目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 残暑で遅れた紅葉の下、急な冷え込みに慌てた
2 花活けの集いで、霜月は始まったような気分
3 工業社会の誘惑(便利や楽チンなど)に抗いたい
4 庭仕事
5多様な来訪者に恵まれた
6その他 「今にバチが当たりかねない」など
システムの再構築とオルタナティブ
残暑が一転し、急に肌寒くなり、降霜が「早まるのでは、」と恐れたり、言葉遣いの問題で妻と「あわや・・・」になってビックリしたりで霜月は明けました。だがフミちゃんを迎える日であったオカゲで気分が和み、事なきを得たのです。10日は昇さんを迎え、遠方の大型HCを訪れており、新兵器を購入したり、帰宅後はその試し使いをして思わぬところで小鳥の巣を見つけたりしており、とても穏やかな気分で上旬を締めくくれました。
この間のハイライトは、2日の“厭離庵”訪問と花活けの集いでした。他に、ハッピーの反省。なぜここにギンナンが? カラスが襲ったハクモクレンの種房。広縁の天窓を冬拵(こしら)えに。あるいは、生涯最後の電気洗濯機の購入など、多々トピックスがありました。
畑ではチマサンチェの葉をかき採り始め、最後のインゲン豆の収穫と賞味。タマネギの苗植え。夏野菜の支柱の取り払いとその竹の補修に着手など。庭ではサラの枝落としやサンショウの切り取りなど庭木の手入れに着手。かくして庭は冬の様相になり始めています。
言葉遣いの問題とは、花活けの参加人数が東海道新幹線全線不通で減り、昼食の数を間違わないように、と正確を期したつもりがアダになったのです。「不適切な言葉遣いだ」と妻が、ゴテタ。おかげで、私たち日本人が“過去の清算が苦手なわけ”に気付かされたような気分でした。
中旬は、両眼共に左半分の視界が初のブラックアウトになり、不安で始まりました。20日は畑で、除草を兼ねた畝間の溝仕立てに励み、多品種超少量生産農業を進める上で一筋の光明を見出し、ココロ安らかになっています。数mほどの畝に数種類の作物を、時を違えて苗や種から育てる畑です。畝は乱れがちで、この乱れを仕立て直す工夫です。作物を量や質の面で巧みに、だけでなく、なるだけきれいに、を願ってのことです。
この間に、5つのハライトがありました。12日の久方ぶりの映画会と、翌日の座禅の会。共に岡田さんの世話になりました。次いで17日のリズさん2度目の里帰り。私たちはリズさんの墨絵に喜び、リズさんには日本の両親と水入らず、を楽しんでもらえたようです。加えて、高安先生が、映画会で話題にのぼった書籍を持参してくださったり、折よく眼科の定期検診があったりして、カラダの面でも気分が安らいでいます。
この他にも多々トピックスに恵まれました。サフラン、ダチュラ、あるいはラッキョの花が咲き始め、ツワブキが満開に。ムサシアブミの果軸の実が色づき、シイタケの冬子が出始め、フェイジョアの実が一斉に落下。この実は、果実酒に活かそうとしています。あるいはムベが稔り、賞味。1本だけまともに実が付いたシブガキを17個収穫し、吊るし柿に。畑では、バジルの葉の第1次収穫。トウガラシは抜いて葉を佃煮に、など。
下旬は、看取医にと願う町医が喫茶に、夫妻でご来店、で始まったようなものです。その後、冬パターンで庭仕事に励む日々の合間に、アイトワ菜など青菜の本格的収穫が始まった他に、トピックスは次のごとし、でした。未来さんとハッピーの獣医夫人それぞれ久しぶりの来訪。フミちゃんと除草にとり組みながら、入社当時の思い出話。ジャガイモを妻と、二人がかりでトンネル栽培に。昇さんがコイモを掘り出し、妻がオデンに。アザミやクロホオズキなどの狂い咲き。妻は円形花壇の手入れ。私は3度目の破傷風の抗体注射。そして、新洗濯機の購入と昇さんと二人で洗濯システムの更新作業に着手です。
かくして月末になり、土曜日でしたから昇さんの他に2件計5人の来訪者を迎え、生きる元気だけでなく、新知識や思い出の資料など予期せぬ喜びに恵まれました。霜月も大団円で締めくくることができたのです。
~経過詳細~
1.残暑で遅れた紅葉の下、急な冷え込みに慌てた
霜月に入りながら、残暑でジャガイモの発芽が遅れ、とても不安になった。気象庁が1日に、この10月の天候は観測史上最高(日本の平均気温は、1898年の統計開始以降最も高くて、1998年のこれまでの最高記録を0.93℃更新し、平年より2・21℃高)であった、と発表。4日には、満開のラッキョの花に、キチョウが舞った。庭のモミジなど木々は、6日になっても青々としていた。
案の定、富士山の初冠雪は7日になった、と8日の朝刊で知り、なぜか安堵した。実は、三日ほど前に、東京の友人から電話で紅葉の様子を問われ、まだ青々していますと告げて、この調子がいつまで続くのやら、と心配(好ましき紅葉は絶望)していたからだ。ところがその後、わが家の一帯では急に冷え込みが始まり、立冬の8日の朝は、室内温度が14℃にまで下がっていた。新聞を取りに出ると、急に紅葉が進み始めており、今度は降霜を心配し始めた。
9日に、ハクモクレンの種房がカラスに襲われ、次々と落ち始めた。交配に多々恵まれた種房が、オレンジ色の種をむき出しにし始めたわけだ。
14日に、ムサシアブミの実も色づき、エンジェルストランペットが咲き始め、サフランが満開に。
15日、フェイジョアがポトポト落ちていた。だが、未成熟。熱帯の果物だから、急な冷え込みのセイだろう。シイタケコーナーでは、冬子のシイタケが出ていた。
落ちたフェイジョアの実の活かし方を模索し、三分の1を新聞紙にくるみ、熟すのを期待。残る三分の2を、焼酎漬けにした。このいずれもが期待に反すれば、私の生涯は、花を愛でるだけの木で終わりそうだ。つまり、不本意な話だし、無責任な話だが、こうした冷え込みがまま生じるようなら、わが生涯は実が熟す体験をせず終いになってしまうに違いない。
この日、庭に7本ある柿の木(うち3本は自生)で、まともに実がついた1本(苗木から育てたシブガキ)の実をとり、夜に妻と二人で吊るし柿に。翌朝、熱湯消毒を忘れていたことに気付き、急ぎエタノールで消毒した。
コンクリ花壇ではオキダリスがピンク色の花を満開に。これで「この花壇の年間恒常化(加齢対策)はキマリ!」。夏季は、ヒメウツギの白い花を愛でる。これで、適度な追肥と、ヒメウツギのほどよい剪定で、二季の花を愛でる花壇、で生涯を終えられそう。
16日、ツワブキが満開に。ムベの実は熟れ、賞味。
朝日新聞の朝刊で17日に、谷川俊太郎の“どこからか言葉が”に触れ、なぜか二度、三度と読み直した。
その後、同氏が11月13日に、老衰で死去していたことを知り、得心、そして憧れ。
20日、アザミ、クロホウズキ、あるいはヒチダンカが狂い咲きしていた。
22日、フェイジョアの木の根元で、雑菌が入って捨てたホダギ (いずれ朽ちて肥料になる) からシイタケが出ていた。その後、次に捨てる予定だったホダギ(雑菌が棲み付いた)を「念のために、」と点検。シイタケが多数発生し、雑菌が生じさせた黒いキノコ(上部に生えていた)を消し去っていた。シイタケ菌には好ましき気候なのかもしれない。
下旬に入って、中庭の落葉樹(ハクモクレン、スモモ、サンショ、あるいはクロモジなど)が葉を落とし始めた。
27日にモミジのトンネルから庭を観て回ったが、紅葉が中庭から本格化していた。
その後、急速に紅葉が進んだ。にもかかわらず、月末の最後に迎えた来客には、話が弾んで庭を巡れず、愛でてもらえなかった。この主客は初顔合わせだったが、飛び上がりたくなるほど有難い思い出の資料を持参してくださった。
この主客と紹介者は東京から、わが岐阜県の友人 (紹介者の知人)が京都駅でピックアップし、訪ねて下さった。思い出の資料は、勤務されている会社の膨大な過去の記録から探し出してくださったもので、2次複写もの4枚のコピーであった。また、集った4人がいずれも寅歳であったことも分かり、場が和んだ。
かくして霜月は、私にとっては大団円になったわけだ。だが、庭の自生キノコには厳しい1カ月であったようだ。3種4つしか目に留まらなかった。
2.花活けの集いで、霜月は始まったような気分
この大団円の始まりは、二日の花活けの集いであった。この集いを取り仕切った浅井さんは、岡田さんが紹介者だった。岡田さんにはこの日、京都のある大学から講演の依頼が入っており、折よく行けば駆け付けよう、と言ってもらっていた。
だが、肝心の二日の土曜日は曇天で明け、九州や四国、あるいは関東方面は激しい風雨と報じられ、近畿も昼から強い雨との予報になった。
昇さんから「大雨になりそうだし」と電話で、予定の変更を提案された。だが即座に「来てほしい」と頼んだ。それがヨカッタ。
まず、昇さんを迎えた妻は、庭の花材で我流の花活けを思い立ち、ご一行を迎えたくなったようだ。裏庭の高木・オオモクゲンジの種房をとってほしい、と昇さんに頼んだ。
片や私は、小倉山の裾野での花活けの予定が決まった時に、目論んだことがあった。大覚寺や厭離庵の案内だ。大覚寺は華道 (嵯峨天皇が) 発祥の地。厭離庵は小倉百人一首にまつわる最も由緒ある史跡だ。しかも、厭離庵はわが家から歩いて5分ほど。午前のお茶を、と前もって予約を入れてあった。
ほどなく参加メンバーから「大幅に遅れそう」「行けそうにない」などの連絡が入った。東海道新幹線は全面不通になったらしい。さぁ困った。
厭離庵でのお茶の予定が流れかねない。その上に、その後、アイトワで予定していた昼食の人数も半減以下になりそうとなった。この人数訂正の一件で、いつになく妻に不愉快な思いを抱かせてしまうことになる。
だが、お茶の予定は、昇さんに来てもらったおかげで流さずに済んだ。それは、浅井さんが、名古屋の親せきで前泊されていたからだ。昇さんの車で、この人を最寄りの嵯峨嵐山駅でピックップし、厭離庵を目指せば滑り込んでセーフになったからだ。しかも、昇さんにも同席してもらえたのだから。
この茶事の間に大雨が降った。この大雨で、妻はおお騒動に巻き込まれていたらしい。そうとは知らずに、大雨が半ば収まったころに帰着し、昼食となった。実は、この人数変更の問題で「5人の予定が、2人になった」「わかりました」で済ませておけばよかった。にもかかわらず念を入れたために、妻に、次のような不満を抱かせてしまった。
間違いが生じないように、と「2人分になった、が正しい人数で、当初の5人分は、間違いだよ」と念を押した。どうしても人は、最初に聞いた数字や場所などの情報を頭に刷り込んでしまいかねないからだ。そう思っての念押の訂正だったが、妻は「間違いではないでしょう」「5人分も正しかったのでしょう」と因縁をつけた。
「“正しい”の反対は、間違いだ」などと、いかように説明しようが、妻は「間違い」という言葉を受け入れようとはしなかった。この最中に、折よく岡田さんが駆け付けてくださった。おかげで、このイザカイも「わかりました」で、チョンにできた
花活けは、東京からの先生不在の催しになった。妻は、お迎えした生徒さんたちに我流の生け花を褒められたり、助言を頂戴したりして、生け花の仲間に入れてもらうことになった。
生け花の会場は、当初の計画では「スギ林の苔庭で」だったが、雨で変更になった。急遽、人形展示室にテーブルなどを昇さんに運び上げてもらった。すぐに、皆さんの花生けは活況になった。
「この子たち」と、花材を呼ぶ人たちに岡田さんは感激。雨は次第に収まり、雨脚の様子を見に私は階下に降りた。テラスを、工房から一人で望む機会を、ヒョットしたら初めて得た気分に。ほどなく雨は小降りになった。
上階では、花を生ける心や学ぶ心が話しあわれていた。再び私も割り込んだ。なぜか半世紀ほど前の、高度経済成長期の企業などでの叱る心を思い出し、持ち出した。これが結構受けた。次いで、「本来なら庭で・・・」との話題を持ち出した。折よく天窓を打つ雨足の音が収まっていた。
皆さんは生けた花を掲げて階下へ。テラスでは、その昔の叱る心に、最初に賛意を示してくださった人と目が合った。それは愛情がともなった叱責だった、との見方を示してくださった人であった。
雨上がりの庭の緑は映えた。ヒノキ林にたどり着く前に「ここでも!・・・」に。
ヒノキ林では歓声があがった。皆さんは、右に、左にと動き回られた。
打ち上げは、人形工房で、持参いただいた酒食で、賑やいだこと。
石川先生にも参加いただきたかったなぁ、と残念な思いがした。この後、霜月は、この集いが呼び水になったかのように来客が、とりわけ下旬には飛び入りも加わって、華やぐことになる。
3.工業社会の誘惑(便利や楽チンなど)に抗いたい
当月の私のクリーンヒットは、100円ショップで見かけた“パスタの容器”を濡れた雑巾の“雫(しずく)受けに見立てた”こと。取り外しが可、で取り付け、妻に褒められた。
物忘れが進むと創造性に支障をきたすのだろうか、それとも加齢のせいか、あるいはその逆で、創造意欲が衰えると物忘れが進み、カラダの老け込みも進むのか。
かつては夕食の準備時に「今夜は何を、」と妻に尋ねると、決ったように「まだ決めていません」と返し、それが自慢であるかのように感じられた。冷蔵庫を覗き、イモや玉ねぎなどを収納した什器の引き出しなどを点検しながら、いわば鼻歌混じりで調理に取り掛かり、次々と食卓を飾りあげていった。
それが一転した。メニューが思い浮かび上がりにくいようで、あるいは調理意欲が湧き上がりにくいようだ。だから、「今夜は何を、」などと訊こうものなら、「代わってくれますか」と切り返されかねない。
かつては、何事につけ、その作業なら「私にでもできます」と言って、世話を焼くのが趣味でもあるかのようなところがあった。様々な作業を私からとり上げた。おのずと私は、高いところの作業とか、石組みなど、妻には手が出せない、あるいは不得手な分野を引き受けるようになった。それが、相互扶助関係を深め、2人の絆をより固くした。
その妻が「私にでもできます」の範囲を、近頃は狭め始めたように感じられる。それを好きにさせておくことが、妻のカラダやココロにとってよいことか。より老いやフケを進めさせかねないのではないか。これが問題だ。
2つ目のクリーンヒットは、大手HCで見かけた「これなら」とおもった玄関マットを敷いたこと。野良仕事で汚した靴の泥を、玄関に踏み込む前に落とすように努め始めた。これも、妻は同じように喜び、褒め、小言が減ったが、なぜかそれほど嬉しくはない。お金さえ出せば、誰にでも買えるもので、願いをかなえたに過ぎないからであろう。
消費者と総称される私たちは、工業社会がささやきかける便利さや簡易さに身を委ねる方向に進んできた。このままでよいのか。少なくとも、その便利さに慣れたり、いわんや慣らされたりしてはいけない、との気分が湧き上がり始めた。
ある夕刻のこと。畑仕事を切り上げようとしていたら、妻が「暗くなる前に?・・・」と催促に出て来た。「あと10分で」と返すと、妻は虫食いが激しいハクサイのイモムシ捕りに取り掛かった。前夜、私はヘッドライトをかざし、“夜盗虫”捕りに出たが、1匹も見つけられずじまいだった。
片や妻は11匹もの成果をあげた。もちろんそれまでに私は、夜間だけでなく朝、昼、あるいは夕にも、幾度も試みながら1匹も見つけられていなかった。それだけに驚かされた。おおいに私は感謝した。
その2日後のこと。ハッピーの仲人(取り次いでくださった)でもある獣医夫人が、庭掃除をする妻の助成に駆け付けて下さった。
昼食は屋外で、昇さんも交え4人でとり、話題が弾んだ。その1つは、私が持ち出した。昇さんのハクサイのイモムシ捕りでの成果と、失敗談であった。昼間に8匹も捕え、容器に放り込んでおきながら、油断していた間にその7匹が逃げさっていた。
そうと聞いた時に、妻は大喜びして「よくぞでかした!」とばかりに、逃げた7匹を称えた。話の腰を折った。
ところが後日、ハクサイの虫害がさらに進んだ時のこと。夕食を知らせに来た妻は、そうと見て取って、「また、捕ってあげますからね」と私を慰めた。
この日は、やすみながら考えごとをした。過日の「正しい、の反対は間違いだ」との論のことだ。「5人が2人に変わっただけでしょう」「5人であった時は、5人で正しかったのでしょう」と言い張って、聴く耳を持たなかった妻のことだ。“間違い”とか“失敗”という言葉自体を、生理的に受け入れがたいのではないか。あるいは、正しいと思い込んだことを、訂正せざるを得なくなることが悔しいのだろうか。それとも、と考えているうちに面倒くさくなった。
「まあエエカ」、たとえ妻のボケが進んでも、本来の妻の良いところが伸び伸びするように心がければ、と薪風呂を焚きながら夢を描いたことを振り返た。おりよくわが家では“最後の洗濯システムを見定める作業”に手を付けざるをえない事態にも陥っていた。これを機に、との気分が湧き上がった。妻のことだ「キット!」などと我が身に言い聞かせながら、眠り込んでしまった。
4.庭仕事
庭仕事は、気温が上がる頃から庭に出る冬パターンに切り替えた。まず温室で、体をあたためながら取り組める作業に当たり、やおら畝起こしや薪仕事など野外で体を温める作業に取り組み、本格的に始動するパターンだ。
残暑で遅れた畑仕事の挽回策は、何とか功を奏した。例えば、チマサンチェ。2本の苗を買って育てた分は、6日から葉のかき採り収穫が始まり、月末時点でも続けられている。
苗床で種から育て始めた苗は、大きく育った分から畝に定植した。その早い分は間もなく収穫期に入る。最後に畝に定植した分は、来春まで収穫が望めそうだ。
チマサンチェの苗作りの折に、他の種のサラダ菜の苗も育てたので、師走には4種のサラダ菜の収穫が望めそうだ。
この1カ月で夏野菜の支柱は、シカクマメの種取り用を除き、すべてなくなった。畑はいよいよ多品種超少量生産の育て方躍如、と言いたくなる冬姿になった。
この間に、夏野菜のインゲンマメ、トウガラシ、モロヘイヤ、そしてツルムラサキが、支柱ごと畑から次々と消え去った。とりわけ、最後のインゲンマメは、さっと湯がいただけで食べるように、と妻に勧められ、食べてニンマリした。トウガラシは葉を佃煮に。元来のツルムラサキは種を採った上で、支柱を解体し、残滓の蔓は堆肥の山に。
自生したモロヘイヤは種を一帯に振り播かすために畑に残している。
バジル(残暑で油断し、苗の植え付けが遅れた)は、第1回葉の収穫後用心してトンネル栽培にした。霜が降りる前に収穫を、と目論んでいた。だが、降るはるか前に萎れてしまった。とても寒さに弱い。
コイモは不作で、親芋はとても小さい。だが、予期した以上の粒ぞろいのコイモがついていた。
この間に、タマネギと、スナップエンドウの苗を買い求めて植えつけ、同時にツタンカーメンとスナップエンドウの種をポットにまいた。
ジャガイモは、残暑で発芽が遅れながら、その後は冷え込みが早まり、収穫できないかもしれない。やむなく妻と2人がかりで26日に、2枚のビニールシートを使って、試しに1畝だけ背丈の高いトンネル栽培を試みた。
こうした合間に除草にも励んだ。とりわけ、フミちゃんを迎えた日の、妻が2人で取り組む除草は楽しそうだし、丁寧に取り組んでもらえる。畑の除草は、多品種超少量生産なので私が受け持った。2~3m毎に品種が替わる畝だから、長い畝に乱れが生じやすい。このたび、その補正を兼ねた、鍬も生かす作業に取り組んでみた。
温室では、挿し芽で発根させたモッテノホカをポット仕立てに。春の喫茶店のポットウォールを飾るロッコウサクラソウの鉢植えの養生。あるいは松葉ボタンやベンジャミンゴムの越冬などから手を付けた。
庭木の手入れは、中庭のサラの剪定とサンショの切り取りから手を付けた。まず、サラの木の枝の1本が人形展示室の屋根に覆いかぶさっていたので切り取った。次いで、サラの下で自然生えしたサンショが、モッコクを陰にしていたので切り取った。オカゲで、奥の建物の向こう側で育つヤマザクラが眺められるようになった。この剪定や切り取りを皮切りに、この冬の庭木の剪定作業が始まったことになる。
日を変えて、囲炉裏場周辺のムクロジ(洗濯の木)の背丈を詰めたり、クルミの枝を落としたりする作業に取り掛かり、剪定作業を本格化させた。この作業は、昇さんが主になり、私は助手を務めた。
この間の27日に、ブロッコリーの惨状を見た。サルの仕業としか考えられなかった。だが、ブロッコリーをすべてもぎ取って、持ち去っており、サルらしくない。サルはその場で食い散らかすのが常道だ。しかも、他に荒らされた形跡がない。首をひねらざるをえなかった。
後刻、スナップエンドウの苗を植える畝を探したが、その折のこと。ジャガイモが引き抜かれ、半ばかじられたイモも見つけた。これをもって、犯人はサル、との想いを濃厚にした。とはいえ、サルの仕業にしては手口があまりにも綺麗で、疑問が残った。
ちなみに、これらの被害は、電柵スイッチの入れ忘れを突かれた恰好であった。だから、昼間は常時スイッチオンを心掛けた。さもないと、大根やネギが、このいずれもの白い部分が、サルが好物だから、次々と襲われかねない。
その後月末まで、サルの姿を観ず、出没した形跡はなく、また持ちさられたブロッコリーや、その残骸を探し当てられておらず、サルの仕業だと断定できないままに月末を迎えた。
5.多様な来訪者に恵まれた
霜月はフミちゃんを迎え、妻と三人で終日除草に興じた日で明け、月末は昇さんに始まり、白砂先生ご夫妻、次いで“会した4人” がそろって寅年という偶然の集いで有終の美を飾ることができた。この間に、とりわけ中旬から下旬にかけてだが、多々旧交を温めたり、未来への夢を描いたりする触れ合いに恵まれている。
その最初は、12日の “映画会”。 久しぶりの開催が急遽決まったが、チョット心配事があった。実は前日、13時35分から10分ほど、両眼の左半分がブラックアウトになり、初体験ゆえに慌てた。だが、右眼の上半分がブラックアウトの度重なる体験を振り返っており、ことなしを得ている。
2日は折よく火曜日で、フミちゃんが来合せていた。ひょっこり未来さんにも訪ねてもらえ、誘った。高安先生にも駆けつけてもらえた。この6人で米映画『タッカー』を鑑賞した。現代に通じる先進的な乗用車を開発し、事業化の見通しを立てた男を、同業界のビッグ3が、時の大統領も巻き込んで潰した史実に基づく作品だった。
この日も2本立てを目論んでいた。だが、終了後に、一斉に皆さんから拍手が興った。この充実感を大事にしたくて、急遽茶話のひと時に移ることにした。
この日、高安先生は、「私も試している」とおっしゃって、妻のために“もの忘れ症状に有効そう”との手土産を持参してくださった。おかげで、私まで気分が晴れ、前日の両眼共に左半分ブラックアウトでの不安など雲散霧消した。
茶話は弾み、岡田さんから、「こんな残酷な自己犠牲は・・・」との前置きに次いで『アンパンマン』の話題が飛び出した。「何のために生きているのか答えられない人生なんていやだ」との生き方や想いが紹介された。『慟哭の海峡』門田隆将を読みたくなった。
慟哭がキーワードだったのか、高安先生は『私たちは売りたくない”危ないワクチン”販売を命じられた製薬会社現役社員の慟哭』を紹介してくださった。レプリコンワクチンの正体を明かにしようとする人たちが世に送り出した一著だ。
この度の岡田さんは、翌朝の坐禅の会が主目的で京都にお越しだった。そうと知ったときに、私も加えてもらうことにしていた。
13日、朝は早めに妙心寺で落ち合った。参道では通勤や子どもの送迎で自転車を駆る人とひっきりなしに出会った。境内が広大故に、寺は横切ることを許しているようだ。
まず“退蔵院”を拝観し、貸し切りのごとき静けさの下で、思い出にふけった。かつて東洋美術史学習の一環で、学生時代に訪れたことがある。改めて『瓢鮎(ひょうねん)図』に心惹かれた。瓢箪でナマズを捕ろうとする禅問答に、大勢の人が応答していた。
方丈でしばし休憩したり、坐禅が始まるまで庭を見学したり、に移った。
この坐禅の会は長年続いてきたようだ。和尚さんが高齢で、今回で最後になった。常連のお一人は、建築設計事務所の経営者だった。30年前からの知り合いで、当時から環境問題を危惧し、持続可能な生き方や社会を目指しおられた。旧交を温めた。
散会後、この幾人かが私を送りがてらにアイトワを訪れ、歓談した。
この日、私は妻への土産にと、自然の偶然を写真に収めて持ち帰ったが、とても喜んでもらえた。
14日は、夕刻のこと、白砂先生が同半者と訪ねてくださった。同半者は、とりわけ妻が未来は「明るい」と感じそうな話題を携えた人だった。
お待ちかねの“リズさん2度目の里帰り”は17日になった。この日はタップリ時間を用意して待ち受けており、3人で水入らずを堪能した。彼女はこの度の来日では、墨絵を学んでおり、色紙をもらった。半世紀前のホームステイの折は陶芸を学んでおり、5つの湯のみ茶碗が置き土産だった。この度も、これが今生の別れではなく、次の機会があることを知った。
翌日の午前は、妻の不具合を契機にして、相談事に乗っていただく人を迎えた。午後は高安先生が「買うことありませんよ」といって、読み終えたとおっしゃる一書『私たちは売りたくない』を持参してくださった。
この日は夕食後に、リズさんにもらった色紙を写真に収めようとしたが、行方不明だった。妻も「わからない。覚えていない」という。
19日の午前は、近場の眼に関する掛かりつけ医で、不定期の検診があった。左半分ブラックアウト症状の一件を申し出て、念入りに検査をしてもらった。次回は、半年後の日程が入ったので、一安心。
午後のこと。喫茶店の常連客が、飛び切り嬉しい近況を知らせに来て下さった。とても権威と歴史がある『MILLNNUM』で紹介され、しかも表紙に取り上げられた。われごとのように嬉しくなり、妻と2人で乾杯した。わが家では、袖触れ合った人の幸せを、元気や希望の源泉にさせていただくことにしている。
リズさんの色紙は仏壇に供えてあった。20日に分かった。妻に「良きところに供えたネ」と言うと、なぜかキットなって「お母さんに視ていただきたかったの」と言い返した。いずれにせよ、妻の“習性の一端”を知り得たし、これは好ましき判断の下しように思われたので、目の前がチョット明るくなった。
その後、看取り医にと願う矢間先生がご夫妻でご来店。夫人(父の看取り医のお嬢さん)にもこの旨を頼んだ。午後、未来さんが「いずれ頼みたいことがある」と言って再訪。
翌土曜日は、石堂夫人が、妻の庭掃除を手伝いに、と言って来訪。石堂夫人のご主人は獣医で、飼い主を叱りかねない“犬主主義者”で、私も大のファン。落ち葉掃除と焚火でやきいもにも付き合わせていただいた。この日の昇さんはヤノネボンテンカなどの剪定に当たった。
25日、矢間クリニックで3回目の破傷風最終回予防接種。前回採血した結果は、甲状腺の数値だけが「チョット」を除き、おおむね良好な結果だった。そこで、それを勘案し、今しばらく自己リスクの生体実験を続けることにした。
27日、望さんを久しぶりに迎え、歓談中に、元アイトワ塾生の網田さんがひょっこり訪れて、外泊が難しい身になったが「最後の旅行を!」などと語らった。
30日土、昇さんと庭仕事に取り組んでいたら、白砂先生が「すべて庭で育っているミステリーローズ」だ、とおっしゃるバラを手土産にご夫妻で来店。この時にとばかりに、ローズガーデンとばらの権威者でもある先生に食らいついた。
まず、「この清楚な赤いばらは、源氏物語に登場している・・・」などと伺い、「ばら」と言えばイングリシュガーデン、と思い込んでいたわが認識を新たにした。
次いで、赤いばら、大輪のばら、花びらの先のしゃくれ、そして四季咲きのばら、はすべて中国が生みだしていたことを知った。この度いただいた4種は、白いばらは“京太白”、ピンクは“京雅”、赤は“京四季紅”、そして赤い大輪のばらは、平戸のミステリーローズで“いしま”だと伺った。
最後の3人の来客は遠方から、約束通りにご到着。手土産の1つは見覚えがある筆跡やサインが懐かしい4枚モノのコピーで、今の私にとってはかけがえのない宝物だった。
未来に向かって夢が膨らむ歓談が、陽が傾くまで続いた。しかも、この日の集った4人が、いずれも寅年との偶然の一致も知るにおよび、霜月も大団円になった、と感じた次第。
こうしたオカゲかセイで、このたびの4枚モノコピーの訴えが生み出させたといっても過言ではない一面があり、予定していた庭の案内を割愛せざるをえなかった。
6.その他 「今にバチが当たりかねない」など
1、長引いた残暑で油断させ、慌てさせた冷え込み。
残暑と青々としたモミジに油断していた。8日の早朝に、室内温度が15度を割り、立冬が7日であったことを振り返りに、慌てた。
広縁の天窓を、夏バージョン(よしず)から冬バージョンに、翌9日に昇さんに改めてもらった。庭仕事に当たるのも、空気がぬるむのを待って出るようになった。
夕刻は、暗くなったので庭から引き上げたが「まだ6時になっていない」と、驚いた。この日、畑では、夏野菜で用いた竹の支柱をほぼ解体し終え、畝は冬野菜用に仕立て直し、竹の支柱は、翌年度の畑に備える手と、冬の風呂焚きに備えた手を、それぞれ打った。
再使用が可能な竹は、来年すぐに使えるように、先を削り直すなどして整備する。
整備した竹を干し上げて、翌年使いやすいように分別し、収納。
翌年使用不可の竹は、薪風呂などの焚き付けに、ナタで割って加工する。
今年は長引いた残暑と、急に始まった冷え込みで、うろたえたことが他にもあった。ジャガイモは発芽が遅れ、降霜に怯えて、初めてトンネル栽培を試みた。これで生育の遅れを挽回できるのか否かはまだ分からない。
同様に、バジルでも初めてトンネル栽培を試みた。これは無駄な足掻きに終わった。トンネル栽培であれ、霜が降る前の気温低下でバジルは萎れてしまう。
ダチュラは14日に順次咲き始めたが、若い蕾がすべて咲き切らない間に月末を迎えた。
15日に、フェイジョアの未熟の実があらかた落ちてしまった。その実の活かし方が見えないまま月末を迎えた。この合間に異常なほど冬らしい日の出を楽しんでいる。
2、この気候変調に身体も堪えた。
先月から続く鼻風邪が、治らず仕舞いで霜月に突入した。両眼の左半分がともにブラックアウトを初体験した。地元の眼科医に訴えたが、原因不明で終わった。願わくは、同様の疾患を体験した患者とか、患者を知る医者と、死ぬまでに出会いたいものだ。
今年最大の外科的疾患は、左足首のディスクグラインダーによる切り傷だった。原因は慣れに伴う不注意だ、と長津勝一親方に気付かせていただいた。この不注意にさせた原因は、機械の特性把握に掛けていたこと。この特性を事故後に教えてもらったのも長津親方だった。だから、傷口はまだみっともないが、中旬に一応の完治報告で伺っている。
その後、破傷風予防接種の最終回、3回目を下旬に済ませた。持病になった心臓疾患では、まだ自己リスクでの実験中。他の疾患は、さしてない。ただし、排尿問題が近く深刻になりそうだ、との気分にされつつあるだけ。あえていえば、妻が不思議におもうほど寒がりになったことをあげておきたい。壮年期は、真冬でも室温16℃で済ませ、夜分は窓を少し開けて、寒風の入る部屋で寝た。それ(きれいな空気をタップリ吸える)が、睡眠時間が短くても激務堪えさせた。問題は、妻が寝室を“冷暗室”と呼んだだけ。そのカラダが、今では20度でも、ガス暖房機のスイッチをオンにする。
この状態で来春を迎えたい。
3、イトトンボと、もう一度。
4日のこと。玄関の窓越しに “反省ポーズ”のハッピーに気付いた。初めてみせたポーズなので、玄関から外に出て、直に、2度撮影した。この私の気配に、ハッピーは気付かずじまい。1段、階段を下りた音で、カシラを上げ、私を見た。
この写真を見て、妻の反応は「かわいい!」だけ。
この日は午後にも、不思議な体験をした。昇さんと庭木の手入れ中に「なぜこんなところにギンナンが?」と、語らいながら散乱していた果肉と種を眺めた。
8日には、この庭では珍しいリクガイの抜け殻と出会った。類似の大きな殻をかつてこの庭で1つ拾ったことがある。その幼い個体かもしれない。生きた姿に出くわしたい。
10日に念願の大鎌を(昇さんの要望で)購入すると、この日のうちに彼は堆肥の山があるコーナーで試し使い。オカゲで、予期せぬところで、ネコでも手が届きそうな高さで小鳥の巣を見つけた。
その後、この巣の側に生えているハナモモが葉を落としたが、オカゲでこの木でも小鳥が営巣していたことに初めて気づかされた。月末には、ヒノキ林でも、苔の上に落ちていた小鳥の巣を拾った。外側は、プラスチックも活かし、苔を張ってカモフラージュ。うち側は、棕櫚の繊維・天然そざいだけ。
16日に、畑を耕していた時に初めて観る小さなヤスデと出くわした。次いで、29日にも同類だろうが、トラ縞の有無が異なる個体を見つけた。
第2次スナップエンドウの苗4本を植えた25日のこと。ネギの畝の除草にも手を出した。この庭から絶えたのではないか、と視ていたオドリコソウらしき野草を数本見かけ、マーキング。これが真のオドリコソウで、その種から(これまで自生していた場所から3mほど東の畑地の西端で)芽生えたのであれば、この野草は日陰の湿地よりも、日当たりを好むことになりそうだ。また、嫌地もするようだ。
17個の干し柿は、数日後にメジロが狙い始めた。やむなく意地悪をした。オカゲでヒヨも手を出すスベもなく、あきらめ顔にさせた。
ブロッコリーが、サルの仕業に視えてサルとは言い切れない襲われ方をしたわけだが、28日には5mほど離れたところで、引っこ抜かれ、かじられたジャガイモを視た。犯人はサル、の可能性が高まった。師走には、サルだと断定したいものだ。
この夏は、温室に迷い込んだトンボだけでなく、オオスズメバチのメスも殺したことになり、悔やんだ。この一帯ではオオスズメバチが昆虫の食物連鎖では頂点を占めていそうだ。その営巣する可能性を奪ったことになるのだから。
この悲しみが癒えぬうちに、とても嬉しいことに気付かされた。イトトンボの死骸をみつけたこと。数年前に、水鉢の大掃除をしたが、その時からイトトンボの姿を見かけなくなっていたのだから。
4、食べものでも、想うところがあった。
霜月の成果の1つは、エディブルフラワ-を一種、増やせそうになったこと。それは、さちよさんに苗をもらったモッテノホカだ。1本は畝で花をつけた。温室では、挿し芽で苗を増やそうとして、願いがかなった。来年は、この花を収穫するための一畝を作りたい。
嬉しかった食べ物は、3日と6日の朝に賞味した澄まし雑煮。幾度もありつきたものと願いながら、今年も雑煮は元日来これで2度目と3度目。次は師走30日の安倍川餅だ。
と、おもいきや、この日は夕にも、せがんでみたら、最初の葉かきをしたチマサンチェとアイトワ菜、そして庭のシイタケを生かしただけだが、澄まし雑煮がついた。
9日は、今季最後のツルムラサキとインゲンマメの支柱解体日になった。この時に採ったひねたインゲンッメを生かしたお浸しが夕餉についた。
トウガン汁も、初の味噌仕立てをはじめ、堪能した。
こうした食事を、日本人としての私の大腸菌フローラは求めているようだ。無傷の臓器は腸しかない私だが、今年も年をピンピンと越せそうだ。
外食でもおもうところがあった。そのサービスを行きつけのチエーンうどん店で10日に知った。この店ではいつも同じ品を選んできた。その日は、そのうどんに添える天ぷらが、品の種類は同じだが、揚がった品が極端に少なかった。願った天ぷらの1つが揚がるのを待とうとしたところ、席まで持って行くから代金の計算を済ませておいてほしいと言われ、領収証を受け取り、席に着いた。
ほどなく「どなたが・・・」との声。手を挙げると、揚げたての天ぷらが届いた。天ぷらの“お品書き”はいつも調理場の上に吊り下がっていた。この日は、天ぷらシステムを変更した説明書きが掲げられていた。なぜだか、元気をもらえたような気分になった。
5、今にバチが当たりかねない。
10日に大手のHCに出かけた。庭や畑仕事の動力機械類の修理コーナーが、しばらく来ぬ間に拡大し、充実しており、共感した。エンジンブロワーを修理に出し、昇さんが希望した“大鎌”などを買い求め、近場で昼を済ませて帰宅した。
後日、この大手HCを再訪し、修理ができたエンジンブロワーを引き取ったが、この機会に、洗濯パターンの再構築と小型の充電式のブロワーを改良するための部品を、昇さんと2人で探している。
それは前日に、生涯最後になりそうな洗濯機が届き、設置していたからだ。旧来に勝る新しい洗濯システムを再構築したくなっていた。
これまでの洗濯機は、妻が嫁いできてから2台目だった。初代の洗濯機の脱水機が故障したので、一槽で洗濯から脱水までが自動機に買い替えた。この故障した初代を妻は捨てなかった。ハッピー用の毛布や私が汚した野良着用の洗濯などに活かして、2台を使い回す洗濯システムを上手に打ち立てていた。
この度はこの2台が続けざまに、共にうまく動かなくなった。
そこで、生涯最後の洗濯機として、乾燥まで全自動のドラム型機1台で済ますつもりで買い物に出た。ところが、この願いがかなわぬ事情に気付かされた。洗濯機を置く場所が狭かったセイだ。
結果、洗濯から脱水までが自動の、いわば旧タイプを選ばざるを得なかった。オカゲで、出費は予算の十分の一で済み、新機械は小型化しており、設置場所にゆとりもできた。
そこでヒラメイタことが2つあった。まず、新機械を設置した折のこと。排水ホースを短くしたが、ヒラメクものがあった。
次のヒラメキは、亡き母が使っていた洗濯機も捨てずに、長年母屋に置いてあったことだ。それは、水を洗濯槽に張ったり、洗濯後に捨てたりする自動弁が故障していた。この機械を活かして、これまでより好ましい洗濯システンを再構築してはどうか、とのヒラメキだった。
つまり、 “意識が正常であった妻”が四半世紀ほど前に打ち立て、活かしてきた“洗濯システム”を再現し、“今日の症状が現れてしまったもう一人の妻”に継承させてはどうか、とのアイデアであった。言葉を替えれば、“非力になり、物忘れが進んだもう一人の私”が、なんとか思いついたアイデアであった。つまり、こうしたアイデアを積み重ねることで、 “意識が正常であった妻”のオルタナチブを! なんとかとの願いであった。
完全自動式の使い慣れない新機械を購入し、今更手抜きができるようにするよりも、もう一人の妻にとっては、この方が罪悪感を抱かせずに済むのではないか。
工業社会が「より便利で、より簡易だ」などとささやきながら買い替えさせ、普及させてきた手抜きが、地球温暖化に与させてきたのではないか、今にバチが当たりかねない、との不安を妻が抱いていないとは言い切れない。この不安を取りの除きたい。この想いが、次のヒラメキを誘った。
「この方が、風力が強くて便利そう」とおもって購入した小型電動ブロワーがある。この改良だった。わが家流に使ってみて「腰が疲れる」といって妻が放り出してあった。腰をかがめずに使えるように工夫しよう。ならば、これを駆使するに違いない。
こうした事情を昇さんに説明したうえで、遠方の大型HCまで出かけている。まず“洗濯機の余ったホース”を活かし、洗濯システムを再構築するための部品を探し出した。次いで、小型電動ブロワーを、腰をかがめずに使えるように、しかも重くせずに済ませるように、風の吹き出し口を伸ばす部品として、長さ2mほどのプラスチックの樋を2人で見定めた。
キット昇さんのことだ。こうした部品をいかに生かせばよいのか、と考えていたに違いない。幸いなことに、12月には久しぶりの長期出張がある。温泉つきを要望したので土日を挟んだ。ならば。昇さんに、この2つの課題(洗濯システムの再構築とブロワーの吹き出し口を伸ばす工夫と加工)を挑戦してもらってはどうか。
6、過去の清算が苦手なわけ。
ややもすれば私たち日本人は、文脈を読むのではなく、そこに散りばめられている“失敗”とか“間違い”など、強い単語に気を足られ勝ちではないだろうか。“言霊の国”といわれるが、こうした単語や短いフレーズに酔い勝ちではないだろうか。母が“玉砕”という単語に、痛く心を動かされていた強烈な思い出がある。後年、それは全滅であったことを知った。その間のことだ。
30歳代半ば近くまで、神風などの特攻隊員を私は賛美していた。その頃に、その年頃に私もなっていたかった、「ならば!」と幾度も悔しがりもした。その後、戦闘戦死者の英霊は、どこで眠るべきか、眠り続けるがよいかで英霊の親の意見が分かれていたことを知った。その時に、今も英霊に異なる感謝の念を、それだけに強く抱く私だが、“真面目に不真面目なこと”までしでかしかねなかったわが身を顧みている。この意識の転換が、過去の清算を少しは上手にしたように思う。断固たる戦争否定者にした。それはいつ頃からのことであったのか。思い出そうとしたが、宿題になった。