目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 新発見に恵まれたわが家の夏至
2 「なんと嬉しいこと・・・」
3 庭仕事と畑仕事がはかどった
4 端境期の食と食卓
5 女性に圧倒され、心を新たにした
6 その他
痛い学習と真面目に不真面目なこと
上旬をつつがなく過ごし、トピックスを数えながら「なんとも嬉しいことが、2度も・・・」と、呟きました。まず皐月の初日。午前中は来客とわが死生観を語らいました。この間に嬉しいメールが届いていたのです。今年成人になる若者の端午の節句の祝い方に、痛く感心させられたのです。次いで2日。重電力用の太陽光発電機とバッテリーの相談ごとに午前を当てましたが、その間に宅急便で、人生最初の女友達の画集が届きました。2歳下の彼女は4年生で東京へ転居。愛犬を引き継ぎ、それが愛犬と付き合う人生の始まりです。
3日は、第1井戸枠花壇に朝日がスポットライト!で明け、昇さんと夏野菜の追加。4日はフミちゃんを迎え、妻は除草。私はクリスマスローズのポット苗づくりなど。夕刻に、先月お迎えした老人がまたお越しになり、真面目に不真面目な結果を生み出した事件、と総括されました。5日も昇さんを迎え、温室では遮光カーテンを被せ、囲炉裏場では薪作りと大焚き火。畑では夏野菜に初の支柱立て。6日は、小国さんが、介護に関するエッセイ持参で再訪され、談論風発。この間に妻はサンショ摘み。7日は終日の雨、夏野菜が大喜び。8日は、エビネランの手入れと大不作のタマネギの収穫は、処置のごとし。そして10日にテイカカズラが満開。ハッピーは新しい居場所を発見。私は3つ目の水鉢の手入れ、でした。
中旬は、土、日と2日続けて昇さんを迎えることで明け、川島織物文化館を知範さんと訪ねることで暮れました。この間のトピックスは、妻の誕生日に、結婚来51年目にして初めて、昇さんの提案で祝いの品を贈れたことです。次いで、町工場に勤めていた義妹の娘婿がNHK=TVで紹介されたこと。社長になって、生鮮野菜作りに手を広げていたのです。
他に、シンボルモミジとクボガキの整枝。温室では恒例の、夏野菜では新方式の、それぞれ遮光。種を取る冬野菜への防鳥カバー被せ。フジの第1次剪定。知範さんと長津親方を訪ね、第5回「匠」の祭典の記録動画をDVDで納品。スナップエンドウの収穫納め。家具師の森さんを迎え、陽光などで色褪せした床の補修に挑戦、を決定。あきさんがお孫さん2人と庭見学で来訪。そして“すき間バイト”という事業を知り得たことです。
下旬は、「なんとも嬉しいこと・・・」から始まり、「とても残念なこと」で終わったようなものです。嬉しいことは、土橋ファミリーを26日に迎えましたが、その折りに嬉しいニュース(『ウイルス学者の絶望』の著者・宮沢孝幸医師の退官記念講演と演奏会開催)に触れたことです。残念なことは、ディスクグラインダーを駆使する作業中の大怪我です。親友と連れ立って参加する予定だった商社時代の社友会参加が、吹っ飛びました。大怪我は久しぶりでしたが、学習などさまざまな成果に結びつけたつもりです。
他に、大けが前は、上下に“部分入れ歯”が入り、その調整。後藤さんに、今年もお母さんの仏前に供えるアザミの花を採りに来てもらえた。越冬に成功したトウガンとカボチョをお裾分け。久しぶりにエコライフガーデンをご案内。生け垣に始まりハクモクレンやヒメコブシなど多々剪定作業。スナップエンドウの畝を解体し、オクラの畝に仕立て直し。ホウレンソウ、インゲン豆、オクラ、あるいはトロロ芋の手当て。また山をなした剪定クズの大焚き火。そしてユーティリティ小屋の補修(ネコやイタチの侵入を防ぐ)に着手し、誤ってレンガを切断中にわが左足の向こう脛あたりをえぐってしまったわけです。
この怪我の後の2日は、根気よく座り込んでできる除草なら、と熱中し、成果をあげながら、妻にコッピドク叱られ、さんざんな想いで皐月は暮れたようなものです。
~経過詳細~
1.新発見に恵まれたわが家の夏至
おもえば先々月・弥生は、寒暖差が激しい日々が続いた。わが家の庭では、2月並みの日(3月14日は遅霜と氷結。21日にも氷結と粉雪)と、打って変わって5月並みの日(スモモが一昼夜で五分咲きになった28日など)が入り混じった。
だからだろうか、月末になってもナツメは未だ芽を吹かず。だがスモモは、例年になく見事に満開になり、新たな心配を抱えて翌卯月を迎えることになった。樹木は時に、命が尽きる前に、見事な花を咲かせて見せることが多いからだ。
その卯月は、遅れていた春が、満開のスモモにつられたかのように一気に始まり、ツバキの満開と桜の満開が重なりもした。
だから「どうして?」と、首を傾げた。16日に、ウノハナ(卯の花)は? と見ると蕾はまだ固かった。次いでナツメは、と点検すると、新芽を出しており、ヒメウツギは八分咲きになっていた。
かくして当皐月(さつき)を迎えたが、卯月の24日から咲き始めていたサツキ(五月)は、この月初めには既に満開で、早々と夏日が続きそうになった。
そして3日。わが庭で生じるスポットライト(朝日がシンボルモミジ越しに生じさせる)現象が生じた。やっと、穏やかな初夏の到来を実感させられ、安堵した次第。
急ぎこの日、作付けが遅れた第1次のキュウリとナスの畝で、被せてあったトンネル栽培用のレースカーテン地(虫よけも兼ねた遮光用)をめくりとった。成長が芳しくないので、陽光を十分に当ててやりたくなったからだ。
その2日後、日曜日の午後のこと。日照りが激しくなり、慌てて温室用の遮光ネットを取り出して、昇さんに手つだってもらい、第1次分を張った。
次いで、第1次のキュウリとナスの畝に支柱を立て、めくり取ってあったレースカーテン地を活かし、新方式の遮光を試みた。とりわけ厳しい西日から守るためだった。
これは、エンドウマメの防霜でおこなう布のかけ方と似ている。だが、片面だけにして、苗の成長の妨げにならないようにしたもの。それが、予期せぬ成果に結びつけた。
ウリハムシは、明るい方向にむかって逃げるクセがある。近付くと飛び立つが、西日が射すレースカーテン地にぶつかって停まる。また、ウリハムシは、危機が切迫したと見ると、ポトリと落ちて、逃げる癖もある。だから、掌をかざして受けとめると、退治が簡単である。この歳にして、また新発見があった。
昨年までは、捕虫網を畑に立ておき、それで捕えようと、苦戦苦闘した。だからといって、土や水を汚す農薬での皆殺し戦法を採用したくない。
小鳥が、早く熟した冬野菜の種から順に襲い始めていた。急ぎ、採種用数本のアイトワ菜などに、防鳥カバーも被せることにした。
その後も好天が続いた。畑は乾燥し、水やりに追わる日々が続く。かつての水やり不要の畑づくりがウソのように感じる。だが、フウランにとってはほどよい気候であったのかもしれない。
ウノハナは12日からほころび始めた。
25日(土)5時40分のこと。「キット」と思って、確かめたら、少し日は高くなっていたが、わが家の“夏至もどき現象器(東西に走る6mほどの廊下)”に陽光が奥までまっすぐに差し込んでいた。本当の夏至より、チョット方角がずれており、25日ほど早く起こる。
この日、庭ではウノハナが満開に。
妻は扇風機を取り出してきた。「もう夏だ」とおもったが、ガス暖房機を仕舞い込ませなかった。それがヨカッタ。月末まで、早朝のPC作業などでは活かし続けたのだから。
この夏はどうなるのか。冷夏か、酷暑か。キュウリとナスの育ちがわが家では極端に悪い。逆に、アフリカ原産と聞くトマトが、ことのほか立派に育ちつつある。
2.「なんと嬉しいこと・・・」
Ⅰ「アルマスだより」
当皐月の初日、午後のこと。「この人形は・・・」と、1本のメールに添付された写真に目を見張った。「こうして18回にわたって、活かされて来たンだ」。
今年も、端午の節句まで、こうして立ち続けることだろう。
「この子の人形を作って」ほしい、とかつて東京に住まうご両親に願われて、妻がつくった。
その後、この両親は郊外に大きな土地を得て、週末を主に開墾から着手。
この親子には時々訪ねてもらえたし、この子には中学時代の修学旅行では友達と、6人連れで立ち寄ってもらえた。
2005年来、オムニバス映画のように、幸せのお裾分けに預かってきた。
この関係のそもそもは、『次の生き方』を上梓した2004年と言ってよいだろう。翌年、私たち夫婦の生き方が、NHKのTV番組として収録され、放映されたのだから。
この番組のリポーターとディレクターがその後結婚し、確か2年後に、子宝にめぐまれた。やがて郊外で大きな土地を得て、息子ともども植樹などが始まった。
このTV放映の16年後の2021年に、私は『次の生き方 Vol.2』という一著を出す機会に恵まれた。その時に、このご夫妻にも参加していただき、計15人の手になる編著書としてまとめることになった。
表紙は妻が撮った写真を活かし、15人の一人・知範さんが一晩でデザインした。
お二人から寄せられた原稿は「アルマス便り(一)」と「アルマス便り(二)」だった。「アルマス」は、アンリー・ファーブルが終の棲家の庭に与えた名前で、プロバンス語で「荒地」を意味する、と伺った。
そこで、“第5章「清豊」という生き方”で活かさせていただくことにして「鬼丸夫妻が想う真の遺産」という副題を添えさせていただいた。当時、この子は既に、エンジンソーも使いこなせるようになっていた。
こうした人たちとの触れ合いを通して、私は真の豊かさや幸せを手にする心がけを学んでおり、ひとさまに胸を張って紹介できるようになれたようにおもう。
相互扶助は、幸せや豊かさの源泉ではなく、相互扶助そのものが幸せや豊かさであることを学んだように想う。
Ⅱ「画集になった」
2日の10時過ぎに、荷札に書籍とあった宅急便が届いた。見覚えのある表紙だった。人生で最初にできた女友だちの画集だ、とすぐに分かった。
74年昔のある1日がよみがえった。大風が吹き出した。遊びに来ていた彼女を、母が歩いて数分のお宅まで送っていった。その後、野中の一軒家のごときわが家は、大被害を被った。風が収まった夕刻に、土壁が落ち、瓦がはがれたわが家を、彼女の母親が菓子パンをもって見舞ってくださった。大風はジエーン台風だった。
次の思い出は、この一家が東京に転居することになり、母と最寄りの駅まで見送った日のことだった。帰途は荒縄が鎖代わりの愛犬パットを連れて帰った。当時は、わが家の一帯では犬も放し飼いだった。パットは鎖なしで、すぐにわが家に馴染んだ。
パットがわが家の愛犬になる前の思い出もよみがえった。裏山の急な土手を、私の手作りのそりで、2人乗りで滑った日々だった。転んで彼女もケガをしたことがあったが、その理由を誰にも彼女は話さなかった。
東京に移住した後、時々手紙で家族の消息や進学、あるいは結婚などの大きな変化を知らせてもらえた。だから、妻の個展を訪ねてもらったり、彼女の個展を訪れたりしてきた。
もちろん、この度、初めての長電話を楽しんだ。
Ⅲ、「転ばぬ先の杖」
加齢対策の一環で、その道の権威でもある幼友達の小国さんに、先月相談を持ちかけた。その回答の一環だろうか、6日の午後、自転車で趣味のシャンソンを収録したDVDと、4枚の刷り物持参で、再訪していただけた。
高校時代も話題に上った。私は、男子がほとんどのクラスが1つあって、そこに入れられ、進学コースだと聞いた。担任は「悪郎」と生徒が呼ぶ国語担当の男性だった。小国さんは女子がほとんどの幾クラスかあった1つだったらしい。
だから、こうした変則を疑問視し、彼はガリ版刷りをばらまいて抗議行動を起こした。何かの成績で評価赤1も喰らったらしい。
私は悪郎を嫌悪して、国語の試験を白紙で出し、赤1をもらった。この私を、女子が主のクラスの担任をしていた教師の一人・八木斐子先生に拾ってもらった。
悪郎は、女子が多数のクラスでは「褌」と黒板に書き、女子に読ませようとしたらしい。当時、そうと私が知っていたら、と残念に思った。
2年生の時に、私は師範学校を出たばかりの先生を1人、授業をボイコットして辞めてもらっている。ある問題をキッカケに、いずれの言い分が正当か、卑劣かを問いたかった。好天の日は、グラウンドのクローバ―部分で寝転んでボイコットした。この日もクラスのすべての仲間が追って来て、一緒に寝転んだ。その中に10人たらずの就職組の男子もいた。
やがて庄司先生は、学校を辞めた。それまでも、その後も、この件では八木先生からは1度も声をかけられることはなかった。
数カ月もせぬ時に、また中南校長の部屋に呼び出された。庄司先生が見えていた。「森クン、神父になりました」「ありがとう」といって、私の手を握って下さった。
ここに私は真に人間の教育を視たし、今も観ている。小国さんもどうやら、窮地に追いやった教師があったようだ。
その彼に、持参してもらえた刷り物を、見送った後で読み始めた。心の杖にしよう、と想った。
今にして想うことだが、この授業ボイコットを進学クラスでしていたら、どうなっていたことか。数学などを人並み以上に学ぼうとしていた生徒はどうしていたか。
Ⅳ「アクアポニックス」
朝食をとりながら『虎に翼』を観ようと、早めにTVをつけた。見覚えのある顔に次いで、気になる新語・アクアポニックスが飛び出した。「これ、嘉一さんじゃやない」と妻に問うた。無精ヒゲを生やした義妹の娘婿だった。
事務用品から住宅や鉄道関係など様々な分野の金型の設計から、製品のアフターサービスまで総合的に提供する金型メーカーに勤めている、と聞いていた。いつのまにか社長になっており、“野菜の水耕栽培”と“魚の養殖”を循環させるビジネスに取り組んでいた。
「頑張ってほしい」。これまでに、親戚縁者のお宅や勤め先などを訪ねたことがない私だが、このアクアポニックスの現場は訪ねたくなった。
それにしても、と思った。義妹の娘は、妻のように髭ぐらい剃っておくように、と勧めなかったのだろうか。
Ⅴ、「慕う人たちの会」
26日のこと。土橋ファミリー3人を迎えた。やっと庭仕事に、3カ月ぶりにあたってもらえ、焼き芋での仕上げまでできた。もう1つ、嬉しいことがあった。一枚のチラシを手渡された。一見で、すぐに事情を呑み込めた。~日本を守りませんか~ との一文をかかげており、“宮沢孝幸先生を慕う者たちの会”が主催であったのだから。
この京都大学准教授の著作を読んだ時の読後感を思い出した。それは、得心と心配が入り混じったような心境だった。
得心は、この問題が発生した当初から、事情があって、この事件を「コロナ騒動」と私は呼び始めていた。この直感が誘った共感であった。
心配は、幼児期の素朴な記憶がよみがえり、心に湧きあがった用心だった。
アツアツの焼き芋と冷たい牛乳を堪能し、母に甘える奏太君を眺めながら、子どもの頃を振り返り始めた。私には、母の膝で甘えた思い出はない。
2021年の正月から、パンデミックは「ありうること」と真面目にコロナ騒動に危機意識を抱く医師や学者に次々と巡り合った。同時に、TVなどを通してだが、これぞ権益誘導の好機到来と嗅ぎ取ったかのような人を随分見かけるようにもなった。
そうした人が絡み合って振りまく雰囲気は、世の中を一色に塗りつぶしかねない。真面目な人が不真面目なことに巻き込まれたり、不真面目なことに真面目に取りくんだりして付和雷同しかねない。こうした苦しさを、私は戦時中に、幼心に焼き付けている。
その重苦しさは、“子どもの目には「まとも」に見える人”を、窮地に追い込んでいた。後年知ったことだが、この狂おしさは、戦時中に平和を訴え、不戦を標榜した人は、危険思想や過激思想の持ち主と断じられ、弁護士なしの一審制裁判で次々と闇に葬られていた。
かねてから私は、母が多くの家族をスペイン風邪で失っていたこともあって、パンデミックを怖れて来た。だから、もっと怖いのは、人為が起因のパンデミックだ。
そこで、2018年は731部隊を主に中国東北3省を、翌年は南京を主に、中国旅行の計画を組み、人為の何たるかの一端も学んでいた。だからトランプが、武漢ウイルスと叫んだ気持ちが解らぬわけではなかった。
土橋夫人・佳代さんが開いたピアノ教室の、最初の生徒さんが、宮沢孝幸准教授であったと知った時のことも振り返った。
ピアニストの彼女は、この日も夫の健一さんと一緒に、杉の落ち枝をかき集めて囲炉裏場に運び込む作業に携わった。いつものように、大きな袋に一杯詰め込んで運んでいた。
この運び込まれる杉の落ち枝を、次々と焚火に放り込み、最後はその燠(おき)で芋を焼くこ、そして火の用心が私の担当だった。
当月の「なんと嬉しいこと・・・」は、この退職記念講演会と演奏会の呼びかけが締めくくりになった。それにしても、と心配した。1500人収容のホールは埋まるのだろうか。
3.庭仕事と畑仕事がはかどった
畑仕事は、3日に昇さんと、ジャガイモの追加の種イモ植えから始めた。先月のコイモの種イモの植え着けと同様に、この種イモも、チョット変わり種だった。
まず、コイモづくりの種イモについて。普通は、前年度収穫した子芋を種イモにする。だが、このたびはすべて前年度収穫した小ぶりの親芋を種イモに活かした。
月末時点では順調(前年度、半量で試みた折と同様)に新芽を吹いている。
もしこの親芋が作った新たなイモが親芋となって、たくさんコイモをつけ、それが美味しかったら、申し分なし、ということになる。
コイモは軟らかくて美味しいが、親芋は大きいが硬くてあまり美味しくない。つまり、あまり美味しくない親芋を種イモにして、美味しいコイモを同様に作ることができたら「いいのになぁ」と願う。
次いで、追加のジャガイモは、昨年度は“秋植えのジャガイモ”として育て、収穫したイモであることだ。保存箱の中で新芽を出し始めていた。だから、春植えのジャガイモのごとくに植えてみた。それが月末には “春植えのジャガイモ” (写真、手前の畝で育っている)に負けないほど立派に、植えてから28日間で育っている。
この歳にして、お恥ずかしい話だが、ジャガイモは2期作がかなう芋かもしれない、と気づかされつつある。これを機に、この点を確かめたい。
次いでこの日は、昇さんと雨期に備えた。まず、わが家の畑を冠水から守る工夫を昇さんに説明した。はるか以前に、2段階の大雨対策をこうじたが、その現場検証だった。
この第1段階の“畑の冠水程度を解消する仕掛け”では、排水溝の出口が半ば土で埋まっていたことが分った。即、昇さんはこの掃除に当たった。
第2段階の大雨対策は、これまでの国の法定基準を上回る雨が降り出した、と知った時にこうじた。かつての日本は、雨量50mm/時間を基準に国土づくりをしていたらしい。にもかかわらず、温暖化対策を国民には迫らず、いわば“汚し徳”の税制を一転させずに量的消費拡大を促してきた。
残念ながらわが家も甘かった。半地下構造(温暖化対策としての意義などを一級建築士に訴えて現実化する)など、さまざまな手を打ちながら、肝心かなめの対策がおろそかになっていた。既存の雨量50mm/時間を基準にしていた。その後、80mm/時間を体験し、初めてこの現実を知った。
国はゲリラ豪雨とか、線状降水帯、あるいは想定外という言葉を使い出した。その時にわが家は慌てて、学生の力もかりて150mm/時間の第2次対策の手を打った。恥ずかしながら、いわゆる対症療法型の手を打たざるを得なくなっている。
わが家では、第3次がぼつぼつ求められる頃ではないか、と考え始めている。
除草には4日、フミちゃんを当月最初に迎えた日に、妻が一緒に旧玄関前から手を付けた。
おかげで、月末時点の今もそこは、大きな草や、いわんや新たに芽吹いた草も、まだ種を付けるには至っておいない。できれば、6月最初にフミちゃんを迎える日に、妻が一緒に再度除草作業に当たってもらい、当年度の種を新たに落させないようにしてもらえたら、と願っている。
畑の支柱立ては、5日に迎えた昇さんと、第1次のキュウリやナスの畝に立てることから始めたわけだ。月末までに、トマト、トウガラシ、ヤマイモ、そして第1次のカボチャの第一期分まで、立てることができた。
同時に、スナップエンドウの支柱を解体し、オクラの畝に仕立て直した。
剪定作業は11日に、まずシンボルモミジ(の前年度に徒長した枝捌き)から昇さんに取り組んでもらった。まだ樹勢が落ち着いていない、と分かった。剪定くずの一部は、妻の手で、テラスの大水鉢で生かされた。
次いで、クボガキの剪定に取り掛かってもらった。それは、枯れた下枝取りと、天に向かって伸びた徒長枝の切り取りだった。そこで知ったことだが、カキは、少なくともわが屋のカキは、極端なまでに不作の年かもしれない。
フジの第1次剪定は15日の早朝に、私が1人で当たった。無事に終えたが、一度ヒヤッとした。どうしても8段脚立を階段部に立てて行う必要があるからだ。第2次の剪定時からは、昇さんと2人で当たることにしたい。
その後、ハクモクレン、ヒメコブシ、そしてジロウガキの順で、私は昇さんの助手となって取り組んだ。これらも昨秋に行っておくべき剪定であった。
カシの生け垣の剪定は、妻と義妹の手助けを得て取り組むなど、恒例の作業にも多々あたった。
温室仕事は、自然生えのクリスマスローズの苗を掘り起こし、ポット仕立てに。マユハケオモトの鉢植えを株分けして2鉢に、から手を着けた。
食用ギク・モッテノホカの2本が芯喰い虫に襲われて、こうべが(主軸の中ほどから食いちぎられ)垂れていた。その半ば萎れた頭部を、その中ほどで切って4本にして、刺し芽にして増やすことにした。
次いで小さい方の水槽で、放りっぱなしにしていたメダカが越冬していたことがわかった。餌やりを始め、産卵しやすい水草を加えた。
囲炉裏場では、また剪定クズが溜まっていた。太くて火力のありそうな幹などは私が薪に。その他は妻の手も借りて焚火で焼却した。剪定くずや栗のイガまで燃料にしたその昔が懐かしい。、
隣のサンクチュアリーでは、堆肥の山を更新するために、昇さんに新たな基礎作りに当たってもらった。
水鉢の手入れにも取り組み、3つ目の水鉢を、「今年こそ」は、とメダカの子をうまく育てられるように仕立てた。
4.端境期の食と食卓
新緑や蔓がぐんぐん伸びたり茂ったりして、日々庭が鬱蒼となり、さまざまな花が咲き、顔なじみの昆虫やカエルなどがお目見えする季節になった。逆に畑の野菜は端境期に入り、食卓は寂しくなる。
だからだろうか、私は庭の花を順に巡ることが多くなり、キノコが出る時期であったことにも気付かされた。
畑ではネギまでが、野ではミツバまでが長け、妻も朝食用の収穫笊が寂しくなったからだろう。花を摘んで戻ってくることが多くなった。「こんなにいろんな花が摘めるなんて…」と、毎朝のように同じ言葉を繰り返す。
だが私は、近年は樹木が期待通りに多くなり、茂って木陰を増やしたが故に、草花の種類を減らしに減らし、往年の数分の1にした、と記録を下に知っている。
妻はそれを、体で感じとっているようで、花の愛で方が変わった。
恋を成就した花と、出来なかった花の差異。無事に出産まで終えた花。カルミアとノバラの差異。この歳にして初めて、私はクリスマスローズのそれらなどに気づかされた。
第1次のタマネギはサルに襲われて不作。第2次のタマネギは多くが薹をたて、さらに不作とわかった。そこで薹を立て始めた若い葉を収穫し、台所に持ち込んだ。
まず炒め物に妻が活かした(8日)。残った分は、ネギボウズを取って成長を抑え、うどんなどの薬味にしばらく生かした。
春の(冬野菜と夏野菜の)端境期で最もありがたい青物は、わが家ではスナップエンドウだが、今期は第2次以降は作っておらず、19日が食べ納めになった。
ツタンカーメンのエンドウは、いつものように豆ご飯にも生かされたが、初めて今年は保温炊飯器で2泊寝かして、その色合いの変化も愛でた。山菜はウコギやフキなどが多用された。
25日に、わが家流の“室(むろ)”を開けた。トウガンもかろうじて腐らずにあった。2種のカボチャは健在だった。少しずつだが居合わせた人にお裾分けした。
トウガンは、すぐに食べないと、すぐに傷んだ。すぐに食した分も、風味が落ちていた。トウガンとは、寒い時期に“熱々での正味”に相応しい野菜が故の命名のだろう。
早く夏野菜を楽しめる畑になってほしい。
5.女性に圧倒され、心を新たにした
Ⅰ、断機の綴(だんきのつづれ)
森田知都子さんが主宰する“ふろしき研究会”の呼びかけで、川島織物文化館を見学する機会に恵まれた。知範さんと20日の午後に参加して、とても満足感に満たされた心境で帰途に着いた。
この創業1843年来181年間におよぶ歴史や沿革、あるいはその優たる所以を見学と説明を通して丁寧に教わった。西陣織業界を牽引し、京都の文化に多大なる影響を及ぼしてきたであろうことを追認する貴重な一時になった。
1988年から個人的に、私は川島春雄西陣織工業組合の理事長(当時)に、随分お世話になり、学ぶことが多々だった。処女出版本を認めていただき、同業界対象の講演の機会も頂くなど世話になった。それが縁で、その後30年以上続いたアイトワ塾も誕生している。
このような思い出を胸に、見学会への参加を決め、集合時刻より一足早く着いた。おかげで、西陣織業界に対する認識を新たにすることもできた。この業界は、一般的には見事な分業システムによって成り立っている、と認識されている。
だが、「ここは違いそうだ」とすぐに気づかされた。
それは、見学会の他の仲間の到着を、ゆったりしたロビーで待つ間に「立派な教育施設まで構えていたわけだ」と気付かされたからだ。
歓迎の挨拶と見学の心がけの説明の後、「写真撮影はご遠慮ください」との案内があり、ガイド冊子が配られた。三つ折り両面・計32ページに及ぶ冊子だった。一見で、1964年(新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年)に完成した本社工場の見学会でもあったことが理解できた。
ページを繰るようにして冊子を開く。まずものづくりの精神を学んだ。三つ折りを開き切って両面をかざして視た。この日は何を学び得るのかが容易に理解できた。
緞帳を織る広大な一室は圧巻だった。初めて見るモノや知るコトが続いた。織幅24.5mの織機。使用する糸の色数は200~400色。ときには1000色にもなるとか。14人の伝統工芸士を抱えており、こうした施設や資材を使いこなしている。
幅30m、重さ1.8トンの大阪フェスティバルホールの緞帳を織り出した技の紹介。あるいは、日本最古の企業博物館を構え、インテリアショウルームとして活かしたことなど、写真や年表なども活かして説明がなされた。
2代目は洋行し、織物の市場がインテリアー分野でとても大きいことを確信し、果敢な手を打った。
日本が戦時体制にはいった100年前に、宮内省から緞帳の発注があり、その時に生じた2つのエピソードは強く心に残った。
長い時間をかけて、3分の1ほどを織り上げた時点で、青色の糸が早や変色していたことに気付かされた。そうと知った2代目の娘で、三代目の夫人は、ある夜に織場に入り、1人で縦糸を切り裂いてしまった。断機である。もう手の施しようがない。
これを機に、川島織物は、分業という(力のある方が、有利に働きがちな)体制から卒業し、一貫体制に踏み出していた。
自ずと従業員は、一芸に突出するスペシャリストの身に安住せず、ジェネラリスト的な力を目指すことになった。それが今、不況下にある業界にあって、救いの一助になっているようだ。
この日の見学仲間は20人だった。男はわずか3名で、最初から女性に圧倒された。
断機のエピソードに触れ、実行に移した女性・絹子さんの決意に想いを馳せた。私の目には絹子さんが川島織物の中興の祖のように映った。
いわば彼女のこの挙動が、皆の心の整理と覚悟に結び付き、コンセンサス社会であるわが国にあって、新たな決意と団結の源泉になり、今に続く社風の礎になったに違いない、と理解した。要は、女性に圧倒されっぱなしの見学会になった。
Ⅱ、新分野に挑戦
木工家具師の森さんに、わが家の床板の補修に挑みせんか、と声をかけた。想うところがあって、わが家では居宅の改装時に、最も使用頻度が高い居間、広縁、そして寝室には、合板(取り扱いが安易で、見かけが均質な)ではなく、呼吸する素材、無垢のオーク材を用いた。この度は、それが故に生じた問題の解消への挑戦だった。
この素材メーカーは研究不足(当面の見かけをよくするウレタン系の塗料を活かすなど)であったのだろう。関わった建築デザイナーもこの材では経験が不足していたようだ。もちろんこの材を希望した私も、合板に慣らされた世の中だと容認していながら、経年変化への配慮不足を反省した。生きた素材を、呼吸する素材を部分的に取り入れた不用意を恥じた。こうした自業自得との認識の上での挑戦だった。
直射日光と水濡れにめっぽう弱い材であった。もっとも、ひと肌削り取る方式が採用可能な素材だから、元に戻すことは可能らしい。だがそれでは、再び元の木阿弥になることが予測される。そこで、森さんに声をかけたわけだ。
彼は知恵を絞り、ドイツ製の油性塗装剤を選び、その数種の色違いのサンプルを取り寄せて、試してくださった。だが、到底得心できる成果を得られなかった。
そこで私は、その塗料と塗布材を借りて、想うところを実践してみた。部分的に、だが、彼も得心する結果を得た。幸いなことに、彼は挑戦したくなったようだ。もちろんわが家は、妻と計らって、同じ失敗をしでかさずに済ます用い方に挑む。
後日、塗料の明細もそえた見積もりを出してもらえた。この塗料が残れば、私はアフターケアーなどにあってみようと思った。だから、森さんには、その昔の「背比べが付けた柱のキズ」の懐かしさなども例にひき、「挑戦しては…」と、勧めた。
Ⅲ、妻の宝物。
物忘れと感受性には相関関係があるのだろうか。妻は数カ月ほど前から、やたらガラクタに見えそうなものを大事にするようになった。過日、薪風呂を焚いていたかと思えば、そそくさ戻ってきて、一本の薪を差し出し「これが目で・・・」などと、感じたままの解釈を述べた。こうしたことが、やたら増えつつある。
その都度、さまざまな思い出がよみがえった。小学生低学年だった海詩が、薪割をする父の側で見出し、大喜びしたカセドラルもその1つ。私たち夫婦はその後、海詩の再訪を期して、ある細工に挑んだ。
18歳になった彼女は、昨年の今頃に再訪した。鮮明にカセドラルを記憶していた。
だからだろうか、当月最初の来客と語らった折に、私はわが価値観や認識の仕方をキチンと理解してもらいたくなっている。ヒトや本、あるいは土地の評価などを例に引いて説明した。
それは、生きるその時々にではなく、死ぬ時に「これでよかったのだ」と振り返ることができる生き方に35歳ごろから転換した。その折の想いだった。
私はヒトと出くわした時は、その外見にではなく、その外見を成り立たせているそのヒトの心意気や意志、願いや希望、あるいは生い立ちなどに興味が湧くようになった。
書籍でいえば装丁やボリューム感、いわんや人気度よりも、その指し示す方向のユニークさや意外さを期待して選んで、フォローしたくなってしまう。
土地ならば、その資産価値や所有価値よりも、その時空がもたらすパワーのようなもの、安住させる時空か否かなど、使用価値が気になってしまう。
あるいは法律であれば、条文にではなく、そうした条文を生み出させた心意気や由縁など、立法の精神や意義に興味を抱いてしまう。
こうした説明をしたが、何だかスッキリ割り切れないように感じた。だから、今からおもえば「馬鹿か」「おのろけか」などと笑われそうなトンデモナイことをしてしまった。たまたま2度目のお茶を妻が運んできてくれたからだ。
とっさに思い付いた質問を妻に投げかけた。それは、わが家の生き方を過酷と見る人がいるが、私の目には、逆に天国に見えている。その点を妻の反応で追認したくなったからだろう。「1億円と、素敵なマンションをあげるから、このような生活から飛び出しませんか」と誘われたら、受け入れますか、といったような質問だった。即座に首を横に振り、「嫌です」と到底応じられない旨を回答した。
そこで、次の確認をした。もちろんこれは、この相互扶助が基盤の生き方が願えなくなった場合を想定しての質問であった。「君は、私が死んだら、すぐにでも死にたくなるのではないか」と口走った。「いいえ、違います」と、妻はキッパリと、オウム返しのごとくに私の意に反する答えをした。だから、私はむしろ胸をなでおろした。
なにせ妻は私より10歳年下だし、その平均寿命も鑑み、私より15年は長く生を保ちうるように、といつも私は気にかけてきた。だが、そのような心配はご無用、と言ってもらえたかのように感じたからだ。だが、これは早とちりであった。
すぐに「チョッと、先に死にたい」と妻が継いだからだ。
この一言は、もっとありがたかった。積年の願いがかなったかのような気分にされた。3年前は、「この生き方だできるなら」と妻は肯定しながら、相棒は私でなくとも、とうそぶいていた。だから、その後、ある「不安」と「期待」が錯綜するような生き方(『次の生き方 Vol.Ⅱ』で2021年触れた)を私はしていた。
このたびの一言で、この「期待」の方が妥当だった、と分ったような心境にされた。つまり、「あなたと一緒なら、どのようなことがあっても」というのではなく、「このような生き方を貫くかぎり」私でも充分、ということだろう。「オカゲさまで」とホッと出来そう・・・。
ここで、とりわけ妻が尊うとんできた宝物をおもいだした。それは友人のお孫さんからの贈り物であった。この世の中でたった1つの帽子は、お孫さんの心の中ではステキな帽子として日々育っている違いない。その母・妻の友人は、今は鬼籍に入ってしまわれた。
Ⅳ、「真面目」に「不真面目」なことしでかした
先月、相談ごとに応じた老人が、また見えた。既に、私が伝えたいことに気付かれつつあった。「真面目」に「不真面目」なことしでかした人や、しでかしかねない人に悩まされている、ということに気付いておられた。
本来なら、その不真面目であった点を皆で掘り下げて、改善や希望に結びつけるココロとチカラが求められる。そのココロとチカラが、再びコンセンサスを固め直すための源泉だ。だが、それが理解できていない人、それらのココロとチカラに恵まれていない人、を相手にしている、と感じとられ始めておられた。つまり、「真面目」に犯したが故に、認めたくない人が相手だ、と暗にほのめかす発言をされた。
権利を「義務」と言い換えて、巨悪を質したコンセンサスのシンボルを捨て去るのなら、この「義務」には代償として、いかなる「権利」が伴っていたのか、を考えてほしかった。ならば容易に、そのシンボルの保持こそが「権利」であり、掃除はその正当化の一環であったと分かるはずなに、といって悔しがられた。
「義務」と思って返上した相手は、すんなりと、何ら条件をつけずに受け取った。それは、まんまと「権利」を剥奪したと、ほくそ笑まれている査証ではないか、と疑ってほしかった、ともおっしゃった。
「真面目」に「不真面目」なことした人に効く特効薬はありません。その「真面目」な部分に期待をし、待つのが定石との想いを伝え、辞してもらった。
その後、また『虎に翼』で胸がすく思いをした。主人公・トラを言わば法曹の世界に誘った恩師が、良かれと思って安易な道を紹介し、トラの憤慨を買ってしまい、反省した。だが、側で立ちあていった判事(トラにとってもう1人の恩人になりそうな人)は、「いいや、ある意味でまた、背中を押してやれたのではないでしょうか」と呟いたのだから。
Ⅴ、久方ぶりの骨身にしみる学習 破傷風
当月最大の学習機会は、29日(水)の午後、唐突に恵まれた。わが家のユーティリティ小屋で、3つの補修作業に取り組み、2つ目の終盤で、突然生じた。誤ってわが足を傷つけてしまった。
この日はまず、ユーティリティ小屋の側面にある水道の、外部蛇口の回りを改善した。木造の小屋をその水しぶきから守るために、これまではありあわせのプラスチック板で防水して来た。それを、チョッとおしゃれなプラスチック板を買い求め、加工して、取り替えた。
次いで、小屋の裾部の隙間からネコやイタチなどの小動物が忍び込まないようにしてほしい、との妻の要望に応えることにした。ありあわせの10枚余のレンガをかき集め、ディスクグラインダーやカッターなどを取り出してきて、フミちゃんが見えた29日(前日の火曜日は終日の雨だった)に取り掛かった。軟らかいレンガを用いた東面の裾は、難なく出来上がった。
問題は、硬い耐火レンガ(軟らかい方がなかった)を用いた北面で生じた。5枚用いることになった最後の1枚の寸法を縮めている時にグラインダーが跳ねた。その勢いで左足の向う脛の足首近くに刃が食い込んでしまった。
何が生じたのか分からなかった。ズキッと痛み。グラインダーは止まった。念のためにスイッチを切って、グラインダーを外し、刃に絡んでいたクツ下をハサミで切るのがセイゼイで、この場面は写真には納めることはできなかった。この合繊の靴下(と、機械に安全装置がついていたのかも?)のおかげで、足首の切断はまぬがれたようだ。
不思議なことに血はドクドクッとは出ていなかった。ケイタイを取り出し、写真に収めた上で、妻を(庭でフミちゃんと草抜きに当たっていた)次いでフミちゃんをケイタイで呼んだ。共にダメ。大声で叫んだ。幸いなことに声が届いた。
救急車を呼ぼうとする妻に「落ち着いて」と、注意を促し、かかりつけ医(に、と願うクリニック)まで車で運んでもらうことした。道中で、当クリニックは水曜日が定休日だったことを思い出した。「ともかく、市街地に向かって」走れ、と頼んだ。
もちろん「ここで救急車を」という妻とスッタモンダが2度あった。「落ち着いて」とその都度注意し、道すがらに目を光らせた。救急病院の矢印が目にとまった。その道案内は初心者には不十分だった。矢印を、曲がってすぐ、と読んだが、くねくね3度曲がって1kmほどあった。
傷口を見せると救急処置室に案内された。車いすを勧められたが、気が立っていたのだろう。この日は杖も用いずに行動した。幸い外科の急患が他にいなかった。
喫茶店の定休日だから、家を開けっ放しで飛び出した。フミちゃんを迎えた日でヨカッタ。病院に着いたことをフミちゃんに、と試みたが、不ケイタイのようで通じなかった。
麻酔薬を用いた。傷口はレンガの粉だらけのノコギリでえぐっており、簡単には洗えないようだ。痛かった。初めて破傷風の予防接種・ドキソイドを受けた。明日も、傷口点検のために通院を。抗生物質は日に3錠、5日間は必ず飲むこと。痛み止めは痛んだ時に、だった。
帰宅後即、友人(梅田で待ち合わせて社友会に出る約束をしていた)に「決行の判断は明朝までペンディング」と電話で伝えた。痛みが始まったが、過去の学習のおかげで鎮痛剤を控えることができた。夜具が触れにくい部位だったことも幸いし、熟睡できた。
翌早朝、足(心臓疾患後からムクむようになった)はさらにムクんでいた。前日よりはるかに痛い。到底大阪まで行けない、と判断した。
次いで、ケイタイで撮影した写真を点検した。ディスクグラインダーの刃がいびつになっていた。その原因は、耐火レンガの中に固いものが入っていたのかも、との推測したが、今も不明。
それにしても、と思った。心臓疾患後、血をサラサラにする薬・ワーファリンを飲ようになり、3錠にまで増えていた。だが、橋本宙八さん(マクロビアン)の半断食道場に参加し、血にきれいにする努力のおかげで、以降は今も不要。
朝食後、妻が工房に移動した後、痛みを忘れたくて、畑に出た。ゆっくりと座って済ませる作業を「この時に、」とばかりに取り組んだ。 “目の敵”にしている地面にこびりついたような 野草の退治だった。
夕刻、傷口が傷んだ。包帯が汚れていた。えらい剣幕で妻に叱られた。私は「自分のカラダだ。どう使うべきか、と」真剣に考えている旨を訴えた。妻は「自分だけのカラダ」とは思うナ、といったような発言をした。話しが少しズレているように感じた。
傷はキッチリとはついていなかったようだ。
翌日、「明日も」通院を、になった。
3日目も異なる医師だった。物体(カラダ)の治療としてはこれで充分なのだろう。だが、何かが物足りない。
これを機に、後は看取り医になってもらおうとしている医師の手で、と私は決めた。
野小屋は? と見ると、機械などは仕舞ってあり、ほぼ切れていたレンガを割って、妻はネコなどが忍び込めないように仮処置を済ませてあった。そのレンガの中には、硬そうな異物はみあたらなかったらしい。
なぜか私は、予期せぬ事態に陥ったり、考えただけでもぞっとする傷ををしたりした時は、この上なく貴重な体験を、と咄嗟に考えてしまう。おかげで、この度もそのスイッチが入った。反芻しながら分析し、反省し、類似の事態に追い込まれずに、今までは済ませて来た。
だがこの度は、妻の一言「歳をかんがえなさい」が堪えた。とはいえ、1つの心配が半ば解消したように感じている。抗生物質の継続接種は、腸内細菌にも悪影響を及ぼすのではないか、と危惧してきた。それは2日間の観察だが、杞憂であったのかもしれない。
6.その他
1、触れ合い。
小国さんを迎えた6日のこと。愉快な話を中断してまでスナップ写真に納めさせていただいた方があった。長い時間にわたり、喫茶店唯一の一人席に陣取り、読書に耽ける来店客が目にとまっていたからだ。見ると、他にどなたもいらっしゃらない一時だった。
小国さんを見送る時に確めると、既に席は空いており、挨拶できなかった。この一人席は、私の思い付きで2003年に設け、今にある。妻によれば、こうした人が時々いらっしゃるようだ。この席に、私もしばし陣取って、その視界を確かめた。
商社時代の同期生・小林さんから証拠写真が届いた。過日「ならば」と、GRÜNを紹介する機会があった。その後5日に「今、訪ねている」と電話があった。
「偉くなる人は違うなぁ」とおもった。総務部門でのトップの席まで担って、会社が大赤字を抱えた時期があったが、社長と2人でピンチをチャンスに、と悩み抜いたに違いない人だ。それが功を奏して、飛躍の土壌が育まれたもの、と睨んでいる。
10日、橋本ちあきさんから、孫を連れて行くので庭の見学を、と久しぶりに電話があった。事情があって肌着姿での応対になった。
パートの女性が社長になった本屋があった。JALはこのたび客室乗務員だった女性を社長に選んだ。こうした適時適役を認め合い、育て合う社会になってほしい。“すき間バイト”という名のビジネスがあることをこのたび初めて知った。このビジネスを、市場は便利に活かしてはいけない、と願った。しかるべき人が、しかるべき役割を果し合う世の中づくりに貢献してほしい。
3カ月ほど前に、懐かしい人・渡邊愛子さんから久しぶりに問い合わせがあった。わが家の生き方と庭の見学に仲間連れで22日に訪ねて下さった。シッカリした活動に当たっておられる方々だけに、とても楽しい一時になった。
長津勝一親方とは当月、2度触れ合う機会があった。まず16日、第5回「匠」の祭典の記録動画DVDを収めに伺った。
次いで23日、岩手県からお越しのお二人をともない、訪ねくださった。岩手と言えば、学生時代に松島を訪れた後で立ち寄った毛越寺に始まり、その後2度訪れた中尊寺(金色堂)、あるいは宮沢賢治の足跡探訪、それよりも何よりも妻が仲良くしていただいているあんべ光俊さんとの親交など、懐かしい思い出が次々とよみがえった。
アイトワの定休日だった24日、前の道で、竹の落ち葉掃除をしていたら、20分余もこうして庭を眺めて下さる道行く人があった。スナップ写真を無断で撮った上で、書庫前のショーウインドウを開けて、お見せした。女学生のような驚きの声を返していただけた。
この人形は、2008年にあった妻の人形教室展『源氏物語千年紀』展で用いた紫式部で、16年ぶりの再デヴュー。
この日はお向でお務めの福島さんも落ち葉掃除。掃除の位置付けなどを語らった。
2、動物の動き。
ハッピーの新しい専用席。ハッピーは真冬でも目覚めると毛布を小屋から放り出す。妻は屋根に被せて干し、性懲りもなく夕刻に入れる。ハッピーはその夜はその上で寝る。この繰り返しが今も続いている。因果関係が、金太は理解したが、分からないらしい。ある日、干してあった毛布を活かして、ハッピーが鎮座している姿を見た。3月末日のこと。
それが4月末になっても時々繰り返された。
「ならば」と、当月、戸袋を汚されないように、ありあわせのプラスチックを活かした。
今年はやけにカエルが元気だし、多い。チョットした容器に水を張っておくと、翌朝には忍び込んでいる。昨年は大きなヘビを観なかった。だから、かも。
アリジゴクが野小屋の乾燥したところで、たくさん棲み始めた。そこは夜行性の動物の通り道でもあり、糞をよく見かける。アリジゴクは、フンコロガシも餌にするのだろうか。
この度、巣を張らない大型のクモが農業用倉庫で産卵し、卵嚢を守っている。
かつて“クモの子を散らす”を目撃した。それはクモの子のために(?)張られた巣の上での一瞬だった。巣を張らないクモの子の場合、を目撃したい。
ウリハムシを始め、さまざまな甲虫が野菜を襲い始めた。すぐ飛んで逃げるウリハムシのよき退治法を、このたび知り得たわけだが、さまざまな虫(とりわけこの黒い小さい虫)の癖も知りたい。
2年前に、初め見るカメムシの一種にトウガラシが襲われ、大被害を被った。昨年はこのカメムシにジャガイモなども襲われたが、新兵器を作り、徹底的に退治した。
今年は早や、自然生えのゴボウでカメムシを見かけた(5/25)。問題は、これまでのカメムシより小ぶりで細身だ。すべてが交尾中だったが、その多くを専用の捕虫器でとらえ、水死させた。今年は、これら新顔の正体を調べる年にしたい。何かが変だ。
3、水鉢の手入れと、目の敵や心の敵。
昇さんの加勢と、足の負傷による制約のオカゲ(?)で、水鉢や水槽への目配りや、とりわけ“目の敵”の退治がはかどった。
昇さんの加勢のオカゲで、精神的なゆとりと時間的ゆとりに恵まれて、何年振りかで淡水海苔と浮草を取り除き始めた水槽がある。その折に、養分不足の小さなヒシの実が、芽を吹いていたことに気付いた。オカゲで身近な水鉢でヒシを育てる念願がかなった。
3年近く掃除ができず、淡水海苔と浮草がはびこりすぎた水鉢は、掃除にめっぽう時間と手がかかった。
けれど、孵化したばかりのメダカの子を、親元から移して棲ませ、育てる水鉢の用意が出来た。
温室の水槽で、メダカがうまく越冬していたので、掃除だけでなく産卵しやすい水草を加えることもできた。
月末の2日間は、ケガの事情で座り込む作業になった。おのずと、根気を要する作業に打ち込むことなった。主に3種の“目の敵”の退治だった。
この根気にはリハーサルがあった。妻がサンショウの実を摘んだ日の夜は、TV録画で、耳だけそばだてればよい番組を聞きながら、その掃除への参戦だった。
エンドウマメの支柱を解体した折は、蔓を吊るした麻ひもを回収し、夜なべ仕事で再使用に供えた。当初は、買えば100円ほどの麻ひもなのに、といった顔を妻さえした。だが今は、翌年度の蔓をつる所要時間を大幅に短縮させることを知っている。
パラソルを軽い素材で、初めて緑色で新調した。たしかこれは4代目め。
出先で、ビックリしたビジネスがあることを知った。大きな地震のピンポイント予測をして見せる、その的中率は75%、と言わんばかり広告だった。私としては、残る25%が気になった。それを明らかにしてもらい、私なりの判断をさせてほしい。超能力者かもしれないのだから。
阪神淡路大震災では、野生動物が直接命に係わる被害を被った事例を未だに聴かない。自然生えした古木には、淡路島は未調査だが、これも直接倒木など命に係わる被害を被った事例はなかった。
民主主義に反しませんか? ということが目立つ世になった。法令違反を擁護するつもりは毛頭ないが、国の法令より国民を守る姿勢を鮮明にしてほしいことが多すぎる。例えば、耐震性が大問題になった時に、京都では向かい同士のホテルで奇妙なことが生じていた。建設されたばかりのチエーンホテルは、耐震性が新基準(100とすると)以下(例えば80)との理由で(法律違反と攻め立てられ)営業できなかった。向かいの古い方は(基準は60であったとすれば、それを過去に満たしていたので認可済みで)流行って混雑していた。
私が宿泊客なら、新しい方に停まりたい。古い方に停まらせるなら、その旨をつまびらかにして、その分を担保する保険などを工夫させてほしい。法律の何たるかを国民が認識できるようにすべきだ。せめて“法律を守っている”とはその程度のもの(白ではなく、許されるギリギリの黒)との認識を国民に広めてほしい。それを認識させるのが民主主義の根本ではないか。
ここをあいまいにする不真面目は、極右や独裁の温床ではないか。
川島織物文化館見学の帰途、寄り道したいところがあった。そこは“千両が辻(日に日に千両が商いで飛び交った)”からほど近いところだ。、今は更地になっており、新建設工事が始っていた。
元は文化財指定された屋敷があった。文化財だから、勝手な補修はできない。住人には、条例に沿った補修をするに足る財力かがなかった。なにせ京大の支那文学者と呼ばれた教師だったから。半ば朽ちるに任せたような生活をしていた。ついに丸ごと相続する力が尽きたようだ。売るのは勝手だから、売って仲良く財産分与し、つましい生活から解放されたのではないか。藩邸屋敷だけに木造の大きな異様な門があった。いまは、跡形もなかった。売った人も税金さえ払えば、更地にするのは勝手のようだ。
この一件も、皆はそれぞれ真面目であったのだろう。億単位のGDPを高めたのだから。だが何かがおかしい。税収を上げた人はホクホクだろうが、寄ってたかって不真面目なことをしているようにおもわれてならない。その時々で、モノサシがご都合主義に走りがちだ。
わが家の庭では、やっとヒルザキツキミソウ(マツヨイグサ属)が居場所を見つけ、広がり始めた。
念のために、心配なスモモを点検した。花は満開だったが、実はまだ、7個しか見つけられていない。もし瀕死の状態であれば、たくさん実も付けたはずだから、未だ死期ではない査証、と見てよいのではないか。。
囲炉裏場の“緑の天蓋”は、元は燃料やシイタケのホダギに活かすクヌギで成り立っていた。薪の備蓄が充分になり、5年に1度程度のシイタケのホダギ用も他で見通しが立った。これからは食糧問題、甘味料も、といことでクルミ(食糧元)とニセアカシヤ(蜜源)が支え合って新しい“緑の天蓋”を形作れるようにした。だが、ニホンミツバチにはまた逃げられてしまた。
振りかえってみれば、私も真面目に不真面目なことを繰り返していたようだ。