レジ袋の全国的有償化から始まったような7月ですが、多々庭で初めてということが生じました。雨は、歯の定期検診日だった3日の午後まではなく、ブルーベリー園の下草刈りや、ワケギの畝の仕立て直しなどに励んだのです。雨は、知範さんを月記の引き継ぎで迎えた4日の午後から本格化、7日未明の大雨で冷凍冷蔵庫に初めて被害が出る浸水にビックリ。その後8日まで雨勝ちの日々になり、初めて実を結んだブラックベリーが色づくなど、庭で多々初めてということが生じました。
2日、ノーゼンカズラが咲き始め、4日に熟れた中型トマトを初収穫。5日、初のハナオクラが咲き、6日にゴーヤの初物。7日は、朝に初のイチジクと初の大型トマトを共にサルに盗られたと知った妻は、見事に育てた初のズッキーを収穫。10時に、裕一郎さんが婚約者を案内がてらに帰宅。4人で昼食。彼女を見送った後、3人で喫茶店へのアプローチで剪定作業に従事。夕にズッキーニを食し始めるなど、思い出深い一日になりました。
この間は、雨の切れ目に、ワケギとジャガイモを掘り出し、その跡と隣の一畝の仕立て直し。2鉢のホウセンカを準備。バジルの苗の植え付け。そして7日、未明の豪雨にビックリ仰天。その後、随所で細竹が大荒れする光景を嘆きながら、モロッコマメの整蔓(ばん)など。雨の間は書斎にこもりました。妻は、母屋の中庭で、今年5度目の除草など。
雨勝ちの日が続いた中旬は、ゆかりさん他4人を迎えた1日に始まり、快晴になった20日に、高安先生と知範さんを迎え、ある打ち合わせで終わりました。この間は日替わりメニューのごとき日々。翌12日、ブルーベリーを初収穫。13日、サルが青柿を初襲撃と、雨漏り問題が母屋で発生。14日、裕一郎さんに映像交信の2方法を学び、2か所で試み、その一つは「もうオスローに帰っています」との明朱花さんでした。15日は曇天の下、裕一郎さんとカシの生け垣の剪定から始まり、義妹にもらったキュウリ苗の植え付け。夕刻に岡田さんが小木曽さんを初案内、私は鷲尾先生をご招待しており、4人で会食。
翌日は丹波に出かけ、先月岩村で会した4人組が再開。他に3人を紹介され、黒豆の植え付けや福知山城の石垣見学など。17日は2件の来訪者。その1人は操体の川上さん。18日は京大の時計台館でエネカン恒例の総会。19日は知範さんと庭仕事にハッスルし、4時に見送った後も妻と2人で頑張って、私はグロッキー気味。それだけに高安先生を迎えた日はありがたいインターバルになりました。未来のさまざまな方向を語らったのです。
ヒグラシの初鳴き(4時半)から始まった下旬は、約束事が続きました。21日、平野さんに出て来てもらい、一緒に乙佳さんのお宅と石神夫妻の仕事場を訪ね、夕に宙八さんを迎えてある相談。翌日は屋根の補修が始まり、大事な4人の来客に応対。23日は獣害監視カメラ業者の後、岡田さんが丹後で会したお1人をご案内。夕刻に、元アイトワ塾生3人を迎えました。この間に、3人の知友にある相談を電話で持ち掛け、快諾を得ています。
その後も、変化に富んだ日々でした。キュウリとインゲンマメの、共に第3次の苗と、ワケギの植え付けなど。妻はブルーベリーの第2回目の収穫。2人でセミの羽化を観察。ある計画のメンバー編成など。そして27日から高安先生と知範さんの3人で、GO-TOトラベルの実体も探る1泊2日の旅。満蒙開拓平和祈念館、金山巨石群、あるいは郡上八幡などを巡りました。私が留守をした間に、妻と裕一郎さんは懸案だった風除室のガラス磨きなど。この間に心臓の定期検診もありました。南の方から梅雨明け宣言が始まりました。
~経過詳細~
ホトトギスが鳴き始め、やがてアブラゼミがうるさく感じられるようになって終わった1カ月だった。この間に、妻と私はそれぞれ庭で、さまざまな情景に立ち合っている。赤いスイレンの花。名を知らぬピンクの花。オレンジ色のノーゼンカズラやオニユリ。黄色いハナオクラの花など。また、クワガタムシのメスに出くわし、まだ生き残っていたのか、と胸をなでおろした。
雨が降る「泉」の側で、息絶えたのだろうか。イモリが珍しい終末の迎え方をしたことに気付かせた。大往生かもしれない。
26日、雨上がりの夕刻に、妻はアブラゼミの脱皮に気付き、初めてその一部始終を(断続的になったが)観察できた。この一帯は、アブラゼミが好んで卵を産み付けた環境であったようだ。
月末近くになうと、ヒグラシが朝は4時ごろから鳴き始めた。
月初は、レジ袋が全国的に有償化することで明けた。その出足を確かめたくて妻とスーパーなどを巡ってみたが、まず野菜の値が高騰しており、驚かされた。ナスやジャガイモ(子どものこぶし大)が1つ100円。長雨が主因だろうが、先が思いやられる。
妻がレジを済ませる間に、買い物客の動きを観察したが、かつてレジ袋問題で試みた努力をおのずと思いだした。当時は、1つの方向を見定めると、心をいつも1つにして取り組むことができた仲間に恵まれていたが、誇らしげに思い出された。
当時とは、20年も前のことだが、大垣市で活動の場を得ていた私は、「時代の方向」を仲間と見定めあい、一緒に行動に移した。本件では小川敏市長にもスーパーの入り口に立ってもらえた。当時としては珍しい試みであったと思う。
ノーゼンカズラは月初めから咲き始めたが、「願いは、あと5年でかないそう」と思いながら、実は痛く反省している。なぜなら、過去10年以上もの年月をずいぶんノーゼンカズラに迷わせてしまったからだ。
当初は、枝を東西方向に張らせ、温室の北入口に花を添えよう、と思った。だからノーゼンカズラに、その方向で枝を張らせるために、鉄筋コンクリート用鉄棒で作ったアーチを立て、それに沿わせることにした。
やがて見事に咲かせ始めたが、その時になって、枝を張らせる方向を南北に変更すべきだ、と気付かされている。それは、パーキング場と囲炉裏場を結ぶ農道をアーチで飾ることになるわけだが、1つの狙いがあった。囲炉裏場でのBBQの時などで、トイレの用が生じた人に、「あのアーチをくぐって左へ」などと案内がとても楽になる。
あと5年もすれば、この90度方向を変えたアーチをノーゼンカズラがすっかり覆い、この時期になると、とても賑やかになるだろう。
初めて実を付けたブラックベリーに喜んだ。獣害フェンスの北西の角あたりをこの蔓状の枝に、びっしりと張らせば、陽があたる内側に実をつけるだろうから、シカやサルも盗みにくいのではないか、と期待している。
第2次のジャガイモの収穫は期待外れだった。量だけでなく、姿も悪い。だが、2つのことを学んだ。まず、ジャガイモの花が初めて実を結んだが、その実を付けたまま(摘果せずに)置いておくと(写真手前)芋の入りがわるくなる(ようだ)。次に、なぜかこの度は、種イモの多くが、植えた当時の姿(写真左下)のままで出てきた。
これまで、わが菜園では、ズッキーニを育てないこと、に決めていた。栽培場所を大きく取り過ぎるのに、収穫がたいして望めない、と3度の栽培体験で学んだからだ。しかしこの度は苗を3本、義妹にもらった関係で、育てた。案の定、この巨大の1本の収穫で終わりそうだ。
ズッキーニの花を好(み、媒介に励)む昆虫がわが家、わが家の近辺では少ないのかもしれない。この最初の1つは人工媒介で着果させた。その後、その実が育ち始めると、妻が青柿やイチジクに次いで「今度は、サルが狙いそう」と、心配し、ネットを被せた。
だから余計に昆虫の媒介が望めなくなったようだし、メス花とオス花が同時に咲く機会にも恵まれず、人工媒介もままならなかった。やむなく妻は、最初の1つを大事にとり置き、見事に大きく育てた。そして、裕一郎さんが初めて婚約者を案内がてらに帰宅する日の朝一番に、収穫した。
なぜこの日に収穫したのか、定かではない。だが、妻がここまで残したワケは見当がつく。それは、妻を伴ってニユージーランドを旅した時の学習効果だろう。朝市のようなマーケットを訪れた時に、2人して「賢いね」とニユージーランド人の民度に敬意をはらったことがあった。
日本での一般的な大きさのズッキーニだけでなく、とても大きな実も一緒に売られており、いずれもが同じ価格であった。だから「食べ盛りの息子がいるお母さんは、大助かりネ」と妻は感心していた。
その時に、一般的な収穫時に採ったズッキーニもあったが、真っすぐではなかった。そして、その理由も知った。真っすぐな実は日本が輸入するので、その残り物らしい。キウイフルーツやオレンジも売られていたが、大きさや色合いはばらばらだった。だから2人して感心した。妊婦さんなら小さくて黄色いのを選ぶだろう。
色や形の粒ぞろいは日本に買い求められる、と農家は語った。ドイツは、そこまでは厳格でなく、日本が、これで最後になるかもしれない初のズッキーニは、2種のお惣菜になって裕一郎さんにも振る舞われた。裕一郎さんがもっと早く、婚約者を伴ってわが家を訪ねておれば、少しは慣れた間柄になっており、この惣菜を一緒に食べてもらえていたのではないか。
この日、わが家は裕一郎さんの婚約者を紹介されたが、彼女の名は、妻の名と間違いそうなほど似ていた。庭仕事などに一緒に取り組み、大声で呼べば、2人が「ハーイ」と応えそうだ。「ヨ」と「エ」の差しかない「佐恵子」と「小夜子」だ。
ゆかりさんを迎えた日は、大雨にならなくてヨカッタ。遠方のある村からのお二人と、他に未来さん夫婦にも声をかけ、4人を伴って訪ねてもらう日のことだ。ゆかりさんに、かつて未来さんを紹介しておいたのがヨカッタようだ。
未来さんはこの日、「未来」と名付けた人形を妻が作っていたことを始めて知って、喜んだ。
ゆかりさんが、その遠方の地を、どうして終の棲家の最右翼候補にあげたのか、その訳が分ったような気分になった。その人口1500人足らずの村では、この度の(科学的根拠がなく、首相の思いつきだった)一斉休学の呼びかけに、歩調を合わしていない、という。村長は腹をくくって英断(村民優先思考)し、地方自治力の意義と、地方の力を発揮させたようだ。
ゆかりさんが選んで持参いただけた手土産も、計り知れない未来への夢(その地特有の技術や設備を活かした代物で、高齢者が携わっていたが、素晴らしい継承者が入村している)を感じさせられた。とりわけ、その村から同行の女性の意見に、私は目を輝かせえずにはおれなかった。もしも、この人が日常的に夫と、このような会話を繰り広げておられるのならば、是非ともその夫にもお目にかかりたい、と強く思った。3密ではないかと言われかねないゲストルームでの2時間余だったが、良き1日にした。
丹波に出かけた1日も、幾つものトピックスに溢れ、有意義な1日になった。まず、先月岩村で会した4人組の再会だった。訪問先のあうん社では他に3人の初対面者を紹介され、その異色な経歴に興味を惹かれた。
後日、ちょうど1週間後のことになるが、そのお一人で、徳洲会の徳田虎雄の政策秘書だった小野田さんは、アイトワを訪ねて下さった。その折に、歌人であった母・政子さんから「こんな歌を」贈られた、と紹介され、この人の行動力に得心した。「動かずに、じっと見なさい 大賀ハス」だったので、わが家のオオガハスの前で是非とも、となった。
実は、丹波で、この人に『「習近平」国政運営を語る』という一著の存在を知らされており、驚いた。この第2巻は、2014~2017年にいたる習近平の演説から談話や祝電に至る発言をすべて収録してある、という。第1巻は2012~2014年分と聞いた。
中国の国民が羨ましく感じられた。その意思表明の内容や是非は未読故に語れないが、逃げ場がない立場に己を追い込む姿勢には脱帽だ。
私は心密かに、このところの議事録を残さない悪しき事例に辟易していた。残しても、都合よく抜粋を重ね、さらに改ざんさえする事例にも思いをはせた。また、公開を求められると、黒塗りだらけにして出す。こうした姿勢とは対極だ、と思った。
権力を得た人が、その権力で鵺(ぬえ)のごとき振る舞いをし、これに不満を持つ納税者であり有権者をないがしろにすることほど、卑怯で卑劣な行為はないだろう。それは市民や国民の分断であり、世界の笑い者にされかねない。
丹波は、黒豆の産地だが、苗がすくすく育っていた。この雨勝ちの日々がどう響くのかは知らないが、「紫ズキン」の湯で豆で、ビールを、と連想し、飲み干す一時を夢見た。
昼食は「うどんが、お好みでしょう」と見透かされ、遠路の案内に感謝した。うどんを待つ間も、小野田さんは勉強家の一面をのぞかせた。
世間は狭い、と思った。車で片道1時間もかけて私たちを呼びよせた「うどん屋」の主は、阿部ファミリーの阿部さんと顔見知りだ、と聞かされたからだ。
どこに行っても、人のために尽くそうとする人、どこに行っても食ってゆける職人気質は、類は類を呼ぶようだ。だからだろうか、1人のアメリカ人が棲みついていた。
最後は福知山城見学だった。そこでは、明智光秀の人となりの一面を見たような気分にされた。まず、汲めども枯れようがない井戸に目をつけていた。
次いで、その石垣に信長に対する忖度(?)を見た。城付けの案内者は、異なる意見を述べていたが、これ見よがしの墓石の組み入れ方に、明智光秀の辛い心境を感じとり、同情しながら見学した。
梅雨が長引いたセイで、庭はあれに荒れた。底を張っていないこの六角の水溜が、かくのごとく満杯の姿を1カ月以上も示し続けたのは久方ぶりだ。今やこの水溜は、畑の水分保有率を調べるボロメーターのような役目を担っているが、この間に体験した辛い思い出をよみがえらせた。
もちろん当初は、畑の水やり用の水溜めだった。幅60cmほどのセメントで作った7枚の板を作り、1m余の穴を掘り、その6枚で縁を固め、残る1枚で上部の半分を覆った。当時は、裏山から常時小川の水が流れて来ていた。だから、この水をあてにして、いきる希望を漏らしている。この一帯には水道は引かれていなかった。
当時とは、何とか生きる自信と価値を見出し直し、希望に燃えていた頃のことだ。それだけに、こだわりもあり、人生で最も鮮明に記憶(しており『アイトワ12節』に収録)している。私にとって、ミニとは言え、最初の土木工事はこの小川の中程に池を設ける作業だった。
裏地は小倉池の水の涵養地であり、戦中戦後は水田として活かされていた。私は19歳の時に、結婚や就職をあきらめて、太陽の恵みを当てにした自給自足の人生設計を固めている。やがて養鶏を再開しているが、この水を当てにしていた。
その後、1995年ごろまでこの水は流れていた。だが、裏地が不法に宅地化され、さらにこの土地で水抜き工事が施され、流れてくる水が切れた。だから、この底と6カ所の板の隙間をセメントで固めていない貯水槽は、常は底に水が少し溜まっている程度になった。この時から、その役目を、畑地の渇水度を推し量るボロメーターにしている。
近年は、年間降雨量は変わらないのに、異変が生じている。降れば集中豪雨のような雨になり、その時はこの水溜めは満杯になる。逆に、常時は枯れることが多い。
今年の農作物はよく茂ったように見えるが、日照不足のせいで(周囲の樹木が影をつくルようになったこともあり)日光を求めて背比べをさせたような状態だ。その典型はナスで、まったくと言っていいほど実がつかなかった。背比べができないジャガイモにいたってはもとより不作だったし、ニンニク、レタス、あるいはネギなども期待できそうにない。
トマトの収穫は順調に始まったが、雨覆いをしなかったせいもあり、長雨で(媒介昆虫の活動を制限したのか)着果率が下がり、不作の年になりそうだ。ワケギは掘り上げる時期を間違い、植え直すために掘り出したようなことになった。
長雨が庭仕事の時間を限り、妻の小言を聞き続けなければならなかった。妻は、庭や畑にプラスチックなどの人工物が放置されていることを嫌う。だがいちいち、雨で水が満杯になったバケツなど仕舞っているわけには行かなかったからだ。
ブラックベリーの初物は、裕一郎さんと3人で1粒ずつ分けた。ブルーベリーの収穫も始まり、7月中に2回で2kgほど収穫し、これはジャムになった。
庭木の枝や竹は雨でしなだれ、シホウチクのしなだれた分は知範さんと整理をした。だが、真竹の方は未整理のままだ。喫茶店へのアプローチは裕一郎さんと妻の3人で手入れに当たり、クルミの不都合な枝は私が切り取るなど、精を出した。それらの剪定クズで囲炉裏場の山を大きくした。
ワークルームのグラインダーが故障した。わが家の必携品の1つだからすぐに新品を買い求め、設置し直した。そして、壊れた方は、雨とコロナ騒ぎが用意したゆとり時間を活かし、分解し、その構造を学んだだけでなく、分別廃棄に供するようにした。こうした試みの度に、私はチョット誇らしげな気分になる。
雨の止み間と見ると庭に飛び出し、不作のニンニクを掘りだしたり、キュウリとインゲンマメの第3次苗を植え付けたりした。妻も、雨の間は人形工房にこもったが、晴れ間には除草に参画したり、コンクリ方形花壇を1人で仕立て直したりいた。
イチジクは順調に育ったが、長雨とサルの被害で収穫には結びつかなかった。サルはついにダイダイの実にも手を出したが、その酸っぱさに閉口したようだ。
夜に、2本の映画をTVで鑑賞した。オリンピックがコロナで流れていなければ、その開催予定日であった夜に『1964年東京のオリンピック』を観た。市川崑監督が意図する記録映画の意義を、その巨視顔をより深く理解できたように思った。近年の開会式などのバカ騒ぎは、オリンピックの終わりの始まりを示しているのではないか。
2020年東京オリンピックは幻に終わるだろう、と思った。嘘までついて誘致し、福島原発事故から国民の目をそらそうとしたトガメとして、反省材料にすべきだ。
本来なら、次の開催予定国と入れ替えてもらい、福島原発の問題解消に全力投球したい、と訴えるべきであった。ならば今後、世界のどこかで原発事故が生じたとしても、蓄積したノウハウも役立て、輝かしい日本の出番を準備していたようなことになったに違いない。世界では多くの原発が解体期を迎えており、優れた解体技術が求められよう。
『とんび』も妻と一緒に見てヨカッタ。毎朝『はね駒』の再放送を観ているが、共に日本の男のあるタイプに共通する点が描かれており、父が思い出され、興味深い。
多くの贈物にも恵まれた。とりわけ嬉しかったのは著作だった。『魚景色』は、先月知り合った小木曽さんと、鷲尾先生(20年ぶりに再会)を交えた3者が会する場を用意(裕一郎さんも陪席)したが、持参いただいた。トッテンさんには近著をおくってもらった。平野さんには、ある打ち合わせ時に、自ら手がけた多様な書籍を持参いただき、この3著から目を通し始めた、など。
ある朝のこと、裕一郎さんとカシの生け垣で剪定作業に取り組んでいると、散歩中の人が立ち止まり、「良い息子さんですなー」と感心。ボッタクリ商法が撤退したことを改めて喜んだ。穏やかな会話を交わせる雰囲気が戻っていた。
下旬は、2件の外出が待っていた。まず、平野さんと連れ立って乙佳さんと石神さんを訪ねた。共にご夫婦で迎えてもらい、仕事場の見学と楽しい語らいが待っていた。
乙佳さんは、離れの一階の一部に、味噌を仕込む場を用意していた。山仕事用の小屋にはさまざまな道具が溢れていた。日当りがよい畑では夏野菜がスクスクと育ち、その一角は屋外の憩いの場で、親方(ご主人)を交えた歓待の準備がされていた。
「昼をわが家で」と言ってもらってはいたが、「まさかここまで」と恐縮。メニューの半ばで時間がなくなり、残念至極。この残念な気持ちがカメラのセットを間違わせたようだ。それは次の約束に駆けつける前に、近くの京都市内を展望できる小山に移動したかったからだ。
そこはご両親の、早々とレストランの経営を息子に譲り、悠々自適の晴耕雨読生活に入ったその後の様子、その一端を是非とものぞかせ頂きたくなったためだ。第1印象はこの親にしてこの子あり、と思わせられたことだ。馬を飼い始め、今や自分で馬場や畜舎をつくり、乗馬教室の準備中。養鶏も続けており、「このような孵卵器があったのか」と感激させられた。野菜や卵は、丘からそう遠くない「あの朝市に出す」という。そこに、乙佳さんも、薬草茶なども作って参加する。
次の約束は、石神夫妻の仕事場の初訪問だった。そこは農作業を組み込んだデイケア―サービスの場で、わが国では珍しい、おそらく初めての試みではないか。30年近い付き合いながら、初訪問だった。夫妻には、表に道にまで出て迎えてもらえた。
10数名の男女老人が、炎天下だったがいそいそと夏野菜の世話に携わっていた。なぜか縄ないに没頭する1人の女性の姿が、強く印象的に残った。屋内の一角に通され、ある相談事、となったが歓談も弾んだ。なぜか訪問記念の写真から、フルカラーにカメラは戻っていた。
ここでも長居は許されなかった。橋本宙八さんと5時にアイトワで、となっていたからだ。前日、事前に電話である快諾を得たが、その時に「明日は、京都に」と、市内に出てこられることを知り、急遽決めた約束だった。
次の外出は高安先生と知範さんの3人で出かけた1泊2日の旅だった。お2人を満蒙開拓平和祈念館に案内するのが主目的だが、GO-TOトラベルの実体も探りたかった。
満蒙開拓平和祈念館は小さな施設ながら、日本人には必見の施設だと思う。長野県は開拓団員を送り出した数が突出して多く、2位の山形の倍以上の約3万8千人。
敗戦後、国は棄民方針を打ち出した。だから、米軍の出した舟で帰国した、と聞いている。それは、無事に帰国しても、元の村には戻れないことになっていたようだ。だから、再び国内開拓者として全国に散らばせられている。
だが、この施設では、被害とか加害など、何れかにも偏らず、国家に翻弄された国民がいかなる辛酸をなめるのか、を等間隔でかつ簡潔に紹介する。
時代が大きく変わりそうな今日、努力だけでは幸せがつかめないことを教えるこの施設は貴重だ、と思う。努力を傾ける方向を見定める上で、日本という国の体質を熟知することが求められそうだが、ここは避けて通れそうにない施設だと思う。それだけに、この施設に直接関わる関係者の意識と努力だけでなく、長野県やこの施設を設置させた地域住民に頭が下がる思いがした。教育県として知られる県と県民の判断と努力の賜物だろう。
再訪してヨカッタ、と思った。まず施設が拡張され、映像室やセミナー室が設けられていた。次に、平成天皇夫妻がお訪ねになっていた。一昨年、ダナンを訪れた折に、残留日本人家族を(日本兵が残して帰国し、取り残された妻子を)ご夫妻が慰問されていたことを知ったが、同様の感銘を覚えた。
また、これまでは、国策として進めた分村移民計画に忠実に従い、後に自殺に追い込まれた村長などは知っていたが、『満洲分村移民を拒否した村長』がいたことを始めて知った。かくなる人が1人でもいたという事実は、杉浦千畝、梅屋庄吉、あるいは松浦武四郎などを知った折と同様に、こころが膨らむ心境にされた。
加えて、事務局長と(3度目の訪問ともなれば)顔なじみになっていたのでご褒美にあずかった。ちょっと強引だったが、私的な時間を少し割いていただけた。私たちの自己紹介で終わったが、次のお約束がない日だったらよかったのに、と3人で嘆きあった。
GO-TOトラベルの実体は、思い付き政策のいい加減さを思い知らされた。昼神温泉のかなり大きなホテルに泊ったが、まるで貸し切り状態のごとし、だった。
翌朝は強い雨になったが、下呂の金山巨石群を目指した。後800mという道程で車止めの憂き目にあったが、上り坂がなだらかで、助かった。ニトログリセリン剤をポケットに確かめ、左半身を濡らしながらトボトボと歩んだ。「あそこまで回り込むのか」と思った時は、車中で雨宿りしなかったことを反省した。
だが、巨石を間近に見て「強行してヨカッタ」に変わった。4500年前に、太陽信仰していた古代の人が、北極星をしゃがんで眺めたり、時の移ろいを岩にあけた穴から射し込む光線で推し量り、共感しあったりしていた様子を連想した。
「もう一か所、訪れよう」と、郡上まで脚を延ばすことになった。知範さんに「もう1つの実感」を体験してもらいたかった。大垣時代に、丁度4半世紀前に、郡上を私は訪れている。各戸の前に水路がはしる一角があり、その昔の生活を潤していた跡、とみた。生活用水であり、淡水魚はたんぱく源だったのだろう。その時に体感した歓びや安ど感を、私も思い出し、共感したかった。雨にかすむ道中は見事であった。
まず郡上の街を山上の城から鳥瞰することにした。自然豊かな土地であったようだ。帰途で、城郭の石垣掃除に当たっていた人に、お目当て装置が「水舟」と称することや、2段だが今も残る、と教えられた。
役所のパーキングに車を止め、「水舟」や昔の郡上の上水システムを徒歩で探した。すぐに共同洗い場が分かった。だがこれは、後年の造作物で、本来は各戸にあった装置をしのばせる施設ではないか、と見た。
次いで「水舟」を探り当てたが、それは模型に過ぎなかった。そこで、本物を! となり、あの哀調あふれる「郡上音頭」が聞えて来そうな山間の街を探索することになった。街は中央に、長良川に至る支流が流れている。2度、橋を渡り、幾度か街角を折れた先に、本物がありそうだ、と知った。
探り当てた本物は、四半世紀前に見た分とは別物で、こじんまりしていた。だが、それがもう1つの幸いをもたらした、と言いたい。
知範さんに「便利」の意味を実感してもらいたくて捜し歩いたわけだが、探し当てた水舟の側に柳の木が生えており、その幹皮に「粘菌」が棲み付いていたことに知範さんが気付いたからだ。この粘菌がこの旅の大団円をもたらすことになった。
「便利」とは何か。私は、不便であったことを体感した時に実感する意識だと思う。この水舟は、かつての便利であった。だから、この便利を享受するには約束事があった。たとえ「食べたくなるほど可愛い乳飲み子」であれ、上流の舟でそのオシメを洗うことは許されない。制止の喚起に従わなければ村八部の要因になった。文化である。
こうした(豊かな自然水を守り合ったりした)文化があった時代は、誰しもが自然水だけでなく、自然を守った。だが、この文化を疎ましく、不便だと思う人は、水道のある都会に移住したり、水道を我が町に引こうとしたりした。やがて、上水だった水路は下水路になり、空気も汚し、たとえ綺麗に澄んだ水でも飲む気にはなれなくなった。
つまり、水道を始め、近代化と呼ばれた方向を目指し、近代化がもたらす便利を次々と求めているうちに、地球温暖化問題や、かつて体験したことがない豪雨などを招くようになった。断水一つでご飯も炊けない不便ならまだしも、仮設住宅で済む羽目になり、水道代が払えず、渇水死にみまわれる人まで多発させるようになった。
知範さんが見つけた粘菌のおかげで、話題が明るくなった。かねてから粘菌に興味を持っていた知範さんは、アイトワの庭で「らしきもの」を見つけ、自宅にらしきものを始めて持ち帰り、粘菌だったと特定している。
もちろん、和歌山の南方熊楠記念館まで訪ねてことがある私としては、知範さんのセンスにとても心惹かれている。その後、彼は幾つもの機器も購入し、急速にその知識を深め、共感しあうようになっている。
「脳を持たない天才」とまで近年では単細胞である粘菌が称せられるようになっている。かねがね、脳を持たない植物の方が、動物より賢いのではないか、と思わせられてきた私としては、彼のセンスに共感すること大である。
もちろん「賢い」の定義をなんとするかが問題だ。だが、動物は、無機物から有機物をつくり、酸素をつくる植物に寄生している。人間は動物界の頂点に位置する、と思っているが、植物なしには10分と生きてゆけない。にもかかわらず、生きとし生けるものが寄生する地球を人間ほど破壊している生きものはいない。
郡上で、知範さんは「この粘菌を、京都まで持って帰りたい」と希望した。おかげで容器が必要になった。陽は傾いており帰宅は遅れそうだが、カップを手に入れたくて、吉田川(?)沿いのテラスでしばし歓談の一時をもうけることとなった。
帰途の車中で、つくづく胸ポケット付きのシャツ姿で出かけてヨカッタ、と旅を振り返った。わが家を出て、高速道路に乗った時のことだ。後部座席から高安先生の両手が伸ばてきて、その胸ポケットをあてにして何かが装着された。なされるままにされていたが、それがとても豊かな1泊2日にした。その話題の多くは、さまざまな方向を探ったり、見据えたりするうえで、大いに役立つ話題となったのだから。
道の駅で、私はジャガイモと黄色いマクワを土産に買った。前者は半値であったことが気に入って、後者は昔のお盆の供えや、その素朴な味わいを懐かしんだからだ。
助手席で私はうつらうつらした。なぜかエネカンの総会を振り返っている。総会は異例づくめであった。3密を避けて参加数は20名に限られ、総会後の、隣の部屋での立食の打ち上げは出来なかった。しかも、総会後、テーブルなどを次亜塩素酸水で拭い、真水で洗った雑巾で拭いて仕上げることになっていた。新宮先生は、部屋を借りる条件ですから守ってください、とだけ言って、意見や感想は述べなかった。
その時に、ふと私が考えたことを思い出した。本当に怖いウイルスは宿主をすぐに次々と殺してしまい、たいして広がらないだろう。弱いウイルスは怖れられない。中途半端は厄介だ。今、私たちは中途半端の変わりモノに翻弄されている。
今のように通信手段や移動手段などが発達していなければ、「知らぬが仏」で、祇園祭をやっていたのではないか。そして来年の今ごろは、「去年は軽いインフルエンザで済んでヨカッタ」と語り合うことになりかねない、など。そのうちに眠った。
後日、知範さんに、郡上の城で初めて見た虫や、粘菌を顕微鏡で覗いた姿を動画で見せてもらえただけでなく、水舟でつかまえた粘菌の話を聞いた。