目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 わが家流の夏至
2 3か国の人とハグ
3 4度も岡田さんと縁があった
4 土橋ファミリーと卵サンド
5 年間を通して100%自給作物を
6 その他
幸せや豊かさと「その源泉」
水無月はわが家のタケノコの最盛期ですが、フミちゃんの来訪で明け、上旬は昇さんの来訪で終わりました。この間に、フミちゃんと昇さんの初顔合わせがかなったのです。中旬は、“わが家流の夏至”が生じる10日間ですが、またフミちゃんの来訪で終わったのです。
この2旬の間に「庭や畑は様変わり」と言いたくなるほど片付きました。フミちゃんには5度も、昇さんには3度も訪ねてもらえたおかげです。昇さんの1度は土橋一家3人と一緒に迎えており、午前は2つの作業(常緑樹の落ち葉を腐葉土小屋へ運び終える。溜まっていた倒木や立ち枯れの木をエンジンソーで薪の寸法に切断)に全員で取り組み、昼食。午後は手分けした作業(一家は、2種の樹木の種房や花殻拾い、これはこの日の奏太君用に、と用意したプログラムの1つ。今村さんはニラ畑を、私はネギの畝を、それぞれ仕立て終える)で過ごし、再び全員で焚火に興じたのです。この焚火は奏太君用プログラムのもう1つの方で、その効能は期待以上でした。
奏太君の高揚ぶりにご両親も仰天。話題が弾みました。まず、焚火の意義や煙(少なくとも人類は20万年以前から近代まで毎日のごとく、火と煙に付き合って来た)の効能に触れ、次いで、奏太君の年頃に私は母の畑仕事を手伝った思い出があり、その鮮明な記憶(幼子は、保護者・とりわけ母が、躍起に取り組んでいる行動を遊びにする)をご夫妻に紹介しました。この日は、奏太君の終生の記憶に残るのではないでしょうか。
この2旬はチョットした国際色も満喫しています。7日にイスラエルのデイビッド夫妻を4年ぶり迎え、8日からNZの海詩(ミーシャ・神戸時代からの友人の孫)が逗留し、11日からウクライナのお2人を2泊3日で迎えたのです。ウクライナのお2人は、ウクライナ魂の片鱗を置き土産にして下さった。7年ぶりに迎えた海詩は、8日間の予定でしたが、神戸のオバアちゃんの急な用件が生じて、5日間で切り上げ、戻ってゆきました。
こうした間に、以上の他に9件の来訪と4度の外出の機会がありました。外出は、岡田さんと東山にある清流亭での集い。知範さんと亀岡の松美農園で頼み事をしたうえで、その足で綾部の“志賀郷の会”に参加。そして、今村さんと海詩の3人で亀岡のHCコメリで買い物、など。
来訪は、中口グミ夫妻、池田望さん、そして下村知範さんを迎えた打ち合わせ。瞳さんと乙佳さんの3人での打ち合わせ。ニホンミツバチの師匠・志賀さんのお立ち寄り。岡田さんが2度も(愉快な若者の紹介と、鯛を主テーマにした鷲尾先生と徳弘社長のお引き合わせ)でした。この“鯛”の方で、相互扶助の問題に関して目からうろこの学習もしています。
下旬は6度も“集中の1日”がありました。まず3件の来客で終始した21日。翌日は雨天の作業4つに集中。24日は、志賀師匠と今村さんを(ブルーベリー畑の防鳥ネットと一群のミツバチの件で)わずらわせた1日。翌25日は奈良まで妻とお招きにあずかるなど美味の1日。27日はフミちゃんを迎え、終日妻と3人で庭仕事に没頭。そして月末は、予期せぬ来訪者と、30年数来の“水無月”に恵まれ、しばし“第二の人生”を忍んだ次第です。
この旬は、朝は夏野菜の虫取り、夕はウメ拾いが日課になり、先の2旬同様に“7月16日の催し”の準備だけでなく、多様で有意義な“一時”にも恵まれたわけです。未来さんが赤ちゃんと来訪。アイトワの喫茶店運営について打ち合わせ。道しるべの補修に着手。21日のある来訪に始まった相談事を解消する2度の打ち合わせ。カラス対策。3種のジャガイモの掘り出し。ネギやカボチャとかゴーヤの準備。トマトなど4種の初成りを賞味。また昇さんとフミちゃんの助成を得て、剪定、刈り込み、あるいは苔の手入れなどでした。
かくして水無月は暮れましたが、ブルーベリー畑の防鳥ネット造りに要する資材や用具を、5人もの支援を得て揃えており、翌文月の楽しい宿題も用意できたのです。
~経過詳細~
1.わが家流の夏至
今年は夏至を、特別の想いで迎えた。まず、好天の17日に異様な旭日に気付かされ、これぞ“わが家の夏至”と、カメラを探した。この現象は「あと数日で、1年で昼間が最も長い1日を迎える」との信号である。建物の方角が少しずれているせいで、本当の夏至より4日ほど早く生じるわけだ。
その日が、好天に恵まれると、東向きの出窓(がある“離れ”3,6m×3,6m)から差し込んだ朝日が、さらに5.4mのわたり廊下を隔てた(計9m先の)壁を照らしあげ、赤く染め上げる。この度は、その一瞬だと気づきながら、カメラを探していた間に数分遅れ、離れに駆けつけた時は、太陽はかなりのぼっており、振り返ると、陽光の陰は共に廊下に落ちていた。
2日後の朝、次の異様が生じた。離れより4~5m北側に位置する風除室(居間の北側に設けた温室様式の一室)がサーチライトで照射されたようになった。急いで飛びだすと、太陽(2日分北に傾いた)が眩しく、振り返ると、風除室の一帯を照らし上げていた。
即座に背を翻すと、陽光がまぶしい。眼がくらんだ。一瞬の差で、今度はわが家で最も太い木(24歳の頃に苗木を植えたヤマザクラ)や、ゲストルームに設えた薪ストーブの煙突などをモノクロの世界にした。
今年の夏至は21日だった。だが、曇天になった。だから、久保田さんは(先月、京都の夏至ついて語らったことを思い出し)「ガッカリ(日の出を眺められず)、されているだろうな」とおもんばかった。同時に、その折に送り届けてもらった写真を取り出した。
この撮影場所から少し北で日の出を望めば、比叡山の頂上から昇る朝日を望めるのではないか、と想像した。
この日は夕刻も曇天で、日没を望めず、これも久保田さんの写真で連想した。
この日没の写真は、わが家から3kmほどのところにある“廣澤ノ池”の東岸から撮ったようだ。わが家から眺めると太陽は裏山・小倉山に落ちるが、その中間地点から眺めると“愛宕山”(比叡山と背丈を競う)に陽光を沈めるだろう。いつの日か、眺めたいものだ。
2. 3か国の人とハグ
7日、イスラエルのチャナ&ダビッド夫妻が約束通りにご到着。4年ぶりだが、20年近くの付き合いがある。この度も喫茶店のお好みの席で、「日本にたどり着いた」との実感をかみしめてもらえたのかもしれない。この4年の歳月で、チャナさんの髪はかなり白くなり、私は薄くなった。
この実感(憧れの異国にたどり着けた)は、私にも1995年のある出来事から、わかるようになり、これが旅の最大の意義になった。だから、今年春の3年ぶりの北欧2国の旅も、この実感がお目当てであったといってよい。
1995年の出来事とは、取材でアメリカを訪ね歩いた折のことだ。メイン州のリズ(わが家の“離れ”で1年間逗留した最初の学生)の生家も訪れたが、その折の実感だ。
彼女の両親を2度、日本で迎えていたこともあって、異国の民家で3度の食事を共にする日々は、まさにアットホームそのものだった。とりわけ、初日の未明。小鳥の鳴き声で目覚めたときは、録音機を取り出し、収録に勤めている。
その後、2006年に初めてNZの南島を訪れる機会があった。その折に、30数年前から親交があった知人が、別荘を北島に構えていたことを思い出し、ローカル機を乗り継いで立ち寄り、1週間逗留することにした。
空港で迎えられ、なだらかな山の中腹にあった別荘に案内された。リンゴなどがたわわに実り、仔馬が1頭「近頃、裏庭に棲みつくようになった」と聞いた。元よりいた野ブタと牛4頭と穏やかに棲み分けていた。1週間ほど逗留したが、その間に2軒の家族と親交が始まった。
NZに留学し、その後夫のドンさんと一家を構え、女児にも恵まれたお嬢さんの“みかさん”とまず知り合った。次いで、みかさんにレイ&ロビン夫妻を紹介され、幾日かホームステイし、親友になった。みかさんはかつて、この夫妻の息子・シェーンに日本語を教えていた。
この時の女児は、まだ2歳になる前の海詩だった。シェーンは、今や海詩たちの市長になっている。この旅では、NZの歴史だけでなく、先住民と入植者の関係が最も好ましい国、と言われていることも知った。
このたびの海詩は18歳だったが、祖母をNZから神戸に送って来た。この機に、わが家を1人で訪れたい、と願ったようだ。来訪記念に、カフェの看板のレタリングに関わり、思い出の細工にも挑み、持ち帰った。
妻と買い物や、円形花壇の模様替え、來月のインディアンフルートの会で用いる椅子の掃除、あるいは私の畑仕事などを手伝った。
かつて私は海詩のおかげで“ギフテッド”なる言葉とその概念を初めて知った。ある日両親は小学校から呼び出され、“ギフテッド”だと知らされ、心して育てるように、と告げられている。その時に私は、NZでの“ギフテッド”とは、最澄ではないが「一隅を照らす」天性を備えた子どもを意味しているようだ、と解釈したものだ。
海詩の滞在中にウクライナのお二人を迎え入れたが、海詩は通訳もしたし、学びもしたようだ。その後、私には亀岡にあるホームセンター・コメリに出かける用事が生じた。今村さんの運転で出かけることになったが、海詩は同道した。帰途、同市の公共施設に立ち寄った時のこと。海詩が好む旋律が流れて来た。ソフトクリームを食べ終った海詩は、予期せぬ喜びに触れた感謝の言葉を、「チョット待って」と私たちに言い残し、小走りで告げに行った。
7年ぶりの再会がかなった海詩だが、向こう1年は、学費など大学生活を送る資金づくりに割く、と話していた。
NZは、土地の相続などには課税のない国だが、大学卒業に要する資金を保護者から得ると贈与税がかかるらしい。NZは、国のある位置だけでなく、こうして面でも、わが国とは対極にある、と思った。土地の相続に相続税がかからない国なのに、子どもが複数いる家庭では、親は土地を一番高値で買い求める子供に譲る傾向にある、と聞いた。それが、その土地を一番慈しむ心意気、と映るようだ。
エネルギー問題でもわが国とは考え方が逆さまだ。わが国は、原発をベーシック電源に位置付けるが、NZは地熱発電を位置づける。わが国と同様に地熱に恵まれている国だが、日本の技術を生かして地熱をベーシック電源と見て活用している。
3. 4度も岡田さんと縁があった
まずは清流亭での見学と木造建築の勉強会に誘われた。清流亭は、“南禅寺界隈別荘15邸”の1つで、かつて訪れたことがある野村別邸(野村碧雲荘 )の向かい側にあった。この15邸は、いずれもが明治新政府が召し上げた臨済宗南禅寺の敷地を開発した後に建つ広大な別荘で、琵琶湖から引いた水を今も贅沢に活かしている。
ここは東郷平八郎元帥が宿泊時に「清流亭」と命名しており、塔頭楞厳院数奇屋造の表構えで、茶室、書院、糸桜が美しい庭で知られる。私たちは優れた木造建築の勉強の一環で訪れた。現在は、着物の卸し会社として1939年に京都で創業した大松株式会社の所有。
この界隈では、15邸の1を近年買い求め、大改造する音が話題になっていた。ユニクロの創業者の趣味のほどが問われているようだ。
次いで、このような青年がいるんだ、と感心する来訪だった。日本の食文化と巧みや技に秀でた若者を発掘し、欧米の需要に応えようとしている人だった。閉塞感にさいなまれている日本だが、こうした人の交流が真の安全保障に結び付くことを念頭に、と励ましたくなった。
3度目は“鯛談義”に同席したいと願った“人の出会いと立ち合い”だった。まさか“幸せや豊かさの源泉”について語らう機会にもなる、都は思ってもいなかった。
四国の宇和島には“ミカン鯛”で知られる人がいる。その有名な人が岡田さんの姻戚であったことをこのたび初めて知った。
その岡田さんが、誠実なタイの養殖家とおっしゃる徳弘多一郎さんと、魚に関する知識と多彩な実績に基づき多様かつ実戦的に語る鷲尾圭司先生との面談だった。
折よくフミちゃん3度目の来訪日であったが、これもヨカッタ。久しぶりに妻が、フミちゃんの応援をえて、おもてなしに取り組みたくなったようだ。
話しが弾んだ。鯛はタコが大好き故に、鯛を語る時は、タコを頭に入れておくべし、とまず気づかされた。日本の食文化にとってタイは大事だが、日本国民にとってはタイ1kgのために10kgのイワシを餌にしている点への配慮も大事、と鷲尾先生はおっしゃった。つまり、先生のご発想は常に、生態系と人類との安寧の関係に配慮で裏打ちされている。
それだけに、量より質を尊び、鯛文化を健全に守ろうとする徳弘社長の想いが光った。私は、タイ1kgはイワシ10kgの換算をヒントに、こころ秘かに、鯛の1つの命は150匹のイワシの命、との換算(10000g≒150匹×70g/匹)もしておくと未来世代にさらに孝行することになるのではないか、と思った。
フミちゃんの実家では、元日から焼き鯛に箸をつけたようだ。だが、わが家は“睨み鯛”文化圏だった。年の暮れに1匹買って、大つごもりに焼き、3が日の間は食卓にはのぼるが、箸は着けない。この1匹にしかお目にかかれない1年が幾度もあった。
やがてフミちゃんと妻は座を外し、ほどなく妻は庭の野菜を抱えて再登場した。
わが家自慢の“水無月料理”、最盛期のタケノコと旬の露地栽培野菜の馳走を、フミちゃんの手助けを得て振舞いたくなったようだ。
これまでは多彩な来訪者に、妻は思い付き料理を振る舞ってきた。だが、近頃は変わった。来客に料理を振る舞う自信だけでなく、喜びまでを減退させているかのように見える。おそらく、ことが願ったようにうまく運ばないことが増えたのだろう。
この点では、このたびはフミちゃんの手助けの他にもう1つ、この日は予期せぬ支援にも妻は恵まれていたわけだ。ウクライナの人が、3日目が最も美味しいと話したボルシチが少々と、私たちのために造り置いてもらえたウクライナ流のキャベツロールがそっくりそのまま残っていたからだ。
どなたかが、ボルシチが出た時に「ロシア料理ですね」とおっしゃった。鷲尾先生は、ソフトに「正確にはキエフ、いやキーウ料理です」と正された。
ロシアはソ連邦時代に、カザフスタンを原水爆実験地に、ウクライナを原発設置地にしたように、ボルシチでは逆にロシアに取り込んだのかもしれない。ここに、NATOとワルシャワ条約機構の根本的差異を見る思いがしている。
なごやかな一時になった。そこで、私は相互扶助を話題にした。「相互扶助こそが幸せや豊かさの源泉であるはず」と信じて、過去にある決断を下したことがあったからだ。それが人生幾度目かの節目になっている。
人と人や、現生世代と未来世代だけでなく、鷲尾先生の発想には、いつもヒトと他の生きとし生けるものの間の相互扶助の意識が見えかくれするからだ。
間髪をいれず、先生曰く「相互扶助が、幸せや豊かさなんです」、源泉ではありません、と訂正された。
岡田さんの4度目は、お一人で立ち寄っていただいた。7月のインディアンフルートの催しに備えておきたいことがあった。
4. 土橋ファミリーと卵サンド
雨で1週間順延し、好天の18日にファミリーを迎えた。この日は今村さんを迎える日であった。だから私も加えた5人で、4つのプログラムに携わった。まずヒノキ林で自然生えしたカシやモチなど常緑樹の落ち葉を腐葉土小屋に運び込んだ。この落ち葉は、今村さんと一週間前に、2台のエンジンブロアーを駆使してかき集めておいた。この間の奏太君は、庭のカタツムリにご執心だった。
次いで間伐材や立ち枯れの木が溜まっていたので、今村さんと土橋さんにエンジンソーに初めて取り組んでもらった。この間は、佳代夫人と奏太君は見学。
今村さんは、1本の立ち枯れの木を残したい、とご希望。それはご子息と倒した木であったので、2人で玉切に、と願われたのだろう。妻が、私のおにぎりを運んできたので、昼食の時間になった。この日、妻はウコギ飯のおにぎりを用意した。おにぎりには、小さめが1つあった。
健一さんは「卵サンドを、喫茶店で注文させてもらってよいでしょうか」と断り、飛んでいった。前回来訪時のミニ事件を私は思い出した。その日の私の昼食は、喫茶店の卵サンドだった。それを奏太君はうらやましがった。私は分け与えるべきか否かと躊躇した。佳代さんは“否”の判断を下された。
その後、ご夫婦で相談し、この度の結論を導き出されたのだろう。
健一さんが卵サンドの皿を携えて戻った。テーブルには既に、佳代さん手作りの総菜やおにぎりと、今村さんのコンビニおにぎりが並んでいた。
奏太君には、卵サンドに添えられたピクルスが、チョットすっぱ過ぎたようだ。有意義な昼食になった。ウコギは、あらかたの漢方薬に用いられる薬木だ、と私は説明した。
午後のプログラムは、ファミリーには中庭でハクモクレンの種房(未だに落し続けていた)と、今が盛り、とばかりに次々と落し始めたサラの白い落花を拾い集めてもらった。奏太君は夢中になって両親に習った。とりわけ母と競った。
この間、今村さんには、ニラコーナーで最後に残っていた部分(自然生えのムラサキハナナが種を結び終え、採取したあとだった)を耕し終えてもらった。
最後のプログラムは焚火だった。前日、このプログラムの準備として数本の竹を(好ましくない時期だが)切り取った。その多くは枝をはらって竹仕事(果樹の支柱など)に活かし、はらった枝葉は焚火用にとりおいた。もちろん枝をを2本、大人の教材に(竹を切る時期や枝をはらうコツの習得などに)活かすために残してあった。
当初は焚火を見て、腰が引けていた奏太君だが、20分ほどの焚火ですっかり‷人間らしく”なった。つまり、火は恐れるに足らぬことを体感し、雄叫びを張り上げながら駆け回り始めた。
土橋夫妻には1本のエッセイ(嵯峨2003年01月号)を土産にした。私が、母親が必死になって取組むことを真似、ついには遊びにするようになった体験だった。
皆さんに、むせぬ程度に煙(決して人工物が混ざっていない煙であることが必定)を吸うように勧めた。そのうえで、自由に焚火ができて、火を安全に扱うことができる自由を得ることが、私は数ある基本的人権の中で、最たる基本的人権だと考えている旨を述べ、そのわけを説明した。
4人を見送った後で、今村さんがこの日耕したところにカボチャの苗とヤーコンの無性芽を植え、以前に植えたカボチャの2本の畝に藁を敷いた。
5. 年間を通して100%自給作物を
この一カ月はわが家流の五辛(ネギ、ワケギ、タマネギ、ニラ、そしてノビル)と随分関わった。この五辛の活かし方を思案し、ネギの加齢対策を固めた。だから、今年度はネギ苗は買わず、ヒコバエだけで栽培することにした。
ここ数年、私たち夫婦は共に力が情けないほど弱くなった。妻は買い物さえ一仕事だし、これまで通りの買い物をしても、台所まで運び込むのが一仕事になった。そこで加齢対策の一環として、少し農作業に関する考え方を修正することにした。
これまでは、食べものの“自給能力”を大事にしてきた。コムギやトウモロコシ、あるいはイモ類やカボチャなども含め、この土地で育てうる様々な作物の“育て方の習得”に勤めた。いざという時は、その土地なりの露地栽培作物で食料面での自活力を身に着ける取り組み方、あるいはそのための技術的ヒントなどをヒトサマにも伝授したい、とその力を大事にしてきた。超多品種超少量生産に力を割いてきた所以である。
今では庭で、ミツバ、シュクコンソバ、あるいはハナオクラなどが、フキやセリなどの山菜類のごとくに、随所で勝手に育つようになった。
今年のコイモの畝では、アイトワ菜はもとより、ゴーヤ、トウガン、オオバ、あるいはエゴマなどが、勝手に(時期が来れば)発芽し、競うようにして育っている。
ゴーヤ、ハナオクラ、エゴマ、あるいはトウガンなどは自然に芽吹いた。このハナオクラは数を減して、コイモと共生させる。トウガンは、より好ましき場所での自然生えが出なければこれを残し(コイモを抜いて、犠牲にしてでも)大きく育てることになる。
こうした育て方の促進に加えて、この度はもう1つ、目標を増やすことにした。せめて1種であれ生鮮野菜を、年間を通して100%自給する力を露地栽培で身につけたい、との願いである。その候補にネギとその代替品を挙げ、月初めから手を打ち始めた。
水無月は、露地栽培のネギがスッカリ長けて食材には用いられなくなる月である。加えて今年は、タマネギの成育で残念なことが生じた。4カ所にわけて育てたが、いずれの畝でも4割近くが薹を立て始めた。そこで毎日1~2本ずつ収穫し、若い結球をビールの肴として活かした。妻はその葉を“葉タマネギ”の葉のごとくに活かし、ネギの代わりをして遜色がないことに気付かされた。だが、この薹を立てたタマネギまでがやがて長けてしまい、葉は固くなり用をなさなくなった。
この時に、露地栽培で年間100%自給する野菜としてネギ類を候補に挙げたのである。要は、葉タマネギの末期と新ネギの収穫が始まるまでの端境期があるが、このうめ方さえ工夫すれば、ネギは100%自給がかないそう、と睨んだわけである。
そこで、次年度分のネギの育成は、新たなネギ苗が売り出されるのを待たずに、旧ネギのヒコバエだけでやりくりすることにした。それは、昨年の失敗を参考にしている。
昨年は、買い求めたネギ苗の露地栽培で、収穫期間を長くする工夫をし、失敗した。今年は、ヒコバエを活かして、収穫時期を早めることを考えたわけだ。いざという時は、時季外れのワケギに代替させる工夫をすれば、願いはかないそう、と夢が膨らんだ。
ちなみに、昨年度のネギでの失敗とは何か。それは購入するネギ苗の量を半分にして、収獲量を2倍にするとともに、収穫期間を延ばそうとしたことだ。前者の願はかなえられたが、後者はかなえられなかったわけである。
つまり、食材として抜き取ったネギの白い部分を多めに残して、その根を畑に植え直して再生させ、一石二鳥を狙った訳である。
ネギの根を植え直した分も、試しに根部を畑に残して(上部を収穫し)再生させた分も、薹がたつ時期になると、一斉にネギボウズをつけて、長け始めたのである。
そこで今年は、ヒコバエを活かし、収穫時期を早める工夫をすることにした。ヒコバエを(種から育てたネギ苗同様に)干し上げてから植え付けるのではなく、幾通りかの植え方をすれば、願いがかなうのではないか、と考えたわけである。
加えて、ワケギをピンチヒッターとして生かすことができれば、と補完策も考えた。それは、ワケギの球根の生命力に気付かされる機会に恵まれたことがキッカケだった。昨年度の余ったワケギの球根を、1年間捨てずに放置していた。それが先月の末頃から芽を吹き始めていたことに気付かされた。その頃は、その兄弟分(昨年の8月に植え付けた正常分)の葉が枯れてしまう時期であった。
だから、その芽を吹き始めたワケギの球根をコイモの畝の肩に植えて、様子を見ることにしたわけだ。結果、この月末時点では、ソーメンの薬味やヌタなどには十分生かせそうになっている。
肝心のネギだが、この度も4畝に分けて育てる心積もりをした。まず月初めに、昨年度の一畝分を掘り出したところ、ヒコバエがまだとても小さかった。そこで、即モロヘイヤの畝の肩に植え直した。だから、プラスαの一畝ができた勘定になる。このネギが順調に育てば新ネギの第1陣として収穫できるのではないか、と期待した。ちなみにこの期待は、月末近くからそばやうどんなどの薬味として収穫が始まっており、かなっている。
肝心の4畝分だが、その後28日までに昨年度のヒコバエをすべて掘り出し、3通りの育て方で活かした。旧来通りの2条植えが3畝と、このたびは一畝を1条植えにした。
つまり、ヒコバエを太さで3分し、“太い分”は根元から10cm余で切って、根部を次年度用のネギ苗にする。切り取った葉部は、ネギとして当座の食材にする。
“細めのヒコバエ”は葉部を切断せずに、そのままが乾かぬ間にカボチャの畝の肩に植えて、カボチャが茂る前に収獲し、新ネギの第2陣とするつもり。この畝もプラスαになった。
そして、“余りにも細い分”は苗には用いず、当座の食材にした。
6. その他
A、 タケノコを堪能
昨年はサルにタケノコを襲われ、散々な目に合わされた。今年はその被害が少なく、沢山採れた。もちろん、皮をむく段になってサルに襲われていたことを知り、ガッカリさせられることがままあった。
アクが少ないマダケのタケノコゆえに、また今年はタケノコがよく出る年と睨んだがゆえに、刺身をはじめ様々に、賞味することにした。
今年はほどよい雨に恵まれ、困ったことも生じた。タケは根を随分派手に伸ばしたようで、雨などで収穫作業につけなかった翌日などは、思わぬところで随分タケノコが長けており、刈り取って堆肥の山に積むことになった。
醤油ベースの料理は、吸い物から煮物にはじまり、佃煮でも賞味した。
中華風も食卓に、このたびはしばしば登った、
とりわけこの片栗粉を活かした“小夜子炒め”が逸品で、はや次年度のタケノコの旬が待ち遠しい。右の煮物は池田望さんの料理で「真似てみよう」と、妻も来年を睨む。
B、 ウクライナのガンナさん
5月下旬に「ならばアイトワで、いかが」と、わが家での11日から13日にかけての素泊まりを勧めた。ゲストハウスを探したのだが、この一帯では食事つきが見当たらなかったからだ。
数日後、「夕食を私が造りますから、いずれかのメニューを」選んでほしい、とのメールが来た。ボルシチとキャベツロールだった。ボルシチを選んだ。
3~5リットルの鍋を用意しておくように、と返事があった。
当日、ガンナさんは夕刻6時の到着予定だったが、ジリジリと7時になった。ケイタイは通じず、ケイタイでも知らされず、8時前にご到着。早速厨房に。
すぐに妻はガンナさんのおおらかさにトリコにされてしまった。ボルシチを造りながら、煮た日より2日目の方が美味しくなり、3日目が最も美味しい、などと教わったようだ。
海詩が滞在中だった。より楽しい夕食になった。マモノワ・ガンナさんは東京大学客員研究員と知った。チャニク・カテリーナさんは東京大学の留学生であった。話が弾み、夜は静かに更けた。
朝食は妻が用意した。当初はチョット緊張気味だったカテリーナさんも打ち解け始めた。
翌夜の夕食は2日目のボルシチと、海詩が2日前に造り置いたミートソースを活かしたスパゲティ。ガンナさんはキャベツロールを造る準備だけ整えた。
お別れの日の朝、妻は“稲荷ずし”を振る舞うことにした。加えて、最も美味しくなっている頃合いのボルシチを添えた。その間に、ガンナさんはキャベツロールを煮込んだ。
ウクライナ風のキャベツロールには米(ご飯)が用いられることを知った。これも2日目、3日目とうまくなる、と教わった。農業国のウクライナは、働き者の主婦の負担を軽くする造り溜めする料理が重宝されるようだ。
このお二人は、私たち夫婦の生き方にとても興味を示してもらえたようだ。
海詩に記念写真を撮ってもらった。
帰り支度を整えて、再び現われたガンナさんは、小さなウクライナの国旗を取り出した。出会いを喜び、別れを惜しんだ。その時、門扉のあたりでたたずんでいた人たちが遠ざかってゆく様子がうかがえた。
私たちはお二人の見送りに出たが、遠ざかっていた人たち立ち戻ってきて、私たちに話しかけた。夏の休暇中を妻が詫びた。その間にガンナさんが取り出していたものがある。妻の詫びの言葉が終わるのを待って、ガンナさんは頼みごとをした。背の高い男は大喜びで応じた。
この時に、ウクライナの国章も知った。
C、 ブルーベリーの防鳥ネット
先月も防鳥ネットを被せる骨材を探したが、適当な品が見つかっていなかった。他方、ブルーベリーは適度な雨に恵まれて日毎に大きくなった。焦り気味になった私は、ハウス栽培も手掛ける有機栽培農家の松美さん(かつて有機肥料を幾度か分けてもらった)に電話で相談を持ち掛けた。それがヨカッタ。
ビールハウスで使用済みの、しかも半端な骨材があると聴いた。松美さんの農場は亀岡だから、綾部の志賀郷の会に参加する予定があった私は、途上で立ち寄ることを考えた。その会に一緒に参加する知範さんも出立時間を早めることを了承してくれた。
当日、亀岡に至ると濃霧で知られる地域らしく、低い山間に水蒸気がたなびいていた。松美さんはお元気だったが、主要肥料だった薬草の絞りカスの山がなかった。使い慣れた有機肥料が突然使えなくなった訳で、苦労のほどがしのばれた。だが、松美さんは泣き言を口にせず、真剣なまなざしで相談に乗ってもらえた。
骨材はあるが、組み立てに要する部材はなかった。骨材を切断する道具や、柱になるパイプを立てる穴あけ具、あるいは部材などが揃っている亀岡のHCなどを教えてもらった。だから、志賀郷の会を早めに切り上げ、そのHCに立ち寄ることを目論んだ。
3年ぶりの志賀郷の会は、顔触れが随分変わっていた。ササユリが咲き、ピザ釜には屋根が設けられ、トイレが新調され、フュウランの玉飾りを初めて見た。
ニホンミツバチを誘引するルアーの開発者・坂本先生と旧交を温め、先生に教えられて、ニホンミツバチの解放巣を初めて見た。綾部風のぶっかけうどんが美味だった。
早く切り上げたが、帰途はお目当てのHCのそばを通れず、後日に回した。それがかえってよかった。部材探しを手伝ってもらった今村さんに、海詩を伴って亀岡のHCを訪ねることになり、海詩にとても喜んでもらえたからだ。必要最小限の部材と道具を買い求めた。残る部材は、主要骨材を組み立てた上で、必要量だけネットで買えばよい、が今村さんの助言だった。
その後、志賀師匠に立ち寄っていただける機会があり、骨材の運搬を引き受けてもらえた。しかも、お宅でブルーベリーを育てておられるだけに、急ぐ話だとの理解もえたし、軽トラで運搬できる骨材の寸法を学び、この条件を満たす覆いを思案しやすくなった。
過去の(雪で潰れた古い)覆いの解体を手伝った今村さんにも、変形の地形で、傾斜地に建てる覚悟のごとき理解も得た。そのおかげだろう。京都から躯体の設計図をもって今村さんと駆けつけることになった私たちはは、亀岡の現場で師匠と落ち合えることになった。数分の差で合流し、小1時間後には切断を終え、2台の車はアイトワを目指した。
この現場で、パイプの骨材を、人力で曲げたり伸ばしたりする道具が必要だと知った。師匠は「電気屋なら、皆さんお持ち」とおっしゃる。おかげで、いつもお世話になっている中尾(電気店)さんに電話。その道具ベンダを届けてもらえた。工事は翌月に、となった。
ブルーベリーの初稔りはたった1つだったが、27日だった。
D、 庭のうつろい
3日、2本のフェイジョアの木で花が咲く。この木の支柱を新たにした。5日、タマネギを収穫。薹を立てた分は葉を切り取り、正常な方は残し、干す。
6日、初めて見る黄色いハチ。9日、アカンサスの花がこの庭で初めて咲き、観た。
10日、キノコを見かける。あちらこちらで目に付き始めた。キノコの季節だろう。
湿ったところで小さなキノコが。苔庭でも出始めた。キンカンの木の根元でサルノコシカケが次第に大きくなっている。この木は寿命だろうか。
このキンカンの木、樹齢は半世紀を超える。実は小さくなったが、美味しい。この時期は喉が渇きやすい。この一粒でリフレッシュがかなう。大手術をした。
クチナシの花期は、たなびくその香りが末期を告げる。トラノオの花が盛りを迎えた。畑では時期外れのジャガイモが花を付けた。これは妻が使い残して芽を吹かせ、萎びたジャガイモを植えておいた分。この時期にどのような芋を育てるのか、と観ていたらこの葉を襲うテントウムシダマシが現れた。
今期は3種のジャガイモを育てたが、タマネギの側で干すことにした。掘り出す時に2種計3つのジャガイモを傷つけた。
この日の惣菜の1つは決まった。2種のジャガイモを活かす。
同じ種の時季外れのジャガイモの側でオクラの最初の花が咲き、となりの畝で初成りキュウリが育っている
2日ほど油断すると、ジャガイモの虫害が進んだ。葉をめくると、この仕業はテントウムシダマシの幼虫ではないか。
オクラの畝にカラスに襲われた初成りキュウリが落ちていた。
スモモとトマトは初成りを半分こして賞味、キュウリは3本目までカラスに襲われた。もちろん、畑の天井に張ったテグスに問題があり、2度にわたってテグスの隙間を埋めた。だが、この隙間が原因であったかどうかは不明。
やっと4本目のキュウリが、本格的収獲が始まったトマトと共にサラダになった。
この間に、トピックスが5つあった。手の届くところで卵が入った小鳥の巣と遭遇した。これは初めての体験。いつもは晩秋に「こんなところで」と、落葉した灌木で気づくのが常だった。1度だけ、広縁の目と鼻の先で飼育中の巣に気付いたことがある。母鳥のけたたましい叫び声と、ドサッと枝からヘビが落ちる音と同時だった。
初めてヘビを見たのは11日。玄関周りにある水鉢の1つにカエルが棲みついた。それを狙ったようだ。1.2mほどのシマヘビを、2度目は喫茶店のプローチで24日に、今村さんと見かけている。だが、昨年幾度か遭遇したヤマカガシとはまだ出会っていない。
オレンジプールに3匹のトノサマガエルが棲みついた。いつしか1匹になった。この一帯の草はフミちゃんが丁寧に刈り取った。
例年のごとくフヨウの葉を好むケムシがわいた。黒と茶色の2種を見かける軟体動物を久しぶりに見かけた。キリギリスは、歳の頃では中学生ぐらいか、よく見かけるイモムシはどのようなチョウの幼虫だろうか。さまざまな生き物が鬩ぎあいはじめた。
20日、妻は1カ月の創作休暇に入り、喫茶店を閉めた。テーブルを飾っていた生け花は、ノビルの無性芽やヒチダンカだった。喫茶室唯一の1人席に新作をデヴューさせていた。
庭では25日にノカンゾウが咲き始めた。ヒメザクロは満開になった。
今年初めて異形のアイトワ菜が、冬野菜なのに異様な時期に誕生した。姿はダイコンだが、根はビートのような色で、キーウ料理のボルシチを思い出させた。妻は収穫して味や風味などを確かめたいようだが、私は種を結ばせたい。
E、 2つの催しと2つの作業に備えた2日間
6日はフミちゃんと昇さんの初顔合わせの日だった。前日は畝の仕立て直し中に、昨年育てたヤマイモ(ブンブンに襲われ、息絶えたものと思っていた)を掘り出しており、急遽3つのプログラムを思い付いた。昼食はヤマイモ入りのお好み焼き。この日の畑仕事に、予定になかったヤマイモの畝を、このヤマイモを2割ほど残して切って白い芽が伸びた上部を植えて、つくった。
池田望さんにもお好み焼きを賞味してもらえた。
午後、中口グミ&ひろ子夫妻と下村知範さんを迎え、9月の「匠の祭典」の収録に関する打ち合わせをした。中口夫妻と私は久方ぶりの再会だったし、知範さんは初対面だったが、心地よい話し合いができた。
この間の私は、庭仕事は中断したが、フミちゃんは妻と草刈り、昇さんは畑で畝作り。匠の祭典収録チームの3人を見送った後、私は昨年度の一畝のネギを掘り出した。
月末時点では、ヤマイモは既にここまで蔓が伸びた。
翌7日は、瞳さんと乙佳さんを迎え、インディアンフルートの集いに関する打ち合わせをした。
乙佳さんには頼んであった板を「親方がつくってくれました」と2枚持参してもらえた。かくして、この板を用いて、当月は海詩の手も借りて、カフェの案内板を補修した。ベニヤ板を用いた失敗を恥じた。畑では、瞳さんにもらった藁を活かして“ネギの新育て方”に挑むことになった。
F 、ハッピーの小屋を修繕
久しぶりの大工仕事に取り組んだ。ハッピーにもストレスが溜まっているのだろうか。あるいは、猫と同様に爪研ぎだろうか。木の小屋を内側から爪で削って台無しにした。今度同じようなしたら、新たの板を用いなければならなくなる。
G 、雨天プログラムの1日
下旬は予期せぬことも多々生じ、何かと集中したくなる気分になった。その始まりは終日の雨と予報でわかった22日。 “雨の日のプログラム”を組んで、懸案も解消する1日にした。まず、ブルーベリー畑に被せる防鳥ネットの骨格を、畑の地形、ブルーベリーの木の性格、そして松美さんがくださる骨材から割り出し、そのデザインを固めることにした。韓国で40年ほど前に買い求めた骨董品の補修もしたかった。壊れたまま放置して1年になる。この2カ月来取り置いてきた幾つかの種の整理もしなくては、との想いがわいてきた。梅雨らしい雨の下で想いを巡らせ始めたわけだが、九州方面の酷い雨に想いを馳せ、なぜだか頑張らなくっちゃ、とおもった。
喫茶店の37年来の看板も補修するために取り込んであった。
まず“骨格”を構想し、決めた。次いで骨董品の化粧箱も直した。
喫茶店の看板に取り掛かったが、これは「塗装作業が主だから」と、白い塗料の作業をまず済ませ、あとは幾日かかけて7月中旬までに仕上げよう、になった。最後に種の整理に取り掛かった。
サンショウの実の整理は、夜分になったが、2時間や3時間で方づく作業ではなかった。少し乾いて裂けた小さな実から、直径1mm余の黒い種をとりだす作業である。妻はその様子を見て「孝之さんに、そんな作業に取り組んでもらいたくない」と非難した。だから、続きは妻の目を盗んで行うことにした。そして、フト前日に想いを馳せた。
アイトワが夏休みに入った21日、来客予定が午前と午後に各1つあった日のことだが、「今日はご在宅で、」との午前の問い合わせで午後の来訪予定が1つふえた。この3件は、内容はそれぞれまったく異なっていたが、まるで大事な3粒の種をまくような案件で、タップリと時間を割いた。早朝の野菜の虫取りなどのルーチンワークの他には時間を割いておらず、2日続けて何か1つのことに“集中した日”になったわけだと思い直した。
それにしても、22日は雨になってヨカッタ。防鳥ネットを被せる骨格のデザインを決めたことだ。24日の朝、松実さんの農園に向かって昇さんと車を駆り始めた時に、ニホンミツバチの師匠・志賀さんから「急遽、今日、京都に出かける用事が」できたと電話があった。パイプの切断は「電道具があれば簡単だから」とおしゃっていた師匠と、亀岡の現場で合流し、手早く切断作業を済ませることができた。そしてこの日は、志賀師匠と3度も会する第3の“集中の日”になっており、2つの懸案に見通しが立っている。
H 、ミツバチが入った
22日の師匠の主たる用事は、ニホンミツバチの普及活動の一環で、京都出張だった。志賀さんは、ご自身でもブルーベリーを育てておられるから、防鳥ネットが急がれることをご存知だし、私が松実さんの農場を訪ねること伝えてあったから、この日を選ばれたのかもしれない。
この日、骨材の裁断がかない、わが家に送り届けられた上に、夕刻のことだった「これから、」との電話の上で、一群のニホンミツバチがわが家に着いた。その後、最初の小型ズメバチを捕獲したのは5日のこと。
I 美味求心に脱帽
25日は、朝食時に「残念だなあ」と、こぼすことから始まった。先月の、ユスラウメを少ししか収穫しなかったことを悔やんだ。妻は試しにと、その少しをジャムにしたが「出来損ない」と思ったことだろう。実の割に種が大きく、しかも実と種が離れにくいのだから
この日、この出来損ないをヨーグルトに活かした。種を口の中で外さなければならないが、「来年はもっとたくさん収獲しよう」と私が言えば、妻は「たくさん煮ます」と応じた。
昼は、この年初のソーメンだった。薬味は、新タマネギのスライスとヒコバエの採りたてのネギ。毎度のごとく「どなたが考え出したのか、」とソーメンの発案者に感心しながら夏日の胃に流し込んだ。夕餉は、昨年に続いてアユの時期のお招きだった。
この度はすべての料理を写真に収めよう、との思いで出かけた。そのカウンター割烹“浪漫”は、この1年の間にミシュランの星がついていた。ドアーを押すと、鰹節の良い香りが漂ってきた。店内では、粒よりの梅が干しあげられていた。
お任せ料理は、ゴマ豆腐で始まる9品だった。とりわけ次の5品、ゴマ豆腐、吸い物、10割ソバ、ハモの湯引き、そしてデザートのわらびモチが心に残った。もちろん、いずれもが素材の吟味から始まっているのだろうが、これらの念のいった素材の活かし方、ハモの湯引きはその骨切に、など料理法に脱帽だった。
食べ物の選り好み、とりわけ食材の選り好みなどできない時代に育った私だが、この日の3食はココロに残りそうだ。
J 、梅シロップ
わが家なりに今年はウメが豊作だった。毎日1つ、多い時は11も、拾った。昨年は10ほどしか実らず、小さな瓶でニホンミツバチの密にエキスを絞出させた。。その味のほどを、真夏日の草抜きの後でフミちゃんに確かめてもらった。
K 未来さん
久しぶりに母子ともに元気な姿に触れた。赤子を抱かせてもらい、その育ちぶりを喜ぶとともに、母は強し、と感心させられた。
L 台湾を再訪したい
献本にも恵まれた。とりわけ、次の2書はありがたかった。
まず古川先生と知り合った台湾旅行を振り返り、岡田さんに誘ってもらえたことを改めて感謝した。その台湾旅行時に、この度の書籍の主人公2人の足跡を、台湾大学に残る研究室にも訪れ、学んでいる。今月は、天皇夫妻がインドネシアに招致され、そこで残留日本兵の末裔をねぎらわれた。連続して私はベトナムを訪ねたことがったが、残留日本兵がいかにベトナム独立戦争に貢献したかを学んでいる。また、インドネシアのロンボク島でも、島民に感謝された部隊の存在に安堵した思い出もある。
もう1書は、今回取り組んでいるある大学の叢書シリーズの1で、今回世話になっている偏者の一文も載っている。
M、 大団円だった
翌文月に予定する“インディアンフルートト真砂秀朗演奏会”に備え、チョット気ぜわしく、気の張った一か月であった。それだけに、フミちゃんと昇さんの助勢を得て、除草や草刈りなどがはとてもかどり、ありがたい1か月になった。
しかも月末は、予期せぬ“門扉のチャイム”から始まった。大垣時代の“忘れ得ないお一人”菅沼愛子さんの明るい声だった。「子どもから手が離れ、京都旅行を思い立ち」と伺った。彼女は5年にわたって大垣で開催された「大垣市女性アカデミー」という年間プログラムの受講者の1人であり、就学旅行のアメリカ視察メンバーにも選ばれたお人だった。この四半世紀、元旦ごとに彼女の年賀状を楽しみにして来た人であっただけに、とても話が弾んだ。後日、同メンバーだった日根野さんから電話を頂いた。
午後には、この日ならではの水無月を惜しむ心がいやまさす有難い出来事があった。 30数年来この日に手作りし、届けて下さる“ミナヅキ”に、今年も恵まれたことおかげだ。水無月を大団円で終えられたことを実感し、感謝した。