目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 おもわず"ビブギオールカラー"を振り返った
2 3つのミッションを見定めた
3 子ザル対策が、新たな夢を描かせた
4 教え子 AGU のコラボ展を見学
5 自然生え5種と、栽培6種で、酷暑を乗り切ろう
6 アメリカの誤謬、その他
誰しもが「何かの鏡、番人、そして源」であれ
文月は、惨めな歯の治療で明け、上旬は喫茶店初のスタッフ会議(開店した趣旨を明らかにしましょう)で暮れたようなものです。同時に、店舗の不具合を多々知って、これらの改修を、と考えました。喫茶店の1カ月の夏休みは、まだ3分の2も残っていました。
この間に、多様なトピックスがありました。2日、松山の宮崎洋平さんが、広島の教育者と京都駅で落ち合い、予定通りに訪ねて下さった。3日、終日のPC作業で、4日は朝と夕の2度の畑仕事で、共にヘトヘトに。5日、京都自由大学をアイトワから発信。6日、鼠経ヘルニアの術後点検で、OKを頂く。7日、野鍛冶の堀田さんを迎え、その仕事ぶりに脱帽。8日、自然生えの夏野菜5種の手入れ。そして9日、今年は1つしか採れなかったスモモの実を賞味しました。
とりわけ、朝一番の夏パターンの庭仕事を、4日に再開できたことが嬉しかった。先月末は久方ぶりの2泊3日の研修で、6人もの若者の生涯に関わる課題でした。先月は、ほぼこの準備でデスクワークに集中し、老体の筋力をすっかり退化させていたのです。
中旬は、有難い夕餉の席に夫婦でお招きいただき、繊細で丁寧な“和の味を満喫”で明け、昇さんと終日の庭仕事 +αで暮れました。+αは、朝はブルーベリーの小コーナーで草刈り。昼に、アカウリを初収穫。そして夕は参院選で、投票に出かけたことです。
この間のトピックスも、日替わりメニューのごとし、でした。12日、喫茶店の小さな問題を解消する作業(テラスで床のフラメットを補修と、トイレ周りの塗装) から昇さんと着手。この間に、私は3時間ほど中座し、“「匠」の祭典”の寄り合いに参加しています。
13日、遅ればせの月記原稿を知範さんに引き継ぎ、昇さんは先月倒したサクラを玉切りに。徳島から小夜ちゃんが(友人と日帰りで京の旅とかで)予定通り立ち寄ってくれました。この間も、4日来の夏パターンを続けており、まず虫退治(トウガラシが大好きのカメムシと、キュウリが大好きのウリハムシ捕り)から1日は始まっています。特にカメムシは、毎朝捕り切ったつもりになるのですが、連日同じことの繰返し、で閉口させられます。
14日、恒例のA ALTO家具を点検し、補修に出す。15日、ガスレンジの交換を検討。16日、鉢植え植物の手当。17日、心臓の定期検診と歯の治療。18日、トイレで水漏れの解消と、サラリーマン時代の(37年度入社)仲間とZOOMで交歓。そして19日、フジの第1次剪定と、子ザル対策(獣害フェンスに、防鳥ネットを張り重ねること)を思い付き、昇さんと実施、でした。
下旬は、教え子・AGUのコラボ展見学と、元アイトワ塾生の季節の来訪で明け、望さんを交えた喫茶店のメニュー刷新の打合せと、岡田さんの来訪、で暮れました。その間のトピックスは、オカゲさま尽くし、でした。リズさんに喫茶店の開店趣旨を英訳してもらえ、多々学ぶことがありました。庭仕事は週末の昇さんの加勢のオカゲではかどり、乙佳さんと末富さんのオカゲで、厨房などの補修が仕上がりました。あるいは、元顧問先の社長夫妻が、無事に事業継承ができたオカゲといって、自分史を持参して下さった、など。
季節は、小さなプチトマトの皮を、妻が丁寧にむく時期なので、私は包丁や鎌を丁寧に研ぎ、その幸にも連日恵まれました。私が燃えるゴミ出しを妻に代わったご褒美でしょうか、久しぶりに餅を搗いてくれました。その上に、月末には予期せぬ幸に恵まれたのです。
まず、午前の岡田さんの来訪で、2度あることは3度ある、が如き幸せを感じました。昼に、ハッピーの爪切り(猛暑の運動不足で、爪が伸びた)とフィラリアの予防で、獣医の石堂夫妻を訪ねました。帰宅すると、予期せぬ贈り物が届いていたのです。2泊3日の研修を収録したアルバムや額装した記念写真でした。久方ぶりに夏のボーナスを頂けたように感じながら、文月は暮れたのです。
~経過詳細~
1.おもわず“ビブギオールカラー”を振り返った
ノバトの恋の季節(終日、ホホーホホーッとラブコール)で文月は明けた。妻に代わって喫茶店の運営にも関わることになり、本腰を入れて「その方向を見直す1カ月にしよう」と、まず意気込んだ。早速この日、プチですが初のスタッフ会議を10日に取集。午後は妻の運転で歯医者に(下の前歯2本をはじめ、3本が欠落で)走っている。だから上旬は、このスタッフ会議の実施を励みにして、「頑張るぞ!」で暮れたようなものだ。
もちろん1日は、多くの時間をPCの前で過ごし、文月分の月記作成に没頭し始めている。前月は、2泊3日の新入社員研修で暮れたようなもので、日々のメモを取っていなかった。やむなく、ケイタイで撮った写真を頼りに日々を振り返り、なんとか正確に、しかもなるだけ早く仕上げなければ、との気ぜわしい気分で明けた。
循環型社会の到来に備え、資源小国のわが国は、その国民は、と思案し、半世紀余も前から本格化した生き方だ。心ある人の参考になりたい。キット参考にしてもらえるはず、が私の心の支え。その加齢対策のまっ最終。その様子を記録しておきたい。
この日はまた、夕刻に筋力の退化という加齢現象を、いやほど自覚させられる羽目になった。振り返ってみれば、向こう8日間は、研修で庭に出た他は、一切庭には出ておらず、力仕事らしい事には一切携わってはいなかった。だから (研修の最終日にあった)BBQでは、最初に私は椅子に座り込んでしまい、ほぼ椅子の人、で過ごしていた。
だが、この研修で得た手ごたえと、急ぎ当月記に取り組まなくては、との切迫した気分のオカゲだろうか、一人前以上の気力を心にみなぎらせ、文月に踏み出している。しかも、翌2日には、かねてからの約束の、期待の来客予定が入っていた。
旧知の仲の宮崎洋平さん・今治タオル業界の優(私の第11著・『次の生き方』Part2にご登場いただけた )のおかげで、広島からおみえの医学博士・吉永成恭さんと京都駅で落ち合い、予定捕りに案内していただけた。
多彩な活動に携わっておられる学者であった。ご自身は器用貧乏という言葉を連想させるような表現の仕方で、苦笑いされた。だが、私には、即“ビブギオールカラー”という私の造語が思い出され、次代のフラッグマンをお迎えしている、との心境になった。
「奪い合えば足らぬ。分かち合えば余る」との、どなたの言葉も思い出した。人類は今、この言葉を真剣に噛みしめるべき時代の渦中にある。「地球ファースト」なのに、宇宙船地球号の寄生虫かの如き御仁の「自国ファースト」に、その偏狭や狭量に、世界中が振り回されている。
本来は、こうした奪い合いを促す使い捨て文明をまず終焉させるべし。盗って、作って、使って、捨てるような時代とはおさらばダ。にもかかわらず、その病気(人間の“欲望の解放”病)を発症させた国が、グローバリズム (この病気を地球の隅々まで感染させ、GAFAのごとき、ヒトの血をあまねく吸い取るがごとし)に次いで、力任せの自分勝手を目論んでいる。人類は逆に、循環型の新時代を切り開かなければ明るい未来は望めないのに。
こうした明るい近未来を夢見て来た私には、この日は自ずと心が温まり、共感したかった人に巡り合えたような心境になった。
工業社会は人間を分解し、ホワイトカラーやブルーカラーなどと専業化・分業化させた。この人間の分解と分断と歩調を合わせるようにして、物的には豊かな社会になった。だが、正比例して自然は汚れ、環境破壊や資源の枯渇、あるいは人心の荒廃などが進んだ。
歓談は、こうした想いが前提になっているように感じさせた。
この人が取り上げられた人名や話題に、逆に私が挙げた事象や人名に、互いに即反応し合えた。実は、この最中にある"医学博士の漫画家"の名を挙げようとした。だが、控えた。話題が脱線しそうに感じたからだ。オカゲで、か。話はどんどん深まり、広がった。お互いに生態系や循環型社会を尊重し、持続性が望める生き方を目指しあっていること自覚し合えたようだ。
洋平さんはいつものように、キーワードをもらさずメモリ、同道されて女性(某有名企業の一員)も、想いを同じにされているようで、膝を乗り出していただけた。
さわやかな気分でお別れを惜しむことになった。手土産に「妻の・・・」といって、お茶を頂いた。後で分ったことだが、奥さんは生業を営んでおられる。日本茶が豊かにかかわる生き方を推奨なさる生業だった。
後日、監訳の書籍を頂いた。様々な学問が関わった一著であり、興味津々にされた。表紙はご自身で、お撮りになった、とか。
先生は脳神経内科医でもある人だが、園芸福祉・園芸療法、感性デザイン&マーケティングなどにも精通されていた。非営利活動法人・日本園芸福祉普及協会の理事長でもある人であった。私は短大時代に夢見ていた世界を振り返った。
一人一人の学生に、小さな巨人になって一隅を照らす人を目指してもらいたかった。誰しもが、顔や指紋が一人ひとり異なるように、固有の、自分にも気付けていない潜在能力を、キット秘め持って生まれているはずだ。その秘め持つ潜在能力を、誰しもが気付きうるような、気付き合い、愛であうような世の中になってほしい。
実は、中高生時代は私も手塚治虫ファンであった。医学博士でもある人が描き出した漫画に心惹かれた。『ジャングルブック』や『新世界ルルー』、あるいは、舞台は人体の中で、登場人物は結核菌であったことが、終わりの方で分る一著などに心惹かれた。
だから短大では、招かれて最初に取り組んだと言ってもよいプロジェクトは、デザイン美術科に日本初の(ストーリー)漫画コースの新設だった。その推進役として、手塚治虫のアシスタントでトキワ荘仲間の漫画家・篠田英雄さんの人柄におすがりした。
今も餞別でもらった作品や、その後の心に残った便りなどは残している。
誰しもが秘め持つ潜在能力に気付きうるような、あるいは気付き合い、愛であうような世の中になってほしい。このような願いをかなえたくて、ひたすら私は足掻いてきた。
その過程で気付かされたり感じたりした安らぎを、あるいは循環型生活を支える庭づくりの様子や、それを通して感受した喜びなどを綴ったエッセイ集、『庭宇宙Ⅰ』と『Ⅱ』に、まず吉長成恭先生に眼を通していただきたくなった。
かくのごとく、文月は2日に、医学博士をお迎えし、“ビブギオールカラー”のごときお人、とお見受けした。その時に、漫画を通して“ビブギオールカラー”であることを明かした手塚治虫を、心ひそかに思い描いていたわけだ。
ナスビが奇妙な花も咲かせた3日以降も、多彩な日々を過ごしたが、文月が終わるまで、この時点では、予期せぬ特別な1カ月になるとは思ってもいない。
月末になって初めて分かったことがあった。「これぞボーナ」に恵まれた、とまず感じた。だから緩んだほほで久しぶりの岡田敏明さんをお迎えした。そこで、“2度あることは3度ある”の諺がごときことが生じるのである。
2.3つのミッションを見定めた文月
4日の朝一番から、夏パターンの(朝一の)庭仕事を再開したくなった。日の出を合図に、首に、細長くたたんだサラシの布(この日は、フミちゃんにもらった布だった)を濡らして3重に巻き付け、やおら庭に出る。
まずプラスチック製の塵取りに150CCほどの水を入れて、トウガラシが好物のカメムシ退治から取りかかった。数年前からこの庭に出現した虫退治だ。
この虫なら、飛んで逃げないから一網打尽が(群がって寄生し、危険を察知すると落ちる癖があり、この点を上手く突けば)かないそう、と思われたからだ。
かつては専用の捕虫器を知樹さんと計らって作ったが、ドン臭くなった老体には、塵取りの方が、捕り逃がす率が少ないことが分かった。
もちろん、その卵をトウガラシの葉の裏などで見つけたら、親指と人差し指でこそげ取り、磨り潰すようにしてやっつけた。次いで、この虫が好む野草・クロホウヅキ、さらにはナスビに、と順に回って捕獲する。
引き続いてウリハムシなど3種の虫捕り(後ほど触れる)に取り組む。この計4種の虫取りに半時間ほど要した。その後は妻が柏手を打って、朝食を知らせる7時半ごろまで、庭で過ごす。この日は虫捕りの後は、除草と夏野菜の水やりに費やした。
居宅に戻り、まず風呂場の残り湯で体を洗い、食卓に着いた。サラダのような野菜タップリの一皿と、惨めになった歯をおもんばかってか、粥が用意されていた。
8時から『あんぱん』を観た。食後のお茶を待つ間に、猛烈な睡魔に襲われた。勧められるままにベッドでバタンキュー。昼食時まで眠りこけた。オカゲで、すっかり体は旧に復した。この日、スタッフ会議の日程を10日で決めてもらい、翌日に迫った“京都自由大学”の準備を午後の課題にした。
ちなみに、ここでチョッと、野菜の虫捕りのその後に触れる。5日の朝から “朝一の4種の虫取り”を文月のミッションの1つにしている。つまり、平常の夏パターンの日々に戻っている。月末まで一度も昼寝をしたくはなっていない。
カメムシの次は、ナスビの畝に向かい、特にナスビを好むテントウムシダマシ(気配を察知すると、中にはポトリと落ちる)を捕る。用心のために塵取りで受けた上で、指先でつまみ取って、つぶす。
ここで、塵取りは不要になる。捕ったカメムシを、水ごと広口のガラス瓶に移し、水葬にふす。
次の標的はウリハムシだ。名が示すように、キュウリやカボチャなど瓜類が狙われる。飛んで逃げたり、落ちて身をくらましたりする虫だから、補虫網を片手に、取り組む。網で追ったり、受けたりしするが、半数は逃げられてしまう。だから、とりわけ指で捕まえた分は、支柱の竹に押し当ててつぶしたくなる。
最も、夜露が残る早朝や雨後などで、湿度がとても高くて羽が濡れており、飛んで逃げない時は、虫退治はウリハムシから取り組む。
最期の虫取りは、ヤマイモの葉やモロヘイヤが好物のブンブンである。朝は飛んで逃げられることが少ない。落ちて逃げる戦略に備え、ブンブンは手のひらで受けながら捕って、退治する。気の毒な話だが2頭が恋の最中に捕るのが一番容易だ。もちろん、自分ならこの当たりで、との配慮ぐらいは私にも出来る。
こうした朝飯前の一仕事(朝一)が、雨の翌朝も休まずに6日間続いた。この間の6日にノカンゾウが花盛りに。7日からマツヨイグサが咲き始めた。8日の虫捕りの後は、自生の蔓性夏野菜3種(ゴーヤ、ツルムラサキ、そしてカボチャ)のための支柱立てに取り組んでいる。
この最中に、指先に予期せぬ痛みが走った。見ると、握っていた竹に穴が開いていた。その穴を指で塞いだようなことになると、刺されていた。ただちに、ゴキブリ退治の殺虫剤を持ち出して来て、その穴の中に吹きつける。真っ黒のクマバチが出て来た。2年ほど前から見かけるようになった正体不明のハチであった。
この日は15時から喫茶店の初スタッフ会議があった。妻に代わって私が喫茶店を取り仕切ること(私の場合は助言と裏方だけだが)になった。これまでは“人形作家が経営する喫茶店”が、そのイメージになっていた。近年は、客筋が大きく変わっており、日によってはヨーロッパのごとき風情になる。こうしたことを勘案し、“庭を開放するために開店”した当初の想いも振り返った。
思案の末、運営する意義を盛り込むメニューの“改革”を構想した。これに意義はなかった。旧来と変わらず、売り上げの増進を決して目的にはしなかったからだ。
企業や学校の経営を任された時も、私は売り上げや入学志望者数の増加は、結果のご褒美と位置づけきた。好ましき意義の模索と実践に心血を注いだ。このたびも、意義が認められなければ、意識を改めることにしたい。問題は、任された会社や学校は、すべて増収増益や全学科入学定員超過に付き合えたが、この喫茶店はそう容易ではないことだ。
こんなことを気しながら会議は進んだ。予期せぬことが分かった。まず、店を守る皆さんが、店や什を、とても大事に扱ったいたことだ。それでも、40年の歳月を経た店頭では様々な不具合が生じていた。様々な“補修や保全”が求められていた。
結果、虫取りに始まる朝飯前の一仕事に加えて、店のイメージ “改革”だけでなく、この“補修や保全”を加えた3つの課題をミッションとする日々に踏み出すことになった。
早速この日は、プチ会議の後、テラスの床石一部(張り替を要する2枚のフラメット)の補修と、再塗装を要するトイレのドアーを点検した。2日後に迎える昇さんと、段取り良く作業に取り掛かれるように(物忘れが進んだので)、即ワークルームに走り、道具や塗料などを取り出しておいた。
この日は、元顧問先の社長から、午後の4時から始まる夕食に招かれていた。だから、朝一の虫捕りの後は、軽作業の1日にした。朝食のデザートに、たった1つしか取れなかったスモモの実を賞味した。その後、ツゲなどの刈り込みに当たった。久しぶりに大きなアブを見かけた。昼食に戻ると、妻はニイニイゼミを捕まえていた。
昇さんを迎えた12日、フラメットの張り替えとドアーの塗装を課題にした。この日は別途、私には“「匠」の祭典の今後”を打ち合わせる外出予定があった。妻はその後を継いで、補修に飛び入りして、帰宅後は3人の作業になった。
残念ながら、フラメットの目地を埋めるコーキング剤の手持ちがなく、後日に回した。
13日は、遅ればせの月記原稿を知範さんに引き継げた。昇さんは先月29日に倒したサクラを玉切りにして、片付けた。
14日は厨房のガスコンロやオーブンの不具合と、トイレの水漏れ問題の解消に取り組んだ。前者はプロに任せ、後者は私が、せめて原因の解明だけでもしたかった。
従来から、湿気た日に、タイルの床から水が染み出すとか、タイルと便器の隙間から漏れ出すなどと、憶測としか思えない意見がまかり通っていた。
案の定、水洗用の水タンクに問題があった。硬化ゴム製の黒いワッシャーの経年劣化が原因だった。この取り換えには専用の道具を要した。わが家にはない。そこで、持ち合わせていた噴霧器用の革製ワッシャーを活かすことにした。外側の特殊なナットと、陶器のタンクの間に挟んで締め上げ、皮が湿って膨らむ性質を活かし、水漏れを防ぐことにした.
19日、朝一の虫取りで、チョット気になる光景に出くわした。ピーマンのカメムシ捕りに取り掛かった。指に何か、大きな昆虫が触った。この夏、初めて見る羽化後間なしのアブラゼミであった。観ると、このピーマンで羽化したことが分かった。この後、フジの剪定に取り組んだが、「過去、何年間も、このセミはどこで幼虫時代を、無事に過ごしたのだろうか?」と気になった。
20日、トンネルアーチの側で、ニイニイゼミの抜け殻を久しぶりに見た。
こうした要領で、補修問題は、夏休み明けまでにあらかた片付けることができた。残る問題は、厨房の2つの課題だった。ガスコンロやオーブンの不具合とステンレスのシンクの下の6枚の扉の不具合が残った。
このいずれの点検でも、40年も使い続けて来たことを知ったプロが、一様に丁寧な使い方を褒めた。私は感謝感激だけでなく、誇らしげな気持ちにもなった。
ガスコンロとオーヴンは、いつでも取り換え得ることが分かった。ステンレスのシンクの下の6枚の扉は、乙佳さんと大工の至宝・末富さんに頼んだ。扉の材は、ムクの木材ではなく、経年劣化が心配な合成材であった。故に、「いつまでもつか、保証できない」と言ってまともな代金をとってもらえない。もちろん言い含め(循環型社会で繫栄する手立ての一環だと訴え)て、とってもらった。
工業社会型の経営では、手早く道具や家具などを使って生産効率をあげる手もあるだろう。目先の帳簿面では採算があっていても、問題(資源の浪費など)の先送りは好ましくない。第一、人間の心がすさむ一方ではないか。
夏休みの間に、AALTOの家具の定期点検もしてもらい、6客の椅子を補修してもらった。。
かくして夏休みは明けた。知りえた課題で、自らに果たした最後に残った作業は、フラメットのコーキングと、肝心のメニューの改革だった。
この日、21日はまず、アカウリの名にふさわしく色づいた実を初収穫し、ベーコンと合わせて朝の総菜にした。
昇さんを迎え、AGUのコラボ展を覗きに出た。帰宅を急ぎ、道中で元アイトワ塾生の柴山さんと後藤さんの来訪を知った。
このお2人のオカゲで網田さんの近況を知った。13年前の網田さんとの約束を振り返りながら、電話を入れた。当時、後期高齢者になった私に、妻、後藤さん、そして網田さんが運転免許の返上を勧めた。近場は妻が、京都府内は後藤さんが、そして遠方は網田さんが、それぞれアッシーになると言って勧めてもらえたものだから、返上した。
だが、後藤さんも、網田さんも、運転は無理、になった。妻は、私がガイドしなければ、道に迷いかねない人になった。昇さんに甘えているが、土日だけだし、無理は言えない。
3.子ザル対策が、新たな夢を描かせた
ついに、獣害フェンスの網の目を「通り抜けられる」と、気づいた子ザルが現れたことを知った。これで謎が解けた。確か今春だった。「サルの仕業以外に、考えられない」と考えたが、釈然としないダイコンの被害があった。なぜなら、畑にはいつものようなサルが暴れまわった様子はなかったからだ。今にして思えば、子ザルは恐る恐る犯行に及んでいたのであろう。
その後、2度も、親ザルたちが集団で侵入し、農作物をほしいままに競って荒らす被害があった。その時は電柵に、電気を通すのを忘れたスキをつかれた。この子ザルも混じっていたに違いない。競い合って作物を荒し、食い散らかす癖を身に着けたのではないか。
「大変なことになった」と、新たな不安が沸き上がった。“幸島のイモ”ではないが、早晩この群れの文化となってしまうに違いない。つまり、すべての子ザルが網目をすり抜けるうる事を覚え、すり抜け得る限りすり抜ける技を工夫し、暴れまわるに違いない、と絶望的な心境に陥れられてしまった。
様々な防御策を考えた。美観をこれ以上損ないたくない。いきなり痛い目には合わせるようなことはしたくない。さりとて、すぐに見破られるような手だてではまずい。せめて、図に乗れば、酷い目に合うようにして懲らしめ、恐怖心を植え付けられるようにしたい。
思案を重ねた結果、思い付いたことがある。獣害ネットに重ねて、防鳥ネットを張り巡らせる案であった。即刻、昇さんに頼んで、張り巡らせてもらうことにした。
彼は、外側にではなく、内側に張った方が、より有効だろうと考えた。「その通り!」と私は同意した。金網を通った後、防鳥ネットに阻まれて、もがく子ザルの姿を連想した。もがいているところを見つけたら、チョット厳しいお仕置きをしよう。
幅1.8m、長さ18mの防鳥ネットで、畑を囲う獣害ネットの半分ほどを、うまく覆うことができた。「残りは明日に」で、この日は切り上げた。
翌日、張り残した部分にネットを張る作業に、昇さんが取り掛かった。彼は、すぐに、前日張った網に、立派なカブトムシがからまっていたことに気付いた。救おうとする昇さんを制し、ケイタイで妻に、この救済役を引き受けてもらうことにした。
人形作りの手を止めて、いそいそと妻は駆け付けた。
手間取っている妻を見守りながら、わが家のこれまでのカブトムシとの関わりを振り返った。今は大学生になった(元アイトワ塾生・伴さんの子ども)清太や藍花が子どもの頃は、わが家の腐葉土小屋ではカブトムシの幼虫が湧いてくるかの如くに繁殖していた。
もちろん、腐葉土を取り出す時は気をつけて、幼虫を見かけると、1匹残らず腐葉土の山の奥の方に戻してやった。とりわけ、脱皮が近づいた分は繊細に扱った。さもないと奇形にしかねないからだ。
羽化して成虫になると、その多くは蜜源を求めて、わが家の南隣にある小倉池沿いにまで夜な夜な、飛んでいった。20本ばかりのクヌギの木が池沿いに生えいたが、その樹液に惹かれて飛んで行く。
そこが雌雄のカブトムシの恋場となり、メスは受精すると、わが腐葉土小屋まで産卵のために引き返していたのだろう。
やがて道ゆく人の間で、カブトムシが噂になったようだ。祇園祭の頃になると、日が落ちるのを待ち構えていたように、大勢の子ども連れが懐中電灯をかざし、やってくるようになった。いつしか、昆虫を商う人が夜な夜な繰り出すようになった。プロは、木に鉈で傷をつけ、樹液を強制的に出させるまでになった。
2年もせぬうちに、わが腐葉土小屋ではカブトムシの幼虫がいなくなった。池沿いに生えていたクヌギが次々と枯れて半数になった。
プロが(カブトムシを絶やし)来なくなってから、わが家の腐葉土小屋では、大きな変化が生じた。カブトムシの幼虫だけでなく、ブンブンの、カブトムシより3回りほど小さい幼虫もわかなくなった。ついに、あの黒い腐葉土ではなく、腐食が進まず、過半が枯れ葉の貯蔵庫のようになった。
妻は、防鳥ネットからカブトムシを解放した。蜜と水を与え、バケツから解放した。
昨年のことだ。わが家の庭で、昇さんがカブトムシの幼虫を見つけた。腐葉土小屋から20m余り南側に、わが家の小さな竹ヤブがある。その手入れをしていた昇さんが、腐食した土の中でカブトムシの幼虫を見つけて、私に教えた。
この報告を、私は「大発見」とばかりにとても高く評価した。にもかかわらず、彼は、同じ所で今年も幼虫を見つけたが、その2匹を奏太君にあげてから、私の了解を取った。
相手が奏太君であったし、昇さんが「奏太君が欲しがったから」と意味不明解な答え方であったので、後学の教材に、と考えるゆとりを得た。
本来の私なら、次のような説明をしてほしかった。まず、最悪でも「奏太君が(ここなら居そう、と思ったようで)カブトムシの幼虫を欲しがった。だから、去年見つけていたことを思い出して、探し出して、あげて、喜ばせた」である。
あるいは、「奏太君が(ここなら居そう、と思ったようで)カブトムシの幼虫を探したがった。だから、去年見つけていたことを思い出し、探し出して、あげて、喜ばせた」
それとも、「奏太君が、カブトムシの幼虫を探したがった。だから、去年のことを思い出し、一緒に探し出して、あげて、喜ばせた」
あるいは、「奏太君が、カブトムシの幼虫を探したがった。だから、去年のことを思い出して、ヒントを与えると、自分で探し出してきた。そこで(数に制限をつけて、余分は元に返させた上で)あげることにした。喜んだ」であってほしかった。
もちろん、これらのストーリーとは大きく異なる事情や事実があったとすれば、その現実を知りたかった。とりわけ自然が関わることは、計り知れない“たった1度きりのこと”がしばしば生じるの常だから。
こうしたことを大事にしたい私だから、当日は怒りを抑えて、奏太君に宿題を(捕まえられた幼虫の立場になって説得し)出したのだと思う。
相手が息子や孫なら、文字通りの親切に、親をも深く切るほどの深切に、つまり「バカモン」に(短大時代のように)なっていたことだろう。だが、この時は、宿題を出し、次の来訪時に、期待している。
その報告書には、観察なくして描きえない絵も添えられていた。
4.教え子AGUのコラボ展を見学
先月末のこと。AGUが、京都でコラボ展“道化師の独りごと”を開くことを知った。会場は、初めて訪れる私設のギャラリーで、わが家から京都の(市街地を挟んで)反対側にある銀閣寺の方であった。今の私には昇さんの車とエスコートを頼りたくなる。
昇さんを誘い、乗り気になってもらえた。 “海の日”に出かける計画を立てた。だが、この日の彼は、2時ごろまでしか付き合ってもらえなかった。
この日はその後、AGUの来場日ではない、と分かった。残念ながら、昇さんの都合を優先するほかない。前日になって、AGUから、岐阜から駆け付けられるようになった、と知らせてきた。だが、昼前にしか着けない、だった。出発予定時刻を少し遅らせた。
ギャララリーにたどり着いた。幸いなことに、コラボした相手の林リウイチさんの来場日であった。リウイチさんの作品にも、とても心惹かれた。AGU同様に、独特の作風だし、モチーフが変われど、一貫性がある作品を生み出される人だ。
AGUは、油絵を学びたくて入学した。油絵で生きてゆこうとしたが、適いそうになく、落ち込んだ。だが創作意欲と創造能力がうずいたのだろう。講義の時間に、私が持ち込んだ操り人形を思い出し、彫刻作業で気を紛らわせた。それが独創のキッカケとなり、次々と恩人に巡り合え、今がある。AGUはこの度、繊維織物を活かす新しい分野に興味を抱き始めたようだ。一貫性は崩れていない。
ほどなくAGUは、親しい人や家族と4人連れで到着した。元気だった。
林リウイチさんにも写真に納まっていただけた。
足早に、この2人の世界を後にした。急ぎ帰途についた。道中で「遅昼を」となって、初めて訪れるところで、とった。
これから「急ぎの時は、ここで、」などと話していた時に、ケイタイが鳴った。元アイトワ塾生に訪ねてもらえていた。
5.自然生え5種と、栽培6種で、酷暑を乗り切ろう
昨年まで自然生え夏野菜の常連だったゴーヤは、この夏も逞しく芽生え、日ごとに蔓を伸ばしていた。同じく常連だったトウガンは、期待通りには発芽しなかった。
昨年はモロヘイヤが初めて、しかも2本も自然生えした。花を摘まず、種を勝手に結ばせて、好きに振りまかせておいた。今年は随所で沢山芽生えた。自然生え種の1つになってほしい。
葉や蔓が紫色の元来のツルムラサキは、一昨年から再び苗から育て始めた。昨年から、自然生え種にしたくて、努力を重ねたが、今年は功を奏した。自然生えが随所でムクムクと育っている
逆に、昨年まで優先的に自生化させてきた葉や蔓が緑色のツルムラサキは、今年はかろうじて3か所で発芽した程度。しかも、いずれもが矮性のように貧相で、元気がない。今年は収穫を控えて、次年度に期待し、種を振りまかさせることにした。
中旬に、ある判断を迫られている。自然発芽していないトウガンとカボチャについて、タネなり苗なりを買って育てるべきか、否か、であった。
妻と相談した。案の定、トウガンやカボチャより、日々食す野菜で、手間がかからないツルムラサキ、モロヘイヤ、そしてゴーヤを優先してほしい、であった。
加えて、例年通りに、夏野菜栽培6種(トマト、キュウリ、ナスビ、トウガラシ、インゲンマメ、そしてオクラ)を、虫捕り覚悟で育てよう、と話し合った。
振り返れば、昨夏は随所で自然生えしたトウガンと、種から育てたツルクビカボチャを優先して、それらの棚に夏の畑の半分を占めさせてしまった。棚は畑を日陰にする。
幸い、今年は、トウガラシ、キュウリ、ナス、そしてトマトの、あるいはツルムラサキ、モロヘイヤ、あるいはササガマメ(苗を昇さんにもらった)などの収穫は順調に進んだ。
久しぶりに、未明のPCタイムに、トマトでも小腹を満たした。好物の焼きトウガラシを毎朝のごとくに味わっている。早、トウガラシの葉の佃煮も賞味した。これは辛トウガラシの苗を間違って買ったオカゲだ。実を2本収穫して、なめてみて、生育を中断し、切り取ったわけだ。やがて、オクラも採れ始めることだろう。
残念ながら、インゲンマメはサルに襲われ、全滅状態のままだ。だが、昇さんに苗を3本もらったササゲマメが順調に育ち、埋め合わせている。
この夏は、アカウリと呼ぶ野菜を、昇さんのオカガで新たに知った。だが、特色が見い出せず、夏野菜の常連に加えなくては、との意義をまだ見い出せていない。
アカウリの収穫で、草ぼうぼうのニラコーナーに踏み込んだが、ニラも自生化夏野菜に加えたい。また、今年は2本だが、サツマイモの蔓を刺していたことを思い出した。久方ぶりに、葉柄のキンピラを味わいたくなったからだ。
中旬に、カボチャに次いで、トウガンらしき苗が各1本、作物の影で芽生え、育ちつつあったことに気付いた。それぞれに、それなりに蔓を伸ばさせる支柱を用意した。
やがてカボチャは花が咲き、月末時点でツルクビカボチャの血を引いていたことが分かった。トウガンらしき花も咲いた。共に、実が2つか3つぐらいは育つ畑であってほしい。
下旬に思い知らされたことがある。ハナオクラが随所で芽吹き、26日に花が咲いたからだ。ハナオクラもこの庭では、とても大事な自生野菜だ。
この夏は、昨年度のネギの畝の側で、ネギ苗が自然生えした。この分 (畝間の)は、近く植え替えて次年度用の苗に活かす。来年は、自生モロヘイヤに倣って、ネギも、自然生えを植え替えずに育てたらどうなるのか、試してみよう。、
エジプトが原産と聞くモロヘイヤは、種から育てると、苗の段階で一度余分に土替えの植え直しを要する。「クレオパトラの時代は?」と考えていたら、昨年は2本も自然生えして、植え替えをせずとも立派に育ち、枯れる前に種をたくさん振りまいた。そして今年は、自然生えが、苗から育てるよりはるかに逞しく育っている。
野生のネギは? どうかな。
6.アメリカの誤謬、その他
1、京都自由大学が、アイトワ発で開催された。
5日に、アイトワから発信する形で、京都自由大学の講師を務めさせていただいた。アイトワの何たるか。循環型生活モデルの創出に生涯をかけるに至った動機。あるいは、この60数年での体感や印象などを紹介した。
おもえば、この4月にデンマークの友人夫妻を迎えたが、その折に桃山学院大学の竹内真澄教授夫妻と知り合えた。それが縁で先月、再訪がかない、京都自由大学なる活動を知った。一度講師をと勧められていたが、現実化した。しかも、9名の現場参加者が申しこまれ、意見交換という望外の喜びにも恵まれた。
2、 野鍛冶の堀田典男さんに脱帽。
先月の来訪時に、2つの道具を預かて頂けた。母から引き継いだ鉈(なた)と、最寄りの野鍛冶で、私の希望通りに打ってもらった斧(おの)だった。既に私の身体の延長になっており、息子でもおれば、家宝として引き継がせたいほどだ。
この7日に、研ぎ上がった2丁の道具を、持参いただいた。斧は“わらじ”をはかせたもらっており、鉈には鞘がそえられていた。鉈は、元は、金部と木の手がぐらついていたが、目釘を替えるなどして、補修されていた。しかも、古い目釘も添えられていた。機械との違いを、体感した。いよいよ私専用の道具にしたくなった。
もちろん刃は、やや乱暴に用いる私好みに研がれていた。野鍛冶、と名乗る人の、真骨頂に触れたような心境になれたように感じた。
3、和を食で満喫させていただいた。
粋な夕餉の席に夫婦で招いていただき、繊細で丁寧な“和の味を満喫”した。かつて顧問として経営方針に関わらせていただいた元社長だが、妻が女性の鏡のごとくに慕う人でもある。出不精になった妻がいそいそと同席させていただき、学ぶところが大であったようだ。魯山人と伺ったようにおもう書に出迎えられた。
お寿司を、といってお誘いいただいたが、身に余るフルコースだった。このような所に、このような割烹が、と京都の奥行きを感じながら、食す。この日、“ねねの道”との通称で通る道があることを知った。
不躾丸出しだが、すべてをケイタイに収めようとした。だが、1度ならず、2度も、撮り忘れた。シマッタと気づいたのは、箸をつけた後だった。
おもえば、とりわけ撮っておきたかった品であった。手をつけた後であれ、撮っておくべきであった。なぜなら、思わず手をつけてしまっておきながら、今となっては共に、何も思い出せないのだから。食材に惹かれたのか。ひと工夫に感心したのか。あるいは、どのような器であったのだろうか。
美味しかった。
4、タイワンクタケマバチであった。
異様な痛みの犯人は、近年この庭に飛来し始めた真っ黒のクマバチであった。翅は、常は透明で茶色がかっているが、光線の都合で奇妙に輝いて見せる。このハチの正体を知りたかった。
12日にあった“「匠」の祭典”の打ち合わせの席で、この話題を出した。確か異常気象が問題になった。すかさず、堂宮大工の山口保広さんから、それは「タイワンクマバチだ」と、その生態などを教わった。
その後、22日のこと。京都新聞で、目立つ写真と、「やはり」と思わせられる見出しを添えて、このハチの何たるかを報じていた。
5、徳島の小夜ちゃんが来てくれた。
元妻の生徒さんで、妻と同姓同名の小夜ちゃんが、予定通りに訪ねてくれた。友達の日帰り旅行に付き合った京都の旅だった。寸暇を活かしたらしい。友だちは「粽(ちまき)を買う、」といって長い行列に並んでいる、と聞いた。人気のある鉾の粽が欲しいようだ。
小夜ちゃんの手土産には、ハッピーの餌も含まれていた。妻が好きなシマエナガ柄の袋から出て来た。
6、新聞で、感じたこと、案じたこと。
a、東大の新学部「デザイン」は、大丈夫?
70年ぶりの新学部は、なぜ美学“カレッジ オブ アート”でなかったのか。見出しでは“変革”を謳っている。デザインを選んだのなら、その中身がよく伝わって来てほしかった。
デザインは、工業社会が生み出した (この概念に気づき、重視し始めた)といってよい。だが、この概念に気づき、世界で最初のデザイナーと目されることになった人が、警鐘を鳴らした逆方向へと、つまり工業社会は、その提唱した意義とは逆の方向へと、デザインを誘った。
平たく言えば、モノをいつくしみ、大事にするためにその存在に気付いた。だが、工業社会は、目移りさせ、モノを粗末に扱い、ごみを増やすために活かして来た。だから、デザイナーと称する人が多い国や地域ほど、ごみが増え、自然破壊が進み、地球温暖化の原因を多く生み出している、と断言してよい。
今、求められるデザインは、デザインがこれまでにつぶしてきたものをあがなうデザインであるべきだ。
b、アメリカの誤謬。
22日のこと。京都新聞の『梵語』を読み切った。今や「わかりやすい」文章や語りとは、読んであるいは聞いてスグに「好きなように曲解や誤解を誘い、信じ込む込ませる」という意味でも使われているのではないか、と不安になった。
あれは1962年(私が社会人になった年)のことだった。訪欧した池田勇人首相は、会談したドゴール大統領から「セールスマン」のごとし、と評された。そうと知って、とても恥ずかしい気分にされた。その伝で言えば、トランプは? と考えてしまった。
理想の天地を求め命からがら上陸したピューリタンが気の毒になった。おもわず、トランプの記事に、落書きをしていた。
かつて私はアメリカ合衆国を、世界で最初に憲法を制定した歴史を持つ国として、あるいは好ましきの人の輪の在り方を先住民から学び、近代民主主義を普及させた国として憧れ、しばしば訪れるようになった。当時、アメリカは“世界の警察官”視、さられていた。
間違っても、トランプのような人に権力を握らせないために、憲法が考え出されたのではなかったのか。
c、誰しもが、何かの鏡であり、番人であり、源であるように。
前日に次いで、『梵語』を読み切った。京都新聞を購読しておいてヨカッタ。夫から“山の神”と目されていた日本の妻たる所以をほうふつさせるエピソードを取り上げていた。主婦と称されるようになったゆえんを知りえたような気分になった。
ペイジを繰った。「湖は私たちの鏡」との見出しが目に飛び込んできた。ドキンと、とした。過去が脳裏を駆け巡った。
この幼児期から住みついた村からホタルやタニシが消えた年を、この庭からケラが消えた頃を、なぜか思い出した。ホタルやタニシはこの村の鏡だった。農薬の空中散布を、それに気づいた人と気づかなかった人の心の壁を、明らかに映し出す鏡だった。それらを見逃さない番人だった。それらが、ある源であったことに、後年づかされている。
次いで、この記事が、共同通信ではなくて、滋賀本社の記事であったことに気づいた。阪神淡路大震災の折の、神戸新聞社に差し伸べて京都新聞の救援を知っているだけに、記事に感謝しながら、憶測した。確かめて、得心し、心が温かくなった。
当月は、なぜか、誰しもが何かの鏡であり、番人であり、源である世の中になってほしい、と強く願いながら過ごしていたことに気づかされた。
d、いいんだ、すぐにモクズになる。
28日の朝日は“百年・未来への歴史”の頁で特攻隊員の写真も載せた。この笑顔が、なぜか近頃の真面目な若者の笑顔に、とても似ているように見えて、とてもつらくなった。
10歳私より年上の姉は当時、16歳だった。学徒動員で飛行機の高度計づくりに関わり、検査員を勤めていた。なぜか後年、姉から聴いた、その時のこぼれ話が思い出された。
誤差が多い高度計がたくさん出たようだ。その姉の報告に対して、監督官は「いいんだ、すぐにモクズになるのだから」、続けて、この計器の納期が遅れ、「付いていないと、不安にさせるから」と聞かされた。すべて合格品になったらしい。
7、井上ひさしを忍んだ。
メニューの改革は、サービスする飲食物の追加などではなく、喫茶店を開くにいたった趣旨を、4頁ほど追加し、日英文で明らかにすることであった。もっとも、その1つは、日本ではアイトワでしか(営業体では)賞味できない世界1のオーガニック紅茶についてだ。もちろん、なぜ取り扱えるようになったのか、とそのわけを明らかにすることが主だ。
この度の英訳は、リズさんの協力も得た。もちろんリズさんには、外国人の視点から、私には気付けていなかった様々な助言もしてもらえた。その過程で、とても驚かされたこともあった。
私が作った拙い日本文から彼女が導き出した英訳が、とても含蓄に富んでいるように感じられた。そこで、この英訳に倣って私なりに日本文を手直しして、彼女の意見を仰いだ。
「これでもよいが」と評したうえで、彼女はあるAIが導き出した次の3通りの日本文を「ご参考までに」といって知らせてくれた。、
オプション1: シンプルに洗練された表現
オプション2: 顧客の好奇心をくすぐる表現
オプション3: より情緒的で誘いかける表現
この3つに当たる日本文が、それぞれ添えられており、この中から選んでみれば、との提案だった。私はオプション1を選び、言い回しを少し私流に修正して用いることにした。
「当店自慢の唯一無二の紅茶と特別なケーキをぜひお試しください。この類まれなる紅茶の秘密は、この後で詳しくご紹介しています」。
同時に、この3つのオプションを眺めながら、その昔に読んだ井上ひさしの意見を思い出した。英語に比べて「日本語の動詞は弱い」との意見だった。
その昔、恩人のお1人が、その社長室に掲げていた井上ひさし直筆の名言を見た。半世紀近くも前のことだ。今では誰しもが知る“作文の極意”と言ってよいだろう。
「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」
かくあるべし、と常に心掛けてきた。講演や講師の機会を頂くと、感想文を集めて頂けることを優先し、その達成度を確かめようとして来た。
結果、到底この期待はかなえられそうにない、と落ち込んだ。なぜなら、「良い話を聞いた」「ためになった」「難しい話で、聞くに堪えなかった」あるいは「自慢話を聞かされた」などと、あらかたの人が意見表明に終わっていたからだ。
オカゲで、気付かされたことがあった。私も、課長や部長の代理で講演の聴講などによく派遣された。同じことをしていたからだ。「自慢話でした」とか「難しい話で、眠くなりました」などと要約していた。でも、反応が割れていたことを思い出した。
「ご苦労さん。ありがとう。行かんで済んだョ」とでもいったような感謝をしてくださる人と、「どのような自慢話だったの」などと事実(私の感想や意見の中身)に興味を示し、るる述べさせる人に2分された。後者は小数だったが、多くを学んだ。
夏休み明けまでに、メニューの改革は仕上がらなかった。
8、フジづるの剪定が始まった。
夏休み明けの前日に、朝飯前の一仕事(朝一)でフジの第1次剪定を終えた。昨年度は、年間で4度にわたって剪定作業を要した。より猛暑になった今年はどうなることやら。
9、ブルーベリー畑を、4日がかりで手入れをしてヨカッタ。
朝一の仕事に選び、日が射し始める前の各1時間、計4日を費やした。真夏の修行の1つと位置付けて取り組んだ。
2つある小さい方は、被せていた防鳥ネットが傷んで破れていた。また土手際にあって、階段(昇さんの息子が作った)や手すりがある危ない立地ゆえに、先に手をつけた。草を刈り、ブルーベリーの木の剪定は私が引き受けた。後日、昇さんに新しいネットを被せてもらった。
引き続いてネットが破れていない大きい方に取り組んだ。朝一の作業で、小1時間ずつ2回の作業で草刈りと剪定に当たり、片付けた。随分トクサ(これまでは大事にしてきた石炭紀の植物、私が言う植物Ⅰの名残)が、とてもはびこっていたので、ことごとく刈り取った。
狭いところにしゃがみ見込み、膝をつて、身動きしにくし作業の上に、蚊と蚋(ぶよ)に襲われる。作業を終え、ネットから出て、背を伸ばす時の爽快さがご褒美だった。汗でぬれた衣服は、都度妻が洗濯。礼を言うと、妻は都度、「機械が洗濯をします」と言うようになった。後刻、そのわけがわかった。
食事の折に、妻に、苦言を呈せられることが、増えたのからだ。1時間もかけたのに、15分で平らげるのだから、などと。だから“三種の神器”時代を振り返った。電気洗濯機の普及が急伸した頃のこと。主婦の洗濯に懸ける所要時間が却って増えていた。
妻は逆に、料理に創造的に取り組むことが、次第に苦痛になり始めたのかもしれない。
そうかもしれない、と憶測し、食事の都度、創造的なメニューには、感謝の言葉を丁寧に選ぶように心掛けることにした。
10、刃物研ぎで、応えたかった。
プチトマトの皮を、妻が丁寧にむいて、2人で喜々と賞味する季節は終盤に近付いた。露地栽培のトマトは晩期に入り、プチトマトのサイズは随分小さくなった。「ならば、」と、畑でハナオクラの花が咲き始めた26日に、使い込んだ包丁と鎌を、風除室で研ぐことにした。
電道具で荒砥ぎして、砥石で仕上げた。この電動具は随分使い込んだが、私の生涯はこの1台で間に合いそうだ。
「よく切れる」と喜んだ妻は、直径1㎝ほどの小さなトマトも、「これがおいしいのよ」と言って1つ残さずセッセとむいている。
11、メキシコのALESSANDRA FONTANOTさん。
昨年の秋であったと記憶する。その日の最後のお客さんだった。『アイトワ12節』も買い求めて下さって、理想とする生き方を聞かせてもらった。“同向の志”アレッサンドラ(?)さんから、贈り物が届いた。
12、ハッピーの爪切り。
あまりにも暑そうなので、昼間は“夏の館”に移したが、ハッピーは暑くても私たちの側が好きなようだ。グダーッと寝そべっている。散歩をしても、活発に動かないようで、爪が伸びた。「石堂先生の所へ行こう」と、妻を誘った。
この先生のことを、「なんで、叱られんなんの」と言って、避ける人もいる。私は、犬の立場から飼い主を叱る“犬主主義の先生”を、尊敬し、信頼する。
13、天然サウナで鉢仕事。
この時期の温室は、蒸し風呂だ。そこを雨の日は、汗のかき場に活かす。まず、喫茶店の初秋のテラス飾る中国ホウセンカと、フウセンカズラなどの鉢を用意した。次いで、来年と、再来年の夏場に、“ポットウォール”を彩るオリヅルランの鉢。さらに、絶やしたくないテンモクジオウの苗作りなど、と片付けた。その間に、3回に分けて取り組んだ補修作業があった。エイジングを大事にしたい木の鉢だった。当月は10回ほど、昼間の天然サウナで汗をかいた。
14、書籍など、読み物にも恵まれた。
2日にお迎えした吉長成恭先生(次代のフラッグマン“ビブギオールカラー”をお迎えしていると感じた人)の監訳書で、文月は明けたようなものだ。
12日に、堂宮大工の山口保広さん( “「匠」の祭典”の打ち合わせで同席)とお目にかかい、エッセイ2点、4頁ものの『現代“堂宮大工”事情』と29頁ものの『戦後大衆の無意識のニヒリズムの転換と憲法9条のゆくえ』を頂いた。
職人の世界は今や「宮大工でさえ、」厳しい状況にあるようだ。つまり、昨今の日本人は、この職人技や術、その心掛けを尊んではいないのかもしれない。
わが国の未来世代はいずれ、日本が培ってきた様々な職人技や術と、敗戦後の時代に植林した木材などを主に、これらをいかに国の“ウリ”として活かすかが、わが国の大事な生命線の1本になるはず、と睨んできた私には、とても寂しく感じられた。
山口保広さんは、憲法9条を背骨にして胸を張る日本と日本人を尊んでいらっしゃる。奥行きの計り知れない人、と感じた。
職人が手を動かしながら、刻々と注ぎ込む術や技、あるいは知恵や心掛けのエッセンスこそが、とヒラメキ、これらの意義に気付き、デザインの概念を発見した人がいた。ARTにも“勝れど劣らぬ価値”(後年、日本では民芸と訳した)だと見抜いている。
工業社会は逆に、万人共有の欲望を、等しく解放する触媒としてデザインを活かすようになったわけだ。
14日に、商社時代の後輩で、歌人の村島典子さんから、「応援している活動家で、釜ヶ崎での活動でも知られる人」と言って、上田假奈代さんの詩集が届いた。
実は、社会人になって初めて、大阪に“釜ヶ崎”があったことを私は知った。入社当時と退社した頃(16年8か月後)では、その見方を大きく変えている。その過程で、釜ヶ崎に棲み着き“バクダン”を酌み交わすわが身を連想さえ、している。バクダンとは、そこで当時はやっていた酒(睡眠薬ブロバリンを2錠放り込んだ焼酎)のこと。安タバコ(1箱20円のゴールデンバットをばらして、1本11円で売っていた)を吹かして飲み、アジトに帰って行く人が多かった。
後年、2025年日本破綻説を私は思いつくが、その要因の1つは、バクダンを流行らせた頃に造られた、公共の下水道や橋などインフラの寿命だ。その暗算の根拠に、食糧問題や、国民の自信喪失など共に、1つにしている。
村島さんは、ご自身の近作も添えてくださった。
次いで、時々立ち寄ってくださる詩人の山口賀代子さんから“左庭”59号が、妻あてに届き、私も読んだ。
28日に、元顧問先の経営者が、自分史をご夫妻で届けて下さった。40年近く、途切れぬつきあいだったから、なぜか心にしみた。絵画がご趣味と知った。
月末に、岡田さんが「届けるものがある、」と言って訪ねて下さった。そのうちの2つが書籍だった。まず同郷愛媛の船主の自分史。
次いで、今となっては伝記。こちらはご本人からではなく、出版人から、であった。
文月のよき締めくくりになった。
園芸療法など多彩ぶりを発揮する医学博士とのめぐり逢いで明け、途中で、医学博士の漫画家・手塚治虫を忍び、かくして土木工事で多くの人々を救った中村哲医学博士の著作にめぐまれたのだから。
このすぐ後のことだった。大きなダンボール箱が届いた。
15、久方ぶりのボーナス気分に恵まれた。
開けてビックリ。とりわけ嬉しかった贈り物は、先月末の研修を、受講生の一人が収録したアルバムと、額装されたプログラム終了後の集合写真だった。集合写真は昇さんが撮影した。 アルバムは、昇さんの分も入っていた。
相方のスタッフと、半年掛かりで練ったプログラムだった。ドキンとする質問を受けるほどの手応えを感じる研修になった。時々アルバムを繰って、あの想いを振り返ろう。
堆肥の山も、この1カ月で、少し高さを増した。