左足の不自由。少し、くどくどと綴る。同じ痛い目を繰り返したくないし、ボケたくないし、庭仕事を続けたいから。加えて、2025年ごろに、世の中は一転すると見ているだけに、似た危惧の念を抱く人に、その一転を見越した生き方のモデルとして参考にしてもらいたいから。あからさまに言えば、近ごろは次第にその一転した世の中のありようが瞼に浮かぶようになっており、その時の厄介者のような扱いをされる対象にはなりたくないから。また、この度知り得た恭祐。知範両君のようなタイプの若人に、他山の石にしてもらい、一転した世の中で幸せになってもらうための参考事例にしてもらいたいから。
もちろん、一転するような事態が生じなければ、もっと幸せになってもらえることを願うから。ということは、少なくとも19日の朝(不具合を自覚した時)から後は、妻には叱られそうだが、あるホドホドを求めて人体実験のつもりで動いたのだから。
あるホドホドとは、「もしやこの症状は」持病である拡張性心筋症が発する「ある種の警報ではないか」との疑いが脳裏をかすめ、その疑念の下に、2者択一を意識して動いた、ということ。縮こまった意識に己を追い込むのではなく、警報が許す範囲を探りながら、正常人並みに動くことによって、筋力の低下を避け、ボケないようにしたい、と願ったということ。
先ずは、その2日前の状況から。
17日の午後、中山貞夫を偲ぶ外出時は、カラダのどこにも何らの支障も感じてはいなかった。法要、墓参、記念撮影の後、精進弁当<a>でビールと銘酒を少々飲み過ぎたが、いい気分で車の人となり、何らの異和感を抱かずにやすんでいる。
あえて言えば、墓地にたたずんでいた時に、ジッと起立しているのが少し辛かった。集合写真の時は、なぜかしゃがみたくなっている。
翌朝も元気に目覚めたし、妻に「カボチャが、サルに襲われました」と聞かされたのがキッカケで庭に飛び出し、午前から終日庭仕事に勤しむことになった。10日後に迫ったBBQが気になっていたし、雨勝ちの日々が続きそうな予報であったから、普段よりアクセルを踏みこんでいたはずだ。もしも、BBQ当日が晴れ間に当たれば、囲炉裏場で実行したい。そのために、親水性舗装をしたのだろう、との想いを働かせていた。
サルに襲われたカボチャコーナーは、元はキーウイ棚で、サル避けの電柵がない。ツルクビカボチャはことごとく襲われていた。ただし、種が入った部分がことごとくガジリとられており、種は期待できなくなっていた<b>が、サルが残したツルの首のごとき部分は残されていた。若い実にはなぜか手を出していない。だから「これはどうしたことか」と首をひねらされている。
若い実を残し、それを育て、種を採る手が残されている、とも思ったが、ツルをすべて剥ぎ取り、堆肥の山に積み足すことにした。寒さに向かい始めて今からでは、まともな実に育つことは期待できない、と診たからだ。ツルを剥ぎ取りながら、サルが通れない程度の金属網を「棚の上に載せる」案を思い付き、来春までの課題にした。
夕刻、妻から「種を、由樹ちゃんにもらうことにしました」と報告され、安堵した。このカボチャはトッテンさんにもらったツルクビカボチャを元にして育て続けてきただけに、義妹にも種を分けておいてヨカッタ、と思った。さらに夕食時、若採りしたカボチャを、妻はズッキーニのごとくに活かして新メニューを考案<c>。「いけるねえ」「来年の楽しみが増えたネ」とニンマリした。ここまではまだヨカッタ。
だが、今から思えば、この間の一働きに少し問題であったようだ。まだ持病を意識しておらず、息苦しくなるなどの警報の予兆にすら気付いていない。
この日は、大勢の来客を迎え入れることを気にしていたので、エンジンブロワーを取り出し、庭掃除も当たることにした。台風で荒れた庭の掃除だ。重いエンジンブロアーを駆使する作業なので、コマゴマした動きが面倒に感じられがちになる。幾種かのキノコを吹き飛ばした。3種目が目に入ったときに「しまった」と、2重に気付かされた。キノコのシーズンに入っていたわけで、ここで掃除を中断し、キノコを求めて庭を一巡し、記録しておけばヨカッタわけだ。また、それが体を休める好機、と気付くべきであった。だが、インターバルをいれずに、石畳道のところまで一気に片づけた。
翌18日も曇天だったが、午後に(下村)知範さんを迎える予定があったので、朝から庭に出た。まだ異常が生じ始めているとか、持病を気に掛ける、といった意識はまったく生じてはいなかった。この時までは、雨が心配され予報の下で、BBQに備えてのことだった。
この日は前日のエンジンブロアーに換えて、エンジンソーをとり出し、過日、恭祐さんに運び出してもらった問題のカシの幹を玉切りに挑むことにした。これは、海詩一家を迎えることになっていたので、ドンさんのパワーに期待した作業だった。これまでの溜まった玉切りの山に積み足した<d>が、まだ異常に気付いていない。
午後は知範さんを迎え、3日後に迫った大阪での公演の準備を手伝ってもらった。その最中も苦痛など何ら感じておらず、気分よく知範さんを見送った。その後のことだ。見送りを終え、緩やかな坂道・温度計道を登り始めた時に、左の脚が、他人の足でもあるかのように力がこもらず、立ち止ったが、立っていづらかった。だが、痛みは、鈍痛さえない。ともかくだるい。だが、居間に戻っても座り込まずにPC作業を続けた。
この夜は、最後の来客予定が9時に入っていた。9時半になって息せきって尋ねてもらえた。相談事は小1時間で終わったが、事情を言って見送りは 割愛。立ち辛いほどの鈍痛と無力感に苛まれていた。手すりに頼って階段を上るなどして居間にたどり着いた。そして、妻の提案で足湯を試みて、TV録画を観ながら熱い湯で1時間余も温めた。だが、汗が出ない。脛の外側の筋肉が張り、膝が重く、不気味な脱力感が続いている。脚を動かすと鈍痛を覚えた。妻も最近、似たような症状に襲われたことがある、と聞いて、やや安堵した。妻は心臓の異常にさいなまれていないからだ。だが、私の場合は脚にムクミが出ており、手放しでは安堵できない、と思っている。翌朝の回復を願い、寝室に。
上向いて寝ると、足の甲に合布団の重さがかかり、足が引きつりそうだ。カラダの左を下にすると、足がもつれそうな錯覚に襲われる。結局右を下にして、翌朝の回復をせつに願いながら12時前に眠りについた。この症状が元に戻っておれば、なんてことはない、との期待を心に言い聞かせた。
5時に小用で起き出したが、ベッドから立ち上がりにくい。用を済ませ、ふらつく体を操りながら寝床に戻り、寝直すことも考えたが「どうせ(眠り直すことは出来まい)」と思って、PCの人になった。鈍痛は昨夜より和らいでいた。だが、椅子から立ちあがろうとして、いつものクセで体を左に向け、足を広げた時に、ビクっときた。昨夕には気付かなかった痛みが走った。だから、右足を開いて立ち上がることにした。なんとかなった。起き出してきた妻が心配そうにしたので、「明日は、這ってでも出掛ける」と話した。
結局夕刻に、妻に連れられ、町医者の整形外科を訪ねることにした。軽4輪の乗り降り一つが一苦労だった。膝を曲げようとすると痛い。やむなく両手で脚を誘って、座席に収まった。医者に事情を話し、むくんだ脚をさらした。その後、2度激痛を伴う診察、レントゲン検査、そして診断。原因は不明故「鎮痛だけになりそうだが」と、膝の水を抜き、何かの薬剤を打ってもらい、鎮痛剤と胃薬をもらった。
おかげで翌日、脚はウソのように回復していた。だが、思うところがあって、妻に付き添われて出かけ、役目を無事に終えることができた。思うところ、とは、その後の夕食会場にも出向く気になるに違いないとの期待だった。関西では唯一のウイグル料理ときいていたし、妻はシルクロードに興味を持っている。しかも、時が時だ。
中国のウイグル自治区は大変な時期だ。ウイグル族はトルコ系で、1000万人ほどのイスラム教徒。かつて「東トルキスタン」を願って独立の動きをしたことがあった。今や締めあげられている。おそらく、経営にあたるご夫婦は、母国に帰れないのではないか。
タクシーの乗り降りも不自由しない。食事の後、夫人の踊りが披露された<e>。2005年にユネスコの世界無形文化遺産に登録されたという。
なんとこの夫人は皆をダンスの環に誘い、私は目星をつけられ、手を引かれ、2度目に促されたときに、「思い出に、一つやるか」と、生れて初めて踊った。踊りの後、記念撮影にも収まった<f>。
その夜から、鎮痛剤の服用を止め、様子を見ることにした。おかげで、「案の定」「警鐘であったようだ」と分かった(ような気分にされた)。
「困ったものだ」。臓器をかばって自重すれば、カラダがなまり、日々がつまらないし、オツムがボケて当然だろう。かといって、下手に酷使するとる臓器がへたる。そのホドホドを見極めたい。このような思いが頭をよぎり、持病を気にし始めた頃から、ホドホドの会得が、私の人生の醍醐味だろう、と考えた行動に移ったが、案の定「警鐘であったようだ。このホドホドを確実に意識したのは20日の朝のことだ。
だから朝食の後、新聞を読む1時間余、PCの人、そして昼食まで、体を休めた。昼食後、つえを頼りに温室の水やりに出た。その後、再び4時までPCの人。翌日に控えた講演材料の推敲にあて、体を休めたことを振り返った。
ここで、つくづく思った。この2日間は(夜の地域常会と歯科医通いの他は)21日夜の講演に備え、スケジュールを空けてあったのが、それがヨカッタ。
かつて救急救命診療の世話になったが、その時に懲りている。大勢の人に迷惑をかけかねない大事な約束事の前は、心身にゆとりを与えるように心がけてきた。その一環と見て、20日の朝は最悪の状態だったが、妻が喫茶店に出でたのを好機と見て、つえを頼りにキノコを探して庭を巡ることにした。脚が片方不自由なだけで、気が沈んでいたからだ。その途中で温室に立ち寄り、ポット育ての野菜の苗や鉢植え植物に水をやった。
その後、「そうだ」とばかりに、懸案に気付いた。母屋の居間の前に設えた水槽の1つから、カダヤシをすくい取り、屋内用水鉢に移す作業だ。冬に備え、屋内に移すなど、冬越しの対策が求められていた。
元気であれば、なんて言ことのない作業だが、ずいぶん苦労した。まず、水鉢の前においた小さな椅子に苦労して座わり、眼鏡を忘れていたことに気付いた。「杏奈がいてくれたら」と思った。一走り願えたからだ。
小1時間かけて、水を3分の1ほど入れた水槽にカダヤシをあらかた移した。ここでやめておくべきだった。止めずに、水槽を持ち上げ、恐る恐る居宅の玄関まで運んだ。まだそこまではヨカッタ。その後が、特にマズかった。閉じた玄関ドア―を、両の手で水槽を持ったまま開けようとして一苦労した。元気であれば、なんて言ことのない作業だと思ったのがマズかった。この後で、医者嫌いだが、妻に促され、医者に出かけた。