目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 上旬は“古紙出し”で明け、チョッと胸を張った
2 商社時代の友人の立ち寄り
3 「今ごろに」と、遅れた冬野菜の準備
4 町田夫妻を迎え、ヤッと解ったこと
5 「そうであったか」と、膝を打った
6 勿体ない人にはならないぞ、その他
一病息災の身でこの酷暑、無事に過ごせるのか
長月は、未明にまず「古紙出しを」と、妻を誘い、玄関を出たのです。上旬は約束事が少なかったので「ごみ出しのシステムを固めよう」と、心に決めていたからです。玄関を出ると4つの水鉢があります。その1つで、兄弟(?)カエルが4匹、ポケーッと浮かんでいました。かつては鉢毎に棲み分けていた大人のカエルは、1匹もいなくて、心配になりました。
月に1度の古紙出しは、訳あって、胸を張って済ませ、家に戻りました。残る週に2度の燃やすごみ、1度のプラごみとカンとビン、そして年に6度の所定ステーションへ運び込む回収品(小型家電や電池、陶磁器やてんぷら油、あるいは刃物類や古着など)を、引き受けた以上は、いかにいかに自分たちに、だけでなく、地球にも優しく、を心がけることにしたのです。
無理やり起こした妻を寝直させ、一人で畑に出直しました。まずトウガラシのカメムシ退治。その後、酷暑で疲れを体に溜めていたようで、畑仕事はパス。おのずとオクラやモロヘイヤなど、ネバネバした野菜の収穫に手が伸びました。帰途、トボトボと温度計道を登っていると、意外なところでハナオクラの花が1輪、目に飛び込んきました。なぜか元気をもらいました。ヤッと新しい1カ月が明けた、といったような元気になったのです。
この日は終日、先月分月記のPC作業に集中しました。この間に、体を伸ばしたくて、第2次のワケギの球根を植え付けた他は、3度の食事しか思い出せません。朝のネバネバ四君子。昼は冷房の下で、かき揚げうどん。そして夜は、野菜タップリのお惣菜、でした。
上旬はこの他に、次の7つのトピックスに関わっています。まず5つの予定を消化。そして2つの突発事象(学生時代の旧友の訃報と、妻が大きなヘビと遭遇し、ある得心)でした。
30数年来の旧友、町田夫妻の来訪に恵まれ、まず旧交を温めました。他に、かかり付け医での心臓のチェック。温室の割れたガラスの交換。昇さんと2日がかりの庭仕事、と1度の外出(大手HCでの買い物と原爆展見学)です。ある得心とは、妻が玄関脇で大きなヘビと出くわしたオカゲです。「案の定」と、私は膝を打ったのです。いつの間にか5つの鉢から大人のカエルが1匹残らず消えていました。その謎が解けた気分になったことです。
中旬は、堀田さんの来訪、ハブランサス・ロブスタスの第何次目かの開花、そして妻を内田病院に先導、で明けたようなものです。その後、12ものトピックスがありました。歯科医で部分入れ歯の治療。アリコさんのレッスン。池田さんがカフェテラスの撮影。看板用イーゼルの塗装。彗生君が喫茶店でバイト。そして昇さんが大剪定と大草刈りに着手。葷(くん)類野菜新2種の植え付け。加えて、次の予定外です。外姪が“あんぱん”を焼いた。商社時代の友人、谷口さんの立ち寄り。サンマを食し、ハッピーがお相伴。そして、お化けナスで反省、でした。こうした間に、庭では秋の花が咲き始めています。
下旬は、初日の、彗生君が訳あってパートの後で、一人で取り組んだ恵方屋台の掃除。月末の、歯の緊急治療と、目的が一転した外出(学生時代の仲間の逝去を偲ぶ会が、仲間の健康上の問題で順延)の間に、次の3つのトピックスがあったのです。まず、日程が急に決まった瞳さん恒例の来訪。来月に控えるある出張のための念を入れた準備。そして、大慌てで取り組み始めた冬野菜の準備などで、あたふたした日々でした。
冬野菜の準備は春分の日に、昇さんが畝を耕し、妻は除草、そして私は5種の種まきと3種の苗を植え付け、がスタートです。瞳さんの来訪は、息子さんの同伴で、日程が急に決まったものです。歯の治療は、激痛が生じ、2本の抜歯でした。長く感じた長月でした。
~経過詳細~
1.上旬は“古紙出し”で明け、チョッと胸を張った
初日の未明のこと。妻をゆすって起し、軽4輪を出させ、私が主になって“この町内独自の伝統の古紙出し”に出かけた。だからこの日は、これまでとは逆で、私が妻に「ありがとう」と言った。その上で、妻を寝直させた。
これまでは、妻に「ありがとう」と言ってもらっていた。それは妻が、古紙出しの日を忘れて飛ばし、大量に溜めたりした時のことだ。軽4輪に大量の古紙を積み込んだりする作業を、手伝うことにしていたからだ。
実は、妻が嫁いで来る前に、この作業の意義をキチンと説明しており、この責務の如き古紙出しを、妻は誇らしげに感じていたからだ。よき地域の一員になることを願っていたのだと思う。
この町内独自の古紙出し方式は、ある事件をキッカケにして、かつて私が自治会に提案し、自治会の総会を経て採用された取り決めであった。
各戸が、各月の第1月曜日の朝に、所定場所に古紙を運び込む。この古紙の売上金をすべて、町内の環境や景観の保全活動などに活かす。そのために積み立てることにした。
だから当月も、とてもはれやかな気分で済ませ、日の出を感じながら、帰途に就くことができた。妻を寝かせ、次いで野良靴に履き替えて、庭に出直した。
玄関を出たところにある水鉢の1つで、ピチャピチャッと音を立て、複数のカエルが水に潜り込んだ。
ゆるい坂道を“金太の犬小屋”があるあたりまで下ると、そこからポストがある門扉までは砂利を敷いた平地になっている。
金太は、思い出深い犬だ。小型だが、これまでに飼った10頭余の中で、最もものおじしなかった。頭上で木の剪定に当たり、枝を次々と落としても、いつも平然と見上げていた。
まず朝刊を取って、金太の小屋の屋根にいつものように乗せ、畑に急いだ。この屋根もずいぶん老いぼれたものだ。
畑ではまずトウガラシやナスビのカメムシを捕った。なぜか体がけだるい。農作業は割愛し、モロヘイヤから順にネバネバ野菜を次々と収穫し、早々に引き上げることにした。
畑を出て、緩い階段道を、少し息を切らしながら登り、金太の小屋に立ち寄った。
朝刊をピックアップし、一息入れた。「また坂道か」と、チョッとうんざりした。次の20mほどの坂道は、元は砂利道だった。歩き易くするために部分舗装をして、温度計道と命名した。とはいえ、このゆるい坂が、いつしかまた、私にはしんどくなっている。
「明日から、新聞は先に取らずに、後(この時点)で取ろう」。ならば、ポストまでは平坦だから、取りに行く間に、一息入れられそうだ。
フト、拡張型心筋症が発症した時のことを振り返った。16年も前の、71歳の時だった。このゆるい坂道を登る姿を妻は見かねて、背をよく押してくれたものだ。
ある時、不幸中の幸いが生じた。確か土曜の夜だった。金曜日だったかもしれない。「翌朝まで (体が)待ちそうにない」と感じる呼吸困難になった。一息一息、意識して、深呼吸しないと息苦しくなってしまった。眠るのが怖い。夜半だった。掛かり付け医に電話した。救急病院を教えてもらい、妻の運転で駆けつけた。
3人の医師を経て、1時間後に、この病名を与えられ、即入院になった。肺に、水が溜まっていた。「丘でおぼれるところでした」と言われ、2週間余の寝た切り生活が始まった。
この時に、生き方を“一病息災”型に切り替えることにしている。その時から走れないし、走らない生活になった。
だが今や、ニトログリセリン剤は持たずに出張にも出る。妻の手料理と露地野菜。きれいな空気とわが家が用いている浄水器。これらのおかげだろう。とりわけ、庭仕事でも「ここらが限度」と意識するようになり、その直前まで、たゆまず励む癖をつけた。
その賜物だろう。そう思い直して、トボトボだが温度計道を登り始めた。
その半ばを過ぎ、ほぼ登り詰めたところで、黄色いハナオクラの花が、目に飛びこんできた。自然生えの貧相なトロロアオイだった。だが、大きな花を1つ着けていた。
懸命に子孫を残そうとしている。「たくましいなぁ」
玄関前にたどり着いた。一番手前の水鉢では、4匹の同期生と思われるカエルがポカーンと浮かんでいた。
かつては、これらの鉢では、大人のカエルが鉢ごとに棲みついていた。それがいつしか、数が減り、ついに、その気配さえ感じられなくなっていた。
妻はキッチンで、調理中だった。今朝も「わが家の野菜だけで、」と、喜んだ。ベーコン小舎GRŪNの手作りベーコン以外は、すべて朝採り野菜だ。
この日は終日、PC作業に当てた。先月分の“quiet area”の項に、とりわけ力を入れた。だから、今や伝統の“古紙出し”の歴史が、おのずと思い出された。
この自治会では、輪番制1年任期の、かつては女性役員が主に、順番で自治会の運営に携わっていた。そこに、大規模開発問題が生じた。3000坪余の水田が、分譲宅地にされ始めた。ダンプの出入りが激しくなった。沿線の住民が声をあげた。
当自治会も立ち上がった。自治会の輪番制1年任期が問題になった。常寂光寺の“先代住職”は、複数年に亘る問題に取り組む“専門委員会”を、別途男性が主になって立ち上げよう、と発案し、編成された。
幾度も自治会は、先代住職を長にして総会を重ねた。当地区を、天下の公共物として守らなくては、と皆の心が次第に1つになった。副に選ばれていた私も、正義感のような意識を自覚するようになった。総意の力が、強引な業者を辟易とさせたようで、分譲宅地化は防げた。
そのころはまだ、私はサラリーマンだった。こんなことがあった。
たまたま京都で仕事があった。だから明るい間に帰宅の途に着いた。自宅に近くなったところで、数人の主婦が立ち話をしていた。その1人は顔見知りだった。
通り過ごした私の背に、ひそひそ声が届いた。
「どなた?」
「森さんとこの奥さんのご主人さん」
これではイカン。家は寝に帰るとイカン。この村に対する責任感が、一人でも多くの人と共有したい、との気持ちが湧いた。
その後、くだんの土地を一括して買う人が現れた。景観や静けさなどに惹かれたようだ。京都が本社の飛ぶ鳥を落とすような勢いの企業の“創業者”だった。
安堵はつかの間で、新たな問題が生じた。この創業者は、大規模開発に基づく法に沿って設けられた都市公園や公共道路を、市に便宜をはからせて宅地化し、私物化する虚に出た。これも、“専門委員会”が立ちはだかり、市に泡を吹かせた。
名義を都市公園に市が戻す(市会で手間取ったようだ)間に、公園は汚れる。自治会は掃除道具を入れた倉庫を公園に持ち込み、自治会が掃除に当たった。
市の職員が電話で「公園に戻っても、掃除をしてやらないゾ」と怒鳴っていた通りになったわけだ。
その後何年にもわたって、歴代役員が主になって、掃除など維持管理に当たった。
掃除道具入れた倉庫を、自治会は大使館かのごとくに位置づけ、維持し、地蔵盆なども自主管理して続けた。自治会の、歴史上のシンボルになった。
次いで、また、自治会が心をっ引き締める問題が生じた。わが家に隣接する小倉池で、部分埋め立問題が生じた。幅4m余、長さ60mほどを道にして、奥の袋地に不法建築を画策する “新住民” 予定者が現れたからだ。
問題は、小倉池が江戸時代からの村有(字天龍寺村中)のままになっていたことだ。そこを突かれた。“新住民”予定者が、市から埋め立て許可を得た、と書面を示し、道を作った。わが家は、やむなく、池とわが家の境に、生け垣を作ってもらう条件を付けた。
後年、“新住民”が、埋め立てた道の前に門を設置して、道を占有すると言い出し、公正証書を示した。 そこには、“10軒余の元小作農家”が、江戸時代からこの池を占有してきたと主張し、有償で、埋め立て権と、出来た道の独占的使用権をいずれ与える、と約束していた。この時点で、ヤット私は疑門を抱くに至った。
即刻、この事実を “先代住職”に知らせると、“専門委員会”を招集することになった。その席で、副の私は「森さんが黙っていたから不正はないはず、と思っていた」と、叱られた。次いで、「この池は、京都の宝の1つだ」と指摘。ことの重要性と、深刻さを得心した。市の埋め立て許可書はよく見直すと、埋め立て場所を特定していなかった。
もちろん専門委員会は、新住民を招いて縷々説明し、出来てしまった道だから、と公共化を勧めた。だが、新住民は応じなかった。裁判もやむなし、になった。
自治会は、先代住職の親しい弁護士から、小倉池は京都市のモノに(マッカーサー指令の手続き漏れで)なりそうだ、と聞かされていた。だから、市のモノになったら、「どうしますか」と問うた。、新住民は退去すると宣言し、即刻自治会から脱退した。
自治会は専門委員会との合同委員会を開いた。複数回の総会を経て、合同委員会の全役員が原告代表となって、司法の判断を仰ぐことになった。もちろん、手続き前に、新住民の意を問うたが、 改めてもらえなかった。
やむなく、“10件余の元小作農家”を巻き込んだ裁判沙汰になった。相手側が勝てば、小倉池をすべて埋め立て、住宅地にされかねない話になっていた。
奇妙なことも生じた。被告の代理人弁護士が、市の代理人弁護士でもあったことだ。
自治会は、何が正しいのかを明らかにして、歴史的な景観を守りたかった。
裁判費用も問題になった。自治会には資金がなかった。先代住職は、近隣一帯の景観あっての常寂光寺である、ということで経費負担をする、と発言された。
そこで、私は次の提案をした。何らかの形でその経費も、全世帯がたとえ少しずつでも負担すべきではないか。たとえば、これまでは古紙を各戸が個別に売っていた。これを一括して売って、その総売上金を当地区の環境や景観保全などの維持管理の費用に充ててはどうだろうか。総会で図った。町内独自のこの古紙出しシステムがコンセンサスを得た。その時以来、この古紙出しは文化となり、今に続いている。
疲れ気味で明けたこの日は、古紙出しで明け、ほぼ終日屋内で、PCの前で過ごした。なぜかとても長い1日に感じた。夕暮れを迎えた時に、畑の水やりに出た。まず温室の側で、植えた覚えがないリコリスを観た。
背を伸ばしたくなった午後に、前日昇さんが耕した畝を仕立て直し、ワケギの球根を、遅ればせであったが、植え付けたのもヨカッタ。
妻が摘んだ、確か最後の採集になったブルーベリーと、庭の野菜を活かした朝食のサラダやネバネバ四君子が、体中に英気をみなぎらせたに違いない。
昼食の “かき揚げうどん”や夜の“野菜の小鉢”にも元気をもらった。
長月の長い初日だった。
2.商社時代の友人の立ち寄り
「こんなことって、あるんだろうか」。60年来の旧友・谷口時彦さんの予期せぬ来訪のことだ。友人同道であった。
丁度私は、先に迎えていた客と、ゲストルームで打ち合わせ中で、窓越しに旧友の姿が目に飛び込んできた。反射的に客席に駆けつけ、挨拶はした。だが、まともな会話もできず、悔やまれてならない。
なにせ結婚祝いに「表札を贈ってくれ」と、後にも先にも他に例がない注文をしてもらえた友人だ。私は新妻のお名前を併記して贈った。
彼は法務部門に配属されていた。私は繊維部門だった。いわば遠い関係だ。にもかかわらず、社会人になって最初に、深刻な相談事を、なぜか私に持ち掛けてくれた人だ。
それは2人が、独身寮での仲間であったからかもしれない。とはいえ、この寮には数百人が寄宿していた。これが決定的な理由ではないだろう。
仕事の関係で、私はしばしば法務部門を訪ねており、顔見知りではあった。とはいえ、これも、決定的な理由ではないだろう。その仕事は商標登録や、海外企業との契約締結が主であった。彼は国内担当で、債券債務関係を担当していたからだ。
ある時、急に、寮のわが部屋に飛び込んできて、「森さんなら」どのような判断を下すだろうか、との相談事を持ち掛けられた。
借財を抱えて倒産した会社に、債務の返済を迫る過程で生じたいわば人情話であった。その会社の社長は、2号さんを抱ええていたからだ。
豪邸に住む本妻は、ことごとく財産を隠そうとしたらしい。見つけ出しても、「これは」などと、様々な理由をつけて、返済の対象にはならない、と主張した。
逆に、簡素な2号さんの住処に踏み込むと、正反対であった。赤子をねんねこで背負って飛び出して来た2号さんは、あれもこれもと、社長からの贈り物などを取り出してきて、「旦那さんの役に立つことなら」と、その身を按じて振る舞う、と聞いた。
もちろん私は、何らかの意見を述べたはずだ。当然彼も、何らかの判断を下したに違いない。その後、この件について2人は、なぜか話題にしていない。
これがキッカケであったと思う。彼から、尊敬する人の話を聞いた。専属の顧問弁護士の河島先生であった。私はお合いしたくなった。
ある日、法務部門のフロアーの、一番奥にあった顧問弁護士の部屋に案内された。その部屋には、大きな窓があって、大阪の界隈がまず目に飛び込んできた。
いつしか私はノック1つで、OKの返事があれば、自由に出入りできる身になった。もちろん、その前に、谷口さんに、先生の様子(在室か否か、多忙そうか、など)を打診していたことだろう。とはいえ、ノックして「どうぞ」と言ってもらい「ああ、森さんか」と、ニッコリして迎えてもらえるようになった。
それは多分、この間にあって、その柔和な顔に誘われて、持ち出したある日の相談事が関係していそうだ。
口頭ではなく、要点を文章にして持参しなさい、と勧められた。
言葉に甘えた。プライベートな問題であったが、持参した。文章は、突き返されずに済んだ。逆に、赤鉛筆で、句読点を入れるかのように、点や丸ではなく1㎝ほどの横線で、先生は文章を次々と区切られた。
そして、区切られた短い文章毎に、「小さな紙に書き直して、頁を打って束ね」、次回持参するように、と勧めてくださった。
その、持参した紙片(不正義だと私がみた案件だった)を、大きなテーブルの上に、行を変えながら頁順に、カルタのように並べるように、と先生は指示された。
質疑応答を重ねた。カルタの順番は大きく変わり、2割ほど減った。逆に、幾枚かに“要追加”との文字を書き込み、宿題になった。
こうした作業を3度ほど繰り返した。この間に、一旦捨てた頁も生き返っていたように思う。その上でのことだが、あろうことか先生は、ある日曜日にわが家まで、現場検証のために訪ねて下さった。
この一件と、この作業を通して、私の仕事のやり方は一段と変わった。
これで、「会社の仕事に打ち込めますか」と、先生に問われた。
会社では、それまで以上に猛烈な勢いで仕事をこなすようになった。既決案件は指示と判断に集中する。新規は課題の把握や分析。追加資料の手配や収集。あるいは手順の構想などにまい進し、頭に叩き込む。
その頭をもって帰宅し、反芻しながら反省と熟睡。反省の途中で気付いたことがれば、ポケットレコーダーに指示する要領で録音。翌日は、スッキリした気分で出社、になった。
いつしかアシスタントの女性が、その録音機を法務部に持ち込み、法務課員と膝を突き合わして再生し、対応してもらえるようになった。キットこの情景を、谷口さんも横目で見ていて下さったことがあるに違いない。
常に10数件のプロジェクトを抱えながら、おかげで事なきを得られるようになった。
河島先生とはその後、私が中途退社し、先生が退職された後も、亡くなるまで年に1~2度の接触は続き、幾度かは訪問もしており、腕相撲もした。
谷口さんには、今度は、前もって知らせてもらえたうえで訪ねていただきたいものだ。
3.「今ごろに」と、遅れた冬野菜の準備
厳しい残暑に惑わされた。遅掛けにインゲンマメの種をまいてみたり、ワケギの球根を遅ればせに植えたりすることから、当月の畑仕事は始まった。
ワケギ(空いていたチョット日影の畝に球根を植えた)が芽を出したころに、キノコがたくさん吹いた。朝夕の気温が急に下がり始めて、チョット慌てさせられている。
6日に、自然生えの自家製(昨年度のネギの畝の畦道に出た)苗を活かし、翌年用のネギ苗を育てたくて、畝(これも空いていたが、日陰だった)に植え替えた。
13日に、2種の新しい葷(くん)類野菜の球根を(3か所の短い空いていた畝に)植え付けた。1つは欧州映画で見た(牧師が植え付けていた)小さな球根から育てるタマネギ。他は、沖縄でこの生をかじった「あの大型のラッキョウに違いな」と観たエシャレットであった。
その後、自然生えで、途方もなく大きく育ったモロヘイヤやツルムラサキを、収穫したり見上げたりしながら、新たな畝をどこに仕立てべきか思案した。昨年はカボチャとトウガンを優遇しすぎて(冬野菜の畝作りに支障が生じて)悩まされたが、似たようなことになったわけだ。苦心惨憺のうえ、何とか21日にアイトワ菜のタネをまくことができた。
春分の23日は3人の“得手別結” の1日になった。昇さんに、林のようなモロヘイヤの第1次処分に手をつけ、新たな畝作りに励んでもらった。私は遅ればせに、古い種だが、チマサンチェと混合レタスの苗床育てから手をつけた。この日は妻も庭に出て来て、終日除草に精を出した。
粗耕しが済む尻から、私が整地するなどして、自家採取したダイコンの種をまいたり、時期が遅れた分を取り返すために、買い求めたブロッコリーの苗を植えたりした。
25日に、アイトワ菜の芽が出そろったことを知って、1カ月ほど日程的には遅れはしたが、胸を撫で下した。遅れたオカゲか、朝夕の冷え込みが急に始まったセイか、害虫の心配をせずに済んでいる。
27日(土)も、春分の日に次いで、妻も参画し、得手別で結。遅れた冬野菜の準備に精を出した。出来た畝に、私は条を切って、昨年のタネだが、カブラ、チンゲンサイ、あるいはラディシュなどをまいた。昇さんは、最後の水やりにも当たった。
ハクサイも、苗を買って植えた。空いた畝が足らなかったので、遅ればせに種をまき、3本だけ芽が出たインゲンマメの畝の両肩に(インゲンマメは、実を結べないものとみて)植え付けた。この畝の向こう半分には、自家採取したダイコンのタネを、過日まいてあったが、芽を出し始めている。
その後、朝晩は急に肌寒くなった。急ぎ28日に、防寒の手を打った。
育てたい品種は未だ足らないし、第一、古い種をまいた野菜は、芽が出るか否かさえ分らない。来月は、忙しくなりそう。
4.町田夫妻を迎え、ヤッと解ったこと
町田さんとは古い付き合いだ。今は存在しないが、衣料の世界では一世を風靡した会社、インパクト21社の社員であった。ポロ・ラルフローレンのメンズを展開し、日本で広めた会社として有名だし、今も知る人が多い。
同社は、文化活動にも積極的に取り組んでいた。その活動を主導したのが町田英昭さんだった。この度はその1つ、神宮外苑で開催した「ガーデニングショー」でのエピソードを伺った。名だたるガーデニストに参画を呼び掛けたが、「なんと一人だけ」応じなかった人がいた、と言うではないか。
その理由は、1カ月や2カ月の見世物のために、花や木を抜いたり植えたりして世にさらすには忍びない、であった。その人、栗田信三さんに私は会いたくなった。
町田さんも当時、とても心惹かれたようだ。後年、町田さんは自宅の庭の改装に「取り組んでもらえないか」と、申し出ている。栗田さんも、町田さんとなら波長が合いそう、と心惹かれたに違いない。改装が始まって、ほどなくして分かったことがあった。弟子から、このような仕事には、親方はめったなことではかかわらない、と聞いたようだ。
かつてその庭の様子が、雑誌に取り上げられたことがある、と知った。「一流のガーデニング雑誌『BIESE』だ」と、いうではないか。この雑誌の創刊に、深く私は関わっていただけに、興味を引かれた。
後日、その50号が封書で届いた。表紙の様子が、私が関わった頃とは変わったように感じた。むしろ、私好みになっていた。
その記事は、見開きのグラビア4頁、であった。
この記事のおかげで、町田さんがカフェ『サイエスタ』の経営にも、お兄さんと関わっていらっしゃった、と知った。
この封書には、栗田さんが、創業20周年を記念して作った、とおっしゃる絵本も(新しいものではないが、との断りがついて)同封されていた。
その題の『おかえりなさい』に触れて、その言葉の主語に想いを馳せ、ハッとした。
わが書架をさぐった。『BIESE』の創刊号をまず引き出した。ある思い出がよみがえったからだが、違った。
第2号を取り出した。その一文があった。読み直し始めた。
『BIESE』誕生に関わった私は、創刊 (1992年夏) 号から、再々リフレッシュの17号(2002年夏号)までの10年間、56冊分に付き合っている。
毎号の56本のエッセイと、再リフレッシュの準備号も含めて、計17本の特集や取材記事を含め、総計73回も関わったが、ある願いを常に込めたつもりだ。
その根本は、リフレッシュ第1号の『木と水の壮大なドラマ』と、第2号の『花の廓』だ。
まず、宇宙観や私たち人間も生態系の一員に過ぎない、との想いを下敷きにしたかった。『花の廓』では、植物の尊厳、いわば植物の人格を尊重しよう、と呼びかけたかった。
野菜につく昆虫ではないが、動物は、人間も、植物に寄生している。動物は植物なしには生きてゆけない。しかも、植物や動物を含め、地球上の生きとし生けるものは、元は1つの生命体から枝分かれしている。にもかかわらず、人間は、植物を凌辱しているのではないか。
こうした事実を探求することが科学であり、この事実を自覚が進めば、地球の環境破壊など到底できないはずだ。こうした想いを隠し味にしたガーデニング雑誌を夢見ていた。
それだけに私は、栗田信三さんに会いたくなった。
おのずと、インパクト21社との縁も振り返ってしまった。
まず、アイトワの庭に、インパクト21社の記念樹・株式上場を機に、記念樹が植わった時の記録を探った。
後ろに映る情景、妻の新しい人形工房も目に飛び込んできた。足場が残っている。両親はまだ存命だった。人形工房は、母の薦めで造り始め、1986年春に誕生した。それが手狭になったので、新たに、となった。。
記念樹の樹種は、数種類の候補を挙げ、選んでいただいた。人に媚びない(天に向かって花を咲かせ、樹下の人からは望みにくい)樹、ヤマボウシが選ばれた。
こうした思い出を振り返りながら、また書架に走った。1つの大きくて厚い、鳥越さんから届いた封書を取り出した。
植樹の1年前、『BIESE』が誕生した年に、インパクト21社に私は講演で招かれていた。
なぜ、このような事態になったのか。記念樹に関しては、社長であった鳥越さんから「なんとかアイトワの庭に、」との電話があったことから始まっている。その2つ目の理由にとても私は心惹かれた。それは、インパクト21社よりも、アイトワの方がはるかに長命であろう、と見て下さっていたことだ。インパクト21社が、オンワード樫山の子会社であったからだ。
三度書斎に走った。立派な装丁のアルバムを取り出した。植樹2年後にヤマボウシは開花していた。
インパクト21社は急成長していた。鳥越社長直筆の想いの一端にも触れた。気候はそのころから不順であったのかもしれない。
その後、2007年までインパクト21社と親密な関係が続いた。ラルフローレングループがインパクト21社を、社員ごと高値で買い取り、親会社になっからだ。オンワード樫山は決算に貢献させたのではないか。ほどなく町田さんは退社した。
わが書架には、同社が設立されて間がないころに頂いた、ポロ・ラルフローレンを紹介する豪華で大きな本もある。頂いた時の、得も言えぬ感慨をこの度振り返った。
なぜかラルフローレンが脱サラし、独立して脚光を浴び始めたころを思い出したからだ。そのマジソンアベニューの事務所を私は訪ねており、同氏兄弟と会っていた。
そのころはすでに、伊藤忠の繊維部門のトップ会議に私は陪席し、海外主張をすれば、報告するように命じられていた。その何度目かの席であった。最初の質問は、ある本部長の「森クン、その金太郎の腹巻みたいなものは・・・?」だった。それは頂き物で、ラルフローレンが一世を風靡したネクタイだった。
こんな席に、若造が常に陪席するようになったキッカケは、オンワード樫山が関係していた。それは、この会議の初回のこと。繊維部門は構造改革を決し、新組織になっていた。その最初の会議だった。構造改革の提唱者として呼び出された。新組織はいかに展開すべきかが喧々諤々になり、質問が幾つも私に飛んできた。
「要するに森君、」と、その担当本部長は「樫山(アパレル業界の優で、背広の既製服化で先鞭を切ったいた)がライバルになる、ということか」。私には意外な意見であった。
「樫山とも仲良くなればよいのです」
「そんなことできるンか」
「やらんといかんのです」」
後刻、次回から陪席を、と命じられた。
当時の私は、ジーンズの一般衣料化と、国産化に陰ながら力を入れていた。そこで、腹案を胸に、樫山にアポイントを申し込んだ。伊藤忠とは取引がなかったし、子会社のファッションシステムは注目されていたオカゲだ。快く受け入れられた。
当日は、角谷専務取締役を主に、大勢に迎え入れられた。
「オンワード樫山は“ウールの樫山(背広)”で有名ですが、“コットンの樫山”でも有名になられませんか」と切り出した。まだ、創業者の樫山純三さんは健在だった。
後日、「社長も参加する会議に」と、呼び出していただけた。紙芝居(プレゼンテイションブックと呼び始めていた)を持参し、縷々説明した。樫山社長の第一声は「君はどこの部の、名前はなんだ」だった。ともかく、GO!になった。
町田さんはまだ入社していなかったのではないか。
イギリスのジーンズメーカーとの契約を斡旋し、展開が始まった。
ほどんく樫山社長は39歳の若年者を次期社長に抜擢した。その上司の角谷さんは、最大手のスーパーへのトレードが進んでいた。
やがて樫山会長は逝去。今やそのブランドはなくなったし、オンワードがジーンズを展開しているか否かは知らない。
だが、伊藤忠とオンワード樫山の関係は健在だ。当時のジーンズ企画の責任担当者と私の縁は、家族ぐるみで続いている。
その後、インパクト21社との縁もできた。その後、同社がなくなった後も、町田さんにはこの度のように、折に触れて訪ねて頂いている。
この度は、頂いたパンやワインの謂れも腑に落ちた。しかも、この縁が続いた接着剤が何たるかも明らかになったようにおもう。
『BIESE』と私の関係は、いやな言葉だが“戦略”という段階では想いが一致し、ガーデニング雑誌が誕生した。だが、同床異夢であったのか、それとも呉越同舟であったのだろうか。“戦術”面ではかみ合わなくなった。やむなく、意を決して“戦闘”で、とのりを越え始めてしまった。
ビズのバラには、虫食いなどケガレは許されなかった。
循環型社会は未だ遠き夢かもしれない。
『BIESE』のエッセイ、花シリーズは最終回を迎えた。『花の廓』で言い残していたことを、『花にご用心』をテーマにして追記した。
これが『BIESE』との別れの始まりであったのだろう。“日本人の忘れ物”シリーズに取り組むことになり、その終論をもって意見を述べられなくなった。
もちろん私は反省している。方向は正しくとも、拙速は慎むべきだ。
5.「そうであったか」と、膝を打った
村上瞳さんがこの時期恒例の物々交換で、ご子息と一緒に、滋賀県の湖北から訪ねて下さった。ご子息が「僕も・・・」と言ってくださったようで、急遽29日で決まった。話は弾んだ。弾み過ぎて、記念写真を撮るのを忘れてしまった。
その昔は、稲わらと木灰を交換していたが、近年はもみ殻と切り藁を持ってきてくださる。今年はウッカリ、暮れの注連縄づくりで用いる稲わらを少々、を言い忘れていた。
そもそもは、何かで私の生き方に触れて頂いたようで、どなたかとご一緒であったか、お一人で、訪ねて下さった。その後、ご主人と、に始まり、お訪ねしたり、お嬢さんと、あるいは息子さんと一緒に訪ねてくださったりするようになった。
瞳さんのご両親をお訪ねして、ある得心もするなど、親戚づきあいのようになった。弟さんのお一人も訪ねてくださったし、ついには、地域の親しい人をご案内されたり、お父さんと日本初の宇宙飛行士・秋山豊寛さんとご一緒されたりした。秋山さんは、世界初のジャーナリスト宇宙飛行士でもある。
大北乙佳さんを紹介した。
想いを同じくする執筆者『次の生き方 パート2』の懇親会では、大北&村上両夫妻が準備会をもって、リハーサルまでして下さった。
本番は和やかに進み、青竹でご飯を炊く技の披露もしてもらった。夫婦連れで集まった折は、息子さんを、若者故のお手伝いに同伴してくださった。
「そういえば、」と、気付かされたことがっあった。まず当月は、温室の割れたガラスを、大北夫妻の世話になって入れ替えることから明けたような一面がある。
次いで、遠方からの最初の来訪者は町田夫妻であった。
来訪者で、予期せぬ人は谷口さんであった。この人との触れ合いも、互いに大事にしていたことが、とても良く似ていたことを振り返った。
こうした人たちの縁のオカゲで、良く似た想いの環がとても広がっていたことも振り返った。
また、当月は、ごみの処理で、妻に代わって手をつけるようになり、有難いことがあった。たとえば“燃やすごみ”の袋について。30リットル用と45リットル用の2種が売られている。
私は、時には45リットルの袋から、30リットルの袋に移して満杯にして、初めて“塵”と観て出したりすことがある。とはいえ、心配があった。ヒョッとして、その方が「袋代は安い」から「手間賃の方が高くつく」のでは、と短絡に見て、誤解する人を作るのではないか、を心配していた。
翌日のことだった。書斎の入り口の脇に、いつものように、雑巾と庭仕事用の使い捨て手袋が干してあった。これを、40年にわたって、私は容認してきた。
洗って、干して、取り込んで、使いまわすよりも、捨てた方が目先の経済面では、はるかに安くつくに違いない。でも私は、洗って使いまわす「真の勿体ない」心、を大切にしており「改めては・・・」とは勧めてこなかった。もちろん、時代が変わったのに、習い性で、では困る。
この「真の勿体ない」心掛けを人生全般にはらう意識が、大切だろう。
こうした心掛けを大事に、とわが身に言い聞かせ、腑に落ちるようになった。そんなある日、エネルギー・環境論の権威でもある新宮秀夫先生と知り合うところとなった。ある時、「論語と聖書は同じことを教えている」とおっしゃった。一方が、「自分がしてほしいことを、他者に行え」と言えば、他方は「自分がしてほしくにことは、他者にもするな」と、言ったようなことを教えている、といった例を引かれた。
先生は、そこに本質を見出し、そのつもりで、他の教えを精査され、断言されたに違いない。
その時に、私の“運の強さの根拠”に気付かされたような心境になっている。たとえば、女子短期大学には体制の転換を期待されて迎えられた。10年がかりになったが、転換できただけでなく、定員割れを、全学科定員超過でバトンタッチがかなった。もちろん運の強さも幸いしたに違いない。その運を良くした根拠に気付かされている。それは、それまでの3つの経営責任が伴った会社(すべて増収増益を収めた)で用いて来た同じ判断基準で運営したオカゲ、と見たわけだ。その基準とは、1973年に見定めた『生きる理念』であった。
時と場合によって判断基準を適宜変えるのではなく、変えずにすむ生き方を尊んできた。
実は、こんなことがあった。脱サラした時に、妻を視直したことがあった。それまでは海外出張が多い身であった。そのころは、ハイジャックが日々生じたり、不法建築業者にすごまれたりしていた。留守中の妻の身を案じたが、怖がらせないために、話題にはしないように気を付けていた。
こうした気を使っていたことを、妻に話せるようになった時のことだ。
妻は意外な顔をした。不安など感じていなかった、という。常寂光寺の「お上人のところに駆けつければよかったのでしょう」と、つぶやいた。性別や年齢、貧富や学歴、地位や身分、あるいは出自や風采など、こうした属性ではなく、お上人は生き物の本質を尊ぶ人であった。そこに私の『生きる理念』との共通の本質を見出しており、私は慕っていた。
6.その他
1、『シュミレーション』を検証した。この作品は、大日本帝国時代の皇軍や国民のありようを感じ取る上で、親切な作品だと追認した。ねがわくは、もう1本、との想いが沸き上がった。なぜこのような研究所を、誰がつくることを発想したのか。所長にはどのような苦心や危険などが伴ったのか。敗戦時までのその人の足取りの様子などに目配りして、飯村穣陸軍中将の物語をつくってもらいたいなぁ。番組では、飯村穣陸軍中将の存在も紹介していた。
日本はせめて、鉾を日中戦争で収めるべきであった。その動議や機会をつぶしたのは東条英機だ、と聞かされてきた。NHKはこの番組で、その様子もきちんと盛り込んでいた。東条は、矛を収めるべしとの動議に対して、「ここで止めたら、失った15万の英霊」を、、犬死のような立場に追い込むつもりか、といわんばかりの詰問で、精緻で冷静な判断を下すべき議論を封じている。
『文芸春秋』のオカゲで、「今さら」と想いながらも、「読んでおかなくちゃ、とおもう記事が多にもたくさんあった。
本年は新年は早々に、インフラの深刻な問題発生で明けた。他に、食糧問題や自然災害問題、あるいは国民皆保険問題や年金問題など、山積みだ。それらはいずれも我流の「2025年日本破綻説」の要因に織り込み済みであった故に、精読したい。
2、トウガラシなどのカメムシ退治。この30日間、この退治を朝の日課に組み込み、この24日以降は、見かけていない。来年の点検が楽しみ。
3、温室の割れたガラスの交換。ガラス代は数1,000円だが、数万円の見積もりさえあった。老人は、消費者として、勤労者にいじめられかねない、とおののいた。真冬なら、植物を傷めかねず、応じていたかもしれない。
透明のアクリル板なら「自分たちの手でも・・・」と思い、見積もってもらったら26,000円と出た。
乙佳さんと相談して、好ましきガラス屋に当たってもらい、2万円強で修繕できた。
4、勿体ない人にはならないぞ。つくづくドイツ並みに人件費をあげるべきだ、と感じた。ならばその前に、人権を尊重した勤労観や働き方を固めないと、労働者間で大変なことが生じる、と感じたからだ。
西ドイツで労働問題などが深刻になった頃に、デモが多発した。30万人からのボンデモがあった。その多くは手に手に、エンデの『モモ』か『はてしなき物語』を掲げていた。
急ぎ私も読んだ。 工業社会は時間どろぼうを蔓延せている。あるいは自分も時間どろぼうにされている。そんなことに気付かされ、背骨を少しは強くした。
あれから何10年かが過ぎ去った。日本のGDPは、人口が7掛けのドイツに再び抜かれた。その間に労働者も、自己防衛努力を怠っていたように思われてならない。
5、2つの修繕。まず、日曜大工での修繕にとりかかった。落下したのだろうか、木製の額が半ばばらけていた。
次いで、妻の要望で、壊れたホットプレートの修繕もした。妻は人形の創作過程で、石粉粘で作った部品を乾燥させるために重宝している。故障したから「直してほしい」と頼まれた。手に負えそうもないので電気屋に頼んだ。そこでも、特殊工具がないと分解できない、と断られた。買い求めようとしたが、最早市場にも、ネットでも、ない。「ならば」と、特殊ソケットのネジを、昇っさんと知恵を絞って分解するなど、楽しんで、無事再生した。10年ほど前に買ってあった道具が役立った。
6、原爆展見学。若者が描いた原爆被害の絵が観たくて出かけた。
それらは、なぜか撮影禁止だった。でも、学ぶことがたくさんあった。世界に大いなる影響を与えてサダコとセツコ・サーロも紹介されていた。
7、堀田さんの来訪。かつて妻は“妻の銘”も入れてもらえた包丁を、網田さんに贈ってもらった。それは妻が、網田さんに料理を振る舞うのが好きであったオカゲ。あろうことか、そのよく切れる包丁を、喫茶店の厨房で活かしてこそ、になった。
ほどなく、妻はクリの皮をむきながら、わが家の「台所で、でも」と言い出した。銘入りの切れ味が思い出したわけだ。だが、値段を知ってビックリして、小ぶりを自前で買った。
にもかかわらず、ステンレスの既製品に慣れたオツムでその両方を扱ったようだ。中子(柄の中に隠れた金属部分)まで腐食させ、膨れて鍔もだめにしていた
堀田さんに「何とか、」と、堀田さんならではの治し方を期待して、お任せした。柄をサクラなどに代えてもらえた。
もちろん、代金は張ったが、包丁の価値は倍化した。顔が見える2人の職人の匠がかかわったのだから。もちろん、取り扱い方を学んだ。妻にもその値打ちがわかったのだから。「私の宝物」と言って、妻はしまい込もうとした。この人と、私は旅がしたくなった。
8、ハブランサス・ロブスタスの第何次目かの開花。この花を「増やしたい」と願ったわけは、一斉に花軸だけを立て、一斉に満開になった姿に惹かれたからだ。
分球して、太った球根をたくさん育てようとしたわけだ。2カ月前の中旬から、葉が茂ったまま次々と咲き始め、この10日にはまた複数の花を咲かせたわけだ。
なぜか、この花の、思うようにならない異なる魅力に心惹かれ始めた。
9、使捨てのプラ手袋を洗う心。喫茶店の雑巾干場で、この度、初めて気づいたことがある。そこは人目に付きにくいところ、私の書斎の出入り口の脇だ。“使捨てのプラ手袋まで洗って干してあった”。今に始まったことではないはずだ。
デスクの椅子に座り、天窓の光を浴びながら、考えた。あれは「この前の“ごみ処理システム”を改めることにした時のことだ。有料のごみ袋を、いかに満杯にして出すか。そのための“システムの変更”を決めた」。あの短的に話した説明は、、説明不足ではなかったか。
「真の勿体ない」の心の“証”と私は見た。それは習い性に過ぎず、深く考えることが面倒なだけではないか。この心、「真の勿体ない」心を十分に会得した人達、と信じていたが、独り相撲ではなかったか。
使って汚したプラ手袋を、丁寧に洗って干し、取り込んで、使う時に取り出す。この繰り返しを、1時間かけて何度できるのか。その時給で、新品の手袋が何枚買えるか。もちろん手袋保管場経費は2倍は要する。こうした損得勘定で、チエーン店は運営している。わが家では、このやり方は採用したくない。違うやり方で儲け主義と競い合いたい。
アメリカ生まれのチエーンシステムに慣らされていると、人生を磨り潰しかねない。働く時間は目先の“お金の奴隷”にされる。余暇時間はそのお金で「あれも視たい、これも欲しい」と“欲望の奴隷”にされてしまう。このぞんざいな悪循環に陥れられてしまう。
10、彗生君が喫茶店でバイト。彼の希望に応え、喫茶店に、受け入れてもらった。ほどなく彼のリーダになった義妹は、つききりのようにして、壁面のこけ落としなどの仕事も次々と与えていた。かくして初日が終った。帰りがけに、挨拶に立ち寄ってくれた彼は、1つの質問をした。
言いつけられた作業の途中で、異なる作業を命じられたらしい。異なる作業をし終えた時の身の処し方だった。中途半端になっていた先の作業に取り組むのがよいのか、と問われた。
リーダーが、側にいなければ、一旦与えてもらえた仕事だから、取り組むがよい。
側にいながら、キミのその状態に気付いてくれなかったら、事情を報告し、他に急ぐ作業はないか。なければ、先の作業を再開してもよいか、と問いなさい。要は、いかにむつかしい作業を、たくさん与えてもらえるか、に勤めなさい。
私の場合は、次々と仕事を求めたものだから、ついに課長に叱られた。あろうことか「ボクは、キミの仕事をつくるために会社に来ているのではないゾ」との、大失言だった。それにも耐えて、今のキミの気持ちを保ち続けた。
オカゲで、ついに、ある提案を「子会社を作るべきだ」と会社に迫るまでになり、つくらせてもらえた。人生の持ち時間を活かすこと。
11、池田さんがカフェテラスを撮影。アイトワの喫茶店は、ゆるい階段をのぼったところに踊り場がある。
せっかくこの踊り場まで登っていただきながら、立ち止まり、引き返す人がとても多い。それは、そこからサンクンガーデンのテラスまで下る構造になっていて、意外な印象を与えるからではないか。このように、今さらながらに気づかされた。
その時に、思い出したことがあった。イタリヤの郊外での出来事だった。濃い青色のパラソルと、白いテーブルクロスが7つほど、1段高くなったテラスに並んだレストランがあった。なぜか、踏み込めなかった。入っておきたかった、と時々思い出す。
池田さんが、この残念な想いに応えるような撮影に挑んでくだった。
即刻、この想いを義妹に伝えると、ニスを塗り直したイーゼルを、休みの日に活かした。
12、お化けナスで反省。一生懸命に収穫作業に当たっていたのに、見落としがあった。死角に幾つかのお化けナスが残っていた。ナスは花をつけ、タネを結び、子孫を残すために実のっている。そう言い訳をして、堆肥の山に投入することにした。
この山をつくっておいて「ヨカッタ」。これらのナスも、来年の肥料になり、タネには自然生えの道、もあろう。
「タネが固くて・・・」これではと文句を言っていた妻が、まず生け花に活かした。
13、恵方屋台の掃除をした。彗生君が訳あって、2度目のパートの後で、恵方屋台の掃除をした。社会人になる前に、何かを自己責任で体験したくなったようだ。
この屋台は、想うところがあって、乙佳さんと相談して作った。2つのランタンは乙佳さんの手作りで、完成祝いに贈ってもらった。その名にふさわしい活かし方を望んでいる。
14、アンパンをもらった。朝ドラの『あんぱん』を欠かさずに観ていたから、だろうか。義妹の娘が焼いてくれた。
実は、わが幼き頃のココロを、このドラマに見出していた。1944年の夏から、37歳の母は、就学前の私をはじめ、3人の子連れで京都に疎開し、様々な難関に直面した。思えば母は、荒くれ男がいそうなところはもとより、常に私を連れ歩いた。母だけでなく、貧しい人やつらい立場の人、あるいは弱い生き物は、虐げられていた。
15、サンマを食し、ハッピーがお相伴。立派なサンマが、今年は獲れている、と知って、妻に焼いたサンマを所望した。大根下しは私がすった。なぜか妻は、腹わたがある方の半分を残し、「ハッピーに上げます」といった。
奈良の山深い無医村で育った妻は、亡き母 (甘やかされ、鳴門で、背の青い魚は食べずに育った) とは逆の理由で、とりわけ背の青い魚が苦手だ。
今のハッピーは4世だが、食いしん坊だ。にもかかわらず、初物には慎重だ。3世も同様だったが、私たちの掌に載せて与えたら、何でも食べた。4世は、窓に激突して落ちた小鳥に、瞬時にかぶり付き、血まで出させながら、食べはしない。これ以前の犬は、かぶりつきさえしなかった。
ボールに入れたサンマは、私たちが食事を終えた後で観ると、なくなっていた。来年まで、覚えているかな。
16、手作り花台の再塗装に取り組んだ。妻が嫁いできて間もない頃であった。端材で花台をつくった。この50歳に近い花台を、温室からの出し入れを、昇さんに手伝ってもらい、再塗装した。彼は側に生えているジューンベリーの剪定にとりかかった。
白い塗料は随分剥げていた。裏側にはハチが巣をつくりかけたり、何かの卵が産み付けられたりしていた。
昇さんは、1日で剪定を仕上げ、次いでカリンに手をつけた。塗装は、乾かす関係もあって、2日がかりになった。造った時は、次のはもっと丁寧に、と考えていたのだが。
17、新聞で、目をとめたこと。この人の意見には、いつも目を通す。
18、円空(1632~95)展を見て、ヨカッタ。大垣で、10年間も過ごしてヨカッタ事の1つは、円空仏にたくさん触れたこと。幾軒かの旧家では、幾つもの円空仏を手にさせていたけた。その時に描いていた円空像に加えて、多くのことにこのたび気付かされた。
まず、1674年32歳の時の薬師如来を境に、というより、仏を木から掘り出して間もない頃に、心境を一転させていた。
19、庭では秋の花が咲き始めた。
当月最高のご褒美は、ごみ出しを引き受けたオカゲ。ごみ出しステーションからの帰路で、直径2cmほどの青いアサガオを見つけた。『朝青』との漢字を与えたくなった。