目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 身に染みた説教
2 大丈夫かな、私たち老夫婦は
3 30年計画の願いは叶った
4 自然にはかなわない
5 5件の来訪と1件の訃報
6 その他
幸せや豊かさの“要素と結果”
水無月は足の傷は痛むわ、妻には叱られるわで明けたようなものです。そこに「AKSの生徒さんが・・・」と“喫茶店”から嬉しい内線があったのです。短大時代に立ち上げたクラブ員です。急階段をほうほうの体で降り、2人に「もういいだろう」と言ってハグで迎えました。「記念写真を」と妻に頼むと2人に寄りそってもらえ、「両手に花ですね」と冷やかされる始末。20余年ぶりに娘と再会したような気分でした。
10日は朝一番に「看取り医」にと願う町医者で抜糸。その後、岡田さんを迎える予定がキャンセルになり、真夏日にもなったので、上旬は休養の1日で暮れたようなものです。
この間に、トウモロコシの植え付け。フミちゃんとラッキョを漬ける下拵え。“ホウジャク”を撮影。床の塗装で森さんが2日がかり。昇さんを3度も迎え、畝起こし、ヤーコンの植え付け、あるいはネギの更新作業など。先月29日に駆けつけた病院で、4度目の点検は4人目の医師で失望。そして、初の市街地への外出は8日のことで、杖をついて挑みました。まず陶芸家で友人の村山光生夫妻の個展で旧交を温め、昼は久しぶりに妻と外食。午後は宮沢先生の講演と演奏会の集いで、3階まで満席と知って安堵。帰途はタクシーを拾えず、近くで地下鉄の駅を見掛け、乗ることにして悲喜こもごもの体験を、今年初の真夏日にしたのです。だから残る2日はひたすら読書とPC作業に徹し、養生せざるを得なかったのです。
中旬は全国172地点が真夏日で明け、予定表は昇さんの来訪の他は真っ白。それがヨカッタ。昇さんと遠方の大手HCでの買い物と、イチジクの苗木植え。12日は先月分月記を仕上げ、知範さんに引き継ぎ、くだんの論文第3校を仕上げて発送などとチョッとバタバタ。
13日は午後に、足に激痛。足がパンパンで歩行が困難に。妻にはボロンチョンに叱られ、内心慌てました。夕刻、我流の治療(傷口の消毒、かつて歯科医でもらった抗生物質を服用) 。これでダメなら医者にと覚悟して迎えた土曜日は痛みが治まっており、用心して終日寝て過ごしました。オカゲで日曜日は昇さんに加え土橋母子もお迎えできました。
だが、私は剪定などの立ち仕事に限り、おふたりには堆肥の山に通じる小径と果樹園の草刈りを頼みました。奏太君はマイマイを見つけて、一人で高揚。
その後、追加のトウモロコシと義妹にもらったモロヘイヤの苗の植え付け。トロロイモの蔓の整枝など軽作業。快晴の19日は妻と両親の墓掃除。その後、久しぶりに書斎にこもり“クロス作業”。翌日は期待通りに晴れ、妻が買い物に出た間に私はジャガイモの掘り出しと、夏野菜の虫退治。その後は、急ぎ書斎にこもって妻の帰りを待ち、中旬を無事に締めくくりました。
下旬は雨交じりの夏至の日で明け、予定は昇さんとフミちゃんの他は、商社時代の友人2人(内1人は54年ぶりの再会)の来訪と、月末の母の25回忌の法要のみ。しかし、半ば飛び込みでしたが安堵の歓談がかなった来訪者。雨漏りと時を移さぬ補修。なんとも辛い訃報、あるいは予報が外れて快晴になった日の、昇さんを交えた終日の庭仕事。ヨタヨタでしたが楽しく過ごすことができました。その合間に、サラの満開、イカルの飛来、キュウリ、トウガラシ、そしてトマトの初成りなどのインターバルに恵まれています。
それにしても、破傷風の注射時の医師の忠告と、越冬させたスズムシの件でかけた電話で仁美さんから頂いたお灸の言葉はありがたかった。心臓疾患の折に犯した同じ過ちを繰り返していたわけです。加えて月末に、ヤット妻が言わんとする訴えが理解できて、真面目に不真面目なことしていたことに気付かされ、心に染みる水無月になりました。
~経過詳細~
1.身に染みた説教
水無月も庭の様子は刻々と変わり、庭木や野菜が次々と花をつけ、野草も茂る。ヤーコンやトウモロコシの植え付けなども遅れており、心が急いた。
おのずと当月記も、“予期せぬことや感謝したこと”を綴ることになる。だが、怪我にまつわる妻の苦言が月末に、ヤット心に届き、反省で暮れたような1か月でもあった。だから、良かれと思って真面目に取り組んだことが、不真面目なことをしていたような結果に結びつけたようで、その経過の詳述にもなりそうだ。
先月29日の足の怪我は、飛び込んだ病院での治療の後、日に3度3日間の抗生物質の服用と、痛んだ時の頓服を5日分もらい、「明日、念のために傷口の点検を」になった。抗生物質の服用は翌水無月の初日(土)の昼食後まで、だった。
そこで1日に迎える予定の昇さんに、午後からにしてもらい、ツタンカーメンのエンドウの畝の後を仕立て直し、遅れていたヤーコンの植えつけに当たってもらうことにした。
それまでの私は、怪我の翌日から草抜きでウォーミングアップをと願い、新方式(大きなプラスチックの植木鉢をひっくり返して高めの椅子に見立て、座り込んで細かい草を突き刺してほじくり出す方式)で草抜きに挑んでいましたが、案じていたより楽に作業がはかどることに気付かされ、予期せぬ喜びを味わった。
通院は、念のための翌30日では終らず「明日(金)も」と、異なる医師がおっしゃった。用心されたのだろう。翌金曜日も、また異なる医師が、足の腫れが酷いので「月曜日にも」になった。頓服は3錠しか飲んでおらず、日曜日は工房に下りた妻の目を盗んでトウモロコシの苗を植えられたし、傷口は何かに触れない限り痛まなかった。
もちろん妻の愚痴は「草抜きぐらいは私にでも」とか「私に出来そうなことは」などと厳しく続いた。私の意識は「何の、これしき」だった。
月曜日の病院では外科の医師が大幅に遅刻。整形外科医の代診で「明日も」になった。傷口が塞がっておらず、用心だろう。
とはいえ、この病院と4回も往復することになったが、妻には道順をいちいち私が教えなければならなかった。ふと、かつて妻と新婚当初に交わしたある覚悟を振り返り “日にち薬”に賭けることにした。
翌朝、朝一番に“看取り医”に、と決めた町医者を訪ね、治療の引き継ぎを頼んだ。消毒とガーゼを替えてもらい「ならば10日に抜糸を」となった。この日に分かったことは、この町医者は縫合する外科治療は「針や糸は捨てました」だった。
10日(月)は、看取り医をわけあって恐る恐る訪ねた。2日前に杖を突いて初めて市街地にも出るなどチョッと無理をしており、傷口を広げていたからだ。
もちろん傷口は、我流の消毒と、私にとっては魔法の傷薬 (半世紀以上も前に買い求めた粉薬・ホルムサン)で治療していた。
看取り医は、まず黄色い粉薬に関して質問し、「知らんなぁ」で、意見はなし。少し割いていた傷口は「膿んでいませんから」と、消毒した上で抜糸。そして大型特殊カットバンと進んだ。先生にもあとは「日にち薬」と診てもらえたもの、と判断した。膿んでいるか否かを確かめる検査は、まるでニキビつぶしの要領だったが、声を出さずに済んだ。
この間に、悲喜こもごもの事態が2度生じた。その1つは、宮沢孝幸先生の講演と演奏会でのこと。土橋夫妻と個別に出くわすことで生じた。
まず、後半のパネルディスカッションなどをスキップして、ホールのキップもぎり場まで出たところで、小走りで駆け込んでくる佳代さんと出くわした。手を取り合って喜び合い、中座した事情を話すことも出来た。「偶然とは言え」と、喜んだ。
ホールの前にはタクシーが詰めておらず、「あの大通りまで」と30mほど歩むことにした。それが夫の健一さんと出会わせた。そこに地下鉄の駅があったから「後学のために」と、階段を下りることにした。このホールはいつも、足の弁で躊躇させられていた。
階段を下り切ったところで駆けてくる健一さんと出くわした。過日わざわざ入場券を持参いただいた礼を言えた。問題はその後だった。
プラットホームまで延々と地下道は続き、階段もあった。引き返すにも登りの階段が気になった。トボトボと足を引きずって歩まなければならなかった。
2つ目の悲喜こもごもは3日後だった。昇さんに来てもらえる予定の11日(火)は、全国的に真夏日との予報だった。そこで、冷房が効いた遠方の大手HCに出掛け、買い物の日にした。もろもろの買い物ができた。とはいえ、杖をついて歩き回ったせいか、翌日は右足が張ってしまい、こまごまとした畑仕事にしか当たれなかった。
深刻な問題が生じたのは13日の午後だった。15時過ぎから激痛が始まった。妻は「自分のカラダだと思っているのでしょう」と意味不明のお叱りの言葉を吐き、尿瓶を探し始めたが出てこない。なんとか、トイレは1人で使えたが、なんとも痛かった。
「カラダは舟、私は(その)船頭」との意識の私は、翌朝はホトトギスに起こされた。激痛は続いていた。翌土曜日も「痛みが続いていたら」看取り医の下に駆けつけようと考えながら、昇さんを迎える日曜日に備えて寝て過ごした。
土曜日の朝は痛みがおさまっていた。歯科医でもらったまま飲まずじまいだった抗生物質を2日続けて飲んだのが、ヨカッタのかもと考えたりした。
日曜日から、用心しながらだが、多様で充実した日々を送った。足の傷で言えば、29日の破傷風2度目のワクチン接種時に、看取り医は傷口も点検し、私が我流で張り直したガーゼをめくり「晩酌は、今晩から解禁」。それにしても「腫れていますねぇ」と先生は切り出され、安静が求められた傷であったと忠告された。
帰途の軽4輪の助手席で、過去を振りかえった。まず23日(日)の反省。墓掃除にも出かけていたのに、母屋の玄関前で前日からマツヨイグサが咲き始めていたことに気付いていなかった。17日に、ニンニクが畑で咲きかけていたことや、翌18日にはサラが満開になったこと、あるいは23日に妻がフェイジョアの花を生けことなどは写真に収めていた。
母の25回忌法事の月末は、雨で明けた。寺には早めに駆けつけ、妻は1人で墓に花を生けに行った。この20分ほどの空白時に、スズムシの件で相談の電話を阿部さん宅にかけた。仁美さんが応対。スズムシはこれで「お裾分けした5軒を含め、」6軒すべてが越冬に失敗したと聴いた。話題はすぐに足に移った。看護婦資格がある彼女の忠告はいたく心に響き、気付かされることが多々あった。
墓前の花は、父の場合とは逆で、買った花に庭の花が添えられていた。母好みだ。法事は、とどっこりなく済んだ。母の親族を感謝の念を込めて見送った。
帰途の助手席で、妻の意味不明だった言葉の真意が「足の身にも」なりなさい、であったことを知った。粗末に扱うな。「足が悲鳴をあげている」との忠告だった。そこで合点がいったことがあった。あの二昼夜続いた激痛は、足の警告であったのだろう。
拡張性心筋症で倒れた時を振り返った。肺に水が溜まり、1日違いで、陸で溺れかねないところだった。心臓疾患は、時には肺に水を溜め、時には足をむくませて警鐘を鳴らす。野生動物ならさしずめ、エサ漁りを控えざるを得なくなる。その飢えが、脳に体内薬物を出すようにスイッチを入れ、治癒に向かわせると学んだことを思い出した。
二度あることは三度ある。今度こそはと考えながら、あってほしくないと思ったり、巡り合えるまでこのカラダが・・・などと思案したりした。
足は、ぶつけないようにガーゼでおおって翌月に持ち越すことにした。
2.大丈夫かな、私たち老夫婦は
水無月は、新聞を取りに出た折の朝一番の安堵で明けたようなものだ。2本のスモモの木は共に“花”は満開だったが、“実” は合わせて6つしかなっておらず、しかも古木の方が6つの内の1つに過ぎなかったからだ。それを「枯れたりはしない証」と読み、胸をなでおろした。
朝食時に、スモモの実の数を話題にした。妻は7つと応えた。にもかかわらず、妻が「私が嫁いで来た頃は何百個もなったのに」とつないだものだから、肝心の6つと7つの差異の1つを確かめずじまいになった。
4日、囲炉裏場で剪定クズの整理をした時のこと。側でかなり古い小鳥の巣が宙ぶらりんになっていた。朽ちて落ちかけたようだが、建材のプラスチックが切れなかったわけだ。落ちておれば土に還ることができていたのに、と感じた。
この日の午後のこと。畑で「ホウジャクだ!」とおもって近づき、初めて間近からカメラに収めることができたガがある。キュウリにかけた遮光布に停まっていた。
後刻、調べてビックリ仰天。シタベニセスジスズメと知り得たからだ。スズメガ科ホウジャク亜科で、生息域は主にアフリカ、南アジア、オーストラリアとあった。 日本では沖縄県や南西諸島など暖かい地域で、という。
その昔、初めてオニメンスズメガの幼虫を見つけた時を振り返った。大きくて異様な色柄だった。たったの1匹だったが「これまでは南九州のあたりまで・・・」と教えてくださる人が居合わせた。その写真を探したが、見当たらない。
探し出せた一番古い写真は2008年9月8日の夕刻の分。これはナスの木に少なくとも2匹はいたわけだから、最初の分ではない。多分、その日は冬野菜用の畝に仕立て直していたのだろう。
最初の1匹を、この何年か前に見掛けていたものだから、「また見つけた」との想いで温室にナスの木ごと取り込んだに違いない。そのごのこともすっかり失念している。
オニメンスズメガに関する記憶をたどった。次の記録は「セミ?!?」と見まがった成虫を凝視し、その形相から「これぞ、オニメンスズメガ」と判断している。
チョッと触れた時にジッジッと声を出して飛び去った。ガやチョウは鳴き声を出さないものと思い込んでいたのでギョウテンした。だが同じ時(2016年9月18日)に撮った写真が他に2枚ある。手で摘まみ、移動させたことになりそうだ。ならば記憶と異なる。
確かなことは昨年のことだ。まずナスビの畝で、毎日のごとくに幼虫を見つけ、次々と土に埋め込んで退治した。ナスの葉が食い尽くされそうな勢いだった。このナスで最後に見つけた一匹は、「もういない」と思って実を握った時に触った1匹だった。ナスの実に喰いついていた。手を即座に振り払った。
これで「すべて退治した」と思う間もなく、この畝の側で育つノーゼンカズラで見つけ、次々と捉え、ことごとく水葬にした。9月中旬のこと。
その後、10mほど離れたところで育つダチュラ(エンジェルストランペット)でも見かけており、退治した。「他にも」と注意していたが、その後は見かけていない。
だが庭では、成虫を幾匹か見かけており、退治を兼ねて捕え、雌雄と見た2頭を、ナフタリンで保存した。
今年は、ナスは未だ成育はかんばしくないが、ノーゼンカズラとダチュラは順調に育っている。怠りなく観察し、文字での記録も添えたい。
14日、早朝 (4:20)のこと。ホトトギスのさえずりで目が覚めた。ふと、病み上がりの父を畑に案内した日のことがよみがえった。父は「テッペンハゲタカ」と聴きとって、禿始めた頭を気にしていた。私は小学6年生だったから、父は50過であった
後年、多くの人はこの鳴き声を「トッキョキョカキョク(特許許可局)」と聴きとることを知った。
次いで18日の昼間のこと。母屋の玄関で「キレイ!」と思ってカメラに収めた小さな ガ がいた。撮り終えてから「どうしてキレイとおもったのか」と、気になった。
その後、しばしば庭で見かけるようになり、過去の記録も振り返った。このガの名称は“カノコガ”だった。
19日のこと。スモモの実を「ゼ~ンブヒヨに盗られた」と、叫ぶ事態が生じた。妻は後刻確かめたようで「1つ残っています」と教えた。「1つで充分だ」とばかりに即座に行動に移し、教えてもらったその1個に、即製の目隠しをほどこした。
22日、ユーティリティ小屋の側で、ついにカノコガの交尾を見かけた。今年は異常発生したようだ。その後、29日にも交尾中を見ている。
昇さんに草刈りの要領を伝授中だった。珍しいキノコが目にとまり「キヌガサタケだ」と叫んでおり、関心はこのキノコに移ってしまった。
久しぶりのキヌガサタケだった。かつては食材とし収穫し、乾燥させようとした時期さえあった。
その証拠を昇さんに見てもいたくなった。おかげで今はなき親友の写真と再会、「この人だ」と手を留めた。
合併したある大手商社でただ一人、合併された側から生え抜き重役に選ばれた伊藤淳平さんだった。大声で話す。真理や事実を尊ぶ。先入観を抱かず、競わない。決してねたまない。弱いものをいたわり、卑劣には屈しない人だった。
この日、やすむ前にカノコガの生態をここらで調べてみようか、と思った。なぜか、この時に「あれも、ホウジャクではなかったか」と幾頭かのガも思い出し、記録を繰った。
ならば「きっとあれも・・・」と「これでも飛べるのか」との分類名をつけた2019年3月12日の1頭を探しだした。
その後のこと。「やはり! 食べられてしまいました」と午後のお茶の準備で人形工房から居間に戻って来た妻が残念がった。居間の縁先から見える“袋をかけたスモモ”を確かめた。残っていた。
「そういえば・・・」妻は、私より1つ多くスモモを見つけていた。その1個がヒヨに盗られたのだろう。あの後、幾度か気にしていながら、その1個を確かめていなかった。
2日後のこと。広縁の窓先にスモモが落ちていた。半ば小鳥についばまれていた。
さらに2日後のこと。当月記に「あの写真も・・・」載せたいと、駆けつけたが、なくなっていた。ネコやイタチは食べそうにない。カラスは、サンショの木なども茂っており、飛び降りたことがない。小鳥なら、側に種が残っているはずだが、なかった。
3.30年計画の願いは叶った
中庭の一角が、やっと妻好みの風情を示し始めた。中旬のこと。ハクモクレンやサラの苗木を植えて数年目の、ある出来事を思い出した。
あるTV取材班が、世の中では「出来上がったモノを見て、欲しくなりがち」だが、「ここは、欲しくなりそうなものを、一から生み出してきた」といったような言葉で、その過程と現状を収録したい、と申し入れて下さった。四半世紀以上も前のこと。
言われてみればこの庭も、小学1年生の時の夢だった。最初の友だちが庭守の息子で、遊びに行って「かくれんぼができる庭」が欲しくなった。その後、30年がかりで取り組んだ一角がある。想えばこれも加齢対策だった。
ここは元、除草の手間を省くために円卓状の植え込みを10年がかりで(まず小さな苗木を植えることから始めて)完成させ、その植え込み部分の除草の手間を省いた。
だが、短大勤めが始まり、残る部分の草刈りや落ち葉掃除がおっくうになった。電動ブロワーを手に入れており、一帯を木陰にして、と考えた。
ならば、と妻が「苔庭にして白い花が落ちた光景を」と希望した。佛教大生の社会福祉部員の有志と相談し、手を借りることになった。
この計画に投じたのは、3本の苗木代 、計数千円。学生と私の延べ10数時間の勤労。そして同程度の私の学生に対するレクチャーだった。それらが四半世紀の時を得て、苔が勝手に芽生えて張り詰め、妻と2人で瞼に描いた“設計図”が“形”になった。
もちろん今も、毎日のように10分ほど割いて、落花拾いと野草抜きが続いている。今年は幸いなことに、拾った種房や落花はバケツに溜めておけば、昇さんに堆肥の山まで運んで積んでもらえる。学生にこうした生き方を選んでもらいたい。
4.自然にはかなわない
自慢げに妻がカエデの葉と種を拾って来て、食卓を飾った。後刻、キヌガサタケが久しぶりに出ていた(8:19)ことを知る日の朝だった。
竹薮ではないところで出たキヌガサタケは、まだ裸だった。
その後の経過は、破傷風2度目のワクチン接種で外出し、知りえなかった。1人草刈りに当たった昇さんは、白いレースのドレスで身をくるんだ姿を見てケイタイに納めた(9:51)。次いで10:00にも撮影し、上気して私を迎えた。
このたび、ドレスをまとう所要時間は2時間弱、と初めて知った。奏太君がいたら、もっと他にも、知り得たことがあったに違いない。
キヌガサタケのこの庭での記録を手繰った。2004年から記録が残り、08年にかけて調理に活かしたくなるほど発生した。その後は2013年と14年に各1本収録していた。
それらの生える時期は6月下旬から7月上旬の間だが、1度だけ11月21日に観察している。そしてこのたび10年ぶりに出た。
来月は10日ごろまで丁寧に観察したい。あと10年ほど生きられるものなら観察を怠らず、周期性があるのかどうかを実感したい。
庭木では、なぜ今頃まで、と首を傾げた木がある。純白の花をつける自然生えのムクゲとおもっていた木だが、このたび初めて“オシベが変形した八重の花”をつける木かも、と気づかされた。
そこでこの目で確かめてみた。その多くは八重ではなかった。だから、常照皇寺で視た“御車返しの桜”を思い出した。
それにしても、と思った。かつて“底赤で変形八重咲”の、これも自然生えのムクゲがあった。2017年までは花をつけた写真が残っている。その後、忽然と枯れた。挿し木でもして増やしておくべきであった。“残念至極のムクゲ”であった。
野草でも、考え込まされることがあった。ハッピーの散歩から帰った妻が「道中で摘んだの」といって、ピンクがかったシオン?!? を生けた。庭でブルーのシオンは見慣れているが、ピンクは初めてだった。「きれいでしょう」と妻は胸を張った。
妻が胸を張った訳はすぐに分かった。私が“目の敵”にして、庭の一部を除き、絶やそうとしてきたありふれた野草、白い花が普通のヒメジオンであったからだ。
かつてナズナを目の敵にした経験を振り返った。努力の甲斐あって、ある年忽然と庭から消えさった。だが、ナズナは春の七草だから、毎年少しは生えてほしい。そこで復元作戦を試みたが、今もその安定した収穫が望める庭にはなっていない。
だからヒメジオンも、駆除の手を緩めれば2~3年で、毎年少しは咲いた「あのピンク色のヒメジオン」も、とおもった。
ヒメジオンを母はビンボウグサ(貧乏草)と呼んだ。かつての居宅のお隣に一人息子がいた。失業保険の受給資格ができると半年間寝て暮らした。その母親は青白い顔で、毎日のように、草ぼうぼうの庭でヒメジオンの新芽を摘んで、病床の夫の世話もしていた。
この思い出を断ちたくて、私はヒメジオンを目の敵にした。学業は優秀だったらしいが、子どもの私にも世の中をすねたりねたんだりして見せ、自ら失業者になっていた。
恒例の食材でも今年は残念なことが生じそうだ。自然生えに頼って来たトウガンの収穫が望めそうにない。その芽は未だに出ていない。
動物界でも多々御しがたい事態が生じた。先月のヨコヅナサシガメ(?)に加えて、今月はシタベニセスジスズメを発見した。驚くべき跳躍力を持つ正体不明の白い小さな虫にも驚かされた。その名はもとよりその食性さえ分かっていない。
1つ大きな成果もあった。自然生えのエゴマを抜いて、マルチングを兼ねた置き肥に活かそうとした。その葉の裏に食害虫・テントウムシダマシと思われる幼虫をみつけた。退治は簡単至極。エゴマがなければ何にたかるか興味津々。
当月は、脚が不自由だから動きが緩慢になり、それが観察力を高め、予期せぬ発見もあった。自然にはかなわない、の追認だった。
5.5件の来訪と1件の訃報
水無月は、シチダンカが庭で満開になり、フウランもピンクがかった方が咲き始めることで明けたような1か月でもあった。同時に、足を傷めた都合もあって、新たな約束は避けざるをえなかったが、次々と来訪者に恵まれた1カ月でもあった。
シチダンカは、日本原種のアジサイだと伺って、苗木を頂いた。シーボルトが「日本植物誌」に採録しているが、その後は見かけられなくなっていたが、1959年に六甲山系で再発見された。
来訪者は、1日午前中の教え子に始まった。思わずハグで迎えてしまった。歳をとるということもいいものだ、とありがたく思った。
この二人を交えた当時の写真が残っていた。第何期生かのクラブ員だった。一期生がA (明日の) K(環境を) S (探る)クラブと名付けた部では、蛍の養殖もした。その活動の一環で、羽化後には近隣住民にも呼びかけて、毎年大勢に集ってもらえた。
今年は、知範さんが体験した乱舞するホタルの写真を見ていたから、このクラブの活動をありありと思い出した。
その昔は、わが家にもヘイケボタルがお目見えした。妻も眺めている。下手が水田だった頃は、夜は自転車では走れなかった。ホタルが顔にぶつかり眼にあたった。とりわけ1958年の思い出が懐かしい。
私は厳しい教師だった。夏休みを減らしてまで、年間30回の授業(25~6回で済ませていた学校が多かった)を強いたり、1秒の遅刻も許さない約束を交わしたりした。にもかかわらす、「楽しかった」と言ってもらえた。
5日、佐久間憲一さんが散策途上で立ち寄ってくださった。見送った後で、私たち2人の共通点に想いを馳せた。佐久間さんは憧れの出版社に就職しながら、予期せぬ仕事、写真週刊誌の黎明に関わり、今は自ら立ち上げた出版社の経営者。私は商社の何たるかをよく知らずに入社し、予期せぬ仕事、ゴルフウェアの普及に関わり、今は自由の身になっている。互いに期せずして時代を画する仕事に携わらされ、おかげで1次情報を大事にして自己リスクに耐える質にされたのだろう。
幼くして私は結核菌・当時の死の病に襲われた。一期一会の心境に触れた。佐久間さんは1枚の写真でヒトサマの人生さえ切り取りかねない仕事をあてがわれた。だからこのような本を、私はこれらに惹かれ、などと考えもした。
ハクモクレンの種房がポトリ、ポトリと落ちる日々が、次いでサラがポトポト落ち始める時期へと続いた。
16日、昇さんに加えて、土橋母子にも急遽駆けつけてもらえた。昇さんと佳代さんには果樹園の草刈りなどに当たってもらった。
私は、激痛は癒えていたが、剪定などの立ち仕事に限った。
この間の奏太君は、2種のマイマイを見つけて熱中した。マイマイは彼がいじくっても角も引っ込めずに動き回った。「連れて帰って」もよい、と帰りがけにそっと告げたが、「会いたいときはまた来る」と言って、見つけたところに戻した。
中庭では、日に何度も妻が「願っていた通りよ」と呟き始めた。何度聞いても、決して「先ほども聴いた」とは言わず、「ヨカッタね」と応じた。4半世紀ほど前に妻の願いもあって30年計画で模様替えに手を着けた一角だ。
とはいえ、日に幾度も妻が通るところにハクモクレンの種房やサラの花が落ちると、毎日のように拾わないとまずい。さもないと踏まれて幾つにも割れたり、散らかったりしてしまう。
20日、書斎でクロス遊び(様々な情報を、キーワードなどの要因ごとに繋ぎ合わせて関連づける)に興じていたらケイタイが鳴った。京都に出向くが「明日立ち寄って」もよいか。この人の前回の来訪はコロナ騒動末期だった。だから、詫びたいことがあった。
翌日、時間通りに迎えた。前回は、北欧に出かけて(規定通りにワクチンを打ち)無事に再入国して間なしだった。なぜかコロナが発症し、母屋での自宅謹慎が始まった。だが、この人ならと勝手に判断し、私なりの万全を期して、唯一の面談者になっていただいた。もちろんぎこちなかったに違いない。
「あれが、私には正解でした」と、あるエピソードまでそえて伺い、胸をなでおろした。だから、京都コンサートホールに訪ねた8日の催しを振り返った。コロナ騒動渦中に、冷水を浴びせるような論陣を張り、学会などで異端視されたような学者の講演と演奏の会だった。1833席の会場は、3階まで満席だった。
22日の朝にも、土橋佳代さんが奏太君と一緒に「何か手伝いましょうか」と訪ねて下さった。喫茶店が夏休みに入っていた妻が迎えた。話は弾み、奏太君同伴でよければ喫茶店の繁忙時に助太刀も、になったようだ。私がゲストルームに駆けつけた時は、活発な奏太君が水槽の側に坐り込み、私が遮るまで念願の写生に没頭していた。
このありようは母親譲り、とみた。
彼なら、この庭で1人にされても何時間でも、もてあますことなく過ごし、自然に溶け込み、この時空にも歓迎されるに違いない。
この日は昼前から、商社時代の友人を迎える日だった。その1人、小林信生さんとは54年ぶりの再会だと知った。もう1人の土橋隆男さんは、この再会のキッカケをつくった人で、共通の友人だった。
小林さんにとって、最初の海外赴任地はNYだった。その郊外の居宅で最初に招いた客が「キミだった」と教えられた。彼はその後も、会社の出納にも関わるスタッフとして最良の道を歩み、常務取締役にまで押し上げられ、途方もない赤字を抱えた時代の会社で、その責務をみごとに果たしている。
この日の3人はある“共通の同期生”高橋さんも話題にした。夫人に先立たれ、施設の人になっていたが、営業部門で精いっぱいの責務を果たし、専務取締役になりながら病魔でたおれ、身を引いた。「会いたいなぁ」と3人は語り合った。
小林さんは、彼我の文化の差異を目の当たりする機会を私に与えてくれた人だ。工業文明にさいなまれた国の民はいかに成熟度を高めればよいのか、に気付かせてもらえた。
小林さんには手土産に同期生”の一書を添えてもらえた。“社長の役目を果たした後、中国大使まで勤めることになるこの人と小林さんだから、あのような大胆な策を、緻密に連携し、果たせたに違いない、との共感で胸が弾んだ。
この2日後のこと、訃報が届いた。3人が話題に選び、再会を期待した共通の友人の逝去であった。あれはムシノシラセでは、とおもいながら冥福を祈った。
25日にも、急遽迎え入れた人があった。くだんの論文に関して、最早交信ではラチガあかないタイミングと見て訪ねて下さった。私の一文は、唯一の異色の内容ゆえに、編集上での“思いあまってのご親切”とみてお迎えした。
半世紀前は、荒唐無稽、時代に逆行、あるいはほら吹き、などと揶揄された考え方や生き方の実践と結果、その成功要因の詳述である。この役目なら私でも引き受けうると見て取り組んだが今も「自慢話、と受け止められかねない」と忠告された。
言葉は同じでも、実践し始めた当初の決意も「自慢話を聞かされた」との評価にもさらされされた。これとは意味するところが正反対のように思われた。何故なら、私が為したことではなく、いわば不運と覚悟が為させたことであるからだ。
私の場合の不運は、結核菌に冒されたことで、だから母に習った昔風の農法での自活を覚悟した。今はすべての人が不運?な時代の流れ(宇宙船地球号が危ない)に直面しており、いずれは追い立てられことを先んじては、との覚悟を勧めるいわば虎の巻である。
6.その他
1、ある覚醒。森林環境税の説明も含む“本年度の課税のあらまし”が京都市から届いた。幾つかの想いや、思い出が錯綜した。
54年前のある日、戸建て住居が点在するNY郊外の居宅に、小林信生さんに招いてもらった時のある一件が思い出された。お宅に着いた時に、隣人がニコニコしながら近づいてきて、礼を述べながら現金を差し出した。小林さんは留守をしていた隣人のために立て替え払いをしていた。
問題は、なぜその代金を、隣人が礼まで言って支払うのか、理解に苦しんだことだ。小林さんが住まう家の庭には巨木があった。その落葉が隣人の庭にも積もった。その落ち葉も一緒に小林さんは業者に掃除をさせ、隣人の屋敷に落ちた分を立て替えていた。
庭木に恵まれたその地域では、隣家の樹木が落した落ち葉であれ、自分が住まう敷地の清掃義務は住人にあり、清掃を怠れば条例違反になった。これぞ工業文明人に求められる意識の転換だとの直感が心に走った。こうした問題の是非は、アメリカでは仲の良い隣人同士であれ疑義をのこさず晴れるまで裁判などで質すらしい。そうした納得の積み重ねが人々の認識を新たにする(チェンジマインドの)機会を増やし、信頼関係を強めるようだった。その後、この考え方が欧州でも当たり前であったことを知る機会が増えた。
その後、ブラジルが熱帯雨林を大々的に切り拓き、農場や牧場経営で収入増を求め始めた。これを森林破壊だとみて国際的な非難の声があがった。その時に、ならば酸素供給代金なりを支払え、との考え方が明らかにされ、非難の声は萎んだ。
小林さんの手土産の1つは同期生の一著だったが、かねてから彼の著作を通してその覚悟を知っていただけに感激した。小林さんとはキット同好の士であったのだろう。
人生最後の給与所得者の職を大垣市で得た折のエピソードも振り返った。大垣市には“保護樹”の規定があった。太さ、高さ、株立ちかなどの細則があったが、これらに値する木が庭にある家庭には補助金が支払われた。大垣市民はこのたびの森林環境税導入に接し、同市の“保護樹”の規定に先見性を見出し、誇らしげに感じたことだろう。環境面でのお役を私も多々頂いたが、改めて誇らしげな気持ちにさせていただけた。
2、骨壺をつくってもらった陶芸家。建築廃材とこのご夫妻のお宅の庭の土から生まれる焼きものと、陶芸家になるまでの人生のありように惹かれて、かつて骨壺を用意してもらった村山光生夫妻と旧交を温めた。
3、ラッキョの下拵え。年期物の“小さくなったラッキョ”を、畝づくりの都合で掘り出した。フミちゃんが「高級品よ」といって粗掃除。私が仕上げの掃除。妻が漬けた。
4、高橋宣博さんを偲ぶ。親友が鬼籍に入った。彼は社会人1年生の時に、生まれて初めて飛行機に乗る機会を私に与えてくれた。この機上からの視線や視界は、鳥瞰だけでなく望遠レンズで、あるいは心の目であらゆる事象を見なおす必要がある、との意識にさせた。その意識で毎夜のように独身寮で、青臭い意見を戦わせた。彼は、蒸気機関車の運転手だった厳格な父をとても尊敬していた。
5、床の塗装。床板は張替が大変だからといって、ちょっと無理してカシの無垢材を選んだ。失敗だった。塗装が当面の見掛け供するウレタン系であったに違いない。日焼けと水濡れに弱く、裏目に出た。その補修は容易ではない。森さんに苦労を掛けながら、宿題が残った。
6、イチジクの防鳥ネット。確実にカラスや小鳥の餌食になりかねない樹形の木に、実が今年はたくさんついた。昇さんならではのカラス除けの防鳥ネット、スカートのように底がないネットを被せてもらえた。無事に稔り、収穫できることを願った。
7、イチジクの木の更新。背丈が低く、収穫容易な木に育て直すために、まず苗木を1本を買って果樹園に植えた。元はお茶に木が数本育っていたあとを活かそうとしている。別途、取り木や挿し木で、苗木づくりもしている。
8、ネギはヒコバエから。昨シーズンは、ネギ苗を買ってたくさん育て、使い残した。今期のネギは、そのヒコバエをとり、2通りに活かしたネギの年にする。上部を切り取って、後半期用に大きく育てる畝。上部を残したまま植え付けて、根付き次第使い始める畝の二通り。切り取った上部は冷蔵庫で保存し、主に薬味用に活かした。
9、ハッピーの香取線香。ハピーの育て方では、再考を迫られた。妻はこれまで夏は小屋に蚊取り線香をくすべてきた。その是非の問題だ。フィラリヤの予防注射などは賛成だが、蚊取り線香をくすべる努力には疑問符?が付いた。
このたび、犬用の蚊除け製品を見掛けて2つも買い求め、用いた。ハッピーは雨の日や夜は小屋の中など5カ所を使い分ける。そこで、この5カ所、気温など天候、並びに化学的蚊除け製品をさまざまな組み合わせをして実験した。ハッピーはカを大して気にしていないことが分った。
10、ジャガイモづくし。春植えの分を、快晴が2日続きの2日目に掘り出した。即蒸してまず食した。蒸しジャガを久しぶりに食べた妻は「美味しい」と目を丸くして、夕食でも活かした。ちなみに、ワケギの球根やアイトワ菜の種などの収穫もした。
11、夏野菜の初収穫。キュウリから始まったが、まともな形は4本目からになった。総菜の1皿に最初に活かせたのは伏見トウガラシ。そしてトマトに続き、備蓄のジャガイモやタマネギとコーディネート。フェンエルガ咲き出した。ナスは水無月には間に合わず、インゲンマメは花が咲く前に月が替わった。
12、トロロイモ。昨年度は、葉をブンブンに襲われ、成育が望めない、と見て掘り出さなかった。それが種イモとなり、今年は勢いよく育っている。問題はカラス除けのテグスに蔓が絡みつくこと。2日も放っておくと、絡んだ蔓を解いて下ろすのが一苦労。
13、トウモロコシ。原種かも、とみた粘度の高いトウモロコシの種を、阿部さんのお宅を訪ねた折に頂いた。2か所でこの小さな実がたくさんつく品種を育て始めた。だが、誠実なフミちゃんが畑の除草の日に、“真面目に不真面目なこと”をしてしまった。「この畝では・・・」と、トウモロコシの苗を指さして「これだけ残してあとはすべて抜き去る」と、頼んだ。見送った後で気づいたことは「指さした分だけ抜いてあった。
この原因は同病故にすぐにピンときた。この対策はフミちゃんと文月最初の来訪時に相談する。案ずることはない、第1次分が順調に育っている。
14、想いの接着剤。土橋さんに想いを馳せた。彼はフランス発祥の“地中海クラブ”のジャパン展開の一端に触れる機会を私にくれた。外部とのあらゆる交信、ラジオ、新聞、電話などをすべて遮断し、長期滞在する広大とはいえ閉鎖型のレジャー施設の展開だった。
彼に親しくしてもらえたおかげで、小林さんとの再会も果たせたし、病魔に倒れた後の高橋さんはいつも土橋さんに付き添ってもらって訪ねていた。
今ころ気づいたことだが、人の“想い”を大事にする彼は、似た想いを惹きつけ合う磁石のごとき、でもあったわけだ。
15、目的と手段。「北風と太陽」で言えば、私も太陽を大事にする人に憧れてしまう。このたび小林さんがくれた手土産、同期生の書籍に触れ、とても悔しい思いがした。勤務地や部門が異なり、ついに言葉を交わす機会がなかったからだ。かねてからその著作を通して彼の問題意識や覚悟のほどを知り、心惹かれていたから、なおさらだった。こうした人が伸び伸びと働ける会社だから、多くの就職を控えた若者を引き付けているのかもしれない。
16、かくして水無月は過ぎ去る。庭ではノカンゾウが咲き、初めて見るカメムシと出くわした。たった1つの小さなヒシの実が幾本もの芽を吹き、水鉢を飾りつつある。妻は中庭でクリスマスローズの花壇の手入れを、一人で済ませた。加齢や怪我が重なって願ったようには動けなかった。昇さん、フミちゃん、あるいは土橋ファミリーなどの助成、そして老いた妻の頑張りに恵まれていなかったら、この庭はお化け屋敷になっていたに違いない。相互扶助は幸せや豊かさの源泉ではなく、相互扶助が幸せや豊かさなのだと、追認させられた30日でもあったことになる。