目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 異例づくめだった1年最初の1週間
2 一人でも行える大進化と、人生幾度目かのエポック
3 AGUを訪ねた
4 『1ダースなら安くなる』から、それは始まった
5歯がゆい思い出を、振り返った
6年末には、日本はどうなっていたいのかなど、その他
最後のエポックも、大進化であれ
2025年は初七日まで、異例づくめでした。元旦は、日の出に気付くとベンチコートを着込み、庭に出て、前夜仕上げた注連縄を付けて回りました。異例は、前夜のうちに付けて回れなかったこと、そして初めて愛犬の注連縄を割愛したこと。加えて、そそくさと床に潜り込み直し、元日を“空白の1日”にして、体調(37.9度)の立て直しにとりかかったことです。しかも、7日(火)は、七草粥を、結婚来初めて割愛しています。
この間のトピックスはまず、妻が、空白の1日に同調しながら、三度の食事時には起き出して、元旦は粥など、延べ7食(ハッピーの1食を含め) を用意。元日に届いた予期せぬ米寿の祝い。2日を実質上の元日にして、仏壇の両親と夫婦間で新年の挨拶。その折の妻の“奇妙な振る舞い”。2日の、妻が迎えた“予期せぬ来客”。3日は、有難き餅の頂きもの。4日、昇さん父子と3人で取り組んだ初の庭仕事。それは、囲炉裏場とヒノキ林の落ち葉掃除や囲炉裏場の剪定くずの整理など。そしてお2人に、M・エンデの本を、それぞれお貸ししたことです。
7日は、フミちゃんの初来訪日でしたが、私は初外出で大阪まで。妻は夕刻に、フミちゃん便乗で私を駅頭に迎え、私も見送りはできました。夜は、初のハリハリ鍋で体を温め、咳と水洟(ばな)が再発しないことを願いながら眠りました。この初外出は互例会で、上の米寿の祝いと共に商社時代の社友会がらみでした。この間の3度の食事も、妻は欠かしませんでした。だが、元旦の菜がたくさん入った粥に始まり、夜に初の雑煮。屠蘇酒は2日の朝。そしてお節料理はこの日、恒例の泊り客を午後に迎え、夕食で手を付け、片づけたなど。異例ずくめでした。
8日は伴夫妻を迎え、歓談。9日は天野茶園に電話で、無農薬有機栽培の茶をたしなむ関係を復活。そして、岡田さんを迎える10日(金)は、喫茶店が休みと分かり、急遽高安先生とフミちゃんの賛同を得て、「初の映画会」。賑やかに上旬を締めくくりました。
中旬は、庭仕事の本格的始動(昇さんはサザンカ双樹の剪定。私はブルーベリー畑の手入れに着手)で始まり、20日は喫茶店の冬休み入りと、矢間医師に主治医として本格的に始動していただいた、で過ぎ去りました。この間にも、心に残ったことが多々あります。柑橘類の木に、遅ればせの寒冷紗かけ。初の焚火は中1日をとって2度に分け、初回は焼き芋も。3件の光栄なる来訪(元顧問先社長ご夫妻、暫らくは伏せておきたい方々、そして長津親方)。重力電気のソーラー発電気化の検討。知範さんと、これも遅ればせの当月記12月分原稿の引継ぎ。AGU宅を小木曽さんと、これは初の教え子宅訪問。もう1人の元顧問先社長から胸がすく献本。その上に、挨拶と1丁のノコギリを求めて長津親方をお訪ねしたのですが、品切れ。後日、それが「出来ましたヨ」と言って、なんと持参してくださったのです。
下旬は、久方ぶりにピアニストのY・アリコさんと、翌日は詩人のY・賀代子さんの何か月かぶりの来訪で始まり、3日連続の日替わり外出と続き、睦月はアリコさんの再訪で過ぎ去りました。アリコさんはある相談で、賀代子さんは初の歓談でした。日替わり外出は、病院での最後の目の検査で、MRIも。知範さんと新PCを購入し、刷新。そして先に献本していただいた元顧問先の60周年記念式典に参加、でした。他に、昇さんはキンモクセイを大々的に、私はローリエなどを、それぞれ剪定。そしてフミちゃんと錆止め塗装など3件の懸案を解消。さらに27日から、恒例の洗面を再開、などと続きました。
この間に、1本のエッセイに触れ、ある一著を思い出し、再読。その後、再生した録画番組の1本が、先の2件と心の中でまるで化学反応。その上に、現首相の所信表明での“楽しい”が、わが“先楽園”を振り返えらせたのです。つまり、最悪の気分で明けた睦月ですが、晴れ晴れした心境で締めくくれることになったのです。
~経過詳細~
1.異例づくめだった1年最初の1週間
元日は未明にまどろみ、大晦日に決めたように“空白の1日”にして「寝て過ごそう」、元日は2日にずらそう、を追認。同時に、今年は“日本が破綻する年”と、かねてから私が心配してきた年であったことを思い出し、異例で、最悪の年が明けたような気分だった。
日の出と共に起きだし、パジャマの上にベンチコートを着込み、前夜仕上げた“3種で5つのしめ縄”を、なぜか前の公道に人影がないのを確かめた上で、門扉に取り付けた。次いで喫茶店の扉、母屋の玄関、そして居宅に、と付けて回った。今年は初めて、愛犬のハウス用のしめ縄を(暮れの30日に作る余力がなかったので)割愛した。ハッピーは小屋から出ずじまい。
「お粥が用意できました」と妻に、寝直していた私は起こされた。元旦に粥、は初めての体験、と感じた。かつて暮れに高温で倒れ、三が日を寝て過ごしたことがある。その時は、2日の朝粥から1年の食が始まった、と記憶する。当時は両親と4人暮らしで、暮れの30日の餅つきで無理をしたのがたたったわけだ。それは、数々の事情があってのこと。前夜から10数臼分もの餅米を浸けてあった。重い杵での突き手は、私しかいなかった。しかも、両親と妻は起き出しており、最初の蒸篭(せいろ)が蒸し仕上がりかけていた。高熱をおして、つきに搗いた。綿入りの袢纏、次いでマフラーを首に巻いても寒かった。搗き終えてバタンキュー。体温を確かめてもらうと40度超。昏睡と絶食の体験であった。「あの時よりも、マシだ」と、眠り直した。
今年の2食目、元日の昼は、大みそかに古米のもち米で造った餅を、安倍川にして少々。妻は着替えており、暮れの後片付けに(済ませずに眠ったものだから)当たっていた。食卓にあった年賀状に目を通した。分厚い封書が混じっていた。商社時代の社友会から、米寿の祝いだった。挨拶文2通(現会長と社長の連名と社友会長名)に、祝いの品のカタログが添えられていた。
夕食は、昼と同じ餅での初雑煮。しかも白味噌ではなく、澄ましだった。パジャヤマ姿のまま食卓についていた私は、ケイタイで澄まし雑煮を撮ろうとした。妻は「バカみたい」ではなく「馬鹿じゃない」とでもいったような顔をした。
昼時の年賀状の中に、今年も、あとで見直したい、とおもったハガキが幾通かあった。まず、毎年手彫りの版画で下さる3葉。人生最初の女友達。元顧問先の幹部。そしてTV番組のディレクター。
いつも手書きのカット絵に惹かれてきた2葉。仏教画家と、コンサルティング・ディレクターと絵本作家ご夫妻の合作。
丁寧な手書きや手作業の3葉。学生時代と商社時代を通しての先輩。私淑する僧侶。そして元大垣市女性アカデミーの受講生。
そして、これも創作の賜物!?! 学生時代と商社時代を通しての後輩は、いつも絵と文を創作。短大時代の教え子は、頼もしい子宝。
2日は、妻は神棚や仏壇に燈明をあげた上で、私を起こした。日常食が用意されていた。まず、仏壇に挨拶でも、と向かおうとすると、妻は大慌て。「お母さんに、見られたら」と、髪に巻いていたクリップをそそくさと取り外した。
既に「私が見てしまっているのに」とか、燈明や線香に火をつけに行った時に、見られてしまったのではないのか? などと思ったが、口にはしなかった。もちろん、本気で? とか、これも?一環か と感じている。
神棚から始める恒例の礼拝を、初めてスキップしていたわけだ。仏壇で線香をあげながら、こうした政(まつりごと)や日課などと、認知症の発症率との間には、何らかの相関関係が有るのではないか、とふと想った。
屠蘇酒は、私が指摘し、大みそかに酒屋で屠蘇をもらわせ、用意してあった。座敷から私が持ち出してきて、杯を交わしあい、夫婦は新年の挨拶。
副茶などを妻は、飛ばしたが、白味噌雑煮は用意した。副茶などを飛ばしたのは割愛か、今の妻の限界か。そういえば、と思い出した。「昨年の今頃から・・・」妻には異常が現れていたのかもしれない。副茶が出てなかった、ような気がする。
次いで、「確か! 今日は?」と、新聞で大学ラグビーの決勝選予定を確かめていたら、いずこからか妻が戻ってきた。予期せぬ来客に応対し、新春初のコーヒーを点てた、という。相手は、妻の喫茶店仲間だった女性のご主人だった。30年近く喫茶店の日替わり運営にかかわり、数年前に夭逝された女性が、主人と呼んでいた人であった。
「財布をお忘れで」礼も言わずにお帰りになった、らしい。「認知症が、かなり・・・」と、妻は心配した。
「ヨカッタねえ」と応じた。
往年の妻なら、と私の想いは次に移っていた。コーヒーを余分に2杯分点てておき、見送った後で、居宅に持ち帰って初のコーヒーになっていたはずだ。
3日、初の小雨で開けた一日。有難い餅を頂いた。これが我が家では本年初の新米の、しかも半分は玄米の、餅になった。
4日、昇さん父子を迎え、3人で初の庭仕事に当たった。お2人はヒノキ林の落ち葉掃除と、昨年暮れに切り倒した大量の竹の始末など。私は囲炉裏場で、旧年来の剪定くずの山を、焚火で始末する寸法に切り分けた。
この日、息子の彗生(けいしょう)さんが、帰り際に「読んでおくべき」本を貸してほしい、とご所望。思案の末に、彗生さんにはミヒャエル・エンデの『モモ』を、思い出話を語りながら。ついでに昇さんにも、『オリーブの森で語りあう』をお貸しした。
『モモ』を、私は社会人になってから読んだ。わが国の労働時間は年間2000時間の時代だった。西ドイツでは1500時間で、労働生産性では、わが国を上回っていた。かくなる前の西ドイツでは、労働争議が盛んにあった。ある30万人労働者デモでは、各人が『モモ』を、もしくは続編の『はてしない物語』を、手に、手に掲げていた、とものの本で読んだ。私の人生は「もっと早く読んでいたら」変わっていたかもしれない。
この間にあって、かつて妻の生徒さんで、亡き母と同郷の女性を、2日の午後から今年も2泊3日で迎えていた。勝手知ったる娘が1年ぶりの里帰り、かのように私も受け入れている。ハッピーも1年ぶりの再会だが、彼女の姿が見えない時点から興奮し、くるくると落ち着きがなくなる。この度は、小動物のぬいぐるみをハッピーはもらった。
私には、何十年ぶりかの大きなハマグリだった。前回、2年続けてハマグリが手に入らなかった、とぼやいたからだろう。この日の夜に、やっとのことで暮れに妻が煮たお節料理に手を付けて、片付けた。大きなハマグリの吸い物がついた。
5日と6日はひたすらPCの人になった。12月分当月記原稿の作成が遅れていたし、ぶり返しかけていた風邪の制御にも有効であった。
7日が明けた。妻は、結婚来初めて、七草粥を用意しなかった。もとより、七草のありかの目星さえつけていなかった、という。この日は、大阪まで初外出の予定があった。フミちゃんの初来訪の日でもあったが、迎える前に発った。会場は賑わっていたが、顔見知りは数名に過ぎなかった。
だが、白寿や米寿者の名簿に触れ、独身寮時代の相棒の健在を知りえた。商社員の平均寿命は短いと聞いていたが、白寿者は3人で、2人は音信不通。これはまだしも、米寿は38人だった。当時は毎年300人前後が採用されていた。社友会には半数しか入っていないとしても、少ない。
2025年は、日本の破綻があらわになる年、とかねてから睨んできた年でもあった。この意見は、バブルが叫ばれ始めた頃に、アイトワ塾で、歓談時に披露している。処女作(1988年)では第4時代到来論を唱えたが、その中身を紐解く読書会であった。
だから勢い余って、その後、ダイエーはもとより、百貨店や銀行なども次々と消えてなくなるに違いない、との余談も添えた。もちろん、こんなことを破綻とみていたわけではない。
やがて、日本を1つ売ればアメリカを4つ以上も買えるとか、今や欧米に学ぶことなし、などと豪語するようになった。心配していたことは、第4時代に移行する上で、日本は最も恵まれた条件を備えていながら、国民の間で「後塵を拝したと」ばかりの、いわゆる民族としての自信や尊厳の喪失感があらわになることだった。その顕在化、を危惧していた。
もちろん、そのキッカケとして、食糧問題、インフラの老巧化問題の集中露呈(欧米が200年かけて造ったコンクリート構造物を日本は50年で造っていた)、悪しき財政の露呈や政治の不透明感、あるいは自然災害とその悪しき対応など、を心配してきた。
2.一人でも行える大進化と、人生幾度目かのエポック
大晦日に覚悟していた通りに、異常だらけの1週間を過ごした。まず、なぜか、元旦のまどろみ時に、幼い頃を振りかえっている。
空襲警報がいつ鳴るかわからない戦時中でさえ「もう幾つ寝たらお正月」と、元旦をウキウキした気分で迎えたものだ。枕元に、新しい下駄や肌着が置いてあった。凧あげも、女の子は羽根つきも、お正月にならないと、させてもらえなかった。
この度は、チョッと疲れと熱があっただけで、わが家なりに守ってきた歳時記をすき勝手にした。だが、時はいつも通りに刻んだ。このようにして新しい年が明け、1カ月を通して振り返ってみると、その後、睦月は“予期せぬご褒美”に多々恵まれている。おかげで、この一カ月を、良き1年の始まりであったかのような気分で締めくくっている。
その最初は、朝食の粥で起きた際に知った思いがけない、まだそうとは思っていなかった“米寿の祝い”であろう。
この祝いから始まった数々のご褒美の中で、その最大は、わが生涯の幾度目かのエポックに(これまでとはまた違った“意識のドンデン返し”を迫られた機会に)恵まれた、かのように感じさせられたことだろう。
最初のエポックのキッカケは疎開と敗戦。その後の肺浸潤罹患。そしてゲンちゃんの至言などと続き、「進化ではなく大進化を!」と、気付かせた後年の数々のデーターなど。ここらでもう一度、生き方を大転換し、希望を根底から新たにしなければいけない、と尻をたたかれたかのような気分にされ、勇気を奮い立たせた。
この前にも1つのエポックがあった。半世紀以上も前の再婚だった。クリクリした目が第一印象の10歳余も若い女性と、唐突に再婚の見通しが立った。その時に、心に誓ったことがあった。それをこの度、180度改めなければならなくなったように感じた。
当時の心に誓ったことは、結婚相手が15年ほど私より長生きする人だ、との自覚であった。その15年ほどの余生を自力で生き抜く術や希望を、私が健在の間に、自らのチカラで身に着けもらわなくてはならない、と心に強く誓っている。それは、私から観れば、尋常ではない結婚であったからだ。
既に私の目には、工業文明の破綻が視野に入っていた。だから、再婚は、胸を焦がしてとか、何とかしてわがものにしたいと願って、などではなかった。今から思えば、青臭いことだが、当時は真剣だった。崩れ行く地球を復元しながら、生きがいや幸せをかみしめ合える人生の在り方を2人で模索したい。その生き方をかなえ、未来に希望を描きたい。こうした覚悟だった。自然循環型の生き方が大事に想われた。
再婚間なしにオイルショックを体感する機会に恵まれた。生きる理念を見定めることを決した。何せ、次代に逆行などと笑われた生き方であったのだから。ぶれないように、理念のもとにココロとコトバの統一と、有言実行を旨としたい、と願った。これが、未来の方から微笑みかかえる生き方、と信じていた。
がから、連日連夜、鉄は熱い内に打ち合うことになった。挙句の果てに、最悪の場合の覚悟も固め合った。
それは、工業社会が許す消費の喜び“欲望の解放”いわば“つぶす喜び”ではなく、次の社会・地球の復元のために誰一人取り残さず、ココロを開きあう時代が許容し、促すであろう(と、ウイリアム・モリス関連の書籍で気付かされ始めた)創る喜び“人間の解放”を夢見ていた。
そのころから逆に、日本の破綻説を口走り始めた。その時期(1990年ごろ)は、自然循環型生活を“覚悟”から“志向”へと (再婚がかない、オイルショックを体感し) 転換した時から数えて、20年ほどが過ぎ去っていた。
この破綻説は、処女作(1988)がキッカケで始まったアイトワ塾 (読書会)で、ある日の塾後の懇親の場(ビールでいつも2~3時間の歓談になった)で、し始めた。
この間に、自然循環型生活は、一人でも取り組める (肺浸潤に侵されて、就職も結婚も不可とおもっていたので)大進化と睨み、決意して踏み出していながら、自己卑下したくなるほどの矛盾やわが身の弱点に気付かされるに至った時期があった。
それはお見合いで幾つか年下の、ヒトもうらやむ条件の女性(自然豊かな庭で暮らすことを承知した)をめとって (当時の社会風潮では、一人前の男になった証を手にして) いながら、破綻(当時の社会風潮では、離婚は人格欠如の露呈のごとし)も視野に入れた正に苦悶の6年間であった。結果は、妻帯生活の継続よりも、自然循環型の私生活を継続することを優先している。
矛盾とは、初婚で相棒を得て初めて、自然循環型生活は相互扶助が不可欠であると思い知らされたこと。だから弱点とは、まず配偶者を自然循環型生活に誘えなかったこと、次いで一人でも行える範囲に狭めるなどすればよいことだが、その心のゆとりを持ち合わせていなかったこと。
破綻後、職場で、自然循環型生活を心おきなく実践させるエコヴィレッジ構想を立案し始めた。その過程で、弱気になる (先妻が志向した工業社会に甘える生き方に鞍替えする)か、希望を描き続けてよいものか(相互扶助関係を愛であう結婚はありえないものか)で心が揺れている。
この心の揺れが、より豊かな自然を希求する気持ちを高ぶらせ、休日の庭仕事に精を出した。自然の営みのないもかが、神々しく感じられた。それが、競争心、嫉妬心、あるいは猜疑心などから解放し始め、袖触れ合った人の幸せのために、真の“親切”や“深切”とは? と考え始めさせた。
同時に、本当の豊かさの在り方にも、心をより払うようになった。結果、自然循環型の生き方が、たとえ一人にでも、それが10人に100人に、と日本で広がってほしい、と願うまでになった。おのろけのようだが、新たな妻が日ごとに、大切な人、愛しい人、不可欠の人になった。
ところが、この度、妻に異常が現れ、新たなる“エポック”に、また立たされ始めたわけだ。
次のご褒美は、送られてきた一著がことの始まりだった。拙著『人と地球にやさしい企業』がキッカケで、「顧問に」と、声を掛けてもらえた人・橘さんから届いた。
橘さんのビジネス道は、注目を浴びて当然だと思う。だから、この本の帯にあった「日本人が百人、千人、万人となっていけば・・・」との文章に、とても心惹かれ、勇気づけられた。
早速、礼の電話で、同じ想いの持ち主(私は、たとえ一人にでも、それが10人に100人に・・・)であったことを告げた。この電話で、次のお誘い、創立60周年記念式典への参加・・・ があった。
言うは易く行うは難し、との諺がある。有言実行は、至難の業だ。この人はあっけらかんと言ってのけ、やってのける。うらやましい人だ。参加を希望した。
当日はとても冷え込んだ。だが、大阪ニューオオタニホテルでの会場は賑わい、活気に満ちていた。式典は厳かに始まり、順調に進んだ。
当時の心意気をありありと思い出した。「次代は、進化 (強みや得手の増強) ではらちが明かなくなり、大進化(生きる仕組みそのものの転換、例えて言えば爬虫類が哺乳類になるなど)が求められる」と、語り合った。あるいは、儲けやその増大は目的ではなく、それは組織の繁栄にとって必要不可欠の手段である、などと心地よく理解し合えた。
こうした回想がこの度、私には大進化がもう一度求められていそうだ、と気づかせた。
表彰が始まった。最後に、社員の代表から橘さんと木田専務に贈られた感謝状が、とりわけ心に残った。木田専務は、業界人としては最初の樹木医資格取得者であったはずだし、理学博士号をお持ちだ。造園ではオーソリティだ。この人から私は、樹木の枝の落とし方は “深切”が “親切”であることを学んでいる。
滞りなく式典は進み、終わった。参集者は第二会場に移動し始めた。風邪けが残っていた私は、前もって一部だけで遠慮したい旨をことわってあった。
橘さんに、専務と現社長を交えた記念撮影の後、私にも声をかけてもらえた。この時になって、大きな声で「センセ」と声をかけてくださる女性があった。久方ぶりに夫人との再会がかなった。懐かしかったし嬉しかった。
第2会場は300人の参集者で賑わっていた。
後日、第2部の引き出物を届けてもらえた。橘さんの生い立ち、とりわけ初代である父親の、その人となりの理解度をより深めることが出来た。自己資金の範囲内でまっとうなビジネスを旨とする教師であったわけだ。
睦月最後のご褒美は21日のこと。何年振りかの山下アリコさんの来訪から始まった。妻も歓迎し、その提案に即、心よく応じた。私は2つの思い出に浸った。
まず、アリコさんとの出会い、その演奏に初めて触れたおりの感動だった。元アイトワ塾生の網田さんを誘って出かけた演奏会だった。帰途「あれはセッション」だ、と教えられ、遅ればせながらセッションの何たるかを肝に銘じることができた。音楽科もあった短大に勤め、紀要委員も経験(音楽科の先生とも、喧々諤々すことが)できたおかげだろう。
次いで、今は亡きピアニスト松平佳子さんを忍んだ。彼女は、ピアノをわが家に持ち込んで、京都教室を開くことになっていた。それはフランス・クリダさんの希望でもあった。
佳子さんはフランス・クリダを師と仰いでいた。リスト全曲を女性で弾きこなすクリダさんは、日本で連弾相手になってほしい唯一のピアニストはヨシコ、と評価した。
佳子さんのピアノ教室は、ピアノを運び込む直前に、かなわぬ夢になった。
アリコさんのピアノ教室案を、私も大歓迎だった。だが、偉そうに注文を付けた。それは、アリコさんに、この庭に集う小鳥や夏虫などと語らって(セッションして)ほしい、と願ったからだ。そう願いながら私は、小鳥と心が通じるがごとき妻だけでなく、不遜にも2人の偉人、ダーウィンとベートーベンにお想いをはせていた。
ダーウィンは『進化論』の初版で、すべての生きとし生けるものは1つの生き物から始まっている、と言わんばかりの一文を書き残した、と聞く。人類は既に、DNA解析などで1つのバクテリアから始まったことが明らかにされている。
ベートーベンはシラーの詩「歓喜に寄す」に触れて感動し、胸に詰まっていた固い想いを交響曲第九へと爆発させたらしい。しかも、最終楽章では独唱と合唱だけでなく複数の打楽器などを新たに組み込んでいる。
これを私は、不遜にも、独唱と合唱を付け加えざるを得なかったから、と解釈している。万人に「すべての人が兄弟となる」といった想いを、楽曲だけではキチンと伝わり難い、と悩んだ末の苦渋の選択、あるいは工夫ではなかったか、と。
なんとしても人は、せめて尊厳の面で、1つになってほしい、かくなるべし、と願ったのではないか。
この願も、すでに、ジェームズ・ラブロックのガイア理論によって、多くの人が(人だけでなく、生きとし生けるものはすべてをもって1つに、と)得心できる段階に至ったのではないか。この想いを人々が共有し、世代を超えて継承しうる文化にできたときに初めて、人類は万物の霊長になれるのではないか。願わくば、この心境に、死に際でもよい、私はなりたい。
こんな、大げさな夢想で酔いがまわっていた月末に、アリコさんの再訪があった。人形工房の一角を、妻は快く提供することになった。
「いよいよ」と、私は次の大進化が求められたように感じた。
その昔、妻と大ゲンカをするたびに「この人は、私が中学生になった時に、この世に現れたンだ」と心に言い聞かせ、気を静めていた。それがなんだか、とても恥ずかしく感じられ始めた。大進化が求められている、と感じた。
3.AGUを訪ねた
当年初の出張は、小木曽さんと岐阜羽島で落ち合って、お宅にACUを訪ねた16日の日帰りのお出かけであった。
かつて小木曽さんを京都に迎えた時に、教え子のAGUが京都で開催した個展会場を落ち合い場所に選んだ。小木曽さんはAGUの才能に心惹かれたご様子だった。
当月、彼女は名古屋で個展を催し、小木曽さんは覗かれた。そこに彼女が絵付けした陶芸品が並んでいた。それがこの日の出張に結び付け、同行することになった。
小木曽さんは、日本で唯一のリサイクルの焼き物を生産販売する会社を経営していらっしゃる。
この私の出張は、“教え子の自宅を訪ねる最初の事例”になった。親ごさん・母親と祖父にもお目にかかれた。
油絵でスランプになった彼女は、私が講義で示した人形を思い出し、独創で人形を生み出し始めた。そこに独創性と一貫性を見出した。自分の何たるかに目覚め始めたようだ。
その一連の作品が画廊“アートグラフ”を営む神谷和憲さんの目に留まった。脱サラして画廊を構え、欧州の銅版細密画や絵本の挿絵など2次元の作品を紹介し始めた人だ。神谷さんはその画廊に、AGUの3次元作品も並べた。AGUは目利きに出会えたわけだ。
これがキッカケでドゥーシャン・カーライの目に留まり、チェコ留学を勧められた。カーライさんの妻・カミーラ・スタンクロバも芸術家であった。夫人にも作品集でAGUは紹介してもらえるようになった。
この日は、作品の写真や文献を通してだが、私にとっても恩人であるこのお二人の人となりに触れることができた。神谷さんとは、写真でだが、病魔に倒れられる前のお姿に初めてお目にかかれた。また、今日に至るAGUの足どりもより深く理解できた。その可能性にも気付かされた。
とりわけ、彼女が創ったギミック、子どもが心を開きたくなりそうな、心をくすぐるギミックに心惹かれた。子どもは思い思いの顔などを描き、その日その時の想いを綴ることができる。
人は誰しも固有の潜在能力を授かって、この世に生まれている。その能力が発揮できて、しかもそれを互いに愛であえる世の中になれば、つまり真の人の多様性を認め合えるようになれば、いじわる、強欲、いじめ、あるいは嫉妬などヒト共有の我欲から解放されるのではないか。
間違いないことは、この潜在能力に目覚め、これが本当の私であったのだ、と自覚できた人を、自己実現したヒトと呼んでいいはずだ。
この日また、かの操り人形・カシュパーレクの何たるかも知った。人形劇に登場する政治批判に長けている操り人形である。チェコはドイツの植民地にされ、ドイツ語を押し付けられた時期がある。その時期はとてもカシュパーレクが活躍したに違いない。人形劇はチェコ語で演じることが許されていたのだから。
4.『1ダースなら安くなる』から、それは始まった
岡田さんは10日、『酒巻和夫の手記』を持参して、約束通りにお越しくださった。酒巻和夫は太平洋戦争開戦時に、実質上の初の特攻兵10人の1人に選ばれて、小型潜航艇でハワイの湾に突っ込みながら、捕虜第1号となった。“初の軍神”から漏れた人だ。
かねてから私は、この人にとても関心を寄せていた。それは、日本の体質、在り方への疑問の検証でもあった。その人の手記をいただいた。
当日、岡田さんの最後の来訪確認の折りに、喫茶店が休業の金曜日であった、と気づかされた。急遽初映画会を画策し、高安先生とフミちゃんに電話し、賛同を得て実施した。喫茶室は容易に、ミニ映画館に模様替えができる。
アメリカで1950年に封切られたテクニカラー映画を岡田さんはご推奨。鑑賞した。アメリカの時間動作や能率研究の技師が繰り広げた私生活の自伝、『一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯』の映画化だった。
12人もの子ともをもうけた技師は、「なぜそんなに子ともを・・・」と訊かれると、「一ダースなら安くなるからね」と答えていた。その子ども達も、成長するにともなって欲求や欲望を変えた。技師はそれに、常に時間動作研究や能率向上を念頭において対処し、珍しい教育方針の下に、私生活を繰り広げた。その紹介だった。
当時、こうした動作や能率の向上策を学ぶために、日本から技術者が出かけていたことも知った。1950年ごろの日本を、多感な年ごろで体感し、工業デザインを学びたくなった私には、とても刺激的な映画であった。自ずと、鑑賞後のディスカッションは賑わった。
例えば、ナポレオン軍が強かった本質を、私は世界で初めてビン詰め食品(ナポレオンが懸賞募集で募ったアイデアの1つに食品のビン詰めがあった)を即兵士に携帯させたところに見出す。日本軍は太平洋戦争を、なぜか飯盒炊飯で戦わせた。
開戦以前に、工業化を学ぼうとして日本から出かけた技術者は、完成品は互換性部品を組み立てた複製品(コピー)である、という点に本質をなぜ見出さなかったのか。キット見出せなかったのだろう。あるいは見出そうとしなかったのか。
コピーを作るための製品をプロトタイプと呼ぶ。わが国は、大げさに言えば、いわばプロトタイプ(設計図に基づき、ハンマーやヤスリを駆使して作ったオリジナル)で戦った。だから、部分が傷着いた武器は、手足を互換できない傷痍軍人のように使い物にならなかった。にもかかわらず、物量の差で敗けた、と胆略化する意見があった。
酒巻和夫が捕虜になったことを日本軍はひた隠したが、この思惑と根っこのところで絡まっていそうだ、と私には感じられた。
だからだろう。親鸞仏教センターから送っていただいた『あんじゃり』の最新版、2024・44号を引っ張り出した。三沢亜紀さんのエッセイ・「満蒙開拓」の被告席━学び合いの場から考える━を再読したくなったからだ。期待通りだった。
満蒙開拓平和記念館を私は4度訪れている。そのたびに、館が充実しており、心が和んだ。最初は、あるクラブの催しで長野に訪ねた道程で、立ち寄った。三沢さんが来館者の集団を引率し、その説明を盗み聴きして再訪を期した。3度目と4度目は、訪れてもらって共感しあいたい人の案内だった。
それはともかく、三沢さんのこの一文を再読し終えて、得心しながら、何かが心に引っかかった。それはなぜか、が解せなかった。勘所を私は間違えているのではないか。それは満州でも、戦争でも、真の愛国心でもなさそうだ。
おもうところがあって、丸谷才一の『文章読本』を取り出した。頁を幾度かパラパラっとめくり直した。やっと、「これだろう」と、手が止まった。吉行淳之介の『戦中少数派の発言』を引用したくだりに行き当たった。
この一文を読み始めて、3枚ばかり頁をくったところで、得心した。丸谷才一の『戦中少数派の発言』に見出した丸谷才一の評価であった。三沢さんは、内容にも惹かれたが、説得の仕方も心得た、苦労をいとわずとても工夫されている方だろう。
その後、NHK=BSが23日に放映した『祖父への旅 80年後の傷跡』を、録画で観た。1人の残留日本兵・黒岩通の足跡を、現地妻エマの孫・マリオが追う記録だった。
日本の敗戦後、インドネシアでは天皇の敗北宣言の2日後に、スカルノは独立宣言をしていた。そこに、前宗主国のオランダが再植民地化を、と攻め込んで来た。インドネシアには1000人からの日本兵が残留していた。
黒岩はスカルノの独立宣言前日に、元部下であった信頼するインドネシア人の軍人に大金を渡し、軍隊を準備するように指図していた。黒岩は人望だけでなく、大金を動かす力も持っていたわけだ。
インドネシアはオランダ軍に対抗して立ち上がった。残留日本兵の協力、旧日本軍の武器、そして黒岩通の采配などが功を奏した。
黒岩の、大勢の現地兵を配下にした治安維持の能力は見事で、アチェ州の民は黒岩のおかげで枕を高くして眠れたようだ。
4年半後にオランダ軍を追い出した。
残留日本兵の戦死者は英雄墓地に眠り、生き残った300人は現地化し、土着して“福祉友の会”も作った。その子孫は5000人。
黒岩も国営企業の幹部に迎えられ、エマと結婚し、アチェに居を構え、2児に恵まれた。
だが、ある日を境に、黒岩の足跡は忽然と消えた。次男のヘンドリーは、父に捨てられた、と悲しんだ。その息子・通の孫であるマリオは「もし英雄墓地に入っていたら、侵略者の孫と言われて反撃できます」など辛い立場になった。
マリオは、父の足跡を追い始める。父の評価は時代によって変わり、住民を弾圧した日本の軍人、独立に導いた英雄など、と大きく変転していた。ところが、中央政府にとっては、恐れるほどの政治的影響力をもった日本人であったようだ。
マリオは父ヘンドリーを伴って日本でも足跡を追うことにした。
日本政府は祖父を逃亡兵と認定していた。インドネシア政府は永久追放していた。
送還された黒岩は、軍医だった小山田を頼った。黒岩はインドネシアに残した家族の写真を大事にし、息子を自慢した、と小山田の長女は語る。
親しい人に黒岩は、インドネシアに残留した理由を“懺悔”という言葉を用いて語っていた。それは、上層部は非常に冷徹で、資源の確保が目的だった。だが、下の方の人は「自分たちはインドネシアの解放のために来た、という意識を持っていた」から、と専門家は証言する。
その想いを果たしたかったのだろう。だが、インドネシア政府には、不都合な存在になりかねなかったようだ。
黒岩は、埼玉県の老人ホームで2000年に、85歳で生涯を終えている。晩年に描いた1枚の絵を、それはインドネネシヤで家庭を築いたアチェの風景画を残していた。
この番組は「アジアの解放を掲げながら、アジアの人々を支配し、苦しめた日本の戦争の実態でした」と、結んだ。
かつて私は、ベトナムでは600人ほどの日本兵が残留しており、その足跡に触れた。この事例とよく似た働き方をしており(ベトナムの統一と独立に貢献し)、サイゴンが陥落した4月30日に、ベトコンの兵士が、残留日本軍兵士に「恩返しができた」との認識を口々にした、と聞かされたことがある。
5.歯がゆい思い出を、振り返った
元日を“空白の1日”にして、寝床にもぐり込み直した折に、思い出したことがあった。昨年のこの日に、能登半島の地震の規模と、その被害のあらましを知った時に、心に描いた希望であった。「今がチャンスなのに!」と、歯がゆいおもいで次のような願いを心に描いていた。
辺野古の埋め立てを中断し、大阪の万博をやめさせて、能登の災害復興に国力を結集する、とすぐさま決断し、首相は表明し、決行すべきだ。国民を守るべき自衛隊を、ここぞとばかりに全面的に投入すべきだ、とのねがいだった。
国を守る、国が栄える、とはどういうことか。防衛依存策やお祭り騒ぎよりも、大事なことがあるだろう。大は大なりに、小は小なりに、小なら希少生物のように、世界にあってしかるべき国だ、と自他ともに認めあう国になることではないか。
わが国は、幸か不幸か、まるで自然災害王国だ。自然災害救済にかけては、世界に冠たる国だ、と自他ともに認めあう国になってはどうか。能登半島の地震の不運は、いわば不幸を幸に換えてみせるがごとき好機であったのではないか。
辺野古や大阪万博は今、泥沼に足をとられたかのように出費などを重ねて、もがいている。この復興活動を決行していたら、今頃は、と考えた。能登半島では生産や創造活動が格段に活発化していたに違いない。
自衛隊員になることを希望する若者も増えていたに違いない。
閣議決定権はこうした案件にこそ生かし、即決すべき制度ではないか。
ちなみに、上の4章で取り上げた三沢亜紀さんのエッセイ・「満蒙開拓」の被告席━学び合いの場から考える━は、次のように続いていた。
6.今ごろ、日本はどうなっていたのかなど、その他
1、本年最初の来店客。
2日の朝に、臨時の元日の朝に、妻は庭に出たまま、ほぼ1時間、戻ってこなかった。予期せぬ来客の応対に当たっていた、という。
かつては、元日から開店していた頃は、常連だった。年に1度だけの、新年早々の来店客だった。何年かぶりかに、何を思われたのか、お越しになった。
随分、物忘れがお進みでした、と妻は微笑んだ。なぜか、わが家流元日にふさわしい日になった、なりそうだ、と感じた。
2、昇さんの剪定技術はピカ一だ。
サザンカ双樹の剪定を買って出た昇さんは、1日半かけて仕上げた。ピンクの花の木から手掛け「ちょっと刈り込みすぎた」と、自己評価。その上で、白に手を付けた。
この出来栄えを知っていたので、懸案のキンモクセイに取り組んでもらった。1日半ほどかかったが、8割近くの枝葉を漉き取って「おみごと」な出来栄えになった。
3、柑橘類の木に寒冷紗かけ。
暖冬であろう、と高をくくり、遅ればせになったが、13日に被せた。子どものころに見た悲しむべき情景が、瞼に浮かんだからだ。近所のあるお宅にあったサンボウミカンの双樹が、一晩の冷え込医で枯れた。昇さんに手伝ってもらえたおかげだ。
4、矢間医師に命を預けた。
アイトワの喫茶店が、冬の人形創作休暇に入った初日のこと。約束通りに20日の朝、矢間クリニックに出かけた。自己リスクで飲んできた薬の配分を提示。その配分で、28日分まである、と通知。血液検査をしてもらう。その上で、27日に再訪し、以降は先生の処方に従いたい旨を伝えた。
自己リスク期間は、前の処方の約半量の薬で過ごした。4分の1に減らした薬が1種、以前通りが一種あった。新処方を、血液検査結果に沿って考えていただくことにした。
その3日後に、これまでの病院で最後の目の診断を受けた。目の診断は、ある薬の弊害を検査するために始まっていた。
担当医師に、これが最後の検診になること。看取り医を決めており、心臓の世話も引き継いでもらうこと。並びに、12月に、新たな眼の異常を体験していたこと、を伝えた。結果、MRI検査を受けておくことを勧められ、得心し、即刻受けた。結果への対処は、看取り医と相談願うことにした。
帰宅後、看取り医に電話で報告した。
27日、看取り医の新処方の薬で1カ月後に、再チェック、となった。
なぜか、いつも医者にかかるときに気になることがある。妻は中学生になるまで無医村で暮らしていた。妻には、人里離れたところにもついてゆく覚悟もしてもらっていた。もしあれを決行していたら、今頃などと考えてしまう。
決行せずに済んだだけに、妻には私の死(必然の事態)ぐらいで慌てふためさせたくない。
5、重力電気のソーラー発電気化でも、国を疑った。
重力電気を、現在は喫茶店の冷蔵庫で常時使用している他は、異常豪雨に備えているだけだ。それは、人形工房棟建設に着工した1985年時点での法定基準を、近年は大きく上回る大雨が降るようになったせいだ。人形工房棟のテラスはサンクン(地表面より掘り下げた)ガーデンだから、洪水になりかねない。夜間に生じて、エンジンポンプを取り出せなかった折のために、自動的に排水モーターを働かせることにした。その動力が重力電気だ。停電も心配だ。そこで、地球温暖化防止にも寄与するために、重電力用のソーラー発電機だけでなく、充電器も備えようとした。
それがかなわなかった。重電力用の太陽光発電機に、充電器を併設すると、売電を国は禁じている。国家に立ちはだかれた気分だ。国はどっちを向いて、誰のために、と残念なおもいにされながら断念した。
6、ローリエなど低木と、シンボルモミジに登るテイカカズラの剪定。
ローリエは、元の木の“挿し眼”から育てた1本の背丈を、3分の1にする剪定を私が受けもった。切り取った上部は、フミちゃんの手を借りて、無傷の葉を摘み取って香辛料に )生かすことにした。
ハクウンボクは、低い脚立で取り組めるので、これも私が取り組んだ。
調子づいて、シンボルモミジに登るテイカカズラも、と12段三脚脚立で挑戦した。半ばまで私が片づけたところで、妻に見つかった。昇さんに代わってもらったのがヨカッタ。昇さんは、いつも私が後回しにしてきた一番難しい部分の、より簡単な蔓の整理の仕方を採用した。このやり方(軽い4客脚立をはしごのように広げて掛ける方式)なら、妻の目を盗めたら、来年は私でも取り組めそうだ。
7、シマエナガ。
妻は、100円ショップで見つけたシマエナガの“本立て”を、調理時の気休めにしている。それを目にした人が「捕まえました」と言って、シマエナガの大きな抱き人形を送ってくださった。これが、私にとっても、とてもありがたい贈り物になった。
いい歳をして妻は、寝所に持ち込むようになった。先にやすむ妻は、私がやすむころにはこの大きなシマエナガを持て余し、放り出している。そのシマエナガを活かして、読み物を眠り薬にする私は電光を遮り、妻を起こさずに済ます。
8、見事なシイタケ。
見事なシイタケをいただいた。これまでに幾度か“しいたけブラザーズ”のしいたけを賞味してきたが、いつも感心させられことがある。それは、姿形ではない。部厚いなどの形を作り出す“型”のことだ。
わが家では年に2度(“冬ご=早春”と“秋子”)しかシイタケは採れない。“しいたけブラザーズ”では、かくなる良い味と香りで、しかも歯触りが良いシイタケを、どうして年中生み出せるのか。このような安定したシイタケを年中生み出す型のありようが不可思議だ。
9、初の焚火。
この度は、近年では例がないほど沢山の剪定くずを、囲炉裏場周辺にためてしまった。小雨が降った翌々日から、風がない日を選び、2回に分けて、9割がたを時間をかけて灰にした。
この灰は、猿害で耕作意欲をそがれ、荒れたままの畑に、最後にサルに襲われたタマネギの畝からまくことにした。犯人は「キット」と、あの目星を付けた子ザルだろう。引き抜けず、葉だけちぎり取り、盗った葉をことごとく平らげていた。
タマネギはまだ大きく育ってはいなかったので、まともな収穫は望めないと、実はトンネルにさえしていなかった。だが、「孝之さんらしくない」と、妻に諭され、灰をまき、レースカーテン地でトンネル栽培にした。
10、これも加齢対策。
個離庵に通じる階段の、上がり下がりが不安になった。杖代わりの手摺を打ち込んだが、シナモンの木の根に当たり、十分打ち込めず、補柱を添えてもぐらついた。固定のセメント仕事は昇さんに任せた。
11、獣害監視カメラ。
子ザルだけでなく、相当大きなサルも強行侵入を試みたようだ。オレンジ色の防鳥ネットに小さなへこみだけでなく、大きい穴も開いていた。しかも、難儀した様子で穴が乱れていた。遅ればせだが、獣害監視カメラを3台、セットした。
12、人形の着せ替え。
和装の妻の人形が一体、青色がベースの着物が添えられて、里帰りした。この人形を求めてくださった人は西陣の方だった。
マッチする帯を、妻が用意して、着せ替えることを求められた。新たな着物はきっと、ご本人の作品だろう。
13、フミちゃんと3件の懸案を解消。
睦月最後の庭仕事は、恒例の洗面を再開した翌日だった。この日は、3つの懸案に2人で取り組んだ。
まず手分けして、ペンキ仕事。フミちゃんには、まず冷暖房機の屋外機のさび止め。
フミちゃんは、さび落としとペンキをむらなく、しかも一滴も落とさずに塗り上げた。プロはだしの出来栄え。
次いで、一輪車のさび止め。私には想いつかな遊び心に喝采。
その間に、私は喫茶店へのアプローチで、手摺の塗り替え。
午前のお茶の後、妻の昼食の準備を待ちながら、ローリエの葉を2人で整理。
最後は午後に、建具の補修に取り掛かった。この日は接着作業。塗装は宿題に。
この日、妻の運転でフミちゃんを送りがてらに、帰途銀行に立ち寄り、ATMの使い方から学んだ。
14、賀代子さんに撮ってもらった記念写真。
彼女の写真の撮り方は「盗り方」といった方が適切で、2ショット目で、妻はやっと反応できた。
15、日本は、年末にはどうなっていたいのか。
睦月も日を追うごとに、時間が過ぎる去るのが早くなった。もう幾つ寝たらお正月、と口ずさみもした。アリコさんを迎え、見送った日の夜のこと、あの頃の1日の方が、この1カ月より長かったようにおもった。だから、この月記もいつか読み直したい、と願った。それなりの31日間であった、になることを願いながら眠りこけた。
うつらうつらとしながら、もし、特殊潜航艇の特攻兵を10軍神と呼び、“一人酒巻が想いを果たせず、名誉の捕虜になった”と報道し、讃え合えていたら、その方向に進んでいたら、今の日本はどうなっていたのか、と考えた。
それにしても、残念だ、と次の想いに移った。首相が「強い日本」「豊かな日本」に次いで「楽しい日本」といった時のことだ。この場合の“楽しい”の定義について、どうしてどなたも、真剣に質疑を深めようとしなかったのか。楽しさは人さまざまだ。また、時の移ろいなどによっても変わりうる。自分勝手な解釈をして、いきり立っていていいものか。
さらなる量的豊かさの志向か、あるいは質的豊かさ志向の楽しさか。欲望の解放志向ではなく、人間の解放志向か。それは真の多様性志向か。あるいは地球を破壊し続ける今の生き方から、未来世代に胸が張れる生き方への転換に伴う楽しさか、あるいは・・・などと議論すべきだ。
欧州諸国での本会議は、年1000から1200時間。わが国の国会ではわずか年60時間程度で桁違いに短い、と学習院の野中尚人教授は新聞で語っていた。にもかかわらず、60時間程度がなんとも長ったらしく感じてしまい、退屈だ。
次のようなコラムもあった。
この彼我の差異はこれから、致命傷にもなりかねない。人類は大進化が求められている。