正月は2件の来客から始まったようなもので、共に祝箸をお持ち帰りくださった。元旦のまつりごとは妻と、いつものごとく2人で済ませ、お節料理は来客と昼近くまでかけて楽しみました。次いで2日は昼前に、3泊4日の初逗留客を迎え、晩酌続き。3晩続けての晩酌は久しぶりでした。本格的な寒波の襲来は、その3日後の夜でした。
まず凍結対策を済ませて置いてヨカッタ、が翌朝の心境です。次いで七草粥で胃の腑をなごませながらTVをつけ、「案の定」との心境に。トランプ支持者の米議会乱入を知った時の印象です。その後10日には、温室内の初凍結を知ってビックリしています。
この間に、5つの作業に当っていますが、外出は8日に2時間ほど、歯科医のみ。5つとは、新著の校正作業に着手。第3次スナップエンドウの苗を植えつけて、トンネル栽培に。凍てつく畑での天地返し。鎌と鉈の手の付け替え。そして妻と旧玄関前の掃除、です。他にも、46回目の結婚記念日。絶好のインターバルになった来客。餅尽くしの昼食。薪ストーブ初焚きの来客。干しガキ三昧の午後のお茶。あるいは、昨年を振り返りながら、この1年の意義と課題に想いを馳せ、ある小さくて大きな決意を固めています。
それは、グテーレス国連事務総長が悲愴な面持ちで、工業時代のいわば尻拭いの期限を2030年と区切りましたが、日本の破綻を2025年と見て来た私は、得心です。
中旬は、本年最初の会議。2次校正を済ませた原稿の返送。書斎での「クロス遊び」。そして心臓の初定期検診、がトピックスでした。クロス遊びとは、これまでに記録してきた事件や現象などをつなげる作業で、これまで見えていなかった糸や網のようなものに気付く遊びです。これも歳をとる楽しみの1つでしょう。通院では新たな弱点が見つかり、服用錠剤が増えながら、その原因や対策を聞かずに帰り、妻に叱られました。
他に、極寒の11日は屋内で、鉈の柄の仕上げに3時間。次の日はその試し使いで20分。翌3月並みの陽気の日は、半日かけてカボチャとニラのコーナーの仕立て直し。グンと寒さが戻った14日は、新調した鎌と鉈の手の防腐加工。また3月並みの陽気になった翌日は、ベルト地と呼ぶことにした庭の一角で、竹やササを切り取り、カエデの落ち葉を敷き。その後は、鎌や鉈の刃を研いで、その鉈で初の鉈仕事と薪束ね。ブロッコリーをサルと霜から守るカバー被せ。あるいは妻とフキ畑の復活作業など、に当たっています。
こうした合間に、新著の2次校正を終えて平野さんに発送。根をつめたメールづくり。あるいは新著で用いる写真の追加説明など。文章創りに関わっています。
下旬はチョットヘビーな庭仕事に費やしました。まず今年初の大焚き火は妻と。ハクウンボクやダチュラなどの剪定は1人で。そして知範さんとクルミやプラムの大剪定、といった調子ですが、佛教大生を迎えさせないコロナ騒動を残念に思っています。
それだけに、伴夫妻に訪ねてもらえたことが嬉しかった。身の振り方の報告と息子の将来の相談でしたが、息子を農業高校へ進めさせたいとの意見に膝を乗り出し、その候補の高校を訪ねることを私は希望。4日後に出かけましたが、妻が「私も」と同道。
この見学で元気をもらったようで、シナモンの大剪定では8段脚立の天板に乗ってエンジンソーを駆使する始末。しかし、これを最後に、と自分に言い聞かせました。その後、妻と2人で畑の除草に取り組み、はかどったこと。月末は、妻とビオトープの土手掃除に励めば、そのご褒美かのごとき教師冥利の贈り物に恵まれました。
~経過詳細~
1、美味求心
元旦のまつり事は例年通りに、妻と2人で取りおこなったが、今年も妻は仏壇に、父好みの庭の花と、母好みの買い求めた花を組み合わせていた。
三が日の朝と夕の食事は、例年通りにお節料理と、朝は雑煮を、夕は澄まし汁か茶わん蒸しを添えた、だけで済ませたが、その多くを遠近の来客と一緒に味わえた。おかげで、いかにも新しい一年、との改まった気持ちを胃の腑にも染み込ませた。
この度は、お節造りにチョコッと私も関わったので、元日にご一緒した人との話がとりわけ弾み、亡き実母と義父だけでなく、四国に思いを馳せた。実は、暮れに小さな五角形の紙を作らされたが、それは和ニンジンを梅の形に細工する小道具だった。それが上出来と妻に褒められたものだから、元日に招いた客にチョコッと披露し、四国のご出身だったことを知るキッカケになった。
「父の担当でした」とお節料理づくりを振り返られた。そこで、四国の出の妻の父が、元旦の火起こしと、雑煮つくりを受け持っていたことを思い出した。おかげで、四国の出の母をしのぶだけでなく、ある記事を振り返り、古代にも夢を馳せることになった次第。その記事は、古代日本人の遺伝子を調べて、縄文など先住系と、新渡来の弥生系の混じり具合を明らかにした研究成果を紹介していた。
だから、国生み伝説や記紀の意図などを探り、古代のロマンに浸りたいなあ、と思った。その矢先に、なんと四国は徳島の野田先生から電話があり、今年最初の以心伝心かのごとき心境に。バチカンとの接触での新ニュースを伺い、現教皇へのある想いもつのらせた。
この正月は、くだんの白味噌雑煮だけでなく、とりわけおいしい澄まし雑煮にもありつけた。それは、30年来親しませていただいている紫野の白味噌や、10数年来の小田原のカマボコに加え、昨年のコイモの出来が格別であり、しかも餅を、妻が暮れにまとめてつくるのではなく、小分けして造るようになったおかげ。まず舌を、次いで弱った歯や、のど越しまでを十分に、それらが喜ばせた次第。
さらに餅三昧も堪能した。善哉はもとより、餅だけの昼食を3度ばかり所望したが、その1回は「餅尽くし」で、2種の焼き餅に3種の安倍川餅がついた。寒波のおかげでオデンの回数も増えたが、出来の良いコイモだけでなく、餅を揚げで包んだ一品も美味。
この冬は、干しガキ三昧にも浴している。とても甘くてやわらかい品から、これは兵糧攻めへの備えが元祖であろう、と見まがう品などをいただいたおかげ。
極め付きは暮れに頂いたサザエだった。とりわけ頂き物を丁重に扱う妻だが、暮れにつぼ焼きで晩酌をたしなんでいると、妻が奇妙なことを始めた。「新鮮な間に」と、残りをまとめて焼き上げて、1つずつ丁寧に、クルリと巻いたサザエの腑を、先ッポまできれいに引き出して見せた。そして、常は「これも写真に?(撮るのですか)」と不満げな妻が、急いでカメラに収めさせ、その上で新春の酒の肴にとパーシャルにしたが、それがヨカッタ。これが火に油をそそぐかのようなことになって、年末年始に生じたさまざまなことを振り返ってしまい、私にとってはとても大きな決意を固めている。
2、小さくて大きな決意
義妹の娘夫婦が暮れに、やっとのことで特殊な陶芸釜を完成させたが、その火入れ時の写真を届けてくれた。これがそのキッカケであったようで、私はこの度、心を新たにすることがあり、あることを心に決めた。
この決意を守り通すことが出来たとしたら、私は自分を褒めたい、と思う。それは、生涯で性格を大きく変える2度目の経験になる。
一度、商社時代の私のニックネーム「怒り金時」を知る妻に、「聞いてアキレタ」との心境にさせたことがある。ある日「温厚なモリさん」と、再就職した会社の社長夫人との旅先で聞いて、妻はもう1人のモリさんがいる、と思ったそうだ。だが、「孝之さんのことでした」とあきれて、シゲシゲと覗き込まれたことがあった。
実は、この陶芸窯は、「白雲釜」の村山さんご指導の下での完成だし、村山さんを義妹に紹介したのは私であった。だから、火入れの日には私も招かれていた。だが、所用があって参加できず、村山さんとお会いする久方ぶりの好機を逸していた。
その後、1つの来訪予定が入り、この9日に川上さんを迎えた。だが、その時にも思い出せていなかったことがあった。それは、川上さんと「白雲釜」の村山さんが旧知の中であったことだ。このお二人とは、ある染色家の集いに招待された場で出会っており、その後、このお二人とは付き合いが始まり、今日にいたっている。
「そうであったか」と気付いたのは、新著の校正時だった。新著には川上さんには呼びかけていながら、なぜか村山さんにお声がけを失念していた。それはどうしてか、と反省し、やっと思い付くところがあり、余計に残念な気分になっている。
この間に、川上さんの故郷・鹿児島は牛深まで妻と出掛けており、今は亡きご母堂との親交も楽しんだ。もちろん、村山さんのお宅にも妻と出掛けており、そこで見たピザ釜を、村山さんのご指導の下に、アイトワでも造っている。ここまで思い出を手繰り寄せたときのことだ。「あれが『お守り』になっていたンだ」と、思うところがあった。
それは、私が村山さんに頼んで「骨壺」を用意したことだ。当時は、いつ何時就寝中に、わが送血ポンプが止まらないとも限らない、と覚悟していた。だから、やすむ前に「明朝は」との想いを巡らしたものだ。だから、少しでも妻が慌てないように、と思いたって骨壺を用意した。
ところが、その後、毎朝、無事に目覚める日が続き、いつしか「明朝は」などと考えなくなった。この壷の用意が心を鎮め、健康的な日々にしたのだろう。思い直せば、そのときから既に7年間もの年月が経過していた。この間の、良かれと思って始めたことが、いつしかマンネリ化していたことになる。その気のゆるみが良からぬ方向にエスカレートさせた恐れがある、「何度言えば、分かるんだ」となっていた夫婦ゲンカのことだ。
この7年間、しばしば繰り返す夫婦ゲンカのことを、その度に「私たちは仲良くなっている」と私は胸を張って来たかが、いつしか妻が「甘く見ていたら怖いよ」と脅かし始めていた。この一言を振り返り、「私は誤解していたのかもしれない」となった。
その後、フィンランドの明日香さんから届いた写真を振り返る機会があり、心を新たにしている。彼女のご主人・カールさんはカメラマンだから、カールさんの腕にかかれば、この私も良きおじいさんに映るわけだ、と思っていた。だが、違ったようだ。この写真を撮ったのは、この家族が日本を去る挨拶に見えたときのことだった。
そのときはまだ、私はグテーレス国連事務総長の「2030年の話」は知らなかった。だが、似た心境で、「お元気で」との想いを込めてこの子を見送っている。カールさんはその想いの一瞬をとらえたに違いない、と感じた。これも反省の予告編かのごときにことになり、次第にある素地を固めていったようだ。
おかげで、暮れの外出時の、ある謎も解けたような気分にされた。その日は「(路が)空いていますから」と、珍しくも妻が言いだして、いつもの「バス停まで」ではなく、市中の訪ね先まで送ってくれることになった。となると、方向音痴の妻が、市中の大通りで反転し、そこから引き返すことになる。市中に車で出るのが大の苦手な妻を慌てさせかねない。そこで、あらかじめ助言をしておくことにした。
それは、大通りの信号がないところで右折れする見送りだったが、どこで私を下ろし、その後どのようにとって帰すかの注意事項だった。
対向車の有無やその遠近などによって2案を考えた。1案は、安全をとって右折れしたまま一方通行の道に入り込むことを薦めた。少し走れば私の訪問先がある。だから、そこで私を下ろし、その後の帰り方を教えた。碁盤目状の市中だから、最初に目についた右折れ可の道を探して折れて入り込み、さらにもう1度右折れ出来る道に入り込めば、自動的に元来た大通りに出る。そこで左折れすればよいだけ、と教えた。
だが対向車が遠方にも見えなかったので、第2案を採用させた。それはUターンして車を止め、私を下ろさせ、そのまま来た道を真っすぐ引き返せばよいだけのことであった。ところが、訪問先での仕事を終えて帰宅して、聞いてアキレタ。なぜか妻は、右折れして良い道を探しており、入り込んでしまい、迷いに迷ってしまったというではないか。
幸いこの時点では、既に妻も平静を取り戻しており「原因は我にあり」と分かっていた。だから、いつものごとくに迷った原因を突き止め、再発防止に役立たせようとする話を持ち出さず、「気を付けよう」といっただけで終えた。
当年の、最初の外出は6日(水)の歯科医だった。この時にもチョッとした問題が生じた。朝食時に診察券でアポイントを確かめると6日(水)ではなく9日(水)とあった。
妻は「無駄足になっては」と思ったようで、電話での確認を薦めたが、予約は朝一番であり、電話の受け付けもその時刻からしか始まらない。そこで、ある確信をもって「この無駄は相手には迷惑をかけない」と言って車で送らせた。
確信通りに6日でよかった。そこで帰宅後、そうと確信した訳を妻に説いた。つまり、私たち2人は日付の9日と、9日は土曜日だがその歯科医は土曜日も開院日だから、9と土のいずれが誤記かと「迷った」わけだ。だが私は経験則で、9が誤記に違いないと確信している。なぜなら、予約時刻が9時だったから、その9が受付嬢の頭にあり、誤記させたに違いない、と私は判断できたからだ。それが正解であった。
だから、後学のために、想うところをキチンと妻に説明した。だが妻は、その説明などは上の空で、「2度足を踏まずに済んでヨカッタですね」と応じた。
いつもの私なら、「鐵は熱いうちに打て」ではないが「そのような受けとめ方だから、いつまでたっても直せないんだ」と叱っていたはずだ。だが、このたびはなぜか叱る気もしなかった。それがヨカッタようだ。
おそらく、陶芸釜というキッカケや、その後の幾つかの予告編が重なっていたオカゲに違いない。かつて毎夜のように「明朝は、無事に?」と思っていたころは、その切迫感に急かされて、クダクダとした経験則や反省などを根拠にして、類似の間違いを妻が犯さずに済むように、と私は躍起になっていた。だが今や、妻の受け止め方は異なっていたようだ、と感じ始めたからだ。むしろ、私の考え方の方を改めた方が賢明ではないか、と。
振り返れば私も、高度経済成長時代に突入し、勢いづいていたわが国にあって、総合商社に就職させてもらっていながら、私はすべての人に「時代に逆行」と笑われながら生き方を改めていない。うかれた時代の潮目に乗ろうとはしなかった。
頭ではもちろん私も、高度経済成長時代だと意識しており、つまり工業デザイナーを必要とする時代だと考えた進学もしている。にもかかわらず、それでよしとしない意識が心のどこかにあったことになる。ここまで考えが至った時に、「ヒョットすれば」との不安な気持ちが膨らんだ、いわば予告編に次ぐ本編の始まりだった。
まず、なぜ妻は無事にUターンしていながら「ヤレヤレ」とは考えずに道に迷ってしまったのか、と考え始めた。そのころは、アイトワの一帯では、かつてない冷え込みに襲われており、大地は凍土のようになり、野菜は凍てつき、私たちは屋内に閉じ込められていた。
だから晩酌の肴に、妻はサザエのつぼ焼きを用意したが、それがヨカッタ。きれいに妻が引き出したサザエの腑の先から私はかじって、味わいながら、「ひょっとすると」と思いを巡らせ始めたのがヨカッタ。
妻も「ヤレヤレ」と、思ったのだろう。だがその「ヤレヤレ」が逆に、錯覚をさそったのかもしれない、と考え始めたからだ。「バス停まで」ではなく、訪問先の最寄りまで無事に送ることができて「ヤレヤレ」であったわけだが、その「ヤレヤレ」の思いが「聞いてアキレル」に結び付けてしまったのではないか。つまり、私を訪問先まで送り届けられたような錯覚をさせてしまったのかもしれない。だから、頭に焼き付けていた私の第1案に沿って、右に折れる道を探してしまったのではないか。
ならば私のこれまでの、方向音痴を直させようとしてヒツコク説いてきた努力は逆効果ではなかったか。むしろ、余計に方向音痴との自覚に恐怖心まで、あるいは劣等感まで植え付けていたのかもしれない。せいぜいが「気を付けて」程度に留めておれば、今頃は自ら工夫して方向音痴や恐怖症を治癒していたのではないか。
私も、いくら「時代に逆行」と笑われても、改めなかったではないか。心の内で「逆行」ではなく「未来志向」だと信じていたし、第一「これは、あなたの為も思ってのことですヨ」との気持ちがあっても口に出せず、耳に入らなかったではないか。
妻も同様に「なぜわかって下さらないのですか」との「我」が先に立ってしまい、かたくなにしていたのかもしれない。背筋に、冷たいものがツーっと流れた。
なんだか肩の凝りが解けたような気分になった。「2025年(に日本は一旦破たんする、と私が見込んできた)問題や、グテーレス国連事務局長が訴えた2030年問題ごときにヤキモキしていたが、それは日本人や人類の自業自得の(欲望の解放に惑わされた)問題」であって、もっと私には身の丈に合った大事なことがあった、と気付かされた。
大事なことは、そうした生きとし生けるものの危険を回避する上で、人間にとって不可欠である生き方の転換と、それが本当に「人間の解放」に供するか否かを人体実験して示す方が、つまり「着手小局」に専心する方が身の丈に合った我ごとではないか、それが身上ではなかったか、との反省であった。
にもかかわらず、その余計な心配が着眼大局のように思われたものだから、つい躍起になってしまったが、その躍起を夫婦ゲンカにまでもち込んでいた恐れがある。
もっとも、当初(数日なり数カ月でお陀仏しかねない心配期)は、少しは有効(な遺言)にさせたかもしれないが、とっくにそのような時期は過ぎていた。マンネリ化させ、噛み合わない夫婦ゲンカにしてしまっていた恐れがある。
あの「骨壺」がお守りになって、油断を誘ったのではないか。キット妻のことだ。大事にしまい込み過ぎて、もはやすぐには「骨壺」をとりだせないだろう。
それはともかく、この己の性格をまた大きく変えざるをえない意識改革を、本年最初の決意にしよう、と思った。そして、思っていただけ、にならないように気を付けて、守り通し、もう一度自分を褒めたい。
3、ありがたかった来客
ご近所に近年「実家に戻り、母親の面倒をみはじめて」いながら、今年も賀状を昔並みにくださった人があった。その母親と妻は親しい間柄だし、今は亡きその父親と私はかつて親しかった。また当人も、遠方に住んでいた頃は里帰りの度に訪ねていた。だから三ガ日が明けると早速、午後のお茶の時間にでも、と電話で誘った。
今は造園業を一人で営んでおり、話題には事欠かなかったし、まるで意向の調整かのごとき質問が3度もあり、想いはいずれも大同小異とわかった。だから、たとえば多様性の尊重というテーマでは、雑多との峻別さえキチンとできれば、などと随分話が弾んだ。
幸いというべきかちょうど今、近所に格好の話題の種がある。マネーゲームで大稼ぎした外国人が、近所で土地を買いあさり、豪邸を新造したり、既存の建物を活かし、内装と庭をいじくったりしている。前者は「自閉作戦」のごときだし、後者は「これ見よがし作戦」のようで、共に一帯とはおよそ調和しそうにない。
前者はこう大な屋敷を頑丈で無機質な塀でとり囲み、垣間見るすきが一部もない。これは当自治会内では最初の例になる。
後者はいかにも高価そうな植木を、植木畑以上に密植させており、これもこの一帯にはおよそ相応しくない。
これらが前例として許されれば、いよいよ私たち夫婦が亡き後の、わが家はどのような姿になるのか、と気になり始めた。悪しき前例が活かされかねない。だが、これは話題にはならなかった。それはそれとして2時間弱の対話だったが、この人に庭づくりを頼んだ人は幸せだろうなと思ったし、よき茶飲み友達が出来たものだ、と喜んだ。
冷え込みの激しい日が続いたが、川上さん来訪の日を妻は薪ストーブ初焚きの日に選んだ。一帯はコロナ騒ぎで森閑としており、新年来この日のような特別な日を除き、恒例の(20日から始まる喫茶店の)冬休みを、妻は不定期に挟んでいた。こうした不定期な閉店日は、開店来、両親が死んだ折も含めて、初めてのことだ。
この日は、午後一番に川上文子さんを迎える予定だったので開店し、薪ストーブで部屋を暖めてお待ちしたわけだが、最初の来訪者は午後一番の彼女になった。妻は3人分のコーヒーを用意して運び、話しの輪に合流した。おのずと話題は文子さんの今は亡き働き者の母親、アリヱさんにおよび、すぐに佳境に入った。
よほど妻は、アリヱさんご愛用の草抜き鎌が、妻が私に加工させた鎌とそっくり同じ形に改良されていたことが嬉しかったようだ。アリヱさんの片身として幾つかの小さな農具を文子さんに届けてもらったが、その中にその鎌を見た時の妻の喜びようは尋常ではなかた。私は道具と機械の間にある決定的な違いに思いを馳せたものだ。
いかなる道具をいかに使いこなせるか、この差異が人間界にあって、貧富格差以上の何かもっと大きな格差を生じさせかねないように思われはじめた。これから、次々と汎用性ロボットが開発されるに違いないが、ヒトと人の狭間をいよいよ広げてしまい、いよいよ人間がアブナイ、と心配になった。この危惧の念がベーシックインカムを発想させているのではないか、とさえ心配になった。この日、喫茶店の来店客はなかった。
2度目の私の来客のために薪ストーブを焚いた日も、ありがたい機会だった。長津親方を始め、伝統の大工道具とそれを活かす技術をいかに伝承するかに心血を注ぐ人たちの集いであった。うまくことが運んでほしいと祈る気持ちで私も参加させていただいているミニ会議の日であった。
次の来客は4人連れの家族で、30年来付き合ってきた父親の仕事を継いだ息子の一家だった。コロナ騒ぎの下でかつてない好業績をあげられた、との報告に安堵した。
最後の来客は、元アイトワ塾生の伴夫妻だった。数年来ゲストハウス経営で当てていたが、ついに手仕舞わせざるを得なくなったという。来訪予定日から10日ばかり遅れたが、それはコロナ騒ぎでスイスに帰れなくなった一家のケアーだった。
この日は、知範さんを終日迎える日であったので、伴夫妻と一緒に午後のお茶の時間を過ごした。それがヨカッタ。話題が観光ブームとコロナ騒ぎという市況だけで終わらず、息子の進学についての相談もあり、知範さんにも後学のためになったように思う。
伴さんは父親として農業高校への進学を息子に薦めていた。だが、息子は普通高校を希望していた。この少年とは誕生来私たち夫婦は付き合いがあり、他人ごととは思えない。だから、私は主に時代を読んで、妻は当人の強みや性格を主に考えて、農業高校を共に薦めた。
当人希望の普通高校は歩いても行けそうだ。農業高校は列車とバスを乗り継げば通えなくもない立地だが、寮もある。普通高校は2~3の特色を聞かせてもらい、推して知るべしと感じたが、後者はそうはいかない。そこで一度、私も見学会に参加したくなった。その願いは1週間もせぬうちにかない、当月3度目のそして最後の外出となった。
建学40年の府立高校だった。私は短大時代に幾人もの農業高校出身者と触れ合っている。その頃の印象を裏打ちできたような心境にされた。自然豊かな環境で動植物と触れ合う機会が多く、やり遂げるチカラ、目的のためにチームを組み協働する精神、あるいは、自分のことはひとまず置いて責務に尽くすココロ、こうした要素がなければ務まらない実習が多い学びであり、それが故の日々の振る舞いに感心させられた。
こうした要素はテストでは推し量りにくいし、判定もしにくい。実は私も、結果から気付かされている。女子学生のさまざまな日常から垣間見るさまざまな特色が常に気になっていたある時、それぞれのライフスタイルが、どのような立場や体験などに左右されかねないのか、が話題になり、アンケートをとって、自覚し合う機会があった。
父や母の死だけでなく、愛する家畜やキンギョも含め,死と立ち合った体験の有無。兄弟の有無や数。あるいは核家族か3世代家族かなどに加え、普通高校か農業高校かにも、大きく影響されかねないことに気付かされた。
これからの社会、つまり工業時代が破たんした後の社会は、ヒトにこれまでとは異なる要素を求めかねない。そのような訳の分からないことを考えながら興味津々で見学したが、妻に至っては、この高校には夏休み期間を活かした大人用の短期講座がないのか、あってほしいなどといって目を輝かせた。
このところ飛び入りの来客は激減だが、ハッピーも一緒に大歓迎したのは厭離菴の冬青君だった。お母さんにねだって、ハッピー目当ての来訪だったが、早く1人で訪ねられるようになって欲しい、と願わずにはおられなかった。
4、当地で初体験の冷え込み
この冬の寒さは、アイトワの一帯では1987年来の、温室をつくって以来のことだ。このたび初めて、温室内の水槽や水鉢が凍結し、オリズルランやベンジャミンゴムなどに初めて被害が出た。これまでは屋外で充分過ごせたロッコウサクラソウでいえば、屋外の分は初めて葉を黄変させ、加温なしとはいえ温室内の分は異常なしだった。
第1次の冷え込みは6日の夜半から7日の未明にかけてのことで、七草を採りに出た妻は、凍てて折れたり、地べたに凍り付いたりしていて採りにくく、苦労した様子。とりわけナズナは成長も遅れており、引き抜きにくかったに違いない。
玄関周りの水鉢では、かつてないような凍結のし方を見た。前夜の分と2層になった氷の間に、なぜか水泡の層を生じさせていた。前日の夕刻に、妻と手分けして凍結対策を施して回っておいたが、つくづく「ヨカッタ」と思わせられた。さもなければ酷い目にあわされていたに違いない。
この日以降は、畑のヤサイは夜には凍て、昼には解凍する日々を繰り返し、一段とうま味を増した。こうした時は、いつも妻はその一部を生で私にかじらせる。味と食感だけでなく、滋養も大きく変えたに違いない。とりわけホウレン草は、いよいよ立っておれなくなり、地べたにへばりついた。これは寒さ対策だろうが、日々ごとく糖度を高め、いよいよホウレン草らしく、甘みを増した。
サルもさるもの、電柵スイッチを忘れていた日に、瞬時を突かれ、ブロッコリーが襲われたので、やむなく霜よけを兼ねたカバーを被せた。
今年も、かさ高の野菜が畝間の溝近くに自然生えした。差し渡し1メートル以上で、背丈も50センチメートルほどあった。だが、さまざまな血を引いたと思われるこの野菜も大きな外葉が寝たしまい跨ぎやすくなった。
私好みのハリハリ鍋の季節に入ったわけだ。本来のハリハリ鍋はミズナとクジラ肉の組み合わせだが、クジラ肉が手に入りにくくなり、妻は知らない。たが、妻に所望すると、クジラの代わりにお揚げや豚肉で試みて、「イケル」となり、ここ数年はミズナやミブナだけでなく、霜に打たれたさまざまな路地栽培野菜と豚肉の組み合わせで堪能している。妻には手抜きが出来、私は2晩や3晩続いても喜ぶので、ありがたい料理だ。
畑では全面に毎日のように霜柱が立ったので、久しぶりに部分的だが天地返しに挑んだ。ここ20年近くは、掘り返しておいても凍土のようにはならなかったが、ガチガチどころかカンカンにこの冬は凍ることが分かり、虫害抑止策として試みた。
外仕事が頭が痛くなるほど辛い日は、風除室で鎌と鉈(なた)の手の新調に取り組んだ。問題は、大手HCでも既製の手を扱っていなかったことだ。薪作りをした折に目星をつけて取り置き、十分に乾燥させておいた木切れを活かした。
鎌と鉈の手をダメにした理由は、庭で使い忘れて、幾度となく雨に濡らしたせいだが、この手間暇かけた付け替えで、もう忘れるわけにはいかないだろう。
斧(おの)の柄は既製品を売っていたので買い求めて、付け替えたが、これも随分時間を要した。それは、へし折った柄の一部を斧の「ほぞ穴」に残してしまい、これに鉄のくさびを2つも打ち込んでいたものだから、取り出すのに一苦労した。
飛び切り冷えた朝に、この斧の試し使いに挑戦したが、このところ4回目の試みだから慣れたもので、うまく割れ、久しぶりに冷え込んだ朝を楽しんだ。うまく割れ時の音や衝撃と、木の目が読めた時の醍醐味である。
5、甘かった
庭の造作では幾つかの大仕事をこなした。先月は緑の天蓋で、3本のクヌギの剪定を始めたが、いただきものの2本のフェイジョア(果樹)への日当たりもよくする、と見てとり剪定し終えたクヌギを間伐した。
当月はその跡地をフキ畑として復活させたくなり、手を打つことになったが、その下準備として、まず囲炉裏場の剪定クズの山を案分し、一方は妻と今年最初の焚火をして片づけ、今年最初の焼き芋を作った。次の出る剪定クズを積み上げるスペースを作ったわけだ。案分したもう一方は、佛教大生の再訪を期し、その焼き芋用の焚き木にして、これは雨避けカバーをかぶせた。
フキ用地の手入れはこの焚き火をしながら取り組んでおり、刈りとった灌木などは順次燃やした。この一帯にはヒメガキの若木が沢山生えていたからだ。その親木の2本とカイドウ桜の若木、そしてシロナンテンの台木だけを残し、後はすべて刈り取った。その後で大量の落ち葉を敷いた。この春を待ってフキの苗を植え付ける予定。
問題は、ヒメガキの根の制御だ。この木は根を四方八方にどんどん張って広げ、その先々で次々と新芽を吹き、灌木の薮のようにしかねない。向こう1~2年でその制御が可能か否かを見極め、不可能と見たら根こそぎ抜き去り、庭の土手部に移植して根を張らせ、土の流失を止める上で活かせるか否かを確かめたい。
翌21日は、知範さんの来訪を待って、二人でクルミとプラムを大胆に剪定した。巨木に育てようと考えていたプラムだったが、これで、低木に替えることになった。クルミは、囲炉裏場を日陰にする北西方向に伸びた枝は残し、畑を日陰にする南東方向に張った枝は大胆に切り詰めた。
プラムは、3本の下部の枝を残し、低木に仕立て直すが、これまでは日陰にされていたので随分病気が発生していた。治療が急がれる。このプラムとクルミの2本の剪定くずだけで、いったん片づけておいた囲炉裏場に、再び剪定クズの山が出来た。ちなみに、この日冬子のシイタケを初収穫した。
クルミは新果樹園にもう1本あるが、これは知範さんと翌週剪定した。これは後ろで育つシブガキを日陰から解放するために、邪魔する枝をことごとく切り取った。
その後、知範さんと南面の土手に移動し、邪魔なところに生えた10本余の竹を切り取った。これは乾燥させたうえで枝を祓い、知範さんの畑で支柱に活かしてもらう。
こうした作業で身体がこなれた。その勢いを活かし、翌日妻とシナモンの木に挑み、次々と切り落す枝を妻が運び去る方式で背丈を半分に切り詰めた。実は、80歳になるまでは、これまでの剪定で「なんとか85歳やそこらまでなら手入れができそう」と見込んでいたが、チョット甘かった。だから無理して頭部を切り取った。これで8段三脚脚立の天板にのってエンジンソーまで駆使する作業は仕納めにしたい。
この余勢を駆って、周辺のサザンカなどの灌木の剪定に取り組み、これらの剪定と、シナモンとプラム各1本と2本のクルミを済ませただけでなく、向こう数年は自分1人で手入れが出来る姿にできたつもり。
畑ではカボチャとニラのコーナーに大量の腐葉土を鋤き込み、仕立て直し終えるとともに、側に食用ギク(モッテノホカ)の定植場を完成させた。と同時にこの側で久しぶりの天地返しをして、ササの根などを取り去る手も打った。これがこのたびの畑では最大の恒常性に富んだ大仕事であった。
このおりに幾つかのニラの株を取り置いており、居宅の側で手軽に収穫できそうな場所を探し、移植することにした。うまく値付けは、ミツバ、セリ、あるいはシュクコンソバなどに加え、妻が1人身になっても収穫しやすい自生ヤサイが1つ増える。
「やっと完成した」との思いが油断させたようで、その日、獣害ネットを閉め忘れた。それが、この一帯にまだノウサギがいそうだ、と教えた。
他に、厳しい冷え込みがスナップエンドウに被害を及ぼし始めたので、第1次の分の霜よけカバーをかけ直すなどルーチンワークにも励んだ。
主たる庭掃除は、暮れに予定していた日が雨になり、取り組めなかった旧玄関前の掃除に、まず妻と取り組み、引き続いてシホウチクの背丈を抑える作業に取り組んだ。今はまだタケノコの長けた状態なので、12段脚立を投入し、頭を切り取る方式を採用した。次の機会にはもっと簡便な抑え方を編み出したい。
加え、ベルト地と呼ぶことになった石畳道沿いの細長い敷地を整備した。このたび石畳道からイノシシスロ-プにいたる長さ60mほどの小径の南側に、幅4mほどの空地(さまざまな植栽をしている)を、ベルト地と呼ぶことにしたが、その石畳道沿い平地部分の竹やササなどを切り取り、カエデの落ち葉を敷き詰めた。できれば、観光客の目が安らぐ形の2次自然地に、つまり放置の可の部分にできないか、と思っている。
6、歳をとる楽しみ
2日の夜に、ある傑作が生じた。来客は幾度目かの短期逗留だったので、薪風呂焚きに一度挑戦となって、私に「どうぞ」と勧めて下さった。もちろん妻の心配に対し、来客は「良い湯加減です」と応えた。私は裸になって、寒い浴室で「有難い湯加減」と見て、冬の薪風呂の醍醐味を期待して、湯船にザブンと浸かった。それは38~39度の湯から、10数分かけて43~44まで熱くなるのをジックリと楽しむことだが、ビックリ仰天。
湯船の底はまだ水だった。「サー大変」上がるに上がれない。もちろん叫びもしたし、柏手も打った。だが妻は、調理をしながら来客との会話を優先している様子で、なかなか伺いに来ない。「サー困った」、やむなく自衛手段を講じながら待った。
そうと分かった妻は気の毒がって、大慌てで燃えやすい柴をくべ、追い焚きの手を打ち、その上で浴室の戸を押し開け、覗き込み、ダイニングキッチンに戻っていった。私は必死で、いつもとは逆の要領で手を打っていると、すぐに妻は客とカメラを携えて戻ってきた。そして「これも、写真がいるでしょう」と2人で大笑い。大笑いしながら2人は去った。
冬の薪風呂の醍醐味の場合は、ジッと浸かっていると、水面だけがジワジワと異常に熱くなり、放っておくとヤケドしかねない。だから、まどろみながら時々、熱い湯を拡散するために、沈んだ手首か足先を動かし、湯を扇ぎあげる。だが、この度の場合は逆だった。水面の熱い湯が尻の後ろあたりにまわるように、終始かき混ぜなければならない。
肘を上げ、右、左と、疲れる腕を替え、せわしなく尻の後ろあたりへと湯を送りながら、フト考えた。来客に、これも傑作な話題にしてもらえそうだが、それはひとえに私が、元気なオジイちゃんであるがゆえではないか。ありがたいことだ。
当月は、あるハッピー対策を成し遂げた。「ボール」に次ぐ第3の芸を教え込むことだったが、第1の芸の餌やり時に行わせる「待て」や、甘噛み対策の「ボール」ように、まだ名称は決まっていない。「ボール」は、遊び相手になって欲しい時は口に、ボールをくわえて見せるように仕込んだ。
第3の芸は、ハッピーの運動不足対策と迷い児対策を兼ねたもので、「放された所」あるいは「離れたところ」から居間の縁側のそばにある小屋まで一目散に駆け戻る芸である。
次第に散歩係の妻は、ハッピーが願うように駆けさせるわけにはいかなくなった。だからと言って下手に放すとハッピーは迷い児になりかねない。そこでこの芸を2人がかりでごく近いところから試み、仕込むことになった。妻が放し、私がハッピーを呼び、うまく戻ってきたら餌をご褒美として与える方式で始めた。
今では、一目散に駆け戻る姿がほほえましいと言って、日課になった。戻ってくるとハッピーはガラス戸をたたく。すかさず用意してあった餌を私が与える。その餌は、朝食にメザシが出た時はその2つの頭。ホットケーキが付いた時は、ボールに残った分(と妻は主張する)をハッピー用に焼いて、など。
トウガンやカボチャなどの冬越し保存実験では、3つの成果を収めた。「今頃に」と言われそうだが、この度は意識して保存して、良く熟らしたからといって必ずしも長持ちさせられるとは限らないと知り得た、ような気分にされている。
良く熟らして摘果した分が、先に寒さに耐えかねなくなったからだ。「人間も一緒だなあ」と思った。私のような老体や、あるいは、女性で言えば、初潮などが始まる思春期前の幼体よりも、その間のカラダの方が環境変化に耐えやすいようだ。だから、いつ頃が一番丈夫なのか、が気になり始めた。
2つ目の成果は、3分の1ほどを(食用としては)無駄にしたが、残りを調理してみて分かった。実は透き通るほど透明感を増し、すこぶる美味だと知った。つまり、この中間にトウガンのトウガンたる時期があるのだろうと思う。だから「冬瓜」と呼ばれる由縁ではないか。あるいは「透瓜」の方が適切ではないか、とさえ思った。
3つ目は、余禄。「トウガン汁を」と妻に所望したおかげで、トウガン汁には中華おこわがピッタリと妻は思ったようで、シメシメになった。
肝心は、よい種の採取適時はいつか、である。ここで、人間の場合は、と考えると段々話がややこしくなる。だからここでストップしたが、いつもこのあたりにいたると、「面白くなってきたゾ」と私は思い始め、詳しい人や文献が恋しくなる。
鎌や鉈の手や柄の付け替え時でも、歳を重ねてきたことを誇らしげに感じた。足かけ10日、延べ15時間はゆうに要したが「気が長くなったものだ」とまず思った。
それは、鎌と鉈の手には既製品がないと知った時に、満更でもない気分になったことが示している。なぜなら、年の功は、さまざまな手や柄の用材を準備させたし、取り揃えてきた道具を次々と取り出させたし、その活かし方を心得えており、ウキウキしたし、2つの世界で唯一の銘々品に生まれ変わらせることができたのだから。
当月の大団円は、数日におよんだ。その始まりは27日、知範さんの当月最後の来訪日に紹介したクロス遊びがキッカケになった。その例として、人類の分布と日本人とは何か、を取り上げたのもヨカッタ。そのファイルの一部(新聞切り抜きや日本エッセイスト・クラブ会報2014春からなど)と、最近新聞で知り、「美味求心」で用いた資料(先住縄文系と、いわばインベーターである弥生系の混じり具合)を示して、その夢中の心境にふれた。
まず1つの糸口に気付かされ、ことが段々網の目のように広がり、ダーウインではないが、ついにはあらゆることが1つに収斂してゆく。だから、さまざまな分野で、それぞれ学問的に追及している人が恋しくなるなど、生きている己に気付きに触れ始めた。
粘菌に興味を持つ知範さんは、その肉眼で最近とらえた粘菌の姿を示し、粘菌の広がりようが、まるでアフリカから出た人類が、地球中に広がった様子を連想させた、と語り始めた。「さもありなん」と私は思ったし、その視点に私は心打たれた。
私は、マンシングウエアーの商社側担当時代の思い出を語った。それは、あるゴルフ場のオープン時でのことだが、ゴルファーやギャラリーの歩行道が舗装されておらず、未完成オープンと見た。だがすぐに、あえて舗装を後回しにしていたことを知った。
思ったように彼らは動かない、という。勝手に動かしておけば、すぐに踏み固められる小径が出来、そこを舗装した方が賢明、との判断だった。おもわず「けものみち」と、膝を打ったが、なぜかその時に、半面では何かに感心し、反面ではわびしくなった。
月末に、赤いミシン糸でとじた小さな郵便物が届いた。その筆跡と共に、すぐに送り主が分った。嬉しかった。正月には、結婚記念日もあり、ありがたい贈物に恵まれたが、教師冥利は初めてだった、思い切って、赤い糸だけ切った。彼女の作品と共に、手作りのせんべいが出てきた。小さい文字を読むと、展示会来訪者に贈った品であった。