「一筆啓上」賞と「以心伝心」を喜んだ先月でしたが、当月も多々学び、感じるものがありました。上旬は、歯の定期点検に始まり、ヒカリ回線の不具合で終わりましたが、予期せぬ贈物や交信、あるいは嬉しい来訪に恵まれ、延命意欲にも目覚めたのです。
夕と翌昼の2回に分けて楽しむことになった鍋物セット。「これぞ正に以心伝心」と思ったストッパー。そして、心打たれたマスクなど、贈物が続きました。さらに、乙佳さんは親方同伴で、祐斎さんは十兵衛同伴で来訪。次いで商社時代の親友の電話に刺激され、網田さん、岡田さん、高安先生、後藤さんなどと電話でご機嫌伺い。その上に知範さんには、10年後には常設の杖として役立つモミジの移植を頼んだのです。
この間に、畑ではケシが花盛りに。冬野菜を、採種分と小鳥の取り分で仕分け。食卓では、ウコギ飯やエジプトエンドウの赤飯が色を添えました。そして、温室の水やりと淡水魚の餌やりが朝夕の2回になり、夏野菜の準備と除草が本格化。また、割れた鉢を活かしたジャスミンの保護と、風除室の割れたガラスの仮処置を済ませています。
中旬は、ある先生の来訪と、旧わらび道での大剪定に始まり、夏野菜の支柱立てで終わりました。その間に、2度雨らしい雨に恵まれ、大喜び。未来さんを2度迎え、長中短3種の懸案事項を片づけ、知範さんも2度迎え、1度目はビオトープの作業を始末した後、後藤さん迎えてPC作業と歓談。2度目は、2歳になった息子同伴で、独自に彼が取り組み始めた菜園の土壌改良用の腐葉土取り。この後、3度目のマスクの贈り物に恵まれています。
庭は春爛漫に。新聞では時を得た「一筆啓上」に感心し、異例の「国を思う叱責」に感動。その後、裕一郎さんが退院して逗留再開。商社時代の親友、ついで高安先生が来訪。さらに、テラスを幾度にもわたり楽しい憩いの一時に活かし、ゲストルームは、岡田さんを迎え、8時間にわたる歓談に活用できました。そして雨の日は、接着剤を用いる懸案の2種の補修と小さな道具つくりに活かす、などと続きました。
畑では、夏野菜の準備に半ば目処が立ち、4つの支柱が立ち、グンと夏の様相に。しかし、またぞろシカの仕業のような食害が始まり、被害は広がるばかり。にもかかわらず糞が見当たらず、「サルの仕業?」などと、余計な心配が。そこで、裕一郎さんが乗りだし、4台の獣害対策カメラを活かし、一晩でメスジカの仕業と特定しました。
下旬は、「インスタバエの意味」を実感して仰天、裕一郎さんが3日間のリハビリで大阪へ、そしてアベノマスクが到着、で始まり、月末の降ってわいたような心配ごとで終わりました。この間に、未来さんを迎えて大焚き火。喫茶店再開に備えて花車の車軸止め作り。タマネギの初収穫。モロッコマメの苗の植え付けと一畝仕立て直し。そして月曜日の朝、裕一郎さんが帰宅。未来さんの新居訪問を兼ねて加藤壽子さんを再訪。
翌火曜日以降も、日々トピックスに恵まれました。インスタグラムのおかげでNZや中国が身近に。シカ対策で灰の活用。屋根のトラブルのおかげで10年ぶりの3人が再会。裕一郎さんは再び月末までリハビリへ。その後、久保田さんに誘われて若冲展。水島さんを迎えて2つの仕事を依頼。乙佳さんたちと祐斎さんを訪ね、そのコロナ対策に感心など。
庭仕事は、南面の生け垣の剪定に未来さんと着手。野草対策では妻の助成も得て大奮闘。そして月末、2つの予期せぬトピックスが生じました。昼は出先での感激。夕刻に妻がハッピーと散歩中に2度目の転倒し、生い先に自信喪失という心配ごとが発生です。
~経過詳細~
インスタ映え
当月のハイライトは、21日に、裕一郎さんのオカゲでインスタ映えの意味を実感し、仰天したこと。それまでは「デジカメでの写真映りがよい」程度の意味だろう、で過ごしていたが、「試しに」と、裕一郎さんが数枚の写真と10ばかりの文字を載せると、その最中に「いいね」をくれる人があり、「これ、どういうこと」とビックリ仰天。
この数時間後に、裕一郎さんはリハビリのために大阪の病院へ移動し、25日の10時にリハビリを終えて帰宅。この3日余の間に、NZから「ハイライトという表現」を伴ったコメントをもらっていたことを教えられ、2度目の仰天。妻は「キット、あの方たちヨ」と過去を振り返り、裕一郎さんに思い出を語った。
彼は、すでに数人のフォロワーに恵まれたことや、「ハッシュタグ(#)」という専門用語があり、その意味も教えてくれた。おかげで、NZだけでなく中国など、世界がより身近になり、地球がより小さく感じられるようになった。
実は、彼が留守をしていた間に、アイトワでも目まぐるしい展開があった。まず未来さんと大焚き火をしたが、この様子を「動画に収めたい」と大張り切り。そこで、未来さんに「インスタグラムに載せては」と、提案していた。
次に、知友がメールで、共通の知人の近況を知らせてくれた。大手廃物回収企業の社長は、コロナ問題で、いつになく大量の古着や古布が集まり、機能がパンク寸前、とのこと。おそらく、在宅を余儀なくされた人々が「この機に」と、屋内整頓などに努めたのだろう。「いよいよ」と、私は「わが意を得たり」の心境に。コロナ問題が「ポスト消費社会」に移行するキッカケにも、との印象を得たわけだ。
同時に、このコロナ騒ぎを稀有な好機到来と見て、どれだけ多くの行政関係者や企業家が、国や事業の立て直しに活かしてくれることやら、と気になった。もちろん私は、この好機をいかに生かすべきか、その私案づくりに取り組まなくては、と腰をあげた。
これと併せてアイトワのインスタグラムの位置づけも、と思案し始めた。結果、その位置づけは、裕一郎さんが、私たち夫婦と生活を共にしながら「アイトワについて、世の中に紹介すべきこと」と判断し、それが「世の中のためになりそうなら」「よろしくお願いします」と話し合った。要は、裕一郎さんにとって、目新しいことだらけの様子だったので、私はインスタ映えすると思った写真の候補と、選んだ訳をリストアップし、後は彼に任すことになった。こうした気分にされた訳は、まず、壽子さんの一言を思い出したからだ。それは、「なんでアイトワを、もっと早く」知りえていなかったのか、だった。
加えて、裕一郎さんとさまざまなことを語り合ったが、彼はアーミシュについてとても興味を示したこと。アーミシュは、このたびのコロナ騒ぎでも(1929年の金融大恐慌の時に、なんらの影響を受けなかったように)少しも動揺していないだろう、私たちとは異なる視点から眺めているだろう、との私の意見に感心したこと。
だから、裕一郎さんに任せたくなった。もちろん、インスタグラムについて私の理解が進み、私自身が載せたくなった場合は、私の署名入りで載せさせてもらう。
この日は午後に、未来さんに車で迎えてもらい、新居を訪ね、その足で、壽子さんを訪ねることになっていた。そこで裕一郎さんを誘うと「いいんですか」と、同行。
まず新夫婦・和樹&未来の新居兼(創業)事務所は、明るくて、コンパクトで、清潔。そして、生きる姿勢がしのばれて「さすが!」と思った。その象徴は、デンマーク製の多目的テーブルに見た。ツータッチ(2度にわたる3秒ほどの操作)で面積が2倍になる。
約束通りに壽子さんを訪ねると、彼女は前庭の手入れをしながら待ってくださっていた。知範さんが参加できなくなったのは残念だったが、和樹さんが参加できた。
まず敷地を案内願ったが、例の「大きな穴」まで歩んだところで「さすがは壽子さん」と感心。既に頭の中に青写真は出来ているようだ。前回は、大きな穴の側に太い丸太の山があったが、既に敷地の北面に移動させ、かなりの土が動かされていた。その丸太の太さや量を再認識し、母を残して死ぬ覚悟をした末期がんの愛息が、いかなる思いで巨木の始末に当たったのか、と改めて想いを巡らせた。
屋内に移動し、2か所での話し合いも弾んだ。座敷では、壽子さんと3人の若者の会話にも弾みがついた。この間に、ご愛息の祭壇で、再び新たな気持ちで焼香させてもらい、遺影を見つめ直した。愛する母のこうした動きや想いを、天上からいかにお眺めか、さらにこの人が健在なら、このコロナ騒ぎどのように捉え、どのようにお過ごしか、と考えてしまった。
3時間ちかく滞在したが、つうづくお訪ねしてヨカッタ、と思うことが次々と続いた。まずそれは「一筆啓上賞」について、新たに知り得ることがあった。
次いで、アイトワでは、この2日後の27日10時から喫茶店を再開。最初の来店客は昼前のことで、「井上さんがゲストルームで…」と呼び出された。この人も、庭木の育成と販売に携わってきた家系だが、廃業同然。改まった雰囲気で、今後の身の振り方を聞かせてもらった。庭や庭木の位置づけが、私が見ていた方向で、既に変わっていたわけだ。井上さんは時々、茶飲み友達に私を選んでくれそうだ。
ゲストルームではアイトワ流生け花(薹を立てたレタスと種を付けたアイトワ菜)が来店客を待っていたが、この日は井上さんにしか見てもらえなかったようだ。
翌日は、当月の大団円の始まりになった。かねてから乙佳さんに母屋の屋根の補修を頼んであったが、この日やっと、2人の屋根職人(瓦と板金)を伴って下見に来訪。「なんと!」その瓦職人の光本親方は顔見知りだった。
同志社大学の大学院で、学び直しの学生だった。私は講師で、乙佳さんに助手を引き受けてもらい、10年ほど前の半年間の学舎の仲だった。
おかげで自ずと話が弾み、降ってわいたようなアポイントが「月末に…」新たにできた。実は、乙佳さん夫妻とは2日後の30日に、別件のアポイントがあった。そこで、その翌日に、となった次第。それは、光本親方が「あれがキッカケで」と、新たに始めた「生き方」をのぞかせてもらう約束だった。これは、乙佳さんの一言がキッカケだった。
このたびのコロナ騒ぎを体験し、「つくづく移住しておいてヨカッタ」との一言に対して、「私も…」と光本親方はつないだ。講義とアイトワ見学がキッカケになり、新たな「生き方」を語り始めてもらえてからだ。
乙佳さんは、夫である大北親方と計らって京都市北区の氷室に、古民家と3000坪の土地を得て移住。その一角に仕事場にする大きなバーンを建て、大工仕事に携わっている。冬は雪に閉じ込められることもあるようだが、それだけに多々学びもあった様子。
光本親方も、「誰がこんな土地を…」と言われていた急斜面を手に入れ、活かし始めている、という。桜の大木があり、「切らないでほしい」と近隣に頼まれ、その活かし方も考えた。乙佳さんも大いに興味を惹かれ「今度の日曜日に…」となった。
この前日の土曜日は、ある設計士にも同伴してもらい、乙佳さん夫妻と奥田祐斎さんの染織工房兼お宅を訪ねることになっていた。
祐斎さんのお宅は歴史的(川端康成が逗留し、一書『山の音』を成してもいる)建造物だから、とりわけ親方に喜んでもらえた。私は大北親方の博識(特に木材の価値、廊下は松の木で「これほど長くて節無しの…」や、その活かし方など)のおかげで、この建造物の何たるか。あるいは建設当時と、改装時の隙間風を防ぐ工夫の丸窓など祐斎さんのアイデアとの調和)を再認識した。
「流木」を活かした茶室は、まさに数寄ものだ。掛け軸は祐斎作で、その漢字遊びは一書になり、世に紹介されていた。
祐斎さんが言う「コロナ対策」にも感心させられた。「こんな時だからこそ」と、ショールームを臨時研究室として活かし、人毛、真珠、乾燥したバラの花などを用いた新商品の開発に当たっていた。
月末は、大成クンと一緒に軽4輪で迎えられ、光本親方が活かし始めた土地とその活かし方の見学となった。「切らないでほしい」と近隣に頼まれた桜の大木の下は、敷地の上手だが、井戸をうがち、趣味の錦鯉とランチュウの養魚場に活かされていた。
「誰がこんな土地を…」と言われた下手の急斜面は、相当の土を動かして菜園にしていたが、養魚からでる滋養に富んだ排水を活かす見事な設計に感心。
さらに、同じ地域にあった仕事場まで車で移動。廃棄されかけていた大きな納屋をもらい、近隣住人にも集会所として生かしてもらえるよう、と移築した。その一角で、乙佳さんに用意願った昼食(妻も同じ弁当をもらった)をとりながら歓談。
光本親方は、私生活だけでなく、「外仕事」故に、と本業も「コロナ問題には (マスク着用以外は) おかまいなしに大忙し」とのことだった。
大学院での私の講座名は「経営哲学」であったが、望ましき「企業」と未来志向の個々人(消費者)が織りなす望ましき社会の在り方、ポスト工業社会が許容する「次の生き方」の創出を訴えた。もちろん、早く気付いて先に踏み出すか、ぐずぐずしていて、追い立てられて踏み出すか、の選択になるだろう、と予言していた。
裕一郎さんは、こうした私の想いを、生活を共にしながら感じ取り、インスタグラムの機能を活かしたくなったようだ。
楽しい憩いの一時
コロナのおかげと言えば、なんといっても、楽しい憩いの機会に多々恵まれたことだ。それは、未来さん(当月はこの後、数度にわたって新居から車で訪れ、庭仕事に大奮闘してもらった)との触れ合いと、十兵衛を伴った祐斎さんとの歓談に始まった。
昼食を妻と、しかも庭で一緒にとる機会は、久しぶりだ。義妹も幾度か仲間になってくれたが、30年来初めてのことだ。未来さんを交えた妻と3人での昼食も初めてで、しかも場を変えて2度も恵まれた。
来客との優雅な歓談の時間も設けられた。まず高安先生に始まり、岡田さんに至っては8時間にもわたりゲストルームを占拠できた。ありがたい手土産が話題の種になったし、第2回目の映画会を催す約束もした。
商社時代の仲間が、大阪と奈良からそれぞれマスクもつけず、示し合わせて訪ねてくれた。この2人は阪急電車内でも会話に熱中したようで、「誰にも」注意も嫌な顔もされなかった、との由。
これ幸いにと、知範さんと裕一郎さんに、高度経済成長時代の日本の鼻息や、その位置づけなどを感じてもらう機会にした。土橋は業務部で、間接的だが瀬島龍三と面談する機会をくれた。高橋は病気で倒れ、専務で終わったが、私は「ポスト消費型社会」到来を読んでいたので、文明の転換に貢献できる商社を夢見ており、彼が社長になることを期待していた。だから、アベノマスクごとき些末なことに大商社が関わっていてよいのか、などは持ち出さなかった。
ちなみに、この若者2人は、電車内でマスクなしで会話に興じ、嫌な顔や、捨て台詞を浴びせて下車する人がいたという。これは感受性の違いの(ロートルは気づけなかっただけの)問題かもしれない。
いつも電気工事で世話になっている中尾さんが、ある工事に孫連れで来てもらえた。これ幸いにと、たっぷりテラスでの歓談に時間を割いた。
1人でコツコツ取り組む補修作業にも、アイトワ流のやり方で取り組めた。まず、風除室の割れたガラスを妻が応急処置したが、ガラス業者に頼む前の仮補修に代えた。いつも、仕事がそこそこまとまった時に業者に頼むことにしている。
ヘップサンダルの補修にも、さまざまな道具を要したが、当たった。もちろん新品を買う方が安く着くが、「この時に」とばかりに取り組んだ。それは他にも、合成接着剤の出番を待つ新旧2つの作業が合ったからだし、第一にゴミを出さずに済んだ。
新旧の新は、妻の掃除道具つくり。ガラスの仮補修で用いた硬質プラスチック板の端くれを活かし、敷居の溝掃除道具を作った。旧の方は、トルコ土産として買ってきた小物の補修だった。
ジャスミンの根を、妻がセンニンソウの根と見間違って引き抜きかけて、浮かせてしまった。そこで、欠け平鉢を廃物利用し、守ることもできた。
思わぬ時間を要したのは「花車」の車軸止め具を、2つともに、新品に改める作業だった。これで、長年月にわたって使用可能になったはずだ。
妻は、人形教教室が休講なので、かつての生徒さんの「人形集」を完成させただけでなく、自分の新作の撮影やサンショ摘みに裕一郎さんを巻き込み、優雅な時の流れを楽しんでいた。また、食事の用意では、私が長年願ってきた「べっこう寿司」や、一工夫加えた稲荷寿司などにも挑戦した。
裕一郎さんは、これもリハビリの一助と言って、シカよけカバーの脱着やシカの侵入口探しなどに積極的に取り組んだ。
不具合や心配ごと
歯の定期点検で始まった当月だが、その後、キンギョの病気発見、フナやドジョウの健在確認、ロウバイの異変(異常なまでに種を付けた)、久しぶりにミジンコ(?)の発生、あるいはクサノオウの何年振りかの芽生えに立ち合えた。
また、トノサマガエルの黒変など、他の生きものにもさまざまな要配慮事態が生じているのでは、と心配になった。さらにヒカリ回線に不具合が生じて、修理を要したが、国の「竹に木を継ぐ」かのような弱点に思い知らされるところとなった。
庭は春真っ盛り、畑もしばしの花園の感を抱かせる時期だけに、庭仕事には浮き浮きするような心で励む日が続いた。だが、下旬にはシオカラトンボを22日に見るなど、早や夏日のごとき日々になった。
ケシは、2年続きで失敗を犯し、赤い花のグラディエイションになってしまい、妻はブツブツ。真っ白や、異なる色合いのケシを大事に思って種を採りながら、2年続けてまくのを忘れ、ついにこのありさま。でも、この自生種との交配から生じた花々を私好みにしたい。
クサノオウが何年振りかで芽生え、花を3つ付けた。10年ほど以前は、庭の2か所で群生に近い茂り方をしていたが、いつしか消えてしまい、心配していた。
黒いトノサマガエルが水槽に棲みつき、ウロチョロするようになった。久方ぶりにキンギョに病気が発生したので、この治療と、水鉢の養生に取り掛かったが、治療は我流だけに、功を奏してほしい。
温室の水槽で、フナ、ドジョウ、そしてゴリが健在だった。各1匹を棲まわせて、餌を一切やらずに冬を越させた。ゴリはチョット小さ目、フナは間違いなく痩せて小さい。だがドジョウはまるまると太って大きく、この訳は分からない。タニシは増えた形跡なし。
ロウバイが、異常なまでの種を初めて付けた。先月、ウメに異様なまでにアブラムシがわいたが、これらが他の異変の兆しでないことを願った。
久しぶりにミジンコ(?)がわが家で発生し、この偶然を喜んだ。と言うのは、光本親方を訪ねた折に、キンギョの生餌が話題になり、乾燥したフライングシュリンプの卵が売られていることを知った。海水に浸せば息を吹き返し孵化するという。その折に、大成君にミジンコのことを話したが、帰宅時にこの発生を知った。だから、送り届けてくれた「大ちゃん」に「これだョ」と教えることができたのだから。
それにしても、ミジンコはこれまで、何処でどうして生き延びていたのか不思議だ。フライングシュリンプの卵と似たような仮眠状態に入り、命をつないでいたのだろうか。
不思議といえば、不安の感を抱かされるほどの不思議なことを国の体制にも感じた。それは光回線に異常が生じ、どこかで切れていた。原因は、空中に張った配線にあったが、どこで切れていたのか特定できなかった。カラスのイタズラでさえ、いとも簡単に切断するようだ。腐食にはメッポウ強いが、衝撃にはメッポウ弱い光回線を、地下埋設を進めぬままに、空中配線を広めているのだろうか。
国を思う叱責
時を得た「一筆啓上」にも感心する一カ月になった。それは、「もうこれ以上、保身のために都合よく法律も政治もねじ曲げないでください。この国を壊さないでください」との井浦新の要請文で、多くの賛同者が続いた。
さらに、元検事総長ら検察のOBら有志が「検察幹部の定年延長問題」を「政治介入」と位置付け、反対意見書を検察庁に提出したことを知った。しかも、最後が「心ある国民すべてが改正案に断固反対の声をあげて、阻止する行動に出ることを期待してやまない」と締めくくられていたので、「これぞ国を思う歎願や叱責」と思った。
「検察を私物化せねばならぬ傷」 福島県、柴崎茂
「自分から退けば一気に済む話」 大阪府、涔口正治
など、胸のすく川柳にも多々触れたが、これらを切り抜きファイルの「卑劣」という項目のペイジに加えた。「責任は私にある」と認めれば「責任は取らなくてもよい」ものとの風潮を、広め巷にようとしているのだろう。
それが、「道徳教育」や「愛国心」を国民に強制しようとしている忖度一派の仕業であるだけに心配だし、こうした風潮を許す心を育むのが「道徳教育」であり、その心を「愛国心」と、この一派は定義づけているのだろうが、情けない。
それにしても、地方紙の購読をつづけていてヨカッタ、と思う記事にも恵まれた。それは共同通信の記事だが、これも「卑劣」のファイルに追加した。
このファイルに収まっている記事には、共通する点が幾つかある。その1つは、私益のために税収をジャブジャブ垂れ流していることであり、それに与した関係に、臆面もなく税収を賃金として受け取れる立場を与えているところに問題がある。
そもそも、コロナ問題では日韓の指導力に大きな差が生じたが、その主たる原因に問題の本質を見る思いがする。医学的専門家のチョン・ウンギョン中央防疫対策本部長を任命した国と、経済再生相を選んだ国の差異に民度や民主主義に対する認識差を見る。
国民のココロが、こうした差異の容認派と疑問視派に分断されつつあるのがツライ。とりわけ、国の体制がとてもぜい弱だと気付かされることから一カ月が始まっていただけに、不安だ。それは光回線の強みと弱みを知り、利点と欠点を実感させられただけに、それを容認している、あるいは見逃している国と見ただけに、余計に不安が深まった。
長中短3種の懸案事項
畑仕事は、旧わらび道での大剪定と、端境期の畑仕事から始まった。囲炉裏場にまた剪定クズの山を作ったし、冬野菜を採種分と小鳥の取り分を残し、採種分には袋を被せ、残る抜き去った分は堆肥の山に積み増した。
次いで、知範さんと未来さんの手を借りて、長中短3種の作業に取り組み、幾つかの懸案事項を片づけた。その最初は、これまで85歳までと願っていた寿命を、コロナ騒ぎのおかげで5年も延長したくなり、1本の植樹をした。
すでに、裏庭の危なげな石階段には、中程と上り詰めた所に2本のモミジが育っているが、3本目の「つえ代わりに活かす落葉樹を」と、鉢植えのモミジの木を登り口におろしてもらった。登り口は、降りる時は最後に踏ん張るところであり、とても大事な杖になる。
何十年来、2025年を日本破綻の年、と睨んできたが、コロナ騒ぎでそれが早まった感がり、見届けながら死ぬのではなく、余計な欲に気付かされ、それを好機とするプランを考えたり、その是非を確かめたりしたくなった。
未来さんにも、あたふたせずに済む生き方を授けたくて、長中短の「短」の智慧から手ほどきした。まずアイトワ流のインゲンマメの育て方を手ほどき。
次いで、随所にあった剪定クズを囲炉裏場に積んでもらったが、その間に、私はヨモギの収穫場でもあるパーキング沿いで草刈りをした。そしてお茶の時間に、ミニ講義。食用に活かす刈った草、夏野菜のマルチングに活かす草(種が混じっていない)、そして果樹などの根元の置き肥に活かす草の3種に分別し、心密かに、次の来訪時にはヨモギ餅を作っておき、実感を尊重する心のエネルギーにしたく思った。
「中」は、何か月かに1度の無炭化器の灰の始末や、せいぜい1カ月に1度の(剪定クズが溜まった折に行う)焚火だったが、彼女は見事に、妻と同じぐらいの所要時間で、危なげなく燃やし切った。
その間に私は別途、2~3年に1度の(できることなら毎年行いたいのだが)のツバキの剪定に手を付けた。
次いで「長」は、正にコロナ騒ぎを幸いに、と10年に1度の「花車」の「防腐剤処理」。当分の間は臭いが抜けないので、営業自粛を幸いにした。アイトワ流では、トンネル栽培に用いたフレームは、洗うなどして再使用する。もちろんこれはゴミを増やさないためだが、追い込まれて(将来石油が暴騰するとか、使えなくなり、再使用した方が得になり)始めるようなことは避けたい。
早朝にはまだ肌寒い日々だが、夕刻にはヤマウドやスナップエンドウで、ビールが上手い季節になった。タマネギを初収穫したので、このスライスに削り節でビールを、と願う。
畑では、初夏のアイトワらしさも実感するようになり、温室の水やり、淡水魚の餌やりが朝と夕の2回になった。除草に追われ、イネ科植物とヒメジオンだけでなく、キツネノボタン(キンポウゲ)も目の敵に、タンポポやミツバも増え過ぎないように種や花を付けた分は切り取ってミツバは畑のマルチングに。逆にハハコグサ(おぎょう、春の七草)は増やすために、草屋根をその場にして、と工夫し始めた。
初見参のシオカラトンボに急かされて、モロッコマメ、オクラ、あるいはモロヘイヤなどの準備に入った。カボチャや巨大ツルムラサキの苗が畝で根づき、その側で自然生えのゴーヤと在来ツルムラサキが芽を吹き始めた。
ナス、キュウリ、トマト、トウガラシ、そしてインゲンマメの5大夏野菜は、16日と20日の雨らしい雨に恵まれ、すくすく育ち始めている。
冬野菜の季節がおわり、夏野菜の収穫が始まるまでの端境期の最中だが、食卓はオンシーズンのエンドウマメ、年中育てられるチマサンチェ、そして末期のナバナやレタスが主役になり、ウコギもありがたく思われる。食卓ではウコギ飯やエジプトエンドウの赤飯も色を添えた。
これぞ正に以心伝心
この1カ月が「うどん鋤き」セットの贈り物はから始まったような一面もある。商社時代には、時には仲間との贅沢な昼食に、忘年会に、あるいは来客をまじえなど私の好物で、会社の裏通りにあった「うどん鋤き」屋によく足を運んだものだ。
妻は「気を使って」と膨れたが、ちょっと早いが「母の日に、」との宣伝につられて、と、裕一郎さんに聞かされ、妻は夜食と翌昼(は稲荷ずしを添え)2回に分けて活かした。
次いで、贈り主が記されていない大きな袋から小さなストッパーが出て来たときは「ワァー、これぞ正に以心伝心(の贈物)!」と思った。一昔前に、パリで買い求めたテコ式のストッパーのゴムが痛み、捨て去っていたし、毎日のごとくに用いるものだけに苦心惨憺して代用品を作り、用い始めていた。このストッパーの一件は、まだ誰とも「話題にしていない」ので、「どうして!」「どなたが」と、知恵を巡らせた。
この時に居合わせた知範さんは、妻にブーケを持参して妻を喜ばせた。
その後、妻がストッパーの贈り主について「キット」といった人の、十分に事情を呑み込んでもらえる奥さんに探りを入れたが、「ご心配なく、そのそぶりはなかった」との返事だった。だが、その夜に「すみません、夫でした」に次いで「すみませーン…」との電話があった。翌日、ネットで個別に発注したというワインが届いた。その時には、知範さんのブーケは、キッチンの出窓で妻流に活かされていた。
今年も、妻の誕生日を私は祝わなかった。散歩の途中の久保田さんに立ち寄ってもらえた時に、お茶の時間を兼ねたが、その際に妻が話題に併せて持ち出してきた一書があった。いつも、「1年をかけて探してもら」っているのではないか、と思われる本をくださるご夫婦からの一冊だった。来合わせていた未来さんも大喜びだったが、来年こそ先に私が思い出そうと心に言い聞かせた。
その後、次々とマスクに恵まれ始めた。それまで必要になった時は、妻が買い置きの(人形創作時に用いる)既製品を使っていたが、おかげで外出時は、服装に合わせて手作りをポケットに忍ばせるようになった。その最初は、夫婦共通の友人から、次いで妻の誕生祝に、と手作りマスクやメガネケースなどに私の分も添えてもらえて、などと続いた。
さらに、岡田さんは自家用車で四国から見えたが、手土産に岡田さんらしい既製品のマスクを添えてもらえた。四国のある(衛生面での管理が自慢の)女性用下着会社が、その技術や設備を活かし、繰り返して使用可能な製品を開発した、との品だった。
「あとになりましたが」と、10数年前の顧問先の今は会長から、既製品だが、使い勝手がよくて、妻が「大助かり」と常備品に加えることにしたマスクが届いた。社員のために手当てしたもので、順番は後になったようだが、これも嬉しかった。
20日になって、アベノマスクが届いたが、検品代に別途6億円もの国税を投じるとの非常識甚だしい(検品責任は納入側にあり、納入遅延にはペナルティーが伴うのが道理であるはずの)代物でもあり、税金垂れ流しの証拠品として取り置くことにした。
その後月末まで、来客、あるいは来店客など、機会がある度に注視してきたし、久保田さんに誘われて「若冲展」に出かけるなど幾度かの外出時にも注視したが、ついにアベノマスク風マスクを用いている人には出会えていない。ちなみに、このミニ美術館では、展示品のすべての撮影を認めていた。
ありがたい書籍にも多々恵まれた。その最初は「良きタイミング」に「時を得た内容」と、感心し興味を惹かれた一書から始まった。
これは以心伝心ではなく「偶然だろう」と思った自然からの贈り物にも恵まれた。光本親方を訪ねた時に、養魚に与える餌について親方の丁寧な説明を受けた。その1つとして生エサが取り上げられたが、それは冷凍のミジンコだった。
この日、わが家に送り届けてもらった時に、1つの水鉢にミジンコが発生していたことに気付かされた。久しく目にしていなかっただけにを、大声で「大ちゃんに」教えた。