弓削島のランが温室で見事な花を咲かせ、モミジの種が庭の随所で「これは、何か異常気象の知らせでは?」と気になるほど発芽。そして、近所でメスのシカが「一頭捕獲された」と知ることから4月は始まりました。2日は、千野さんに加藤壽子さんとの出会いを作ってもらえ、感謝。妻はベトナムの旅が縁の手袋に改めて大喜びする事態に。
以降、久保田さんとプチピアノライブに出掛けたり、ミツバチの師匠を迎えたり、歯科医を訪ねたり、あるいは壽子さんのお孫さん同道の来訪に喜んだり、初タケノコに恵まれたり、と続きました。9日まで好天が続き、庭ではハッスルの日々(ほぼ終日が3度もあった)となり、幾つもの懸案事項や面倒な作業を片づけ、ある忘却を振り返っています。
懸案事項とは、堀さんのエビネランと「方丈」の配水管の保護であり、「これは『終活』でもあった」と気付かされ、「ならば」とハッピーの鎖の補修にも取り掛かり、妻とチョットしたトラブルに。でもそれが、水槽の水換えにも手を出させたし、折よく阿部ファミリーから手紙が届き、以心伝心を感じて勇気づけられ、気を取り戻しています。
そして10日。知範さんに遠方の大型HCまで連れて行ってもらい、さまざまな品を買い求めました。帰宅後は2人で1時間余の畑仕事に当たり、1つの記念すべき日にしました。妻は花ザンショ摘みにをして、自慢の佃煮お作っていました。
中旬も、印象深い1日から始まりました。午前中は、エンジンブロワーで内庭から手を付けて落ち葉掃除。妻はケーキを焼き、花を生けたうえで、私に合流。不自由な手で落ち枝拾いと落ち葉の袋詰め。これは、壽子さんとお孫さんを迎える準備でした。その後、チョット行き違いがありましたが、「有意義であれ」と切に願う一時を過ごし、お見送り。この日は夜に電話で「以心伝心であった」、と分かったシタビラメを堪能したのです。
翌日曜日は朝食後、庭に飛び出し、雨が降り出す前にと、野小屋の雨漏りの仮の補修と、妻が前日袋詰めにした落ち葉を腐葉土小屋に積みあげました。この途中で雨が降り出し、その後は2日間降り続き、書斎にこもり、久しぶりのデスクワークを堪能です。
小雨の13日は未明に春雷、終日書斎に。快晴になった14日に、ナツメの発芽を確認して春を実感。15日は恒例のベンジャミンゴム出し。16日にトウガラシの苗植え。そして17日はペンキ仕事。この快晴の4日間は来訪者もなく、新型ウイルス騒ぎの下、夏野菜の準備を着々と進めながら、5つの懸案にも着手。翌日から2日続けて、また以心伝心に恵まれています。妻は、喫茶店だけでなく、人形教室も休講。2人はマイウエイの日々に。
雨で明けた18日。ハナスオウやヒメリンゴが満開。知範さんをPCへの写真の取り込み作業で迎え、裕一郎さんのトラブルを知り、妻がある提案。雨が上がった午後、妻が「一度(車の)運転を」と言ったので、最寄りの親友を訪ね、ある提案。19日は畑仕事に没頭。そして中旬最後の日は、予定通りに知範さんと裕一郎さんを迎えたのですが、それが3ツの記念日にしただけでなく、2つのエピソードも加えさせました。
下旬は歯の治療から始まり、ウメの木の異常と中村夫妻の来訪で終わりましたが、ミツバチが棲みつき、裕一郎さんは妻の提案に応じて逗留、さらに「あのシカであったわけだ」を確認など、トピックスに多々恵まれました。他に、新農法が派生させた豆苗の享受。妻の快気祝いかのごとき大焚き火。石神夫妻の来訪。アブラムシが異常発生したウメの木の大剪定と、妻の助成力に感心。そして中村夫妻の記憶に感激、と続きました。
~経過詳細~
出会い
千野さんのおかげで、「そうか、3度目の終活を始めていたわけだ」と気付かされるところとなった。キッカケは、千野さんがご案内の加藤壽子さんを迎え、この庭を知った彼女に「なんで、もっと早く」と口走ってもらえたことだ。なぜか無性に壽子さんのお宅を訪ねたくなり、訪ねて「どうして天はかくも無慈悲な」との思いにかられた。それがやがてわが身を振り返らせ、これは「3度目の終活だ」と思うに至っている。
壽子さんのお宅から戻ると、無性にクルミの木の剪定に取り組みたくなった。そこは足場が込み入っていて、3脚脚立が操りがたく、手を出せず、懸案になっていた。にもかかわらず、「これが最後の剪定になるように」と願いながら挑戦。既にクルミは、房のような蕾をたくさんつけており、時期外れもいいところだったが、やり遂げた。
そして、切り取った枝を夕刻に、囲炉裏場に運び込んだが、つくづくと、千野さんに良い人との出会いを作ってもらえたことを感謝した。
壽子さんの来訪時は、会話と庭めぐりで2時間たらずを過ごしており、幾つかのことを知りえた。だから、お宅を訪ねたくなったわけで、そこはアイトワから車で10分とかからず、植木畑が広がる一帯にあった。そのお宅には裏に広大な土地があり、千野さんと一緒に案内されたが、新たに知り得たことがあった。
広々としたその土地には、丸太の小山や、とても大きくて深い四角い穴があっただけでなく、「この奥にも、ひと1人が眠れそうな穴」がある、と聞いた。ご子息が掘りおえてから「あの世に行きました」と、続いた。
次いで座敷に通されたが、仏壇の側に「白い布を被せた祭壇」があり、ご子息の骨壺や遺影があった。だがその遺影は共に幼児期のもので、その説明を受けた。寡黙な末のご子息であったが、ただ一人造園業を引き継ぐ気になり、励む日々が続いた。だが、台風19号で大被害を被ったうえに、このご子息に末期癌が判明した。
だが、当人は自宅での養生を強く希望し、死の間際までかけて、台風が倒した樹木だけでなく、老いた母の手には負えそうにない、と見た木をことごとく処分。さらにとても大きな穴だけでなく、自身が入れそうな穴も掘ってから逝ったことになる。
壽子さんは、ご子息の強い願いに沿い、家族だけの葬送を計画。その「遺影に」と写真を探したが、すべて当人が処分していたことを知った。
ご子息をこのような失い方をした母の心を、天を仰ぐ思いで察していると、壽子さんが2枚の紙片を取り出して来てくださった。それは「一筆啓上 大賞5遍」の紹介記事だった。そこには亡き愛息を思うこの母の心を綴った短文もあり、2紙が共にこの母が愛息におくった叫びを「見出し」に生かしていた。選考委員がこの一文を大賞の1つに選んだことはもとより、2紙が共にこの母の思いを見事に汲み取ったわけで、2紙に対して計り知れぬ敬意の念にかられた。
壽子さんは、「伝統的な造園業」は廃業やむなし、と考えたのだろう。だが、この課税の心配がなきに等しい(規制で守られた)土地を、いかに活かすべきかとの思案が始まったに違いに。そうと千野さんは見て取って、彼女に拙著を贈ってもらえたのだろう。訪ねた時はすでに、広大な土地には野草が逞しく芽を吹いて、茂っていた。
この5日後だった。門扉のチャイムが鳴り、手の離せない作業中だったが、駆け付けた。壽子さんが予告もなく、孫娘を連れての来訪で、以心伝心を感じた。
というのは、初対面の日に、彼女は2度も孫娘を話題にした。「なんで小学生の私が…」と、庭仕事を手伝いながら冗談を飛ばし、他に男手もあるのに「なんで女の子の私が…」とつないだというエピソードだった。だから私はとても会いたくなっていた。
だが、この日は引き取ってもらい、「必ずお2人で」と再訪を願い、約束した。後刻、妻に「お孫さんに、ひと目お会いしたかったのに」と叱られた。だから夜に、手土産の湯がき上げた見事な初タケノコの礼をかねて、電話で再訪の日程を決めた。
だが当日、壽子さんは一人で見えた。だから、つい愚痴った。午前中を庭掃除に当てたことや、久しぶりに妻がケーキを焼いたことだが、ならば「今から…」との反応を得た。即座に妻が「私もご一緒して」と願い出て、壽子さんの車で迎えに行った。
一人取り残された私は、どうしてこうも先進工業国のリーダーたちは、競うようにして国境線を閉め合い、国民を不安な心境に陥れ合っているのかと、新型コロナ騒ぎに想いを馳せはじめた。だが、すぐに「シマッタ」と思った。気付づいたことがあったからだ。
お孫さんは、壽子さんと縁続きのもう1人の女子中学生と2人で、共にコロナ騒ぎで中学校から自宅待機させられており、除草の最中、と聞いていたことだった。配慮不足を嘆いたが、ほどなく4人は戻ってきた。そして5人はそれぞれなりに、緊張した1時間余を過ごすことになった、ようだ。
若い2人は、妻が迎えに行った時は、抜いた草の山を作っている最中であり、その腰を私は折ったことになる。にもかかわらず、こころよく記念写真に納まってもらえた。
3人を見送った後、私はPCの人となったが、「そうであったのか」とまた気付かされたことがある。それは「3度目の終活を始めていたわけだ」との自覚であった。これがキッカケになって、何十年もの間、すっかり忘れ去っていたことまで思い出し、次から次ぎと腑に落ちることに結び付けていった。そしてついに「それにしても」と、苦笑した。
先の2度の終活は、いかにも青臭い、遠大な取り越し苦労が原因であったが、3度目の今は、なんとも現実的で、慌て者丸出しの終活ではないか、と思ったからだ。
それはともかく、2カ月続きでよき出会いに恵まれたものだ。先月は裕一郎さんとの出会いがあったが、今月もよき出会いに恵まれたものだ。千野さんと裕一郎さんに感謝。
終活
3人を見送った後で、苦笑しながらPCの人となったわけだが、腑に落ちることが多々続くことになる。まずそれは、PCデスクに常備している小物皿で、いつも見え隠れしていた1枚の写真(の一部を切り抜いたもの)の由来であった。「そうであったか」と腑に落ちた。だがそれは得心ではなく、むしろ疑問の始まりであった。
中学生になった私に、父は入学祝かのごとくに一頭のヤギを与え、それまでの20羽の養鶏に替えて、ヤギを飼うように命じた。その乳をたんぱく源に、と願ったわけだが、ヤギは子を産まないと乳を出さない。だから子ヤギが生まれたわけだが、オスは引き取り手がなく、捨てることになった。
そうと知った中学校の「生物」の先生が、子ヤギを教材に引取った。その後、解剖に供されたが、「森君は参加しなくてよい」と言ってもらえた。だから、子ヤギとの次の対面は、白くて透き通るような骨格だった。すぐに私は、この間で生じたことを承知した。私は小学4年からニワトリの絞め役を受け持たされ、中学に入ると解体もしていたからだ。
「この写真を…」と、手に取った。「なぜ捨てなかったのか」。やがて、その訳がおぼろげだが分かった。だが、それは新たな疑問を生じさせた。かつて、写真をすべて処分していたことがあり、それをありありと思い出させ、その訳を掘り下げようとしたからだ。
私が管理し始めた頃から高校生後半までの写真を、すべて裂き、燃やし去っていたことを思い出したわけだ。と同時に、この事実を、どうして今の今まで、こうもきれいさっぱり忘れ去っていたのか、と気になった。
そして、ついに「あれが人生最初の終活」であったわけだ、と気付かされている。だが、なぜそのような事態に追い込まれたのか、釈然としない。
この日は、夕食時の話題に写真を始末した事実からとりあげた。妻は即座に「気にかけて」いた、と反応した。幼児期の写真は(母の死後、荷物整理で見つけ出し)少しだが、ある。また、受験前後から社会人半ばまでの写真は、キチンと何冊ものアルバムで整理している。にもかかわらず、その間の写真がスッポリと欠落しており、その後の分はまったく整理していない。だから「どうして」と思っていた、という。
この時に、「そういえば」と、もう1つ別の終活があったことにも気づいた。だが、終活の話は一切話題には取り上げなかった。結婚する時に、世の中が本当に嫌になった時の「身の処し方」と、その時に「協力(ある買い物と準備を)してほしい」と、厳命かのごとくに依頼してあった手前、いまさら思い出させたくなかったからだ。
思うに、このころから、工業社会のありように疑問を感じ始めていたのだろう。商社時代は終始、「開発」という文字を含んだ部門に属し、誇らし気に感じていた。だが、やがて「開発」を「破壊」と読み直している。その兆候がすでに表れていたのだろう。
そのころからだと思う。わが家流の生ゴミ処理を誇るようになっている。このたびは新ウイルス騒ぎで在宅時間がとても多くなり、堆肥の山(生ゴミを放り込む)も丁寧に築くようになっている。また、長年手つかずであった壊れた電化製品を、「やっと分解できた」と悦に入っている。
妻は、燃えるごみと資源ごみに分別できる、と喜んだが、私はその前に、「カムだ」と機械の構造に触れ、得心し、高校時代の物理の授業を懐かしんでいる。
2度目の終活は、40歳代の終わり頃、バブル現象が現れ始めた1986年の半ばに入っていた。勤めていた会社で、いよいよ「パラダイムの転換が必要だ」との「建白書」を、社長室長として認(したた)めていた。だが、会社には受け入れる余地がまったくなし、と見てとった。さらに、ここが潮時と見るにいたることが生じた年の暮れに、その日のうちに辞任している。
その後、この建白書の想いを、国家の問題として捉え直し、キチンとした形で記しておきたくなった。だから、高校時代に国語で赤1をとった男が、著作活動に手を出したわけだが、「あの時も、終活のごとき境地に自分を追い込んでいたようだ」と振り返った。
この編集時でのエピソードを思い出したからだ。編集者の、上野武さんの口から飛び出し2つの言葉を、今も鮮明に記憶している。中程で「豚もおだてりゃ木にのぼる、ですね」と冷やかされ、これがとても励になった。そして終盤で、「森さん、死ぬ気じゃないでしょうね」と真顔で問いかけられ、ドキッとした。後日、1冊の本が届いた。それは上野さんが関わった一著で、あるジャーナリストの遺作だった。その人は、発刊後、その告発本と靴を橋のたもとに揃えて残し、入水自殺した、と聞いた。
この1度目と2度目との、間と、後に、一つずつ似た節目があったことも振り返った。それは最初の脱サラ時と、短大を辞めた時のことだが、「あれは終活ではなかった」と整理した。商社の時は「上司や仲間にわが想い(パラダイムシフト、第4時代へ移行する必要性)がどうしても伝わらず、己の(荒唐無稽な熱病にかられているのかもしれない)頭を冷やしながら、その是非のほどを掘り下げ、ライフワークにしよう、と考えている。
サラリーマンとしては有頂天の時期であっただけに、ここらで一度ご破算にして身の程を、「己の棚卸」を、と考えていたことも思い出した。
「だからだろう」、退職金でまず墓地を買っている。次いで井戸を掘り、その残りを遅ればせの新婚旅行に投じ、使いはたした。この時に妻は、購入予定の墓地を見にいった時に、「イザッ、と言う時は、ここでお会いできるのですね」と口走った。だから乗るか反るかの覚悟を、一応はしていたのだろう。
短大の時は「今ならまだ(取り組むべき力仕事に、しばらくは取り組めそう)間に合う」と、ライフワークの庭造りを、石を活かして仕上げたい、との心づもりもしていた。
ついに、「なんと」と苦笑するに至った。この3度目の終活は、私亡きあとの妻やハッピーへの備えが主であり、しかも、刻限が未だ見えておらず「厄介だなァー」と思われた。こうした思いを巡らせている。その間にも、庭の姿は刻々と変わった。
「思えば」心臓の持病発覚後の加齢対策は、すべて「終活」でもあったわけだ。
忘却と以心伝心
「それにしても」と思った。これまでどうして写真を焼却した事実を、まったく思い出せなかったのか。不思議だ。この事実から、およそ30年後に、著作活動に手を付けたわけだが、この時に「なぜ思い出していないのか」と、不思議だった。
上野さんに促され、この庭づくりの動機も振り返っている。著作の前提の前半と、結論の後半には大飛躍があり、上野さんの提案で、円滑につなぐために、中ほどにそれを挟み込んでいる。「ならば…」読み解いて下さる人がキットあると勧められ、真剣に取り組み、過去を振り返っている。だが、写真の焼却をまったく思い出していない。
その後も幾度か、思い出してしかるべき機会(生い立ちを振り返る作文や取材)に恵まれていながら、思い出していない。「なぜだ」と振り返っているうちに、フト思い出したことがある。それは、ずっと後年に生じたことだった。
50年に1度と聞いていた集中豪雨が、記憶がさめやらぬ間に2度目が、わが家の一帯を襲ったのが、そのときのことだった。早朝だったが、妻は、私を叩き起こしたあと「一過性健忘症」という刻々と現実を忘れ去ってしまう病にかかっている。
「バケツ」を持ってくるように頼むと、いつものように反応し、取り行く。だが、手ぶらで帰ってくる。妻は、「ハイ」と応えていながら、頼まれたことを覚えていない。
後で分かったことだが、先の集中豪雨の時は(私が出張中で)1人で立ち向かっており、その時の恐怖心が関わっていたようだ。この病気は、京都でいえば毎年50人ほどが罹っているようだが、まず再発や後遺症はない、と聞いた。妻もその後は、ケロッとしており、良き体験になった。ヒトのカラダとは実に上手くできているようだ。
何としても忘れ去りたいことや、カラダを守るうえで記憶しない方がよい場合のために、いわば健全な生命の維持装置であるかのごとくに「忘却装置」を備えているに違いない。
だから、そのころから私は「ボケたらダメだぞ」と妻に忠告し、「蹴っ飛ばすからな」と脅かすようになっている。というのは、アトピーなどが文明病であったように、「認知症」の多くも、いずれは生活習慣病であったことが分かるはず、と考えているからだ。
このような記憶などを振り返り、ふと現実に戻ると、庭では、ハナスオウが満開になり、私好みのボケがきれいに咲き誇っていた。
世間では新ウイルス問題でますますかまびすしくなっていた。これも生活習慣とは無関係ではないだろう、と私は見る。少なくとも、都市問題の1つであろう。だから、パンデミックも、100年に1度などと呑気には構えておれなくなるはず、と考え始めた。その矢先に、阿部ファミリーから手紙が届き、以心伝心を感じた。
おかげで、短大時代に学生に説いた『3匹目のネコ』も思い出した。パラダイムシフトへの備えや、文明病から逃れるコツなどとは説かなかった。だが、優しさや思いやりの中身が、定義が、いずれ変わるなどと訴えることで、説いたつもりになった思い出だ。
また、20年ほど前から想定した「2025問題」も振り返った。アイトワ塾で初めて紹介し始めたが、工業文明のいわばシステム崩壊の予測だ。近年、政府が「2025問題」という成句を用い始めが、その中身が「認知症」問題であっただけに、半ばビックリ。だが、もっと切羽詰まった大問題があるのに、と半ばガッカリ、余計に心配を始めている。
私は、食料問題、感染症と抗生物質の限界、あるいは植物の(炭酸ガス濃度急変への不適応)立ち枯れ、などを挙げていた。
そうこうしているとシタビラメの贈り物に恵まれて、ドキッとした。また妻に叱られるのではないか、との心配だった。だが、送り主へのお礼の電話で、前月の「自然計画」のその下りとは関係なく、以心伝心のごとき贈物と知って安堵。しかも、下ごしらえまで出来ていたので、妻(片手が不自由)は大感激。
その後、続けざまの偶然の一致だろうが、「以心伝心!」と喜ぶことが続くことになる。まず、午後のお茶を妻と庭で採った15日。側のカキの木で、初見のきれいな小鳥が小枝にとまった。その名を「調べよう」と語りあった翌朝のこと。三崎美夫さんが写真を届けて下さった。「なんと!」、前日観察した小鳥と同じで、コマドリと知った。
翌日、大きな荷が届いた。実は、この送り主に届けようと、既に数種かの苗を用意し、発送しようとしていた矢先だった。しかも、ある機器も添えられていた。礼の電話で、妻は左脚、私は右脚のマッサージで大助かり、と報告した。
さらに、柿の葉寿司が届いた。その夜は、妻はお澄ましの、翌昼食時はニュー麺の、それぞれ準備だけで済み、大喜び。今は私の親友で、妻が私淑する女性からだった。
こうしたことがキッカケで、ある1枚の写真に思い馳せた。まるで私のために撮ってもらえたような情景で、2月18日早朝の雪景色を紹介する新聞の記事だった。丁度この時刻に、わが家で迎えていた2人の来客が、庭を巡っていた。私は朝食の時間だと告げるために、寝所が空だったので、庭に出たばかりだった。だから、再来時に備え、このオリジナルのコピーを、と知範さんに取り寄せ(る注文をし)てもらった。
その人は、東海村の元村長で、原発反対論者だ。無記名投票だから当選した人、と私は見ており、この選挙制度だけでなく、東海村の有権者にもとても敬意を払っている。
2月の来訪は、講演旅行の帰途、学生時代の寮での相棒とわが家で落ち合わせ、同伴だった。だからだろうが、「これが…」とリュックの中に、私の処女作をしのばせてもらっており、相棒に紹介してもらえた。「ポスト消費社会の旗手たち」との副題を付けた一著で、パラダイムとライフスタイルの転換を提唱している。
改めて写真の力に(その是非などは、時と場合によるわけだが)思いを馳せる一カ月になった。以前の写真を一旦はすべて燃やし去った私は、以後は丁寧にアルバムで整理し始めている。にもかかわらず、やがて整理を止め、積どくだけ、になっている。
以心伝心のとどめは、月末まで続いた。新ウイルス問題がいよいよ騒がしくなり、「彼らは…」と気になる幾組かの夫婦があった。その1組には電話をかけ、1分もしないうちに再開の約束ができた。グリーンサムを尊ぶデイケア―センターを経営している石神夫妻だ。おかげで、迎えた日に、同じ想いに駆られていたことを知った。パラダイムシフトに備えた心構えを復習し合いながら、妻が用意した弁当を味わった。今が盛りの自慢のミツバとフキ、そして頂き物のタケノコを活かしていた。
最後は月末の、「あと15分で着く」との電話から始まった。あろうことか、自分自身が私より深刻な疾患者でありながら、ある品を届けてもらった中村夫妻だ。これも2月のことだった。高槻で行動を共にしたが、その折に紹介された食べ物があった。私は彼の健康を案じていたが、彼はその品のことを気にかけてわけだ。
人には思い出したいこともあれば、思い出せない方が具合がよいこともある。だが、昨今のテクノロジーはこれら諸々を、まさに機械的に記録して、即座によみがえらせる装置を作ってきた。公序良俗が深く大きく関わる大問題をはらんでいると思う。
この装置を、権力が操り、恣意的に用いたらどうなるのか。これこそが犯罪中の犯罪であると深く認識できるまで、私たちは「ヒト」から「人」になり切れないかもしれない。
世の中には、決して消してはならないコトやモノがあり、その典型例が時の公文書であろう。その記録は、時や場合などを超えて活かさなければいけない国民のではなく、人類の歴史的財産である。その罪を太平洋戦争時の戦争遂行者は犯し(記録を焼却し)、未だに末裔が国際的にいがみ合わされている。にもかかわらず、それと同等の罪を自国民を相手に堂々と犯し続け、権力をのうのうと振り回す人が野放しにされている。
国会での採決も、主権在民に近づけるために、無記名投票にしてはどうか。せめて罷免や弾劾の評決は無記名投票にしてはどうか。
マイウェイ
外出は2日の加藤壽子さん宅訪問と、5日のプチピアノライブの他は、2度の歯科医と、大型HCでの買い物、そして月末近くの心臓の定期検診で終わった。
要は、新ウイルス問題で新規のお誘いやお呼びに恵まれず、しかも気候不順が続き、マイウェイを決め込んだ。菜園での野良仕事だけでなく、次々と面倒そうで、懸案になっていた作業にも手を付けて、日常の充実感を味わうことになった。
まず3日に、「堀さんのエビネラン」の保護に取り掛かった。かつて顧問をしていた会社の今は亡き社長が、退任後に遊びに来てもらえるようになり、植え付けてもらった幾種かだ。残念ながら、坂地が選ばれたせいで養分が流れ去り、貧相になっていた。このままでは数年を待たずして消え去りかねない。さりとて植え替える気にはなれず、石を運んで「土留を!」と、なった。だが、用いる石がダンプで運んでもらった廃石で、傷だらけ故に、石組みの隙間から養分を流し去らせかねない。そこで、その隙間などを「セメントで…」となった次第。
翌日は、「方丈」の配水管の保護をテーマに選んだ。これも、雨が土を流し、配水管を露わにしかけていた。「ならば」と、かつて手作りしたコンクリート製6角柱の廃物利用を思いついた。妻が嫁いできたころにはあった池で、幼魚の逃げ場を作るために、その境に用いた手作りの6角柱だった。
となると「ついでに」と、もう1つの石工仕事(一輪車用の段差対策)も片づける気になり、嬉々とディスクグラインダーを取り出した。
配水管の保護は、やや大げさになった。新たに石を運び込み、小型マンホールの上には植木鉢を用意して載せるなど、こまごました作業にも勤しんだ。
これらの作業は、いずれもが腰かけて携わる時間が長そうだから、膝を傷めた身には「もってこい」と見たわけだ。そして、ほどなく、手を付けてヨカッタと思っている。側で、名も知らぬ小鳥が餌をついばみ始めたからだ。急ぎ内線で妻を呼んだ。妻が「稲穂があったでしょう」と思い付き、1本とってきてほぐして与えた。わが家では緊急用(根雪が生じた場合など、一時の弱った鳥のため)に、その餌も用意している。
「ならば」との気分に、またなって、ハッピーの鎖(の擦り切れかかった部品)の補修にも取り掛かかった。ところが、予想に反して、手間取った。見かねた妻が「お疲れさま」ではなく、「買った方が」と勧めた。この一言に、私はカチンときた。チョットしたトラブルになったが投げ出さず、「なにくそ」と作業を続けた。それがヨカッタ。あるヒラメキ、傘の補修部品の転用を思いつかせ、「銘々品」がまた1つ増えた。
この日、久保田さんから「どうされますか」と電話があった。翌日の、大原野神社の境内にあるソバ屋での昼食と、近辺の篤志家で開かれるミニライブに案内願う確認だった。
このライブは、10名が参加予定とのことだったが、4人がキャンセル。目に見えぬ細菌への恐怖心を思い知らされ、「はたして、こんなことで…」と考え込まされた。
政府のやりようは恐怖心を煽るやり方だ。思いやりも指針も感じとれないし、不十分な状況説明で、いたずらに恐怖心をあおっている。第一に、感染症問題になぜ経済再生相を矢面に当たせるのか、「軸足が、違うだろう」と叫びたい。
まるで大昔のドロボウのやり方だ
盗んだ小判をばらまきながら逃げたドロボウのごとしだ
それで
国民の目をごまかし
命脈を保とうとしている
それは
権力の持て遊びだ
未来に大いなる禍根と負担を残す
おしなべて、女性の首長が導く国は、上手く新ウイルス問題にも取り組んでいる。「そのわけは」と気になるが、軸足がトランプや日本と真っ逆さま、と気付かされた。とりわけ日本では、PCR検査で国が言動を一致させておらず、医療界を窮地に追いやっている。
なんとしても国民が心を1つにすべき課題なのに、逆に国民はバラバラにされ、ピリピリして、あらぬいさかいまで生じさせ兼ねない状況に追いやられている。本来は、世界が1つになって、人類共通の課題として取り組むべき案件だし、時だ。
それはともかく、ライブのこと。昨年も私は、久保田さんに誘われて、大原野でのライブに参加している。だからこのたびは、もう1つ新たに参加する目的を心に秘めていた。あのソバの味と、ライブの様子をもう一度に加え、前回大原野神社で目の当たりにしたモミの被害(巨木が台風19号で倒壊)の、その後を確かめること、だった。
まず、ソバでは「粗びき」を選んだが、すこぶる満足。その上に、久保田さんが馴染みであるおかげで「若たけ煮」を味合わせてもらえた。
その後、ライブまでに時間があったので、先に境内の奥に踏み込んだ。まず、「千眼桜」という銘木があったことを、丁度満開だったので、気付かされた。かつて大事な枝を失ったようだが、その代役をさせようとしている枝が、元気な新芽を吹いていた。
モミは、根おこしされた根と、破損部を残しており、次なる姿は見通せない。
だが、この神社では、モミを上回る巨木を、過去に失っており、その根元が大事に保存されており、「いいなぁ」と思った。
篤志家のお宅では、ご自身手作りのチェンバロとの再会も果たせたし、久保田さんの上達した新楽器の腕にも触れ、無事帰宅。新ウイルス騒ぎでチョット緊張ぎみの道中だったが、ハッピーの姿に癒されている。
翌6日も快晴だったが、のんどりかまえてはおれない、と思った。5月並みの陽気が混じるようになっていながら、ナツメが芽吹いていなかったからだ。
だが、これと似た心配を昨年は10月にも抱いており、それがこのたびの2種のエンドウ豆での成功に結び付けた、ということを振り返り、思い立ったことがある。
だから10日に、ナス、キュウリ、ゴーヤ、そして2種のトマトの各2本、計10本の苗を例年より早く買い求め、植え付け、霜よけのカバーを被せた。その上に、トウガラシ用の一畝を知範さんにおこしてもらい、さらに温室では、インゲンマメとスーヨー(四葉)キュウリのポット苗各10本の準備をした。
その後、野小屋の屋根の補修も仕上げた。割れ瓦もコーキング剤の残りで補修した。共にみっともない仕上がりだが、役目はキチンと果たすだろう。
私は、何らの形であれ「世界で唯一無二」のモノ、コト、あるいはトキが好きだ。だからハッピーに絡まれながら、水槽の水換えにも手を出すことになった。
だが、夕食時に「水槽での飼育は、いずれ(これら飼育に馴染ませてしまった生きものの命がつきた時に)やめる」と、妻に告げた。妻一人になれば手が回りかねるだろう。それでなくとも、余計な仕事がドンドンこれから増えかねない。
新ウイルス騒動は、自然のしっぺ返しと私は思っており、ハリケーンや集注豪雨などと同様に、自然破壊が頻発させかねなくなる、と見る。だから、ドンドン余計な仕事が増えてストレスをためかねない。極力その原因は減らすようにしたい。
心を癒し、免疫力を高めるために、と始めたことが、逆にストレスを溜めさせかねない、ではたまったものではない。このようにして上旬最後の日を迎えた。
記念すべき日
10日は、知範さんと遠方の大型HCまで買いものに出かける日だったが、記念すべき日になった。知範さんが家庭菜園を始めることになったので、農具を買い求める必要があった。わが家も、さまざまな補修や修繕に要する資材や部品などが切れていた。
帰宅後、2人は畑仕事に取り組んだ。知範さんに一畝耕してもらっている間に、私は夏野菜の苗の植え付けに当たり、あることを伝授する教材にした。
品種ごとの畝の高さや苗を植え付けるコツなど。有機肥料の配合や投入の仕方。クズの野菜や生草、あるいはもみ殻などをマルチング材として、いかに活かせばよいのかなど。あるいは霜よけの仕方。こうした実例を見てもらった上で、農作業に取り組むべき根本姿勢や気概の在り方を、自分なりに身に着けてもらう記念日にした。
農法は「奪う農法」もあれば、「慈しむ農法」もある
いずれに意義を見出すか、自問すべきだ
水や空気を汚し、土壌や地味を痩せさせ、廃棄物を増やす「奪う農法」もあれば
野生動物に生き場を与え、未来世代に歓迎される「慈しむ農法」もある
生産者の立場であれ、消費者の立場であれ、覚悟して選択したい
人生の分かれ目になるだろう
新型コロナウイルスは、この選択も迫っていた
と
やがて思い知らされる日が来る
こうしたことを気にしながら、知範さんには野良仕事を始めてほしたかった。つい老婆心を露わにしてしまった。
過度に自然破壊された地球は、ハリケーンなどを頻発させたり、バッタを異常発生させたり、新手のウイルスに暴れさせたりするなどして、異常気象や気候変動を抑制する策をこうじている、と見るべきではないか。
2025年破綻説を唱えて来た私だが、その根本要因に食料問題を数えており、その原因に地球の反撃まで数えていた。集異常気象が生じさせる集中豪雨、旱魃、あるいは竜巻など。だからこのたびのバッタやウイルスをとても不気味に見つめている。つまり、異常気象や気候変動に、ヒトが食料問題として打撃を受ける前に、野生生物が先に反応し始めたことになるのではないか。
「奪う農法」は、「人」の心を破壊して、「ヒト」にしかねない
近視眼にして、孤独化を進め、五感派にする
しかも、「イノシシ」や「シカ」なみの本来の「ヒト」にも戻させない
自然への畏敬の念を忘れさせ
「ヒト」の直感や予感の力を取り戻させず
ブレーキの利かないアクセルだけの「ヒト」にする
だから
パラダイムを替えずに打ち出す手は
問題をより複雑にして先送りさせる
それが文明の宿命だった
と
やがてわかる日が来る
当月は、20日も記念日になった。それは雨で明けた18日から始まった。知範さんをPC作業で迎える日だったが、独り身の裕一郎さんが利き腕を(要手術の)負傷をし、入院待ち、と知ることから始まった。すかさず妻が、「お食事は」と心配し、「わが家で…」と提案した。左手を負傷していた妻は、台所仕事の不自由さが身に染みていたのだろう。
快晴の翌日、知範さんから「明日は、予定通りに2人で」訪れる。「片手で取り組める作業の心積もりを」との知らせがあった。
そして当日、妻の通院中に2人は到着。まず裕一郎さんの逗留が決まった。次いで、妻はギブスを外して帰宅し、無罪(通院)放免の日になった。その後、知範さんとは私は庭仕事に取り掛かったが、裕一郎さんが初めて、妻の希望に沿った作業に取り掛かった日になった。
翌日、裕一郎さんを歓迎するがごとくにケシが、1輪だが咲き始め、ミツバチの群れが飛来して群舞。これを一緒に観察した。かくしてミツバチが棲み始めた。
当月は他に、庭の野草で、3つの忘れ難い思い出ができた。まず、オドリコソウが復活しそうだ。昨年、予期せぬところで芽生えていた1本が、今年は小さいながら確かな群れになった。定着すれば、ヒメオドリコソウと共に庭を彩ることになる。
アケビは自家受粉が苦手なので、その対策として打った手が2重の楽しみを用意した。昨年、銅葉の(勝手なところで自生した)アケビを移住したわけだが、期待通りの花を結んだ。葉の形も独特だが、花の色合いっが魅力的。片や、その側で茂る40年来の自生のアケビも、白い花をつけ、実も白いのをつけ独特だ。この2種の交配が近く期待される庭宇宙だ。
春の実感と異常気象?
この冬は、ついに2度の薄雪で終わり、薄氷しか張らせなかった。エゾヤマツツジに27年来の早咲きを促し、モミジが「こんなところ」にまで、と異常な発芽をさせた。これらは、1993年のようなことになりやしないか、と心配し、それなりの手を打たなければならない、と教えているのではないか。
クサノオウの発芽も、嬉しいようで不気味だった。かつては2か所で群生するまでになっていたが、忽然と消え去り、すっかり忘れていた。今頃になって、1本だが、ポツンと発芽し、花を付けた。
「ナツメはいつ芽を出すのか」と、降霜を心配しながら過ごした上旬だが、山菜を主に春を満喫している間に下旬を迎えた。ニラ粥、サンショの花の佃煮、山菜の天ぷら、ナバナ漬け、あるいは「美味しいオムレツ」と思ったらレタスの花が活かされていた。とりわけ、エンドウマメの背丈も抑えざるをえない農法に切り替えた関係で、トウミョウで様々な総菜が登場し始めた。
未明の春雷で目覚めたのは13日。昼にこの庭では初見の蝶を見た。チョッと突くと飛び立ったので蝶と確認し、なぜかホッとした。
翌日は昼に、ヒメリンゴがほころびていたことに気付き、「ナツメは」と、確かめると芽吹いていた。「もう霜の心配はない」と安堵。途端に気ぜわしい気分にされ、一畝仕立て直し、急ぎトウガラシの苗を義妹に頼み、買って来てもらうことにした。
そして午後に、初見の小鳥を見てビックリ。電話で、2㎞程離れたところで撮ったコマドリの姿であったと知り、「なんと!」と感動した次第。
年に2度、とても忙しい時期がある。その1つが夏野菜の準備が急がれる4月の中旬だ。だから弓削島のランを温室で眺めながら「残念だなぁ」と思った。
この2週間ほどは、人生の指針にしてもらいたいことを、最も感じてもらいやすい好機だが、仏教大生は、大学に学外活動を禁じられており、早くても6月まで迎えることができない。未来さんは、結婚の準備から、夫婦で立ち上げた新会社のことなどで、当分多忙だろう。「残念だなあ」と思いながら、ベンジャミンゴムの鉢を所定の位置にデヴューさせることから手を付け、喫茶店を春の装いに切り替え始めた。
手に負傷した妻は、ベトナムの旅が縁の手袋に改めて感謝しながら、除草作業にも勤しめるようになった。だが、臨時閉店や休講もやむなし、に追い込まれた。だから、「方丈」や「恵方屋台」の雑巾がけにも取り組み始めた。
そこで、私はペンキ仕事を思い立った。「方丈」」を始め4つの対象物が塗装を求めており、3種の塗料に出番を与えた。
道標の傷みようは異常で、コーキングと防腐剤も必要となり、2日がかりになったが、おかげでアリに巣喰われていたセイだと分かった。木製鉢には防腐剤を塗ったが、乾くのを待って、後日ホウキグサの苗も植え終えた。
快晴の16日は、妻と2人で懸案中の懸案であったオオガハスの手入れに取り掛かった。キンギョの移住や水抜きから手を付け、新旧の蓮根を取り出し、新しい分を植え直し、肥料を与え、泥を被せ、「少し土の表面を干す」ことにした。
「ボツボツ」と、泥の乾き具合をテラスまで確かめに行くと、「なんと!」妻がよき手を打っていた。おかげで、水を濁らせずに張り直せ、避難させていたキンギョを無事に戻せた。これが後日、5つの懸案に次々と取り組む元気をくれた。
その1つは、ある失敗をしていたことに気付かされており、特に有意義であった。アスパラガスをあきらめて、その畑に果樹を植えたが、その時点では気付いていなかったことだ。このたび、さまざまな苗を送ってもらえたが、そのうちのアーティチョークなど4種を育てる場に選び、植え付け、その過程で知るところとなった。
肝心のアスパラガスが絶やされ、ササ、ドクダミ、あるいはヤブガラシなど根茎植物を繁殖させ、占領されかねない農法であったことを知り、肝に銘じた。
かくして3ツの記念日になった20日を迎えたわけだが、知範さんには初めて腐葉土小屋開きに初挑戦してもらえた。これは、一輪車で昨年度の腐葉土を畑に運び込み、畝に載せてゆくとても大事な畑仕事だ。この間に、裕一郎さんは妻が要望の建具の拭き掃除にあたってもらったわけだが、2人がそれぞれ個別の作業を見事にこなした日、にもなった。
翌日も、裕一郎さんは妻の要望に沿って、苔庭で芽吹いたモミジの若苗抜きに取り組んでおり、千本余を片づけた。
午後から雨と知った25日(裕一郎さんは入院して不在)、妻と2人で、囲炉裏場で大焚き火に挑戦した。私が剪定クズを(薪にする太い分と、燃やす分に)さばいて行き、妻が燃やす役を連携して受け持つやり方だが、わずか1時間ですべてを灰にした。
新ウイルスと異常気象が気がかりだった1カ月であったが、新ウイルスのオカゲだろうか、28日に嬉しいことがあった。エネカン通信で、知範さんが紹介された記事に触れた。例の曼陀羅が好評だという。入会を勧めてヨカッタ、と思った。
エネカン通信抜粋
異常気象といえば、「これも」と、ゾッとすることを月末に、妻が見つけた。この庭での古木の1本、白梅の木が、ビッシリとアブラムシに取り付かれていた。
即刻、大々的な剪定作業を、2枚のブルーシートを活かし、妻と連携プレイで施した。次々と私が枝や幹を切り取り、ブルーシートの上に載せてゆく。頃合いを見て、妻が包み込んで囲炉裏場に運ぶ。息も切らさぬ手早い作業ができたのは、長勝鋸の威力のおかげだ。その切れ味を実感したくて「私にも」と、妻は要望し、得心していた。
残った太い幹は、エンンジンソーで手入れをしたが、「これで枯れるようなら、縁がなかったもの」と、サッパリした気分で眺めるまでに2時間とかからなかった。私が1人で取り組んでいたら、2日がかりになっていたと思う。あるいは、そうなると思って、手を出せていなかったかもしれない。つくづく、妻の助成パワーに感心した。
囲炉裏場では、切り取った枝をブルーシーで包めるようにしていたが、包んで、殺虫剤を投入し、アブラムシを退治した。そして「それにしても」と思った。
この異常発生は、自然破壊や異常気象のセイではないか。新ウイルス問題と同じではないか、との思いを馳せ、「もしそうなら」と、その皮肉に苦笑させられた。
アブラムシの異常発生に気付き、即座に判断し、決断を下し、思い切った手を打たわけだが、その発生原因だけでなく、大胆な手を速やかに打てたのも新ウイルス問題が関わっていたわけだ、と思われたからだ。新ウイルス問題のオカゲか、セイで、妻と私が手を携えて、心を1つにして、即座に、心置きなく取り組めたのだから、と。
当月の、最後の「安堵の一息」は、もう1本の、この庭での古木(社会人になるまで住んでいた家から移植した))を見上げながら、吸い込んでいる。そして「世の中は変わる」「世界は変わる」と考えた。若者の多くは、すでにポスト消費社会型意識に転換しているが、新ウイルス問題のオカゲか、セイで、社会全体が、世界が、ポスト消費時代に踏み出すに違いない、と読んだ。
この新ウイルス問題を「第3次世界大戦」と見る向きがあるが、私は違う。第2次は武力戦争だったが、第3次は経済戦争と見ていた。その敗北に追い込まれる前に、ポスト消費社会の旗手になっておこう、そして世界を導こう、と呼びかけた。その勝利を手にするうえで、わが国は最短距離にある、と訴えた。30年余昔に想いを馳せた。