がって、その教会まで。
足を休めた。パイプオルガンの演奏日だった。奏者と挨拶。中世からの墓地。その死を悼む多様性。人間は唯一、死ぬために生きていること(死は必然)を自覚できる生きもの。
「母が日本人です」という“マコト”でも昼食。
雨の日は、ウプサラまで。まず高速バスでウプサラ駅まで。そこからタクシーで北欧最古(1477年に創設)ウプサラ大学まで。ヨーロッパの最も権威ある高等教育・研究機関の一つで、15人の大学関係者(卒業生・教員等)がノーベル賞を受賞している。帰途、真新しい公共施設にも。
博物館めぐりもした。「橋を作っていたら見つかった」ととても広い広い地下博物館で、ローマ時代のご当地大工さんの道具箱に出くわし、なぜか心惹かれた。コレラが流行り、道行く人が次々と倒れ、死んだようだ。この人は大丈夫だったのかなあ。
この度の最終の日は雪が降った。それまでの10日間、平均1万歩も歩いていたこともあって、終日ホテルで、持参した原稿を取り出し、推敲。このホテルは出来たばかり。国際便のクルーが愛用する簡素なホテル。だが、夜間に勉強する照明と、朝食は充分。
この旅では、とても古いホテルにも泊まれた。もっとも長く逗留したのはストックホルムのマリオットホテル。幹部は全員女性だった。
6. その他
3日、散らしずしを届けて下さる方があった。その後、この春は“菜の花弁当”の適時を海外の旅で逸しただけに、この散らし寿司がとてもありがいことになった。
5日、今村さん父子を迎えた。まず、シカ対策を済ませた。その上で、懸案の立ち枯れの木を1本と、幾本かの立ち枯れの竹を切り取ってもらった後で、「他に」と言ってもらえた。それを幸いに、シブガキの緊急手入れ(数年前に、大雪で幹が2か所で裂け、結束バンドで補修した。遅ればせに、その結束バンドをとり除いた)に当たってもらった。
危ないところだった。中世貴族の女性の腰のように、締め上げられて細くなっており、これ以上放っておくとくびれが戻らなかったかもしれない。この秋(くびれが戻るまで)に、強い台風でも来れば、ここから折れるに違いに。
前回も、今村さんの「他に」に甘えており、その時は紅梅を生けた。この日、3日でほぼ満開になった姿を息子さんに観てもらった。
6日、カフェの案内板を(1泊2日をかけて)補修した。原因は、ベニヤ板を用いたセイ、雨でぬれて糊がはがれボコボコになった。日本の多くの家屋もやがてボコボコになりそう、と心配しながら前夜から手を付けた。まずボンドとクランプで接着し、翌朝を待って、“手打ちの釘”を(装飾的に)打ち付けて、装着した。
そのうえで塗装し、いずれ防水加工もする。基本(素材の選択)を間違えた咎(とが)を、アイデアと手間の積算で異質な価値に結び付けられないか、との足掻き。
8日、村島典子さん(商社時代、私がつかえた課長の秘書で、今は詩人)が、友人連れで再來。伸びやかな語らいのひと時が続いた。犬が(あるいは生きものが)お好きなようで、ハッピーはもみくちゃにされた。
この日、「佳菜子さんの紹介で」と言って、ドバイから長身の青年が来訪。翌日、ドバイから久しぶりに佳菜子ちゃんから電話。同志社女子大(時代に、アイトワで庭仕事を楽しんだ)の後、ドイツの会社に就職し、ドバイに赴任。
10日、このようなシイタケが採れた、と妻が大喜び。早速、畑にチンゲンサイを採りに行った。これが、教え子・東野あい子さんにいただいた最後のトマト。
11日、“腸内細菌と健康長寿”がテーマの勉強会で内藤裕二京都府立医科大学教授の話を聴講。
27日、はぼ予定通りに伊丹空港に着きながら、善意の足止めにあって、復路の乗り合いタクシーに遅れた。だから、その詰め所で3時間も待った。クレーム(正当な主張)ができたが、やめて、いそいそと原稿を取り出し、添削に取りかかった。
乗り合いタクシーの新入社員が、良かれ(私のために)と思って下した判断が、アダになった。それは会社の説明不足が原因で、その親入社員に会社は善意の拡大解釈をさせていた。とても好ましい誤解をしていたわけで、現実化すれば会社の信用は倍加する。だが、今私が騒げば、予約便を乗り逃がした苦情と会社は誤解し、この新入社員は(言われたことだけしておればよい、と)叱られかねない。イエスマンにしてしまいかねない。
だから、3時間の待ち時間を推敲に没頭した。なにせ、内容が内容だから、評価は割れる。多くの人が苦役と思って避けききたこと(その積算が地球を台無しにした)が、実はその行為が楽園創りだった(企業勤めも増収増益に結び付けた)という内容だ。「アホちゃうか」と思われかねない。
28日の朝のこと。
妻が朝の収穫から戻った。驚いた。かなり長けてしまった花芽を摘んできたからだ。ワケギは、ネギのごとし、にまで育ったいた。
庭に出た。4月の10日ごろの様子になっており、何か大きな失策を冒していたかのように感じられた。
迂闊だった。1日に気付いておくべきことであった。エゾヤマツツジが満開だったが、それを愛でただけで、大事な配慮を欠いていた。何年振りかの見事な満開、と思っていながら、過去を丁寧に振り返ることを怠っていた。
あれはちょうど「30年前だったんだ」と気づかされた。1993年の2月25日のこと。エゾヤマツツジがほぼ満開に近かった。父が死んだ日だった。あの時も、春のめぐりが早かったんだ。
わが家では早イチリンソウやショカツサイが満開だった。クリスマスローズや黄色のペチコートスイセンも盛りを過ぎていた。
ハナズオウやベニシダレザクラも花盛りに。キイチゴの花は散りかけており、好みのボケも、好みの時期を終えていた。スモモは葉桜状に。
「これはシカのおかげだ」と思うことがあった。シカに一旦スッカリたべられたオドリコソウが再生していた。だから、開花はその分遅れ、花はこれからつけそうだ。
畑に踏み込んで、呆然とした。盛りを過ぎてしまった菜の花畑になっていた。
山菜は、と確かめると、コゴミはスッカリ長けていた。タラの芽も、長けた姿がシルエットで飛び込んできた。庭はスッカリ春の盛りを過ぎていたわけだ。
庭巡りを終え、ゆるい坂道をうつむき加減で登り、中庭に戻った。ハクモクレンの花びらが、茶色く縮んで、干からびて、一面に散らかっていた。この“ハクモクレン純白の花”ほど、その一斉に咲き誇る数日の命を愛でないと、申し訳なく思わせられる花は少ない。