文化の尊重。小倉山一帯は、侵略に次ぐ侵略にさいなまれて来た。私が関わった最初は、小倉池の「釣り堀化」だった。農地改革で持ち主がかわった水田が、ことごとく宅地化され、売り払われた。だから、渇水期になっても水田がなく、この池の水が不要となった。「ならば」と、釣り堀業者に声をかけ、有償で池を貸してしまい、その堤防地のクヌギ林を伐採し、不法建築を建てさせてしまったことから始まる。
おり悪しく、私は大阪に通勤する身になっており、矢面に立てなかった。不法を許した行政に怒鳴り込もうにも祝祭日までが一緒だった。直談判を数年重ね、さらに数年かけて引き払ってもらえることになった。この業者は、出てゆくとき時に、怒鳴り込むことから付き合いが始まった私に感謝の念を示し、記念の品々を残した。
喜んだのは束の間。次の災難に襲われた。それは金欲しさで、池の一部を埋め立てさせ、小倉池の水の涵養地である裏の袋地の宅地化に与した。その埋め立て業者に地域の連合会長を使うなど、悪質を極めた。そこで常寂光寺の前住職が立ち上がり、黒白を付けることになった。放っておけば、不法埋め立て地を取り込むだけでなく、池をすべて埋め立て、宅地にする意図が判明したからだ。
問題は、池の所有権者が実質上消えてなくなっていたからだ。大昔に存在した広域村落のもので、居住者全員が入会権をもつ池のままになっていた。もちろん黒白は着いた。
現在の池の持ち主が、複数のかつての小作農家ではなく、市に編入されているべきものと判明すれば、池に道を付けさせた者は出ていくことになっていた。だが、なぜか、出て行かず、不法に出来た道はそのままで、通行権を与える和解になった。わが家は直接利害関係であったので、小倉池の涵養地から流れ込んでいた小川を着られたままだが、私見は徹底的に差し控えた。その後、涵養地はつぶされたままで、池の水質は悪化は進み、アオコまでわき、道行く人が「おうすのようね」というまでになった。
このたびやっと、常寂光寺の現住職の努力と熱意で、実質上、池は美しくなる方向に踏み出したわけだ●63。
一難去ってまた一難とはよく言ったものだ。今度は山自体の破壊に市が与するようなことになった。小倉山は国民の財産と見られ、いわゆる古都保存法が適用され、国税を用いて市が買い取り、永久保存することになった。その頂上部を、国鉄がトンネルを掘るために木を皆伐し、地ならしして工事現場などに使用することを市は認め、実質上の破棄(原状復帰する当初の約束を反故にすることを市は容認し)を認めた。もちろん社会問題になったが、頂上部は今も惨めな状態だ。
もちろん他にもある。1000年以上にわたって古人が培い、文化を醸成し、守って来た景観だ。その景観を、工業文明という一時の勢いで壊し続けていいものか。古代農業文明がことごとく崩壊したように、工業文明も破たんせざるを得ない状態にある。