台風トラウマ。強風が家を揺るがし始めた時に、父は2階のガラス戸などを外し、吹き抜き状態にして屋根が飛び去る恐れを防いだ。だが、土壁は随分崩れた。その影響で、1階の子供部屋も被害をこうむり、夏休みの宿題もつぶれた。ジエーン台風ンの思い出だ。
そのつぶれた四角胴の大型紙飛行機を見た先生は「優」をくれたが、それぐらいでは恐怖心は収まらない。その後、中学生になると、台風が連れて来た大雨が菖蒲谷という池の堤防を切り、洪水になり、中学校は授業を中断し、下校させた。その途上で水害の怖さも知り、台風と聞けば緊張する私になった。
だから私は、工業デザインと建築を共に学べそうな大学に進学したのだと思う。学生時代に「建設大臣になって、日本から風水害で泣く人をなくしたい」と学生仲間に語っている。20年とか30年とかの期間を要する案件だが、それに値する才能と努力を傾ければ、夢を成し遂げられるまで建設大臣の座が与えられるもの、と思っていた。この願いがかなっていたら、今のようなイタチゴッコのごとき国造りはせずに済ませていたと思う。だが、やがて大臣とはそのような大構想を現実化できるような立場ではないと知り、ガッカリしたものだ。
ならばせめてわが家だけでも、とミミチイ構想になった。「自然災害に強い棲み処を」と考えて、社会人になり今日にいたった。だから、就職時は転勤や海外赴任を受け入れたくない旨を表明したし、社会人1年生の時に、生涯で最初の借金をして、住宅金融公庫の94万円の借財で20坪の棲家をこしらえた。もとより終の棲み処と考えている。
だから、小鳥が巣を張り、カマキリが卵塊を産みつけるときのごとく、風水害を被らずに済むことを願って「場所や方角など」を見定めている。この意識故だと思うのだが、後年TVドラマで直江兼続の存在を知った時に、幾度目かの米沢訪問を実行している。
それまでに、上杉鷹山に興味を持って幾度か米沢に出かけたが、一著に仕立てあげる能力や度胸に欠けていることを自任し、あきらめていた。にもかかわらずまたぞろ出かけたわけだ。その折に、2つ驚かされたことがあった。
タクシーを幾度も使ったが、運転手は誰一人として直江兼続の名を知らなかった。複数の運転手が、その家族も含め、私と同じく「その名を、このたびのTVドラマで初めて知った」と語った。だが、近郊を丁寧に探り、河川沿いの治水工事など幾つか土木工事が直江兼続の遺作であったことが分かった。そして今もその効能を果たしていることを知った。
なぜ訪れたくなったのか。それは、特段の土木工学の学術的知識などがなくとも、生きものとして、水や風の勢いや性格などを知り、災難から逃れようと純粋に願えば、それなりの手が打てそうだ、との想いはまんざらではない、と知るためだった。通勤に便利などいった、余念に惑わされないことが肝心だと思う。おかげで、その後は大雨に襲われて問題が生じるたびに、即座に我流の対策を構想し、実行してきた。念ずれば通じるず、とはよく言ったものだと思う。