目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 異常気象、見事な紅葉のグラデーション、そして落ち葉掃除
2 サルの襲撃と防御策
3 久しぶりの長期国内出張は群馬まで
4 孫世代、ひ孫世代とも触れ合う機会を与えられた
5新年を迎える心準備・そのシンボルを創った
6その他、水俣から来たシナモンの木など
2025年を控え、宿命のシンボルを想いついた
師走は、先月の2つの謎が「解けた」で明け、上旬は2つの「美味を堪能」で暮れたようなものです。美味はホウバ寿司と栗饅頭。共に頂き物の初賞味。2つの謎は、畑を荒らした犯人はサルであり、今年の秋の暑さは案の定、 観測史上初の新記録で、畑の不作不調を、納得です。
この間のトピックスは、まず心配した紅葉が、なんとも見事なグラデーション期を迎えたこと。庭木の剪定作業が本格化。舌平目や太刀魚などの頂き物。来訪者は、茨城県からさちよさんが友人と、久方ぶりに柴田さん、そして白砂先生が同伴者と、など4件でした。
剪定は、クルミ、ムクロジ、あるいはニセアカシヤなど高木は昇さんが、ムクゲやエルダーなど低木は私が受け持ちました。このエルダーは、かつてさちよさんが苗木を下さった。彼女がご一緒された友人は、京都の大学で通信教育を受講中。そして最盛期に入った紅葉は、さちよさんたちに観て回っていただいたり、フミちゃんとは昼食時に愛で合ったり、もちろん大勢の観光客にも落ち葉の絨毯まで堪能してもらったりしています。
中旬は、厨房のブレーカーを厨房内で制御できるように、中尾さんの腕に頼ることで始まり、養蜂の師匠・志賀さんを迎え、近況を報告しあうことで過ぎ去りました。この間に当月記11月分の遅れた原稿を知範さんに引継ぎ。当月2つのハイライト、4泊5日の群馬県出張と、もう1つ、サルの集団襲撃という予期も期待もせぬ、招かざることが生じたことです。
群馬まで電話で、サルの襲撃で畑作意欲を削がれたとか、電柵など何の役にも立たないなどと妻から聞かされた時は仰天です。好ましき対応策が思い浮かばず、苦悩したわけです。しかし、帰宅翌日に昇さんが講じた被害対策を観察したり、翌々日の丑三つ時に起き出して、ショートしていた電柵を点検して回ったりしたことで、一筋の光明を見出しています。でも、この夜半の半時間ほどの冷え込みが、風邪菌を増長させたのです。
ここで、話題を群馬出張まで戻します。出立は13日の金曜日、早朝の室内温度が10度を割った日から出かけました。サルはこの留守居を突いた勘定です。妻は妹の手を借りて野菜をトンネル栽培にしており、昇さんは遮光ネットで畑に天井を張ったような手を打っていました。サルから観れば、妻が打った手は防衛策に映り、昇さんが講じた策は、うっかりすれば捕獲されて酷い目に合わされかねない、と用心させ、恐怖感を与える“攻め”に映るのではないでしょうか。
群馬出張は、彼の地で教員として活躍する友人への、いわば応援でした。にもかかわらず彼は、かつて触れ合った学生と再会する機会も用意してくれていたのです。しかも、ご当地の案内や、温泉三昧などの手ハズも整えてもらえており、とても楽しい日々になりました。
この間の心配事はただ1つ、妻のことでした。が、昇さんには土と日に、月は大垣時代の知人が友人連れで、そしてフミちゃんが火に、と訪ねてもらえることになり、大助かりでした。
下旬は、伴さんの久しぶりの来訪で明け、年末に台湾の息子と呼ぶ陳さんの電話にも恵まれたおかげで、なんとか年の瀬を越えられそう、で終わりました。でも21日の朝は体温が37・9度。恒例の冷水洗顔をパスする朝の始まりでした。この11日間のトピックスは、昇さんが講じたサル対策、フミちゃんの庭の落ち葉かき、昇さんの剪定作業、そして昇さん父子の竹の間伐やヒノキ林の掃除であり、いずれも感謝感激でした。問題は妻と取り組んだ暮れの決まり事(しめ縄づくり、モチつき、そしてお煮しめづくりなど)で足掻きにあがくことになったことです。
でもその間に、意識を転換するためのシンボルづくりを気付いたこと、月末の4件の来訪と陳さんの電話、そして新年に空白の1日を設けることで気持ちを立て直し、何とか年の瀬を越えられそう、と夜具にもぐりこんでいます。あえて言えば、当たりようがない妻の情緒が不安定な症状と、気力が伴わないほどこじらせた風邪を免罪符にして、こうした初体験も「大団円だとおもえばよい」と開き直った、が実情です。
~経過詳細~
1.異常気象、見事な紅葉のグラデーション、そして落ち葉掃除
わが家の庭では、とりわけモミジのトンネルと呼ぶあたりは、3日から5日にかけて “対比効果配色のグラデーション” 私好みの紅葉が最盛期だ、と感じられた。そして月末には早、あらかたの葉が落ちてしまい、すっかり冬景色になった。
このモミジのトンネルは、22歳のころから手を付けて、およそ20年がかりで育てたモミジの片並木だが、いつしかモミジのトンネルと呼ばれるようになった。
その最初は、若葉の時期に、この並木に至ると歌をうたい始める女性たちが現れた頃だった。道行く人が他にどなたもいなくて、決まったように3人連れの、たまに2人連れの女性が、足を止めずに歌い始め、通り過ぎて行く現象が生じ始めた。
当時の私は、備中鍬をふりかざして畝を耕していたが、手を止め、聴き惚れたものだ。その頃に、一人で道行く人と目が合うと「モミジのトンネルですねぇ」などと言葉をかけて下さった。
時が過ぎ去り、ケイタイでの写真撮影が一般化してから、大きく変わったことがある。モミジのトンネルではあらかたの人が足を止め、見上げて写真を撮る。だが、声を上げて歌いながら道行く人とは出会えなくなった
この片並木は “アイトワのシンボルモミジ”と呼ぶ樹齢68年の、この庭で最長寿の樹木のすべて子や孫であり、イロハモミジと呼ばれる“葉が小さめ”のカエデである。
その昔、芽吹いて2年目の苗木を、祇王寺の庵主・智照尼さんから数本もらい、当時の居宅(両親の家)にその1本を植えた。その6年後に、今から60年前の1964年に、この地に、社会人2年目の私名義の小さな居宅を作り、ここに移植した。幹にからんで登るテイカカズラは、40年近く前に根元に植えた1本の苗から始まった。
2008年には毎日新聞が夕刊1面で取り上げた、と教えてくださったお人があった。
当年は11月末ごろまで、残暑のせいだろうが、まだモミジは青々としていた。当月初めごろから冷え込みが激しくなり、私好みのグラデーションが見事になり始めた。
フミちゃんを迎えた3日のこと。モミジのトンネルの内側にあるパーキング場で、妻が握ったおにぎりを3人でほおばった。多くの道行く人が被写体にした。そうと気づいたフミちゃんは、なぜか腕をペケに組み、断った。
思い出したことがあった。私は逆に、外国で、心惹かれた情景で、多々盗み撮るようなことをした。小さな庭などでは目が合うこともあったが、ペケには出くわさず、微笑みなどが返ってきた。その都度、独自の時空・“棲めば都”づくりに憧れた。
結果、私にはキャンバスが大き過ぎて、生涯の半ばを投じてしまった。でもこれが、私の人生では、最大のご褒美に感じられる。
7日、裏庭で、昇さんと自然生えのモミジの大剪定に取り組んだ。それは、ワラビ畑を日陰にしたり、薪風呂の煙突に枝が接したりしていた。大胆に上半分の幹や枝を切り取った。お隣の大ヒノキが丸見えになった。
このあたりのカエデはすでに、対比効果配色のグラデーションの時期は過ぎ去っていた。その切り取った幹の一部から、太めの枝を生かして、カフェテラスの大水鉢を飾った。
その時に、いつ、フジの剪定を、と思案した。
モミジの落ち葉は、5日頃から、先に紅葉した葉から順に落下し、絨毯を織なし始めた。
中旬には、この絨毯を大勢の観光客にも愛でてもらえた。
“方丈”は、モノトーン(同位配色)のモミジのグラデーションに包まれていた。これが、私が願う究極の“棲めば都”であったのかも、とふと感じた。またぞろ、ここで養生していただくはずだった稲葉耶季さんを思い出し、偲んだ。
群馬から戻ってみると、さらに落葉が進んでいた。
どなたかが、パーキングの絨毯に踏み込んで、ハートマークを作ったようだ。インスタグラムで紹介されていた。幸いなことに、今年は、無断侵入して踏み荒らす人には悩まされずに済んだ。
このハートもやがて風などで乱れ始め、21日には喫茶店のスタッフが落ち葉かきをして、マルチング剤として果樹園などに投入した。暮れの落ち葉かきの始まりであった。
フミちゃんを迎えた24日に妻と私の3人で、暮れの大仕事の1つ、中庭から落ち葉掃除に手を付けて、温度計道とパーキング場を経て南門までの落ち葉を片付けた。マスクをかけて取り組んだ庭仕事は、これが最初ではないか。この2人の助成に感謝感激だった。
とりわけパーキング場沿いのくぼ地(モミジの木が生えている部位に1年分の落ち葉が溜まっている)の落ち葉をかき出し、袋に詰め、運び去る作業が面倒だ。今年は、この女性チームの見事なタッグプレイでことなく終えられた。確か昨年は、土橋夫妻に片付けてもらった。
28日、昇さんに次いでフミちゃんを迎えた。フミちゃんと妻は旧玄関前の庭掃除に。昇さんと私は、ブランコ苔庭と呼ぶ一角と、この前部に走る公道・カシの生け垣から南門のあたりまで60mほどの公道の落ち葉の掃除に取り組んだ。
とりわけ、ブランコ苔庭部の生け垣の下に溜まっていた落ち葉掃除は、厄介だ。エンジンブロワーで庭側から公道に吹き出しながら、同時に吹き出した落ち葉をかき集めて始末しなければ、ごみを公道に吹き出している、と誤解されかねない。だから2人がかりの作業になるが、今年も昨年同様に昇さんと取り組んだ。
その上で男性チームは女性チームに合流し、昇さんは旧玄関前に生えたシホウチクの始末に、私は植え込みの剪定や、萎れたノコンギクの刈り取りなどに参戦した。
残すはイノシシスロープとヒノキ林の落ち葉掃除だけになった。この2カ所は大仕事だが、「30日に息子・慧生(けいしょう)と連れだって」と、訪ねてもらえることになり、昇さん父子に片付けてもらうことになった。
かくして2024年暮れも、なんとか新年を迎える落ち葉掃除が終わった。
2.サルの襲撃と防御策
2024年を締めくくる1カ月のハイライトは、月初めに「犯人はサル」と分かった畑の被害と、月半ばの4泊5日の関東出張だった。後者は友人・萩原先生のおかげで何とか願いをかなえられた。しかし、サルの襲撃は、そのとどめのごとき総攻撃が4泊5日の出張中に生じている。結果、ブロッコリーとダイコンだけでなく、チンゲンサイ、ジャガイモ、ネギ、そしてハクサイはことごとく、ノラボウナやワケギなども大打撃を受けてしまった。その顛末は以下。
11月27日にブロッコリーがサルの仕業、としか考えれれない(が、サルにしては仕事が綺麗すぎた)襲われ方で全滅。その後、師走の1日に、犯人はさるであった、と確信するに至っている。昇さんがクルミの木の枝落としに取り掛かった時のことだ。この木の足元近くにあるニラコーナー (6畳の間ほどの畑で、その全五面を獣害フェンスで囲ってある) ”の屋根部の金網の上に、1本のダイコンの萎びた葉を見つけたからだ。
「もしや」と、急ぎダイコンの畝を丁寧に調べてみて、驚いた。少なくとも5本は引き抜かれた痕跡があった。にもかかわらず、遠目には「荒らされた」とは、気づいていなかったからだ。これをもって、5日前(先月27日)にブロッコリ―を襲った犯人もサルに違いない、になった。キット単独犯だろう。複数のサルに襲われた時のように、競ったり、あせったり、かじりかけを残したり、あるいは暴れたりしたような形跡がなかった。
おそらく、抜いた大根を小脇に抱え、片方の手でその1本を、高みの見物をしながら食べ終えて、その葉だけ捨て去ったのだろう。残る数本は持ち去ったようだ。
だが、妻には「大根もヤラレていた」との報告にとどめた。小脇に抱えてとか、喰いさしの葉だけしか残していないなどと述べると、キット「可愛いい!」と言って目を細めのが落ちだ。こうした気の緩みが以心伝心し、サルを図に乗らせかねない。
それにしても、と不思議だった。残りのダイコンはどこで食べたのか。どこからサルは侵入したのか。もしや、金網を素通りできるほどの子ザルではないか。それもおかしい。ダイコンならまだしも、ブロッコリーは金網を無理して通すと葉が折れて落ちるなど、何らかの痕跡が残るはずだ。
その後、昇さんを迎えた7日(土)の夕刻まで、ことなく日々が過ぎ去り、翌日曜の朝を迎えた。9時に再訪した昇さんが先に畑に出て、複数のサルが襲った歴然たる痕跡に気付いた。
電柵のスイッチはオンだったのに、どこからサルが侵入したのかわからない。このままでは手の打ちようがない。思案が始まった。
昇さんは、抜いただけで、かじりつきもせずに捨てたダイコンを1本みつけた。植え直せば、再び成長し始めるのではないか、との意見を述べた。「それは無理だ」ろう、とおもった。だが、試したことがなかったので、植え直してもらった。
放り出された大根を拾い集めて、調理に値する分は台所に持ち込むことにした。
この日も前日同様に午後から2人連れの来客を迎える予定があった。昇さんとは引き続き剪定作業を南門近辺で予定もしていた。結果、昇さんは一人でニセアカシヤの高木の背たけを半部以下に縮めた。参戦し直した私はイチゴノキやマユミなど灌木の剪定に取り掛かった。
剪定作業は順調に進んだ。私は5日後の13日(金)から始まる4泊5日の出張が気がかりだった。それは、この留守の間の2つの心配だった。まず妻が心細げにならないか。次いで、この殺気に欠けるであろう庭の様子に気付き、サルが襲うのではないか。
そこで、昇さんに土と日と続けて来てもらい、4台ある獣害監視カメラを活かしてサルの侵入口や、侵入の仕方を突き止めてもらおう、と考えた。
その後、13日の朝までサルの気配はなく、獣害監視カメラ設置の念を押さず、久しぶりの長期出張の途に就いた。夕刻と朝の、少なくとも2度は、妻に電話を入れることにした。
14日夕刻に電話あった。サルの集団に襲われ、畑作意欲をなくすほど衝撃を受けた、との妻の報告に接した。どうやら昇さんが居合わせた昼間に襲われたようだ。後刻、昇さんは、電柵なんてあってなきがごとし、サルの跳躍力をはじめ運動能力は、想像をはるかに超えており、手の施しようがない、と感じたことを知った。昇さんの野生動物に対する意識は、妻と似ているように観える。捕まえたらひどい目に合わせてやる、との気迫がない。
幸いなことに、その後私が帰宅する17日の夕刻まで、サルに襲われることはなかった。翌朝の点検で分かったことは、チンゲンサイと残っていたダイコンは全滅。ネギは引き抜いて白い部分を食べるのではなく、青い葉をちぎり取ったり、かみついたりして荒らしていた。
妻は妹に手伝ってもらって、襲われずに済んでいた野菜の畝を、ビニールシートや寒冷紗でトンネル栽培にしていた。
昇さんは、幅2m長さ数mの遮光ネットを獣害フェンス沿いに、天井のように張る防御策を2カ所で講じていた。
そこが、サルが逃げ去った位置ではないか。この2カ所の外側には、樹木が生えたり、ニラコーナーでは天井に金網が張ってあったりして、サルが飛び移る上で便利であるに違いない。
電柵など「ものともしない」との意見があったが、致死量の電圧でもない限り、命がけの逃亡者ならモノともしなくて当然だ。調べて分かったことだが、まず奇妙な放電が認められた。一般的には漏電箇所でパチパチと発光するものだが、このたびは電柵線の結び目の先からパチッパチッと音をたて空中に放電していた。
次いで、夜半の点検で、異常な漏電状態になった箇所が見つかった。ラコーナーの天井部を覆う金網と、電柵線が絡んでおり、発光していた。急ぎ通電を止め、電柵線から金網を外し、再度通電すると、幾カ所かでの空中放電も止まった。
おそらく、サルはこの金網の上からジャンプして電柵線を飛び越え、畑に着地。逃げ去るときは、畑から高さ2mほどの獣害ネットを飛び越える大ジャンプをして、樹木の枝に飛びついたり、ニラコーナーの屋根部金網に飛び移っていたのではないか。その衝撃で、金網が動き、電柵と絡んだのであろう。ならば、昇さんが打った手は極めて有効、と判断した。
そこで、昇さんの次の来訪時21日に、小鳥よけの防鳥ネット(オレンジ色の極めて細いナイロン糸製)幅1.8m長さ18mmを、電柵の南面と西面に張り巡らせることになった。
その後、大晦日まで、サルの侵入はなかった。ただし、サルは近くまで来ていた。それは、堆肥の山を荒らしたり、脱糞を残したり、の証拠が示している。
ホットした気分で周囲を見回すと、白とピンクの山茶花双樹が枝を張るなど、剪定すべき木が多々目に留まった。
3.久しぶりの長期国内出張は群馬まで
群馬県まで4泊5日で、東京経由で出かけた。久方ぶりの長期出張だった。この旅は、温泉三昧を希望したので土日をはさむことになったからだ。
13日金は移動日だった。東京駅に近づいたおりに車窓から、ニョキニョキと聳えたつ高層集合住宅に驚いた。この驚きは、半世紀前のアメリカで、例えばNYでセントラルパークを見下ろせる高層集合住宅(本来のマンション)に招かれたおりの驚きとは異質だった。また、近年中国で見た雨後の筍のごとき高層集合住宅で感じた驚きとも異質であった。
高崎駅に着いた時にはすでに薄暗くなっていた。寒風にブルっと身震いし、身を引き締めた。ホテルではチェックインを済ませ、まず妻に第一報を入れた。その昔の妻は、何十日間という海外出張で留守にしようが弱気を吐いたことはなかった。だが、このたびは、「この間に、私がいなくなっていても知りませんよ」と不安の声を漏らしていたからだ。
友人に迎えもらい、居酒屋に案内された。席が5つ意されていた。ひょっとして、との期待が膨らんだ。高崎には7~8年ほど前から2~3年続けて訪れており、顔なじみの学生ができていたからだ。
仕事をやりくりして出張のついでにとか、遠方の仕事先から駆け付けてなど、3人と旧交を温めた。1人はすでに1児の親になっていた。4人は割り勘で、私の面倒を見てくれた。
翌日は終日大学で過ごした。29頁もの資料が用意されていた。
教室には、日本の沈滞が露わになった頃に生まれ、感受性豊かであろう年頃の若者が大勢集っていた。私の出番は午後だった。急遽、別室を借りて、持参したUSBに修正を加えたくなった。趣旨はいささかも変えようがないが、濃度や彩度あるいは奥行きなどを私なりに深めたり、高めたり、広げたりしたくなったわけだ。
この集いの進行係である女子学生の一人に、携帯で救援を求めれば、いつでも駆け付けてらえることになった。声を掛けていないのに、2度目に覗いてもらえた時は、「先生から」といって、飲み物の差し入れがあった。
スピーチは、持参した新聞記事を取り出して「何かがおかしい」と切り出した。わが国の「成人力」あるいは大人「学力」はOECD31か国・地域の中にあって2位と上位にある。だが、肝心の、「生活満足度」は平均を大きく下回っており、最下位であった。
国民は「成人力」あるいは大人「学力」を有効に生かせていないのではないか。あるいは国は、この国民の優れた能力を存分に生かしていないのかもしれない。
F・ニーチェは「偉大とは?」と訊かれ、「方向を示すこと」と応えている。国だけでなく、多くの個人も、この優れた能力を注ぐべき方向を見定められていない、あるいは間違えているのではないだろうか。
農業文明下にあった日本に生まれた私は、敗戦を体感し、思春期の頃から移行した工業文明に憧れを抱くようになった。だが、学生の頃から疑問を抱くようになり、オイルショックで疑問が解け、生きる方向を見定め直している。
その後、バブル現象に立ちあい、疑っただけでなく、工業文明の破綻を予感している。この予感は年を追うごとに揺るぎないデーターを積み重ねさせた。見定め直していた方向が揺るぎない活路に見えるようになった。
だから方向転換しない国や個人のありように不安を抱き、このままでいいのですか、と叫びたくなった。こうした体験も交えて、縷々述べた。
夜は、近場の温泉、地元の人が集う塩分濃度が高い“白寿の湯”に案内された。
「その時間なら合流できる」といって1人の青年に合流してもらえた。
温泉が塩水であったことがヒントになったようだ。内陸でサバの養殖をしており、サバの刺身が賞味できた。なんとも美味であった。
料理に合わせて、好みの醤油を選べる醤油バーがあった。
好みの醤油を買い求められるコーナーもあった。
このような温泉に、気軽に通える人たちがうらやましかった。
この日、今年は群馬でも気候が異常であったようで、下仁田ネギが凶作であったことを知った。
15日は伊香保温泉と水沢うどんで有名な渋川市に出かけた。水沢が三大うどんの1なら、残る2つは香川の讃岐と秋田の稲庭だろう。それとも、と興味津々になった。
日本のへそがこの地にあったことや盲導犬のトイレを用意し始めていることも知った。
昼食は水沢うどんを選んだ。宮家の人も大勢が訪ねた老舗だった。先代店主の薦めは“ざるうどん”だった。ならば、と副菜やたれまで先代の薦めに従い、初めてゴマダレを試みた。残念ながらこのたれは好みではなかった。
午後の環境公演会では進行表・シナリオが用意されていた。集まって下さった人たちは地域の中高年者が多く、エコリーダーの立場の方々が主であった。だから、自己改革の薦めともとられかねない内容はとても失礼におもわれた。そこで、高木勉渋川市長のお言葉を受けた形で、私自身の体験を振り返り、いわば孫世代への好ましき感化者になってはどうだろうか、と呼びかけることにした。
高度経済成長期での子育ては消費の美徳を甘受しがちだった。受講者の多くは、子育てでは失敗組(環境対策など配慮していない)が多いはずだ。今もわが国は、GDP神話にとらわれており、消費を喚起している。だから“逃げ切り世代”と呼ばれる高齢者に、子育て同様に、孫世代にまでに甘くなってはほしくなかった。
この間にわが国は失われた10年に踏み出しており、今や失われた30年に至っている。おのずと意識は多様化した。孫世代の中には工業文明の行く先を見透かしたような人が大勢いる。その若き感受性に火をともす、物言う祖父祖母世代になってはどうだろうか。このような気分で語りかけた。
終了後、市中を見学した。立派な寺院や神社、そこに林立する古木などが、往年の豊かな歴史を感じさせた。この地域の古人の文化を学びたいなぁ、と思った。
夜は伊香保温泉を満喫することになった。7年ほど前に案内され、その異様な温泉街を昼間に仰ぎ観た。このたびの夜景は格別であった。前回、伊香保は“温泉饅頭”発祥の地だと教わったが、今回は、是非ともと願った。
久方ぶりに温泉旅館の和室で過ごすことになった。ただし、食事は食堂で、となっており、部屋係は居なかった。
まず、温泉饅頭といえば茶色をイメージするが、かく発想させたという温泉の湯・鉄分が多い湯を体感することになった。湯船の底を足でかき混ぜると入道雲のように、きめの細かい泥がわきあがった。
夕食は、中ジョッキでのどを潤し、さまざまな品の料理を賞味した。地元の牛肉のたたきの握りがとりわけ美味だった。
部屋に戻り3時間ばかり歓談。再度温泉で体を温め直し、熟睡。
6時過ぎに朝風呂。これは、3度目の貸し切りのごとき湯あみ。この源泉は山中にあり、その配湯路沿いに温泉宿が栄えてきた。それが仰ぎ見る温泉街を形成させた。
散策に出て、ここがわが国の“温泉都市計画”の第1号であったことを知った。
長い石段をくだった。土産物屋が多い。その1軒・温泉饅頭を生み出し、売り出した老舗で、朝の8時32分に“本日完売”の張り紙を見た。これは前日に張った分だろう。店はまだ閉まっていた。
この散策では、この冬最初の霜柱、凍結した路面、小さかったけれどツララを観たり踏んだりした。
そして、すでに積雪があったようだ、と気づかされた。
竹久夢二の足跡は前回たどった。今回はハワイ王国との縁から始めた。
水沢観音では、“蟇股(カエルマタ)”に2頭のトラを見た。露店では桑茶も売っていた。富岡製紙がある土地柄だけに、今も桑畑が多く、この地に初めて招かれた折に、萩原さんは桑の葉の活用策に取り掛かっており、その1つが桑茶だった。
真新しかったが台湾神社も拝観した。萩原さんと出かけた最初の海外旅行は台湾で、原子力発電の調査だった。その時に、まだ学生だった陳さんを萩原さんに紹介され、陳さんは故宮博物館などを案内してくれた。出発前日にバリュームを飲む健康診断を受けており、その放射能が禍し、発電所に入れなかったからだ。これも幸いの方向に転んだ。私たち夫婦は、陳さんを台湾の息子と呼ぶまでの仲になったのだから。
徳富蘆花終焉の地も訪ねた。
そのうえで、高崎に取って返した。この度と、かつてのゼミ学生有志と触れ合う機会に恵まれた。
この夜は、温泉“七福の湯”であった。この温泉の売店で、この旅では初めて“まともな下仁田ネギ”を見て、おもわず側にあった富有柿と比し、その太さを収録した。
このたびの群馬にして、下二田ネギを堪能できない初めての旅になった。かつてのような下二田ネギだらけの売店をついに見かけなかった。
わずかに並べていても、ふとネギ程度であった。野菜が高価になりそうだ、との予感はこの地でもより深まった。
最終日は、スサノオ(進雄)神社拝観などの後、5つ目の温泉“湯都里”で、計8回目の湯が浸かり収めになった。
名物のとり弁当をぶら下げて新幹線の人になった。
陽が落ちきる前に帰宅し、サルの集団襲撃を目の当たりにして唖然、であった。
翌朝、キッチンから風除室越しに、見事に手入れされた土手の姿が望めた。昇さんが前年度の倣い、仕上げたのだろう。
4.孫世代、ひ孫世代とも触れ合う機会を与えられた
群馬は高崎が起点の出張は、いわば息子世代の友人の案内で、大勢の孫世代と久しぶりに接する機会に恵まれる機会であった。帰宅後も、未来さんはじめ幾人かの孫世代に訊ねてもらえた。さらに、大団円はなりそうな月末の3日間が待ち構えていた。その上に、急遽、曾孫世代とも触れ合う機会に恵まれることになった。
それは夢ちゃん(喫茶店30数年来の常連客・久保田さんのご子息)一家の来訪予定が入ったことだ。「里帰りする夢人(ゆめと)が一家で、」と久保田さんから知らされた。
にもかかわらず、幾つかの要因が(その第一は私の体調不良だったが)重なったりして、年末は私にすればハチャメチャの数日間になってしまった。
丑三つ時に獣害電柵の点検でソーッと起き出し、ゾーッと身震いし、翌朝から恒例の洗面をスキップしたが、妻には伝えなかった。さもなければ、風邪の原因は4泊5日の旅、と誤解しかねない。20日、咳をこらえ、マスクをして養蜂の師匠志賀さんと面談。カキの不作をキッカケにしてLED電光と昆虫の生態との関係に話題の花が咲いた。
その後で、脳震盪を起こした小鳥を見かけた。応急処置。息を吹き直した頃に、妻が昼食の準備で戻って来た。看護を引き継いでもらった。小鳥には妻の心が読めるのか、ばたつかない、慌てない。窓を開けて風にかざさせたが、飛び立たない。妻は忙しい時期だった。
広縁の縁側に移させた。食後、いそいそと妻は工房へ戻っていった。教室展が近づいている。しばらくして、ソーッと覗くと、小鳥はチョッと移動していたが、まだたたずんでいた。
PC作業が遅れていた私だが、好ましき文章が思い浮かばない。小1時間後、小用で広縁を通った。小鳥が飛び立ち、掃き出し窓が開いていた。「そうだった」と、思い出した。
「元気に飛び立った」との妻への報告は、午後のお茶で戻った時になった。結局、この日も寝込むようなことをせずに済ませた。
翌土曜から日曜にかけて、昇さんと暮れの庭仕事に当たった。その最中に、ある“シンボル”を創っておくべきではないか、と思い立った。長年、野小屋にあった“巨木の根元の玉切り”を、ユーティイティの前に運んでもらった。
23日の朝、咳と痰が収まらなかったが、体温が36.8度になったいた。矢間クリニックを訪れた。吸入。咳と痰の薬を出してもらった。この日の午後、風除室に突撃したと思われる大きい小鳥を見つけた。死後硬直が始まりかけていた。猫が入れない玄関の土間に移しておいた。
24日はフミちゃんを迎えた。フミちゃんと妻に風邪を移さないように配慮して、落ち葉掃除に精を出した。咳と痰は翌25日がピークだった。
26日、巨木の玉切りを“花壇”に見立てる構想を現実化することにした。喫茶店開店時に頂き、30年近くテラスのでディスプレイに活かし、朽ち始めたので野小屋で保管。その最後の活用策だった。
ユーティリティの前で、設置場所を整地していたら、妻が「庭の花で、準備ができました」と誘った。とても冷える日であったが、墓掃除に同道した。
27日、今年最後のフジの剪定。これで、このフジは年間5回は手をかける必要がある、と初めて確かめたことになる。
午後、柴山さんが後藤さん同道で、元アイトワ塾生を代表して年末の挨拶に駆け付けて下さった。後藤さんが一命をとりとめる病魔にさいなまれていたことを知った。彼はこれで3度目の命拾い(最初は落雷直撃。靴の底に穴が開いただけで済んだ。2度目は屋根からの転落。雨水が溜まったバケツの上に尻から落ち、バケツの破裂だけで済んだ)で、ついに自動車の運転免許を返上していた。
28日、昼、玄関の土間に置いてあった小鳥の亡骸を、羽や姿を整えた上で(見晴らしがよいイノシシスロープの中ほどに、地植えオリーブの根元) に埋葬した。2時ごろに来訪予定だった夢ちゃん一家は4時半になってしまった。父親の久保田さんを伴って、新生2児の紹介もかねて訪ねてもらえた。昇さんとの庭仕事を中断し、私も迎え入れた。喫茶店は4時に、この年の仕事納めをしていた。
久保田さんは、アイトワが喫茶店を開いて間もない頃に、夫婦で常連客になってくださった一組であった。やがてその母体では“未来の夢ちゃん”が遊泳し始める。
当時のわが家はケン、ハッピー2世、そして一番小柄だがものおじしない金太という3頭の愛犬を抱えていた。久保田家では、ほどなく男児が誕生した。一家はペットを飼えないマンション暮らしであった。金太が夢人クンのペットになった。おかげで金太は、保津川で泳いだり、愛宕山に登ったりするわが家では、今もって只1っ匹の犬になる。
久保田さんは版画のコレクターだった。ほどなく、その作品で、年に何度か入れ替えて、妻の人形展示ギャラリーのショーケース壁面を彩る間柄になった。
この日は、この年最後のフミちゃんと昇さんを揃って迎える日でもあった。3時になっても夢ちゃん一家が現れず、昇さんは最後にもう一仕事を、とシナモンの大剪定(2年ぶりで、徒長枝が聳えていた)に取り組むことになった。帰り支度を始めていたフミちゃんも、「ならば、」とこの助手を買って出た。その後、4児の父親になった夢ちゃんが、一家でご到着。妻と私は門扉に駆け付け、ゲストルームに案内した次第。
厨房に走った妻は、ほどなくもどって来たが、コーヒーはもとより「何も振舞えない」と不満げに話した。その上で「フミちゃんを見送らなくては」といって、席を外した。妻にとってはとても大事な来客でもあり、すぐに戻ってくるものと思い、雑談で間をつないだが、ついに現れなかった。
やむなく夢ちゃん一家を見送ることになった。厨房には赤々と電気がともっていた。やかんが湯気を吹き、沸騰していた。急ぎ、ガス栓を切り、先に出た久保田一家を追った。
門扉の近くにある個離庵の手前にシナモンの木がある。その剪定に昇さんは登って取り組んでいた。妻はその大剪定で出た大量の剪定くずの処理に当たるフミちゃんの手助けをしていた。日は西山に落ちていた。
妻は戸惑った様子もなく駆け寄ってきて、夢ちゃん一家を見送った。門扉を閉じる私をしり目に、妻はシナモンの作業に駆け戻った。その背を追いながら、かつて妻が一過性健忘症に襲われた時のこと(「雑巾を」と頼めば、「ハイ」と応えて取りに行くが、手ぶらで戻ってくるなど)を思い出した。とても似た動き方だった。
「おそらく、」と、私は妻が「何も振舞えない」と言って席を外した時の心境を憶測した。厨房の采配を妹に任せてからかなりの日時が経過している。きっと紅茶の茶葉の置き場など1つから、勝手の違うことが生じていたに違いない。
それは妻の責任、これまでのシステム作りの失敗・管理不足の問題だろう。だが、ひいては私の責任だ、と開店当時のことを思い出しながら、悔やんだ。
素人の主婦が集って初めた喫茶店経営だった。ある助言を試みようとした。だがあっさりと口出し厳禁とばかりに拒否された。そこで私は、最も当てにされる常連客になることと、喫茶店の継続責任を負う役割に専念することをわが身に言い聞かせた。
40年近くが経過したが、銘々がそれぞれなりに気を利かせ、私生活の延長のごとき頑張り方で、おそらくマニュアルなどとはおよそ縁がない運営に当たってきたのだろう。とはいえ、肝心の顧客の評価は、とりわけ外国人の評価は今も4・5程度を維持している。妻たちの誠実さと臨機応変の頑張りのおかげだ、と私は評価している。
だが今や、妻は多忙時の食器洗いしか当てにされていない。妻の私生活の延長のごとき頑張り方では、不案内なことが増えているに違いない。
過日、バナナを買ってきて収納するときに、先に買ったバナナをそっくりそのまま見つけており、「隠していました」といって、照れていた。かねてから私は、妻のやり方は「仕舞った」ではなく「隠した」に過ぎない、と忠告して来たからだろう。
それだけに私は、反省シキリにならざるをえなかった。それは、妻の健忘症が常態化してからやり方を変え、それなりの成果を収め始めていたからだ。総論ではなく、各論的に(例えばハンドバッグ、車のカギ、そして包丁などと順に)常置場所を定めさせ、次の作業に移る前に、まず常置場所に戻す癖を付けるように、と説得してきた。妻は守るヒトになり、守れるヒトになりつつある。
このように、50年前から各論で、週に1つであれ必需品の常置場所を決め、守らせておれば、どうなっていたか。悔やまれてならない。
結婚来妻は、在宅時の私の食事の用意を一度たりとも欠かしたことがない。それは私が、幸せのバロメーターとして、妻の手作り料理を幾度食べられるか、などを挙げていたからだるう。その頑張りのほどは、何がどこに入っているのか定まらない冷蔵庫を、私は非難しなかった。開ける必要もなかったからだ。これまでは、それでヨカッタ。やる気と手早さでなんとか辻褄を合わせられた。問題はこれからだ。
29日は雅之さん一家を、久しぶりに4人揃って迎える日であった。そう遠くない将来、雅之夫妻は孫に恵まれそうだし、ひ孫かのごとくに私にも抱かせてもらえるに違いな。
30日は恒例の、わが家流しめ縄づくりの日であった。会場の風除室まで、暖房用軽油を隣のワークルームから持ち込むだけで息が上がり、「これが最後になるかも」と弱音を吐いた。とはいえ、藁、藁を打つ杵と台、霧吹き、水引、あるいは参加人数分の椅子など、なんとか準備できた。
このつぶやき「これが最後になるかも」との弱音に妻は同調し、喚起していながら、担当分野でしくじっていた。この日は餅を作る日でもあったが、その準備に不具合を生じさせていた。急遽、数十個の“いなりずし”の準備に手を付けさせた。
当日は昇さんの助成を得る今年最後の日にもなっていた。しかも「慧生(けいしょう)を連れて行ってよろしいか」と、東京から帰省する息子同伴の問い合わせが前日にあった。大歓迎である。昇さんには、父子で取り組む作業の提案もしてもらえた。竹の間引きであった。急ぎ、その日のうちに庭に飛び出し、間引いてもらう竹(期待していない位置に芽生えた竹で、3年生か4年生の竹)20数本にマーキングした。
9時過ぎから、昇父子は大仕事・竹の間伐に着手した。私はしめ縄づくりをする風除室の段取りに、妻は稲荷ずしづくりに着手した。
恒例の厭離庵ご一家を時刻通りに迎えた。小倉百人一首の歴史に関して言えば、最も縁が確かなお寺のご住職一家である。例年、独力と独創のしめ縄をアイトワで生み出し、新年を迎えてくださっている。
準備は満足にできていなかったが、このたびも手作りのしめ縄で新年を迎えられそうになった。しかも、昇さん父子にも、竹の間伐の手を止めて稲荷ずしの昼食には合流してもらえた。
厭離庵のご一行を見送った後、昇さん父子はヒノキ林の落ち葉掃除に当たってもらえた。その折に、オリーブの側に小鳥を埋葬した話をした。なんと、昇さんは1カ月ほど前に、その西南方向30㎝ほどのところにメジロ(庭で死んでいた)を埋めていた。そしてそばを通るときに手を合わせていた。
この日は、夕刻から妻は私に励まされ、お節料理作りにも、例年とおりに腰を上げた。ほどなく、藤原裕一郎さんに、妻の体調を気にかけて、駆け付けてもらえた。彼は、健康皆保険制度を導入していない、あるいはできていないアメリカで、いわゆる庶民が当てにする民間療法の一つを学んでおり、日本で生業にしている。今日では、彼の相手想いの性格と動き方が、関連市場を切り拓かせており、生きる資格とはかくあるべし、と私の目には映る。
31日、熱はさら下がったが、咳と水洟が収まらない。この日、買い忘れていた橘の実を、妻は買い求めに出た。代わりにごく小さい温州ミカンを買ってきた。爪楊枝と糊(ボンド)を生かし、しめ縄に取り付けた。
昼過ぎのこと、伴さんに、東京から帰省した息子・清太クン同道で訪ねてもらえた。
お料理節は重箱一重分だが妻は煮て、盛り付けた。半紙などを妻は取り出した。だが私にはお鏡餅を飾り付けられなかった。第一、古いモチ米を用いた大小の餅はだらけていた。こうしておけば、明朝には「何とか」と期待した。しめ縄はミカンが付いた3つと、1つの付属品を用意した。
10時過ぎになって、私たち2人は共に夕食を抜いていたことに気が付いた。年越しのにしんそばをかき込んで、「寝正月にしよう」と語らいながら、風呂にも入らずにダウン。このたびの風邪で、久しぶりの取り出した吸入器を活かした上で、年を越すことになったわけだ。
新たな気持ちで新年を迎えるために、気分を刷新するシンボルを創ってヨカッタ、と想った。
5.新年を迎える心準備・そのシンボルを創った
2024年は、妻の物忘れが顕著になってから最初の年末を迎える年にもなった。年末年始恒例の行事は滞りなく執り行いたい、と願いながら、ついに大つごもりにダウンし、元旦を迎える準備さえ完了できず、不本意な越年になった。
下旬に入ると、妻は幾度にもわたって、お正月にはどなたお招きしていませんね、と尋ねた。ヒトサマを迎えるどころの騒ぎではないことを私は承知していた。それは、一見しただけでは妻の異常を正確には見抜けそうにないだけに、厄介におもわれた。これまでと変わりがないヒトと認識して下さった人と、話題が過去に、あるいは未来に、と及んだらどうしよう。誤解の元を作らせたくはない、と願ったからだ。
そこで、暮れの22日に思い付き、即刻手を付けた記念プロジェクトがある。長年放ってあった“太い木の根元の玉切り”を、記念品に生まれ変わらせる計画であった。過去20年間にわたって私が試みてきた加齢対策とは、まったく逆方向のプロジェクであった。まず、昇さんの手を借りてユーティリティーの前に移動させておいた。
次いで、その洞(うろ)の下部半分に、砕いた発砲スチールを詰め込み、その上半分には土を詰めてもらった。その上で、2日をかけて据えつける方角を見定めたり、防腐剤を塗ったりして花壇に仕上げた。内面と下部にはあえて防腐剤を塗らなかった。
翌日、お正月の喫茶店再開に備え、ふさわしく想われる植栽を試みて、水を与えた。
庭づくりの4人が揃った仕事納めの28日に、“切り株花壇”の前で、お茶の時間にした。
これは、刻々と内部から朽ちて行く妻と、明日は我が身の私をはじめ、あらゆる生きとし生けるものがひとしく背負ったいとおしき宿命、そのシンボルとして、朽ち行く巨木の玉切りに命を与えた。
これまでの加齢対策とは正反対と言ってよい役目を担ったシンボルだ。これまでは、65歳から手を付けた加齢対策は、丸太の階段を石造りに変えるなど、永続性を願う方向を目指していた。この度のは逆に、外面では変りがなさそうに見えるが、内面から刻々と朽ちる身だとの自覚を深めるための記念品である。
核家族化が進み、刻々と衰える人間を肌身で感受し、理解する機会が減った人が増えている。同時に、世の中は、臓器移植までを当たり前にしており人間も部品の集合体・ロボットかのような錯覚を抱かせかねない方向に進んでいる。しかも、「●▲■・・・」などとの想いを馳せて行くと、外面と内面の乖離が露見した生き物・老体を見て、壊れた機械でもあるかのように感じさせてしまわないか。この心配への配慮や自覚の必要性の、この切り株花壇はシンボルである。
実は、師走の半ばから「お屠蘇はどこで買えるの」と、妻は2度も3度も私に訊ねていた。結局大つごもりの朝になって、買い求めていなかったことを私は確かめた。「もしや」と気になったことがあった。案の定、妻は1つの共生システムを崩していた。すぐさま電話を入れさせた。その先は、わが家にとっては今や最寄りの個店の酒屋さんであった。
ほどなく、味醂などとともに屠蘇も届けられた。付録に“日めくりカレンダー”がついていた。
このひと月ほど前に、もう1つの共生システム(無農薬有機栽培のコメ作りに励む農家との共生システム)も、妻は台無しにしていた。コメを買い求める先は変えてはいなかったが、システム(買い求め方)を勝手に変えていた。元は、半年分ほどの代金を先払いし、必要量を勘案して自動的に送り届けてもらうシステムであった。これを変えていた。
その理由は、「必要なだけ言ってもらえば、後払いで十分です」と言ってもらえたから、と平然と応えた。そうなった訳を問うと、「お米がドンドン溜まったから」という。さらに問い詰めると、喫茶店の守をしてきた仲間のお一人(喰い盛りの男3人を抱えた主婦)の急逝に行き着いた。
急ぎ、システム(あるいはフォーム)を元に戻し、ペース(あるいはシェープ・届けてもらう回数かロットを減らす)を変えるように頼んだ。これは、丁度、スーパーなどでコメの品切れが話題になっていた時期だったので、必需品の共生システムの大切さを説明するのが容易だった。
屠蘇酒は、あればあるに越したことがないモノやコトの部類だが、ココロのフォーム確立の源泉の1つとみて、例年通りに大晦日に漬け込んだ。
この日は、お節料理づくりに妻が励む日でもあったが、お重を1段分煮るだけで、力尽きた。
私も力尽きた。かろうじて、しめ縄を九部通り仕上げただけで、鏡餅や神棚や仏壇への供え餅の準備は(櫛柿、昆布、あるいは橙などは妻が買い求め、半紙なども揃えてあったが)できなかった。元旦の日が昇りきる前に、せめて門扉にしめ縄だけでもつけたい、と願いながら寝床にもぐりこんだ。
紅白のサザンカ双樹はもとより、スモモの剪定もできずじまいになった。
6.その他、水俣から来たシナモンなど
1、さちよさんが関わった夕餉。妻は、来客の接待にすっかり自信と気力をなくし、不安を感じるようになった。さちよさんの来訪ですら、初対面の友人同伴と知って、迎えるのを躊躇した。結果、夜は3人で造った夕食で歓談し、宿泊は「どこかで、お願い」になった。
2、さまざまな美味。まずリアルな栗饅頭。1つを摘まみ上げ、5分の2ほど口に含み「お見事!」と、嬉しくなった。初賞味の和菓子だった。残りの5分の3ほどは、ほんの少しずつ、濃い目の煎茶と賞味。この菓子は、久しくご無沙汰の友人が、跡目を継がせた息子に生み出させた代物とみた。妻を含めて4人の人と愛であった。
次いで、手土産のホウバ寿司。これは4人で、チンで温めて、私は3種を初賞味。焼いて朴葉を焦がしながら温めたら「どうか」と、ふとおもった。
翌日のこと、急ぎ、わが家の朴葉を拾いに出て、4枚を選んで持ち帰り、湿らせて伸ばして乾かした。今年は、朴葉味噌を味あわなかった。いつの日にか妻が手作りの味噌で、と願わせた。
久かたぶりに“うどんすき”セットを送って頂いた。これは、60年来の思い出の味だった。大阪に勤め始めて“うどんすき”なる料理があることを初めて知った。接待なるものに、初めて誘われた時に所望した食べ物でもあった。その後、相手が誰であれ、接待で誘われると“うどんすき”を所望した。同じ人が2度と誘ってくれることはなかった。わが家で逗留し、この事情を知っていた人が、何年振りかで贈って下さった。ふと、これがこの「食べ収め」かもと想った。
一度は味わいたい、と思っていたシメたてのサバの刺身を、内陸の群馬で初体験した。こうした“初賞味の喜び”をどなたかと分かち合いたくおもっていたら、赤穂から殻付きのカキを贈っていただいた。幸いなことに2人の来客に恵まれた日であった。ニューオルリンズで知った生ガキの食べ方で、初賞味してもらい、とても喜んでもらえた。
独特の(動物性食材を用いない)手作りシュトーレンを贈っていただいた。かとおもうと、翌日はこれも手焼きの菓子パンを届けて頂けた。この2品、友人に話恵まれた日に、味わいあえた。
保存していたトウガンと、大垣時代の友人手作りのベーコンを妻は活かし、トーガンスープとベーコンサラダを沿えた夕餉があった。とてもありがたく感じた。
3、水俣から来たシナモンの木。この木の剪定を昇さんの好きに任せた。水俣事件にとても関心を寄せた時期が2度あった私だが、その後期での思い出深い記念樹だ。
ある時、所用で熊本を訪れた折に、水俣事件の“かたりべ”と呼ばれていた女性・杉本栄子さんと触れ合う機会があった。これが2度目の始まりであり、この時に初めて知ったことがあった。
水俣市の男性職員で、表立って只一人、水俣事件の解明に公正に取り組んだ人がいた。この人は、2重の被害者(杉本栄子さんご夫妻など発病した漁民で、多くの漁民にも差別扱いされた人たち)の実態も把握し、問題解消と救済の必要性を訴えた。ために、時の市長はじめ市幹部から、窓際に追いやられた。その、まさに窓際に只1つ追いやられた、見せしめのごとくに移された事務机を、念のために覗き見にも行った。
この一人窓際に追いやられた男性の自宅を訪ねると、母親が応対してくださった。チッソの城下町とも言われていた地元にあって、さぞかし母親は、いわゆる肩身が狭い思いをされているであろう、との想いが訪ねさせた。だが、その母親の物腰に触れ、庭にそびえるこの親木を見て、訪問記念に是非とも、と所望した。若い苗木を自ら1本掘り出して、持ち帰らせてくださった。
その後、この男性・吉本哲郎さんに頂いた本が今もわが家の書架にある。
吉本哲郎さんには、終日地元を案内していただいかこともある。その頃に、私は1本のエッセイを残している。
この記念樹は、今や樹齢30年ほどだが、昇さんはこれまでの私よりも見事に剪定した。
ちなみに、この吉本哲郎さんは、1993年に開館した水俣市立水俣病資料館の館長に、後年選ばれており、2009年に退職。杉本栄子さんは“かたりべ”を務めておられた。
吉本哲郎さんは1996年に地元学ネットワークを設立し、今も活発に主宰しており、活動中。
4、実生君のしめ縄。なんとか恒例に沿って“しめ縄”作りを実施することができた。これは60年ほど前に1人で取り組み始め、やがて恒例になった。以来今日まで元旦は手作りのしめ縄で、1度も欠かさずに迎え続ける記録を更新できた。
最盛期は、アイトワ塾生の有志も参加していた2010年頃で、大勢が集う第2期の恒例になっていた。それは、裏の小倉山にウラジロ採りに出かけることから始まった。
その後、小倉山の地元住民に諮られずにこの山で工事が始まり、ウラジロが生える山肌が削り取られるなどの破壊へと進んだ。いわゆる古都保存法の下に、山を現状保存するために国税を投じて京都市のものになった山、と聞かされていただけに、地元住民はこの工事を破壊行為ささやいた。
80年前に私が初めて知った小倉山は赤松の山で、マツタケがたくさん採れた。その後、農家が柴刈りや落ち葉カキをしなくなり、陰樹林化が始まっていた。だから私は心ひそかに、アカマツの山に戻るのであれば、と願わぬでもなかった。
後日、この破壊は京都市が主となって進める開発で、陰樹林化していた小倉山を、カエデやサクラも華やぐ山に戻す工事であった、と間接的に知るところとなった。
この是非はともかく、山でウラジロが手に入らなくなったのを機に、庭では樹木が育ち、年末の落ち葉掃除など手入れが大変になってしまい、しめ縄づくり (準備から後片付けまで) でほぼ1日つぶれるのが負担にもなったので、第2期の大勢での催しは止めた。
そこで、なじみの厭離庵(母がお茶の稽古で通っていたこともある)に話を持ち掛け、第3期の恒例に移行するようになった。まだ同寺では第3子、冬青(そよご)クンは生まれていなかった。
昨年度は、第1子の実生(みしょう)君は学業の関係で不参加だった。しばらく会わぬ間に背たけがものすごく伸びていた。2年間、縄を綯(な)っていなかったはずだが、ものすごく上手に綯えるようになっていた。それは次子の慧桃(えとう)君も同様だった。
なぜだか人間のすごさを追認したかのような(いったん脳と体で習得した技は、脳と体の成長にともなって勝手に上達するようにプログラムされているのかもしれない、との)気分にされ、感嘆させられた。
それにもまして、この一家は、年ごとに新たな挑戦、新しいしめ縄のデザイン開発に挑む気風を育まれているかのようにお見受けし、学ぶことが多々の4時間であった。
5、中尾さんのブレーカー工事。喫茶店の電気系統のブレーカーは、せめて厨房のブレーカーは(当初は、一般開放する喫茶店の計画がなかったので全棟一括管理になっていたが)、厨房で独立管理(操作)できるようにしたくなった。
そこでまた中尾電気店の主人のお世話になった。ともかくこの人の仕事は丁寧で、とってつけたような仕事は一切ない。感謝感激の出来栄えになった。
だからまた思い出し、悩まされたことがある。思い出したことは、過去の水道の水漏れ事件であった。庭内には水道を引いた造作物が複数あって、調べようがなくて難儀した。だが、工事をした職人さんを探し当てることができて、建物関係の図面を診てもらったら、1発で突き止めてもらえた。だが今や、その職人さんの消息はまた不明である。
私の身体は、主治医を決め、管理を頼むことにした。主治医は年若いので、私の死をもって話は完結する。だが、建物はそうはゆかない。いわんや、環境の時代になれば、欧州などのように、何百年と補修や改装などをしながら使い続けられるようにしておかないと大変だろう。そうおもって、わが人生後半の建物はこの想いに沿って造った。だが、社会システムが、この想いに沿って変わらないと(大工場で作った既製品を、全国の津々浦々にまで行き渡らせるシステムから転換しないと)不効率極まりない社会にしてしまいかねない。このような取り越し苦労に悩まされ始めてしまったわけだ。
6、生きるシステムの再構築。基礎食品など必需品の“生きる共生システム”ほどではないが、私は大事にしているシステムが他に幾つかある。洗濯システムもその1つだ。割安の洗濯機を1台買い求めるだけで、新しいシステムに切り替えることが、この度できた。これまで妻が慣れ親しんできたシステムの簡易化に過ぎないが、それだけに万々歳に思われる。このシステムに妻は死ぬまで甘んじられそうだ。
庭の落ち葉掃除のシステムも、小型で強力な電動ブロワーの改良(風の吹きだし口の延長)が、昇さんの工作でかない、見通しが立った。他の(私が担当するエンジンブロワーを含めて)機種と使い分けることで、非力になっても(時間が少し長くかかるだけで)取り組めそうに思われる。
7、泣きたくなったこと。群馬から帰って知ったことで、ビックリ仰天したことがあった。当月は舌平目のソテーに、と2軒のお宅にも小枝を切り取って進呈しローズマリーが、惨めな姿になっていたことだ。10年ほどかけてオキダリスと共棲させ、年に2度、花の季節を楽しめるように仕立て上げたが、ローズマリーの枝がボンボロボンに切り取られていた。「すっきりした』と、私が褒めるものと妻は思っていたようだ。
気が鎮まるまでに10日程要した。来年のオキダリスの花の季節を待って、最終判断を下したい。ともかく、元の姿がヨカッタになれば、戻るまでに数年は要しそうなので、複雑な心境にされている。このショックが、ヒョトすれば“切り株花壇”を発想させたのかもしれない、と想うことでことで、越年することにした。いよいよ2025年を迎えることになった。日本が破綻する年、と睨んできた年(私の目には、既に日本は破綻しているが)を迎えることになる。