目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 もう春だ、で張り切ったが・・・異常な春
2 一国の美意識に一貫性を感受した
3 10日の間に、2月並みから5月並みになった
4 豊島(てしま)と小豆島2泊3日の旅
5 道具と機械。労災保険や拝金思想の蔓延
6 その他。チョッと心が動いた12のエピソード
カラダとココロを動かすエネルギー
弥生はジャガイモで明け、5日が啓蟄。上旬はシイタケで暮れたようなものです。
1日のこと、朝のサラダに秋ジャガが生かされ、昼に3種の春ジャガの種イモを植え付けました。その折に、アカンサスが新芽を吹き、サクランボがなるサクラの蕾が一段と膨らんでいたので、大賀ハス用の“肥料団子”を急ぎ造っています。この日は、夕食にも3種の秋ジャガが生かされており、「春近し」と感じたのです。
啓蟄は5日でしたが小雨だったし、虫が動く気配もなく、鎌や包丁を研ぐ日にしました。
そしてそして10日(日)は、当月2度目の昇さんを迎えた日で、ワークルームの屋根のさび止めに手を着けてもらい、私は昇さんが呼べば声が届くシイタケコーナーで、3日に伏せた新ホダギと、いまだシイタケを吹いているこれまでのホダギの世話や管理に当たったのです。
この間に9つのトピックスがありました。その内の3つは当月初めて昇さんを迎えた2日のことです。まずホダギづくり。次いで母屋の屋根掃除。この折に、この屋根にクスとスギの枝が覆いかぶさっていたことに昇さんが気付き、大剪定。これが3つ目でした。
次いで3日に、川上さんがおくって下さった道具を活かし、”背伸ばしコーナー”づくり。4日、大焚き火とカエルのお出まし。6日、久保田さんと家具師の森さんと落ち合って、フィンランドの美意識を満喫。7日、知範さんと月記原稿の引き継ぎ。9日、昨年の早春に、北欧2国の旅をご一緒したご夫妻の来訪。そして、10日は昼に、温室で小さなハチの活動を目撃し、安堵。そして夕食でも、3種の秋ジャガを食したわけです。
中旬は快晴で明け、テンモクジオウの植え替えと、畑で抜き漏れていた除草に精を出し始めました。この日の快晴は、サクランボの花を5分咲きに。翌12日、午前は夫婦そろって歯科医に。午後は、高安先生やフミちゃんも迎え、久しぶりの映画会。高峰秀子の『喜びも悲しみも幾歳月』でした。その後で望さんを迎え、知範さんと3人で、昨秋撮影した“匠の祭典”の動画を鑑賞。編集の在り方で意見の交換。そして13日は、『カオハガンキルト』で知られる吉川順子&崎山克彦夫妻一行を迎え、旧交を温めたのです。
かくして14日の朝を迎えましたが、「なんと」氷結と降霜を知ってビックリ、午後は檜皮に関して古人(いにしえびと)の知恵に気付かされており、いたく反省です。次いで15日(金)から2泊3日の小豆島と豊島(てしま)の旅。『二十四の瞳』の撮影地にも立ち寄った上で、17日の夕に帰宅。この3日間の留守の間に、庭が春の様そうに一変していたことと、妻が昇さんと取り組んだ庭仕事に、翌朝とても感激しました。19日、妻はフミちゃんを迎えて2人で除草。私は2泊3日の旅をご一緒した佐久間さんを、友人同伴で迎え、歓談。このお二人と、次いでフミちゃんを見送った後、スナップエンドウの支柱(留守中の春一番?がグラつかせていた)を補修しました。そして20日は、サルの大襲撃に見舞われ、その尻拭いで暮れたのです。
下旬は彼岸の末日で始まりながらまた氷結と小雪で明け、2月並みの寒さに逆戻り。月末は“匠の祭典”の動画を関係者に求評するために外出。この間にも多々トピックスがありました。プロに頼んだ数本の樹木の伐採や大剪定。雨になった土曜日、予定通り息子連れで昇さんが来訪。翌日曜日も雨でしたが土橋さんを迎えて歓談。快晴になった27日、ハクモクレンが満開になり、志賀師匠がルアーを取り付けにお越し。29日も快晴で5月並みの陽気になり、1日でスモモを五分咲きに。30日(土)は昇さんとフミちゃんも迎えており、テラスで楽しい昼食。他に、この1週間は、かかりつけ医を始め、4人の医師の世話になっています。だけど、月末は“匠の祭典”の動画が好評であったし、帰宅後は小木曽さんと(お引き合わせした)内山さんを迎えており、多々大仕事を果たせたような気分で暮れています。
~経過詳細~
1.もう春だ、で張り切ったが・・・異常な春
「未だ冬」の感で明けた弥生だが、朝食で3種の秋ジャガが生かされたし、クロッカスが咲き始め、春近し! と胸が膨らんだ。
しかも、先(衣更着)月のことだったが、25日に(屋内で、とはいえ)久方ぶりに見るカメムシの一種がうごめき始めていたし、月末にはアカンサスとフキノトウが芽吹いていた。だから当弥生を、「春よ、早く来い」との気分で迎えており、初仕事に大水鉢のオオガハスに与える“肥料団子”造りを選び、勤しんでいる。
畑では、スナップエンドウが花を次々とつけたので、媒介昆虫のお出ましを「今や遅し!」の想いで探したが、羽音もせず、「どうして」と首をひねり始めた。
2日(土)は、昇さんを迎え、3つの作業を経験してもらった。まず、遅がけだが2人でシイタケの種駒打ち(ホダギづくり)に取り組んだ。次いで、母家の屋根の落ち葉掃除を昇さんに任せた。この作業で、昇さんは、この日最大の仕事を見つけた。母家の屋根に覆いかぶさったクスとスギの枝を切り取る作業であった。この間に私は、母家の軒先で乾燥させていた薪の3分の1ほどを、風呂焚き場まで一輪車で運び込み、空きスペースを作っている。
カエルがお出ましになった3日、ニワトコが咲き始め、川上さんが“のびちゃん”をおくって下さった。
この日、母家の軒先まで私は昇さんに運び上げておいてもらった薪と、シイタケのホダギの管理に関わった。薪は、野小屋の側からまとめて運び上げてもらったものだが、小出しにして活かし易いように積み直した。ホダギは、初めて(これまでは林の中などで行ってきたが)ホダギ場で伏せることにして、保湿に配慮した。ちなみに、薪は、チョットした地震では崩れないようにする配慮もしている。
4日、未だ喫茶店は多忙には(観光シーズンだが)なっておらず、妻は囲炉裏場での大焚き火に携わった。たくさん溜まっていた剪定クズが片づいた。
私は、ここの隣にある畑で、抜き忘れていたホトケノザやハコベの花が咲き始めたので、花を探して回って、抜き取った。
ミツマタが5分咲きになっていた。だから「春近し」と喜んでおり、夏野菜用の畝仕立てに手を着けた。
翌5日は啓蟄だったが、本格的な雨になった。私は“のびちゃん”を活かす“背伸ばしコーナー”を設けた後、新聞の整理など。妻は雨でフミちゃんを迎えられなかったので、工房に籠り人形創作に勤しんだ。
午後は、私は風除室で、鎌や包丁を研ぐことにした。午後のお茶を運んできた妻が、これまでとは逆に、「あまり切れ過ぎないようにしてください」との注文を、初めてつけた。
次々と研ぎあげながら、過日きれいに磨きあげたガラスを見上げたり、雨音を楽しんだり、思い出を振り返ったりした。
鎌の1つ(右端・赤いテープ)は、川上文子さんの母親・アリヱさんの、もう1つ(中ほどの、私が持ち手を作りかえた)は母の、忘れ形見だ。アリヱさんとは、川上さんのお郷帰り(九州の牛深)に妻と2人で連れて行ってもらい、以降数年にわたり(お亡くなりになるまで)交信の仲だった。
6日は、フィンランドの美意識に触れる日であった。過日、明朱花さんの夫・フィンランド人の写真家・カールさんの美意識に触れていただけに、とても期待して出掛けた。期待通りであった。
7日、2月分の月記原稿を、遅ればせになったが、知範さんに引き継いだ。急ぎネットに上げる準備をしてもらい、公開直前と、公開後10日ほどで、2度の推敲をするつもり。
8日、「春に3日の晴れ間なし」とはよく言ったものだ。この雨が野山を潤し、好天とあいまって春へ!と促すもの、と期待した。だが、天気予報では逆に、桜前線が遅れそう、と言い出した。
9日、とても嬉しい予定があった。北欧旅行に夫婦で誘っていただき、自炊もできた館で過ごした門夫妻が、揃って訪ねてくださる日だった。夫の祐輔先生は医師(院長時代に世話になった)で、夫人のゆかりさんは薬剤師という夫妻だが、この日はある記念日になった。
祐輔先生は、かつて府知事選挙に立候補されたときに、演説で知った。だから、心臓病を「幸いに、」とばかりに医師指名で転院を企て、かなった間柄。
10日、上旬最後の日。好天の下で、温室での日課の水やりをしていた時のこと。小さなハチを見掛けた。「やっと!」媒介昆虫のお出まし、と安堵。それだけにケイタイの不携帯を悔やんだものだ。
このように過ごした10日間で、まず食卓の様子が衣替え? を実感している。1日の朝食で残り少なくなった自家製の秋ジャガが出たわけだが、夕食にも秋ジャガを妻は活かした。この間の昼間に春ジャガの種イモを植え付けたが品種は、男爵、メークイン、そしてキタアカリであった、
10日の土曜日は、当月2度目の昇さんを迎えた日で“肥料団子”造りにも携わってもらった。カフェテラスの大水鉢は土を入れ替えるのが困難だ。キンギョやメダカを住まわせている。だから“肥料団子”を造って投入してきた。この団子造りで、このたびは、柔道で言えば昇さんに「一本とられた」気分、爽快な気分になった。
この度選んだ土の質では、私には小さな団子を造れなかった。そうと知った昇さんは、ひと工夫して、ついに小さな団子を造ってみせた。その工夫がいとも単純なアイデアであったが故に、「まいったなぁ」になった。
この人は“作業”とか“勤労”などという概念には不向きな生き方、とみた。“工夫”“好奇”“創作”あるいは“奉伺”といったような概念が、どうやらカラダやココロを動かすエネルギーになるようだ。
2.一国の美意識に一貫性を感受した
3日(水)のこと。京都駅の“えき美術館”で久保田さんと森さんの2人と待ち合わせ、まず“イッタラ展”を鑑賞した。フィンランドのガラス産地の美意識に触れただけでなく、その歴史や技術も学ぶことができた。家具師の森さんを誘ってヨカッタ。
それは、作品の展示だけではなく、その造形物を生みださせた道具や、その工程の説明が十分であったおかげだ。家具師の観賞眼を目の当たりにすることになった。
3次元の造形物を観る彼の目が、4次元の眼になっている、と感じさせられた。
その見つめる目は、複数の造形物を眺め、比較して見比べるような眼ではなかった。対象と己を対比し、その技量や苦心のほどなどを学び取ろうとする姿勢や態度であり、惹きつけられた。チョット大げさだけど、なぜだか5次元の時空までが理解できそうな気分になった。
鳥をテーマにしたガラス細工が、たくさん出ていた。その製造工程も、写真や道具を添えて展示し、克明に示されていた。400℃で炭化が始まるはずの木の道具で、1000度ほどの真っ赤に軟化したガラスを願い通りに形作ってゆく。
フィンランドは憧れの国の1つだが、それは一目ぼれから始まっている。キッカケは学生時代に知ったアルバ・アアルトの存在と、その椅子のデザインであった。
次いでサラリーマン時代のトランジットのごとき訪問の機会だった。今も鮮明に残る思い出がある。寂し気で人影がないところにあった木造の小さな教会だった。木のドアーは開いた。明かりがなく、踏み込めばギシッと音がした。コツコツと足音を立てて階段をのぼった。
近年になって、写真家カールさんとの出会いに恵まれた。その妻・明朱香さんの結婚後に醸し出し始めたムードや意見が、なぜか私が心惹かれてきた根拠のようなものを補強した。
このたびの“イッタラ展”は、これらの根拠を懐かしげによみがえらせた。今にして思えば、そこに国の、国民性の一貫性を感じとっていたのだろう。質実、清楚、堅実などといった言葉が頭に浮かぶ。
“イッタラ展”の後は、チョット市の中心部に移動して、昼食と喫茶で中休みをとり、午後は映画『AALTO』を観た。二十歳そこそこの時に、アルバ・アアルトのデザインに触れて共感し、一人前の評価も口にしていたと思うチョッと気まずい思い出がよみがえった。それが高じて四半世紀後に、わが家に喫茶室のある別棟を造った上に、アルバ・アアルトの椅子と6人掛けのテーブルを3セット買い求めてしまった。
その時に、業者は「ワゴンも」と、勧めた。「到底、私たち夫婦には、そこまでは」と断った。だが「観るだけでも」と食い下がられ、梱包が解かれ、見てしまった。
妻までが、ワゴンなど不要なスペースなのに、首を縦に振った。飾り棚として活かすことにした。おそらくこれが、デザインに惹かれて衝動買いした最初で最後になりそうだ。
映画は、アルバ・アアルトのデザインに、あるいはアルバ・アアルトのデザインを生み出させた風土に、心惹かれる人たちを対象にしている、と観た。その共感の根拠が何であったのかを、種明かしして見せるような編集や演出だった。
映画の後、3人は分かれて、それぞれの帰途に。
なぜか私は電車の中で、北欧に出かける機会を増やした頃を振り返った。今で言えばNATO圏だが、これらの国々を巡る機会を毎年設けている。
そんなある日、国境線や民族分布などとは別の線があって、人々を2分できる、と聞いたことがあった。ある人は、2つの都市(失念した)を地図上で指差し、線で結んでみせ、この線で北と南に2分できる、と教えた。
呑み込みの悪い私のために、その人は、南の方の人々を“Tomorrow is another Day”(タイプ?)と表現した。何かを私は飲み込めたような気分にされた。宗教線だろう。カトリックとプロテスタントで分けたンだ、と。
その後、人種や性別、収入や職種、見かけや出自、あるいは宗教や言語などではなく、もっと大事な人々の括り方がありそうだ、と気になり始めている。
20年ほどかかったが、それが分かったような気分にされた頃に1つの意見を認めている。この度も読み直し、心を新たにした。
3.10日の間に、2月並みから5月並みになった
中旬は快晴で明け、4月並みの陽気となり、サクランボの花(大垣の加藤慶一さんに取り木してもらった)と、八重のツバキ(アイトワ塾生だった網田和彦さんに苗木をもらった)が共に花盛りになり始めた。野ではオオイヌノフグリも本格的に咲いており、「春きたりぬ!」を体感した。
その後、久しぶりの映画会の日や、カオハガンキルトで知られる夫妻を迎える日などがあった。妻は「新作を!」と、人形工房で籠もりがちだった。私は、妻が「夕食の準備に!」と立ち上がる(習慣化した行動に移る)前に、畑や庭を巡り、今が盛りの野菜や山菜を収穫し、流し場に持ち込む日(妻は食材をヒントにしてメニューを考え始める質だから、その活性機会)を増やした。
12日(火)は映画会の日だった。高峰秀子の『喜びも悲しみも幾歳月』を選んだ。それは3日後の早朝から出掛けて、失敗学会の人たちと豊島と小豆島を訪れる2泊3日の計画があったからだ。小豆島では『二十四の瞳』(高峰秀子主演)のロケ地も訪ねることになっていた。
火曜日はアイトワの定休日。喫茶室で映画会を開けたし“フミちゃんの映画会初参加”もかなった。知範さんだけでなく、高安先生にも参加してもらえた。
灯台守を、兵役逃れと見る人がいたようだ。実際は米軍の攻撃目標だった。
長津親方も参加の予定だったが、途上で自動車の自損事故、ただし身体には問題なしとの連絡が入った。望さんには予定通りに駆けつけてもらった。映画会の後で“「匠」の祭典”の記録動画 (望さん他計3人で撮影。知範さんが編集も)を鑑賞し、意見交換。親方の求評は後日に回すことにした。
13日、カオハガンキルトの崎山克彦&(吉川)順子夫妻を迎えた。お2人は、ライフワークの集大成かのごとき著作を届けて下さった。15年ぶりの再会だった。しかも、素敵な女性・マエノメリ史織さんをご同伴で、かつての感動を新たにした。
崎山さんは大手企業を脱サラし、フィリピンのカオハガン島に(確か買って)夫妻で移住。原住民の得手を見抜かれたのだろう、潜在能力に火をつけたカップルだ。
その作品展を日本で開かれた折のこと。“私のクセ”がうごめいた。私には“その人にオーラ”のようなものを感受すると、勝手な夢を語ってしまうクセがある。その日も多弁であった。その時の夢の続きを観ているかのような心境になり、当時の写真まで探した。
同伴の史織さんも、このご夫妻から何かを感受されたのだろう。お二人の生き方や生きる姿勢が、おのずと史織さんを前のめりにさせたに違いない。
史織さんに、私は大いなるマエノメリを期待した。史織さんのような女性のマエノメリに、日本の多くの女性が期待を寄せ、支え合うようになれば、日本女性の地位向上は格段に高まるはずだ。問題はその可能性を、男社会が、その文化の不健全な部分が、女性たちに阻ませてきたのではないか、と忸怩(じぐじ)たる思いに駆られた。
両親と一緒に外出した折(1948年?)のことがよみがえった。竹やぶを抜け、大通りに出る前に、母は父が持っていた手荷物を取り上げた。理由は父が病み上がりであったからではなかった。夫に荷物を持たせる妻、と世間に、他の女性たちに、見られたくなかったからだ。
この日は4月並みの陽気で、心までウキウキさせた。TVでは、桜の開花予報を一転させ、今や遅しとばかりに報じだした。クロモジは新芽を吹き、スモモは蕾を膨らませていた。だが肝心の指標樹のナツメは? と観ると、真冬の姿のままだった。
14日早朝のこと。窓越しに日の出を観て、「案の定!」と感じた。真冬に入った折によく見掛ける東の空とそっくり(錦鯉で言えば“秋水”の脇腹のごとし)であったのだから。急ぎ日の出をいつも遠望する場に駆けつけた。
次いで、畑に急いだ。水溜では氷が張っていた。
農作物はことごとく霜に打たれ、うなだれたり硬直したりしていた。エンドウマメも、霜よけカバーからはみ出していた芽は、霜で萎れていた。冬に逆戻りしたような気分にされた。
朝食時に、不勉強を恥じた。NHK-TVは311時のエピソードを紹介した。民主党政権だったが、官僚の中にも心躍らせた(!?!)人もいたようだ。この時から“プッシュ型支援制度”が始まったようだ。このような緊急を要する民を主にした課題のためなら、閣議決定は有効だし、有意義だ。この権力を憲法9条に関わる案件などに流用されたのでは、国民はたまらんなぁ。
当時の市会議員選挙を振り返った。自民党議員の集会で応援スピーチを依頼され、人物主義の私は応じた。その折に、自民党の衆議院議員が駆けつけて、スピーチで、した。菅直人首相は、いち早く現場に駆け付け、混乱させ、救済活動などを手間取らせた、と罵った。実情を調べ直す必要がありそうだ。
翌朝から厚着して、予定通りに2泊3日の瀬戸内の旅に出た。そして3日後に、有意義な思い出を胸にして帰宅した。
翌18日こと。わずか3日の留守だったが、庭がスッカリ春の様相に変わっていた。
この日は他に5度も、心を新たにさせられている。その最初は、春一番が吹いていたこと。次いで“古人への敬意の念”を深めたり“自然の摂理の一端”を追認させられたりしたこと。その上に、妻とチョットした思い違いが生じており、かつてなら夫婦げんかになりかねない事が生じていたこと。
この日、ヒノキ林で、風が落したスギの枯れ枝拾いしていたが、その折のこと。檜皮(ひわだ)が浮いたり剥がれ落ちたりしたヒノキが目に留まった。即座に、これまでの勝手な憶測を恥じ、反省させられところとなった。
これまでは、檜皮が人為的に剥ぎとられて赤肌になったヒノキと出くわすと、いつもヒノキが気の毒になり(この写真は2年前の10月、常照皇寺・京北で撮影)同情した。ヒトが檜皮葺などのために外皮を剥ぎ取ったせい、と見ていたからだ。
このたびは、これを「先入観かも、」と気づかされ、「またしてもやらかしてしまった」のでは、と恥じた。おそらく、適宜檜皮を剥ぎ取る人為が、むしろヒノキにとっては“垢すり”のごとくに作用し、これが好ましきヒノキを生みだす“人為淘汰”に結びついていたに違いない、と新たなる憶測が始まったからだ。
早速、思い当る道具を持ち出し、檜皮を剥いだ。生きている間に、この2つの憶測の「いずれに?」に軍配を上げてよいのか、この目で確かめたくなった。
次いで“自然の摂理”の一端を、満開のエゾヤマツツジに追認させられたような心境に。動物は植物より後発(植物が地球に酸素を生みだした。動物はその酸素を当てにした存在)だろうが、植物より愚かかもしれない、との想いの追認である。
かねてから“本当の知恵”の源泉は、脳にではなく、別のところにあるのでは、との想いにかられてきた。その想いが、このたびは実生のエゾヤマツツジが満開になった姿を観て、より深まったような気分にされた。
この親木は1986年(アイトワの看板を揚げた年)以前にここに移植しており、毎年花を咲かせ、種を結び、無数のタネを振り撒いて来たはずだ。だが、芽生えた子木は(6年ほど前に芽生えた)1本のみで、他に芽生えた事例は(わが家はもとより、一帯でも見かけていないので)ない、と言ってよさそうだ。
これに似た現象は、この庭では他に2例生じている。1つは、ハナズオウで、残る1例はマキの若木である。
ハナズオウもマメ科で、毎年たくさん実(種が入ったさや)を着ける。この木も無数の種を近辺に振りまいて来たはずだ。
だが、今のところは3mほど離れたところで芽生えた1本のみだ。この庭はもとより一帯でも、他にハナズオウの花を見掛けていない。
マキの若木は、人形ギャラリーの南側で芽吹き、フユウガキの木陰で育ちつつある。
この親木と見ている木は、旧玄関前にあったが、刈り込み作業が大変(往時でさえ、2日がかりで丸1日仕事)で、加齢対策の一環とみて2009年に切り取った。
マキの木は、赤くて甘い実をつけ、小鳥についばませ、糞で広がる戦略だろう。だから、居宅を挟んだ反対側の位置でも芽生えたに違いない。
仮に、この木には親子関係がないとしても、この庭では、この若木以外にマキは芽生えていない。やたら芽生えない木のようだ。
こんな話もあった。阪神淡路大震災の折のこと。東邦レオ社(屋上緑化でも有名)は被災地の自生巨木調査もした。160本ほどあったが(私の予測の通り)1本も倒壊していなかった。樹木医でもある木田幸男常務(当時)は論文にしており、造園学会で承認され、学会誌に掲載されている。
もっとも、モミジはたくさん種を落し、たくさん芽生えさせる。だが、モミジが一帯をびっしり埋めてしまうようなことはない。これはモミジの戦略だろう。
瀬戸内の旅の後、ジックリと庭を巡れたのは帰宅翌々日の19日になった。ワークルームの屋根の錆止め塗装は (サビが今後出易そうな部分も含めて)仕上がっていた。
妻は「十分私にも、まだ庭仕事で役に立てそうです」と、自信を取り戻していた。そのわけはすぐに分かった。カリンの剪定が始っていただけでなく、カフェテラスの大水鉢に、これまでの咲き終えたコウバイに代えて“源平枝垂れ桃”(赤と白と桃色の三色の花が乱れ咲くモモ)の樹冠を切り取って、生けてあったのだから。
昇さんに私は、口頭で“深紅のハナモモ”を剪定し、その剪定くずを活けてもらえるようにと頼んで、出た。もちろん妻には、出掛ける前に、昇さんに頼んだ作業内容を箇条書きにして説明した。その内容とは異なっていたわけだ。
だが、実に見事な出来栄えであったので褒めた。多くの人も樹形を愛でたようだ。その後、期待通りに、10日後には3分咲きに、その5日後には満開になっている。
急ぎ“源平枝垂れ桃”と“深紅のハナモモ”の木の点検に走った。前者は「よくぞ!」と思われる位置にノコを入れていた。後者は、私の希望通りに3本の主幹を切り取って背丈を詰めてあった。その切り取った剪定クズは、囲炉裏場の防火用水バケツに生けてあった。
思うところがあって、それらハナモモの剪定クズを、日陰にある雨水甕に私は移させた。
カリンの剪定は懸案だったが、私は課題には挙げていなかった。それほどの大仕事に思われたからだ。これも、妻は良かれと思って昇さんに頼んだのだろう。昇さんはその意図にそって、己なりの判断を下しながら枝をさばいたに違いない。
カリンを剪定するために昇さんが用いた道具(スライドハシゴか、12段3脚脚立か)を知りたくなった。妻には答えられなかった。
この日はとてもうららかな日和であったし、妻はフミちゃんを、私は牧野出版の佐久間社長を迎える日だった。佐久間さんの同伴者・筒井洋一・元精華大学教授とは共通の話題がたくさんあり、とても話が弾んだ。
こうしたオカゲだろう。この日は、これまで妻との間で重ねて来た“水かけ論”に「この時にこそ」とばかりにケリを着ける絶好の機会に恵まれていた。だが、生かず仕舞いにしている。
これまでの水かけ論では、妻は「録音しておけばよかった」と膨れた。それはこちらの言い分だ。その都度、更なる水かけ論を増やすことを私は避けて来た。
この度は、昇さんに頼んだ作業テーマを妻の目の前で克明にメモして、説明もしてあったから、動かぬ証拠があった。だが生かさなかった。それがヨカッタ。
後日、妻はメモのことなど失念しており、私が「あの一帯をきれいにしたい」と願っている、と心に焼き付けていたことが分かったのだから。
かくのごとくに中旬最後の20日・彼岸の中日を迎えた。まさかこの日が悲劇の1日になるとは思っていなかった。山はエサ不足だろうか。サルが畑に侵入し、メチャクチャにした。タマネギとネギの畝は大被害、ブロッコリーとダイコンの畝は全滅など。
この日から数日間は、やけくその贅沢ができた。電柵スイッチの入れ忘れを突かれたわけだが、サルが食べ残したブロッコリーや、捨て残したタマネギの葉を拾い集め、活かしたからだ。これまでは、薹を立てた分の葉を、葉タマネギとみて代替させてきた。この度は、はからずもこの畑の正真正銘の葉タマネギを、賞味した。ブロッコリーは、越冬させたカボチャだけなく、短大時代の教え子(息子さんが育てた)からもらったトマトを活かせたのだから。
4.豊島(てしま)と小豆島2泊3日の旅
失敗学会主催の旅に(岡田さんに声をかけていただき)加えてもらえた。豊島事件の現場を、石井亨さんの案内で見学(2024年3月16日)。当事をリアルに偲ぶことができた。
岡田さんは石井さんの著作でこの事件の実情を知り、同学会での講演者として推薦。結果「現場検証も」と、中尾政之副学会長が叫ばれ、この旅は現実化した。この参加希望者も、私が第2号であったらしい。
石井さんの著作の裏表紙と、その内面に見る幾つかの文章に、私もとても心惹かれた。「香川県の判断の誤り」「水俣事件」、とりわけ裏表紙の内面にある「どうやら小さいこと、小集団であることは良いことのようだ」との言葉である。
豊島事件は、小さな島で生じた実に大きな有害ごみ投棄問題であり、この事件と石井亨さんの義憤と情熱が、わが国の“マニフェスト制度”を誕生させている。
石井さんの現場での説明は的確で、すべて1次情報であった。投棄されたごみの量を、訪れる研究者などの国情に沿って、アフリカの人ならアフリカゾウ20万頭分と、アメリカ人にならワールドトレードセンタービル2棟分などと語られていた。
この旅は、15日朝、京都駅で岡田さんと落ち合うことから始まった。豊島は、小豆島経由でたどり着く。小豆島も初訪問だった私のために、岡田さんは旅程を2泊3日にして小豆島巡りの時間を増やしてくださった。しかも、このプランを知った牧野出版の佐久間さんもオブザーバ参加を希望され、15日の夕に、ホテルで合流することになった。
往路の車中で岡田さんに1冊の本を頂いた。豊島事件は権力との戦いであったが、石井さんの揺るぎない信念に加えて、弁護士・中坊公平の参画と、有害廃棄物積み出し港であった兵庫県県警の摘発が流れを変えていた。
この日の昼は、高松で天ぷらうどんを賞味。乗ったフェリーには女性専用席があった。出港間なしに灯台がある小島が見えた。半時間ほどで小豆島に近付いた。これまで抱いてきたイメージ(大阪城のあの巨石を積みださせた小さな島)とは大きく異なっていた。瀬戸内海では、淡路島に次いで2番目に大きな島と知った。
土庄(とのしょう)港に着いて、高峰秀子の生誕100周年であったことを知った。
記録映画『東京オリンピック』での逸話来、私は彼女のファンだ。市川崑監督と担当大臣河野一郎との大論争「記録か芸術か」に (「国務相と名のつく人物のすることではない」との意見を新聞に投稿し) 割って入り、「もう一本作る」と力んでいた河野一郎の拳を下ろさせた。
土庄港のコインロッカーに手荷物を預け、近辺を散策。まず予約が難しいらしい旅籠(主が名語り部とか)に立ち寄った。この島にも“八十八カ所”があることを知った。売店の番をしていた中年の女性に「弘法さんもこの島に来られたのでしょうね」と訊ねた。彼女は「さァー」と首をひねり、否定的な言葉を継ぎながら店外まで見送ってもらえた。そうした様子や雰囲気から“名語り部”の跡取り息子の嫁ではないか、と感じた。
港から“本土庄”までバスで移動。まず小豆島は妖怪でも有名と知った。西光寺を訊ねて小豆島が尾崎放哉の没地、と知った。放哉は、山頭火(四国の松山で没)に並ぶ自由律俳句の俳人で、最後は西光寺の墓守の住まいで逗留させてもらい、没した。
放哉の墓も訪ねた。その道中で若くて、しかも人あたりの良い尼と出会い、岡田さんが立ち話。私は「この地に空海も来たことがあるのでしょうか」と訊いた。すぐに肯定する答えが返ってきたが、確かな証拠などはなさそうだった。
夕刻、ホテルに着くと、佐久間さんはチェックイン済みだった。岡田さんと大浴場でくつろいだ後、3人で夕食。この島はオリーブ、醤油、そしてソーメンの一大生産地だと知った。大豆や小麦に大いに関わりながら、なぜ小豆島と命名したのか、不思議だった。
大きな島と知りえたので、巨大な火成岩の切り出し場や積み出した場は想像するだけで十分だろうと判断し、観光の優先順位を改めた。この日、実に見事な日没であった。
うとうとしながら、この日出会った2人の女性の応対に想いを馳せた。尼は聴く者の期待に沿った応え方をした。“跡継ぎの嫁”と見た女性は「さぁー」で始め、否定的な応え方をした。賭けをするなら私は「来ていた」だが、表現ではなぜか“嫁”に心惹かれた。舅に小言でもいわれたのかな。
16日、旅の2日目。学会員有志一行を迎える前に、と3人は謂れのありそうな水源を訪ねた。
空海の関わりにも触れていた。神社は「水神だろう」。
一帯は坂地で、地盤を組み石で階段状に固めていた。この石は水成岩と見た。
午後、ホテルで学会員有志と合流。次いで石井さんを迎えた。2種の参考資料(有償)が用意されており、極めて有効だった。
早速マイクロバスで石井さんの解説を聴きながら現場(豊島の西の端)まで。ほどなく10トンダンプが走ったとの未舗装の道に入り、荒涼とした島の内浜にたどり着いた。投棄現場は小高い丘に抱かれた広大な海岸、との観を呈していた。その立地を示す地図と撤去前の写真は参考資料にあった。
この事件は、文字通り豊かな自然と人情に恵まれた島が、1人の拝金思想の亡者に浸食され、段階的に毒させてしまった、いわば油断が生じさせた悲劇、と睨んだ。水俣事件と似ている。最初は、浜辺の砂をガラスの原材料として掘り出し、底につくまで換金させていた。挙句の果ては有害廃棄物の捨て場にさせてしまった。
その投棄された総量は91万トン(と聞いた)。満載した10トンダンプを並べると東京駅まで届くようだ。この過程で香川県当局は“ミミズの養殖”という詭弁にも乗っている。
いかなる経過をたどったのか。それは入手した2冊の資料が詳しく述べていた。
この運動で「忘れてはならないこと」は、廃棄物対策豊島住民会議の議長が次のように記している。
拝金思想の亡者が、その前線基地にした建物は今、ミニ博物館(資料館)になっている。
有害廃棄物は運び出されたが、土壌汚染問題は残っている。土壌や水質の検査をした後の異様な現場写真もあった。
この運動の過程でオリーブの植樹活動も開催された。一帯ではホトケノザが京都より一足早く満開たった。オリーブの育ち具合が、長い歴史を示していた。
勉強会も開いた。ここでの石井さんは、もの静かに「外発型開発事業で、ODAも含め、現地人の幸せに結びついた事例はあるのでしょうか」とはいた。この一言が、私の胸に突き刺さった。これまで、首を傾げた事例しか私も見てこなかったことを振り返った。その多くは、発展途上国の循環型生き方から離脱をススメ、消費社会への組み込みであった。
この日も素晴らしい日没であった。
夕食をかねて復習や反省、あるいは今後の展望や翌日の過ごし方を語らった。
17日(日)はレンタカーに分乗し、まずエンジェルロード(天使の散歩道)の(干潮時に出来る道の)探訪から始めた。観光客でにぎわっていた。私は多くの方々の願いの片鱗に触れることに時間を割いた。
次いで、棚田を目指し、棚田の最寄りのバス停で落ち合うことにした。後の車は道に迷ったようだ。先着メンバーは、めいめいがなだらかな山道に踏み込んだ。意外な時空が待ち受けていた。足が丈夫な中尾先生は早速スケッチを始めておられた。「すごいですねェ」と声を発しあった。芝居や能がここで、とみた。しばし私は妄想に耽った。
中尾先生との縁も振り返った。この人のおかげで岡田さんと私はかくなる付き合いになった、と言えそうだ。それは2018年の台湾旅行にさかのぼる。
台湾旅行を立案し、中尾先生の賛同を得た岡田さんは松山への帰途、京都のオフィスに立ち寄った後、アイトワを訊ねて下さった。妻は喫茶店開店来30年のお得意さんに挨拶した。岡田さんはこの時初めて(岡田さんは2度目とおっしゃる)私にも声をかけて下さった。台湾旅行への誘いだった。
中尾先生とは台湾大学(日本の植民地時代に誕生した帝国大学の1つ)訪問時に共鳴した。東大大学院の工学系の教授だが、東大や京大などの創設時に芸術部門を切り離した日本のありようを、互いに嘆きあう仲になった。私は、芸術の、正解を創出して、民衆と歴史に審判を仰がざるを得ない点を尊重している。
この日本の判断ミスは、失われた30年はまだしも、未来をとても暗くしそうだ。
アメリカでは。1995年のスタンフォード大学での取材時に、あらゆるアメリカの大学生は生物(2つと同じものを生み出さない自然の賜物)学の2単位習得が必修になる、と聞かされた。自ら答えを生み出す気概やセンスの重視に違いない。
この2人はそれぞれなりの没我の一時に浸っていたようだ。岡田さんに見つけられていた。
この島の醤油会社の優も、訪ねた。
二十四の瞳映画村(岬の分校場)では、多くの時間をこの原作者・坪井栄の記念館で割いた。この苦労人は暗い時代を立派に明るくめげずに生きた。そのエネルギーは経済的には頼りなさそうな夫、島の先輩(思想家)であったようだ。
ホテルで再集合し、皆で姫路まで出て、“無謬”とは対極の生き方、失敗を必然とする人たちと別れた。ある人は北海道の病院へ、松山の実家へなどと散っていった。佐久間さんは京都まで私を不安なく届けて下さった。
この旅で、世界1狭い海峡(ギネス)・幅9.1mの土渕(どふち)海峡をタクシーで渡った。心残りは、一言頼めば見に連れて行ってもらえた巨樹。樹齢1600年の真柏(しんぱく)の木(カシワ?)だった。「富岡八幡宮 (?)にある」とホテルまでのタクシーで聞いた。観光地図には“宝生院のシンパク・国指定特別天然記念物”が見える。
5.道具と機械。労災保険や拝金思想の蔓延
下旬は、当月2度目の(14日に次いで)氷結と降霜で明けた。月末は好天の下で、望さんと知範さんの3人で“「匠」の祭典”の主要メンバーと会し、大役を果たすことで暮れた。この間に気候は、一旦2月並みに逆戻りした後、29日の好天で一気に5月並みになっている。桜の開花は、遅れたり戻ったりして、結局平年より2週間近く遅くなった。わが家の一帯では、久方ぶりに小学校の入学式にサクラが彩りを添えた。
トピックスは他に、立木の扱いに秀でた庭師の世話になった大剪定。昇さんを息子連れで迎え、ブルーベリーのヒコバエを進呈。土橋さんを小雨の下に迎え、グッドニュースに触れた。『8日目の蝉』との題名に惹かれ、録画した映画を観て、いたく感激。ニホンミツバチのルアー設置で志賀師匠がお越しに(27)。岡田さんのお立ち寄り(28)など。
5月並みの気候になった翌土曜日は、鉢植えのサトザクラが満開になり、昇さんとフミちゃんの2人を迎え、昼食はテラスでとれた。フミちゃんは妻と除草。昇さんは肥料団子の投入や、ワークルームの屋根で、仕上げの塗装。
この10日間に、私は4人の医師(見取り医と決めている町医。病院の心臓医とその薬害チェックの眼科医。そして掛かりつけ歯科医)の世話になっている。
21日、当月2度目の降霜と氷結に見舞われた。氷の厚さを確かめようとしてこぶし大の石を乗せてみた。その重みで水が (たれ込んでいた笹と氷の接面から) にじみ出したが、割れなかった。天気予報は2月並みの寒さに戻り、桜の開花予報は大幅に遅れそう、になった。
この日、樹木の伐採に長けた庭師を2人迎えた。まず風除室のガラス屋根に覆いかぶさっていたクリやカシの木を切り取った。ガラス屋根は、小枝1本さえ落すわけにはゆかないわけで、2人の庭師の見事な連係プレイに感嘆させられた。
翌日も薄氷が張った。この日は“離れ(ホームステイ者用に増築し、アメリカ人のリズさんが初使用)”の屋根に覆いかぶさっていた太いサクラの枝を切り取り、次いでその北側で背がたかく伸びすぎたスギの背丈を切り詰めた。2本を剪定した後の写真は、昇さんがワークルームの屋根の塗装を仕上げた後で撮った。
この度の庭師は、何十種類もの道具を用いた。空中でロープ1本に命を預け、腰の道具を取り出したり収めたり。その見事な手さばき身さばきに触れ、道具は真に“駆使する人の身体の延長”だし、2人の職人の連係プレイは真に“相互扶助の賜物”だ、と追認させられた。
チャップリンの映画『モダンタイムズ』を思い出した。その皮肉(“流れ作業の機械”に翻弄されかねない近代人)を初めて映像化した氏に、改めて敬意を表した。
それで解ったことがある。これまでかくなる相互扶助の下に多様な道具を駆使する職人を迎えた時は、必ずと言ってよいほど私は、お茶の時間になると仲間に入れてもらってきた。それは職人魂に触れたかったのだろう。
おそらく“流れ作業用自動機械”の発達が、労災保険制度を発達させたり、拝金思想を蔓延させたりしてきたに違いない、とさえ憶測した。
この日の夜は、録画で『8日目の蝉』を観て「なんと!」と声を上げた。舞台は小豆島であったし、見て来たばかりの棚田や能楽堂も登場した。
しかも、能楽堂では、中尾先生がスケッチで座った位置に、映画の主人公と、その心の母や幼友達が座を占めていたのだから。
息子連れの昇さんを迎えた小雨の23日(土)は、ブルーベリーのヒコバエを1本、息子さんに掘り出してもらい、進呈することになっていた。あいにくの小雨勝ちの日になったが、決行した。このヒコバエは“一輪車(を通す)道”に張り出して芽吹いていた。
翌日曜日は、土橋ファッミリーを迎える日であったが、小雨になった。健一さんは自転車で一人駆けつけ、決行か否かを確かめにみえた。新たな日程を決め、お茶の時間にした。
息子の奏太君が、清涼寺(わが家から近い)で開催される恒例行事「嵯峨大念仏狂言」に出演していたことを知った。これは壬生寺(みぶでら)の壬生狂言と共に国の重要無形民俗文化財に指定されている。共にセリフがなく、700年余の歴史がある
後日、奏太君が演じた狂言の動画と写真を届けてもらい、壬生狂言の観賞を勧めた。
その後は雨の日が多くなった。だが、27日と29日の2日は快晴になり、一気に5月並みの気候になったわけだ。そしてフミちゃんと昇さんを迎えた翌月末31日は望さんや知範さんと市中に出かけ、長津親方始め第6回「匠」の祭典主要関係者に収録作品(撮影池田望、グミ中口、そして下村知範。編集・下村知範)を披露して、求評の日であった。終了後、参加者全員から拍手が湧き、大仕事を無事に終えたような気分で胸をなでおろした。
この席で、サクラの新たな敵が我が国で増殖中、と知った。
この間の25日のこと。両親の時代から世話になって来た医院を、後期高齢者の市民検診で訪れている。今は娘婿が診療に当たっている。甲状腺の検査では触診もし、尿検査では「心配しながら (血液検査)結果を待っていてください」との意見を賜った。
帰途、看取り医だとの自覚を一層高めてもらえるように、足しげく通う機会をなんとかして増やせないものか、と思案し始めた。
6.その他。チョッと心が動いた12のエピソード
1、フキノトウ茶漬け。わが家の歳時記でもある“フキノトウ茶漬け”を、“フキノトウ味噌”と“菜花漬け”で賞味。
2、何かがおかしい。不順の気候のセイだろうか。“春子(はるご)のシイタケ”の期間が異常に長い。昨年は芽生えなかったナズナを心配していたが、芽生えて種を結んだ。だが、とてもその数が少ない。オドリコソウは、昨年はとても元気だったが、今年は2本しか芽生えていない。逆に、庭から消えてなくなりそうになったロッコウサクラソウだが、復元できそうになった。
3、これが見納めかも。心配になるほどスモモがきれいに、満開になった。
4、食器を厨房に運んでくださった。このところ喫茶店の来客は8割が外国からの観光客。ある日、フミちゃんと昇さんを交え、めったにないことをした。お茶の時間を人形工房で過ごしたこと。おかげで、私が願っていた光景の1つに巡り合えた。
5、旧友と、年を取ったなぁ、と。懐かしげに訪ねてもらえる人が増えた。喫茶店を作っておいてヨカッタ。こうした人に、月に数名は恵まれるようになった。逆に、商社時代の仲間は、毎月のように幾人かが帰らぬ人になる。
6、見直した。妻が「もう1つ、出ていました」と言って、使い古して捨てたホダギに、シイタケがまた1つ出たことを教えた。そのシイタケの、妻は良いところ取りをして(3分の1ほどを)料理に活かした。
7、カラーコーディネート。店のどなたかが、今が盛りのモクレンとカラーコーディネート。
8、タカラモノ。ある日、「これョ」と言って妻が大事そうに取り出して、フミちゃんに見せたモノがあった。今は亡きかつての生徒さんの姪っ子さんにもらった紙の帽子。
9、久しぶりの夜食。原稿の締め切りではないが、夜なべした。一旦床に入っていた妻が起き出してきて、ちょこちょこと作った。手品のように感じた。
10、ハッピーが見つけた。妻が大騒ぎ。なんてことはない。ハッピーが新居場所を見つけただけのこと。余りうるさいから、物陰から写真に収めた。
11、もう春なのに。朝食時に眺める中庭は完全に春の日差し。左が月初めで、右が月の末。
12、まだ芽を出していない。漢方では婦人病の薬と聞くナツメ。この木が新芽を吹けば降霜の心配はないらしい。弥生の末期、レンギョウやハダンキョウは満開。日陰に移動させたハナモモでさえほころびかけた。だが、ナツメはまだ芽を出していない。