目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 行く末を推し量った夏、自然の摂理にゆだねた
2 ユーティリティー小屋が3方の心意気でよみがえった
3 広縁、玄関周り、ハクモクレンなどでの加齢対策
4 好ましき循環型社会の形成は24時間監視員が決め手
5 日本が真に豊かで幸せな国であることを
6 その他
自然の摂理と24時間監視員
雨で明けた文月。朝、クモの巣が居間の掃き出し窓の全面を覆うようにして張っており、「おとなしくしておれ」とクモに諭されたような気分にされました。約束事はフミちゃんや昇さんなど常連の他は、3日の外出をはじめ7件だし、20日までアイトワは夏休みでした。
まず小雨になった朝食後に、1つだけ残っていたスモモを採って、妻と分けて賞味。午後、玄関前の水鉢にヘビが侵入し、妻の悲鳴で初日は暮れたようなものです。
その後、新たにお迎えすることになった方々に、とりわけ長津勝一親方のお越しは陣中見舞いのようにも感じられ、とても感謝しました。それぞれ元気を頂き、夏休み中に終えたかった案件が多々(力仕事や動きまわる作業は昇さんに、根気がいる除草などはフミちゃんと妻に頼るなどして)片付きました。また、前の通り (水道工事で荒れていた) の再舗装は、20日の未明までに仕上げてもらえ、21日から無事に喫茶店の再会を果たせたわけです。
この間の7つのトピックスは、3日の“野菜の水耕栽培”と“魚の養殖”を循環させるビジネス(5月にTV報道で知った)の見学。8日の長津親方の傷病見舞い。秦碩堂さんの来訪。第60回いのちの科学フォーラム(市民講座)に参加。2027年国際園芸博覧会のイベントリーダーがご案内で、素敵なフラワーアーティストを迎えての歓談。15日から2泊3日で、私たち老夫婦の助成にと、茨城県から駆けつけていただけたお2人。そして20日にNPO 京都エネルギー・環境研究協会の年次総会に参加でした。
これらに加えて、幾つもの成果や心を打たれたニュースにも恵まれています。成果の第1は、“ユーティリティー小屋”の補修(足の怪我に雪辱)を、昇さんと茨城からのお2人の助成で果たせたこと。このお2人は“方丈”の濡れ縁の塗装もしてくださった。フミちゃんと妻が当たった大がかりな除草。第2次のフジの剪定。昇さんと当たった喫茶店に至るアプローチ沿いの庭木の剪定。喫茶店のスツール椅子、案内板、そして農作業用靴の補修。ヘビ出現での妻の悲鳴と、義妹にもらったメダカが契機となり、玄関周りの水鉢群の模様替え。第2次のジャガイモ(これまでは秋育てだった)の掘り出し。冬野菜の種の整理。そして剪定くずの山を、また囲炉裏場に作ってしまったことです。
心に響いたことは、長津親方の8日の説教に加え、計4件ありました。朝日新聞が試みた“強制不妊”最高裁判決の報道様式(4日朝刊)。いのちの科学フォーラムで学んだ“自己免疫疾患”の実体と今後を見据えた注意喚起。そして、くだんのSDGs関係の叢書(10数名が関わった編著書)がやっと脱稿段階に至り、その念校検討のありようでした。
下旬は、梅雨明けの37度の1日から始まり、翌大暑の日は38度。その後月末まで、24日の雨を除き酷暑(京都が39度で全国最高が2度も)が続きました。この間の事前の決まりごとは病院での最後の定期検診のみ。
トピックスはこの検診と、21日の昇さんとジャッキで仕上げたユーティリティー小屋の補正。そして「今、長男と京都」との電話と1時間後の小木曽さんの来訪など9件でした。
義妹が外科的養生で1か月間欠けることになり、喫茶店のやりくり策の確定。加齢対策を兼ねた広縁の模様替え。「『匠』の祭典」関連の2件(長津親方と多田さんを迎え、第6回用パンフレットの打ち合わせ。翌日の池田望さんの来訪を機に、下村知範さんを含む私たち3人の出来ることを検討)。そして30日の未明(2:30~4:00)に生じた予期せぬ騒動でした。
これらに、庭で多々プチドラマ(ブルーベリーの収穫が始まる。トウガンらしきウリ科植物が、ついに芽生えた。そして3年来のカメムシのしぶとさを実感など)に恵まれたことです。
~経過詳細~
1.行く末をおしはかった夏、自然の摂理にゆだねた
パリオリンピックでもかまびすしい文月であったが、「正」という字を「一に止める」と解したく想っている私にとっては、この1か月はとても有意義に感じられた。わが国では、大阪万博開催の準備が追い込み中であった。オリンピックはギリシャの古代文明が発祥だし、万博はイギリスの近代文明が発祥だ。古代文明はことごとく消滅し、オリンピックも途絶えた。だが、近代文明が興り、やがてオリンピックを復興させた。その工業文明は今、土台が揺れている。
問題は、目に見える木材とか家畜や奴隷などに依存していた古代の農業文明と違って、工業文明は目に見えにくいものに依存していることだ。パラダイムの転換に遅れかねない恐れが大いにある。
いつしか私は、かつての遅寝早起き変じて、早寝早起きにかわっていた。それは近年、夕食後に食卓で(TVの録画などを観ながらの)ウトウトが増えてしまい、「いっそのこと寝床に、」と追いやられることが多くなっていたためだ。
平均5時間ほどの睡眠ですむ私は、いつしか4時頃に目覚め、日の出を待ちながら、PC作業、朝刊の斜め読み、あるいは読書などで過ごすようになっていた。
1日は雨で明け、日が昇った頃に雨脚を確かめようと居間のカーテンを引いた。クモが軒下で巣を、掃き出し窓を覆うかのようにして張っていた。2種の糸(粘着性の細い糸と、太くてひっつかない糸)を見事に使い分けていた。なぜかクモに、自重の1か月にするようにと、諭されて様な気分にされた。だから2昼夜をかけて撮影を試みたが、うまく撮れなかった。
長引く足のむくみが気になった。早く湯船にドップリ浸かりたいもの、と願いつつ天水(太陽光温水器の湯)での行水が続きそう、と感じた。
文月の庭は、ガクアジサイで明け、ノーゼンカヅラの最後の1輪(7/5)に続き、やがてインゲンマメや昼顔の満開期を経て、スイレンの開花(7/10)へと続いた。
この間の2日、前日来の雨が小降りになったのを見計らい、スモモの実を(雨が実を割ってしまうことがあるので)採った。妻と半分こして賞味。甘酸っぱくて至極満足。
なぜか私には、1個と100個の差は99個に過ぎ合いが、何事につけ0と1の差は無限大であるかのように感じられてしまう。
今年最初のヘビのお出ましは3日だった。妻の悲鳴で知った。玄関わきの水槽群の1つに潜り込んでいた。小型のアオダイショウだった。カメラを取りに屋内に戻ったが、その間にヘビは決して水鉢からは出ていない、と妻は言う。
カメラを構え、妻に水槽を棒でかきまわさせた。ついに出てこなかった。だからだろうか、妻は「あのヘビのせいよ」と話題をずらした。
2日ほど前にキンギョが1匹飛び出して死んでおり、「埋めた」という。やむなく、この鉢に棲まわせていた残る1匹のキンギョを救い出し、カフェテラスの大水槽に移住させた。そして、善後策を考え始めた。
にもかかわらず、「そもそも」と妻はここぞとばかりに話題を「こんなに水鉢をたくさん・・・」と、今度は苦情に切り替えて、急かしたことがあった。「手すりの脇に(水鉢を)置いておくなんて」足元不如意との言い分だった。
8日(月)昼食後のこと、また悲鳴。飛び出すと、母屋の玄関先を妻は指さしていた。大きな白っぽいヘビの抜け殻が視えた。私も「こんなところで」と感心し、喜んだ。昨年はついに大きなヘビを見ずじまいだった。この抜け殻は今も棲んでいる証拠、と嬉しかった。ゆうに1.3mはありそうで、うろこの様子からアオダイショウとみた。
畑の様子を、いつものようにのぞきに行った。オクラの最初の花が咲き、ジネンジョの満開期を経て、カボチャやゴーヤの花が咲き始める時期になっていた。
あのヘビの抜け殻をどうすべきか。取り出して寸法を計りたかった。だが、その前に、と思案した。昇さんに「こんなところで、」と見てもらいたかった。
これが災いした。4日後の12日には、持ち上げられそうにはないまでに退化していた。この間に雨がシッカリ降った。アリだろうか、それともバクテリアの仕業か。
この姿を翌土曜日の朝まで維持していた。昇さんに観てもらえた。同日、市民シンポジュームから帰宅すると、最早原型を留めなくなっていた。アリの仕業と睨んだが、その姿を見掛けなかった。
話をヘビの抜け殻を見かけた8日に戻す。「今日はいらっしゃる」と長津親方から電話を頂き、10時半にお迎えした。知範さんから事情を聴いた、とおっしゃった。
まず親方から学んだことは、ディスクグラインダーは、時として“キックバック”現象と呼ぶ跳ね返り現象を生じさせかねないこと。次いでこのたびの怪我は、慣れと油断が原因の自業自得であったことを思い知らされた。
切る対象物を固定せずに、「そのような身動きできない体勢(風呂場用の低い椅子に、股を開いて座っていた)では」「足を切ってください」とでも言っていたようなもの、と知り得た。怪我をした原因が明確化したわけで、ありがたかった。
お見送りした後で、反省した。足には違和感が残っていた。にもかかわらず、明確化した原因を「前もって学んでおいてから・・・」作業にかかるべきであったとの気分にはなれなかった。むしろ、また偶然に救われた、との感謝の気分が先立った。
たった1足しか残っていない100%ナイロンの使い古したソックスをはいていた。その偶然への感謝だった。確かデュポン社は、1930年だったかに「クモの糸より細く、鋼鉄より強い」と謳ってナイロン(ストッキング)を売り始めていた。
「怪我をした」と気付いた時のことを振り返った。ディスクグラインダーの歯が引っ張り出した白い網のような筋を見てギョウテンした。足の腱を引っ張り出したもの、とおののいた。不思議と痛みは感じなかった。ディスクグラインダーがまた動き出すのではないか、との不安が先走った。この間は2~3秒だっただろう。すぐに、我に返った。
伸びきった時のナイロンの強さが、機械の安全装置を作動させたようだ。ハサミで切り裂いて、恐る恐るディスクグラインダーを遠ざけた。この頃には、せっかくの機会だとの判断が下せたことがある。
私の叫ぶ声に妻が気付き、駆けつけるまでに2~3分はかかった。一緒に草抜きにあたっていたフミちゃんもケイタイを不携帯だった。
この間に為したこと。まず怪我の様子を2カット、次いで、遠ざけたディスクグラインダーに手を伸ばして引き寄せてスイッチを切り、その刃の様子を2カット、写真に収めた。
今にして思えば、いつもの綿のグンソクだったら、軽くみても骨まで切割いていたことだろう。ナイロンであった偶然に救われた。
久しぶりに、今は亡き母が嘆く声を思い出した。私が命拾いするような怪我をするたびに「ヤスモン」といって叱ったものだ。
「ヤスモン」のたびに学んだことがある。「熱モノに懲りてナマス(膾)を吹く」との諺を用いて、しばしば母に叱られていたからだ。「ヤスモン」との蔑みと、この兼ね合いが大事、とこのたびも自覚した。だから貴重な体験にして、応用力や想像力のスパンを広げたい。
この日、久しぶりに庭でニイニイゼミを見掛けた。なぜか片翼を脱臼 (?) していた。今年はアリが多い。だから、裏向きのセミを表向きにするだけで、あとは何ら手を加えず、自然の摂理に任せることにした。
2.ユーティリティー小屋が3人の心意気でよみがえった
茨城県からのお2人には、食事造りや布団の上げ下ろしを始め、私たち老夫婦の手助けを覚悟の上で、との条件を付きてお迎えした。そのような次第で、久しぶりの宿泊客だった。ただし、初日の夕食の準備には触れなかった。妻は食材の準備だけ済ませておけばよい献立を選んだ。デザートは頂いた手作りケーキで、これがなんとも美味だった。
食事中の話題に、ありがたい申し出があった。懸案の2件、ユーティリティ小屋では防腐剤の塗装と、方丈では濡れ縁に防水塗料の塗装を頼むことになった。
方丈の濡れ縁は、常日頃は防水シートで覆っている。後日、この掃除の仕方も会得した。
ユーティリティ小屋の塗装では、庇の裏側まで塗った方が、と提案していただけた。これは首がとても疲れる作業だけにありがたかった。樋の掃除もしてもらえた。
この日は、フミちゃんがみえる日で、懸案だった案件(パーキング場沿いのコンクリ桝花壇や温室沿いのクリスマスローズ花壇など)の除草に妻と当たって下さった。
お茶の時間もとても賑わった。
塗装は期待通りに仕上がった。だが、問題が2つ明らかになった。まず東面の建具が、外しがたくてレールを外さざるを得なくなっていた。次いで北面の建具と窓枠都の間に隙間が生じており、柱が一本、沈んでいたことが判明した。
後日、取り外しが難しかった建具は、ノコギリとカンナを用いて私一人で直せた。他方、隙間が生じていた方は、柱の1本が(水道のしぶきが掛かって下部が)朽ちており、数センチ下がったセイで生じたヒズミだと分かった。
この補修は私1人では取り組まずに、昇さんと一緒に、いかにしてヒズミを正せばよいのかなどを学習しながら、と考えた。
ジャッキや水準器も持ち出しておき、昇さんを迎えた。昇さんは燃えた。下がった柱をジャッキでもち上げ、数センチほどのゲタをはかせた。
それが正解だった。このヒズミを正し、ありあわせの小型のレンガを用いれば、と気付いたことがあった。ならば、ディスクグラインダーを持ち出してレンガに細工などほどこす必要などなかったということ。小型のレンガは、大昔に妻が人形教室展で用いた古レンガを想い出し、探し出して拝借した。
建具の塗装では、細かい仕上げ部分は妻に頼った。
かくしてユーティリティ小屋のリフレッシュ作業と家具と柱の隙間塞ぎは、21日(日)の午前中にすべて済ませた。
この日、やすみながら反省した。ディスクグラインダーでの怪我を貴重な体験として生かさなければいけない、と心に言い聞かせたわけだ。使い慣れて初心を忘れていた。
前週迎えたお2人と交わした話題も振り返った。茨城県民の心意気に触れたように感じた話題だった。それまでは、茨城県といえば水戸黄門、偕楽園、あるいは弘道館などの歴史的な一面と、東海村にある原子力発電所などをイメージしていた。このたび新たに、除役結核軍人療養施設「村松晴嵐荘」があったこと学んだ。それが、わが国最初の傷痍軍人療養所の創設であったことを知って、日本初の原子力発電所に対するイメージがかわった。
それは、わが家では戦前に父が、次いで私が小学6年の時に結核菌に冒かされていたからかもしれない。当時は日本人の死因の1番であった結核は、不治の病として忌み嫌われていた。それだけに、結核療養施設を早くから受け入れていた茨城県民の心意気が、原発も、と感じさせてしまい、県民の心を打ったのではないか。
とはいえ、原発では、その心意気を逆手に取たかのようにいつまでも、今のままにしておいよいはずがないだろう。それでは「熱モノに懲りてナマス(膾)を吹く」気風を広げてしまいかねない。
3.広縁、玄関周り、ハクモクレンなどでの加齢対策
玄関周りには5つの水鉢があった。ヘビのお出ましで生じた大騒ぎをキッカケに、その後義妹にメダカをもらったこともあって、複数の水鉢の配置を模様替えすることになった。それはとりわけ妻にとっての加齢対策であったことを知った。
手すりを、転ばぬ先の杖として、安心して妻も活かし易くなった、と喜んだ。
その後、義妹がメダカをくれることになった。わが家には、昨年まで飼っていたメダカが2か所で(玄関周りの水鉢の1つでは黒メダカが、温室の小さい方の水槽では変わり種が)越冬に成功していた。玄関周りの分では産卵と孵化に気付かされており、微小なメダカを順次柄杓で掬い取って別の水鉢に移し、繁殖に成功した。
そこで、義妹がくれた青白く光沢があるメダカの20匹近くと、その子メダカ5匹の繁殖も、と欲が出て、2つの水鉢で別々に飼い始めた。
この計5つの玄関周りの水鉢で、いずれはメダカの飼育と繁殖を楽しむゆとりを、と願うようになった。
次いで、広縁の模様替えに手を着けた。過日の床の塗装の関係で、広縁にあった小型の水槽や植木鉢などを一時避難させていた。それを元に戻さないことにした。
加えて、この夏の異常な暑さと、スモモの木が古木化して傾き始めたせいで、広縁を覆っていた木陰を作る枝を大幅に減らした。だから、久方ぶりに天窓にヨシズを入れてみることにした。
さらに、思い出の扇風機(居間に冷房器が入る昨年の晩夏まで、居間で活かしていた)を引っ張り出し、広縁に常設する(使わない冬期はカバーを被せておく)ことにした。ならばこの「重い扇風機を死蔵せずに済ませそう」だし、広縁で過ごせる期間をのばせるだろう。
そこで思い付いたことがあった。この春に、初めて取り組んだことだ。それはハクモクレンが落した膨大な量の花びらを、かき集めて、乾燥させて、大きな袋に一杯分を詰めて、初めて保存してあったことだ。
このたび、その花びらを、まずネギの畝で置き肥として活かし、土寄せしてみることにした。これが有効であったになれば、継続したい。この作業なら、予期せぬ馬齢を重ねたとしても、取り組めそうにおもう。PPKを目指す役割の1つに出来そうだ。
21日のこと。トウガンらしき蔓性植物が芽吹いたことに気付いた。あきらめかけていたが月末には、4カ所で「間違いなし」になった。また、文字通りのツルムラサキも、3か所で芽吹いた。それらのいずれにも仮の支柱を立てた。
今年も、エゴマ、オオバ、緑色のツルムラサキ、ハナオクラ、そしてゴーヤの順に畑地で自生し、下旬から食卓にのぼり始めた。これらは夏用加齢対策の作物(冬場用はアイトワ菜がその代表)だが、トウガンだけでなく、本来のツルムラサキもこの仲間に入りそうだ。
4.好ましき循環型社会の形成は24時間監視員が決め手
当月のハイライトは“野菜の水耕栽培”と“淡水魚の養殖”を循環させる「ミニプラント」(2カ月前にTVで知った)の見学であった。これは、私のライフワーク・生涯の夢に大いなる好影響を及ぼしそうなプラントに思われた。
今を去ること60年ほど昔、1963年のこと、25歳だった私は住宅金融公庫を活かして、“家族(両親と弟の4人)の生活”と“野菜や苗木の育成”を循環させる自然循環型の小さな住処を造った。当時、この土地は母が耕作放棄して数年経過しており、ススキが原になっていた。まず“堆肥の山”と“生活排水を溜める素掘りの池”を庭に設けている。
それは、昔風の農家の生き方に近かった。結核菌に冒されていた私は、就職がかなっていながら、万が一の悪化を怖れ、自己責任の下に自己完結する生き方を覚悟していた。私生活から出る有機物のすべてを、この土地に棲みついているバクテリアに無機物に還元させて、野菜、果物、燃料、あるいはニワトリなどを育てる生き方であった。
その後、紆余曲折があった。10年後の1973年には、この自然循環型生活に憧れて嫁いでくる女性と巡り合っている。この頃にはこの生き方がすでに生きる基本になっていた。“生きる理念”を見定めて、額に納めて掲げてもいたのだから。
何もかもを手作りするような生き方は、数年で妻を人形創りに誘なった。1985年には人形工房と茶話室などを建て増すまでになった。この折に、半地下構造(冷暖房効果を願って)を採用した。大量の土が掘り出された。この土で畑の半分余を埋め立てて10台分ほどのパーキングスペースを設けることにした。
露地栽培の畑が大幅に減った。そこで、パーキング場に沿って温室を作り、水耕栽培のトライアルプラントを導入した。
その気になれば誰しもが(サラリーマンしながら、手にする余暇時間と可処分所得のあらかたを活かせば)、その人なりの生産の喜びはもとより創造の喜びまで手に入れうる生き方の、一つのモデルに目処がついていた。その第一は、不便を覚悟してでも、たとえば10分の1の価格の土地を10倍手に入れたりするなど拠点をもうけること。その拠点で、誰しもが持って生まれている固有の潜在能力を顕在化させることである。
わが家は、その願いを果たした一例として、雑誌やTVなどで随分紹介されるようになった。
わけあって2年後には、上のトライアルプラントを、それ以前に購入していた家庭菜園用ミニ耕作機と一緒に廃棄している。そのわけは、これらの導入後、わがココロが次第に自然の摂理に背きかねなくなっていたことに気付かされたからだ。
だから目先の経済的大損失を覚悟して、それらを廃棄し、反省の糧にして、今の露地栽培の菜園がある。
それだけに、このたびの“野菜の育成”と“淡水魚の育成”を循環させるミニプラントを見学したくなったわけだ。そこに、わが家流の“24時間監視員”の役割を見てとったことになる。
わが家では、素堀りの排水路にドジョウやサワガニを放し、“24時間監視員”と私は呼ぶことにした。母が不用意に化学洗剤などを用いて流さないように、命がけで監視してもらうのが役目だった。
かくして60年の歳月が流れた。かつて“ビオトープ”と命名した水路は、30余年前に下水道が敷かれ、排水路の役目を終えている。今では雨の日を除けば山水も流れてこなくなった。だが、サワガニは今も生き続けている。
わが家は原始的な自然循環型だが、このミニプラントは自然の摂理に則した科学技術の活かし方、と期待した。だが、我が家は私生活が対象だが、こちらはビジネスを対象にしている。
期待のミニプラントだが、想像していたよりはるかに厳しい条件を満たさなければ成り立ちそうにないプラントだった。化学的汚染に繊細な淡水魚・ホンモロコを選んでおり、人工ふ化させて養殖していたからだ。とても神経がくたびれる有機栽培である。
このプラントが生み出す野菜や淡水魚は、摂取する人には健康上ではとても好ましそうだ。だが、わが国の(農薬や食品添加物などの使用量や種類の多さに寛大な)市場で、この野菜や淡水魚にいかなる評価を認めてもらえるのか、とても興味津々にされた。
この見学の後で、自己免疫疾患問題を学んでもおり、より興味津々にされた。自己免疫疾患問題の原因は、自然の摂理に則さない食べ物や生き方であろう、と私は見る。そうした食べ物や生き方を志向する市場で、この真価がどう理解され、期待されるのかが興味津々だ。
こうした懸念や心配をしばし忘れさせる付録にも心惹かれた。種で広がるのではなく、それはまるで胎生のごとき増殖法を採用した野菜に巡り合えたこと。わが家の庭でも山菜の一種、ノビルが自生しており、ノビルも種房の中で種に新芽を出させ、その苗をバラまいて繁殖する。同じ部類の植物のようだ。
帰途、ふと考えたことがある。健康保険制度の破綻は必定だろう。そうなって初めて、医療費の自己負担率が所得で決まる今のシステムが間違っていたことに気付くに違いない。そして、新たなシステムに切り替えざるを得なくならないとは限らない。その時にいかなるビジネスが脚光を浴びるのか。そうした予感や直感が、人生を大きく左右しそうに思われ始めた。
対症療法を当てにするのではなく、発病を許さない生き方に寄与する教育やビジネスが脚光を浴びるのではないか。そのジャンルの中にこのシステムは入りうるのか否か、キット入るに違いないのだが、と思いイ眠っ居眠ってしまった。
5.日本が真に豊かで幸せな国であることを
先月は19日のこと、ニュースで「ハマスは思想、根絶できない」とのイスラエル軍報道官の想いに触れ、なぜか感動した。パレスチナ自治区ガザでの戦闘をめぐり、イスラエル軍のハガリ報道官は「(イスラム組織)ハマスは思想であり、人々の心に根付いている。我々がハマスを根絶できると思うのは誤りだ」との考えを示していた。
当月は4日の朝日新聞朝刊で、その一面のトップ記事になぜか感動した。残る4大紙がどのような報道様式を採用したのか、それは知らない。だが、朝日のこの報道のありようは画期的に思われた。「もしや」と大いなる期待をしたわけである。
だがすぐに、「チョット待てよ」との気分になった。判決が画期的であっただけに「こうなっただけ」ではなかったか。つまり、この判決が全員一致ではなく、たとえば10対5などでの可決であったのなら採用されていなかったのではないか、との心配である
むしろ私は、8対7での多数決での可決であっても、この報道様式を採用し、可決判断が下されたことを強調してほしかった。でも、いきなりそれでは、コンセンサス社会では波風を立てかねないかも。だから、このたびの報道を契機にして、憲法に関わる最高裁の判決では、すべの裁断報道でこの報道様式を採用しほしい、と願ったわけだ。つまり、この報道様式がそのための前例であれ、と願った。
井上ひさしは、憲法を「国民が為政者(権力)に対して発する命令書」である、といった考え方を、生前に示していた。この考え方を、つまり憲法と、法律(為政者が国民に対して発する命令書)との決定的な差異を、いかに国民が認識し、峻別し、いかに投票権を行使するか。これが民主主義国の次なる命運を左右する時代に突入している、と想われてならなからだ。
つまり、パラダイムの転換が必定だと国際的に求められ、早晩その進展度が国際競争の決め手になりかねない、とわたしは睨んでいる。さもなければ、その昔のイースター島のごとしになりかねないのだから。
そうならずに済ませられるように国際世論が定まった時に、そのお手本となっている国家になっていたいものだ。そのためにはいかなる政策が求められるのか。
これを考え、提唱するのが政治であり、政治の番人であるジャーナリズムではないか。その自覚の下に、この度のこの報道様式を朝日新聞が思いつき、採用したに違いない、と私は期待したわけである。
仮に、このたびの優生保護法下の強制不妊の是非が、この法律が制定された当時に問われており、憲法判断が争われていたら、どうなっていたのか。このたびと同様の判断が下されていたのだろうか、と考えてしまった。そして、その裁断に対して国民はいかなる反応を示していたのか、も明かにしておいて欲しかった。
それは、私は戦時中の日本の空気をうすうすだが知っているからだ。今は亡き母が「無政府主義なんて、怖い人ねェ」と呟き、その死刑判断が下ったことに安堵していた。それが、どなたへの裁断であったのかは定かではない。だが「無政府主義」という言葉は耳にこびりついており、今でも恐ろしげに感じてしまいかねない。
だから後年、当時の「無政府主義」がいかなるものであったのかに、とても興味を抱いた。短絡に言えば、それは平和主義であった。間違いなく当時の好戦的な政府、とわけ軍部の考え方に対し命がけであがない、それがゆえに時の権力に消し去られていた。
世界には憲法裁判所を持っている国がある。憲法裁判所またはそれに類似した機関を持つ国としては、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、韓国、スペイン、タイ、チェコ、ハンガリー、ベルギー、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、中華民国(台湾)などがある。各国の憲法裁判所は、その統治機構や歴史的沿革などにより、様々な権限が付与されている、とネットにある。
日本にはない。日本では憲法判断を最高裁判所が受け持っている。「為政者(権力)に対して国民が発する命令書」と、「権力が国民に対して発する命令書」を、まるで十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)にするようなことを強いている、と言えなくもない。
仮にこの法律が制定されたときに、憲法裁判所があって、この法律の憲法判断が求められていたらどうなっていたのか、とも考えてしまった。
だがすぐに、第2次大戦の敗戦国であるドイツやイタリアはともかく、ロシアも有しているなんて、と思わぬでもない気分にされた。だから頭が痛くなってしまい、思考を止めた。とはいえ、時の国民がいかにあるか、が問題なんだなぁ、との想いを余計に強くした次第だ。。
要は、私たち有権者の民度の問題であろう。有権者の民度が何が正しいのかその時々に「一に止める」のが多数決制の投票ではないか。だから、その民度の顔色に最も神経を張らっているのが権力ではないか。その民度の進歩や進化をはかるうえで何が大事かの問題であろう。
わが国の司法は和解を好み、その時々で「何が正しいのか」を、つまり「一に止める」役目を怠っている。心配だ。
もう一度、あの本を読んでみよう、と書架を探し始めた。直ぐにあきらめて、ネットに頼ると、翌日には手元に届いた。
6.その他
1.いのちの科学フォーラムのテーマは“自己免疫疾患”
この第60回にいたった市民講座は“自己免疫疾患”の実体と今後を見据えた研究成果の紹介で、とても心惹かれた。わが国は古来、豊富な発酵食品に馴染んで来ていながら、世界では類を見ないほど(訪ねていない国、訪ねていない期間も多いが)抗菌グッズをはやらしてきた、また近年は微生物を忌避する過敏な意識を子どもに刷り込むような育て方をしてきた、と断言できそうだ。この子どもたちが成人になるころは、自己免疫疾患問題が深刻な社会問題になりかねない、との不安を抱かされた。
この日は往路で、初めて冷やしラーメンを賞味。冷メンとは違うことを体感した。
復路では、自己免疫疾患問題は認知症問題よりも深刻な問題になりかねない、と心配した。その想いが最高潮になった時に、祇園祭りの準備で賑わう市中に至った。
祇園祭の元をただせば、疫病退散を願って興した祭りであったはず。何らかのご利益があったればこそ、今日まで続いてきたのではないか。にもかかわらず、コロナ騒動では祇園祭まで中断した。複雑な想いで工業文明の進展、とどのつまりに想いを馳せさせられた。
今は亡き山本七平の「一知半解人」との警鐘を思い出した。
2.フラワーアーティストを迎え、弾んだ歓談。
失敗学会で知り合った司法書士の浅井香葉さんの案内で、フラワーアーティストの石川味季先生をお迎えした。まず浅井さんが、花響HANAYUME・2027年国際園芸博覧会のイベントリーダーでもあったこと知って、ほのぼのとした心境になった。
石井先生は、“レストランやホテル、病院などの店内装飾に高級オーダーメイド・フラワーアレンジメントならミシャロン(Michallon) ”で知られる株式会社MICHLLONの代表をはじめ、DFAフローリスト資格認定協会代表、Fairy Flower Produce 主宰、あるいは生け花池坊准華督教授など、多方面で活躍されている。
石井先生は花と人のハーモニーに心を砕いておられるオーソリティーとお見受けした。浅井さんは2018年の台湾旅行来の付き合いで、その凛とした意識に心惹かれて来たが、生け花では石井先生の弟子でもあった。語らいはおのずと弾んだ。
この日は庭の案内がかなわなかったが、その後、このお2人の生け花にも触れた。語らいを通して気付かされていたが、こうした生け花を拝見し、お2人の想いは自然の摂理を尊ぶアイトワの時空を気に入っていただけ、キット溶け込んでいただけそう、と感じた。
3.SDGsに到達する決め手は高め合い、相互扶助
10数名の編著者が関わったSDGs関係のこのたびの叢書が、やっと脱稿した。この念校段階では、編集人とSDCsを目指す上では、不可欠の要素であり秘訣でもある相互扶助関係の大切さを、顔を付き合わせながら追認する機会に恵まれた。
おそらく私の寄稿は、SDGsを目指すうえで不可欠であろうと私が睨む2つの要素、パラダイム転換の必然性と個人の自己実現尊重を取り上げたが、それゆえの心配がある。
これまでの「もったいない」から「消費は美徳」への転換は普遍性に富み、きわめて容易だった。だが、次に求められている転換は、固有と多様という壁に阻まれかねない(雑多との峻別が大問題になりかねない)問題があり、寄稿者の1人として白羽の矢を私に立てていただいたことが、いかように作用するのか、心配が絶えない。
4.秦碩堂さんの来訪
3親等の伯母の家だと思っていた戦時中の私の疎開先は、叢書に関わらせていただき正確を期すために確認したおかげで、5親等であったことが解った。その過程で、碩堂さんの実母が記された書面を見つけた。碩堂さんはこの今は亡き実母の肉筆にとても感慨深げであった。引き継いでいただいた。
5.喫茶店のスツール椅子などの補修や次シーズンへの備え
1か月の夏休みの間に片付けたり、つくり出したりすること、あるいは次シーズンへの備えが多々あった。雨の日や、月の後半では日照りの日に、さまざまな作業に取り組んだ。
まず畑仕事用に下ろして久しいズック靴の補修。
冬野菜の種、ワケギなどの球根、あるいは挿し木や挿し芽にも。
妻たちはもっと忙し気だった。当日の朝は、1枚だけだが手作りフラッグがかかっていなかった。だが開店時には継ぎの当たったフラッグがかかっていた。
初めて私はアルバーアルトのスツールで、1脚だったし、気付くのが遅れたので緊急補修に取組んだ。
昇さんには、イチジクの木に施した防鳥(カラス)ネットに、いわばロングスカートをはかせていただいた。ヒヨなど小鳥対策。
6.水道工事で荒れた舗装がよみがえった
「20日までに仕上げてもらえば、21日から無事に喫茶店の再会できる」と念じていた。なんと夜間に工事が始まり、20日の未明までに仕上げてもらえた。おかげで、昇さんとタッグを組んで「ブランコ苔庭」に溜まっていた常緑樹の落ち葉を公道にブロワーで吹き出し、すぐに掃きとる掃除を、21日の朝一番に終えることが出来た。
もちろん問題が何らなかったわけではない。重機の排ガスで生け垣の葉が枯れた。これしきのことで、とおもったが、他家にも類が及んでいた。そこで、私が逆の立場なら願うところを実行した。要は今後への配慮の喚起であった。
7.第2次のフジの剪定
喫茶店の再開を翌日に控え、自然生えのフジの今期2回目の剪定に取り組んだ。三脚脚立の活かし方を工夫して、当分の間は一人で取り組む見通しを立てることが出来た。
喫茶店を切り盛りするメンバーも、2度にわたって揃って、前庭の苔掃除など、開店準備に当たっていた。当日は、開店直前にテラスの様子を覗くと、一枚だけだが手づくりのフラッグがかかっていなかった。
8.NPO 京都エネルギー・環境研究協会の年次総会
新宮先生を慕う人が、今年も京大時計塔恒例の部屋に集った。先生はいつも、「エントロピー」の真髄が世界一カンタンに分かる、とおっしゃってスピーチを頂くが、私にはさっぱり飲み込めない。
この先生とは、著作の交換で縁が深まった。審美や経済に関わる先生の著作に私は驚いた。先生には、私の処女作に興味を持っていただけた。それは、次代創出の必然性を叫びかけた一著だが、エネルギー面から工業文明の崩壊を確信していたからだ。
その後、先生の「鏡音楽」に触れて腰を抜かすほど感激した。次の曲は『アベマリヤ』の出だし(第1楽章?)の「鏡音楽(楽譜を尻から逆さまに演奏)」だが、先生の演奏である。
このたびは、コロナのセイもあって久しぶりの再会だった。なぜか、一緒に記念写真に納まりたくなった。
「温度は勝手に冷えるけど、勝手には暖まらない。 濃い酒は水で薄まるけど、水を抜いて濃くするのは大変。 サイフのお金をバラマクのは簡単。元の額まで集めるのは大変。
名目価値が同じ良貨と悪貨が同時に流通すると、やがて良貨はしまい込まれ、悪貨だけが使われるようになる。転じて、俗悪な文化がはやり良質な文化が衰退することや、悪人が跋っこして、善良な人が圧迫される」などと、たとえて下さる。
この辺りはまでは何となくわかるが、エントロピーの真髄を早く飲み込みたい。
帰途、学内の胸像の説明文にも目が留まり、建立責任者であったろう新総長の心境にチョッと思いをはせた。
9.喫茶店のアプローチがリフレッシュ
恒例の再開準備で、この度はずいぶん昇さんに助けられた。
ポットウォ-ルの鉢植えが、ロッコウサクラソウからオリズルランに替わった。
10.ジャガイモがまるでコイモのように
この歳にして初めて、ジャガイモの種イモが、子イモを直接付けた事例に、しかも2例に出くわした。
11.病院では最後になった心臓の定期検診
病院の担当専門医と相談の上、町医者(両親のかかりつけ医であった今は亡き人の娘婿)に我が身体の管理に当たってもらうことになった。
12.「匠」の祭典が近づいた
長津親方を迎えた翌日のこと。池田望さんに立ち寄っていただけたのを幸いに、私たちに出来そうなことを話し合った。この日、望さんは帽子に、サメの新しいアクセサリーを着けていらっしゃった。
13.あってはならない出来事
地域文化の荒廃と工業文明の疾患に辟易するこの頃だが、そのトバッチリのような事象に遭遇した。これぞプライバシー問題として尊重すべき一面もあり、逆に事件としうる反面もあった。そこで、ラガーマンではないがアドバンテージ扱いにした。
14.スッカリ夏装束になった畑
月末には例年以上に野草が畑では見当たらず、例年通りに支柱や棚が多い畑になった。これはひとえに昇さんとフミちゃんのおかげである。毎週、昇さんには5時間ほどの助成を得ているが、男子寮生活をしていた頃の私(土曜日の3時ごろから日曜日の夕食時まで帰宅)を彷彿とせてもらっている。
キュウリとナスビを始め、第1次の夏野菜が惨めな出来栄えだけに、収穫が限られているだけに、喜んでいることがある。
当月の昼食はソーメンが主になったが、その薬味や副菜はキンシ卵を除き、畑の野菜で間に合わせている。これに、8月には2種の緑野菜が加わりそうだ。
昇さんがご近所の農家にもらったという苗、ナタマメ1本やシカクマメ2本などを月末にくださったからだ。とりわけシカクマメは一度絶えさせているだけにありがたい。
困らされていることは、2年ほど前にトウガラシに棲みつくことから始まったカメムシの一種だ。今年もゴボウから現れた。昨年同様にトウガラシ、ジャガイモ、野草のクロホウズキ、そしてナスビに広がった。ついに、トマトと野草のホウズキにも喰いつくようになった。
そこで毎日、朝飯前の一仕事で10分余を割き、トマトに現れた時から、2年前に造ったペットボトル製の捕獲器だけでなく、プラスチック製の塵取りも活かして捕獲し、捕獲機に移して水死させるようになった。
当月の最も辛かったことは、そうとは知らずにヘビを生殺しにしたこと。ブルーベリ―畑の下草刈りをしていた時に、「このようなところで脱皮とは」と思って近づくと、小型(70cmほど)のヘビが、防虫ネットに絡まって死んでいた。手遅れだった。
15.、足の腫れはほぼ収まった
傷の痕が残りそう、と妻は気にする。むしろ私は勲章にするだろう。このような意識が芽生える前は、玄関の側でニンジンボクが咲き誇っていた。勲章に思われるようになったころから、畑で自生させているアオバナが咲き始めていた。
やがて一重だが中国ホウセンカ咲き始め、ブルーベリーの収穫が始まった。次は赤白ピンク乱れ咲きの八重の中国ホウセンカだ。立秋が合図のように咲き始めるが、今年はドキドキしながら迎えることになる。昨年は種が採れなかったのだから。
かくのごとく文月を過ごしたが、嬉しかったことがもう1つある。義妹が1か月、肩の治療で休養になった時のこと。そうと知った土橋夫人・佳代さんに、「私でよければ・・・」と、声を掛けてもらえたこと。