シダレウメがいれも月内に満開になった2月でしたが、町内住人ロームの創業者死亡の知らせに始まり、上旬は日替わりメニューのごとき日々でした。2日、喫茶店恒例の什器の補修に着手。向かいの客引きが終わる旨の通知と詫びで家主来訪。3日、冬青君から餅を、乙佳さんから果樹の苗木を贈られ、大喜び。5日、未来さんを迎え、2つの大仕事に着手。7日、チョット顔がさす人の来訪。9日は初の雪化粧で明け、知範さんと買い物で外出。そのあと白雲窯展見学。そこで川上さんとバッタリ。10日は知範さんを迎え、買い求めた3種の機器の設置。そして、格別のカステラを一緒に賞味しています。
この間の5日から6日にかけて、気温差17度。立春の翌日、午前は春到来を実感するポカポカ陽気。午後は一転、曇天の冷え込みに身震い。6日は初の雪化粧で明け、爽やかな朝焼けとやっと冬らしい冷え込み。雪はすぐ解け、庭仕事に。新型コロナウイルスでかまびすしいTVで、夜に東大が東洋医学を導入していたことを知り、安堵しています。
上旬の庭仕事は多様でした。寒風の下で薪割の真似事。陽気と見ると除草に随分精を出し、霜に慌てて第1次エンドウ豆の霜対策、と言った日々。未来さんとの大仕事は、石畳道の防草土舗装の補修と、1本のベニシダレザクラの剪定に着手したこと。次いでサザンカ双樹の剪定。2つのブルーベリー畑とニラ畑の手入れ。タマネギに施肥。好天の7日は昼食を妻と庭でとり、ほぼ終日庭仕事。最後はベニシダレの梅を剪定し、オブジェの模様替え。
中旬は、韓国映画『パラサイト』のアカデミー賞受賞を知り、無性の嬉しさ。その後、佛教大生は2組に分かれて来訪。14日は、リーダーの石原千夏さんから手作りパウンドケーキを贈られ、孫を得たように嬉しくて、妻も交えてお茶の時間に。翌日は、あるパーティに夫婦で参加。17日から18日にかけて、村上さんが旧友連れで泊りがけの来訪。その後、知範さん、岡田さんは知友連れで、そして萩原先生と、30時間連続で来客のハシゴ。その間、睡眠は5時間足らずでしたが、楽しかった。実は、16日に什器の補修が出来上がってきて、森さんとヒュッゲも話題に。その後もたびたびヒュッゲに思いを馳せる1カ月にました。
喫茶店再会を翌日に控えた20日、知範さんがある友人連れで庭仕事に。課題を用意して待ちった私は、大満足。タップリ話し合い、楽しみが1つ増えた感じに。この2人の作業中に、私は円形花壇の竹仕事にも当たり、前日の男子学生3人の仕事に改めて感謝しています。
この間の他の庭仕事は、2本の(乙佳さんにもらった)フェイジョアを、2組の佛教大生がそれぞれ植樹。学生は他に、イノシシスロープの掃除や薪の運び上げなど。おかげで学生との会話にもタップリ時間がとれ、免疫を主な話題にジックリ話し合いました。
21日から喫茶店は恒例の再開。アイトワの一帯も、コロナウイルス騒ぎで閑散としていましたが、20日にエネカン関係のお2人と白石夫妻に、「明日からですか」と残念そうに引き返してもらったこともあり、決行。その後、加齢を実感させられる知らせが3件も続き、おかげでゆったり気分の日々を過ごすことになりました。
その間のトピックスは2つ。まず妻に「今日は、何の日かご存知ですか」と問われ、5分ほど緊張。次いで当月2度目の外出は、高槻までマスクなして出掛けたこと。かねてから、中村均司夫妻にアラブ料理に誘われており、瀬川扶佐子さんのお宅を訪ねましたが、もっと早く巡り合っておきたかった、と思いました。他に、味噌づくりと生け垣の剪定。
味噌づくりは、乙佳さんの世話になって、義妹だけでなく知範さんも仲間になりました。カシの生け垣の剪定は、未来さんを交え3人で手を付けています。
~経過詳細~
月内にシダレウメがいずれも満開になった2月だが、6日の薄い初雪と冷え込みで、やっと冬だを実感した。そして冬休み(妻が人形創作に集中する冬の1カ月)の間に済ます恒例の家具の補修に手を付けた。今やアイトワの歳時記のごとくになったデンマーク家具の補修だが、これが、ヒュッゲに思いを馳せる1カ月の始まりでもあった。
1986年4月の喫茶店開店後10数年目に、ワシタカ工芸の森さんと出会い、最初の補修をしてもらった。その取り組み方と出来栄えに感心し、近年では毎年のごとく、冬休み中に補修に当たってもらっている。これが予期せぬ喜びに結びつけた。
この喫茶店の什器、とりわけアルバーアルト(アルテック社製)の家具の補修は、良きエイジングを願ってのこと。既に4回も5回も補修してもらった椅子が幾つもあり、1度も修繕を要していない椅子との差異などの検討を始めた。
この補修にかける思いは、昨年のデンマーク旅行でいっそう深めている。3泊4日にわたり逗留した築160年のお宅には、たくさんの白木の家具があった。
そのいずれもが現役で、仮に1世代を30年とすれば、5世代も6世代もが引き継いできたことになる。そのありようは、わが家の補修に誇りさえ与えた。
招いてもらったお宅のカップルKajとBenteには子どもがなく、次は誰に引き継がれるのか、それは知らない。知り得たことは、この家はKajが子ども時代に過ごした家であり、Kajは退職後の住まいとして買い戻したこと。その間の青壮年期のKajは都会に出て、働いていたわけだ。
この30年ほどの間は、これは勘繰りだが、どなたかがこの家を大事に使い、Kajの両親からKajにバトンタッチしたわけで、空き家にされずに大事に使い続けられたこの家も喜んでいたに違いない。
ここまで考えたときに、フトNZに思いをはせた。NZでは、バケーションで留守した知人が、留守宅を短期の居ぬき賃貸物件にしていた。欧米では、プライバシー意識の成熟や、オープンマインドが幅を利かせよいようで、こうしたことが可能なようだ。また、新築の家よりも中古の家の方が好まれ、誇りにされる傾向がある。そのした心境に、私はヒュッゲの心や人間の成熟度さえ見出し始めている。
デンマークと言えば、国民平均所得は世界のトップクラスだし、国民の幸せ度も世界のトップクラス。その生き方は、GDPでは表せない帳簿外の価値も、良きエイジングを重ねることによって付加させている、といってよさそうだ。ヒュッゲの神髄を考える上で、こうした点は見逃せない一面だと思う。
今は亡きイギリスの友人は、ビクトリア朝時代の貴族の館の一角を借りていた。木造ゆえに、上手く部屋割り改装が可能で、幾家族かで住んでいた。それはKajの家と同じころに古都オックスフォードに建った物件だった。
フランスのパリ郊外に住んでいた知人は、「この家は」と自慢した。ある一家が3代かけて仕上げた、という。父が家を建て、息子の代に家具を、そして孫が食器を揃えたという。その一式を、今では知人が買い求め、自慢しながら退職後の余生に活かしていた。キットまた、息子なり、どなたかに引き継がれることだろう。
NZの海詩のおじいさんは、それは私の神戸時代にできた知友だが、ワンガレイにある固有の名称を有する古い家を買い求め、別荘にしている。かつてはガーデニングの雑誌でしばしば紹介された家で、大事に手入れを重ねながら用いられてきた。妻は2度目の同行時に人形を同道し、こよなく楽しんだ。
当月は、この屋敷を最初に訪れた時に、NZ人のお宅でもホームステイしたが、今や親友のその夫妻から知らせがあった。マオリ族の夫と、妻はイギリス系の末裔だった。妻のロビンは、夫の先住という歴史に惹かれたようで、己のルーツも教会の世話でさかのぼり、400年まで分かった、と喜んでいた。そうした心が仲睦まじくさせるのはワンタンギ条約とその後の葛藤の賜物だろう。
こうした価値観や美意識に私は感化され続けてきた。お金さえ出せば、誰にでも、同じものが手に入るモノを所有することで一喜一憂する時空よりも、それぞれが唯一無二のオリジナルを、あるいはオリジナルへと歴史をかさねながら、大事にいつくしみ合う時空の方に、心惹かれるようになっている。
こうした想いが、ワシタカ工芸の森さんの出会いを喜んでいる。唯一無二の家具へと年輪を重ねさせながら、親交を深め、わが家の歳時記の1つを形作らせつつあるからだ。
もちろん、一回一脚の補修代で、これの模造品のような既製の椅子(アイトワも予算の都合で補助椅子に買い求めた)なら、新品をゆうに1つ買える。
そうと分かっていながら、森さんの補修に期待しているが、それが良きエイジング以上の喜びも覚えさせているからだ。おかげで、この什器にジーンズのリベットやリュックサックの金具などで傷をつける人があるが、当初のように胃がキリキリ痛まなくなった。私だって、こうした空間に、疲れた体でたどり着けば、と思えるようになったオカゲだ。こうした心の経過も、ヒュッゲを考える上では避けて通れないのかもしれない。
アイトワのある一帯は、元は「隠れ里」と呼ばれていたが、これからどうなるのか。ロームの創業者佐藤研一さんは、この一帯に6000坪ほどの土地を買い求め、有している。その死亡の知らせに接し、この町内1の広大な土地の先行きが心配になった。
それは近年、この一帯の物件が、「元隠れ里」に似合わぬ動きにさらされているからだ。最近の例では、アメリカ人(本拠は北京)が町内で1700坪の土地を購入し、豪邸を建てつつある。その用地は、相場の2倍以上の値で、一帯のまとめ買い2番目の(佐藤邸に次ぐ)土地になった。これは一帯の路線価を吊り上げ、固定資産税や相続税を押し上げるに違いない。
70年ほど前は、隠れ里と呼ばれ、建物は常寂光寺と落柿舎を加えても16軒しかなく、大部分は水田だった。今は100軒以上になっており、水田はなくなった。
それは敗戦後の農地改革で、田畑が小作者の手にわたり、その後、宅地化されて切り売りされてしまったからだ。佐藤研一さんの6000坪の内の3000坪も、水田だった。分譲宅地にされて売り出されたが、佐藤さんがまとめ買いして、豪邸を造った。
残る3000坪の大部分は小倉池の堤防だが、不動産会社に買い取られ、分譲物件にされたが、佐藤さんがまとめて買いした。この他に、豪邸の周囲の物件を数次にわたって買い増し、今日にいたっている。
不安の1つは、こうしてまとめられた土地が、再度分譲住宅地にされたり、あるいはその広さを活かし、予期せぬ活かし方に供されたりしやしないか、だ。現に、隣接地域にある竹藪の一角が切り払われ、今や高級老人ホームに生まれ変わった。
土地は、換金化する人には値が上がるとよい。それを税収の源にする役人にも魅惑的であるに違いない。これが悪循環に結び付け、全国的現象にさせたのがあのバブルだろう。計算上では、日本を1つ売った代金でアメリカを4つ買える計算になった、だがバブルがはじけ、その後、日本は沈滞し、今に至る。
このミニ版が京都で生じ、今も続いている。目先の私的利益追求と、税収増大の誘惑が相まって、次々と歴史的資産が換金化され、高層集合住宅用地にさせたり、ペンシルビルにさせたりして、歯抜けの櫛のような街に変貌させてきた。最近も、最古の酒搾り遺構や、最古級の京町屋の破壊と消滅を嘆く声があった。これらこそ残せば、未来の大事な観光資源になる。観光の次元も観光成長し、今の人気に甘んじていていいものか。
さらにこのミニ版が、当小倉山一帯で始まりつつある。こうした不安が佐藤研一さんの死でいや増した翌日に、向かいの京都ボッタクリで検索できる客引きを「止めさせました」と、大家から知らされた。実に丁重に「これまでの、ご迷惑を…」と詫びられたが、私は「済んだことです。頭をあげてください」と、気の毒になった。元隠れ里の歴史的資産を口先三寸で縷々ウソまでついて換金化するボッタクリは終わったが、その悪評判が、この大家にどのような悪影響を及ぼすのか。次の賃貸契約がうまく行くのか心配だ。
地価の上昇は、相続を難しくし、時には人間を窮地に追い込み、換金化せざるを得ない状況にさせかねない。それも民主化として喜ばれ、容認されるのなら、歴史的資産という無形の付加価値が高い間に換金化した方が、双方にとってよいことになる。かつて私もこのテーマで切実に考えたことがある。
向かいの大家は2度も3度も詫びて下ったが、「頭をあげてください」と頼みながら、歴史や誇りに思いを寄せ、悲しくなった。
昨年の中国旅行では、古都・西安で見た再開発は2000年の歴史を彷彿させる復興だった。電線のクモの巣など最早ほぼ見当たらない。
西安は、元長安、人類が最初に創出した大都市であり、わが国はこれに倣って平安京も造営している。平安京があった京都では1000年の古都を誇っているが、京都では羅城門1つ復元できていない。「古都西安では?」と、私は興味津々で出かけたが、2000年の、あるいはそれ以上の古の都市が、往時をしのばせる都市開発を進めていた。
アイトワの向かいの客引きはすでに終息し、静けさを取り戻したが、この悪しき風評をいかに取り戻すのか。それはサギまがいの活かし方を市は許し(陳情したが、止めさせなかった)。こうしたやり方で、家賃を高騰させたり、目先の税収増に結び付けさせたりしたわけだ。その尻拭いを家主の良識だけを頼りにする課題でいいのか。もちろん家主にも問題(ここまで悪用しようとしている意図が見抜けなかった)があった。いつになったら行政は、歴史的遺産を食いつぶさせる放任を終わらせるのか。
3
当月の嬉しかった贈り物は、まず2種の餅(玄米と白米)を、2歳になった冬青君の手からもらったことから始まった。久しぶりに母咲子さんに伴われての来訪だった。
2日後に、乙佳さんからフェイジョアという果樹の苗木を2本贈られ、妻と「これがこの庭で」(改まった気持ちで)植えることになる「最後の2本になりそうだ」と語らいながら受け取った。そして、「どこに、いかに植えつけるか」と思案し始めた。
6日、寝所で妻が、本を片手に体操していた。前月迎えた川上さんから、妻の身体的不調を知って、贈ってもらった2冊の1冊で、1人で行う操体法だった。この日の強く印象に残った朝焼けを思い出しながら川上さんに感謝した。
こうした贈り物も「あっていいわけだ」と思ったものがある。それは、コロナウイルス問題で世がかまびすしくなり始めたころのこと。「非常勤役員でも有効です」といって1つの電話番号が記された贈り物に恵まれた。24時間365日、医療相談に応じてもらえる番号で、とても心強い。
14日の、パウンドケーキも格別だった。リーダーの手作りであったことが何よりも嬉しかった。「4人で楽しみましょう」と妻も加わり、紅茶を運んだ。後輩の辻玲奈さんにナイフを授けたが、なんと彼女は4等分した。私は端から2~3cmずつ切ってゆき、残りが出て、それを私が、と目論んだが、あてが外れた。しかし、それがヨカッタ。
格別のカステラの味を思い出させ、「あれでヨカッタ」と振り返らせたのだから。それは、先月26日に石神夫妻を迎えたが、手土産だった。その時に、石神夫妻に知範さんを紹介している。だから知範さんにも、この夫婦からもらうカステラは、事情があって、妻にも手を出させないことも紹介した。
石神夫妻は、農と自然を尊ぶ先駆的な事業に取り組みはじめ、成果を積み重ねており、今やその道の権威だ。その見通しがたったころから手作りの味噌が、続いて定期的にカステラを送ってもらうようになった。爾来、私は好物のカステラを「買い求めてまで食べない」ことにした。この夫妻が送ってくれなくなれば「好物を、断つのもよかろう」と心に決めた。
そうした事情を知る妻が、私に断りもなくその封を解き、知範さんと一緒に味わうように仕向けたが、この格別の贈物の価値が、その時に2倍にも3倍にもなったように感じた。その思いを改めて思い出させたのだから。
岡田さんが、このたびはあうん社という会社を経営し、作家でもある知友平野智照さんと連れ立って来訪。かねてから『日本の石組み』や『桜沢如一の夢』など平野さんの著作を岡田さんからもらっており、存じていた。このたび、その博識や視点に心惹かれた。食や農、あるいは身体を活かす遊びなどへの関心やセンスにも共感を覚えた。そのいずれもが、文化をよみがえらせる次の文明ではキーになる、と見ているからだ。
妻に、後で叱られたことだが、「やっと納得できた」と言いたくなる味にも恵まれた。それは江戸時代の「女房を質に入れても」食した、という初ガツオの味。
それはこうだ。村上達也さんとは311福島原発事故来の付き合いで、原発に対する造詣と、原発反対の明快なご意見に心惹かれ、わが家にも幾度かお越しいただいている。前回は3年ほど前の『線量計が鳴る』京都公演の後で、中村敦夫さんとわが家で歓談してもらった時以来で、久しぶりだ。
この度は旧友同伴で、学生寮で同室だった植田拡さんだった。しかも植田さんの働き盛りは、私の5年ほど後輩であり、役員まで勤め、今は理事。
おのずと夕餉は賑わった。村上さんは拙著『ビブギオールカラー』持参で、取り出して話題にしてくださった。その上に、旧友は高知の出と知った。
話しは弾んだ。先の中国旅行では知範さんの提案で「青龍寺」を訪ねたが、「なんと」高知にも青龍寺があった。「36番目札所だ」という。いよいよ話は熱を帯び、つい「女房を質に入れて」でも、を話題に出した。
かつて欧州出張時(1960年代末)に、「森クン、それは違う」と、ロンドン支店の先輩に注意されたが、それを思い出したからだ。市場を案内してもらっていた時のこと。日本(国民平均所はイギリスの何分の1かだった)のような立派なリンゴなどがないので、先進国イギリスの遅れた一面だと見た。「森クン、あれはコックスと言って、大昔からあるリンゴだ」「だから、シェークスピアがハムレットに『リンゴが旨い』と言わせていたとしたら、あの味のことだ」。この国の「おかみさんはみんな、代々あれでパイも焼けば、ジャムも作る」などと続いた。
こうしたことが、江戸時代の「初鰹は女房を質に入れても食え」という味をいつしか「共感したい」と興味を抱かせられ、折あらばと願っていたわけだが、2日後にこの興味が形になり、妻に「督促したようなもの」と叱られた次第。冷凍技術のおかげで初ガツオのタタキをいつでも賞味できそう。
この賞味の前に、私は天の助けを得ている。それはこのお二人と、酔いが回るにつれて、「この庭が、一番輝く時」は、も話題になった。「それは雪、雪の積もりかけが…」と初の薄雪で明けた9日を振り返りながら、縷々説明した。
「なんと」翌朝のことだ。一面の雪景色。急ぎお二人をたたき起こしに飛び出したが、お二人はすでに「村上はあっち…」と思い思いに庭を散策中。「これぞ、天の贈物もの」と感謝した。
朝日新聞はこの日の夕刊で写真を。中央の大きな屋根は天竜寺。その上部の山裾あたりにアイトワが。7時54分(撮影)と言えば、私はお二人と食卓に向かっていた。
天からの贈り物と言えば、もう1つ。後日、「ぼつぼつ水鉢の掃除を」と落ち葉をすくい取り始めたオカゲ。天からとても小さな贈物。オレンジ色の、光沢がある丸いものを見かけ、「もしや」と老眼鏡を取り出してヨカッタ。
折よく初見の甲虫が飛び立とうとした。「この大きさも…」と再度、モノサシを取りだして来たが、甲虫は2度と飛びたとうとしてくれなかった。だが、この日はこの授かり物のおかげで、アイトワ流庭造り(野生生物にも楽園であれ)の意義を追認した。
実は、村上、植田両氏に知範さんを紹介した後、岡田、平野両氏を迎えたが、その後で、これも天のおぼしめし。「今、九州です」と前日に電話があった(群馬への帰途だった)萩原豪先生と時間調整。お引き合わせ.その後、豪先生と歓談。
薪割の真似事でウォ―ミングアップしながら未来さんを待ち、「このやり方は、これを最後に」と思う高木の剪定に挑戦した。一番背が高いベニシダレザクラの、ハシゴがぎりぎり届く枝にかけて、未来さんの助手を得て登り、枝に充分かかっている方の一端を枝に結わえ付けた。この助手なしに登れば、ハシゴごと逆さまにひっくり返るか、はずみでハシゴの片方が枝からずれて前に倒れ込みかねない。その心配をロープでなくした上で、気になる2本の枝を切り落し、この日は切り上げた。
その後、2日、3度に分けて、ハシゴに充分な傾斜をもうけてかけられる作業に当たり、1人で10本余の枝を切り取り、この剪定を最後に(樹勢が落ち着き、樹形が定まり)あとは好きに任せられることを願った。
この間に、地上で座って可能な作業を挟んでいる。鉈仕事で溜まった薪を束ねあげる作業だが、佛教大生の来訪時に母屋の軒下まで運び上げてもらうために積み上げた。
次いで、ハシゴを12段三脚バシゴに替えて、2本の高木に取り組んだ。ムクロジとサザンカ双樹。ムクロジでも「これを最後に」と願ったが、サザンカはまだ願えそうにない。樹勢が落ち着くまで、いましばらくかかりそうだ。
庭仕事2番目のトピックスは、防草土舗装の補修に手を付けたこと。これも、未来さんと石畳道から手を付けることで始まった。その後、この石畳道では私1人で3度にわたって取り組んでおり、セメントを用いる養生(コンクリートで植物の発芽などを制御)を終えた。後は防草土でいずれ化粧仕上げをする。
これに勢いを得て、同補修を要していたスロープ階段と、ブルーベリー畑の周回路でも、これは一人で取り組み、済ませた。
残る補修は囲炉裏場だが、ここは3月早々から順次養生に取り組みたい。以上4箇所の防草土による仕上げは、ナツメの木が芽を吹いて(つまり霜や凍結の心配がなくなって)から実施する。
ほぼ終日一人で庭仕事に取り組んだのは7日だった。来客との歓談に小1時間ほど割いたが、昼食を庭に運んでもらい、陽気の下で久しぶりに、妻とリヤカーをテーブル代わりに一緒にすませたが、それがヨカッタ。
この時に樹齢42年のベニシダレ梅が目に留まった。商社を辞めた時に仕事仲間から贈られた木だが、その剪定をしたクズでテラスのオブジェを新調した。
竹仕事も大仕事だった。竹藪(ミニだが)の不細工な竹(立ち枯れ、傾いた分、あるいは強風で先がちぎれたなど、観光客の目に映りやすい分)は、私がその目腺で点検し、竹藪の中で待ち受ける学生に指図して、切り取った。
加えて、妻の注文で、3種の竹細工に取り組んだ。1つは円形花壇の傘(シカの食害を防ぐカバーを、夜間に被せる)の骨作り。2つ目は侵入お断りのアーチ。そして3m近い下水掃除用の道具(割竹)つくり。
円形花壇の傘の骨などは、太い竹を6つとか4つに割り、3m近い割竹を作って新調するわけだが、2つの大仕事を伴った。
まず、太い竹を根元から切ったが、重くて動かない。3客脚立に登って中ほどで2分し、上部を落したときだった。「あわや!」になった。「なんと」中空であるはずの竹の中に、水が入っていた。だから、予期せぬ重量に圧倒され、ズリ落ちて来た竹に眉の端を削り取られる事態に。その後、気を取り直し、おでこに当たった竹を2分し、ニックキ中間の竹を無時に地面に横たえた。
3日後の治療時(張れと充血がほぼ引いた時)に、妻の口から「眉が少し欠けましたが、私が描いてあげます」と失笑しながら冗談が出て、安堵。改めて軽い脳震盪で(医者に行かず、化膿させずに)済んでヨカッタ。これが1つの大仕事。
2つ目は、3つに切り分けた竹の下部、太い部分を引っ張り出し、縦に6つに割る作業。これも大仕事だった。その上に、大量の水が出てきて靴やズボンを濡らした。それにしても不思議だ。水が入った1次原因は3か所での虫害と分かったが、他の(節々で閉じられた)中空部分(には節はもとよりどこにも穴など開いておらず)なぜ水が入ったのか、不明のままになった。
そこで、中間部の竹(下に落ちている)を割る作業は後日にまわした。19日に来訪予定の学生の作業として残したかったし、学生だけでなく、妻にも立ち会わせ、竹に水が入っていた事実を確認してもらいたかった。
もちろん妻は、虫害の影響がない部分に水が入っていたことを知って不思議がったし、学生には「これは不思議なこと(初体験)」だと知ってもらいたかった。とはいえ、私は心臓を傷めたが、それが判明した時に、肺に水が一升瓶に2本近く(病院で抜いた水の量)溜まっていた。竹にも同様のことが生じたのかもしれない。それはともかく、水の入った竹はとても重くて、「これをオデコにぶつけたのネ」と、妻に初めて(それまでは叱られていたが、微笑みながら)同情してもらった。
「なんと」この3人の学生は、道具を1つも壊さずに、上手に竹を小割りしていた。おかげで、割竹が充分確保できたので、円形花壇をシカの食害から守るカバー被せる傘などを創ることができた次第。感謝。
乙佳さんにもらった2本のフェイジョアの苗木は、植える場所を探し回った挙句、アスパラガス畑を犠牲にすることにした。この畑は早晩、世話は出来なくなる、と見てとった。そして佛教大生の女性組14日と、男性組19日に各1本(手前)、記念の植樹を引き受けてもらった。
知範さんに「一度、友人を伴って訪ねたい」と要望された時のこと。課題を用意して待った。加齢対策の一環として、どうしても舗装したい小径があった。
そこで、余っていた2枚の石畳などを活かしてと考え、目的、用いて良い2枚の石畳など、そして道具類を提供し、取り組んでもらった。
その友人は、知範さんに聞いたようで弁当を(上手に手作りして)持参だったし、共作した舗装の出来栄えは期待以上だったので、ありあわせのセメントで、急ぎメモリアル物にしてもらうことになった。
エンドウマメの手入れでは、暖冬のおかげで、かつて体験したことがない楽しさに恵まれた。それはまず、油断の賜物だった。第1次のエンドウ豆は、いつになく大きく育っているが、「まさか」と思っていた霜に襲われ、慌てて対策を打ち、妻に褒められた。妻は、プラスチックなど無機的な人工物が庭で目に着くことを嫌う。だが、このB級レースカーテンの利用法は気に入ったようだ。
第2次分のエンドウ豆はまだ幼いおかげか、霜の被害はなかった。その後、第3次の苗を温室で用意していたので畝に降ろし、さらに残っていた種を温室で第4次分としてポットにまいた。
その後、約3週間にして(朝焼けに見とれた2月28日6:40時点で)、第1次は路地でもここまで育ち、テラスのオブジェ(の開花)もここまで進んだ。
路地での無農薬有機栽培は、年毎に異常気象の影響が大きくてなっており、油断ならないことに多々直面する。この、生きものとして体感する刺激の緊迫感を石神さんに伝えたい。この夫婦なら、高齢化社会対策としてうまく活かすに違いない。少なくとも私は(人為的に)不自然(にされ、悲鳴を上げているよう)な自然から「ぼやぼやしておれない」との緊迫感を私は受けており、ボケてなどおれない、と思わせられている。豊かさに慣れ、他力本願が当たり前になった文明人と異なり、野生生物は「(自ら)進化しなくっちゃ」と願っているかも知れないし、20分ごとに分裂(し、進化)する(可能性がある)細菌は、どのように変異するか知れたものではない。この落差が、パンデミックを深刻にする。これを「要注意」といかに啓蒙するか、国家も家庭も求められているように思う。
当月は、学生にイノシシスロープの掃除や薪の運び上げなどに取り組んでもらえたので、会話の時間をタップリつくれた。おかげで、免疫を主な話題に選び、ジックリ話し合えたが、ヨカッタと思っている。これから子どもをもうける人は、必定の課題だろう。人知(新薬開発)と細菌(進化)のいたちごっこは、終焉期を迎えつつある。
21日から喫茶店は恒例の再開。アイトワの一帯も、コロナウイルス騒ぎで閑散としていたが、20日にエネカン関係のお2人と白石夫妻に、「明日からですか」と残念そうに引き返してもらったこともあり、決行した次第。もちろん、来店客は閉店間際に1人、という日も生じたが、おかげで(?!?)、ゆったり気分(を来店客に楽しんでもらえ、共感)の日々を過ごすことになった。
その間のトピックスは4つ。まず22日以降、加齢を実感させられる電話での知らせが3件も続いたこと。次いで、知範さんが手前味噌づくりに取り組んだこと。3つ目は、妻に「今日は、何の日かご存知ですか」と問われ、5分ほど緊張させられたこと。最後は、妻にはマスクを持たされながら、高槻までマスクをポケットにしまったまま往復したこと。
加齢を最初に実感させられた電話は、2カ月ほど前の力強い招待状から始まっており、神戸県公館での催への呼び出しに関する知らせだった。
その催し自体(貴景勝への化粧まわし贈呈と元代議士の出版記念がメイン)はともかく、私は友人に提案された当日の昼はマグロ尽くし、催しの後での夕餉は北野野坂で、が楽しみだった。だがご老体は「お宅でお静かに」になった。
2つ目の電話は、これも随分前のセンスの良い招待状でのお誘いの一件。大阪のホテルで開かれるある70周年記念の催しで、かつて顧問をさせてもらった会社の、中興の祖に電話で声をかけてもらうことから始まった。だが、ご当人から丁重な電話で、加齢を心配していただき、不参加となった。
共に妻は大喜び(私の右脚は完治しておらず、遠方での人込み故)だし、私も得心し、感謝した。だが、チョッと残念な思いと、不思議な想いにさいなまれた。
そこに3つ目の知らせまで入った。これは町内会の、講師を招いての勉強会で、最寄りの閑静な集会場での催しだった。それまでが、中止になった。首相の一声を気にしたようで、まるで憲兵に慄いた戦時中を思い出させたが、おかげで晴耕雨読の悠々自適が始まった。
手前味噌づくりは、乙佳さんからの電話と来訪で始まった。3軒分の大豆と麹を届けてもらい、このたびから知範さんんも仲間になった。
そして、妻の「今日は、何の日かご存知ですか」で、一瞬ドキンは24日だった。実は過去に、結婚記念日のことで、結婚後20~30回ほど毎年のごとく痛め付けられた私としては、久しぶりに緊張! だがこの度は、数分待たずに晴れ晴れとした気分になった。
それは、「あの時は?」と、既に思案したことがあったオカゲだ。父が他界した日のことで、なぜかエゾヤマツツジが満開状態になり、大勢の人にその名を問われた。この度は乙佳さんに「この木は?」と問われ、1本だけ実生の木が育ったことも教えていた。
かねてから、中村均司夫妻にミニ博物館でのアラブ料理に誘われていた。その前日になって、電話で「どうしますか」と問い合わされた。参加予定者は6人で、内一組の夫婦が不参加になった、という。迎えて下さる人は、既に準備に入っている、と聞いた。
「この電話がなければ、私は予定通りに出かけていました」「残る1人の意見を加味し、あなたが決めてください」「願わくば、決行し、万が一のことが生じた時に、迎える人が困らないように配慮されたい」これが私の言い分だった。
約束通りに待ち合わせ場所にたどり着くと、3人がお揃いで、「もうお一人が、遅れている」だった。一人緊急追加したようで、昨日言って今日のこと故の遅刻だった。
瀬川扶佐子さんのお宅を訪ねたが、もっと早く巡り合っておきたかった、と思った。この人となら、もう一度、アフリカにでも行けそうだし、行きたい、と思った。
かつてUAE(アラブ首長国連邦)を訪ねた時は、ナツメヤシとラクダの乳、あるいはシシカバブーなどの単品で済ませており、アラブ料理のフルコースは、初めてだった。
まるでミニ博物館のごときお宅では、随所に飾られた絵にとても惹かれたし、トイレをはじめ、その創意工夫にも感嘆した。
手作りのコーランや、下唇を大きく広げる道具、あるいは「重くないですか」と思ったイヤリングを初めて手に取った。
アフリカをはじめ辺境の地に、そうそうたる人たちを案内できた人だけに、引き込まれる話題が多々あった。たとえば辺境の地と、発病について。ある名医を含む一行を案内された時のこぼれ話に、膝を打つ思いがした。
発病者が続出で、困った。名医が薬を取り出して、次々と救った。そこで、その薬を手に入れようとしたが、名医が「あなたではまだ無理です」、とキッパリ。
だが、最近では私にも旅行中の(腹痛程度、と思うのだが)発病者は治せるようになった、とおっしゃる。病は気からとはよく言ったものだ。
こうしたトピックスに、もう1つ加えるとすると畑の除草だ。26日に、知範さんはビオトープの縁取り作業を仕上げたが、私は除草に努めた。
暖冬は野草の成長を早め、次々と花を咲かせる。なんとか種を結ぶ前に、とニラ畑をはじめ除草に随分精を出してきたが、この日も精を出し、これでこの1カ月は、一輪車3杯分を抜き去ったことになる。何せ、「この草しか食べない虫が」と考えてしまい、すべてを抜き去らない庭づくりだから、大変だ。
それにしても多彩な1カ月になった。コロナウイルスのドタバタや、政権のデタラメ、あるいは感染症騒ぎのセイかオカゲでTV録画を見る機会に恵まれたからだ。
加えて、5日から6日にかけての寒暖差が「ハッピーは、けっこう賢いんだ」と気付かせ、妻に「今頃わかったのですか」と大喜びさせたのもヨカッタ。ハッピーは、レースのカーテン地を(エンドウに被せる寒冷紗の代替品として取り出し、ベンチに放っていたが)、くわえて引き寄せ、ついにすべてを防寒に供した。
にもかかわらず「それではまるで…」と妻の言動を首相並みだと評し、激怒させ、起伏の激しい一時にしたおかげだろう。なぜか妻は、その言動のあいまいさを首相なみだなどと例えると、「卑劣この上なし」と言われたかのごとくに激怒する。
おのれのバカさ加減にアキレもした。獣害防除のために、防犯カメラを設置して転用し、その侵入の様子を確かめ、防御策を講じようとした。だが、ラチがあかず、ついに新規の自動カメラを購入し、設置せざるをえなくなった。
転用した防犯カメラは3台だが、同時に監視できない。それは機種が異なるためで、個々には見えるが、同時には監視できない。また、録画の仕方も異なり、不便この上ない。ところが、この録画の事実に、何か月も気付かず、代金を払い続けていた。それは被害が生じていなかったからだ。もちろん設置当初から、機種を同じにするか、機種は別でも、機能を同じにしてほしいと訴え、後日に、となっていたが、被害が生じず、放ってあったし、それを約束した担当者が辞めたようで、ラチがあかない。
この災いでも知範さんを煩わせたが、それがキッカケで白雲釜という感心させられた窯元の存在と、その主・村山光生さんを紹介できる展示会に案内し、見学もできたが、それが(不誠実な会社へのへ腹立たしさ鎮める上で)せめてもの慰めになった。
災い転じて福もあった。徳島から人形を見たくて訪れたいとおっしゃる方々があった。冬休み中だし、その日は夫婦であるパーティに呼ばれていたが、私の脚の不調(故にタクシーで帰ったこと)が幸いし、お目に掛かれた。
幾つかの疑問を解くTV番組があった。シルクロードの北(森林地帯の南)の草原地帯にアンロードがあったという。当時は、鐵は金の8倍、銀の40倍の値打ちがあったようで、この人工で作り出す鐵によって歴史は随分かえられ、彩られていた。これを知ったおかげで、幾つかの謎が解けた。
それにしても、日本は「実に不思議な国だ」と、権限の恐ろしさとあわせて思い知らされている。大きな権限を手に入れてしまえば、そして厚かましく振る舞えば、権限外のことまで成し遂げ得る国であり、それを許す国民であるようだ。それはサムライニッポンの(良さを逆手に取るような)悪しき一面だろうか。
韓国の検察官によれば、桜問題は、告発を受けた検察がホテルなどを調べたら、白黒はすぐなどにつく、という。欧米の人々はもとより、わが国でも、そうと気付いている人が多数だろう。だが、ヤカラ化した(ヌケヌケと証拠を隠滅し、だから無罪だと開き直る)人を許している。
28日の朝日川柳に「もうすぐ言うぞアンダーコントロール」があった。オリンピックの準備(にかけた費用)は、国民に知らせた予算の既に3倍、1兆円を超えている、と会計監査院が指摘した。要は、成功さえさせれば国民は浮かれ、鷹揚になる。IOCは、アンダーコントロールに騙されたふりをして巨額の催しを引き受けさせたような一面があり、コロナ問題でつまずけば、一緒に非難されはしまいかと心配し始めているのではないか。
「お・も・て・な・し」につられて権威の元も子もなくすより、たとえば、巨大津波被害地域の復興後に「是非とも再エントリーを」とでも言っておくべきであったなどと、反省もし始めているかもしれない。
今からでも遅くはない。わが政権も「閣議おば御前会議と思いしか」との川柳などはねのけるように、反省して、真剣に軌道修正すべき時ではないか、「にもかかわらず政権は」などと下世話なことまで考えてしまった。
それはともかく、「老人が危ない」とコロナウイルス問題では騒いでいるが、それでよいのか。わが両親は、スペイン風邪の体験者だが、免疫力に欠ける幼児が危なかった、と語っていた。スペイン風邪では青壮年の罹患が多かったようだ。もっとも、経年で得た免疫力も、加齢で台無しにしかねない。それだけに、免疫力を落とす他の要因、たとえば睡眠不足、栄養の偏り、あるいは心配事などをクローズアップして、別途研究すべきではないか。
スペイン風邪は鳥インフルエンザ系ウイルスだったと聞く。免疫力があった鳥の多くは生き残り、今に至っている。人間もしかりだ。互いに免疫力を高め合い、しのぎを削りあってきたわけだ。根本は、BCGや種痘ではないが、常日頃から国民が免疫力を高めるように導くのが政権の役目だが、落ち度はなかったか。
急ぎ、免疫力を落させる人為的マイナス要因を、政権も作ってはいやしないかと点検し、心当たりがあれば、取り除くべきだ。そして、近未来に必至のパンデミック、コロナウイルスよりも致死率が高い災難に供えるべきだ。
たとえば、免疫力を落させかねない人為的マイナス要因として、正規雇用と非正規雇用などによる差異、ヘイトスピーチなど国民を分断するような動きの影響、あるいは女性の地位抑圧などストレスが及ぼす影響など、精神的要因も対象にして調べる機会にすべきだ。もちろん母乳と人工母乳での保育差異、家庭料理と出来あいの料理の摂取立の差異など身体的にも影響を及ぼす要因も俎上に上げたい。
それでなくともわが国は、とても危なげな国である。ドイツの保険会社が世界50都市の自然災害リスク指数を公表しているが、東京・横浜の指数は、2位サンフランシスコ、3位のロスアンジェルスの4~7倍だし、他の多くの都市の数十倍から数百倍とみる、しかもここに資産集中をいまだに計らせている。
この点で言えば、東大が東洋医学を導入していたことを知って嬉しかった。報道された範囲でいえば、対症療法的な導入のレバルと見たが、いずれは「赤ひげ」的なレベルへと進まざるを得なくなるに違いない。そのキッカケとして喜んだ。
もちろん私は西洋医学や近代医学を尊んでいる。だから、対症療法的手術や投薬も尊んでいる。だが、いかにして投薬から解放するか、いかにして手術をせずに済まさせるかなどをもって優れた医学と見る意識へと転換することを望みたい。サムライニッポンだ。伸びやかで、穏やかな生涯に誘う医療であって欲しいし、国民でありたい。
(『未来が微笑みかける生き方』2019より)。
さもないと日本がアブナイ。これを好機に、根本から考え直さないと、のど元過ぎればとか、オオカミ少年ではないが、国民をこれからも養鶏場のニワトリのような免疫力のない状態にさらし続けてしまいそうだ。
それにしても、コロナウイルスでは発生源になった中国だが、TVでその国造りのゆとりのほどを追認させられた。たとえば西安や南京などでは、昨年、国民が目を輝かせ、自信に満ちた様子をす姿を目の当たりにしてきたが、その裏打ちのごとき歴史を誇る復興や、誇るべき歴史の調査などが随所で行われているようだ。
間違っても、わが国がパンデミックの発生源や、撹拌国にはなってほしくないが、それでもなお世界に「なくてはならない国」と認められるように、国民を誘ってほしい。それに値する国民や国土だし、ふさわしい歴史を有している。
頭から腐るような国、それを見逃す土壌や国民の国とは思われたくない。