目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 中国ホウセンカと昆虫
2 日課が、新たに3つ加わり、3つが終了
3 2つのメモリアル
4 なんと忙しいスローライフ
5 2つのイベント
6 その他
異常高温と日課、各2つのメモリアルとイベント
先月に次いで長月も、観測史上初の異常高温でした。その初日、八重の中国ホウセンカも満開になり、今が盛りのハナオクラがレタスの代役もし始め、スズムシが飼育瓶で大きく育ち、あるいは屋内に次々と夏虫が飛び込んでくるなど、賑やかな1日から始まりました。その後も上旬は、日替わりメニューのごとく、多様な日々でした。
2日、今村父子を迎え、息子の慧生(けいしょう)さんにメモリアルに手を着けてもらいましたが、その最中に松山の宮崎洋平さんに立ち寄ってもらえたのです。3日、“匠の祭典”の打ち合わせに参加。帰宅後、見慣れぬ小鳥と出くわし、フジの剪定と追加のジャガイモの種イモ植えに当たりました。
フヨウが咲き初めた5日は、知範さんとPC作業用の椅子を探しに出かけ、夕刻に鈴木夫妻を泊りがけで迎えました。6日、白砂先生にお越し願い、さちよ夫人を紹介。この日の夕刻19:27に、左目の視力が初めて(?)乱れ、半ばブラックアウト。3分ほどで復旧。7日、心臓の定期検診で、心臓の働きを補強する薬が大増量。8日、岡田さんたちと落ち合い、宝厳院を訪ね、その由来も知りました。この夜からスズムシが鳴き始めています。
フミちゃんを迎えた9日は、妻は一緒にブルーベリー摘み。今村さんを迎えた私は庭仕事の後、わけあって2人でブルーベリー摘みに参戦。夕刻、変形のキノコを見かけました。10日、土橋ファミリーを迎え“ファーム小径”(と新命名の5mほどの緩い階段道)の養生作業に親子3人で手を付けてもらい、2つの特記事項に恵まれています。それは、龍に変態するイモムシと、宮崎孝幸先生(先月触れた偉い人)の新たな一面に心惹かれたことです。
中旬は、妻が除草を日課に組み込んだ日で明け、20日は月末のメモリアル行事(“ファーム小径”の大々的補修)への備えと、鉢植えロッコウサクラソウの仕立て直し、で過ぎ去りました。この間に、16件のトピックスに恵まれています。12日、オニメンスズメガの幼虫発見と、知範さんの車で今度はPC作業用肘掛椅子の引き取り。その折に、妻への“背筋を伸ばす椅子の補助具”も持ち帰り、大好評。13日、白砂先生に挿し木用のイチジクを頂く。15日朝、ハッピーは、鎖が切れて離れていながら迷子になっていなかった。午後、岡田さんに立ち寄っていただけ、2人で2本立て映画を鑑賞、ジンと来ました。
ツクツクボーシが初鳴きした16日、慌てて早朝の日課に1畝仕立て(厳しい残暑にかまけ、遅れていた冬野菜の準備)を加える。17日、今度は右目で恒例の上半分がブラックアウト、数分で復旧。並びにファーム小径の本格的養生に着手。18日、3時に起床、ラグビーイングランド戦を妻と観戦。8時に今村さんを迎え、第2次インゲンマメの後を片づけ、粗耕してもらう。その最中に、あるマニュアル作りをお願いしてあった望さんに立ち寄っていただけ、自然生えトウガンを初収穫し、3人で分ける。19日、フミちゃんを迎え、妻は除草。私はファーム小径の瑕疵部をセメントで補修し、養生完了させる。
下旬は2つのイベントに恵まれました。まず第5回“匠の祭典”(23日から1泊2日)に望さんと知範さんに加え、グミ夫妻も巻き込み、次いで月末の“佛教大生来訪プログラム終了記念行事(ファーム小径の再舗装とBBQ)”に29日から妻も巻き込んだことです。この間に、他に3つのトピックスがありました。冬野菜の準備が遅れ、今村さんを巻き込んでしまった気忙しいその穴埋め作業。フミちゃんまで巻き込んだ25日の大焚き火。そして翌日の、今村さんをまた、2つ目の“背筋を伸ばす椅子の補助具”買いに巻き込んだことです。以上合わせて5つの出来事は忘れ得ぬ思い出になりそうです。
当月は、建具の調整、ガス器具の不調、あるいや割れたカラス窓の補修でも多くのプロフェッショナウの世話になりました。
~経過詳細~
1.中国ホウセンカと昆虫
庭では自然生えの中国ホウセンカが咲きそろい、種を結び始めた。これは中国から種で連れ帰り、この庭で今日まで30数年、伸びやかに交配を重ねた。
元をただせば、敦煌まで足を延ばした2回目の中国旅行。四川省の首都成都で、赤、白、ピンクが入り混じった八重のホウセンカと出くわしたこと。今やわが家の庭で自生。
その後、数度目の中国旅行、道具学会の中国探検旅行で、道端でさまざまな色の花を着ける一重のホウセンカと出くわし、これもわが家の庭で自生するようになった。
先住の八重が、この一重の血にかき乱され、絶えるのではないか、と心配したが、無用だった。一重が一重同士で入れ混じり、むしろあでやかな花を咲かせ始めた。旗弁と翼弁と呼びたくなるような上下の花びらが、濃淡差をつけ、見事な花が誕生した。
これまではチョウやハチがキューピッド、とおもっていた。だが “ハチドリ”のような、小さなガの仕業が主ではないか、と知るところとなった。目にもとまらぬ速さで動く。
このガは、ホウジャクと呼ばれ、ホバリングが得意で、次々と花の間をわたり歩く。そのおかげだろう、今では、八重咲きの中国ホウセンカのごとき色あいの一重まで現れた。
さらに、群落の中の1本は、ただの八重咲きの中国ホウセンカではなかった。一つの花に、赤とピンクや白の花ビラが混じるようになった。
さらに、一枚の花ビラの中に、赤やピンクや白が入り混じった1本も見つけ、世が世なら、と思わせられた。その昔、オランダでは“チューリップ事件”が生じている。オランダが世界の富を一手にした頃の話。この球根が投機の対象になり、今のお金で1球が、1億円ほどにもなった。
そうと知った時に、バブル現象が日本で生じ始めていた1986年のこと。オランダ領事館に出かけ、このエピソードを調べた。その後、1990年早春の2著目で、この時に受けた印象を紹介した。バブルの絶頂期だったが、バブルは弾ける、と訴えたかった。後年のこと。1億円ほどになった球根は、水玉模様の花を咲かせたことを知った。その色はわからない。モノクロ写真しか残っていない。
2.日課が、新たに3つ加わり、3つが終了
2カ月前の16日からスズムシの飼育が始まり、観察、おこたりなきエサ(ナスとカツヲブシ)やり、そして霧吹きが日課になっていた。今月の8日から、スズムシは鳴き始め、瓶ごと寝室に持ち込み、北の窓際に設置。
スズムシは大きく育っており、間断なく鳴く。入れ替わり立ち代わり鳴くようで、合奏はしないのかも。
今後の取り扱い方を、この幼虫を頂いた阿部夫妻と電話で相談。結果、このまま越冬させ、来年の梅雨頃に再検討することにした。うまく行けば、200匹ほどに増えていそう。願いは、この庭で増殖させ、自生させること。
月末時点のこと。スズムシは未だに鳴き続けている。夜中は、何時に目覚めても、どれか1匹が鳴いている。
次は、先月クロホウズキで発見し、即始めたカメムシ退治の日課。その後、ナスとトウガラシでも見つけるようになり、都度捕虫器で水死させてきた。
次第にその数は減り、月初め頃から、クロホウズキでは見かけなくなり、ナスで4匹トウガラシで2匹。翌日はナスで3匹、トウガラシでは0などと数えるほどになり、13日以降は見かけていない。
結果、12日のトウガラシで見つけこの1匹をもって最後か、と見た。
その後、月末まで見かけておらず、この朝の日課は12日で終了したことになる。もちろん、他の場所でも見かけていない。それだけに、来年の発生具合が興味津々。
次は、11日から妻が新たに組み込んだ日課、それは除草。野草が種を結び始めたためだが、いつの間にか妻は、かつては不思議がっていた流儀、今は亡き母の除草の仕方、になっている。
私の除草方式は、今頃なら、まず“目の敵(目に留まると抜いて、絶やそうとする草)”が種を結んだ姿を見かけると、なにはともあれしゃがみ込んで抜く。次いで、目を皿のようにしてその仲間を探す。余力があれば、花を咲かせている分、蕾を付けた分、と抜いて行く。要は、絶やそうとする。
妻も、嫁いで来た当時は、この方式の合理性を認め、倣っていた。だが今や、そんなことはスッカリ忘れ去ったようで、「今日は、あそこまで」と決め、その1㎝先にタネを結んだ草があっても「今日はここまで」と打ち切る。亡き母が背を伸ばし、喜んでいたかのごとし。
19日から、このやり方の除草にフミちゃんが、週一(原則火曜日)のペースで参戦。フミちゃんも、今は亡き母の流儀。
25日、月曜日のこと。26日火曜日の予定を、妻の都合(実家の両親の墓参)で繰り上げた。2人はしこたま除草に励んだが、フミちゃんは2つの思い出を作って帰っていった。
1つは、エディー・ジョーンズの話題。これは、19日のお茶の時間に始まる。「それ、エディー・ジョーンズと一緒ヨ」と、フミちゃんが私の意見に相槌を打ったことがキッカケだった。それは、若かりし頃の私の働き方を知るフミちゃんに、その後、私が部門長などになってから心掛けたことを話した時のことだった。
フミちゃんは25日の再訪時に、びっしり記したメモをご持参。それは、日本チームを強くした秘訣だった。流石はプロフェッションを売り物にして生きてきたフミちゃん、とおもった。選ぶ書籍や、目の付け所が違う。
もう1つは、焚火。この日は、フミちゃんを見送った後で、夕刻から妻と2人で3度に分け、29日までに(今村さんと私が作った剪定くずの山を)燃やし切る焚火を予定していた。だが、フミちゃんが焚火に参戦することになり、すべてを焔と灰にしてしまった。
1時間ほど燃やしたころから、3人は次第に連係プレイが上手くなり、最後は「このような現象は初めて」と呟いたほど。一帯は焔で真っ赤になり、大きな剪定くずの山を2時間で、すべて消しさった。この日をもって、庭仕事に取り組む妻の連日記録は途切れた。
オニメンスズメガの幼虫。12日にナスの根元で久しぶりに発見したのが最初。青々と茂るナスの株の根元で、茶褐色の大きな1匹がいた。なぜか捕殺せずに、放置した。
翌朝、ナスの葉が急激に減り、新たな糞が落ちていた。だから、探したが犯人が見当たらない。翌々日も、ナスの葉は眼に見えて減っているのに、見当たらない。だから、この犯人捜しを朝の日課の1つに加えることにした。
15日、根を積め、注視すると、居た。明るい緑色の2匹だった。茶褐色に気をとられていたことを反省しながら摘まみ捕り、撮影し、土を掘って埋め、土を踏んで埋葬した。この大きさは、踏みつぶす気が起らなかった。
翌日、ナスは(苗を3本植え、3本仕立ての株に育てたが)、その南の1株(写真手前)が丸裸になっていた。眼を皿にして3匹見つけ、埋葬。ただし、生き埋めではなく、かぶせた土の上からスコップを幾度か気ぜわしく刺しこみ、一思いに殺した。
翌朝、さらに葉が減っており、2匹を一思い埋葬に。その後「今度は黄色いのがいた」などと、毎朝見つけて埋葬し、妻に報告しながら18日まで1週間、その色どりや居場所に翻弄され続けたことになる。もちろん妻に、オニメンスズメガの幼虫の食欲は旺盛で、一晩でナス1本分の葉を「丸裸にする」がごとき勢いだ、などとなげいた。
かくして、19日を迎えた。ナスは南から2株目も丸裸になっており、目を皿のごとくにして探し、今度は茶褐色で、大きいのが4匹もいた。掴まえると怒ってUの字状になり、側面をカメラに収めにくい。そこで、土葬にかえて水葬にして、もがかせ、側面も映した。
この日の昼食時に、以上の顛末を妻に話すと、首を傾げ、私の目を節穴呼ばわりした。だから「見つけられるモノなら、自分の目で確かめてみろ」と言い返した。3株目もほぼ丸裸にされており、もう見落としはないはずダ。
妻は、確かめに行った。ほどなく戻って来て、PC作業に当たっていた私に、「居ました」と、鼻息荒く報告した。9匹も掴まえて来た。たまげながら水葬の柄杓に放り込んだ。
何か反応すべし、と気が急くが、言葉にならない。先に妻が口を切り、ナスの畝の「隣のノウゼンカズラに居ました」と種明かしをした。そのうえで、「全部捕ってきました」と付け足した。率直に私は安堵した。ナスでは見つけられなかったわけだし、目をナスからノウゼンカズラに転じたことを褒めたかった。
肝心は、この庭からオニメンスズメガを駆除することだ。妻のことだ、ノウゼンカズラだけでなく、その周辺のヤマイモやカボチャなどにも目をそそいだことだろう。ひとまずこれで、退治出来たはず、と思って安堵し、感謝した。
だが、メデタシ、メデタシではなかった。
後刻、念のために、とノウゼンカズラを点検すると、大きな2匹を妻は見逃していた。
妻の探し方は、この派手な色合いのイモムシを「見逃すはずがない」と思っており、私の「鼻を明かしてやろう」として挑み、切り上げたに違いない。
私は逆に、「これは迷彩だ」と見てとっていたから、キット「ごまかされいるはず」との想いで探しまわるようになっていた。おかげで妻も、簡単な問題ではないことが分かったようだ。
幸いなことに、この日“月見台”の風雨避けの“迷彩柄”のカバー(これまでの分を更新する関係で発注してあった)が届いた。だから、「迷彩色」や「迷彩柄」の効果のほどを夕食時の話題にした。
だが、人間が、人間同士の殺し合いにも真面目腐って「迷彩色」や「迷彩柄」を応用している、などという点には触れなかった。
翌朝のこと。最初に丸裸にされたナスの株にも幾つかの実が残っていた。その一番大きな実を(葉がなくなったわけだから「成長は望めない」と視て)早めに収穫を、とその実を掴かんだ。ギョッとした。実の裏側に、大きなオニメンスズメガの幼虫が喰らいついていた。この時に初めて、実まで食べることをて知った。
なぜかこの時に、思い出したことがある。月初めに、小さなクモをランタナの花に見出し、注視したときのことだ。シジミチョウと見まがうほど小さなジャノメチョウが飛んできた。こんなに小さなチョウが、蛇の目柄にしたところで「何の役に、」と考えた。
だがすぐにおもい直した。私たち日本人は、近代まで遠近法に気付いていなかった。今も、10円玉ぐらいの月を、とても大きく感じることがある。これが、小鳥などの目に「フクロウだ」と映って当然だろう。
その後、4日間、日課は成果なし。だが、オニメンスズメガを庭から駆除する点検は終わった、との宣言をする気などわかなかった。それがヨカッタ。25日に、妻はナスから5mほど北に生えるダチュラで3匹も見つけたのだから。
キット、この庭でも幾匹かは見逃し、羽化させ、産卵させてしまうことだろう。成虫はこの春にも捕らえたし、この度は嫌になるほど幼虫を観た。まだ見ぬサナギを早く見たいものだ。この生態を目の当たりにした上で、書物などで確認の勉強をしたい。
16日、鳴き始めたツクツクボーシに急かされ、“一畝の仕立て直し”を早朝の日課にした。残暑が厳しく、冬野菜の準備はまだまだ先のこと、と油断していたとがめだ。
前もって夏野菜が終わった後を順次今村さんに、その都度耕して腐葉土を被せる粗耕をしておいてもらったのがヨカッタ。その畝の仕立て直しから手を付けることにした。
その畝の上に鶏糞や油カス、あるいは木灰や蛎殻の粉などを混ぜて、まいて、日に日に3mとか6mずつ鋤きこむようにして耕し、畝の形に仕上げる作業が早朝の日課になった。今村さんには18日にも、2畝の粗耕に当たってもらえた。
20日は個離庵前にある第1次キュウリの後を仕立て直した。
翌日は、ニラコーナーの北側にある短い2畝に一から手を付けた。自然生えのシソやオオタデなどで草ぼうぼうになっていたので除草、粗耕、その上で畝に仕立て直し、ワケギの球根を植え付けた。ワエギも、厳しい残暑に惑わされて、適時の植え付けを忘れていたからだ。
もちろんこの一連の作業は、アイトワ流の手法に沿った。まず除草時。東隣の畝は第2次のキュウリだから、マルチングに活かせる分は抜いた手で、その畝に被せた。さもない分(種を付けた野草など、写真の左下)は竹藪の肥料にするために側に積み置いた。
竹藪の肥料にも向かない分(写真の薄茶色のミの中に入れたドクダミの根など)は、樹木の肥料にする。箕(み)に溜めておき、“哲学の穴”と呼ぶ深い穴に放り込んだ。
“哲学の穴”とは大げさだが、使い古した食用油や、布も綿や麻など腐食しやすいものは、あるいは割れたレンガや瓦は砕いて、鉄製品も小さいものは、適度な量であれば放り込む。要は、樹木などの根が張った折に、喜んでもらえる、との判断が必須だ。
この作業中に妻が参戦し、南隣のニラコーナーの除草に取り掛かった。私は、ワケギの球根を植え付けた後、“コーヒーかす”をまくなどして切り上げた。
ニラコーナーやその周辺の除草は、フミちゃんを迎えた25日に妻は2人で仕上げている。
かくして2人の日課は、この日をもって、妻は墓参、私は匠の祭典に参加で共に中断した。
とはいえ、冬野菜の準備は、月末までにそれなりの手を打った。
まず播種は23日に、個離庵前にあった第1次キュウリの後にアイトワ菜の種をまき、コオロギなどの虫よけとしてレースカーテンを被せ、27日に点検すると発芽していた。
27日に、ブロッコリーは3種各2本、早採りレタスは2種各2本の苗を、ダイコンとホウレンソウは種を買い求め、それぞれ直植えしたり直まきしたりした。
ミズナとミブナはポット苗を買い、それぞれ1本ずつに分解し、養生。ハクサイは義妹が育てたポット苗をもらい、いずれ1本ずつに分けて養生する。混合レタスと、白砂先生にいただいたノラボウナの種は苗床に播いた。
ネギは酷暑で(苗がヒコバエであったことや、カボチャやトウガンなどの日陰になっていたせいもあり)成育が遅れており、追肥や土被せにも努めた。
3.2つのメモリアル
1つは第2ブルーベリー畑の階段の仕上げ。これは今村さんの息子・慧生さんに、取り組んでもらった。
父・昇さんが防鳥ネットを仕上げた第2ブルーベリー畑の南端は急な坂である。だからこの実を積む作業はチョット危険を伴う。そこで、加齢が進む妻が滑って転ばないように、手すりだけでなく、階段も設けた。この階段を、慧生さんのメモリアルにしたくて、セメント仕事も関東の大学から帰省時に受け持ってもらった。
後日、セメントが乾き上がったところで、その型枠外しは昇さんに携わってもらった。それは、慧生さんの手抜かりや、配慮しておくべき点があったことに気付いておいてもらうためでもあった。
「人生は失敗の連続」だし、その失敗をいかに認め、何を学び、償うか。「失敗をいかに活かすか、が人生」だ、との認識を共有したい。
とりわけ、こうした自然豊かな環境で、地球環境にも配慮して取り組む庭仕事や畑仕事は、4次元的な失敗が伴って当然だ。この4次元的失敗体感のない人が、データーや過去の記録などで記した書籍や論文は、分かりやすいけれど、必ずと言っていいほどの矛盾や欠落点を残している。
おそらくそれは、工業文明の本質に問題があるのだろう。それは、1855年にパリで開催された第2回万博のスローガンが物語る。「人間による人間の搾取にかえて、機械による自然の活用」と歌い上げ、人道的にも喝さいを浴びた。だが現実は、この“活用”を、私たちは“開発”と呼び変え、実態は躍起になって“破壊”に近づけ、息とし生けるものを窮地に追い込んで来たのではないか。
2つ目は、ファーム小道の補修。これは“佛教大生の(2009年に始まり、原則月1回の)訪来プログラム”の成果の1つの補修であった。このプログラムが始まってから何代目かの学生が、2度か3度にわたって関わり、完成させたが、その舗装が経年劣化で補修を要していた。
だから、この補修も佛教大生の参加者の手で行い、メモリアルに、と願わぬでもなかった。とはいえ、このプログラムの母体であった佛教大学の部活自体がコロナ騒動のセイでなくなった。この参加者の顔ぶれは約200人、各年度のリーダーでさえ10人以上に及んでおり、今や全国に散らばっている。「どうしたものか」と悩んだ。
この補修は、1人で取り組むなら5ステップに分け、10回ほど関わらなくてはならないだろう。かく思案していた時に2つのチャンスに恵まれた。
まず、佛教大生来訪プログラムを立ち上げた初代のリーダー・徳本さんに子連れで訪ねてもらえた。相談し、この補修作業をこの来訪プログラムの打ち上げのごとくに位置付けるプランが持ち上がった。その後、3カ月近く前のことだが、その候補日を当月の「月末」ではいかが、との問い合わせがあり、了解した。
次いで、2つ目のメモリアル・ファーム小道の再舗装。土橋ファミリーから来訪希望があったのを幸いに、その第2ステップを計画した。まず私が第1ステップの作業を済ませておき、親子で取り組める第2ステップを引き受けてもらうことにした。
この第1位ステップは10日の朝一番に一人で済ませた。まず割れたりヒビが入ったりした舗装部分に生えたササやイラクサなどをとり除き、次いでこの側で育てているブルーベリーの木の張り出して枝の剪定と、この小径の側で芽生え、茂って張り出したブルーベリーの木を布で巻き、紐でひっぱって引っ込めたうえで、落ち葉掃除もすませておく作業であった。
その上でファミリーを10日の11時に迎え、第2ステップに取り組んでもらった。防草土の舗装が割れたり、穴が開いたりした部分の、かけらなどをとり除いておく作業であった。期待通りに奏太君には、親に倣って取り組んでもらえた。
この日はアゲハチョウが、なぜか私の頭に停まるなど、からみついてきした。健一さんに「さすがは」と、なぜか感心してもらえたが、飲み物を運んだ妻は「孝之さんは汗臭いからよ」とにべもない。それがとても説得力に富んでいた。
この折に妻は、整体師でもある健一さんに背を延ばす癖のつけ方を学び、喜んだ。彼の名刺は“身体革命家”だが、子どもが迎える未来を読んで、そのありように沿いうる心身を授けようとする。その姿は親にしかできない子どもの心身革命家。
この日は、奏太君はカブトムシの組み立て式おもちゃを持参した。庭ではイモムシを見つけた。このカブトムシでイモムシを怒らせると、小さいながらにイモムシは、まるで龍のような擬態を凝らした。
後日、健一さんから写真が送り届けられた。それは奏太君が撮った分で、チョウが汗に含まれたミネラルに惹かれていたことを如実に示していた。
この日の第2ステップの作業はほどなく終った。この3人にも、この補修関係者として、どこかにメモリアルサインを入れてもらってはどうか、と思い付いた。だから「ならば」とか、「だが」などと、思案するところとなる。
この日は、頂き物の美味しいチーズケーキがあった。そこでお茶の時間を早め、会話の時間を設けた。このファミリーは、コロナ騒動の折に、なぜか恐れる様子がなく、不思議だったが、そのわけが分かったような気分にされた。先月の当月記で取り上げた偉い人のお一人・宮崎孝幸先生とは昵懇の間柄だった。佳代さんがピアノ教室を開いた時に「最初の生徒さんになって下さった方」であった。波長が合う間柄なのだろう。
その後“ファーム小道”の第3と第4のステップの作業に私は一人で励むところとなった。最も厄介だったのは第3ステップの、小さな穴埋めだった。防草土舗装で穴が開いたところから針金などを突っ込み、下部の周囲の土をほじくり出し、セメントを詰め込んで、舗装が薄かった部分の補強作業であった。この要領で、大きな欠損部の補強もした。
植物の根が随分忍び込んでいた。根をとって、基礎を突き固め、セメントを流し込んだ。
第4ステップは養生作業の最後の仕上げで、石(踏み石など)と防草土舗装の接点に出来た隙間などの補修(隙間にセメントを流し込む)であった。
4.なんと忙しいスローライフ
初咲きのジンジャーと今が盛りと言わんばかりのヤマボウシの実が、朝の忙しい妻の手をとめた。17日のこと。朝の日課で畑に出ると、ジンジャーが咲いていた。また、大きい方のヤマボウシの実がたくさん落ちていた。その香りや色合いを妻に、と持ち帰った。
朝食の準備の手をとめた妻は、中庭に出て、蔓性の野草を探し、引きちぎって来た。だから朝食の支度はかなり遅れたが、食卓にそれらは一緒に並んだ。その後、それは生け花として10時から、喫茶店の一人掛けの席のテーブルに居場所を変えた。
おかげで良き1日の始まりを実感したが、なぜかこの2日前の一時を振りかえった。ハッピーの鎖が切れたセイかオカゲで、なんとも忙しいスローライフにしてしまった昼食後の3時間だった。
この日の早朝。日課のカメムシとオニメンスズメガの点検や、ツルムラサキとかトウガラシなどの収穫をかねて畑を目指した。その途上で、ハッピーが門扉のあたりから駆け寄って来た。常時は鎖につないでおり、放したことがないハッピーが、なぜか離れていた。
掴まえようとして首輪に手を伸ばして2度も逃げられた。名を呼べば寄ってくる。鎖を引きずっていた。離れた原因は結束部のワイヤーが切れたことが分かった。3度目は頭をなぜ、ハッピーが身をひるがえす瞬間に、鎖を足で踏んだ。逃げるつもりはないようで、おとなしくついてきた。
常時つないできた理由は、かつて放した時に“迷い児事件”を起こしたからだ。このたびは、迷い児にならずに済んだ。それは門扉の下の隙間から、しゃがみ込んで外に出る知恵が巡っていなかっただけのこと。庭の他の周辺はイノシシやシカが入れないわけだから、ハッピーも簡単には出られないだろう。「ならば」と考えた。
かねがね、できることなら放し飼いにしたかった。夜間に、ハッピーが激しく吠えることがある。見ると、何かに向かって吠えている。昼間に、サルが侵入し、大被害を与えることもある。夜間とか、昼間もせめて喫茶店が休みの日ぐらいは、ハッピーを放しても、問題が起こらないのではないか。
その旨を妻に打診すると、即座に回答はNOであった。私にも不安が残る。万が一夜間に、シカが門扉を飛び越えて侵入し、ハッピーが吠え立て、後を追った時のことを連想した。シカは門扉を飛び越えて逃げる。追うハッピーも勢いで、ジャンプして飛び越えかねない。何が起こるか知れたものではない。
ともかく、ハッピーをつないだ。結束部なしだとチョット手間取った。
結束部を新調する作業にうつったが、加齢をつくづくうらめしくおもった。まずビニールコーティングしたワイヤー(幾本もの細いが丈夫な針金がたばねられている)の切断が、簡単ではなかった。古びたペンチでは幾本かの針金が残り、難儀した。
次に、最も大事な部品の補修に手間取った。それは、かつてやや大型犬のケンが、16歳を過ぎてから使った鎖の部品で、太いが軽いアルミ製品の廃物利用だった。アルミだから、肝心の部分がすり減っており、若きハッピーならいずれは引きちぎりかねない。その補強をするのが半日仕事になった。だがこれが妻のご機嫌を1日以上も上場に保った。メデタシ、メデタシ。
5.2つのイベント
当月は “「匠」の祭典”が、京北町で、3年ぶりに一泊2日(23日と24日の土日)で開催され、参加した。コロナ騒動で20年と21年度は飛び、22年度は1泊2日だったがウォーミングアップの“ミニの匠の祭典”で済ませており、今年が第5回だった。京北町は、私にとっては忘れ得ないペーターカーメンチントのごとき思い出を、時として振り返らせる。
この祭典には第4回を除き、ミニを含めて私は参加してきたが、この度は特別になった。4人の仲間を巻き込んだからだ。8時半に池田さんをアイトワで待ち受け、知範さんの車に3人で乗り合わせ、会場を目指した。そこで、GUMI中口さんとひろ子さんと落ち合うことになっていた。
既に会場では、準備が始まっていた。
この集いでの作業は、誰が音頭をとるわけでもなく、また工程表などもなく、無言で進む。それが日本の職人さんの流儀なのだろう。だが、これが少し私を不安にも誘う。この不安は他の参加者にとってもこの集い共通の魅力の源泉であり、この催しの永続を願う人にとっては、時として仮借の念にさいなむ要因でもあろう。
池田さんは撮影機器やギターなどの取り出しにかかり、知範さんと私はテントを建てる作業になんとか割り込み、参戦し、GUMI中口さんとひろ子夫妻の到着を待った。
このような開催主体までが不明快な催しが、どうして中3年の中断を挟みながら、8年間も続いたのか。そのエネルギーの根源、あるいは、職人たちを引き付ける吸引力を突き止め、収録しておきたくて、この4人を仲間に引っ張り込んでの参加だった。
もちろん人さまざまだろうが、私は長津親方の何かに惹きつけられている。この何かの中身もさまざまだろうが、親方に惹き付けられて、という人が多いハズ。だから、収録ではインタビューも実施し、この言葉を引き出せたらと願った。だが、その候補者が分らぬままに当日を迎えてしまった。
競技会場では、海外から参加した「匠」がウォーミングアップを始めていた。
開会式は13:30から、「この人の賛意と肩入れなしには成り立たない」と、衆目が一致する青合幹夫さんの挨拶から始まった。だが、案内パンフレットにはどこにも青合さんの名前は載っていない。
4年前の第4回では、技能競技会の総合優勝者はチェコから参加したオンドラさんだった。その優勝旗は既に会場に戻っており、長津勝一親方への返還式が行われた。かくパンフレットの大まかなスケジュールに沿って祭典は進行し始めた。
オンドラさんはチェコに優勝旗を持ち帰っていた間に、チェコでの師匠を亡くしていた。その時の事情や様子はパンフレットで紹介されていた。チェコでは、こうした属人性が高い匠は、どのように継承されるのか分からないが、この葬送の様子からその工程は明確で、組織的であるかのように見える。
プログラムは模範演技に移った。チョウナやヤリガンナなど5種の技が、9人の「匠」によって披露されることになった
第1回“「匠」の祭典”では、技能競技会でマサカリの名手・下平剛志さんが総合優勝した。単に丸太をマサカリで斫(はつ)るのではなく、マサカリを360度振り回すような技で、斫り跡を美しく仕上げながら、しかも早かった。
第2回も下平さんが、当然であるかのごとくに総合優勝した。下平さんは他の競技者が丸太の一面を斫る間に4面を斫り、しかも丸太の木目を生かしており、そのまま化粧柱として活かし得るほどの仕上がりを披露した。
いまやマサカリは、その名称さえ知る人がほとんどいなくなった世の中である。だが、下平さんは、そのマサカリを活かせば、かくなる化粧柱なども生み出せることを示したわけだ。誰の目にも圧巻の技であり、新手の「匠」かのように映ったに違いない。私の目にはマサカリの可能性を、その新たな活かし方の紹介と映り、興味と関心を抱かされた。このままでは毎回下平さんが優勝旗をさらいかねない。
だからだろうか、長津師匠は下平さんに、第3回からは競技者から外れてほしい、と依頼された。師匠は、その理由をどのように説明されたのか明らかにされていない。
それはともかく、下平さんのこの技の披露は大いに刺激的であった。このたびの第5回では、時間が限られた競技で、6面斫りに挑んだ人がいた。この人は過去数年間、修行に励んだ上での挑戦であったに違いない。5面半で制限時間を迎えたが、その悔し気な面持ちが印象的であった。
この度は、オンドラさん(写真手前)とベルギーのマチスさん(奥の禿頭)の両氏がマサカリの模範を示した。このマサカリを90度、せいぜい180度振って斫る方式は、わが家を(1964年に)建てる時にも見ている。プレカットはもとより、電動帯鋸が当たり前になっていなかった時代だったから、丸太の加工方式として、現場での松の丸太の補正などで残っていたのだろう。
この日に知ったことだがベルギーなどでは、古建築の補修などでは今も、マサカリが現役の道具として生きているらしい。
つまり、下平さんのマサカリを360度振り回す斫り方は、いわば新方式であろう。この方式であればこそ、あのスピードであの見事な化粧柱も生み出せるのわけだ。だから、多くの投票者の心を掴んだに違いない。そして下平さんは、1つの活路の披瀝として長津親方の高き評価を期待していたのではないか。
パンフレットでの模範演技では、“マサカリによる丸太斫り”の技をこの度も下平さんが披露することになっていた。大勢の人が期待していたのではないか。キット6面斫りに挑戦した人も期待していたに違いない。だが欠席だった。
だからだろうか、オンドラとマチス両氏が、日本では古来の方式だが、チェコやベルギーでは今も現役(少なくとも古建築の修復や再現では現役)の技を代わって披露した。
次いで、2人のチョウナの名手が、マチスがマサカリで斫った丸太を、掛け合いで細かく斫り上げた。
この斫り上がるのを待つ間に、ヤリガンナ(槍鉋)の名手・村上宏冶さんは衣装を整え、出番を待ち受けていた。
この村上さんの説明に、とりわけ私は心惹かれた。いわゆる鉋が発明されるまでは鉋はなかったわけで、ヤリガンナは後付けの名称だろう、から始まった。
村上さんは、2人のチョウナの名手が掛け合いで斫り上げた丸太を、古式同様にヤリガンナで削りあげる技を披露した。つまり、鉋がなかった時代の、最もきれいに削り上げる技の披露、と私は観た。わが3人の撮影隊は間近からこれらの技を収録した。
別途、チョウナの模範技も披露された。それは古式ではなく、製材所の電動帯鋸で製材された木に施すチョウナ斫りであった。この化粧斫りは今日では“手仕事”として高く評価され、木造の門扉などで、その斫跡や木目の美しさが活かされている。
どうやら、わが国では、国宝の古寺の解体修理などでも、機械で伐採されたり、製材されたりした木材を、チョウナで仕上げているようで、その見かけを重視している、といってよいようだ。
下平さんは、この斫り跡や木目の美しさを、板にではなく、太い丸太の4面にマサカリで手早くつけたわけで、今日の価値観や美意識で観ると、計り知れない新しい価値を生み出していたことになる。
初日の作業場でのプログラムを終え、宿舎・あうる京北に一行は移動した。夕食後のプログラムは、大ホールでのGUMI夫妻の演奏と、パネルディスカッションだった。
GUMI夫妻の演奏に次いで、池田望さんのギターが加わり、なごやかで楽しい一時が流れた。
次いでパネルディスカッション、とプログラムではなっていた。だが、長津親方の発案で急遽、海外からの参加者紹介が組み込まれた。5人もの参加者があったから、急遽組み込まれたのだろう。
パネルディスカッションは圧巻の時間になった。今日のわが国の建設業界ならびに木造建築の問題点などが次々と紹介された。
たとえば、わが国は多くの国々から木材を輸入し、多くの民間家屋などを生みだしてきた。だが、それは完全に間違った政策に基づいていたようだと気づかせた。かつてそれを、私は壮大なる“潜在的廃棄物”作りとみて悲しんでおり(『次の生き方』平凡社 2004)とてもこころ打たれた。
わが国では国宝建築の補修や解体修理などでも、ボールトなども使われかねない現状ではないか、と想わせられもした。
元来の住まいは、千差万別の人や家族などが、職種や住環境などに適応させて生きる時空であり、千差万別の住まいが生み出されてきた。近年はその様子が大きく変わり、住まい方も大きく変わった。
かつては、家族の食事や着るものなども生産する場であり、世界の他のどこにもないものが、めいめいの家屋で生み出され、誰しもが「おふくろの味」を自慢していた。今や工場などで大量生産された画一的な既製品・消費材を買い求めがちで、もっぱら消費の場になっている。
その弊害の積算が人間の画一化や孤独化、果ては生きとし生けるものが暮す地球の資源枯渇や気候変動などの問題となって表れており、「このままでは」とおもう人と、「私が生きている間はもつだろう」と考える人などに2分、3分させている。
翌日は、5部門の競技会と、村上さんの馬頭琴演奏と昼食を挟んで、表彰式と閉会式になっていた。競技会場では朝から、2人引きの鋸で丸太を引いていた。
競技会は参加希望者の「匠」が技を競い、各部門賞の成績優秀者が選ばれ、最後に総合優該当優勝旗勝旗と京都府知事賞(4年前の第4回では、オンドラさんが持ち帰った)が授与される。だから、大鋸の部門でも熱心に競技が繰り広げられ、厳格な眼が注がれていた。
他の部門でも同様に、真剣なまなざしで競技が進んだ。チョウナやヤリガンナで削る競技では、機械で製材された角材や板が用意され、チョウナやヤリガンナで仕上げをほどこす競技だった。ヤリガンナの競技では、その様子をGUMIさんが熱心に収録し、その削りカスを妻のひろ子さんは拾い、「もらって帰ってもいいかしら」と問いかけたほどだ。
結果、この度も総合優勝はオンドラさんだった。大きな拍手を私も送った。しかも、優勝旗のプレゼンターは京都府の林務事務所の大下紀代所長であり、自分の目でその価値を観て確かめるタイプの人だとお見受けし、感動した。かく祭典は滞りなく終わった。
だが私は、この度の“「匠」の祭典”を通してさまざまな想いに駆られた。わが国ではこの催しで模範演技までしてみせた「技」や「術」、あるいはそのための「道具」は廃れる一方であり、それらを保持し駆使できる「匠」も激減しているに違いないからだ。また、わが国では、「技」は親方の技を「盗め」が常道であり、徒弟性が廃れた今日、その継承が難しくなっているのではないか。
訊くところによれば、わが国では今日、文化財の補修や復旧などでも、宮大工の中にさえ古来の方式ではなく、機械や近代的工具などに頼りがちだし、用いがちであるようだ。短絡に言えば、見かけを古来通りに仕上げる復元や復旧になっているのではないか。
片やチェコなどでは、文化財の修復や再現は、あくまでも創出時と同じ工法で行い、当時の作り方を再現し、当時のありようを未来に引き継ごうとしているようだ。短絡に言えば、わが国では、外観写真しか残っていない古建築などが全焼すれば、その生みだし方は再現できかねない恐れがある。
だからか、この日の競技でも微妙な差異が彼我で生じていたように観た。日本人の匠は、ヤリガンナで仕上げたことが一目瞭然で、「よくぞ!」と、言いたくなるような美観を示していた。片やオンドラさんの出来栄えは、機械を用いずに「よくぞここまで」、と言いたくなるほど、つまり平鉋で削ったかのごとく滑らかに仕上がっていた。このいずれが選ばれるのか、選ぶべきか。
結果は、オンドラさんを総合優勝させた。つまり、オンドラさんは現役の技を披露して、また優勝旗をチェコに持ち帰えることになった。ということは、この評価方式を継続して開催し、オンドラさんが参加すれば、またオンドラさんが総合優勝することになりかねない。だが、下平さんが出場した2度は、共に下平さんが総合優勝をさらっておる。確か、第2回にはオンドラさんも参加していた。
仮に今回も、下平さんに競技会への参加を許していたら、総合優勝旗の行方はどうなっていたのか。この問題は、評価基準だけでなく、この催しの根本にもかかわりかねない課題である。この催しが栄え、方針や狙いが評価され、その意義が周知となり、末永く続いてほしいと願う私としてはハラハラさせられる問題であった。
中3年の中断を挟みながら、8年間も続いたこの祭典。そのエネルギーの根源や源泉、あるいは、職人たちを引き付ける吸引力を突き止め、収録しておきたくて4人の仲間を引っ張り込んだが、これから計り知れない編集という作業が残っている。
だからだろうか。仕舞い支度に入った会場で5人の人を探した。まず、錦帯橋を再建した海老崎灸次棟梁を見かけた。パネルディスカッションでは、4人のパネラーを誘って見事な意見を引き出し、この催しの意義の1つを明らかにされたように理解した私は、感謝の念を述べたかった。
次いで、槍鉋の名手・村上宏冶さん。手作りのこのヤリガンナのアクセサリーまで用意しての参加と知り、その熱心さにうたれた。
3人目はオンドラさんこと On d rej Protiva さんだった。次回開催が現実化すれば、この人の参加はいかなる形となるのか。総合優勝の位置付けと、この催しの目指すところの明確化を願い、こうした問題意識に火をつけてもらえた「匠」と握手しておきたかった。
記念写真の招集がかかった。残るお2人とは立ち話ですみそうにない。後日に回すことにした。
工業文明は、地球の許容能力や資源を無限・無尽蔵かのように思いがちであった。だから人間の合理化をひたすら図り、失業者を増やしたり、貧富格差を広げたり、はては難民問題まで生じさせたりしている。挙句の果ては、地球を蝕み、資源枯渇や自然破壊、さらに温暖化問題まで生じさせてきた。ここらで美意識や価値観を根本的に改めなければ取り返しがつかなくなりそうだ。
工業文明は「住宅を住むための機械」に変容させ、わが国では加えて「住宅を潜在的廃棄物」に成り下がらせてきた。その工業文明の破綻は目前に迫ったいる。そうした意識の下に、何らかの活路を見出したくてこの催しに関わって来た。それは土地柄に則した「匠」の希求である。まだその光明を見出せていない。大きな宿題が残ったような気分で帰路についた。
月末には、長月2つ目のイベントが控えている。それは“佛教大生来訪プログラムの終了記念行事”であった。
これはささやかだが、私が主導し、集う人たちの同意と協力を得て、近年の若者の心に触れるイベントである。29日の買い物から妻を全面的に巻き込み、月末の10時から単身者8人と4人家族1組と会する行事になった。
午前中は“ファーム小径”の再舗装。1本のブルーベリーの木の掘り出し。そしてこの移植。この3つがプログラム。そして正午からBBQでの打ち上げだった。もちろんこの間に、さまざまな思い出を振り返っている。
このプログラムを立ち上げた第一期生・徳本英明さんと、現4回生で、最後のリーダーだった長谷部佑馬さん、そして賛同者がピークに達した数年後に、初めて女性がリーダーが誕生したが、そのリーダーを務めた澤田実希さんの3人の顔が揃ったことがありがたかった。また、BBQには参加してもらえなかったが、体調不良を押して思い出の現場を覗い来てもらった女性と、“ファーム小径”の再舗装に参加しながら、奥さんと2人の子どもとの約束を優先し、Vサインを残して去った第一期生・橋本直弘さん一家の参加も嬉しかった。
まず最初に庭を巡り、この日のミッションやプログラムを説明した。その途上で2011年に高野京介さんが治療したシンボルモミジの切り口もみてもらった。後数年もすれば、切り口は完全に塞がるに違いない。
3つの庭仕事を説明し、役割分担はいつものごとく各人の希望に任せた。もっとも手こづりそうなや着そうなブルーベリーの木の掘り出しを、女性2人が選んだ。
3つの庭仕事に目処が着いたところで、「この記念行事をメモリアル」に、とサインなどを刻字してもらう装置(?)造りに急ぎ私はそのとりかかり、皆さんには、妻とBBQの準備に取りかかってもらった。
残念なから生コンクリートに文字を刻み込む作業は容易ではなく、課題を残した。やむなく、皆さんのサインを残してもらい、それに倣って、私が後日仕上げなくてはならなくなった。
だが、このイベントのおかげで、新たな可能性、新たな同窓会の芽生えが、あるいはその場が、ヒョットすれば、と夢を膨らませた。
6.その他
1、不気味なことが多々生じた。まず春の七草の1つ、ナズナが庭から忽然と消えた。昨年は、畑で増えすぎたナズナを一輪車一杯分を抜いて捨てた。もちろん、畑にも幾分かは抜かずに残したし、抜き去った分は生え広がってほしいところに分けて捨て、種を落させた。だが、1本も芽生えた様子がなく、この1カ月、目を皿にしたが1本も見つけられていない。
次いで、昆虫の様子が大きく変わったこと。その典型はソノーラクマバチだった。かつて視たことがないクマバチだが、夏野菜の媒介の主役になった。
3つめはロッコウサクラソウ。40年ほど前にわが家に棲みつき、38年間アイトワのポットウォールを飾って来たが、なぜか絶えかねない状況に陥っている。土を換えたり、直植えにしたり、と様々な努力を傾けたが、いかんともしがたい。
2、宮崎陽平さんに「京都の来ているので」といって、2日に立ち寄ってもらえた。タオルの名産地・今治は、繊維業界の構造的不況にさらされた産地の1つだ。だが、構造改革に見事に成功し、よみがえった企業が複数ある。その牽引に大いに貢献したこの人は、次のステップが見えているご様子。
3、鈴木夫妻に、島根県で開催された家政学会の帰途、5日に立ち寄ってもらえた。このお2人は見事なハーブガーデンをお持ちだし、さちよ夫人はハーブの達人。自ずと自然の急激な移ろいも話題になり、その1つにクマバチを取り上げた。
写真左はアイトワの常連。右はさちよさんが、わが家の畑でソノーラクマバチを観て、「私も、」と似た体験を語り、帰宅後送ってもらえたクマバチだった。青蜂(セイボウ)と呼ばれる蜂で、ハーブガーデンのマウンテンミントなどが好みらしい。
朝食は3人で用意しテラスでとった。その後、昼食は、白砂伸夫先生(とりわけバラ園で有名な造園家でもある)を迎えたのを幸いに、さちよさんを紹介し、チョット早めの昼食をご一緒した。
4、宝厳院を訪ねる機会を得た。8日、天竜寺の塔頭である弘源寺が、某実業家が贅を尽くした別荘を買い求め、今では本堂も新築し、見事に古き良き庭と建物を守っている。幾多の新興企業も名乗りを上げたようだが、寺院の手で守られたことに安堵した。
5、庭の生きもの。5日にフヨウが咲き、9日に受精がかなったハクモクレンの種房が落ち始めた。18日にトウガンを初収穫し、初のトウガン汁を望さんと一緒に創味。
15日にサクラタデやマルバアイが咲き、21日からリコリスやヒガンバナが妍を競い始めた。
2日に小さな夏虫が、10日に今年孵化したヤモリが、25日に淡い緑色の小さなガが居間に現れた。そして月末の昼にカマキリが迷い込み、妻は「おめでたネ」といて急ぎ屋外に連れ出した。
キリギリスが、畑の畝で産卵する現場に、初めて居合わせた。25日のこと。産卵管を土に突き刺したが、その後4カ所に分けて突き刺し直すまで付き合った。
6、美味。福岡正信の生家を訪れた折に買い求めたカボチャ。傷みかけたので急ぎ、蒸して、香味料はスダチだけで賞味、妻が「種をとって、来年は」と叫んだほどの美味。夏野菜は順調だった。朝な夕なに取り立てを賞味し、堪能。エディブルフラワーで最も美味と見るこの黄色い花・ハナオクラ。この夏はサラダで、レタスの代役を随分果たした。
7、映画会。急遽の開催だったので、岡田さんと2人きりで、2本立てを実施。まず『スタンド・バイ・ミー』。中学生仲間4人の友情と小さな冒険を観ながら、高校時代の仲間と過ごした数年を私は振り返り、翌週に迫った“匠の祭典”の開催地・京北町に想いを馳せた。60年以上も昔、受験浪人明けをかけた試験が終った翌日に誘われ、京北町の少し手前の周山まで出かけたことを懐かしんだ。台スギの枝打ち小屋で過ごした思い出だった。
「岡田さんは」と見ると、目はうるみ、光るものがあった。2本目の準備にに黙々と携わったいらっしゃる。2本目は『ビッグ リトル ファーム 理想の暮らし』。アイトワのような生き方が、広大なスケールで繰り広げられた。
8、『みんながヒーロー』。友人・町田英明さんが関わった“えほん”が届いた。“ポロ・ラルフローレン”をライセンス展開した時から付き合いが始まった人が関わった。幼少期の豊かな想像力を膨らませ、好ましく焼き付けたい記憶がある。その幸せに供しそうだ。。
9、三崎美夫さんから元気の知らせ。月末の早朝、ポストに入っていた。わが家の庭にもやってきているかもしれない“ヒメコウテンシ?”。この日、庭では薬木クコの花が三分咲き。
10、変形のキノコ。初めて見たキノコだが、採ってスケッチすることさえ忘れていた。この無気力も加齢現象だろうか。
11、初のブルーベリー摘み。
当月の大きな成果の1つは、第2ブルーベリー畑の防鳥ネットの完成だった。妻の加齢対策のために、階段を設けた。これを機に、と考えたことがある。その余勢を駆って、昇さんを誘い、初めてブルーベリー摘みをした。それは、この冬の間に行う剪定作業のため、であった。これまでは、木に任せ、たくさん実らせてきたが、これからは、妻の心身にあわせて、収穫しやすいように剪定したい。動きやすく、妻の手に届く範囲を推し量った。