もう師走か、が初日、起床時の思いでした。この秋は「ここが一番」と紅葉を褒めてくださる方が多かったのですが、「そうかも!」と1カ月を振り返りました。コロナで海外旅行計画はスッ飛びましたが「ココロの仕込み」に励む1年に出来たようです。
上旬は先ず、9条の会嵯峨支部に『日本「で」喰うか、日本「を」喰うか』と題した原稿を2021年の「初夢」として提出しました。わが国が、打ち出すべき大方針です。
その後、2組の来客と肝胆相照らす語らいができたうえに、この時期恒例の村上夫妻の来訪や、「この方が」とのありがたい触れ合いに多々恵まれました。また、コロナ騒ぎのオカゲか、遠隔映像会議に参加する機会も与えられ、学びや気づきも多々でした。
夏野菜は不作の年でしたが、コイモは上出来だったし、冬野菜は順調で、とりわけ自然生えの野菜は元気で味や食感も優れており、路地栽培ならでは、と感激。栽培種では、同じ苗床で育てた苗が、1週間の植え着け時期の差と、トンネル栽培か否かの差で大きな生育差が生じ、ビックリ。おのずと自然生えの路地育ちと、トンネル栽培種を対比してしまいました。また、鳥インフルエンザ問題が深刻さを深めたこともあって、野生と家畜での動物愛護のあり方を堆肥せざるを得ませんでした。
その間に、レタスに今頃薹が立ち 頸を傾げ、9日に夏野菜来初の支柱がスナップエンドウに立ち、霜や雪対策もうまく運び、胸をなでおろしています。庭仕事では。3本の大きくなり過ぎたハナミズキを、知範さんのおかげで間伐できました。
中旬は、15日にアラレがパラツキ、2日後に昨冬より45日早い降雪、そして18日に初氷を記録、こうした気象の下にピックスが多々でした。佛教大生の来訪再開。久しぶりに迎えた祐一郎さんの目からうろこの経験談。獣害監視カメラを新調。初見で最少のチョウを発見。当月3組目の肝胆相照らす語らい。そして、かつての顧問先企業の元社長夫妻や長津親方の来訪など。また、今年も花灯篭が実施され、疑問を感じています。
この間に、畑仕事ではヤーコンの掘り出し。キャベツ苗の植え付け。あるいはモッテノホカの定植地を準備など。庭仕事では自生ウドのモミガラを活かした手入れ。ホウノキの剪定。緑の天蓋の剪定に着手。そして久しぶりの薪割に当たりました。デスクワークでは新著グラビアページのデザインを完成させ、平野さんに提出、など。
他に、生ガニを頂いたのを幸いに、わが家のホウレン草と、など贅沢な夕餉。ハヤトウリで妻が新メニュー。カラシナの漬け上がり。あるいは干し柿が、義妹の日当りがよいマンションのベランダで出来上がるなど、自然の恵みに感謝する賞味が多々でした。
下旬は、日替わりトピックスのような日々が続きました。当月来訪2度目の裕一郎さんの施術を受け、得心と安堵。『大方向まで夢想させた旅』の補筆原文の英訳と、訳し直してもらって中国文が出来上がり、再公表。岡田さんのお世話になって映画会開催。ミツバチの師匠来訪。当月3度目の佛教大生来訪予定は(コロナ騒ぎ再燃で)キャンセル。緑の天蓋の手入れでは、3本のクヌギを間伐してシイタケのホタギ作りに転じました。元アイトワ塾生代表他の年末の挨拶。そして55回連続記念にふさわしい注連縄づくりなど。
もちろん庭掃除やお節料理づくりなど新年を迎える準備は滞りなくすませ、無事に1年を締めくくれたことを喜んでいます。この間に年賀状作りに取り組み、2020年はまるで「仕込みの日々」であったような1年であった、と振り返っています。
~経過詳細~
エピソードⅠ 紅葉は「ここが一番」
「今年の紅葉はアイトワが一番」と言ってくださる人が多かった。とりわけ5日に、傾いた陽光が自慢の落ち葉のジュウタンまで輝かせたが、「この子にも」と、喫茶店によく立ち寄って下さるご夫婦が、穏やかな愛犬をパチリ。
紅葉の盛りに、恒例のワラやモミガラを村上夫妻が届けてくださった。お返しの灰を準備しておきながら、お土産の手焼きのクッキーやカキ酢の作り方をうかがっている間にウッカリして渡し忘れた。私はココナッツ味のクッキーの虜になり、妻は早速いただいたハヤトウリで年に1度は賞味したくなるメニューを考案です。
裕一郎さんには、かねてから獣害監視カメラの一件で世話になっていたが、その設置日にも訪ねてもらった。彼は帰ってゆく前に妻と、ハッピーを散歩に連れ出した。
初積雪は昨冬より45日早い17日。この3日前の昼にアラレがパラパラっと降っており、氷は16日朝にごく薄いのを認め、18日にはこの柄杓ぐらいでは割れそうにないまでに張っており、気ぜわしい。
この冬も14日から「花灯篭」が始まったが、大掛かりな電飾まで施し始めており、悪あがきを見たかのような印象を受けた。私が行政に携わっていたら逆に、この機を手仕舞の好機に活かしていたことだろう。
だから、アイトワの喫茶店には、旧来通りにモミジのトンネルの電飾には応じさせ、人形ウインドーの点灯も許したが、喫茶店は休ませた。そして、これが見納めになるように、と願いながら、初めて近隣の偵察に出かけた次第。
神戸ではルミナリエをスキップしたが、これを手仕舞いの好機に活かせるか否かが見ものだ。いずれにせよ、自然をもてあそぶような人為は、いずれ大きなしっぺ返しを招きかねない。その積算が、地球温暖化、台風やハリケーンの巨大化、想定外の豪雨災害に結び付けて来たし、いずれは植物のストライキのごとき弊害を招きかねないことだろう。
エピソードⅡ 仕込みの1年だった?
当月は、9条の会・嵯峨支部依頼の原稿とカット写真を受け取りに来ていただくことから始まり、25日にはメールで機関誌の仕上がりぐあいを知らせていただけた。
印刷物になった『地球「を」食うか、 地球「で」食うか』を読み直してみて、これはこれまでネットに載せてきた『大方向まで夢想させた旅』のアブストラクトのごとし、であったと気付かされている。
当月は、この『大方向まで夢想させた旅』自体を、喜田真弓さんに英訳してもらうために主語を明確にし、ついでに補筆もした。その補筆文と英訳文だけでなく、劉穎さんに中国文を訳し直してもらえ、3カ国版として知範さんにネットに載せ直してもらった。これは私にとって、人生上の1つの大事な仕込みの作業、と位置付けている。
わが国はこの四半世紀の間に国際的地位が急落しており、GDPも「一人日本がマイナス成長」の観をいなめない。1人当たりGDPにいたっては25位に成り下がっていた。実質賃金もアベノミクス以降は急減しており、国民を疲弊させている。
このままだと、あらかたの国から「金の切れ目が縁の切れ目」かのように扱われかねないし、国民の多くも自自信を創出喪失しかねない。だから「なんとか」との念に急き立てられ、その気にさえなれば容易に日本をよみがえらせ、尊敬される国へと奮い立たせる策はないものかと考え、『大方向まで夢想させた旅』を記した。
もちろん、この提言は、集団的自衛権の行使容認などは愚の骨頂と見る考え方であり、現政権が目指している方向とは逆である。だから、こうした政権を支持している人たちの目から見ても、この提言は「絵空事」としか映らないだろう。
とはいえ、いずれ未来世代は、おのずと発酵して変態したくなるはずで、その時には、こうした切札を持っていた国であった、と振り返ってほしい。そして、その発酵を促すイースト菌がごとくに活かしてもらえれば、と願っている。
要は、歯がゆい気分になっているわけだが、その気分を晴らしたくなったのだろうか、無性に薪割に挑みたくなり、中旬に2度も重い斧(オノ)を取り出している。
7日には、知範さんの手を借りて、アメリカハナミズキとエゴの木に加え、立ち枯れていたカエデの木も切り取っていた。これらは妻が願った間伐であり、その日のうちにハナミズキは玉切りまで済ませた。だからだろうか、昼食を庭に運んだ妻は、「石の7人用茶飯場」で一緒にとった。これが、この茶飯場の当年最後の使用となった。
11日にはエンジンソーを持ち出し、1人でこのエゴとカエデの2本の玉切も済ませたが、カエデの木ではすでにサルノコシカケが育ち始めていた。
無性に薪割に挑みたくなったのは18日で、エゴから手を付けた。
次いでカエデに挑んだが、生木のエゴと違って、とても硬く、手こずった。いずれも薪風呂などの燃料備蓄だが、息はあがったし、斧の柄を壊し、そこで切り上げた。
その時に、丁度お茶の時間になった。だから茶を運んだ妻に、薪を割っていた時の心境を話しかけたが、結果はつまらないことに力が入ってしまい妻の顰蹙を買った。
「斧を振りかざしてバサッと振り下ろせば、そこそこの木であればまだ十分に割れる」まではヨカッタ。だが、なぜか「年老いた武士が、戦場におもむいていたかのような心境になり」と続け「向かってくる相手を、次々と、バサッ、バサッと、切って落とすのであれば、10人やそこらは…」とつなぎ、奇妙な顔をされ、さらに「とはいえ、逃げる相手を追いかけたり、いわんや攻めかけたりすることは到底できない」と付けたしてしまい、「馬鹿じゃない」と言わんばかりの顔をされてしまった。
もちろん私も、とっくの昔に、武力だけでなく経済力による覇権でさえバカゲタこと、と思うようになっているから、なぜか横道にそれたことが悔しかった。
いずれ機関誌は刷りあがり、届けられ、妻の方が先に読むに違いない。だから、前もってその主旨と記した心境を話そうとしていたが、なぜか横道にそれてしまった。
かつて私は『京都を喰うか、京都で喰うか』というエッセーを京都人に向けて記している。その当時も「自衛隊」の許され得る範囲を気にしており、その限界を「攻めてこようものなら、バサッ、バサッと片づけるぐらい」までなら、と思っていた。
だがその後、丸腰であれ、攻撃などする気になれない国になってこそ真の大国、と考えるようになっており、その想いが『大方向まで夢想させた旅』という一文にたどりつかせていた。その気持ちを伝えたくて話を切り出しながら、なぜか話しがゆがんでしまったわけで、深く反省した。この反省がヨカッタ。この度の9条の会に向けた小文は「アブストラクトではなかったわけだ」とまで気付かされたからだ。
国家にも成長期があれば衰退期もあってやむなしだろう。問題は、その間の安定期をいかに崇高に保つかであり、その設計図が問われるところだ。だからその具体策を追求し、一文にまとめていながら、肝心のことを妻に話せずじまいになった。
だからボケ始めた頭でくどくど考えてしまったわけだが、これも頭の体操であったと見て、これも記したままに残しておくことにした。
新著には進展があった。表紙のデザインを決めたあと、先月2日に平野さんがミニ編集会議を招集され、新著に8ペイジのグラビアページと、私たち夫婦の日々の姿、あるいは私の著作活動などの紹介を追加しては、と提案された。そこで知範さん、裕一郎さん、そして私が分担して作業に入ったが、それぞれの原案が出来上がった。
その表紙に用いることになった写真は、未来に向けて歩みだそうとする2人の子どもの姿を写真に収めたものであった。だから、「年賀状」のデザインは、その2人がしかるべき方向に気付いた瞬間にしよう、となった。
こうした作業に打ち込んでいたオカゲだろうか、師走は19日に、1年の大団円かのような心境にされている。当月は3度も肝胆相照らすかのような語らいの機会を得たが、そのいずれもが、私が未来に向けて見定めてきた方向を追認させる語らいであった。とりわけ19日の3度目は、あらたな希望という仕込みを付加出来たような心境にされている。
だからだろうか、その後、年賀状の文面を記し始めた時に、1年を振り返っており、2020年はまるで「仕込みの日々」であった、との印象になっている。
エピソードⅢ 来訪再開の佛教大生に授けたい
4日に、囲炉裏場でほぼ1年ぶりの灰取りをした。それは6日の村上夫婦を迎える準備だけでなく、13日に迎える佛教大生への備えでもあった。
予定通りに村上夫妻を迎え、ワラやモミガラを頂いておりながら、そのお返しの灰を渡し忘れてしまった。
それは、ハヤトウリが大豊作であったとの話題や、私好みの手焼きのクッキーだけでなく、熟し柿で作くったカキ酢の見本まで頂き、その作り方にまで話題が至り、その興味津々が失念させた。このカキ酢の作り方は簡単で、ニホンミツバチの養蜂で甘みを手にすることを知った時と同じぐらいに嬉しかった。
13日、8カ月ぶりに二人の佛教大生を、その第1陣として迎えた。コロナ騒ぎで、学校は学外活動にも神経を払ったようで、グラブ活動は抑制対象になっていた。
学生と語らいながら、私はわが教員時代を振り返り、こうした事態に遭遇していなかったことを幸いとした。同時に、もし遭遇していたらどのような判断を下していたのだろうかとも考え、顰蹙を買うようなことをしていたに違いない、と胸をなでおろした。
世間では鳥インフルエンザが蔓延し、既に300万羽近い未だ元気なニワトリ(未感染)や、真に健康なニワトリ(陽性になって生き残っていた)が道連れにされていたから、少し感染症と命の尊さについて神経を払い過ぎていたようだ。
先月下旬に、佛教大生からサークル活動の抑制がやっと解かれたと連絡があり、その時点での当月の空いていた日曜日のすべて(3回の日曜日)を佛教大生と過ごすことになった。だが、参加人数の確定はできないようで、その日の朝を迎えてはじめて分かる状態だった。この日はいつもの時刻に、2人を迎えた。
1人は新入会生だった。そこで、まず私が想うこの空間の特色を説明し、ここで過ごす時間の活かし方を提案した。次いで6つ用意していたカリキュラムに取りかった。
まず、ウォ―ミングアップのスギの落ち枝拾い。焚き火を始める準備だった。次いで、腐葉土小屋での篩い分け。これは腐食が進んだ細かい腐葉土を取り出す作業で、この時期にこの腐葉土を求めている作物がある。
加えて、鉢植えのベンジャミンゴムを温室に運び込んだり、野生ウド(を白化させるため)のもみ殻を取り替えたりしてもらった。
これらの作業の狙いを説明しただけでなく、野生ウドの側にあったホウノキの剪定にも手を出しており、その狙いも説明した。切り詰めるのは手段であり、背丈を縮めながらホウノキの切り口がうまくふさがる剪定法を編み出し、ホウバ(ホウバ味噌やホウバで包んだ料理に活かす)の供給源に相応しい樹形にしようとしている。
この日は学生の来訪再開を祝し、私の昼食準備のついでに妻はサンドイッチを余分に作った。それがヨカッタ。なぜなら、常連の2回生が昼食を持参していなかったからだ。私は妻が運んだ昼食を見て、即座に新入会生が持参した分も含めて、3人で分けあい、食すことを提案できたのだから。
来訪時に妻は確かめていたようで、その時は「持って来ています」と応えたという。だが、持参していなかった。その訳は、あてにしていた最寄りのコンビニが閉まっており、訪問時間厳守の方を選んだからだった。
第2陣の佛教大生を迎えたのは20日だった。5人以上の集団行動は禁止、と聞いていたが、5人を迎えた。既に顔なじみで力持ちの先輩が、4人の1回生を引率した。
この日は、午前中だけ知範さんが来てくれることになっていたので、2人の力持ちが揃ったことになる。そこで「この機に」とばかりに「筒育てのゴボウ」の土を、モッテノホカの定植予定地まで移動させる作業を追加した。
私流のゴボウの筒育ては、面倒(腐食が進んだ細かい腐葉土をふるい取って、用土に毎年まぜ込むなど)だが、かつては実にうまくいった。
だが温暖化の悪しき進展で、防熱の手を打ってもその影響から逃れられず、あきらめざるを得なかった。具合よく、ゴボウは自生化し始めている、どうしても香りもよいゴボウを、と願った時は、曲がったゴボウを苦労して掘り出せばよい。
モミガラを活かして、タマネギとダイコンの防寒作業も済ませた。
暴走して生えたシホウチクの刈り取りなどにも当たってもらった。また、焚き火の一時は、マッチの上手な使い方、吸ってよい煙と悪い煙、あるいはアイトワ流焼き芋を作る準備のあり方など、常連来訪者になる上で学んでほしいことも開陳した。
この日、メジロが一羽、温室の側で死んでいた。おそらく、ガラスに映る樹木などの影を錯視したのだろう。過去30数年で、2度目の犠牲だった。だから、人間にも、4次元の社会活動では、同様の問題が随所で待ち受けているものと覚悟し、錯視クセなど己の特色を自覚するように、と注意を促した。
第3陣は27日を予定していたが、前日になって3名の予定であったことと、コロナ騒ぎが再燃し、中止せざるを得なくなった事情を知らされた。「キット」と妻は、サークルのリーダーに思いを馳せ、「高齢の孝之さんにうつしたら、と心配してくださったのヨ」とつぶやいた。
その後、29日に再々来訪時の知範さんから、とてもありがたい報告があった。力持ちの学生と2人で組んで、3本のゴボウの筒育て用の土を一輪車で運んだ時の印象だった。
力持ちの上に積極性に富んだ性格などは申し分のない若者だったが、他に大事な身につけたほしいことがある、との指摘だった。それは私が、いつも学生をここに迎える時の心構えでもあった。2度と同じことが起こらない4次元空間での適応力の問題、と言っていいではないだろうか。
唐突な事例を出すようだが、それは、スポーツの1つになったボルダリング競技を目にした時の、いつも感じてきたイライラだった。なぜ競技毎に装置に変化を付けないのか。自然界のごとくに、手をかける突起部の幾つかが、外れ落ちるようにしておかないのか、など。それへの適応能力を競う競技にして「ハウツーとマニュアル、並びに体力」の差だけでは命取り、を実感し合う競技にまで次元をあげないのか、とのイライラだ。
自然界で木登りでもすれば、3日もせずに身につく感覚を、なんとか社会に出る前に身に着けてほしいと私は願う。確か、『「想い」を売る会社』で紹介したように思うが、パタゴニア社の幼児デイケア―施設では、そのセンスも身につけさせようとしていた。
エピソードⅣ モッテノホカの定植地準備
畑仕事は、苗床で育てたキクナの苗を畝に植え付け、第3次アイトワ菜の種をまき、その畝をトンネル栽培にすることから当月は始まった。
冬野菜の生育は好調で、多彩な青菜の収穫が順調になり、食卓を生き生きと彩り始めた。だが、この冬は、なぜか今頃に、レタスが薹をたてた。
初めて粒ぞろいの20日ダイコンが採れ、すぐに採り尽くした。直まきした第2次スナップエンドウの発芽は不調だった。だから、第2次の20日ダイコンは直まきし、第3次スナップエンドウは温室で、ポット苗の準備をした。
コイモとヤーコンを掘り出し、その跡を仕立て直し、いつでも新規栽培を始められるように準備し、掘り出したコイモとヤーコンの越冬分は「室」に入れ、室の蓋に防腐剤を塗り直した。
この冬も混合レタスの種を苗床にまいて、育てた苗を2か所の畝に定植したが、驚くほどの生育差が出た。原因は、苗を定植する1週間のずれと、トンネル栽培であったか否かの差異だった。1週間早く、且つトンネル栽培にした方は収穫期に入ったのに、1週間遅れた上にトンネル栽培にしなかった方は、まだ大きめの苗、と言ってよい有様。
そこで急いで13日に、大きく育った方は、ビニールシートをはがし取り、霜よけのレースカーテン地を被せ直した。
このはがし取ったビニールシートを転用し、生育が遅れた方をトンネル栽培にした。次いで、となりの畝のスナップエンドウに霜よけのレースカーテン地を被せた。その2日後にアラレがパラつき、17日の初積雪、その翌日が本格的な降霜だった。
15日に、キャベツの苗を5本買い求め、苗床で育てたシュンギクの苗と一緒に1本の畝に植え付けて、トンネル栽培にした。キャベツは、せめてお好み焼きだけでも自家栽培したキャベツと、との一心が植え付けさせたが、時期が遅れ、しかも日当りが悪い畝しか残っていなかったことを残念に思っている。
それにしても、と思う。6日にコイモを掘り出した時に、その畝の肩に2本のカラシナ風のヤサイが自然生えしていた。同じく露地栽培なのに、畝で人為的に育てた菜とは違って、その立派な育ち方に改めて驚かされている。
この2本を始め、畑のあちこちで勝手に自然生えしたカラシナ風のヤサイを収穫してまわったが、妻は2日置いて塩漬けにした。
それが下旬には漬けあがり、賞味が始まった。先月、諏訪土産に野沢菜漬けを買って帰り、その美味を楽しんだが、菜の種類の差もあってか、調味料などを使っていないわが家の素朴な味に本物を見てとっており、古漬けになるまでの楽しみに思いを馳せた。
この漬け時には野菜くずが出たし、サッと湯がいた汁も残ったが、ゴミや排水にはしない。野菜くずは堆肥の山に、湯がき汁は、いかにも滋養に富んだエキスのかたまりのようなので、野菜の畝の水やりに活かした。
この冬は畑で、2つの大仕事が待っていた。共にカボチャコーナーでの作業と言ってよく、同時に2種の宿根野菜の繁殖を促す作業でもあり、老後に備えた作業である。
カボチャコーナーではカボチャを育てる場所とニラの定植場所を入れ替えることにした。これまでニラを育て来たところでカボチャを育てることにして、ニラの株を掘り出し、カボチャを育て来た場所の他に、幾カ所かに分けて植えた。庭の随所(広縁の前やビオトープなど)で宿根のニラを育てることにした。
もちろんこの作業は、ニラ畑にササの根が進出し、はびっこっていたので、その退治がキッカケになっている。このササの根は、獣害フェンスを張り巡らせた関係で、フェンスの下部に残したササが暴れ出したものだ。そこで、この冬はフェンスの両側から深く掘り返し、根絶させることになった。
折よく、その深く掘り返した帯状のスペースを活かせばよい格好の作物に気が付いた。それは、これまでは他の獣害フェンスに沿って育てていたモッテノホカ(食用菊)だった。
この花を今年初めて収穫し、その美味しさと重宝さを知ったが、問題はシカにとっても好物であったことも思い知らされたことだ。獣害フェンスは畑の外周沿いに張っていたからシカは自由に食べられた。ところが、今度定植場所にしょうとしている獣害フェンスは、その外側にニラとカボチャのコーナーを作り、その外側にも獣害フェンスを張ったものだから、この扉を閉め忘れない限りシカは入れない所、ということになる。
その予定地に、これまではボウの筒育てに用いてきた肥えた土を投入した。
これで、旧来の各種山菜(タラ、ウコギ、フキ、ノビル、あるいはセリなど)や自然生えさせてきた野菜(ミツバやシュクコンソバなど)に加え、ニラとモッテノホカが自生種の仲間入りすることになった。
エピソードⅤ こぼれ話
この度は、詩人の山口さんが、私の野良着がまだそれほど汚れていなかった時にヒョッコリお立ち寄りくださって、写真を撮り、それを送っていただけたことから始まったような一面がある師走となった。しかも、こんな自分の笑顔を初めて見た。
その後、「この方が山口さんのお友だちの森田道子さん」と、妻が写真で教えてくれた人があった。山口さんたち同人詩集『左庭』の表紙を飾ってきた挿絵の作家で、友人の大崎晶子さんと一緒に立ち寄って下さった。その時は、チラッとお見受けしただけで、野良着があまりも汚れていたので私は名乗り出ていなかった。
そこで、これ幸いに、と山口さんに電話を入れた。森田さんと改めてお尋ねくださる約束と、初めて見た自分の笑顔の写真を新著のポートレイトに用いさせていただきたく、許可を得た。
その後、久方ぶりに、かつて顧問をさせてもらっていた中村夫妻にも訪ねていただけた。元は西陣織の老舗だったが、その技術などを生かした業態変更を見事に仕上げ、中興の祖となった上に、息子に移譲。また、これまでの大き過ぎる居宅から2人暮らしに向いた新居への転居を決めた、と知らせてくださった。
コロナ騒ぎのオカゲで初めて映像による遠隔会議に参加する機会も得た。その参加者の中に二人の方が初対面でもあり、映像故の遠慮もあって、お行儀のよい発言で終わってしまった。とはいえ、繊維業界の1つの大問題に、1つの光明を見出すことが出来たので、いずれ花開かせる上で、お役に立ちたく思った。
フィンランドの明朱花さんとの交信もかなった。2カ月前に受け取った(価格表示がなかったユーミンの)切手も話題に出した。30年近くも前のアメリカ(出張時に買い求めた同様)の切手を探し出していたので、少し突っ込んだ話ができた。
当時のアメリカでは、郵便料金が明日にでも値上がりしかねないほど郵便事情が変化していた。だから、旅行者にはとりわけ不安だった。だが、この切手さえ張っておけば、日本まで配送されることを保証されている、と聞かされ安堵したものだ。
明日香さんは、日本までの切手を郵便局で求め「この切手を」を手渡され、支払った料金は覚えていたが、料金表示の有無には気づいていなかった。
彼女は、料金無表示の事情を確かめそうだし、私はこのアメリカの切手を貼れば、当時の約束が今も果たされるのかなどを確かめたくなった。
それはともかく、明朱花さんの写真を見ながら、彼女は彼女にピッタリの国情の地で暮らしているようだ、と感じた。
その後、屋内で、初見の蝶、これまでに見たうちで最小のチョウを見つけた。ソッと捉えて逃がそうとしたが、既に死んでいた。
悪天候の日は、こわれた鎌や斧を取り出し、柄の新調に取りかかった。鎌と手斧は、使い忘れて庭で見失い、雨にさらしたりして柄を弱らせた自業自得の尻拭いだ。近年は大型HCでも既製の柄を売っておらず、何年も前から適度な木切れを取り置いておいてヨカッタと思った。こうした心準備をしてあったときは、そして何時間もかけても新調できた時は、その後は決まったように忘却率を減らしている。だから、これもボケ防止策、と心に決めた。斧の柄は既製品があったが、チョッと弱そうだ。
庭では、サルが出没し、色づいたキンカンをことごとく食べたので、キンカン、レモン、そしてユズにも寒冷紗を被せた。
極めつけは裕一郎さんの治療を受けて、知範さんが「側アレルギー」を癒やせた、と嬉々と知らせてくれたことだ。これがキッカケで祐一郎さんとしばし語らったが、彼がまさに目からうろこの経験をしていたことを知った。
それは、治療中に患者さんがさめざめと泣き始めたことで分かったことだという。その人は突如として、その治療中に長年の疑問を解消した。交通事故を起こした時の決定的瞬間をどうしても思い出せなかったが、内臓疾患の治療を受けている時に、突如として、自分がどう部位から衝突したのかを、その情景を思い出したという。
私には思い当たるフシが幾つかあるので、話しは弾んだ。
次いで、かなり厳しい作業に1人で久しぶりに取り組んだこと。緑の天蓋の剪定中に、ほぼ終えた時に、お茶を運んできた妻の提案に同調し、3本のクヌギを間伐することになったこと。その下部は元、フキとミョウガの畑だったが、間伐することでその再現も可能だろうし、緑の天蓋の剪定作業を半減させられる。また、今なら切り取った木をシイタケのホタギに活かせる。そうと見込んで、即刻1人で取り組み始めた。
1番太い1本は、ロープを用いる作業になったが、幸運も手伝い、3本共に半日で切り倒し、ホタギ用と燃料用の分別まで済ませた。
こうした合間に、岡田さんに無理を言って、映画会を開催した。幸か不幸か出席者が欠け、奈良と滋賀のお二人と計4人の開催となり、三蜜にならず、妻を安堵させた。
アメリカ人の目を通して観た沖縄戦で、その最激戦を描いた映画『ハクソ-リッジ』だったが、背筋が凍った。かつて映画『沖縄スパイ戦史を』を観たり、その原本にも目を通したりしていたので、当時の日本の指導層がいかに国民を追い詰め得ていたのか、その心境のほどまで憶測することができた。
ヨーロッパ戦線の後、太平洋戦線にも参加した従軍記者は、日本兵のありようを知って「ドイツの兵士も酷かったが、まだ人間だった」との手記を残した。
今では、日本の陸軍も負けると分かっていながら開戦に踏み出したが、それは国民を好戦的に囃し過ぎてしまい、引っ込みがつかなくなった事情があったことが知られている。だから、国民をとことんまで締め上げ、傷めつけることもできたのだろう。
それが敗戦後も、直接戦闘に巻き込んだ軍人や遺族には60兆円もの恩給などを支給していながら、銃後の国民には受忍を強いて当然といった心境にさせているのかもしれないし、多くの国民も保証を求めておらず、そうされて当然とでも感じているのではないか。
それはともかく、背筋が凍り、背骨がカチカチになる鑑賞となった。つくづく、『大方向まで夢想させた旅』や『地球「を」喰うか、地球「で」喰うか』を記しておいてヨカッタ、と思わせられている。
妻との夫婦ゲンカの仕方を、遅まきながら、改めさせられそうな心境にされている。それは、コロナ騒ぎ再燃のおかげで道がすいており、京都市内まで車で送ってもらえたオカゲだ。1人で妻は帰宅の途に就いたが、語るに落ちる道の迷い方をしており、その原因を知るに及びは、口論の仕方を改めなければいけない、と思い知らされている。
元アイトワ塾代表のお二人に、暮れの挨拶にも来てもらえ、しばし時勢などを語る時間を得た。思えばお二人とは、30年以上の付き合いだ。
他にもいろいろなことがあった。爽快に1年を締めくくるうえで、45周年記念のようなミニ催しと、翌大晦日の3度目の薪割がとりわけ有意義であった。
もう何回目であろうか、と振り返ったこのミニ催しは、厭離庵の大澤ご一家と一緒に取り行ってきた注連縄づくりのことだが、私にとって、劇的な数時間になった。初期はウラジロが裏山で採れたが、この間にあった山の改変によって採れなくなっている。4人家族で始まったが5人になり、3男は既に縄ないなどに挑むまでになっており、次男が1年前の兄並みに縄がなえるようになった。
そこで私は新たな挑戦をした。まず、旧来通りにあんだ縄で新作に取り掛かったが、なんとも賑やかなことになった。
この日は、わが家では餅づくりの日でもあり、昼時に妻は安倍川餅を振る舞った。例年の「きな粉」と「大根おろし」に加え、今年から「海苔巻き醤油」の安倍川餅が加わり、何とも楽しかった。
その後で私は、ワラを1本ずつ足してゆき細くて長い縄をこっそり編み上げ、それで新作に取り掛かった。それがさらに期待以上の反応に結び付けた。長男は、私が網あげた縄を見ただけで、なんなく同様の縄をあみあげただけでなく、独自の新作に挑戦。干支の丑だという。
これに加えて、3男は一人遊びに夢中になったので母親も創作に加わり、その作を3つの玉児を抱えた母龍だとおっしゃった。
この間の話題も豊かだった。木登りなどが得意な3兄弟は、コロナ騒ぎで在宅期間がタップリ出来て、存分に楽しめたご様子だった。キットわが家とは異なる仕込みの1年にされたに違いない。
かくして大晦日を迎えた。3日前からお節料理作りに取り掛かっていた妻は、大忙し。私の役目は、注連縄飾りなどを仕上げて、飾りつけと、お鏡餅を飾りつける他は、むしろじゃま扱い。庭掃除はあらかた3日前までに片付けてあったし、大晦日はまだ落ち葉掃除などを許さない天候だった。
だから天候の隙間を縫って、もう1つの斧を取り出し、3度目の薪割に挑戦した。それは、ハナミズキと、今年最後に間伐したクヌギの、ホタギに出来なかった部分だった。
エピソードⅥ 3度にわたった肝胆相照らす語らい
その最初は5日のことだった。岡田さんと一緒に、元教諭の井上良一さんと、この教諭を著作で紹介された梶山壽子さんを待ち受け、迎えることから始まった。
今は教育研究家の名刺でご活躍と知ったが、子どもたちの無限の可能性を信じ、引き出そうとする姿勢に共感を覚え、挨拶もそこそこに歓談に移った。
カリキュラムやチャイムに従わずに、国語、音楽、そして体育を基本に、修学中のすべてが総合学習のごとき展開だった。教室の壁面を飾る、活かす、あるいは張り出す資料などの工夫。一般は高学年から始める家庭科の授業の前倒しなど、一つ一つに心惹かれた。
この日、妻はピザ釜で焼いた個性的なピザ(こげくあいもまちまち)を振る舞ったが、皆さんに喜んでいただけた。その間にふと私は、最初の恩師を振り返っている。4年生の時の中村小夜子先生は、師範学校を出たばかりの配属だったが、初日の教室に入って驚かされた。壁一面にいろんなものが張り出されていた。その1つが世界地図だったので、初めてアメリカの位置も分った。
その3年前の何か月間かにわたって、私にはジミーという白人青年の友達がいた。京都に駐屯し、大建ビルという仕事場にサラリーマンでもあるかのように通う進駐軍の一人だった。近所の2階を借りて、「オンリーさん」と呼ばれていた若い女性と棲みついていた。
中村先生の世界地図を見て、ジミーのその後の居場所が分かったような気がした。
また、ジミーとの付き合いがあったおかげだと思うのだが、最初の海外出張はアメリカであったが、私は少しも緊張せずに済んでいる。
過日、FM京都での収録で、初めて妻を元大建ビルまで連れ出したが、なぜか床板だけは当時のままと見て取り、妻と懐かしみ、わざわざ写真に収めたが、これもジミーとの付き合いがそうさせたのかもしれない。
中村先生が、この井上先生のように、世界の時刻が分る時計を壁に飾っていたら、私は時差にも、もっとうまく溶け込めていたのではないか。
井上先生と語らいながら、教育の本義に思いを馳せた。それは、それぞれの人がもって生まれた潜在能力に(雑念に惑わされずに) 気付き、それを屈託なく表現出来るようにすることではないか。少なくとも次代はそれが必然になるだろう、と思った。
教育は、どのような時代や環境になっても、むしろ激変があっても、それをドラマであるかのごとくに受け止め、嬉々と適応する心構えを授ける「施し」であってほしい。
独断と偏見かもしれないが、環境変化に強くて、個性を抑圧されていないと、イジワルやイジメに走る率が軽減されるように私は見ている。
別れ際に、梶山壽子さんの著作(井上良一先生の活動を紹介した)が中国語訳され、中国で発売されていることを知り、我ごとのように嬉しく思った。
2つ目の肝胆相照らす語らいは翌日のことであった。十輪寺法主であり、スリランカにも拠点をお持ちだし、他にも後藤有美さんに聲明舞・伝承舞踏家として花衣天女の名前を授けておられるなど幅広くご活躍の僧侶、泉浩洋法主をお迎えした一時だった。
過日、山下有子さんの真如堂でのコンサートに網田さんと出掛けたが、それがヨカッタ。声明の歴史にいささか興味を抱いてきた私だが、あのコンサートと声明が何らかの共通項を持っていそうな心境にされていたからだ。だから1時間や2時間では到底語りたらない会話をさせていただけた。
泉法主の人となりに惹かれ、またその闊達さに勇気を授かり、桜の頃にお訪ねさせていただきたくお願いしたが、実に待ち遠しい。
3度目の肝胆相照らす語らいは19日のことだったが、ある1つのモヤモヤを解消できたような気分になった。
イスラエルの物理学者エリヤフ・ゴールドラット博士に請われ、ゴールドラット・コンサルティング・ディレクターに就任し、今は(株)ゴールドラット・ジャパンのCEOとしてもご活躍の岸良裕司さんを、岡田さんの紹介でお迎えした。
ゴールドラット博士著の「ザ・ゴール」や「ザ・ゴール2」は世界で数百万冊も売れている。岸良裕司さんの著作『考える力をつける3つの道具 かんたんスッキリ問題解決! 』 は夫人で絵本作家のきしらまゆこさんとの共著で、これもベストセラー。
岸良裕司さんは、女性の服飾にくわしい専門誌WWDや医療業界などさまざまな分野での活動に携わっておられる。WWDといえば、私は伊藤忠ファッションシステム時代に必読誌のごとくに位置付け、たしかDNRというアメリカの繊維業界版の専門誌と共に毎日目を通していた。
この日は、梶山壽子さんの著作『アパレルに革命を起こした男』などを通して、彼女との面談もご希望ということで、梶山さんを交え4人で実に愉快な時間を過ごした。
岸良さんは庭づくりにご傾注のご様子で、拙著『京都嵐山 エコトピア便り』をご持参で、庭めぐりを所望された。その途中で、芝の手入れなど、その傾倒ぶりを伺ったが、同好の士でありそうだ。いずれお宅をお訪ねし、庭を巡らせていただきたい。
最後の話題に、そのただならぬ発想にとりわけ私は心惹かれた。それは人類が心を一つにして取り組めば、新型コロナウイルスなら2週間で克服できる、と見る論理だった。
過去1年を通して、コロナ騒ぎなど感染症への人々の立ち向かい方が、その差異が、新たな格差の要因になりかねない、と危惧し始めていた私は、とても心惹かれた。
それは「上から目線」という言葉がささやかれ始めた時にも感じた危惧に似ている。現実に、この言葉の流布と足並をそろえるようにして貧富格差が露わになったが、感染症への立ち向かい方の差異は、貧富格とはまた異質な格差を生じさせかねないだけに心配だ。
さらに言えば、その格差がこれまでとは異なる国家間の格差の要因になりかねず、気が付いた時には既に取り返しがつかないほどの差異を生じさせていた、ということになりそうだ。あえて言えば、次の文明への適応力に差異を及ぼしそう、と睨んでいる。
中世におけるペストのパンデミックが工業文明に誘ったが、今日のパンデミックはそれ以上の移行差異を生じさせかねない問題をはらんでいる。それだけにこの発想を謙虚に受け止めたく思った。
ヒョットすれば、大晦日の薪割はこのワクワク感が挑ませたのかもしれない。