目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 アイトワ流の庭仕事や収穫
2 真砂秀朗インディアンフルート演奏会
3 ブルーベリーの防鳥ネット
4 松山、児島、そして新市3泊4日の旅
5 ご褒美
6 その他
「縁(えにし)と緑の時空」と3泊4日の旅
文月は雨で明け、雨に悩まされる日々が2週間続きました。16日の「真砂秀朗インディアンフルート演奏会」を控え、雨に振り回されたわけです。岡田敏明さんの起業25周年と、わが夫婦の結婚50周年を機に共催を、と大勢の仲間を煩わせましたが、お招きした方々と縁(えにし)と緑の時空を分かち合えたように思います。当日は天候に恵まれたのです。
14日の夕刻まで、準備は雨も想定して進めました。快晴になった15日、阿部ファミリーに、次いで真砂さんに駆けつけてもらえ、晴雨兼用の準備を終えました。ゲストルームや人形工房の家具や織機まで動かし、観音開きの扉を開け、椅子を運び込み、並べ終えたのです。
小雨で明けた当日は、すぐに晴れ上がり、真砂さんと庭を散歩。ヒノキ林に至った時に、「この森で」とおっしゃった。即、私も同意。サー大変。三々五々集ってくださっていたスタッフ仲間を総動員。急遽、会場を変更です。結果、予期せぬ雰囲気を醸し出せたのです。おかげで、ご招待の方々を見送ったあとの手作り反省会は、打ち上げのごとし、になりました。
岡田さんは車で、四国は松山から、映像機器や電子チャージ水など重い品々を持ち込んで来てくださった。だからその車を活かし、22日の早朝から3泊4日の旅を組んでいたのです。前半は、私が希望した松山での5つの願い。後半は岡田さんのご要望で、岡山の児島と広島は新市で3社の訪問でした。後半の2日には、知友の佐伯晃さんに神戸からお出まし願い、岡田さんに喜んでもらえました。この3泊4日は温泉やうどんも堪能し、至福の旅になりました。
雨に悩まされた月初めの2週間と、17日から旅にでるまでの5日間も、思い出深い日々でした。雨で明けた1日は、アイトワ方式で育てた薹立ちレタスのサラダで始まり、コンニャクやヤマイモの成長を愛で、「ノーゼンカズラのアーチ」にニンマリ。2日の日曜日は、妻は中庭でクリスマスローズの手入れ。私は今村昇さんを迎え、ブルーベリー畑に防鳥ネットを張る骨格づくりに着手。この骨格は、8日の昇さんの再訪時に完成させました。
この間の3日と4日はフミちゃん(羽尻文子さん)を迎え、妻と3人で庭木の刈込や除草に精を出し、「ブルーベリー小径」なる愛称が誕生しています。5日は、夏野菜が本格的収穫期に入り、ブルーベリーも1粒ですが初収穫。6日の午前は、心臓と眼の定期検診と喫茶室のブラインド工事。午後は岡田さんを迎え、打ち合わせ。その後、急遽お招きしてあった高安先生を交え、映画会。7日は朝に歯の定期検診。帰宅後はペンキ仕事など。妻は裏庭の草刈り。8日には昇さんだけでなく、フミちゃんも迎え、お二人の初顔合わせがかない、赤い大根の採種を断念しています。夕刻、6月分の『自然計画』の原稿を下村知範さんに引き継ぐ。9日、ニンジンボクが咲き揃う。10日、ブルーベリーの垂れ下がった枝を支柱で立てる。この日、ジャガイモでもカメムシを発見。11日、フミちゃんを交え妻と3人で旧玄関前の庭掃除。12日、知範さんと大型HCに出かけ、買い物。夜は“粉山椒”作り。13日、カミナリチョウと3種のカミキリ虫を見かける。14日、ヒグラシが初鳴き、4:38、チョット安堵。岡田さんが8時半に松山から車でご到着。9時にフミちゃんを迎え、3人で庭掃除。
演奏会の翌日は、スイレンやハナオクラが初咲き。真砂さんを見送った後、阿部ファミリーは最後の後片づけをしてから恵那へ帰ってゆきました。18日から、従来の日々に戻り、喫茶店は21日から再開。妻の夏の創作休暇でしたが、人形づくりには手を出せなかったようです。翌朝、岡田さんの車で至福の4日間の旅へ、になった次第です。
3泊4日の旅の後は腰痛の悪化や妻の発熱とか、27日には心臓の臨時検診などがあり、大団円とは行きませんでした。だが29日に、予定通りに昇さん迎え、私は口だけの参加でしたが、第2ブルーベリー畑の防鳥ネット工事を彼にやり遂げてもらいました。また月末の土用の丑の日は、池田望さんと知範さんを誘って、長津親方をお訪ねしています。9月に迫った“「匠」の祭典”の収録についての打ち合わでした。かくのごとく、猛暑の日々をなんとか乗り越えることができた次第です。
~経過詳細~
1.アイトワ流の庭仕事や収穫
雨で明けた当月の朝一番のこと。“畑に至る手前の小径(得心の愛称が未決定)”で、ノカンゾウが咲き始めており、その向こうのノーゼンカズラと見事な色彩調和を示していた。しばし立ち止まった。午後、その様子を、小降りになった隙間にカメラに収めた。ついにノーゼンカズラが、アーチをなし始め、ニンマリ。
当月は16日に、岡田さんと共催するアイトワでの催しが待ち受けていた。加えて、レタス、赤い大根、カメムシ、そして粉山椒、さらに、月末にはノビルの、と計5種で、アイトワらしい取り組み方を試みるところとなった。
まず、レタスのこと。昨念の秋に、混合レタスの苗を、エンドウマメの畝の肩や、キャベツの苗を植え付けた畝の隙間などに植えつけたが、そのレタスのその後のこと。
過半は、エンドウマメやキャベツなどの成長と歩調を合わせて育ち、主作物の成育の邪魔にならないように順次収穫した。だが、成育が遅れるなどして採り残した分は、主作物の陰にされてしまい、いわゆる日陰者を余儀なくされていた。
この春に、主作物の収穫が終わり、日当りが良くなると、レタスは息を吹き返した。ほどなく、次の主作物を育てるために腐葉土を投入し、畝を仕立て直すことになった。だが、日陰者だったが息を吹き返し始めたレタスなどを心して残し、畝に仕立て直した。
夏野菜の苗を植えた畝や、ゴーヤなど自然生えを期待した畝では、しばしレタスは“わが世の春”を体感したようで、見事に育ち始めた。それは、その根がよみがえることを願い、レタスの周囲を心して耕したことに応えてくれたかのように感じたものだ。
むくむく育ったレタスを、妻は順次葉をかき取ってキッチンへ。その側で、ゴーヤが芽吹き、どんどん育ったり、レタスはやがて薹を立て、花芽をつけたりするようになる。
その花芽はひときわ苦み走る。だからその多くは、ほどよく収獲されて、初物のキュウリやトマトと一緒にサラダにいかされることになる。これも自家菜園の“レタスの醍醐味”。
だが、そのすべてを採り去らず、一株か二株は花を咲かせ、想いを遂げさせる。本来、野菜は種を結び、世代を超えるために芽生え、花を咲かせ、種を結ぶのだろう。おかげで、この度は、青い花をつけるレタスがあったことを初めて知った。
次は赤い大根。アイトワ菜を意識的に育て始めてから、これは初めて誕生した突然変異の一種。収穫して、その姿(土に隠れた部分)、味、あるいは食感などを確かめようか、あるいは種をとって増やし、出来れば新品種にまで改良してみようか、と悩んだ。
種をとるには好都合の時季外れである。交雑の原因になる十字架植物はほとんど畑にはなく、自家受粉させるに適していた。だが、虫の集中攻撃を受けるところとなった。側では、トーモロコシが大きく育っており、オオバ、中国ホウセンカ、あるいはシュクコンソバなどが自然生えして、育ち始めた。
やむなく採種をあきらめ、キッチンに持ち込んだ。妻が「辛みがあり、歯触りが良くて美味しい」と叫んだが、後の祭りだった。ついに、しっぽまで赤くて、もっと長くなる新品種を生みだす好機を逸したことになった。もちろん、日陰にしそうな自然生え野菜を抜き去り、赤い大根に農薬を使えば種取りができるかもしれない、と考えた。でも「そこまでした」との想いにを優先し
何年か前から、この畑で見かけぬカメムシが現れている。昨年まではトウガラシに着く害虫と観て、専用の捕虫器をこしらえ、徹底的に退治してきた。この捕虫器は、この虫が、危険を感じるとポトポトと落ちるので、その性質を見越した捕獲戦法用具だった。
だが今年は、7月4日に、クロホウズキに現れた。次いでナスビで見つけた。
その後、トウガラシだけでなくジャガイモにもたかって繁殖し始めた。だから、プラスチックのごみとりを取り出し、その上に落ちるようにして受けて、ことごとくつぶして殺す日課が始まった。
だが、1株のジャガイモだけは倒れて地面に接しており、手が出せなかった。そこで、トンネル栽培用のアーチを取り出してきて畝に立て、倒れたジャガイモを引き起こし、吊るし上げておいた。いずれはのぼり直すクセを見込んでの作戦だった。
翌朝をまって、のぼり直して主軸や側軸に群がり、吸汁しはじめているときに襲うことにした。うまくいった。プラスチックのごみとりで受けてとめることができた。
今年こそ、粉山椒を作ってみよう、とおもった。サンショウの実を摘んで、干しておいた。やがて、はじけて黒い種をあらあわにし始める。その実を1つ1つ摘まみ上げ、黒い種と乾いた実を分離し始めた。太い指は裂けていない実も摘まんでしまいがちだ。その時は、裂けがたい実と見て、別途取り置いた。
この作業に取り掛かっている私の姿を見かけた妻は、嫌な顔をした。女の「私が引き受けるべき作業」とでも思ったのかもしれない。
作業は、妻の目を盗んで随時進み、容器に溜まり始めた。ついに、ミニ電動グラインダーで粉末にする時が来た。小さなびんが粉山椒でイッパイになった。
そこで妻に見せると、「よい香りですね」「売っているのは、着色使っているいるのでしょうか」と返してきた。
乾きあがっても裂けない実は、乳鉢でつぶすことにした。だが、とうてい歯が立たなかった。「薬研なら」と考えたが、「そこまでして」とあきらめた。既製品より香りがよい粉山椒を、これで自給する力を得たわけだが、2度と自分で作ることはないだろう。でも、このうえない経験をしたことを喜んだ。もし手作りの粉山椒を頂くことがあれば、感謝のしようのほどが、これで分かった。近年の既製品の粉山椒は七味と変わらぬ値段になっており、私流の手作りに比すればただ同然に感じられる。
ノビルの繁殖。80年ほど昔、野草を食することを国家が勧めた。その頃の国家は、国民に「国家のために死ね」と命じていた。戦時中のことだ。
やがて大日本帝国は「一億(当時の植民地も含めた人口)玉砕」を標語にした。良きタイミングに打ち出した。少なくとも日本人の国民は戦況の不利に追いつめられ、余計に好戦的になり、死ぬ覚悟をした。その想いに欠けている者を、非国民とか国賊と呼んで疎外し始めた。ときには暴力も振るった。その頃に「美味しい」と思った野草の1つがノビルだった。ネギの代用のような野草だが、アイトワの庭では生えており、今年も次々と薹を立て、ネギボウズをつけた。
当時は、大勢の国民が、ノビルさえ食べられずに次々と餓死した。餓死者が増えるにしたがって、非国民や国賊のつるし上げが酷くなった。
国家は国民に食糧の増産を強いた。だが、その多くを軍隊に回した。戦地にも次々と送り出したが、第一線の兵士も、過半は食糧不足で飢死、もしくは栄養失調で病死した。これは後年知ったこと。日本軍は敵の戦艦や空母の攻撃に躍起だったが、米軍はひたすら丸腰に近い日本の輸送船を攻撃したからだ。
敗戦後に誕生した首相は「一億総懺悔」を国民に呼びかけた。好戦的になっていたからか、国民は従った。国家はその後、兵士として任じて直接戦争に加担させた人(には、60兆円からの恩給を支払ってきたが、それ)以外には、つまり銃後の国民には受忍論(被害は自己責任で受けとめよ)を強いた。その態度を、民が主になった今も、ここという時に国家は自己責任論をかざしており、変えていないように見える。不気味だ。
だからだろうか、今年は記念すべき年になった。ついに、アメリカが始めた戦争への加担まで、国家は積極的に目論見始めた。それを国民は望んでいるのだろう。反対運動さえ燃え上がっていない。
ウクライナ戦争でわかったことがある。軍事施設がないところを攻撃すれば、世界は戦争犯罪だと言い出したこと。また、原発はドローン爆弾1つで原爆のごとき被害になりかねないことも分かった。だが、わが国は、国民を守るための手を打っていない。むしろ逆行している。
この記念すべき年を、戦時中を知る者の1人として記憶に焼き込んでおきたくなった。ノビルの種(?)を大量に収集した。庭の随所にまいてノビル元年にしたい。
2. 真砂秀朗インディアンフルート演奏会
まず、真砂さん、岡田さん、そして私の3人で7月16日に実施、と決めた。その日は、妻は1か月の夏の創作休暇に入っており、喫茶店を閉めている。日程的に問題はない、と読んだ。
早速、村上瞳さんと大北乙佳さんに無理を言って集ってもらった。私たち夫婦は、とりわけ妻は役割上で、非力になったことを自覚しており、助成を求めたわけだ。思えば妻は、今は亡き母が今の妻の年頃だった頃には、脚立にも登らせないようにしていた。
このお二人は二つ返事で、「主人も喜んで、といってくれるはずです」と引き受けて下さった。真砂さんは前泊されるだろう。当日は写真収録もしたい。また、岡田さんは演奏だけでなく、真砂さんと私のトークの時間も組むことをお勧めだった。ならば反省会もしたい、などと話は弾んだ。
結果、連絡、進行、司会などを瞳さんに、反省会の食事の準備は乙佳さんにあたってもらい、写真収録は池田望さんに、などと構想が固まっていった。当日は、後片付けなどを済ませば夕刻になる。ならば反省会も兼ねて夕食を、となった。
この構想に従って、茨城の鈴木夫妻と岐阜は恵那の阿部夫妻に電話を入れた。当日は泊りがけで来てもらい、真砂さんの布団の上げ下ろしなども頼み、「喜んで、」になった。
その後、反省会の食事のメニューを固め、調理のリハーサルをする機会を持っては、となった。開会10日前に実施。最終の細部打ち合わせをした。
「真砂さんらしく、肉より魚で」と、乙佳さんは提案し、参加者6人で決めた。親方(乙佳さんのご主人)が考案し、造って下さった魚を焼く道具は見事に機能した。串は瞳さんが試作、海と川の魚で試した。それにしても「晴れてほしいものだ」とおもった。雨勝ちの日が続いていたからだ。
開催2日前の14日の朝、未明にヒグラシが初鳴き、4:38だった。これは天候上での良き知らせ、と気を良くした。8:30に岡田さんが、松山から車で重い品々だけでなく、カツオのたたきなど美味も運び込んでくださった。
この日、フミちゃん、続いて昇さんが到着、私たち夫婦と4人で最後の事前庭掃除に取り組む日だった。私はカフェテラスに至る石階段道の手すりの塗装にも当たった。
翌開会前日の朝は天候に恵まれ、フジの剪定から始めた。その時に、阿部夫妻が長女を伴い3人で、スズムシの子どもや私たちのお昼の食事などさまざまな品を積んだ車でご到着。フジの剪定から取って代ってもらえた。塗装し直してあった2つの吊り看板を、寿也さんにポールの再塗装もしたうえで吊るしてもらえた。実は、鈴木夫妻が、直前になってさちよさんが病に倒れ、援軍を期待できなくなっていた。だから、阿部夫妻の20歳になった長女結さん同伴は大助かりとなった。
阿部ファミリーが用意した昼食は寿司での援軍だった 。クマザサや大きなカキの葉でくるんだ酢飯の弁当はうまかった。妻は、カキの葉が糸でかがったような模様付きだったことに気付き、大喜び。
陽が少し傾いたころに真砂さんもご到着。雨天になれば、とゲストルームや人形工房の模様替えもすませていた寿也&仁美夫妻は、ひときわ感慨深げだった。20年も前から真砂さんのファンだったし、その歌詞から2人の娘の名前“結”と“かれん”を選んでいたのだから。結は、厨房で義妹と翌朝の準備にとり掛かっていた。
夕食は外に出た。阿部ファミリーに真砂さんとこころおきなく語らってもいたかった。案の定、ご両者は、インドや北米、あるいはユーラシアなどの、若き日の放浪のごとき旅の話に花が咲かせていらっしゃった。
実はこの日の、演奏会前日の好天の昼日中に、妻は「こんなところに…」とアブラゼミの幼虫が土中からはい出し、高みを探しているところを見かけていた。私は、これも良き予兆と気をよくしいた。新装したCaféの案内板を意気揚々と添え付け変えている。乙佳さんのご主人に板を作ってもらって、NZから来日中だった海詩にレタリングを頼んでの補修だった。
当日は明け方に小雨が降った。雨はパラパラで済んだ。2日前のヒグラシの初鳴きをおもいだした。寿也さんはベーグルを焼いた。岡田さんにもらったタマゴはボイルで、半熟がよかった。これはチャージ水で育てたニワトリの卵だが、このチャージ水で育てる養鶏場は鳥インフルエンザ渦に巻き込まれずに済み、糞の悪臭にも見舞われていないらしい。阿部ファミリーがスモークして持参したチーズや焼き肉と、わが家の野菜を活かしたサラダも用意された。
食後、真砂さんと庭を散歩。ヒノキ林に至った時に「この森で…」とおっしゃった。三々五々集ったスタッフ総動員で新たな会場を準備した。音響の主システムは、万一の雨に備えて“方丈”に設置。真砂さんは早速リハーサル。望さんは収録の準備。
ほどなく、反省会の食事を積み込んだ車で大北夫妻がご到着。夫妻を真砂さんに紹介。11:30、スタッフは喫茶室に全員集合。昼食は瞳さんの差し入れ。声明舞の名手・後藤有美さんは赤いドレスでお越しだった。真砂さんを最初に紹介してくださった人だ。真砂さんのCDと書籍の販売に当たることになった。
村上瞳さんの司会で開会。北アメリカのインディアンの笛の吹奏から始まった。木漏れ日の下で、心地よい風がそよぎ、たちまち小鳥がさかんに共鳴し“緑の時空”とのシンクロが始まった。
ワンドリンクサービス(中休み)の間に、招待客の高木由臣先生や中口グミ・ヒロコ夫妻と真砂さんをつないだ。
その後は、ビル・トッテンさんを交え、真砂さんとの鼎談だった。真砂さんは水稲を、私は野菜と燃料の木を、そしてトッテンさんはアヒルなど動物性タンパクを、とそれぞれの余暇を自活力の追求に活かしている。いずれわが国は、こうした自活力が求められるはずだ。こうした想いを秘め持った3人だから、ヒトの生きる好ましき心構えが語られたように思う。
真砂さんの演奏は後半に入り、いよいよ佳境に至った。最後の曲目『えにし(縁)』の紹介で、真砂さんは「縁」の尊さについて触れられた。緑の木立の中で、小鳥はいよいよ演奏に合わせるかのようにして盛んにさえずった。そよ風も吹き、蝶も舞った。“縁と緑の時空”を共有できたようだ。
ご招待者を無事に、スタッフは見送ることができた。真砂さんのCDや著作は完売。ヒノキ林の会場から手早く、楽器や音響装置、撮影器具、あるいは椅子などが片付けられた。
並行して、大北夫妻が囲炉裏場に運び込んだ反省会用の食べ物が、アユは串焼きに、さまざまな手作り料理がテーブルに並べられ、整えられた。岡田さん持ち込みのカツオのたたき、阿部ファミリーのスモークチーズ、あるいは妻が瞳さんと妹の助成を得て用意した散らし寿司なども並んだ。まるで打ち上げの準備に見えた。
乾杯の後、岡田さんと私たち夫婦は記念品・水琴窟師の手になる「風の水琴」を頂いた。次いで、「すぐ日が落ちます」との池田望さんの助言で、記念撮影。もうこの時は打ち上げの気分だった。真砂さんと岡田さん、そして妻と、ねぎらい合い、好天に感謝し合った。
反省会はとてもなごやかな場になり、参加者がそれぞれおもいおもいに、伸びやかな発言をすると、皆が耳を傾けた。。
最若年の結さんは、真砂さんのハグを受けた。望さんの舌鼓を打つ姿や、トッテン夫妻だけでなく、大北夫妻や村上夫妻の安らいだ姿に「わが家も学ばなければ」と感じた。あらかたの人が想うところを語った。真砂さんが招いた唯一の外国人も、伸びやかな発言をした。フミちゃんや昇さんにも参加してもらいたかったなぁ、と悔やんだ。
一夜が明けた。食卓には阿部さんが焼いたカヌレ、庭の野菜のサラダなど、手作り料理が並んだ。食後、前日の演奏会を開いた森まで足が向いた。「まるで銀河!」と、どなたかがつぶやいた。そこに小宇宙をみた。クモの子が孵化したのだろう。
めいめいがそれぞれ、わが銀河星団を覗き込んだ。爽やかな朝になった。苔の中に幾株かのカンアオイが育っていたが、1本も踏みつけられてはいなかった。
わが家には、道具がもう1つ増えた。乙佳さんの夫であり親方からの贈り物だし、この日の記念品である。囲炉裏場の水屋の扉に収納した。翌日から、水琴の風鈴が凉を誘い始めた。
3. ブルーベリーの防鳥ネット
当月は、大小2つのブルーベリー畑に、新たな防鳥ネットを設えることができた。大の方は、雪でつぶれた躯体に代わる新たな躯体づくりだが、私には構想通りに作れた喜びが、今村昇さんには、その構想を形にする実感の喜びが、それぞれのご褒美になった。松美さんにもらったビニールハウスの廃材を活かせたし、出入りの電気屋さん・中尾さんに借りた、ベンダ(パイプを曲げる道具)の活かし方も収得できた。
この躯体づくりと並行して、フミちゃんと妻は周辺の草刈りなど掃除に当たった。結果、2人は “ブルーベリー小径” なる名称を考えて、周辺の路に与えた。また、このたびの躯体づくりと周辺掃除の作業日が重なったことで、フミちゃんと昇さんの顔合わせも実現した。
ブルーベリーは1粒だが7月2日に稔り、その後次々の稔り始めた。だが、小鳥に襲われる前に大きな防鳥ネットは(8日に)完成した。その間は、熟れる順からセッセと収穫し、小鳥に気付かれなかったおかげだが、ヨーグルトと一緒に生食するだけでなく、新メニューも誕生した。
その後、竹の支柱を活かし、傾いたり枝が垂れたブルーベリーの木を、つるし上げるなどして、収穫が容易にできるように矯正した。28日に初めてジャム用としてまとめて妻は収獲し、初回は1.6kgだった。ネットの背が高くなっただだけでなく、ブルーベリーの木を立てたおかげもあって、収穫作業が楽になった、と妻は大喜びしていた。
そんなある日のこと。収穫に出た妻は、取って返して来て私を呼んだ。防鳥ネット越しに、宇宙を覗いたような気分になったようだ。
松美さんにもらった廃材は少し余った。雪でつぶれた方の19mmの廃材も残してあった。これらを活かして、小さい方の防鳥ネットも新調することにした。そこは大きい方とは違って、今も大雨が降ると小川になる水路の側にあり、坂地だし、用い得る骨材は残り物で限られている。だから、設計図はつくらず、現場で、組み立てながら仕上げることにした。
まずいことに、私の右足の不具合が高じており、力仕事に関われなかった。昇さん一人を頼りにして、29日土曜日の終日を投じた。
余っていた25mmのパイプで、大きな2ツのアーチと、小さなアーチ(高さは同じだが、幅が狭い)を1つ作った。大きい2ツを1mほど放して平行に、坂地に伏せるようにして立てた。次いでこの2つのアーチと小さい1つを直角に組み、固定した。これで、少々の雪の重みや風の風圧ではビクともしないことだろう。その上で、たくさんあった(かつて雪の重みでつぶれた)19mmのアーチ状や直線状の既製のパイプを生かし、躯体をこしらえたが、部材が幾つか不足している、などが分かった。
やがてブルーベリーの本格的収穫が始まった。
この2つの防鳥ネットは、わが残りの人生に耐えることだろう。この冬から、この防鳥ネットに合わせてブルーベリーの木の剪定に取り掛かり、実の収穫がさらに楽にできる木立ちに仕立て上げたい。
4. 松山、児島、そして新市の3泊4日の旅
当月は8日と29日の土曜日に、今村さんを当てにして、2つの防鳥ネットの更新作業を実施したわけだが、この間に、2つの大きなイベントを挟んでいる。真砂秀朗インディアンフルートの演奏会と、もう1つ、3泊4日の旅であり、これは岡田さんとの間での懸案だったが、現実化した。
岡田さんはインディアンフルート吹奏会のために、重い荷物を松山から車で運んでくださったが、その帰路の車を活かしたもので、7月22日早朝にピックアップ願い、出立した。久方ぶりのテラスでの朝食は、わが家の野菜と、岡田さん頂いた卵にくわえ、ベーコンを少々そえたサラダがメインだった。
前半の2泊2日は松山で、5つの私の念願をかなえた。その最初はアポイントも入れずに訪れた“福岡正信記念館”だった。自宅の一角が記念館になっており、隣にアーミシュのバーン(納屋)を連想させそうな大きな農事納屋があった。
福岡正信の孫のご夫人・晶子さんが記念館の守りをしておられた。
福岡正信のことは、4半世紀前のアメリカ取材時に身近になった。『わら一本の革命』なる著作を、まるでバイブルであるかのごとくに捉える企業と出会い、認識を新たにした。世界の4大ワイナリー(ホワイトオークも自ら育て、樽から自家生産)が、ブドウ畑の土壌改良に応用していた。
それまでは噂で知っていた福岡正信だが、誠実と勤勉の農業哲学であろうと見ていた。それだけに、そのアメリカらしい応用のし方と、ヒントを得たことへのアメリカ人らしい感謝の仕方に触れ、とても心を膨らませたものだ。
記念館には、その折にアメリカで見た翻訳本を始め、多くの国での翻訳本が並んでいた。だが今は、日本ではその原著の再販はされておらず、とても残念におもわれた。
記念館では、昔懐かしい黄色いマクワウリをはじめ、農産物も並んでいた。その幾つかを買い求めながら、次回は是非とも農業現場にも立ち寄りたくおもった。
わが国は早晩、食糧問題で惨憺たる状況に追い詰められる。この誠実と勤勉を旨とする農業哲学を多くの人が学び、家庭菜園でも繰り広げてほしい。私はサラリーマンしながらの週末農業であったから、少し手抜して耕さざるを得なかった。
次の予定は夜の会食だった。その間の時間を活かし、岡田さんのお宅に案内いただいた。チョットした学習をした上で温泉に訪れ、体を湯船で伸ばすことになっていた。
チョットした学習とは、15日土曜日(演奏会の前日)にあった失敗学会の、いわば補修だった。ズーム参加さえかなわず、資料だけの学習になったが、その補修だった。
会食は居酒屋での4人の待ち合わせだった。作家であり、かつては“萬翆荘”の館長であり、愛媛県立高校地理歴史・公民科教員でもあった片山雅仁さん。もう1人は、薬剤師であり県庁勤め時代には“坂村真民館”の広報マンかのごとき活躍もされた青野眞さん。このお二人を岡田さんにご紹介願う場であった。
旧・愛媛県立松山城北高等女学校には、教師の鑑と私が観る曽我静雄先生がいた。敗戦間際に大阪の軍需工場への勤労動員を命じられ、170人の女学生(14歳)を引率し、風船爆弾づくりに従事させた。この全員を米軍の爆撃に耐えさせながら無事に、1人残らず松山に連れて帰った指導力に私は心惹かれている。その後、この軍需工場は天皇の敗戦宣言前日の14日に、大爆撃で跡形もなく破壊された。
この『学徒動員』の体験者の1人、川原節子(野間)さんは『引き揚げ 松山へ』と題する一文を寄せておられ、次のように綴る。
だが、この先生の存在は新制愛媛県立高校では忘れ去られているようだ。全員を殉死でもさせておれば美談として扱われたのかもしれない。あるいは、全員を無賃乗車させたことが引っかかっているのかもしれない、などと憶測した。
ともあれ、これからは何が起こるか知れたものではない時代の変わり目にある。この教師のごとき教育、生きた教育がとても大切になる。今のわが国の教育は、まるで戦時中の軍国少年少女教育であるかのように見えてならない。工業社会の、いわば企業戦士のような優等生を育てているように見えてしかたがない。工業社会(地球環境破壊社会)と一緒に一億玉砕を、とでもいったような力みさえ散見される。
翌23日は、片山雅仁さんに萬翆荘で迎えられ、当時の貴族の館で敗戦時まで繰り広げられていた貴族の生き方や、そのありようを学んだ。
この館の一角には、漱石が松山赴任時に下宿した“愛松亭”があり、今は漱石珈琲店になっている。ここで片山さんと分かれることになったが、話題にはおのずと日本文学の改革が選ばれた。
萬翆荘では、子規と漱石が日本文学の改革者として取り上げられていた。2人は松山の“愚陀佛庵”で階を分けて52日間、共同生活をしており、漱石は子規に俳句を学んでいる。日本文学の近代化は子規の俳句を通して進んだことを確認した。
午後は、大正時代から昭和時代初期にかけて一世を風靡した抒情的挿絵画家『高畠華宵大正ロマン館』に立ち寄った。開館25周年を機に「幻想耽美美術館」として、現代の幻想耽美作品も同時に展示しており、華宵の位置付けを際立たせていた。
1911年に発表したその津村順天堂の「中将湯」の広告画で一躍有名になり、耽美的な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、少年少女の間で絶大な人気をはくし、竹久夢二と並ぶ人気画家になった。やがて世間ではモボモガと呼ばれる新風俗の流行現象が現れ、エロログナンセンス時代を経て、その反動かのごとくに戦時色にとって代わられてしまう。今は亡き私の10歳年上の姉は、叔父や従兄弟と一緒に歩いていて叱られた。
こうした時代にあって、化粧をあらたな角度からとらえようとする流れが生じていたわけだ。化粧を通して家庭のあるべき姿や自己を尊ぶ女性の生き方などへの目覚めを促そうとする企業の動きがあったわけだ。これが近代化粧の曙になったわけだ。
次いで砥部(とべ)を目指し、“砥部ミュージアム通り”まで移動。その中心部角地にある砥部焼窯元の店舗兼住居跡の施設を訪れた。切妻造り平入桟瓦葺の土蔵造りの二階建てで、国指定文化財の“砥部むかしのくらし記念館”であった。
往年の砥部焼窯元の隆盛を垣間見たかった。岐阜の友人・内山栄一さんの紹介だったが、この存在を知り、当時の社会のありようや暮らしぶりを体感したかった。今の主は元日本サッカー協会の常務理事だが、全館をくまなくご案内願えた。
京都は砥石で有名だが、“砥部の石”が砥石の元祖だとは知らずに育ったことを恥じた。幾年か前に、四国は徳島で営々と暮らしてきた忌部族を知ったが、その折に似た心境にされた。弥生時代の曙、国生みの世界を体感させられたが、明治政府は一神教化(仏教徒であった天皇を現人神にする)政策上不都合を感じたのだろう。それはともかく、この度の松山の旅でも、愉快な体験を多々するところとなった。
午前中の萬翆荘では、農業文化が生みだした貴族社会のありように触れたが、午後は。ここ“砥部むかしのくらし記念館”では、その貴族層を支えた人々、いわば日本の屋台骨を支え続けてきた庶民のありようを知り得たような気分にされた。
この施設の隣には「念ずれば花ひらく」の詩で知られる坂村真民の記念館がある。館内は、第一と第二の展示室を始め、復元された書斎や情報コーナーなどに分かれており、坂村真民の諭すように優しい詩の世界を堪能することができる。
館長の西澤孝一さんは、真民の実の娘のご主人で、人の心を癒す坂村真民の詩の体現者であるかのような印象を受けた。
この日はこの後、伊予市まで足を延ばし、小さな無人駅・JRの下灘駅に立ち寄った。かつては「日本で一番海に近い駅」として知られていた(現実にそうだった)が、市職員の智慧者の一人が“日本一きれいな日没の駅”として、今度は言ったもの勝ちの戦法で再生させている。この近場に人寄せ施設も設けて一躍有名にしており、大勢の人が群がっていた。
若き頃に世界一日没がきれいな海岸(デンマークのヨーリン)に案内されて喜んだり、世界一きれいな散歩道(NZのミルフォードトラック)と聞いて出かけたりした思い出がよみがえり、チョットおもはゆい心境になった。
何にもない駅で、日没を待って1人でたたずんでいる人や、2人揃って写真に納まりたく思っていそうな人を見ると、撮影者を買って出たりして10分ほど過ごしたが、日没前に引き上げた。観光列車まで走らせており、SDGsなどどこ吹く風、だった。
翌朝は、7時半に松山駅で岡田さんと落ち合い、岡山の児島駅まで移動。旧知の友・佐伯晃さん迎えられた。岡田さんのかねてからの要望で組んだ1泊2日の始まりであったので、親友の助成をえた。
まず鷲羽山展望台にご案内願い、瀬戸内海を望み、通り過ごしてきたばかりの海峡を振り返った。
佐伯晃さんとは2つの共通点が互に惹きつけ合い、旧知の友にしあったように思う。その始まりは半世紀前の1974年。臨時発刊の機関誌『ジーンズリーダー』と言ってよい。
ブーム状態だったジーンズ市場が一転し、一過性のファッションと見る意見が台頭していた。ジーンズ業界は先行き不安にさいなまれた。「そんなはずはない」とこの編集者は思ったのかもしれない。当時の日本の、いわばジーンズの一衣料化化市場勃興の仕掛け人だった人を執筆者に選び、一書を編んだ。そこに佐伯さんと私も選ばれた。これが共通点の1つ。
私は、ジーンズはファッションではなくムーヴメントだと訴えたくて、その必然性を拙い文章で綴った。佐伯さんは業界や市場の動きの捉え方に優れた人で、その客観性に心惹かれる人であった。
かつては、大手商社はもとより、紡績や合繊メーカーの大手はジーンズに手を出していなかったし、大手百貨店もその売り場を持っていなかった。当時の常識で言えば、最も商品クレームがつきかねない商品であった。
佐伯さんは合繊メーカーの優であったテイジンがつくった子会社、ジーンズ関連会社の実質上の牽引者で、商社がつくった子会社の私の立場と似たところがあった。これが2つ目の共通点。
1990年代後半もジーンズ業界は苦境に立たされた。その折も『ジーンズリーダー1997』はオピニオンリーダーとして佐伯さんと私を選んでくださった。
この間にあって、ジーンズ業界では偉業を成し遂げる企業が現れている。藍染め織物で歴史あるカイハラ(株)である。ロープ染色という染色法の技術開発に成功し、その後、織布、整理加工、ついには紡績の設備まで完成させ、デニム生地製造で国内初の一貫生産体制を確立した。そのデニム生地はジーンズの元祖であるリーバイストラウス社から供給を求められるまでになっている。
この間に、私は繊維業界を離れているが、佐伯さんは一貫してジーンズ業界のありようを最も的確に把握する立場と努力を傾けられ、オーソリティになっておられる。堅調を維持していたジーンズ業界はまた、近年、とりわけ国産ブランドのジーンズ市場が低迷した。その時に、私のことを佐伯さんに思い出していただき、カイハラ(株)の会長と一緒に業界専門誌に取り上げてもらえ、ひと声上げさせていただけた。
この度は、引退していた佐伯さんには神戸から駆けつけていただけ、岡田さんの要望と私の願をかなえて下さることになった。鷲羽山展望台の後、まず児島のジーンズストリートを10年ぶりで散策した。往年の活気は観られなかったが、桃太郎ジーンズは気をはいていた。
その店内の雰囲気は明るく、奇をてらう様子もなく、開放的だった。だが、これ以上マニアックにならず、もう1つか2つ階段を、次元を、ファッションからムーブメントへと高めてほしい、と贅沢を言いたくもなかった。
児島での主要訪問先の予約は午後に入れた“ベティスミス”だった。同社は、公共性に富んだ“ジーンズミュージアム”をつくったことで名を知られている。アメリカ発祥のジーンズは、リーバイストラウスが元祖だが、ここが近代衣料企業(流れ作業)の第1号だが、このミュージアムはそもそもからひも解き、ジーンズの歴史も教える。
このたび、第2のミュージアムができていたことを知った。ジーンズ界とジーンズの何たるかをよりわけへだてなく学びうるようになった。その歴史の説明を丁寧に(労働着から一般衣料化した流れを)汲み取れば、近代ジーンズの台頭はファッションではなく、ムーブメントであったことがきちんと読み取れる。
同社には学芸員が居て、広報担当に学芸員を兼ねさせていた。社長は別れ際に、自身も関わる畑を照れ臭そうに見せた。
昼は天ざるうどん、夜は名物のタコ料理。ホテルからの眺めは鷲羽山とは反対側だった。
最終日はジーンズの加工技術の勉強から始まった。ことジーンズに関して、わが国のジーンズ業界が世界をリードした分野があるのか、あったのかと問われれば、あった。それは加工技術だ、と断言してよい。その頂点に立つ企業を訪ねることになった。
服飾は元来、文化現象であった。世界には数えきれないほどの文化があった。それぞれの文化がそれぞれ固有の服飾を生みだしてきた。今も、民族衣装として残る。ジーンズも、170年ほど昔のアメリカ文化が生みだしたアメリカの男の労働者の衣服であった。だが今や世界中を一般衣料として席巻しつつある。これは人類史が始まって以来の初の現象である。結論を急げば、私は文明現象としての衣服と位置付けている。
この文明現象としてのジーンズの普及面で、わが国の加工技術は世界を主導してきた。ストーンウォシュに始まりブリーチアウト、ついにはレーザー加工などと技の幅を広げ、わが国が主導してきたわけだが、そのトップランナーである豊和(株)を訪ねた。
トップランナーと見る第1の根拠として、早くからだけでなく、私はこの会社が取り組んでき環境面での配慮を挙げたい。廃液など環境破壊物質を大量に生みだしかねない産業だが、とても丁寧に処理している。廃液は無味無臭に還元していた。
第2の根拠として、その柔軟な人のつながり、に見た。有名な島精機の機械に差し掛かったところで、若い女性が飛びだしてきて「わたし、この機械のせいで行き遅れています」と自己紹介された。「機械に惚れてしまったんだ」と佐伯さん。
ある、天然加工製品に行きあたった時も同様だった。「私が、」と研究開発中の人が現れ、「試作だ、」と教えた。会長は、こうした人たちを頼もしげに眺め、好きにさせている。
この雰囲気は“ベティスミス”でも同様であった。
この旅の最後はカイハラ(株)の訪問だった。
今は引退されている貝原良治さんだが、この日は待ち受けて下さった。建物には懐かしい信条も掲げられていた。私が勤めた商社が、勤めて最初の苦境期を乗り越えた折に掲げた標語と同じであった。カイハラは、さまざまな技術を生みだしてきたが、独自に機械を開発している。
見学はロープ染色工場から始まったが、写真撮影は遠慮した。
初めての岡田さんには、カイハラの歴史と現状を学んでもらえたはずだ。藍染めから始まり、デニムに至る長い歴史が、当時の機械や製品見本、あるいは克明な説明で紹介してもらえた。
最後に踏み込んだ社屋では、“海外カイハラ”からやってきた研修生が見学中だった。研修生にすれば、貝原良治さんは噂で知る最高幹部であり、雲の上の人であったに違いない。その人であったと知った時に、彼らは出くわせた幸運にチョット緊張し、改まった喜色を示した。間髪を入れず、案内していた本社の幹部が、その緊張をチョット度が過ぎた冗談で、解いた。「見て下さい」と言わんばかりに手を差し出し、「脚がまだ着いてますよ」だった。だが、座はなごやかな雰囲気になった。貝原良治さんはニッコリしていらっしゃる。
この不用意な冗談を飛ばした人に、わかれ際に写真に納まってもらったが、まだ「首がつながっています」と言わんばかりの苦笑いが、逆に幸せそうに感じた。ジーンズは、文化の服飾と違って、性別や年齢、未既婚や身分、学歴や出自、貧富や地位、あるいは国籍や人種などを越えて広がっている。実は、そうした服飾だと見込んで、上司の反対を押し切って私はこの普及、人類史で初めてえ生じた現象に取り組んでしまった。
かくして、3泊4日は過ぎ去った。
5. ご褒美
この1か月も、ご褒美に恵まれた。それはまず、池田望さんに教えられ、PC画面に映し出してもらえた“卵サンド”の評価から始まった。メニューを増やすことをいぶかった私だが、店の皆さんが増やした。この卵サンドを注文したお1人が、“Googleの口コミ”に写真と実名(のはず)入りで「ここのエッグサンドイッチが私の人生を変えました」と、投稿してくださった。
これまでに私は書物や実体験などを通して、1つのパンが、ひとかけらのチョコレートが、人生を変えたり、そのような心境にさせたりすることもあることを知っていたが、こうした現実に触れて、「こちらこそ」と感謝した。
フミちゃんの昼食。14日のこと。「たまには」と、3人分の昼食持参で庭掃除に駆けつけてもらえた。とりわけ妻は、喜んだ。初めて味わう美味しさだった。
スイレンの初咲き。17日の昼前のこと。真砂さんとお迎えの人を見送りに出た門扉脇で咲いていた。「縁と緑の時空」のひと時の喜びを一緒に新たにさせていただいた。
ニイニイゼミ。かつてはこの庭でたくさん羽化し、初夏の暑さを実感させたセミだが、近頃は年に1度見かけるかどうかになっている。その1匹を今年は7月20に見かけた。そして、月末に1匹の遺体を拾った。その腹は、アリか何かに食べられてか、半ば空洞だった。かつて見つけた抜け殻を記念に残してあったので、そのオオバの軸に急ぎ貼り付け、宝物にした。
トーモロコシ。伴さんに届けてもらった2種計10本ほどのトーモロコシの苗は、清太君が発芽させたと聞いて大事に育てた。白い実がなる方は成長が早かったが、サル(その荒らしぶりから憶測)に襲われ、台無しにされた。他の一種は遅れたが立派に育った。その初の収穫分を食べようとして(実だけでなく軸まで赤いので)ビックリした。食べて又ビックリした。それは、本来のトーモロコシの味だった。その昔は、朝採りのトーモロコシが、空輸で都会の百貨店などに届いたことがニュースになった。もぎたての味がえもいえぬ味であったのだから。
だから2本は友人にゆずり、1本は丸かじりして(採りたてと、時間を置いた頂き物と食べ比べて)堪能し、1本は種用に残してある。ちなみに、襲われた方も、当時は未成熟だった1本が、その後貧そうだが実を膨らませている。種が採れるかもしれない。
6. その他
夏野菜。キュウリとチェリ-トマトだけのサラダから始まったこの夏の夏野菜だったが、存分に夏野菜を堪能する一カ月になった。朝食だけでなく、昼食の麺類で、あるいは夕食の一品に、と1日に3度ならまだしも、庭仕事から引き揚げて、ビールの肴にキュウリやトーモロコシの丸かじり、などもあった。
映画会。演奏会では「映写も」となり、ピクチャーウインドーは跳ね上げ戸で、側窓はブラインドで、と喫茶室の暗転工事をした。その効果のほどの試しに、と急遽高安先生に声をかけ、来ていただき開催した。“ノーリンテン(10)”なる丈の短い多収穫ムギを開発した男の物語を上映。これが当時の食糧危機を救うことに結び付き、敗戦後でなければノーベル賞をとっていたことを知った。
ギボウシとアオバナ。ギボウシはシカの食害で激減。アオバナは畑で自然生えに任せ、ぞんざいにしていたせいで、随分減らしてしまった。これらは再生を願い、鉢植えで残ったギボウシや、畑で1本だけ自然生えした分を心して育て、増やさせることにした。
スズムシ。この夏は、初めて見る虫が多かった。顔なじみのアブや野菜の害虫にも随分悩まされた。
例年通りにミヤマカワトンボがひらひらと飛び、遅ればせだがカミナリチョウが舞い、久方ぶりのナナフシやカエルに出会った時は安堵した。
かつてこの庭で、スズムシが鳴いたことがあった。このたび、阿部ファミリーには土産の1つにスズムシの幼虫を加えてもらえた。これが、わが家の庭でのスズムシ復活に結び付けばよいのだが。
このところ、カミキリムシが増えている。これが何を意味しているのか解らないが、異常な暑さと関係がなければいいのだが。
悲喜こもごもの夏のであった。