自省の念。かつて一度、庭からトノサマガエルが消え去り、アカガエルなどに入れ替わったことがあった。確か2年前から、トノサマガエルをチラッと見かけるようになったが、逆にアカガエルが減った。この度は間違いなくトノサマガエルを目の当たりにした<a>わけだ。にもかかわらず見つけた時に私は「どこから忍び込んだのだ」と心の中で叫んだ。蚊も入らないように網戸で締め切った広縁だし、他の出入り口も、蚊を紛れ込ませないように気を付けて開閉してきた。
もちろん心の中では「お帰りなさい」と叫んでいた。だから即座に、キッチンにいた妻に大声で知らせたわけだ。彼女は手を止め、広縁に急いだ。そして覗き込み、トノサマガエルを目に止めるや否や「ご飯、食べてる?」と問いかけた。私は「ぎょっ!?!」とさせられた。そして、痛く反省させられた次第。
私は「どこから忍び込んだのだ」と疑念を抱き、妻は「ご飯、食べてる?」と相手の身を案じた、と私には思われたからだ。もしそうなら、この差は私たち夫婦のキャラクター差、と片づけてよいのか否か。男女の性差がなさせるわざではないか。もしそうなら、由々しき問題を含んでいる。
思えば、軍需産業や軍隊などは男性が支配する世界だし、どれほど多くの大の男が仮想敵国を作って疑念を抱き、大勢の人を支配する手段としてあらぬ不安を掻き立て、挙句の果ては血みどろの戦いに駆り出してきたことか。このトリックと野望に喜び勇んで巻き込まれ、戦線に飛び出し、辛酸を繰り返し舐めて来たのも男が主だ。
こうした馬鹿げた社会の在り方が、当たり前の社会だと信じる偏った男たちが、女性を無学問網に押しとどめ、男に盲従させようとしてきたのではないか。それが、男が支配してきた世の中ではないか。「奪い合えば足らぬ、分かち合えば余る」のに!
なぜかこんなことまで真面目腐って考え始めた。
そして常日頃の妻に思いを馳せた。妻は時間が来ると犬に餌を与える。その前に私の食事を用意する。人形教室の最中であれオヤツの時間が来ると、妻はお茶とお菓子を運んでくる。庭仕事で私が大汗をかいていそうだ、と見ると、適度に冷たい飲み物を運んでくる。これは習い性なのか、義務感なのか。あるいは。
「そうだ」と、思い出した。先月、ゆかりさんを迎えた時のことだ。何か言い足らないことがある、と思っていた。「そうか、それは」と気が付いた。女性の方が医者にも適しておれば、政治にも(平和を尊ぶ限り)適しているはず、ということ。
そういえば、と身近な失敗も思い出した。文大統領が北朝鮮を訪れる様子に触れたからだろう。この前のイカサマともいえるわが国の総選挙だ。総理は北朝鮮のミサイル問題を騒ぎ立て、憲法に反してまで国会での応答義務を無視し、名目は「国難突破」の解散。実は森友・加計隠しの総選挙という虚に出た。
結果、副総理は、この選挙は北朝鮮のミサイルのおかげで勝ったようなものだ、とのたまう始末。総理は「総選挙で国民の審判を得た」と謳い上げる。
慌てふためいた選挙民は憐れ。とりわけ、北朝鮮のミサイルの度に、サイレンを合図に戦時中のごとく、床や地べたに身を伏せさせられた子どもが気の毒。そうした子どもの身を案じ、9条をいじくろうとする党を支持したのだから。とりわけ、戦地に赴かされる可能性がある若者の過半が、赴かせかねない方向に追いやる政党を支持した。
それはともかく、この度のトノサマガエルの一件。常日頃は戸締りを忘れがちな私なのに「どこからしのび込んだのだ」と考えた。ナサケナイ。対して妻は、一人で留守をまもる時は滑稽なほど戸締りも頑丈にするにもかかわらず、忍び込んだカエルを見て「ご飯、食べてる?」とまず声をかけた。この差はなんだ。