人生のターニングポイント。45年以上も昔、1973年に私は「生きる理念」を見定めており、それを守ろうとしてこれまで足掻いてきたような人生。だが、なぜ「あそこまで深く考え詰めることができたのか」と、不思議な部分があった。だがこのたび『ジーンンズピリッツと私』という題で寄稿する機会を与えられ、
しかも原稿を届けると、「2回に分けて、連載にしたいい」と言ってもらえたおかげで、ハッと気づかされたことがあった。
原稿は見事に2つに分けられていた。だが、残りをそのまま次号で、というわけにはいかない、と思われた。前号を読まずに初めて残りの分から読む人には「説明不足になりかねない」と感じたわけだ。それなりに、と願って修正にとりかかり、ハッと「あの時が、私の人生にとってのターニングポイントであった」と気づかされた次第。
それまでの私は『坂の上の雲』を読んでワクワクしたり、海外出張の度にカルチャーショックを受けたりしながら勇んでいた頃だ。いわば『桃太郎』のごとき心境で海外に出かけ、常に日本を背に感じながら、人一倍力んで世界を眺めていた。
そのストレスを解きたかったのだろうか、週末はほぼ自宅に閉じこもり、庭仕事に没頭した。勤めた商社でも流行っていたゴルフやマージャンはもとより、ちょいと一杯や、流行り始めていたスキーなどには一切かかわらず、週末は野良仕事に没頭した。
この仕事観と、週末のストレスの解放感の間を行き来している間に、見えてきたものがある。丁度その時に、オイルショックに見舞われた。
私にはかねてから心に「源ちゃんの至言」
を温めていたこともあって、この2つ(見えてきたものと至言)がまるで化学反応したようなことになった。「生きる理念」を見定めるまでにそう日時は要さなかった。同時に、「その具現化を」と願い、自分に課す「ミッション=使命」も見定めた
それが猛烈に仕事に精を出させるようになり、好業績に結び付けた。その姿を視て、あらかたの人は、私が工業社会を謳歌しているように見たようだ。だが私は、工業社会の延長線上には未来はない、と見据えていた。
有難いことに、何か月か前のこと。当月記のネットでの掲載が危なくなった時があった。その時に桑原恭祐さんと、次いで下村知範さんと出会えたわけだ。この2人にはHPにも手を付ける気になってもらえたが、そのキッカケが「生きる理念」と「使命」をそのトップに据えたい、との願いであった。
ひょっとしたら若者に、心を寄せてもらえる時に至りつつあるのだろうか。もし、そうなら嬉しい。若者には、団塊の世代以上に要注意の時が待ち受けているのだから。
その時に備え、人生のターニンブポイントが求めっれている。
(ちなみに、『ジーンンズピリッツと私』は「JEANS &CASUAL READER」」という機関紙に掲載され現在販売中なので、全文紹介はしばらく控えることをご容赦のほどを…)