どんどん欠けてゆく。この会への出席率が半分以下の私だが、明るく迎えてもらえる。元は何十人もが集った仲間だが、インフルエンザの影響もあり、今回はついに9人になった。もともと、商社勤めの男子社員の平均寿命は短かいと聞いているし、幹事も初代と次代は故人になっており、3代目の希望で、次回から4代目になる。
おもえば、海外出張で初めて外国に踏み入った私は、この仲間から「在米日本人」のセンスを学び、帰国して「在日日本人」に戻った自分に気付かされ、第4の目を大事にし始めるキッカケになった。実は、この第4の目に最初に気付かせた2人の仲間も、共に故人だ。2人はマンハッタン郊外で、寮生活の延長のごときアパート住まいをしていた。
最初の海外主張は、この2人をあてにして飛び立ち、機中で不安に襲われた。迎えに来てくれていなかったらどうしよう。その思いが、「地獄で仏」という諺を実感させた。英語でろくに話せない私は、2人のアパートに転がり込む算段だった。
土曜日だったのもヨカッタ。当時は、洋装の常着の概念がなく、背広とワイシャツしか持たずに出かけた。だから、すぐさま生活水準の差を実感し、文化の違いに驚かされた。それよりも何よりも、人間の何たるかに気付かされたように思う。
先に故人になった友人はパートで、夕食の鍋物を用意して待ち受けており「森君、この鍋で、えらい目におうたんや」と教えた。現地女子社員を大勢迎え、楽しい宴を催したという。その後がいけなかった。美味しい料理の食材が話題になり、2度と女子社員に来てもらえなくなった。「イカは、彼女たちにはモンスターを食わされたようなものらしい」
空港で迎えてもらった友人は、、2年ほど前に心臓発作で亡くなったが、恋人が手縫いした真っサラのユカタと桐下駄を貸してくれた。それもヨカッタ。
翌日曜日、一人私を残し、2人は終日ゴルフに出掛けた。2人が戻って来た時は、私はほろ酔い加減でスッカリ出来上がっていた。ユカタ姿で散策に出かけ、住宅街の角々で呼び止められ、引っ張りダコにされたからだ。
この時から「好ましき郷土愛」とか「愛国心とは」と意識するようになった。やがて海外出張経験が重なり、「在米日本人」や「在ジンバブエ日本人」の意識をより一層強くするようになり、「在日日本人」を通り越して「在地球日本人」の意識が目覚めた。
ボツボツ「在宇宙日本人」として召されるのだろう。