目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 もう春だ、を喜んでよいのか
2 “ど壺”と“マーボ豆腐ラーメン”
3 ジュウタン除草、で反省
4 1カ月間の人形創作休暇
5 学ぶべきは、自己実現の方向
6 その他
相互扶助と、質し、糺し、そして正す
「あれ! シロハラじゃない?」と、朝食時に妻に促され、庭の落ち葉をひっくり返しながら(ミミズなどを探して)駆け回る小鳥を、しばし眺めました。如月(きさらぎ)はこのように明けたようなものです。そして上旬はあるファミリーコンサートに招かれ、土曜日の市街地で人波に揉まれ、妻にはこれが“祇園石段下の見納め”になりそう、と感じながら暮れたようなものです。
この間に、11のトピックスに関わっており、多彩な日々を過ごしています。1日、小木曽さんを迎え、若き同伴者の明るい未来を願う。2日、高等電気が来訪、動力用蓄電器の紹介を受けた。3日、秦碩堂(せきどう)さんと再会し、薪ストーブの試し焚きをした。立春の4日は、昇さんと紅シダレウメの剪定とある環境活動家との歓談。そして7日に、ヒノキ林で何者が作ったのか得体の知れない不思議な造形物と出くわし、心躍らせています。
その後、喫茶店の21日からの再開に備え、遅ればせながら4つの作業(塗装、家具の補修、ロッコウサクラソウの復元、そしてカエデの手入)に当たり始めました。また、これも遅ればせに、剪定作業に拍車をかけたのです。この間に、知範さんと月記原稿の引き継ぎ。フミちゃんと妻の助成を得て、先月来の“ジュータン除草”にも拍車をかけ、池田さんと庭の新撮影(この庭の実体を、総合的に視覚化した資料がなかった)について相談、など。そして10日は昼に市街地に出かけたわけですが、朝にTVで「教育とは」と考えていたのがヨカッタ。
中旬は昇さんのおかげで4つの大仕事に取り組めたり、多くの懸案にケリをつけたりしました。大屋根とワークルームの落ち葉掃除。風除室のかつてないガラス磨き。方丈では初の屋根掃除。そして樹高10m余のスギの木に登ったフジ蔓とり。以上が4大仕事です。
この間に私は、スモモの剪定。3つのアコーデオンフェンスの補修。薪風呂用の釜の“目皿”と保温マットの新調。並びに“竹の入り口”の樋の更新など、気になっていたことを片づけたのです。
また、フミちゃんと妻だけでなく、昇さんの助成も得て、ジュウタン除草にケリを着け、この大げさな造語をなぜ思いついたのか、と反省した結果「2度と用いまい」と思っています。
この合間に、妻は屋内で衣装や引き出しなどの整理や掃除に努めており、私は飛び切り嬉しい便り、ありがたい来訪、ある感動と反省、3つの頂き物、そして“安堵の連絡”に恵まれたのです。
便りはNZの親友・Reyさんから。最初の来訪はありがたい著作を携えた橋本宙八ご夫妻。感動と反省は、昇さんと長勝鋸を訊ねた折の学びです。頂き物は、「再び教育とは?」とまた考えさせられた届け物と、さまざまな納豆とパンでした。連絡は劉穎さんからの安堵の知らせ。そして最後の来訪は泊まりがけのご夫妻で、とても心躍る話題を取り上げ、語らいました。
下旬は、元アイトワ塾生との交歓と、そこで予期せぬ再会などに恵まれて明け、月末は心臓の定期検診と知範さんとの相談事で暮れたようなものです。この間に「まさか」と耳を疑うトピック・小木曽さんの仕事場が類焼全焼の知らせがあったのです。予定では、小木曽さんと内山さんと落ち合って、行動を共にする案件があったのですが、吹っ飛びました。しかし他の予定や目論見は、いずれも事無く終えています。京都大丸で催された“ひなた宮崎グルメ”で徳重裕一郎さんとの再会。「操体」の普及などに努める川上さんが爽やかな同伴者と来訪。昇さんと100円ショップでコイン入れと畑用ハサミの複数購入など。帰途“マーボ豆腐らーめん”を賞味。そして28日に、なんと火災に遭われたばかりの小木曽さんがおみえになった。
畑では、ジャガイモを植え付ける畝作りを始めたり、早々と夏野菜の準備について思案し始めたりしています。昨秋は、厳しい残暑で冬野菜の作付けが遅れ、苦労させられたというのに。
~経過詳細~
1.もう春だ、を喜んでよいのか
如月は衣更着(きさらぎ)が語源と聞いたことがあり、「寒さが一段と増しそう」が、これまでの印象だった。だが今年は、早や上旬の8日から、水鉢で棲むメダカが活発に動き始め、12日にウグイスが鳴き、13日には野に自然生えしたアイトワ菜が「早や、咲いたのでは?」と近づけば、足下で野草のオオイヌノフグリも咲き始めていた。
14日には、早々と「アイトワ菜の“菜花”を賞味できそうだ」になった。庭や畑が日毎に春の装いになる。
妻の様子も大きく変わった。買い物に出かける時に、「何か、食べたい物がありますか」と、聞くようになった。半世紀前に交わした約束、妻が造ってくれたものなら「何でもありがたく食べる」を、すっかり忘れた発言だ。
だから、この日も「マーボ豆腐」と、ワンパターンで応じた。だが、未だにマーボ豆腐を食卓にのぼらせてはいない。
18日の夕刻、急かされた気分で12段三脚脚立に登り、シンボルモミジに絡んだテイカカヅラの蔓を“解いて垂らす恒例の作業”に携わった。この作業は、1年飛ばすと蔓が「引っ張ったぐらい」では引きずり下ろせなくなり、2年も飛ばすと、樹冠を覆いかねなくなる。
昨年は「(この作業ができるのは)今年が最後かも…」とおもいながら行ったことを振り返っていると、「手伝いましょうか」といって、妻が近づいて来た。手に、夕食用の野菜を携えていた。初の菜花を(写真に私が収める前に)採ってしまっていた。
妻は両の手で脚立を握り、力んで踏ん張っている。だから「グラッとするまでは力を入れなくてよい」と注意した。この瞬発性が、つまり、体へのストレスよりも、この心に言い聞かせるストレスの方が「後々の(認知症予防の)ために・・・」と、言いかけてやめた。
「上から見る景色は…」と、高所恐怖症の妻が、いかにも羨ましそう。
「一度、登ってみては」と、下りて勧めた。
結局、5段目までしか登れず、「きれい」といって、隣の紅シダレウメを愛でた。
今年は、この紅シダレウメの“恒例の剪定”は4日、昇さんの来訪時、になった。
本来なら、前年の落葉後に行う方がよいのだろうが、“剪定くずを生け花として活かすがため”に、蕾が絶好の状態になる頃合いを見計らっていた。
大枝を切り取って、落しても蕾が落ちず、活ければその蕾が一人前に花を咲かす時期のことだ。
この一輪が咲いたのは13日。翌14日に3分咲き。17日には5分咲きになった。
これは、13日から続いた快晴がすっかり春の陽気にしたからだ。16日には、2本の記念樹(商社退社時と、女子短大退校時)は共に17日には満開になった。
4日に生けたこの大枝への期待は、21日の「喫茶店再開の頃が3分咲きで、しばらくの間は来店者に愛でて頂きたい」だった。だが今年は、その開店日が雨になったこともあり、早や花びらがパラパラと落ち始めた。
スナップエンドウは、一輪だけだが正月の16日に、レースの寒冷紗越しに咲いていた。それは寒冷紗の保温のおかげの狂い咲き、とみた。だが、この14日には、多数の花が咲き始めており、昨年度の失敗(寒冷紗をかけず、霜に打たせた)を振り返りながら、覆いを剥がしている。
それは昆虫に媒介させるためだが、羽音さえ聞えない。自然の摂理を狂わせそうな事態が、何か生じていなければよいのだが。
2.“ど壺”と“マーボ豆腐ラーメン”
3日のこと。真っ赤な朝焼けで夜は明けた。日が出る位置が随分北に動いた。大気が冷えており「快晴になりそう」と感じている。
この日は午前に、秦碩堂さんを迎える予定があった。だから、晴れれば「午後から、スモモの剪定の仕上げに取りかかりたい」と願った。
この木の剪定は、遅ればせながら正月の19日に着手しており、3日続けて三脚脚立で届く範囲を済ませている。にもかかわらずこの続きは遅れに遅れ、2週間後のこの日になった。
碩堂さんとの会話は弾んだ。幾つもの余録まで伴った。まず、妻の提案で薪ストーブの試し焚き。この冬は、この日まで、なぜか薪ストーブを焚いていなかった。
碩堂さんとの話題の最初は、一帯の水道などのライフラインの歴史になった。近隣の水道管の更新工事が始まっていたからだ。
1963年(社会人2年目)に、私は住宅金融公庫を活かして新居(これが、終の棲家になった)を建てた。この時に水道を、初めて私がこの村・小倉山町に引いている。
それまでの村は、山水、打ち込みポンプ、あるいは井戸などの自然水だった。
水道局に陳情すると、自己負担金を課される、と分かった。だが、この自己負担金総額は、2軒目の希望者が現れれば、その人にこの半金を水道局は負担させ、それを先の1軒目に返し、3軒目が現れれば総額の3分の1を負担させ、それを先の2軒に折半して返せばよいなどと、受益者で案分することになっていた。
「ならば」と、ばかりに村一帯に私は呼び掛けた。23軒(両親の家を含め)の参加が決まり、母に世話人になってもらい(私は会社の独身寮生活だった)水道を引いた。
だから、村の新たな参加者(すべて宅地転換した土地を買っての新規転入者、だったと記憶する)が水道を引くと、水道局からその負担金がわが家に支払われ、母が23軒に分配して回った。
その頃の母の筆跡の資料が残っていた。“秦”の印鑑は、碩堂さんの母親か、祖母のキクさん(私にとって、人生2人目の恩人)がついたのだろう。
分配金が500円余になった頃に、水道局は本管をより太い管に更新し、23件は未収分配金を返上した。その後の新設者には負担金を課せられなくなった。この頃には、農地改革で所有者が代わった水田や畑は、あらかたが宅地に替ってしまっている。
当時の大卒者初人給は18,000円程。素うどんは30円、コーヒーは40円程度であった。
問題は、水道を引く前と、太い本管が入ったころまでの間に、一帯の環境が急変したことだ。村の水路(洗面や歯磨きををしていた人がいた)がたちまちにして汚れた。田畑で農薬が使われていたこともあり、まず小川からタニシが消え、ホタルやフナへと続き、自然水で生活する人がいなくなっている。そして、水路は順次暗渠化された。
世間では、全国的にひねれば出る便利な水道が普及したが、水までお金がいるようになり、ライフラインという和製英語ができた。なぜか不気味な予感がした。
この危惧は、阪神大地震で露わになった。貧しい独居老人の多くが(料金滞納で)水道を自動的に止められ、干からびた孤独死に長年にわたって追い込まれており、大問題になっていた。
ちなみに、電気。
電機は村に来ていたが、わが敷地まで支線を100mほど延ばす必要があった。関西電力は、わが家の庭に電柱を立てる条件で、自己負担金なしに延ばしてくれた。
思えば不思議なことがあった。その後の配線は自己負担だったが、私は自分で立てた電柱を使って引いてもらっている。後年(確か、卒業数年後)、学生時代の仲間の幾人かが、同窓会の翌朝、わが新居を見にきた。その写真がその証拠。
仲間がたたずんでいる位置に、今は人形工房がある。開墾開発初期だった。
2つ目の余録は、わが家が転がり込んだ“佛母洞”と呼ばれる瀟洒な建物(碩堂さんの生家)の、仏間の天井画の追認であった。幼心の印象は、色鮮やかな2人の天女だった。現実は落ち着いた色彩の1体で、「なぜ?」と既成概念を糺し、正させられた。
3つ目は、母はケムタがり、私は慕ったキクさん(自然と共生する知恵や勇気の火を幼心に焚きつけた恩人)だが、夫(碩堂さんの祖父)の死後に尼になっていた。
4つ目は、キクさんは、私の父方3親等の伯母と思っていたが、父方5親等泊祖父の夫人であり、血のつながりはなかった。
それだけに、感謝と尊敬の念を一層深めた。敗色が濃い戦時中の狂気に、いささかも動じず、生きる知恵を毅然として絞り、変人呼ばわりされていた。
「今年も、登れた!」が、この日の午後、スモモの(剪定で、登った)テッペンから下界を眺めた折の印象だった。
脚立を用いて登るのだが、往時は2~3秒だったのに、モタモタと数分もかけた。だがこのモタモタが、初めて試みさせたことがある。樹皮に絡みついたツタが「負担になっている!」と、スモモが訴えたように感じており、剥ぎ取り始めている。
昨年は、この木の二股に分かれた隣の幹へ、モタつきながらであれ移動できた。この度はついに諦めており、登り直すことにした。だが、翌日は気力がわかず、その後は優先したいことが次々と生じており、再開は13日のことになった。
13日は妻が家を空ける日であり、スモモの剪定を仕上る日に選んでいた。その後、橋本宙八さんから電話があり、「お茶も振る舞えない日」だけれど、との断り付きで迎えることにした。
「まるで春!」で、13日は明けた。妻の外出は恒例の親睦(人形創作休暇中に、喫茶店の仲間が連れ立って出掛けるお食事会)であった。出発時刻がずれたオカゲで、ご夫妻に妻も会えたし、お茶をふるまえた。
ありがたい土産をご持参だった。夫妻の生き方が中国語になり、台湾で出版され、中国でも出版される予定、らしい。なぜか私の口から感謝と安堵の言葉が飛び出した。それもそのはず、と直ぐに得心している。
日本人やアメリカ人の平均的な生き方を世界中の人が真似たら、日本並みなら地球が2個余も、アメリカ並みなら5個余も必要になる、と2004年の拙著『次の生き方』の執筆時に分かっていた。その危惧通りに、今や難民や餓死者の問題が深刻に(わが国では心配していたほどではないが)なっており、地球温暖化問題は(心配していたように)進んだ。
日本が、この問題から逃れるうえでの好ましき範を率先して垂れ、世界を牽引してほしい。さもなければ、日本には胸を張って存続し続ける道はない(と私は観てきた)。この実践と現実化がわが国の安全保障になる生き方(先月分で触れた『地球を食うか、地球で生きるか』のごとし)である、と私は今も考えている。
この願いに沿った生き方を目指し、実践してヨカッタと感じている。おかげで、家族や生活集団における相互扶助が、幸せや豊かさの源泉ではなく、その相互扶助自体が幸せや豊かさである、と断言しうる実感を得るにいたったのだから。
だが、わが国の政府は逆行(国民には悪しきプライバシーを囃し、分断し、競い合わせ、国は逆にマイナンバーカードなどで国民を一括管理)している。家畜型管理のやり方だ。
これは早晩、民主主義と地球環境主義との板挟みにされ、破綻が必定だ。
人口14億人の中国がこうしたやり方をアメリカ風に後を追えば、日本がいかように喘ごうが何ともならない。卑近な例だが、日本は一時、世界で捕れたえびの過半を輸入していた時代がある。中国がそれに倣えば、地球中のエビをもってしても満たせない。
中国は早晩、そうと気付き、トランプのアメリカファースト流の考え方を質し、糺し、そして正さなければ自滅することに気付く。
それを防ぐために、より豊かで幸せなオルタナティブな生き方を編み出し、敷衍(ふえん)しなければ未来はない。
宙八夫妻の実践した生き方は、世界に向けて範を垂れる上で、国家にとって格好の触媒になる。なぜなら、率先した国民から順に、相互扶助の在り方を糺し、自然を慈しみたくなるのだから。他と比べたり、背伸びしあったりするのが空しくなり、己本来の時空(ほどほどの自分らしい生き方)が広がり始めるのだから。乏しさの支え合いさえ慈しみたくなるのだから。
これ(助け合い精神)は日本人の特色かもしれない、と阪神大震災発生直後の取材時に体感している。
こうした想いが伝わったのだろうか、宙八さんには終始話し合いに付き合って頂けた。他方、ちあきさんは「庭を巡りたい」とおっしゃって席を立たれた。だが、時空(わが家族手作りの庭)を一巡りして、目視して戻って来られ、“私の想いや実践”以上の評価の言葉を下さった。
かく期待と感謝の念に満ち溢れた気分でお二人を見送った。そそくさと昼食を済ませて「妻が帰ってくるまでに」と、スモモの剪定に取りかかった。
幸いなことに、この日の昼食は緊急時用食品を消化し、更新するメニューであった。調理台には、チキンラーメンと、その側に、さまざまな野菜と竹輪などを刻み、透明フイルムの袋に詰めたものが添えてあった。
剪定は期待通りには済まなかった。広縁のガラス屋根を覆う枝(夏場の遮光)は「また後日に」になった(その仕上げは16日になっている)。
このスモモの仕上げ作業に手を着けた3日から、この16日の間に、計6本の恒例の、あるいは懸案の、木や蔓を剪定する作業を挟み、幾つものトピックスに恵まれている。
4日(日)、恒例の紅シダレウメの剪定。この日は、環境活動家の乃一井泉(のいち せいせん)さん(脱炭素取り組み相談所代表、NPO法人いのちの里 京都村理事)を迎える日でもあった。この人の活動の中身(運動にまで格上げされれば、と興味津々にされた)だけでなく、珍しい姓名にも興味を抱いた。この姓は四国の徳島(忌部族の地であり、三好長秀や織田信長の出生地でもある)からと伺い、興味津々になった。
この間に、同伴者(妻の人形に関心があり、同道を希望していただけたようだ)は、妻の案内で、人形展示ギャラリーなどで過ごされた。
昇さんは、アケビ(三角アーチで育てて来たが、剪定を過去2年間怠っていた)の剪定に取り組み、見事に仕上げて下さった。
2人の来客を一緒に見送った後で、昇さんはアケビ棚の奥隣りで育つヤマボウシの背丈を詰めてくださった。今年はこの北側にある果樹園でイチジクを育てる予定がある、とご存知であったのだから。この間の私は、畑の除草に当たっている。妻は午後のお茶を運んでくれた。
8日、フミちゃんを迎え、妻は畑周辺の除草。私は木の剪定に当たった。
2本のキハダの剪定では、太い方は樹勢が衰えてきたので、このたびはパス。細い方も、枝を皆伐せずに、枝の切り取り方を、実験を兼ねた新方式で挑んだ。
この枝の皆伐方式を編み出して、採用していなければ、背丈はゆうに3倍を超えており、手に負えなかった違いない。
11日、昇さんにワークルームの屋根掃除をしてもらうことになった。その間に、私はこの側に生えるクヌギのヒコバエで、特殊な剪定を試みている。
このヒコバエはニホンミツバチの巣箱を炎天から守る日陰作りが担当である。とはいえ、後部のワラビ畑まで日陰にしたくない。しかも、このヒコバエが適度な太さにまで育てば、切り取ってシイタケのホダギに活かしたい。
13日、スモモの仕上げに取り掛かる前に、ハクウンボクの剪定を、ウォーミングアップに選んでいる。
この間に、NZのレイさんから飛び切り嬉しい報告もあった。彼の庭で2011年2月に植樹をさせてもらったカウリの木が、とても大きく育っていた。
この木は巨木になる。故に悲劇もあった、と知った時のことだ。その折の記念樹であった。
レイさんは原住民の、ロビンさんはイギリスからの移民の、それぞれ末裔だが、恋に落ちた。NZは、有色原住民と白色移民が最も平和裏に交わった国だと思う。この度は、レイさんの先祖も知った。息子は当時、医師だったが、今はワンガレイ(原住民と入植者がワンタンギ条約を結んだ地)で市長を務めている。
14日は除草時に、15日は除草の合間の来客中に、共に京都直下が震源の地震があった。自ずと元日の能登半島地震だけでなく、早晩見舞われそうな東南海大地震などにも想いを馳せた。
わが国は、目先のことと時代錯誤に走り、未だに東京や大阪に人工物を集中させている。阪神大震災の折に、私は2つの視点からその実態“自然と不自然(文明下の人工物)の衝突”と“デザインの見直し”の必要性を探っており、その想いを文字にした。
時代は「小さい方が、具合がよい時だ」と方向の転換を求めている。
16日は、長津親方の誕生日だった。電話を一本入れた後で、スモモの剪定を仕上げた。満開間近の紅シダレウメを眺めながら、柑橘類の寒冷紗をいつ外すべきか、と思案した。
17日(土)、昇さんの運転で、長津親方に要望された古い2冊の雑誌と、妻が託した小さな(妻が庭で摘んだ)花束を携え、親方を訊ねた。前回の昇さんとの訪問時は、昇さんが(時間が足らず)聞き洩らし感を抱いていたからだ。
昇さんの“知識欲と好奇心”(?)に富んだ素直な態度は、親方を刺激した!?!
親方はブルーシートなどを持ち出してこられた。さまざまな鋸も持ち出して来て実演し、昇さんは得心し始めた。そのテンポが、さまざまなことを思い出させ始めた。
例えば、欧米で「健全な夫婦生活を心がけています」と言えば、多くの場合「あなたのその“健全”の」定義を教えて下さい、といった質問が返ってくる。「循環型の私生活を、夫婦で手を携えて・・・」などと言い始めると、話しを「続けてください」となる。
昇さんは、「定義を」などとは言い出さないが、勝手な憶測もしない。その健全な興味や疑問の抱き方を親方は感受されたようで、この日は、初めて知る鋸の世界に私も一緒に踏み込むことになった。
痛く私は反省した。恥ずかしくなった。時には、「また自慢話か」とばかりに“自分勝手な意見のど壺”にはまってしまい、そこで止まっていたのではないか。
あるいは、鋸や鉋(かんな)は引くものとの“既製概念に苛まれ”止まっていたのではないか。つまり“事実より意見を尊びがちな風土”に慣らされていた危なさを追認させられたわけだ。
昇さん「鉋を押して、長い柱などを削れますか?」
親方「マラソンは、後ろ向きに走った方が有利ですか?」
鋸や鉋は、西洋では押して切ったり削ったりするとは知っていた。だが、この度初めて、日本のように引くやり方は世界では極めて少数派、と知った。
私たちは、鋸で引く時は、切る板や丸太を手や足で押さえて力を入れる。押して切る時は、手を添えるだけで充分。昇さんは体験した。
親方は、2枚のとても似たノコギリを持ち出してきて、片方は「押すノコギリ」だ、とおっしゃる。共に刃は、爪を立ててひっかくような形をしている。にもかかわらず、押す方も、押せばよく切れた。
これは、親方が工夫して目を立て、研いだ刃だが、他の押す鋸の文化圏にはないらしい。「教えたが、広がらなかった」らしい。この刃の理屈や、広がらなかった訳以上に、私には解からなかったことがあった。
親方の鋸の刃は「溝切り鉋」の集合体だ、と私が最初に見抜いたはずだし、過去8年間も付き合っていただいてきたわけだ。にもかかわらず、どうして親方は今まで、このたびの話題を私には、との反省であった。
昇さんの無心に聴き取り、余念を入れずに実践し、検証する姿や、親方の工夫の数々を眺めながら、何かが見え始めたような心境になった。
帰宅時間が遅れた。ラーメン屋に立ちより、ありふれた品を選び、満足と満腹の上、ふと見上げると、メニューに“マーボ豆腐ラーメン”があった。その刹那、私は食べず嫌いだった“カレーうどん”との出会いを振り返っている。その時から今日まで、夕食がカレ-ライスの時は、翌日の昼はカレーうどんが振る舞われるようになっている。この体験や思い出話しなどは、帰宅後妻に知らせた。
3.ジュウタン除草で、反省
なぜこのような造語を? と振り返った。畑を野草だらけにしていたことに気付いた時のことだ。過去何年もの間、野草が生えない畑地にしたくて(加齢対策の一環)除草に明け暮れてきた。だが、このたびの1度の怠惰が元の木阿弥(1本の野草が、無数のタネを振りまく)にしてしまう。
野草を恨み、戦慄したわけだ。なぜか“ジュウタン爆撃”を連想した。すべて消え去らせたい、と願った。要は、「あきらめるか」、「それとも」との思案に駆られたわけだ。
結果、畑の限られた広さの2か所で「ジュウタン除草」を実施してみることにした。昇さんにはニラコーナに取り組んでもらった。
私は、温室の手前の、そ“個離庵”との間に挟まれた3畝だが、に手を着けた。
その成果を見た後で、畑の畝やあぜ道だけでなく、畑の「周辺(の除草)も」、と願うところとなり、フミちゃんと妻にも参戦してもらうことにした。
このお2人は、除草で感受しうる達成感の理解者(体得者)のようだ。
日々の生活の営み自体を“芸術化(アートに)”することを願う私は、以降この2人に、3週間に亘って各火曜日の計3日を、ジュウタン除草に投入してもらっている。その都度、午後のお茶の時間はとりわけ華やいだ。
余興もあった。「シイタケ!」と妻が奇声を上げた。
もちろん私も、この日まで寸暇を活かし、その都度目標を見定めたジュウタン除草に立ち向かってきた。その様子を見て、妻が畑での援軍にもなった。
だから大量の除草が一輪車に山をなし、幾度かにわたって、やがては堆肥として活きそうなところに捨てた。2本のフェイジョアの木の根元や、富有柿の根元だ。
この2本のフェイジョアの木の根元には、シイタケのホダギも捨ててあった。雑菌が入ったり、木の成分を使い果たしたりしたホダギは、やがて堆肥になる。その1本からシイタケが1つ、先月末から出始めていた。それが大きく育っていたわけだ。
一通りのジュウタン除草を18日に終了した。
この日、余勢を駆って取り組んだ作業が2つある。1つは、ブロッコリーの畝の除草に取り掛かった折のこと。葉がヒヨの餌食にされていた。放っておけば、葉がなくなりヒコバエが育たなくなる。除草後に、ヒヨ避けカバーを被せた。
この畝の近くでは、ほのかな香りが漂っていた。背を伸ばしがてらに眺めて回った。ロウバイが満開に、ニホンスイセンが咲き誇り、ヤブツバキは九分咲きだった。
2つ目の作業は“竹の入り口”の樋の新調だった。
畑の西隣にある囲炉裏では、前日の間に、太い竹を昇さんに2つに割ってもらってあった。
古い方の竹の樋は、随分以前に、恵那の阿部寿也さんに作って、取り付けてもらったものだ。この度は、それに倣って作ればよいわけで、簡単で容易、と睨んだ。
だが、竹の太さを読み間違えており、随分苦労した。
「上手にできました」と、買い物から帰宅した妻。
「これで、死ぬまでもつだろう」
「もう1度は・・・」と、妻は首を横に振った。
「ヒョットしたら」と私も思った。「だったら、今度は太さも・・・」慎重に、選べそう、と言いかけて、なぜか気付いたことがあった。
ジュウタン爆撃は、世界で最初にわが国が、後々のことを考えずに、中国の確か重慶で始めた作戦だった。これに習ってか、次いでドイツがスペインのゲルニカで行い、ピカソは名画を生み出している。
後年、ドイツと日本は、全土にお返しをされた。日本は確かな初のナパーム弾を見まわれている。共に、この世から消し去ってもよい卑劣な民族、とでも思われていたのではないか。
余談だが、それは誰しもが犯される「戦争が人間を狂わせた問題」ではないか。わが国は憲法9条を堅持し、誠実に守る限り、逆に尊敬に値する(非を認め、反省し、改めうる)民族と評価される、と信じている。
大鑑巨砲時代の終焉も同様だった。わが国は世界で最初に空爆で、英国の大鑑プリンスオブウエールズとレパルスを洋上で沈めた。にもかかわらず、“大和や武蔵”に期待をかけ続けた。
結果、“大和”にいたっては飛行機に沈められ、それも3000人を犬死にさせた。米機は僅かの被弾で、死んだ搭乗員は確か16人だった。
ジュウタン除草との呼称は2度と使わないだろう。
4.1カ月間の人形創作休暇
19日の午後、大事な客を迎え、妻も交えて歓談中に門扉のチャイムが鳴った。桑原さんだった。彼女は、建設途中だった人形工房の茶話室を見て、喫茶店にして「私も働きたい」と提案した人である。開店来38年間、今も店に携わってくださっている。
内線の受話機を下ろした妻は、怪訝な顔をして門扉に走った。すぐに戻って来た。義妹と「落ち合うことになっている」と、聞いたようだ。
昼食時に、事情が分かった。「明日は火曜日で(喫茶店は)定休日でしょう」、だから2人で今日は、「開店の準備でした」
後刻、確かめると、ポットウォールと大きなマンホールの上に、キチンとロッコウサクラソウの植木鉢が並んでいた。
反省させられた。10日ほどでも早く、これらの鉢を仕立て直していたら、葉は茂り、蕾が立ち上がっていたに違いない、と。同時に、チョッと不思議に思ったこともある。
8日に、これら鉢の植え替えを私がしたことや、その後の養生させていた場所を、この2人に私は知らせていなかったからだ。
後刻、分かった。妻がこの日落ち合った2人に指図してのことだった。
だからこの2人に、後日、自発的に開店準備に当たってくださったことを感謝した。同時に、シマッタ、と反省もした。この直接の評価表明は、初めて犯し、妻の立場を侵したことであったのだから。こうした評価は僭越で不用意なこと、と欧米で得心させられていながら、なぜかしでかてしまった。
そこで気付かされたことがあった。先月の20日から1か月間の人形創作休暇(冬休み)に入っていながら、ロッコウサクラソウの手当ては、すぐにすべき作業なのに、なぜ8日まで、20日近くもの間、怠っていたのだ。
翌9日は、門扉から喫茶店に至るアプローチの手すりを塗り直している。
この日から3日間は、先約に則して過ごしている。
10日(土)は、コンサートで外出の日。11日、昇さんを迎えて、大仕事の日。そして12日は“「匠」の祭典”関係で出かけている。
だから、翌13日から、急かされるかのようにしてアコーディオン式フェンスの補修に取り組むなど、喫茶店再会に備え始めている。これは、夜はシカが侵入しないようにするために活かし、昼間は散水器の目隠しにする。故に、長年の雨と、経年劣化で下部が腐食し、ぐらついていた。
14日。AALTOの椅子の修繕が(遅ればせながら、8日に鷲鷹工芸の森さんに頼んであったが)仕上がって来た。
茶話“室”が喫茶“店”になったわけで、激しく使われるようになったし、1986年4月来の経年劣化もあって、近年は毎年点検・補修している。
この度は、映画「AALTO」(この家具の作家、生誕125年記念)が上陸しており、3/1から京都で上映されることになっていた。長い付き合いの森さんも誘い、一緒に鑑賞することになった。
この家具は、建築を学ぶ欧米の学生にとっては「1度は座ってみたい」代物だ、と学生時代に学んだ。だから採用した。手づくりの繊細な家具ゆえに“当たりの悪い椅子”は既に6回も補修している。
原因不明の傷は、最初の補修時に気付いたが、わが身を振り返って放置した。
検品でいったんはねられていながら何かの事情か手違いで、と感じたからだ。実は私も伊藤忠で、いったんは結核で跳ねられていながら(入社を認められており)、今がある。愛着(目こぼしに感謝)したのかもしれない。
喫茶店の運営にあたる妻はこの日、補修を「一度もしていない椅子もある」と言って、使い始めて38年目の白木の家具を持ち上げ、肩を持った。
こと喫茶店に関して言えば、私は“上得意客”の1人に過ぎない立場を守ってきた。だから、店の在り方については、口を挟まないことにしてきた。だが、これからは「チョットかわりそう」とおもいながら、躊躇する何かがあったのかもしれない。
「それはどうしてか」と、“遅ればせ”に急いた気持ちの反省と整理もした。それは、アプローチの手すりは塗り直した9日のこと。ついでに青い塗料を取り出しており、一輪車の補修塗装もしている。
妻は「もう少し丁寧に…」と不満げだった。気が急いていたのだろうか、私は2度塗りを優先し、丁寧という所要時間を割愛していた。
ノブドウの蔓は4日に、つまり早々とはがしているが、その動機も振り返り、すぐに分かった。
幾年か前に自然生えしたノブドウが、テラスの側のカエデに登り始めた。秋には紅葉し、カエデとのグラヂュエーションが見事になった。だが、昨年はノブドウがカエデの樹冠を覆い始めるまでになったものだから、昇さんの助勢を得て取り去った。
真下に引きずり降ろしたのでは蔓が頑丈に絡みついており、カエデの枝を折ってしまう。そこで、長いロープを取り出してきて、向かいの高い位置にあるバルコニーから引っ張り、めくり取る要領で剥ぎ取っている。
これはその日、この作業の前に、紅シダレウメの樹冠を切り取り、テラスの大水鉢に生けている。この出来栄えを愛でながら、ノブドウを引っぺがしたくなったわけだ。
後日、この上部を切り取ったノブドウは、2つの配慮の下に手当てをした。まず相棒のカエデの西面に登り“紅葉のグラデュエイション”には貢献するが、この下で育つ記念樹・枝垂れのデシオ(ワールド退社時の記念樹)を決して日陰にはさせたくない。
その後、翌日は雨。曇天の6日はフミちゃんを迎えた。小雨の7日は望さん、知範さん、次いで相談事の女性を、と切れ目なく迎えている。そして快晴になった8日に、気になっていたロッコウサクラソウの再生に取り組むことになった。
妻は庭の一角での土とりを手伝ったが、小動物の顎の骨を見つけた。私は腐葉土を取り出したが、その中にサンコウチョウの巣を見出している。
この下顎の骨の得体は知れないが、生々しい。襲った動物が食べ残したのだろう。他方、小鳥の巣は、シュロの繊維(天然繊維だけ)で編んだ内部と、プラスチック繊維も用いた(木の枝などに固定した)部分が、パラリッと外れた。どちらを先に造ったのだろうか、などと思案した。
だから、妻とあれこれ不思議がったりしている間に、恒例だったAALTOの椅子の点検や補修が遅れていたことに気付いており、森さんに取りに来てもらった。
どうやら私は、何かに躊躇していたようだ。ルーチン化していた作業は、キッカケがあるごとに手掛けていたが、主体性や計画性(オツムで計画的に、人間らしく考えること)を欠いていた。妻の症状や今後の可能性の方が、喫茶店の再開よりも気がかりで、気が散っていたのかもしれない。
5.学ぶべきは、自己実現の方向
9日の早朝から17日の夜分にかけて、とてもココロが大きく振れる日々を送ることになった。真の学習とは、と再び考え込まされている。
まず9日。朝刊で1本の記事に触れ、行間を丁寧に読み、救われたような気分になった。この記者は、それは「なぜなのか」と呼びかけておきながら、答えは読者に任せている。
答えは行間に埋められているのだろう。あるいは他所にちりばめてあり、読者に答えをつむぎ出させたいのではないか、と過去のファイルも繰り始めた。
「どうして、ここまでして・・・」と、胸を痛めながら読み直した記事(17日前の当年1月22日)もあった。
ともかく国は科学的ではない。「科学的に」を方便に、非科学的なことを国民に、我欲のために押しつけがちだ。たとえば福島原発の汚染水処理問題。
ある真に科学的な数値まで薄まれば、捨てても国際的に科学的に許されるものならば、当初からキチンと説明し、予告し、漁民を主に国民の了解を得ておけば済んでいたこと。それが丁寧な説明だ。
ならば中国にも、言行不一致の国(自国漁民の了解を得ずに汚染水海洋放出は絶対にしない、との自国漁民との確約さえ破った)として疑われ、不安を抱かれずに済んでいたはずだ。
同様のことが、使用済み核廃棄物でもいえる。「トイレなきマンション」論が出た時に、当該電力は「核廃棄物問題が必定だから」と、問題提起し、当該電力使用量相応分のこの引き取り義務を都道府県に覚悟させておけば、うまく収まっていたことだ。誰も使わないか、覚悟の上で使っていたはずだ。
ならばここまで人口を都市に集中させずにすんでおり、国家はリスクを背負わずに済んでいたのではないか。巨大都市は早晩国家のリスクになりかねない方向にあった、になりかねないのだから。
時代は、こうした未来を見据えた備えが、そして民主主義国は国民への啓蒙が求められている。
翌10日のこと。朝食時に小学4年生のときの担任、新任だった中村小夜子先生を忍んだ。TV番組が、色とりどりの不思議な木製アクセサリーなどを紹介したが、その製造方式は即座にピーンときたのだから。
小夜子先生は、当事はスポイド式万年筆だったが、それを掃除すると、青くなったコップの水をいつも花瓶の白いカーネーションなどに注いだ。カーネーションは日毎に青く染まった。
他にも、給食時には飲み干した牛乳瓶を洗い、白っぽく濁った水をいつも鉢植えに与えた。その植物が自分であるかのように感じられて、嬉しかった。
他に覚えていることは、2つ。まず、教室に張り出した世界地図で、日本は小さな島国だと気付かせられたこと。次いで、先生は真っ赤になりながら、いつものように立たせはしなかったことぐらい。それは、何かの時間で、先生が「柱時計でコツコツと振れているものは何ですか」といったような問いかけをした時のこと。
元気よく、「キンタマです」と私が応えた。
わが家では、父が私に「今、何時だ」訊ねる時は、いつも「キンタマは動いているか」と確かめさせた。先生は真っ赤になったが、叱らなかった。
こうした、何気ない大人の心遣いや気遣い、あるいは躊躇などが、鈍感だった私の心に、痛く響いた。
この日は、久保田さんに招かれたレストラン“キエフ”での催しにも出かける日でもあった。奏者は法律を学んでおきながら音楽の世界に入り、人間の音域に近いオーボエを選んだ男性と、女生ピアニストとのコンサートだった。妻の要望で、昼の部を選んだのがヨカッタ。
日本風ボルシチや牛肉料理も美味だったが、何よりも同伴の子どもたちの伸びやかな振舞いや、想いのままの行動がほほえましかった。
おのずと、7日にヒノキ林で発見した不思議な“木の枝組み?”に想いを馳せた。1人の子どもの仕業であったのか、それとも2人で侵入して作ったのか。あるいは、野鳥の求愛活動かも、などと思案した。
11日。昇さんと4大仕事に取り組み始めた。まずワークルームの天窓の掃除を頼んだところ、大屋根に散らかっていた落ち葉が目に留まった。「こちらから先に・・・」と取り組んでもらえた。これは、昨年をもって「打ち止めにしたい」と願った掃除であった。
その間に私は、ワラビ畑を日陰にしていたクヌギの剪定に取り組んでいる。
次いでワークルームの屋根に移った。
ワークルームの隣には、居間(ダイニングキッチン)を北風から守る風除室がある。引き続いて昇さんは、この長年にわたって掃除できていなかったガラス屋根の掃除に取り組んだ。これに元気づけられた妻と私は、側面のガラス磨きなどに手を着け、見違えるほどきれいな風除室によみがえらせた。
ならば、と次の17日土曜日は午後から、"方丈"の屋根を初めて掃除することになり、昇さんに頼んだ。この掃除は、屋根の勾配がやや鋭いので「命綱なしでは危ないですね」と教えてもらえたし、妻の助言(ごみ受けシートを敷いておくように)にも助けられた。
さらに、フジ蔓の根元を10㎝ほど切り取ってほしい、と願った。小倉山とわが家との境界(この間に小倉池の水の涵養地が、当時はあった)には、父が地元の農民の勧めで植えてもらったスギ並木がある。この樹齢数10年の幾本かに、いつしかフジが登り始め、この数年余は手当(根元で切断して枯らす)を怠っていた。
仰天した。根元で切った蔓を(後は枯れて、やがて落ちるが)彼は、力ずくで引きずり下ろそうとして、三脚脚立まで活かし始めた。もちろん私は助手になった。
「これも教室展の」と、妻は大喜び、展示の「アクセサリーに活かせる」とつなぎ、蔓を始末せずに取り置くように、と望んだ。
この間の13日に、4月並みの春の陽気が始まっており、橋本宙八夫妻を迎えた。14日は、予期せぬ嬉しいお届け物があって喜んでいたら、京都直下型の地震にみまわれた。さらに翌日にも京都直下型の地震があって、不気味になった。だが、16日は、朝刊に勇気付けられ、背を押されたのか、スモモの剪定に取り組んだわけだ。
この13日に迎えた橋本宙八夫妻は、東京(で生きる道を習得中だった)を尻目にかつて福島の山奥に分け入り、直感が誘うままに開拓に着手している。そのALTERNATUVEな幸せと豊かさのモデルを創出し始めた。夫人は、5人の子どもを身ごもるが、夫婦2人で、あるいは1人で出産することになり、それぞれ立派に育てた。
この間に宙八さんはチェルノブイリ原発事故調査団に加えてもらっており、その後、放射能で被災した当地の子どもたちの天地療法に貢献している。これが、わが子への生きた学習になっている。
福島原発の人災で、私たたちは巡り合えたわけだが、「もしも・・・」と考えたことがあった。
もっと早く何かの縁で、宙八夫妻のマクロビアンと、アイトワとが知りあえていたら、互いに補い合って、より望ましいモデルにしあえていたに違いない、との夢想である。
このモデルを活かし、若者を誘致する地方自治体が現れていたら、どうなっていたか。日本人は元来、勤勉で優秀だとおもう。だから、日本をポスト工業社会型の豊かさと幸せを編み出すキッカケにしてもらえていたのではないか。こんなことを考えながらお2人を見送った。
14日の予期せぬ届け物は、手捻りの陶器の“カメの置物”であった。昨年のことだ。顧問会社を訊ねた時に、社員福祉の一環で開かれた粘土細工教室があり、参加を促された。限られた時間と、心準備がなくて、願ったようにはゆかなかった。だが、出来上がって来たカメは、ほぼ願いが満たされていた。それはひとえに釉のオカゲであった。
「もう一度、挑戦したい」「ならば…」と願った。そこに“真の教育”のありようを見た。
15日、2日続きの地震が不安を抱かせたが、16日の朝刊の記事がその不安をふっ飛ばした。ドイツは、人口は日本より少ないが16ケ国からなる合衆国だが、また日本はドイツに引けを取り始めたのだから。
その差は、このままでは加速度的に広がるに違いない。
TVでは連日連夜、膨大な経費が掛かるいわば“田舎芝居”の放映で賑やかだった。舞台は国会で、題材は前代未聞の裏金問題。演目はさしずめ「恥のかき捨て」にでもして、この猿芝居をわが国の新聞が報道すれば、海外特派員は失笑し、「まだ、国民には期待がもてそう」との解説を加えてくれたのではないか。
こうした経過を経て、私的にビッグな17日を迎えた。午前中は昇さんと長津親方を訪ねており、予期せぬ学習に恵まれ、痛く反省もさせられたわけだ。午後は2つの大仕事を片付けた上に、フジ蔓の一件では妻に嬉しい宿題(蔓の活かし方)を残し、昇さんは自転車で帰っていった。
夕食後に、想うところがあって、前日の記事「転落 失われた30年の果て」を読み直した。まず、このままでは、能登半島並みの震災が東京を、大阪や名古屋でさえ、襲ったら、大勢の国民に死傷を強いるだけでなく、惨憺たる立場に日本を追い込みかねない、と心配した。
よしんばそのようなことが生じなかったとしても、遅れれば遅れるほど、問題を悲劇的な方向に先送りさせてしまいかねない。環境の時代は、人口を分散し、地方自治に委ね、土地柄に則した豊かさや幸せを追求し合わないと、じり貧になること必定だ。それが人間であり、時代の方向ではないだろうか、と睨んだ。
次いで、私に出来そうなことは、との想いを馳せ、その非力さを嘆いた。だから、世の中の最小単位である私的時空を、大事にすべし、と心に言い聞かせた。
まず、妻に「食べたいものは」と問われる前に、もちろん訊ねられた時はすぐさま、畑に走り“食べ時”だし、食べたい野菜を収穫し、台所に持ち込むことにしよう。妻はそれをヒントに人間の特権(料理ができる)に(真の)知恵と努力を傾けてくれるに違いない。
このようなことを考えながら、如月の最後の造作物をこしらえた。加齢対策で取り付けていた手すりの1つを取り外し、日に幾度も通る廊下の梁に取り付け直した。通るたびに背を伸ばすために活かして欲しい。
6.その他
1、若き同伴者に、明るい未来が・・・。小木曽さんは洋食器の意匠再生技術にも成功し、有名ホテルなどで喜ばれている。その折にデザインワークが求められる。その関係で、小木曽さんは1日、東大の女子学生を伴った。彼女は自己の才能に目覚め、生物学部(?)に転部し、近くオランダに留学すると決めた。
学び舎は、各人固有の潜在能力に目ざめ、自己実現の方向を見定める機関であれ、と願う私には心地よい出会いになった。
2、薪風呂釜の目皿ロストルと保温マットの新調。わが家の目皿ロストルが熱で傷み、ついに使用に耐えがたくなった。過去1年余、この製品の名称はもとより、どこで買い求めうるのかわからず思案していた。
この度ヤット、あるHCの販売員と、改良では製品問屋の主の世話になり、ごみ焼却炉用の目皿を改良した品を手に入れることができた。
冬場は、大きな薪風呂を一から焚き上げるには2時間はゆうにかかる。わが家では夫婦での使用時は、同じ水で2~3回(夜)続けて焚き、2~3夜飛ばすなどのローテションで過ごしている。その折にあるとありがたいのが保温の中ブタだが、このたび更新した。
3、2つの贈り物。納豆とパンだった。とりわけパンは安堵のネタになった。
それは食べ始めて3日目の朝のことだった。「1つパンが残っていたね」と妻に問うと、冷蔵庫を探し始めた。その途中で「昨日、孝之さんは外食だったでしょう」と手を止めた。そして「お昼に、私が食べました」と思い出すことができたのだから。
4、薪ストーブの焚き納め? 20日のゲストルームは、とても大事なテーマの下に、有意義な語らいの場になった。薪ストーブの炎が場を暖め、なごやかにした。だがこれが、この冬2度目なのに、焚き納めになるのではなかろうか。1986年の冬以来、初めてのことだ。
もっとも、これは“コロナ現象”のオカゲの一面もありそうだ。以前のように、隙間風がない部屋で、暖炉を楽しみながら薄着でよりそい・・・などと言った気分を、コロナの換気奨励が諌めてのかもしれない。
5、元アイトワ塾生との交歓。京都の花街・上七軒の“お初”に招かれた。紅一点の鈴江さんはニセコスキー場から取って返して来ての参加だった。
彼女は「99%が、外国になってます」と報告。そこで、インドネシアの「ジャバ島では、大資本が海岸をプライベートビーチにしており、インドネシア人は泳げなかった」と、思い出を語る。「それ、それです」ホテルも小売店も「日本人には到底・・・」などと賑やかなことになった。
お初の料理はおいしかったし、予期せぬ再会になった。なんと女将は、アイトワをご存知だった。「加藤さんの披露宴によばれて…」で、腑に落ちた。
8年前のこと。熟年結婚の宴は、その様子を今も、アイトワのHPには載せて下さっている。早速ケイタイで話題のご夫妻と、4人で交歓。今も新婚ホヤホヤだ。
6、徳重裕一郎さんと再会。京都大丸で開催された “ひなた宮崎グルメ”なる催しに、徳重紅梅園も参加。創業者・徳重文子さんの継承者で、孫の裕一郎さんを派遣する、との連絡があった。
昇さんを誘ってブースを訪れ、俊一郎さんと久しぶりの再会を果たせた。昇さんにはある時、紅梅園の“梅肉エキス”を紹介してあった。しかも、その効能をご存知だったので誘ったが、幾種かの品を買い求めてもらえた。
7、庭用のハサミと小銭入れをそれぞれ複数個買い求めた。紅梅園の帰途のこと。
小銭入れはよく失くすし、何十年来愛用してきた“高価な植木バサミ”を、また1つ見失い、スペアーを1つ残すのみになった。
そこで、このたびの資源的無駄を(経済的負担が少ない方法で)なくす我流の加齢対策を思い付いた。これは、この“高価な植木バサミ”屋に対するささやかな不買運動である。なぜなら、このメーカは、ハサミを研ぐ業務をビジネスから外した(と、取次小売店に聴かされた)のだから。
工業社会はこれまで、資源を無駄にしながら人間を合理化して来た。それが、地球環境の破壊や貧富格差の拡大などの諸悪の根源であった。
私は逆に、未来は、経済的負担は感受し、資源的負担を軽くすることが必然の時代になる、と見ている。それが、生物多様性を尊ぶうえでの根本でもある。
何としても、勤労を尊ぶ人が、胸を張れる勤労に恵まれ、悔いのない人生をまっとうできる世の中になってほしい。その勤労が、補修、補正、復元、再生など、あるいはこれらに適した新商品の創出などであってほしい。
8、23日の午後のひと時。「まだ間に合ったかな」とフミちゃんが10日ぶりに訪れ、「間に合った」と、紅シダレウメを愛でてもらえた。窓辺では妻の、初期の人形と、自然の像作物に、軟らかい光が注がれていた。
9、庭のフキノトウと手前味噌で。フキ味噌を作った妻は、その味噌で、朝餉の味噌汁をつくった。これも加齢対策かな。ボケかけた味覚に、この苦みが心地よく、気持ちまでシャキッとさせる。
10、ジャガイモを植え付ける畝作り。3種のタネ芋を24日に植え付けた。
11、川上さんが爽やかな同伴者と来訪。26日に迎えた。名が知られた企業を3年ほど前に早期退職し、自然に溶け込む方向を目指す新たな人生に、大地の開拓に悠然と取り組んでいらっしゃる男性を同伴だった。川上さんの新たな挑戦にも、軽やかに語る姿にも接した。
12、ありがたい包装の卵。乙佳さんが仕事場への道中で立ち寄り「これぞ!」と思う包装で、実父の余生の一環、平飼い生卵をくださった。
13、エンドウマメの霜よけ。小木曽さんと行動を共にする予定だった日のこと。花は咲けども媒介者が来ない2種のエンドウマメの霜よけを、半日がかりで50㎝高くした。
14、小木曽さんの再來訪。26日の未明(?)に、大事な資料や蔵書まで全焼で失った小木曽さんが「今、京都にいるの」と、ケイタイで知った。来京用件は2つ。西本願寺で、能登半島にある末寺の割れた瓦をリサイクル素材用に、そして有名ホテルではリフレッシュする皿を、それぞれ受けとる、ことだった。
その意気軒高ぶりに触れた妻は、庭の花を摘んでブーケをつくり「奥様に」と託した。
この来訪で、如月は小木曽さん(1日の来訪)で明け、小木曽さんで暮れたようなことになった。
15、生温かった如月。法律には“精神”と、その精神を保つうえで“破ってはならない一線”がある。わが国では、その法律を創る主たる人々が、破ってはならない一線を、破ったかどうかを疑われがちだ。その丁寧な説明さえ避けている。本来の法治国は、その“精神”を尊ぶ模範となるのが立法者の責務であり、“破ってはならない一線”に触れた時は、恥じて(権力ドロボウだと自覚し)辞すべきだ。
他方、国民の国民たるゆえんは、この問題を質し、糺し、そして正すところにある。せめて手にする権利を、この是正のためにこぞって行使することが国民の国民たるゆえんの相互扶助ではないか。
月末の畑では、ダイコンも薹を立て始め、アイトワ菜は随所で咲き始めた。だが、ついにチョウが舞う姿や、ハチの羽音にも触れずじまいになった。何かがオ・カ・シ・イ。確かアインシュタインだった。ミツバチ(花を媒介する)が地球から消え去れば、人類も4年で消え去る、と言っていた。
カラダには生温い如月であったが、ココロは一段と寒さがこたえた。